『35ドル』のお値打ちは?

先月下旬、インドの人的資源開発省が行なった『35米ドルパソコン開発』の発表は世界的な話題になった。

インド国内のIIT (Indian Institute of Technology)ボンベイ校、カーンプル校、マドラス校、カラグプル校、IISc (Indian Institute of Science)バンガロール校とともに開発を進めたこのタブレット型のパソコンは、少々iPadを思わせるものがある。

タッチパネル式ディスプレイ、ハードディスクを搭載しない代わりにメモリーカードを記憶媒体として用い、OSにはリナックスを採用したこのPCで、ウェブサイトの閲覧、ビデオチャット、ワープロ等といった作業をすることができる。インドでは往々にして電力の供給に問題があることへの対応として、ソーラーパワーでも動作する仕様とのこと。

この機器についての発表時点では製造を担当するメーカーは未定であったが、その後どういう進展になっているのだろうか。人的資源開発省は、次年度から教育現場に導入したいという意向のようだが、実際にはもう少し先になるのかもしれない。

このタブレットPCの開発は価格面だけが強調されているきらいがあるが、これが土台となってインド全国の500大学と25000のカレッジをブロードバンドで結ぶという壮大な計画が、これによって実現可能なものとなる。

35米ドル相当という価格で実現されるタブレットPCとは、果たして満足に動くものなのかと私自身半信半疑である。加えて、やがては20ドル、究極には10ドルという値段で提供する心づもりなのだというからますます驚きだ。

そのタブレットPCの生産がスタートしてから、どういう形で供給がなされるのかはよくわからない。当面は教育機関に特化して納品されるのか、あるいは最初から一般の市場に出回るのか。

私自身、iPadの購入はためらっているが、インドのタブレットPCは35ドルと格安である。発売されたら早速それを1台購入して試してみるつもりだ。もちろんそれをiPadと比較するつもりは全くない。どの程度使える製品なのか未知数とはいえ、これをもとにインドが計画している事業を思えば、充分実用に耐えるものなのだろう。

先進国においてもこうしたモノを欲する層がかなりあるのではないかと思う。ちょうどネットブックの需要と重なる部分が大きいような気がする。『35ドルという破格の安値のハードウェアでウェブを閲覧できる』というだけで充分以上にアピールするものがあるだろう。

このタブレットについて、友人から『こんな動画がYoutubeにあるよ』と教えてもらった。

India’s $35 laptop hands-on review_ NDTV gadgetguru exclusive (Youtube)

実機がだいたいどんな具合のものであるのか、おおよそ想像がつくようだ。そう遠くない将来これを手にするのがとても楽しみである。

この製品は、インド国内のみならず世界(とりわけ第三世界)の市場を席巻する潜在力を秘めているものと思われる。それは必ずしもインド初のこのデバイスというわけではなく、別の国々からも類似の製品が出てくることだろう。

実はすでに中国では民間企業によるaPad, iRobotなどといった安価なタブレット型PCが数十ドルから100ドル程度で販売されているようだ。スピード感と柔軟性に富む中国の製造業界を向こうに回しての健闘を期待したい。

※TNSA (Tibetan National Sports Association) 3は後日掲載します。

ジャインティア丘陵の炭坑

人権NGOヒューマンライツナウは、インドのメガーラヤ州ジャインティア丘陵の炭坑における児童労働を告発している。

インドにおけるHRN事実調査ミッションのプレスリリース

(ヒューマンライツナウ)
現場では生命の危険を含む重篤な人権侵害が常態となっており、背後には国境を越えた人身売買もあるとのことだ。いうまでもなく石炭採掘はこの地域の主要産業のひとつである。
目下、多少の波はあっても経済が好調に推移しており右肩上がりに成長著しいインドとはいえ、いまだに児童労働に関しては様々な事例があり、私たち外国人が直接目にしたり見聞したりということは、他国に比較しても(国の規模が大きいためということもあるが)ずいぶん多い。
インド国内のみならず周辺国での失業問題や人口問題等の絡みもある。それらを含めて経済的にも就学機会にも恵まれない層の人たちの間でとりわけ人口増加率が高いことは昔からよく指摘されている。
インドが高い経済成長を記録するようになる以前、90年代初頭あたりまでは、経済の伸びが貧困層の増加で償却されてしまっているような状況が続いていた。現在ではそれを大きく超える成長をしているとはいえ、都市部ならびに地域間での格差はそのままであり、インド社会全体の底上げを図るためには、国家的な取り組みが必要であると思われる。
後進地域や部族地域でマオイスト勢力の伸張が見られ、インド社会に対する脅威として広く認識されるようになってきているが、彼らの存在自体が『造反有理』と言えなくもない部分があることは否定できない。
貧困層の放置は治安に対する脅威と受け止めるべきであろう。

