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カテゴリー: food & drink

  • ゴーンダル3

    ゴーンダル3

    ナウラーカー・パレスの入口

    オートでナウラーカー・パレスに移動。こちらは前述のふたつのパレスに比べるとかなり古いが実に豪奢な造りである。オーチャード・パレスでもそうだったが、ここでも自由に歩きまわることはできず係員がついて周り、いちいちカギを開けて室内の電気を付けて、という具合になる。やはり管理上の理由からであろう。ここでのコレクションは主に古い文物であったりして、あまり印象に残らなかったが、それらとはかなり異なる展示物もあった。王家の子どもたち、おそらく女の子たちのための人形がたくさんあり、これらは欧米からのものだろう。いかにも俗っぽいところが、ちょっと微笑ましくもあった。

    王女たちの人形コレクション

    「藩王の執務室」であったのだとか。

    また子どもたちのものが中心と思われるが、膨大なミニカーのコレクションもある。現在の当主はロンドン在住だが、若いころはヨーロッパでレースに出場するなど、やはりクルマ好きであったそうだまた、ここの宮殿には馬車のコレクションがあるが、これまた大変な数である。これらの車両は英国からの輸入らしい。自動車出現前からこの一族はやはりクルマ狂であったらしく、やはり血のなせる業なのだろうか。

    オーチャード・パレスの自動車コレクション同様、ナウラーカー・パレスの馬車コレクションも秀逸

    パレスの塀には無数の割れガラスが刺してある。こうした「防犯装置」は庶民のそれと特に変わるところはない。

    過去の王家の人々のポートレート

    王家の子供たちの遊戯室

    朝、宿を出る前にトーストとチャーイしか腹に入れていないので、非常に空腹である。しばらく付近を散策してからマーケットで見つけたレストランで軽食。まったくもってひどい「ピザ」だが、まあ味は悪くない。

    食事を終えて、オートでゴーンダル駅に向かう。この駅からラージコートまでは10Rsと、バス代の四分の一くらいである。本数が少ないので日々の行き来に利用するのはたいていバスだろう。だがここからラージコートに向かう列車に乗る人たちはけっこうあった。ここには一日に数本の急行も停車する。

    バクティナガル以降はガラガラの車内

    ラージコートまでの間にひとつだけバクティナガルという停車駅がある。駅だ。さきほどまでは車内はいっぱいだったが、ここで大半の乗客が降りてガラガラになった。ラージコート郊外の住宅地である。スマホの地図を表示すると、Bhaktinagar Stations Slumというのが駅の西側に表示されたが、そちらに目をやると、周囲の落ち着いた住宅地とはずいぶん環境の異なるひどい状態のスラムが広がっていた。

    ラージコートに到着。駅に表示されている主な列車の中にラメースワラム行きのものが週に2、3本あることに気が付いた。ここからだとかなり時間がかかることと思うが、かつてはメーターゲージだったはずのこちら(ラージコート)とあちら(ラメースワラム)が直接繋がったのは、インド国鉄が全国的に進められている線路幅の共通化、つまりブロードケージ化への努力のおかげである。

    インド亜大陸の鉄道は、他ならぬ大英帝国の偉大なる遺産だが、かつては幹線鉄路はブロードゲージ、支線は往々にしてメーターゲージであったことから、旅客や貨物の輸送に支障をきたすという「負の遺産」も抱えていた。大量輸送と高速化に有利なブロードゲージで統一するという、大きなコストや手間と時間のかかる作業にインド国鉄は取り組んでいる。

    ちなみに、異なるゲージ幅の鉄路への対応として、隣国バングラデシュは、これとは異なる「デュアルゲージ化」という手法で対応している。つまりひとつの軌道に三本目のレールを敷設することにより、どちらの車両も走行できるようにするというものだ。

    線路は続くよ、どこまでも 3 (indo.to)

    鉄道輸送に依存する度合が相対的に低く、低予算という面からは効率の良い手法だろう。

    〈完〉

  • ラージコート 2

    ラージコート 2

    朝6時過ぎに近くのモスクからアザーンの呼びかけが流れてくる。今日は7時まで寝ているつもりであったので、「起きるものか」と頑張ってみるが、数秒の間を置いて他のモスクからも流れてくる。互いに反響するみたいにワンワンと鳴るので、やはり目覚めてしまう。

    しばしば思うのだが、この礼拝の呼びかけについて、スピーカーで電気的に拡声した声を流すというのはいつごろから始まり、どのようにして各国に広まっていったのだろうか。その過程でその是非について宗教者たちの間で議論などはあったのだろうか。

    朝7時ごろ、部屋に朝食を頼む。移動する日には時間の節約のため朝の食事は抜いている。こうしてゆっくり食べると気持ちに余裕が出来ていいものだ。

    オートでGO!

