肉食は危ない ? !

「肉を食べると嘘つきになり、約束を守らない不正直者となり、窃盗や性犯罪を犯すことになる」などと言われたらビックリするだろう。

Meat makes you immoral, says textbook (THE HINDU)

India textbook says meat-eaters lie and commit sex crimes (BBC NEWS INDIA)

インドの小学校の保健の授業で使用されるテキストにそんな記述があるということで話題になっている。

どの教科書を採用するかについては、各学校の裁量によるものであるとのことなので、この内容の教科書がすべての小学校で使用されているわけではないようだが、この図書を発行しているS. CHAND社は国内最大級の教科書会社なので、その影響は決して小さくないだろう。

また「肉食=不道徳で犯罪につながる」という記述は、インド社会に馴染みのない国々では奇異なものに聞こえることから、こんな風に扱われたりすることは想像に難くない。

Textbook: Meat Eaters Steal, Fight, Commit Sex Crimes (TYT NETWORK)

確かに今でも保守的なヒンドゥーの年配者には、「酒を飲むようになると、タバコも吸うようになるし、肉を食べてみるようになる。すると女や賭博にも手を出すようになってしまう・・・」などという物言いをする人は少なくないので、厳格なヒンドゥーのモラル上においては、確かにその教科書に書かれているとされる内容は誤りではないということになるだろう。たとえそれが科学的には何の裏付けもないものであるとしても。

経済や社会のグローバル化とともに、伝統的なモラルや価値観が失われつつある今の時代に警鐘を鳴らしていると好意的に捉えることも可能かもしれないし、中央政界で与党への返り咲きを目論むサフラン勢力の差し金ということもあるかもしれない。

ただし、こうした記述で問題なのは、科学的な根拠の有無という点よりも、菜食を美徳と尊ぶ文化以外のコミュニティへの配慮がまったく無いことだろう。祝祭時に家畜を屠り、盛大に祝うムスリムその他の肉食文化の全面的な否定であり、多文化・多民族が共生するインドにおいて、コミュニティ間の不協和を増長するだけである。マジョリティの文化の唯我独尊的な美化と子供たちへの刷り込みは、どうもいただけない。

紅茶スパイ

中国からインドに茶の木と栽培法を伝えた功績で知られる植物学者ロバート・フォーチュンの試行錯誤を軸に描かれた、紅茶をめぐるノンフィクション作品。

イギリス東インド会社の依頼により3度中国に渡った彼だが、その中で2度目の中国行き(1948年~1951年)での任務は、当時の中国において門外不出であった茶の秘密を得ること。茶の木と栽培技術を密かにインドに移すことであった。

折しも、ウォードの箱の発明により、植物の長期間に及ぶ輸送が可能となっていたという背景がある。観賞用としてシダやラン、工業用の作物としてのゴムの木等々の苗の大陸間での移送が可能となり、当時海外植民地を持っていた列強国にとって、新たな富の創造を可能とするものであった。

インドに持ち込まれた茶の木は、当初U.P.のサハラーンプルの植物園で栽培されていたが、当時スィッキム王国から割譲されたばかりであったダージリンが、茶の生育には天恵といえる好適地であったことにより、質・両ともに本場中国を凌ぐ茶の生産の一大拠点として発展していくことになる。

1957年に発生したインド大反乱により、イギリス東インド会社がインドで得ていた特権は剥奪され、本国の君主が英領インド帝国の皇帝となることにより、それまで250年間もの間に亜大陸の貿易港の商館での取り引きから、この地域のほぼ全土を掌握するに至っていたこの「会社」による支配は終焉することになったが、その「会社」がこの地に残した最後の大きな遺産のひとつが茶の生産であった。

インドでの茶の栽培の進展は、それまでの茶葉の貿易事情に大きな変革をもたらし、茶をたしなむ習慣の大衆化を推し進めることにもなった。イギリスにおける磁器産業の発展も、まさにこうした茶器需要あってのことでもある。

フォーチュンは、日本との縁も少なからずあり、東インド会社とは無関係な仕事で1860年から1862年まで中国と日本に滞在している。植物学者として、またプラント・ハンターとしても当時第一級の知識と腕前を持つ人物であったが、同時にビジネスマンとしての才覚も人並み外れたものがあったようで、この時期の極東滞在で大きな財産を築いたとされる。