うつむき加減で携帯電話

近ごろどこの国でも、人々が手元に目をやってチクチクと何やらいじっている姿を常に目にする。彼らが手にしているのは携帯電話で、自分もそうした風景に出てくる中のひとりである。
単にスケジュールを確認していたり、メールの送受信やネットの情報を閲覧しているだけなので、手帳を広げていたり、読書をしているのとあまり変わらないはずなのに、なぜか視覚的には内向きの印象を与える。
そんな携帯電話だが、インド北東部のミゾラム州でも広く普及しており、人口の半数以上が所有しているとの記事を目にした。
Remote state in vanguard of Indian mobile phone craze (BBC NEWS South Asia)
同記事によれば、中国と並びインドは世界でただふたつ『5億人を越える』携帯電話契約数を記録(5億人超の人口を持つ国自体がこの2か国のみ)している国であるとのことだ。
なぜミゾラム州の携帯電話契約数が取り上げられているのかといえば、つまるところ『見るべき産業はほとんどなく、政府やその関連機関が最大の雇用を創出している北東州の一角が携帯電話普及のホットな市場である』といったところのようだ。
多くの途上国に共通することだが、携帯電話所有者急増の背景には、それ以前の時代に固定電話の普及が遅れていたということがあるが、加えて従前は世界の多くの国々で電話通信の分野は往々にして政府や政府系機関が掌握しており、あまり大きな変化のない『静かな市場』であったものが、この分野の民営化により他の多くの企業の参入により『競争の激しいダイナミックな市場』へと変わったことによる影響も大きい。
同記事では、ミゾラム州はインドで最も高い95%以上の識字率を誇り、人口の大部分を占めるクリスチャンの人々のほとんどは英語を理解するとも書かれている。識字率については、何のデータを根拠にしているのかよくわからない。
もっとも最近に実施された国勢調査(2001年)の結果によると、ミゾラム州の識字率は89.0%でケララ州の91.0%に次ぐものであると理解されているはずだが、その後9年間でこれを超えるレベルに達したということなのだろうか。これが事実ならば2000年代において、すでに高い識字率を更に6%も引き上げたことになり、同州の教育分野における快挙といえる。
ミゾラムをはじめとするナガランド、メガーラヤ、アッサム、アルナーチャル・プラデーシュ、トリプラー、マニプルといった北東7州ならびにそれらの西方向にあるスィッキム州は、アッサムで採掘される石油、スィッキムの観光業といった分野を除けば特に目立った産業はなく、インド国内でも『主流』から大きく外れた地域であるがゆえに、国内の他の地域からの投資や資本の移転も少ない。
また州により程度や事情は違うものの、スィッキムやアルナーチャル・プラデーシュのようにインドによる主権を認めない中国が領有権を主張していたり、アッサムやナガランドのように反政府勢力による騒擾が続いていたりする地域もある。
そうした背景から、例えとしては適切ではないかもしれないが、それ以外の州を『親藩』とすれば、これらの地域は『外様』的なエリアであることから、インド政府は民心を繋ぎ留めるために努力しているようである。そのため産業面では大きく遅れをとっていても、初等・中等教育や地域医療の分野などでは、全国レベルで比較してひどく低水準に甘んじているわけではない。
ちょうど冷戦時代の西ヨーロッパで、とりわけ東側ブロックに隣接していた地域で国民の福利厚生の分野が高いレベルで実現されたのと似た現象であるといえるだろうか。
話は識字率に戻るが、そうした北東地域の中でミゾラム州の89%(2001年国勢調査)という水準は、この地域で2番目にあるトリプラー州が73パーセントであるのを除けば、どこも60パーセント台であることを踏まえれば、ずいぶん突出した数字であることがわかる。参考までに識字率の州別ランキングはこちらである。
ミゾラム州といえば、ミャンマーとバーングラーデーシュという隣国、どちらも低開発途上国とされる国々と隣接するところに位置している。同時に地理的には今後結びつきをいっそう密にすることであろう南アジアと東南アジアというふたつの世界を繋ぐべき位置にある。
ミャンマーもバーングラーデーシュも現状では経済的に非常に低水準にある。だがかつてのインドもそうであったように、スタート地点が低いということは、条件が揃い成長の歯車が回りだした場合の伸びしろもまた大きいということにもなる。
まだまだ内政的に困難な部分、ふたつの隣国との外交面においても難しい事柄は多いが、『本土から回廊状に張り出した陸の孤島』のようになっている北東地域の開発や発展を目指すうえで、これらの国々との関係の強化以外考えにくい。そうした中で、とりわけミゾラム州は地理的にも識字率の高さから推測される潜在的な可能性は大きい。
また携帯電話に代表される個人の通信手段の普及が地元社会や政治シーンに与える影響も無視できないだろう。
携帯電話は仕事の上でも生活の中でも、私たちにとって必要不可欠な通信手段となっている。社会の隅々まで浸透しているがゆえに、近年はどこの国でも、騒擾やテロ事件等の発生の際、指導層から実行者たちへ、また実行者たちの間でも携帯電話というツールを通じての連絡や通達等が頻繁になされるようにもなっている。
インドから東に目を移すと、タイの首都バンコクで続いているタークシン元首相を支持する赤シャツを着た『反独裁民主統一戦線(UDD)』の行動に関するニュースを各メディアで目にする。
指導層の指揮下に統率の取れた(抗議活動そのもののありかたについての道義的な面は別として)デモ活動を展開していることの背景には、農村部を中心とするタークシン派の支持基盤が強固であることや豊富な資金力などがあるとはいえ、これだけ多くの人々を長期間に渡って動員して意のままに操るには、多くの人々が自前の携帯電話等を所持して通話やSMSの送受信などが可能であるという『通信インフラ』が不可欠であることは言うまでもない。
世界は確実に小さくなってきているとはよく言われるところだが、このところの通信手段の発達はそれに拍車をかけているようだ。これまで連絡を取るといえば肉声の届く範囲の人々と話すか、ときどき電話屋に出かけて遠くに住む友人や身内と会話する程度であったものが、ここ十数年で自前の携帯電話でひっきりなしにいろんな人たちと話したりメッセージを送りあったりするのが当たり前になった。
各世帯でのパソコンの普及率はまださほどではないにしても、ネットカフェでウェブを閲覧したり、メールのやりとりをしたりするのは日常的なことなので、一定の年齢層の人々、ようやくパソコンを扱うことができるようになった年頃の人たちから、なんとかそれに対応できる年配者まで、多くの人々がヤフーなりグーグルなりのアカウントを持っている。
そうした中で、民族や国境が入り組んだインド北東部の北東州を含めた地域、同時に南アジアと東南アジアの境目にあるエリアでもあるわけだが、伝統的な民族意識、地元意識、仲間意識、市民意識といったものに与える影響もあるはず。
異なるコミュニティや地域の住む人々の意識をまとめあげることができるような、強いリーダーシップを持つリーダーが登場するようなことがあれば、従来ならばあり得なかった形での連帯も可能になる。
ここ5年、10年でどうということはなくても、遠い将来には州境や国境等、複雑に構成された『境』で分けられた行政による非効率や不公平等などに対して、民族や国家の枠を超えて、これまでとは違った視点から、地域の再編を求めて声を上げる例も出てくる、といったことも考えられなくはない。
うつむき加減で携帯電話を操作しながらも、人々が頭の中で思っているのは日常のことばかりではないような気がする。

