インドのヴィザに関するルール変更近し

ここ数年間の間、かなり厳しいほうに振れていたインドのヴィザに関する施策だが、今度は反対に緩和の方向に大きく舵を切るようである。

India eases visa rules for 180 countries except Pakistan (Indian Express)

この措置については、観光目的のものに限るであろうことは言うまでもないが、ヴィザそのものの有効期間についての言及はなされていない。

インドにおける現行の「Visa on Arrival」」の措置にて、観光目的で訪印する11か国(日本・フィンランド・ルクセンブルグ・ニュージーランド・シンガポール・カンボジア・ベトナム・フィリピン・ラオス・ミャンマー・ インドネシア)の国籍を有する人たちについては、30日間の滞在が認められているが、対象となる国籍が単に180か国に増えるということなのかもしれない。

他のメディアの記事をいくつか閲覧してみると、事前にネットでヴィザ申請したうえで、到着した空港でそれが与えられるというシステムであるがゆえに、おそらく空路でメジャーな空港での入国の場合のみ、利用可能ということになるように思われる。

また、これまでの「Visa on Arrival」の制度においては、事前申請は不要であったため、日本国籍の入国者にとっては、「ひと手間増えてしまった」ということになるのかもしれない。

それでも、空港における現行の「Visa on Arrival」のシステムは決して能率的なものではないので、対象国が大幅に増えることにより、合理的な運営がなされるものであるとするならば、喜ばしいことであるのではないかと思う。

ただし、こうした措置を可能とする環境の整備には時間がかかるため、実際に施行されるまでには半年以上かかるようである。

ナガランド州モコクチュンのクリスマス 1

昨年のクリスマスはナガランド州のモコクチュンで過ごした。

90%以上の人々がクリスチャンであり、またその中の大半がバプティストという紛れもないキリスト教環境にある中、欧州とは異なる場所にありながらも、本格的なクリスマスを体験できる場所であることを期待した。

ナガランド州最大の街ディマープル発のモコクチュン行きのバスが、アッサム州のジョールハート近郊のマリャーニーを通る(このルートはナガランドの道路事情が良くないためアッサム州を経由して走行している)するはずなのだが、クリスマス直前のため、減便して運行がなされているとのことで、待てどもバスは来なかった。

そんなわけで、同様にバス待ちをしていた人たちとタクシーをシェアしてモコクチュンを目指さざるを得なかった。シェアする人たちはナガランド人ではなく、アッサムを含めた平地のインド人たちで、ナガランドで軍の基地の出入りの業者その他、ナガランドで何がしかの仕事をしている人たちであった。

ナガランド州は、インドにありながらもイギリス領時代からこれまで長きに渡り、他州の人たちの出入りを原則禁じてきた地域である。パーミットを得てのみ入域が可能で、中央政府関係の仕事、軍関係の任務に携わる人たちに加えて、道路建設や建物の建築作業その他の作業に関わる人たちがやってくるとともに、数は決して多くない観光客が訪問する程度であった。

長く続いてきた地元の反政府勢力と政府軍との内戦、同時に同じナガ族の反政府組織やその他周辺民族の武装組織同士の武力抗争等もあり、治安面での印象は決してよくなかったため、それほど多くの人たちがナガランド州を目指してきたわけではない。2011年の元旦から、外国人はナガランド州ならびにミゾラム州とマニプル州への入域が原則自由化され、それに少々遅れてインド人もパーミット無しで入ることができるようになったようである。

現在もナガランド、ミゾラム、マニプルの三州で反政府武装組織は存続しているのだが、政府側との停戦が功を奏して、治安面での改善が見られるようになったことが、内外の観光客によるこの地域への訪問の自由化に繋がったわけである。

まだ先行きの不安は否定できないものの、2011年に「とりあえずは1年限り」として自由化されたものが、すっかり定着しているところを見ると、今後大きなトラブルが生じない限りは、今後もこのままで推移するものと思われる。

入域の自由化の数年前から、インド中央政府が運営するインド政府観光局は、従前より自由に訪問できたアッサム州、メガーラヤ州と合わせて、北東諸州の観光についてキャンペーンを張ってきた。その背景には、石油をはじめとする地下資源に恵まれたアッサム州、石材と石炭を豊富に産出するメガーラヤ州を除けば、北東州でもとりわけアッサムの東側にある四州(ナガランド州、ミゾラム州、マニプル州、トリプラー州)については、開発が遅れており、これといった産業も資源もないだけに、財政的に中央政府が全面的に面倒をみるしかない状態から脱却すべく、唯一可能性がある観光面での発展に期待をかけているという現実がある。

それはさておき、平地との往来が制限されてきた地域であるだけに、州境を越えただけでずいぶんな違いが感じられた。アッサム州らしい茶園が広がる風景の中、しばらく山間の坂道を上った先にはナガランド州境のチェックポストがあり、モンゴロイド系の風貌をしたナガランド警察のポリスたちがクルマの中を覗きこむ。