この本のページをめくりながら、休日の午後のひとときを過ごしてみると、手にしたカップの紅茶の味わいがことさら愛おしいものとなることだろう。

書名 : 紅茶スパイ

著者 : サラ・ローズ

訳者 : 築地誠子

出版社 : 原書房

ISBN-10 : 4562047577

ISBN-13 : 978-4562047574

パーキスターンの名門マリー・ビール復活へ

気温も湿度も高いこの時期、幸せ気分にさせてくれるのは夕方のビール。休日であれば仲間や家族と昼間の一杯も心地よい。

インドではいくつかの禁酒州(グジャラート州と北東部の一部の州)があり、その他のところでも聖地となっているような場所ではおおっぴらに酒が手に入らない場所もあるものの概ねどこに行っても幸福な黄金色の一杯が手に入るのはありがたい。

さて、隣国パーキスターン。かねてより訪れてみたいと思っているのが、名門マリー・ブルワリーの醸造所。1860年創立で、ビール醸造所としてはアジアで最も歴史があるもののひとつで、「マリー・ビール」のブランドは昔から大変有名だ。同社ウェブサイトでは、創業から現在までに至る歴史を簡潔に紹介されている。

この醸造所の様子については、ウェブ上でもいくつかの動画を見つけることができる。Hope in the hops (The Economist)

The World: Inside Pakistan’s Murree Brewery (Youtube)

5年ほど前にカサウリー ビールとIMFL(Indian Made Foreign Liquor)の故郷と題して取り上げてみたインドのヒマーチャル・プラデーシュのヒルステーションのひとつ、カサウリーにある醸造所も起源は同じ。パンジャーブ地方(当時はヒマーチャルもパンジャーブの一部)で手広く商売をしていたイギリス出身のダイヤー一族が始めたものである。1919年にアムリトサルのジャリアンワーラー・バーグで起きた悪名高き虐殺事件の指揮を執ったレジナルド・ダイヤー准将も彼らの身内である。

カサウリーではアジア最古のビール「ゴールデン・イーグル」が生産され、現在パーキスターンとなっているマリー地区のゴーラー・ガリーでは「マリー・ビール」が生まれた。現在はどちらも創業当時と経営母体は異なっているが、血を分けた兄弟の関係にあるといえる。

現在、マリー・ビールの醸造所はパーキスターンの首都イスラマーバード近郊のラーワルピンディーにあり、ビール以外にもウイスキー、ジンなどの蒸留酒に加えて、ペットボトルのジュースなども生産している。

1977年に、ズルフィカール・アリー・ブットー首相の政権が国内での酒類の流通を原則禁止しており、現在でもごく限られた場所で非ムスリムだけが入手できるという状況だ。同国の人口1億8千万人の中でムスリム以外の人々が占める割合は、わずか3%強(これらに加えて軍の将校からの需要)しかないことを思えば、あまりに小さなマーケットである。長らく日の目を見ることのなかったマリー・ブルワリーだが、最近、パーキスターン政府が自国からの酒類の外国への輸出を認める方向へと舵を切ったことは名門復活の好機到来といえるだろう。

同社ホームページによれば、チェコの酒造会社との提携を締結したとのことで、やがてイギリスその他の欧州にも販路を広げることになるらしい。ダイヤー一族がイギリスから導入した醸造法で生産を開始したマリー・ビールが250年以上の時を経て「里帰り」することになる。

さらに大きな話もある。隣国インドがパーキスターンからの直接投資を認める方向に動いていることから、マリー・ビールがインド企業との合弁で、インドでの生産を始めることになるというニュースが流れたのは今年5月のことだった。

Pakistan and India start new era of trade co-operation with a beer (The Guardian)