    ガーンディーが15歳のときまで暮らしていたという彼の父親の旧家へ。ここの藩王国の宰相であったという割には意外に簡素な家である。あまり大きくもない。建物内ではガーンディーや独立運動にまつわる様々な写真を中心とした展示がなされている。

    その後、Watson Museumに行く。1880年代のイギリス人行政官のコレクションが元になっている博物館である。彼が集めたサウラーシュトラ地域の文物以外に、自然科学関係の展示もあった。だが内容としては田舎博物館という感じで、あまり見応えがあるものではない。

    しばし徒歩で市街地の古い建物を見物する。この街を前回訪れたのはもう20数年も前のことになる。当時は快適そうなテラスや手の込んだ飾り窓などが付いた伝統的なたたずまいの建物がたくさんあり、テキスタイルを中心とする商業活動は盛んながらもひなびた雰囲気があったと記憶している。だが今はずいぶん様変わりしているようだ。レンガにコンクリートや漆喰、そしてペンキで塗られた四角い建物に置き換わっている。それこそ、インドネシアでもアフリカでも、つまり世界中どこにでもある普遍的な景色になっているといえる。地域性の希薄な建物だ。

    当時、かくしゃくとしたご隠居さんであった人たちの多くはすでにこの世を去り、元気に働いていたおじさん、おばさんたちは隠居し、あのころオギャアー、オギャーと盛大に泣いていた赤ちゃんたちがバリバリとよく働く商売人、でっぷりと貫禄のあるお母さんになっていたりするのだ。それほど長い時間が経過しているのである。もはやふた昔半くらい、つまり四半世紀くらい過ぎているのだから。

    だがそんな中にも古い街並みは少し残っていた。傾斜屋根の瓦、二階に突き出た出窓やテラスであったり、面白い意匠の飾り窓であったりする。なかなかいい感じだ。ただし、多くは残念なコンディションにあり、ところどころ崩れていたりもする。しばらく立ち話をした地元の人によると、2001年のカッチの大地震のとき、ラージコートでも相当な被害が出て、そうした古い家屋におけるダメージも相当あったとのこと。

    古くからの伝統的なスタイルの家屋は、街や地方の個性を無言のうちに主張していたものだが、そうしたものはどんどん消滅している。遅かれ早かれ、これらは街中から消滅してしまうことだろう。こうした様式で新しく今風の建材で作ってもいい感じなのではないかと思うが、そうしたものはだ見ていない。

    シンガポールやマレーシアのように、行政が主導して保存に取り組むことがなければ、こうしたものはすぐに消えてなくなってしまうであろうことは間違いない。街並み保存については、そうした措置を講じるほどの社会的な余裕があるかどうか、人々が今もそれらに愛着を抱いているか、保存にメリットを感じるかどうかによるのだろう。

    その後、サーリーを機織りしている工房へ。ここでは糸からすべて手作りで生産している。婚礼シーズンで使われるという絹のサーリーを製作中であった。糸は最初から染めてあり、その色の間隔できちんとデザインを組み上げていくという職人技の世界。オートの運転手に携帯で話をさせて場所確認して行ったのだが、普通の住宅地に見えるところなので、ここを通過しただけだったら、まさかここがそれらの工房が寄り集まっている場所であるとは気がつかないことだろう。

    通り過ぎただけでは機織職人たちのエリアとは判らないだろう。

    おそらくこれらの品物の単価が高いからであろうが、どの家もかなり立派だ。作業場はそれなりに散らかっているものの、外から家を見ると、ロワー・ミドルクラスやそれよりも少し上くらいのクラスの家に見える。かなり経済的にうまくいっているコミュニティであることが見て取れる。

    機織を見学してからしばらく徒歩で街中を散策してみる。途中、路上でハルモニウムを修理している人がいた。知的な風貌の人で、彼の名前のブランドでハルモニウムを製作しており、その顧客から依頼された修理をしているという。彼自身の作製したハルモニウムだというのだが、本当だろうか?