犬は苦手

昔から犬はあまり好きでない。飼い主にじゃれ付いている姿を見かけると『あぁ、可愛いな』とは思うし、また盲導犬のように一生懸命尽くしている姿を目にすると『えらいもんだなぁ』と感心したりするのだが。
猫と犬の遠い祖先は共通なのだとか。それにしても素っ気無い猫に較べて、良くも悪くも犬は他者に干渉する。街を歩いていて、牛やヤギがわざわざ構ってくることはないが、犬の場合は、しばしば『うるさいっ、放っておいてくれ!』と怒鳴りたくなることもある。
こちらは向こうに対して何の興味もないにもかかわらず、彼らは自分たちのエリアに入ってくるよそ者に対してけっこう敏感。昼間ならともかく、夜道をトボトボ歩いているとき、こちらの進行方向から複数の犬たちがワンワン吠えて近づいてくると、ちょっとした緊迫感。特に細い路地などでは、ちょっと勘弁してもらいたい。
インドの話ではないので恐縮ながら、こんな猛犬の映像があった。
犬がパトカーを「襲撃」バンパーを噛み切る (A.P.)
場所はアメリカ。パトカーのバンパーに噛み付いてバリバリと大きく壊してしまう野犬の姿。石つぶてを投げたくらいでは怯まないことだろう。
こんな『蛮犬』に遭遇したくはない。

グローバル化は善なのか?