歴史的なブランドを引っ提げた古豪復活への期待はもちろんのこと、インドの飲兵衛たちにも高く評価されることになれば、なおのこと嬉しい。

ストクの村のホームステイ

伝統的古民家 にゃむしゃんの館
レーからバスないしはタクシーで40分ほどのところにあるストクの村で、ホームステイを受け入れているお宅がある。ラダック人のご主人スタンジン・ワンボさん、奥さんの池田悦子さん、可愛い娘さんのかりんちゃんが、ここで暮らしている。庭には季節の野菜が青々と茂り、その一角には自家製の日干し煉瓦が積まれていた。
この家屋は、かなり傷んだ状態にあったものだそうだが、ご夫妻が丁寧に修復して、昨年11月からホームステイを受け入れておられるとのこと。そこに至るまでの経緯は、ご夫妻のブログ NEO-LADAKH / ネォ・ラダックにて、ラダックでの近況とともに綴られている。
近ごろは新しい建物が増えて、街並みも広がったレーとは異なり、ストクの村にはまだまだ伝統的な家屋が沢山残っている。川から引いた水路が村の中を流れ、サワサワと涼しげな音を立てながら、生活用水を各世帯や畑に供給している。村のあちこちで、洗濯や水汲みをしている女性たちの姿も目にする。
村の中で家々の間を縫うように流れる水路
豊かに咲き乱れるアブラナの花
水に潤されている土地の鮮やかな緑と、そうでない場所の月面のような荒涼とした景色が実に対照的だ。そこに水があり、これを利する人々がいるがゆえに、日々の生活が営まれ、地域の文化が育まれていくということを実感する。冬季には川は凍結して水路も止まってしまい、ハンドポンプ式の井戸まで水を汲みに行くことになるというから、夏とはまったく異なる景色となるのだろう。厳しい冬の時期に備えて、夏のうちから干し野菜を作って準備しておくとのことだ。
村の中の豊かな緑は、水を巧みに利用する人々の勤労の証。お見事です。
ご夫妻のお宅の裏手にある大きなチョルテンは、13世紀くらいのものではないかとされる由緒あるものだそうで、中に入ってみると色彩鮮やかな壁画が描かれているのを目にすることができる。この村に人々が住み着いたのも相当古い時代まで遡ることができるに違いない。
チョルテン内部の壁画
ご夫妻のお宅からしばらく下ったところにある王宮
日中、旧王宮を見物してみたり、川の上流のほうに歩いてみたりしたが、見どころや風景もさることながら、村の中にめぐらされた水路には非常に関心した。川から引いた水の流れを直角に曲げたり、盛り土をした上を流したり、石垣の上を流したりと、自由自在な創意工夫に富んでいる。まさに「水道」である。
川は村の豊かな緑の源泉
石垣の上を流れる水路
直角に曲げてある水路
夕方近くなってから夫妻のお宅に戻る。家屋の1階は家畜用スペース、2階が住居で3階が客室となっている。2階にあるキッチンの周辺は、ご夫妻と娘さんのくつろぎの空間であり、接客スペースともなっている。ここで奥さんの手作りの美味しい地元料理をいただき、ラダックやストックの村のことなどについて、様々な話を聞くことができて大変興味深い。
歴史を感じさせる立派なかまど
家の中では、子犬の「ユキト」と「ヤマト」が2匹飼われていて、かりんちゃんが子犬たちと時にはケンカしながらも、仲良く遊んでいる様子が微笑ましい。ときおりご主人の実家の方や近所の方も顔を出されるので、そこでまた会話をすることができるのもアットホームな感じで嬉しい。私は時間がなくて一泊しかできなかったのは残念に思う。
夜遅くなってきた。午後11時で電気が止まってしまうので客室がある3階に上る。ユキトとヤマトもトコトコ付いてきて、「遊んで!」という表情でこちらを見つめている。しばらくテラスで2匹の相手をしながら夜空を見上げると、思わずハッと息を呑む。こぼれ落ちてくるのではないかと思うほど沢山の、色彩豊かな星々が天空いっぱいにきらめいているのだ。
高度のためか、あるいは乾燥のためなのか、早朝や夕方に大空が紅に染まることなく、東の空から淡々と日が昇り、これまた西の彼方に淡々と日が沈んでいくのだが、それとは裏腹に、星空の眺めは低地の都会からは想像もつかないほど豪華絢爛なものであった。
翌朝目覚めて部屋の外に出ると、子犬のユキトが待ち構えていてくれた。
レーからストクまでは、朝8時に直行のバスが出ている。あるいは途中にあるチョグラムサルの町を通過するバスは頻繁に出ているのでこれを利用し、そこからはタクシーで向かってもいいだろう。ただし、ストックの村までと言うと、村の中の大きな集落になっている部分か古い王宮の前で降ろされてしまい、30分くらい上り坂を歩くことになるため、「トレッキングポイントまで行く」と伝えたほうがいい。
トレッキングポイントとは、ストク・カングリー方面に向かうルートの出発地点であり、そのあたりにはいくつかの商店、レストラン、宿などがある。すぐ目の前を川が流れており、橋を渡ってしばらく坂を上ると、お二人が運営する「伝統的古民家 にゃむしゃんの館 (Nyamshan Old House)」に着く。宿泊の際には、前もって電話で予約をすること。
ご夫妻は、NEO-LADAKH travel & livingという旅行会社も営んでおられる。次回、ラダックを訪れる際には、ぜひともトレッキングやジープでのツアーのアレンジなどもお願いしたいと思っている。
部屋の扉を開けると、朝日が差し込んできて気持ちがいい。早起きは三文の得なり。