そこからさらに進んだところにある集落では、平地から来たらしき人の姿はチラホラ見かけるものの、マジョリティは私たちと同じモンゴロイド系の人々となってしまう。あたりに点在するヒンドゥー教のお寺や祠はなく、十字架を掲げた教会の景色となる。州境を挟んでクルマで30分ほど走っただけで、カルカッタから成田の空港まで飛んだくらいの大きな違いがあるといっても過言ではない。

アッサム州から入ると、しばらくは良好な道路であったものの、進むにつれて道幅がとても細くてガタガタした部分が増えてくる。標高がさほどではないことを覗けば、ヒマーチャル・プラデーシュ州やスィッキム州と景色が似ている感じはするものの、路面状況はかなり劣るようだ。

沿道で道路等の工事作業をしている人たちの大半は平地のインドの人たちだが、集落や村に暮らしている住民の大半はナガ族の人々。ミャンマーに住んでいる人たちとも似ている気はするものの、この地には仏法が及ぶことはなかった。仏教的あるいはヒンドゥー教的なバックグラウンドのないモンゴロイドの人々というのは私にはあまり馴染みがないが、インドとミャンマーという、どちらもインド起源の大宗教が広く深く伝播した地域の境目にありながらも、この地域が空白地帯であったことが不思議に感じられる。

ナガランド州に入ってしばらく進んだあたりで昼食のために小休止した集落

スズキのヴァンに運転手含めて8名が乗ると大変窮屈である。マリャーニーから80キロ程度の距離ながらも、くねくねと曲がった山道であること、路面状況もあまり良好ではないため、5時間ほどかかりモコクチュンの市街地が見えるところまでやってきた。

山の斜面に広がるモコクチュンの町
今やどこでもケータイで繋がる時代

〈続く〉

ビルマハイウェイ

ビルマ系米国人の歴史家、タンミンウーによる原書「WHERE CHINA MEETS INDIA」の和訳版である。著者は1961年から10年間に渡って国連事務総長を務めたウー・タン(ウ・タント)の孫にあたる。

原書の初版は軍政期の2010年に出版されている。この年の11月に実施された総選挙を以て、「民政移管」されたことについて、あまりに軍にとって有利なシステムで選挙が実施されたことにより、「軍政による看板の架け替えに過ぎない」「欧米による経済制裁解除狙いが目的の茶番劇」と酷評された選挙であった。

「実質は軍政の継続」と批判されつつも、経済面では「中国による野放しの専横」がまかりとおっていることへの危機感とともに、「東南アジア最後のフロンティア」としての潜在力と市場規模を持つミャンマーへの制裁解除のタイミングを待っていた先進諸国の反応は迅速で、一気に大量の投資が流入することとなり、ご存知のとおりの「ミャンマーブーム」となっている。

そんなわけで、この本が執筆された当時からそれほど長い年月が経過していないにもかかわらず、すでにミャンマーを取り巻く環境は大きく変わってきている。それほど変化は早い。

新興市場としての魅力、新たな「世界の工場」としての先進国からの期待と同様の思いを抱きつつも、利用価値の高い陸続きの隣国として、戦略的な意図での取り込みを図る国々もある。

自国の内陸南部からインド洋への出口を狙う中国。中国との接近により国内北部の平定を企図するミャンマー。

隣国ミャンマーに対する中国の進出に危機感を抱いて挽回を狙うとともに、自国北東部の振興を期待するインド。中国に傾斜し過ぎることに対するリスク回避のため、カウンターバランスとしてインドへの接近を試みるミャンマー。

こうした各国の思惑が交錯するとともに、地元の人々もまた分断された国境の向こうとの繋がりに期待するものがある。もともと北東インドはインド世界の蚊帳の外にあるとともに、ミャンマー北西部はビルマ族自身が完全に掌握をしたことのない周辺地域であった。

北東インドにあった王国は、アホム王国のように現在のタイ・ミャンマーにまたがって分布しているタイ系の民族によるものであったり、マニプル王国のように現在のミャンマー領に進出したりといった具合に、相互にダイナミックな往来がある地域でもあるのだが、現在は国境から両側がそれぞれ、もともとは従属していなかったインドあるいはミャンマーの国の領土として固定されてしまっているとともに、往来が希薄な地の果ての辺境という立場におかれるようになっている。

そんな現状も、東南アジア地域への陸路による出口を求めるインド、中国とのカウンターバランスを期待するミャンマーの交流の活発化により、「地の果て」が南アジアと東南アジアという異なる世界を結ぶ物流や交易の現場として、いきなりスポットライトを浴びて表舞台に飛び出してくる可能性がある。もちろんこれまであまり知られていなかった観光地としての期待もある。

そうした動きの中で、先進国による経済制裁の中で、これとは裏腹に強固に築き上げられたミャンマーと中国の間の深い経済の絆、ミャンマーが属するアセアンの国々による政治や投資での繋がり等と合わせれば、これら政治・経済、人やモノの流れが幾重にも交差することになるミャンマーの地勢的な利点は非常に大きい。

やがては単なる市場やモノづくりの拠点としてではなく、東南アジア、中国、南アジアという三つの世界を繋ぐ陸の交差点として、大きな発言力を持つ大国として台頭する日がやってくるようにも思われる。