だいぶ前に『グジャラート州 酒類解禁への道』と題して、グジャラート州でアルコール解禁の動きがあることについて触れてみたが、その3年後も相変わらず禁酒州であるという事情は変わらない。
そんなわけで、他州ではバーザールに普通にある酒屋は見当たらず、私たち外国人はパーミットを得て特定のホテルで購入することはできるようにはなっている。しかしグジャラートに居住しているのならばともかく、休暇で訪れているときくらいは、大切な肝臓に休暇を取ってもらうのもいいかもしれない。
だがアルコール類は適度に供給されている軍関係者からの横流しはともかくとして、この禁酒州が絶海の孤島にあるわけではなく、普通に酒類が販売されている隣接州と地続きであることからも、闇酒事情は相変わらずらしい。
新聞を広げていると、州内各地で取り締まりの憂き目に遭い、逮捕されたうえに大事な品物を没収された人たちの関係の記事が毎日出ている。こうした記事になるのは、個人が自己消費のために持ち込むといった程度ではないので、相当大掛かりな『密輸組織』が背景にあることが覗える。
実際、クリスマスや新年といったパーティー等を開く口実の多い時期には、自宅やホテルなどで半ばおおっぴらに飲む人々が少なくないこと、そうした酒類の流通が闇に潜ってしまうことから、行政から見れば事実上『免税』に等しい状態(政税収をもたらさないという意味で)で、結果的にマフィアの収益になっていること、また外資の誘致はもちろん外国からの観光客へのアピールにも障害になる(?)という意見がある。
これに対して、保守系の新聞では、飲酒という行為は様々な犯罪の引き金になる、健康にも悪い、ガーンディーの生誕地としての誇りとともに、禁酒という我々の財産を次代に引き継ぐべきだという論調があるようだが、精神論に偏りすぎており、説得力に欠けるようだ。
ところで、外資の誘致に際しての障害としては、つい先日こんな事例があった。
Chinese engineer held for smuggling liquor in Kutch (newkerala.com)
上記で引用したのは、地元グジャラート紙系のウェブサイトではなく、ケーララ州のメディアによるものである。記事中にあるように、現地で働く中国人労働者のためのものということだ。中国人による密輸という事例よりも、むしろ同州で中国人たちによって発電所建設が進められているということ自体が、私にとっては意外な事実であった。
確かに近年のインドでは、日用雑貨や玩具類など、中国製品が大量に出回っているし、中国大陸から企業や個人などがビジネス機会を求めてやってくる例は少なくないのだが、インドでこうした大掛かりな工事等を受注した中国企業が他にもあるのか、機会があれば調べてみたいと思う。
別の中国人の酒密輸事件がグジャラートの禁酒解除につながるとは思わないし、飲酒の是非について云々するつもりはないが、いわゆるグローバル化とやらが進む中、人々のライフスタイルは当然のごとく変化していくとともに、周辺地域や外国とのバランス等についても、これまで以上に考慮される必要が出てくる。そのため地域が独自のカラーを維持していくことについては、内部的にも対外的にもそう簡単ではなくなってきていることは確かなようだ。
グローバル化の進展とともに、地域や国境を越えた相互依存が深まるにつれて、内と外の境がだんだんボケていくことから、『ウチらのことはウチで決める』ということがなかなか難しくなってきていることは、世界共通の現象だ。そうした動きの中で、地域の伝統にしても文化にしても、他と競合したり吸収されたりといった流れが出てくる。
そのひとつの例が言語だ。現在、世界では6,000あまりの言語が存在しているものの、世界人口の約半分は、わずか10ほどの大言語を使用していのだとか。いっぽう、この6,000あまりの異なる言語の中の四割前後が、どのくらいの話者人口を持っているかといえば、悲しいことに千人以下であるという。
あまりに話者人口の規模が小さなものであると、それを通じて教育を受けたり、生活を営んだりすることさえままない。すると言語を次世代が受け継ぐことも困難で、結果として周囲のより有力な言語に乗り換えてしまうことになったり、あるいは近隣にあるより話者人口が大きく、かつ有力な言語の方言という位置づけになっていったりといったプロセスが控えている。
そんなわけで、現在世界で話されている言語のうちの半数ほどは、私たちの世代あるいは次の世代あたりで、およそ半数ほどが姿を消すとさえ言われているのだが、言語に限らずグローバル化の進展を背景に、失われようとしている私たちの貴重な財産は他にもいろいろあるように思う。
世界がひとつになること、みんなが一緒になることは、諸手を挙げて『良いことだ』と言えるのか、常々疑問に思うところなのである。