チャウンター・ビーチ1

マウラミャインを出た夜行バスは、午前3時少し前にヤンゴンのアウン・ミンガラー・バススタンドに到着。当然、まだ真っ暗ではあるものの、この時間帯に到着するバスは少なくないので、待ち構えていたタクシー運転手たちが集まってきて、続々降車するお客たちに声をかけている。

ヤンゴンからそのままデルタ地帯の西側にあるチャウンター・ビーチに行くので、市内の西側を流れる河を渡った先にある、もうひとつのバスの発着場、ラインターヤー・バススタンドに向かう。途中、街灯も少なく真っ暗な無人の路上を女性が一人で歩いていたり、女性二人が自転車に乗っていたりする姿をたびたび見かける。これから朝早い仕事に向かうのか、夜遅くまで出かけていたのだろうか。ヤンゴンは、東南アジアの中では治安の良い街ということになっているが、確かにそうなのだろう。

チャウンター・ビーチに行くバスが出発するバススタンドに着いたが、まだ午前4時前なので真っ暗である。40分ほど待っていると、私が乗るバス会社の事務所兼待合室は、中からシャッターが開けられた。従業員は中に住み込んでいるようだ。2階が住居のようになっているのだろう。事務所の床に寝ている者もある。労働環境としては劣悪だ。

バスは午前6時発。マウラミャインからヤンゴンまで乗ってきたバスのような快適なエアコン付きの車両を期待して「寝ていく」ことを想定していたが、車内外に散見されるハングル文字からして、おそらく四半世紀くらい前に韓国で走っていたらしいノンエアコンの古いバス。座席を思いきり詰めて設置してあるため、非常に窮屈である。夜行明けにこれはちょっとしんどい。

ビーチまでおよそ7時間。どこまでも平坦な風景を眺めつつ、涼しい風が窓から入ってくる。それはそれで気持ちが良かったのだが、陽が高くなると次第に暑くなってくる。途中でパスポートチェックが2回あり、そのたびに車掌が車内の外国人、日本人の私、四人のフランス人、イングランド人カップル一組、の旅券をあずかって、車外に降りて行く。

街道の物売りたち

広大な田園風景が広がるデルタ地帯をひた走る。集落には高床式住居が多い。2008年のサイクロンではひどくやられたはずであるが、さすがに4年も過ぎているので、少なくとも沿道からはその痕跡は感じられなかった。

デルタ地帯を抜ける直前の休憩地点で、ここから他のビーチに行くというイングランド人カップルが、バイクタクシーにまたがって出て行った。彼らはやけに荷物が少なく、二人合わせてデイパックひとつ分よりも容量は少ないようだった。あれほど身軽な西洋人はこれまでほとんど見たことがない。

休憩場所を出ると突如、道路がダートになり、そこから先は丘陵地で、簡易舗装主体のジグザグの悪路となる。斜面を上り、そして下る、そして上るといった具合の繰り返しで、ポンコツのバスが痛めつけられて悲鳴を上げているようなキシミ音がする。

途中、橋がいくつかあった。最後のふたつは大型車両の車輪の幅に古タイヤのゴムを貼り付けて、舗装風にしてある。一方通行の橋であるため、向こうからのクルマが渡り終えるのを待ってから橋を越える。

<続く>