そんな未来の大国へと成長する可能性を秘めたこの国について、様々な角度から検証しているのがこの書籍である。ぜひ一読をお勧めしたい。

書名:ビルマハイウェイ

著者:タンミンウー

翻訳者:秋元由紀

出版社:白水社

ISBN-10: 4560083126

ISBN-13: 978-4560083123

 

書名:Where China Meets India

著者:Thant Myint-U

出版社:Faber & Faber

ISBN-10: 0571239641

ISBN-13: 978-0571239641

 

アシン・ウィラートゥー師

反イスラームを唱えるミャンマーの仏法僧、アシン・ウィラートゥー師。良くも悪くも軍政により長らく封印されてきた対立が「民主化」により日の目を見ることになったといえる。

ただし、これを仏教徒vsイスラーム教徒という単純な構図にしてしまうことは誤りで、地域に長らく根ざしてきた仏教を背景にする人たちの中で少なからずの割合で抱いている南アジア起源のムスリムの人々に対する感情と見るのが正しいだろう。

その多くは英領期に移住した人々の子孫が大半で、独自のコミュニティと価値観・生活習慣等を維持しており、主に都市部での商業活動に一定の影響力を保っている。また植民地期にイギリス人たちとともにやってきた「征服者側の人々」でもあったという部分も無視できない。

そのためウィラートゥー師の存在によりミャンマー国外でも注目されるようになっているこの現象の本質は、宗教対立というものではなく、ミャンマー国内の民族問題の一側面であり、植民地時代からひきずる歴史問題でもある。

バングラデシュとの国境におけるロヒンギャーの人々に対する扱いについても、こうした感情の延長線上にあるといえるだろう。

Non-Violent Extremism: The Case Of Wirathu In Myanmar – Analysis (ARNO)

印パ分離のドキュメンタリー

当時のものとしては珍しいカラー映像を交えた印パ分離時を取り上げた、BBCによるドキュメンタリー作品がある。

Pakistan And India Partition 1947 – The Day India Burned (Youtube)

この作品にところどころ挿入されるカラーの実写映像も同様にYoutubeで視聴できるようになっている。

Very Rare Color Video of Indian Independence 1947 (Youtube)

印パ分離により、双方からそれぞれムスリム、ヒンドゥーとスィクの住民たちが先祖代々住んできた故郷を離れて新たな祖国へと向かった。もちろん新国家のイデオロギーに感銘したり、賛同したりしてのことではなく、彼らが父祖の地に留まるのがあまりに危険になってしまったがゆえの逃避行である。双方から1450万人もの人々が移住を余儀なくさせられたとともに、移動の最中で暴徒の襲撃で命を落とした人々、両国の各地で発生したコミュナルな暴動による死者も数え切れない。

恐らく人類の歴史上、かつてなかった規模の巨大な人口の移動であるとともに、最大級かつ最悪の宗教をベースにした対立であったといえる。この出来事が今も両国の人々の間で記憶され、家庭で子や孫に語り伝えられるとともに、両国間の問題が起きるたびにメディア等による報道等により、新しい世代もそれを疑似体験することになる。さらに悪いことに、往々にして両国の政治によって利用されることであることは言うまでもない。

印パ分離は英国の陰謀か、ガーンディーの力及ばずの失敗か、ジンナーの成功かはともかく、政治が犯した罪は今も償われてはいない。カシミール問題も、印パ分離がなければ生じることはなかった。

ヒンドゥーがマジョリティーの『世俗国家』の一部となって支配されることに対するアンチテーゼとして成立したムスリムがマジョリティーのイスラーム共和国パーキスターンが存在するということは、国防上の懸念が将来に渡って続くことを意味する。しかしながら分離がインドにもたらした恩恵があることも無視できない。

現在のパーキスターンのバルチスターンの分離要求運動のような地域的な問題とは無縁でいられることはともかく、ムスリムがマジョリティーの地域ならではの、奥行と広がりがあり中央政界を揺るがすほどの規模の各種のイスラーム原理主義運動やアフガニスタンを巡る様々な問題と直接対峙する必要がないというメリットは非常に大きい。

またパーキスターンの北西部のアフガニスタン国境地域のFATA(連邦直轄部族地域)のような連邦議会の立法権限が及ばない地域が存在することは、治安対策面でも大きな問題がある。

独立以来、インドが一貫して民主主義国家としての運営がなされてきたのに対して、血を分けた兄弟であるパーキスターンは残念ながらそうではなかったのには、地理的・思想的背景があるように思えてならない。

印パ分離はまぎれもない悲劇であり、現在の両国は今なおその傷が癒えているとはいえず、分離による代償を両国とも払い続けている。

しかしながら現在、パーキスターンとインドが別々の国となっていることについては、少なくともインド側から見れば好都合である部分も決して少なくないことは否定できないことである。分離という大きな痛みからあと数年で70年にもなろうとしている今、これまでとは異なる視点から評価・検証する必要もあるように思う。