    〈完〉

  • グジャラーティー・ターリー

    グジャラーティー・ターリー

    インドで一番豪華なヴェジタリアン・ターリー。不思議なのは、おかずやご飯と甘い菓子類をいっぺんにサービスすることだ。またバターミルクも付いてきて、これらすべてが食べ放題で飲み放題なので、とても嬉しい満足感がある。品数多いおかずの味付けは、このグジャラート州以外のインド北部地域とはずいぶん異なる。ダールもやけに甘いのだが、それはそれで美味しい。おかずも店によってずいぶん異なるものを出しているし、同じ店でも日によって出てくるものがかなり違うところもある。

    おかずとチャパーティーやプーリーを食しながら、甘い菓子をかじり、ときどきバターミルクで口の中を洗い流すという作業を繰り返しているうちに、フラフラになるほど空腹だった自分がどんどん満たされていき、もうこれで充分と頭では思いつつも、ついついお菓子をもうひとつとか、いやあちらの菓子もいいなと次々にもらってしまうのである。

    ただ欠点もある。ご飯党にとってはちょっと残念なのは、ライスを所望すると「さて、これで私はおしまいにします」という合図となってしまうことだ。もちろん頼めばもっと運んできてくれるのだが、ご飯を頼んだからには、この人は当然これで食事はシメである、という了解がある。

    画像左上がプーラン・プーリー

    先述のとおり、店によって中身がかなり異なるので、各アイテムの見た目が美しい店もあれば、ボリューム感抜群の店もある。ボリューム感とはおかずや主食のみで醸し出されるものではなく、やはり大きな役割を占めるのはお菓子類である。

    こちらの写真の店では、人参のハルワーとともに糖蜜漬けになったローティーというか、プーリーというか、その名も「プーラン・プーリー (PURAN PURI)」というのだが、さらにこの中には黄色いダールで作られた餡子が入っている。この餡のような味は日本にもあったような気がするが、非常に甘くて脂分も大変多い。ダールでこのような餡を作るというのは初めて知った。

    インド広しといえども、おかずや主食とともに甘い菓子をパカパカ食べるのは、グジャラートくらいだろうと思う。

    私の隣のテーブルには、デリーから来たという中年カップルが座っていた。私と同じターリーを食べ始めているが、甘い菓子類はすべて断っている。
    「甘いものは苦手で?」と尋ねると、小声でこんな返事が返ってきた。
    「そんなことないけど、甘いものは食後に、当然別皿で食べたいもんだねぇ・・・」

    まさにそのとおり。私もまったくもって同感なり。

  • インドのチベット人

    以前、MAJNU KA TILLAと題して書いてみたデリーのマジヌー・カー・ティッラーだが、この地はasahi.comの連載:地球を食べるの記事でも取り上げられているのを見つけた。

    (地球を食べる)望郷の味チベット料理 (asahi.com)

    中国による「チベット解放」後にインドに難民として逃れてきたチベット人たちに、インド政府は相応の待遇を持って迎えてきたと言える。その中で経済的に成功した者も少なくないが、彼らはあくまでも異国インドに難民として仮住まいをしている立場にしか過ぎない。

    しかしながら、すでに三世代目、四世代目に入ってしまっており、国籍は持っていないものの生まれも育ちもインドで、祖国チベットを訪れたことさえない、事実上の「チベット系インド人」化してしまっている現在、彼ら自身がこれからどうしていくのか、またインド政府も将来的に彼らに対してどのような対応をしていかなければならないのか、真剣に取り組まなくてはならないだろう。

    現在のダライラマも未来永劫に彼らとともにこの世におられる訳ではない。インド中に散らばるチベット人たちを結ぶ大きな求心力が失われたとき、彼らのコミュニティはどうなっていくのだろうか。

    インドをはじめとする在外チベット人コミュニティをまとめあげる存在の代替わりは、それがたとえ次に転生するダライラマであっても、俗人の中から選ばれた人物がその役割を担うことになっても、相当な混乱が生じることは間違いない。中国当局による工作の可能性はもちろんのこと、彼ら自身の中にも野心を抱く者たちの存在があり、激しいさや当てが繰り広げられることは避けられない。

    また、現在のチベットの情勢が変わる見込みもないわけだが、万が一、将来何か思いもよらないことが起きて、彼らが帰還することが可能になったとしても、すでに数世代に渡り生活基盤を築き上げ、それなりに安定した生活を営む現在インド在住のチベット人たちの果たして何割が戻ろうと決心することだろうか。

    遠くない近未来には、彼らインド在住のチベット人たちがインドに帰化することを求めなくてはならず、そしてインド政府もそれを受け容れなくてはらない日がやってくることは想像に難くない。

  • Cha Project コールカーター華人街復興計画

    最盛期には2万人を数えたというコールカーターの華人人口。市内中心部のラール・バーザール界隈を中心とするあたりを旧中華街とすれば、東郊外のテーングラー地区が新中華街となる。

    どちらも1962年の中印紛争の勃発にともない、敵性国民として検挙されたり、ラージャスターン州にある強制収容所に送られるなどといった扱いを受けるようになってから、その数は激減。同様に、そのころまでは西ベンガル州のダージリン、アッサム州(1972年に分離したメガーラヤ州を含む)の一部にも存在していた華人コミュニティもこうした動きにより大打撃を受けることとなった。

    その後も華人人口は漸減しており、インド国外、とりわけカナダに移住する人たちが多く、彼らは直接大陸から来たわけではなく、父祖は中国出身でも自身の生まれ育ちはインドであるため、「印度華人」というアイデンティティを持つことになり、こうした人たちが旧正月にはコールカーターに残る親戚を訪問したりしている。

    さて、この中華街復興のため、10億ルピー規模のプロジェクトが進行中であるとのこと。その名も「茶プロジェクト」というもので、観光振興を狙ったものであり、シンガポールの華人グループと西ベンガル州の観光担当部門が共同で進めていくものであるとのこと。

    混雑している旧中華街の小路を「フード・ストリート」として打ち出し、郊外でスペースに余裕がある新中華街では文化紹介やエンターテインメント的な場を準備するとのことだ。両中華街が今後どのようになっていくのか、お手並み拝見といったところだ。

    すでにシンガポールではそうしたプロジェクトは手慣れたものであろうことから、ソツなく上手にまとめてみせてくれることだろう。

    Kolkata: Rs 100cr revival for ‘twin Chinatowns’ (THE TIMES OF INDIA)

     

  • 東京都内のインド料理店

    東京都内のインド料理店

    従来、多くの「インド料理店」とは、ムグライ料理やパンジャーブ料理といったインド北西部の料理が大半であった。その経営者や従業員も主にインド北西部かネパール、パーキスターンから来た人々というケースが多く、どこも似たり寄ったりの食事を提供していた。

    そのため、インド料理といえばタンドゥーリー・チキンやケバーブ、そしてナーンが必須であるかのように捉えられていたりするようだ。

    そんなわけで、南インド料理を標榜するレストランでもこれらのディッシュがメインメニューに挙げられていたりして、ちょっと何だかなぁ?と思ったりする人も少なくなかったことだろう。もちろん現在も同様で、新しくオープンした料理屋を覗いてみても、往々にしてそんな具合。

    ちょっと趣向の違う感じの店となると、飲み屋主体の店などもあるが、そうしたところでは「メイン」の品目に入っているタンドゥーリー・チキンとやらが、タンドゥールで焼いたものではなく、食紅だかパプリカだかで赤く着色した鶏肉のブツ切りを油で揚げたものになってしまっていたりして、これまたたまげてしまう。知り合いのヒマーチャル出身のオジサンがやっている「オヤジの手料理」的な店では、おそらく簡単に手に入るし、冷凍の大きな半身を買うと安いからなのだろうが、魚料理にシャケ(!?)を用いていて、これまた困ってしまうのである。こんな具合だったら、東京で「標準化」されたありきたりの店のほうがよっぽどマシだったりするのだ。

    だがそんな状況の中でも、インド各地の料理で勝負する店もいくつかあるようだ。

    インド料理の固定観念が180度変わる珠玉の12軒in東京 (mecicolle)

    個人的には、ピュア・ヴェジながらも多彩な小鉢とバリエーション豊かな味わい、食事の最中にこれまた様々な甘味類が提供されるグジャラーティー・ターリーの専門店が出来たら楽しいのになぁ!と思ったりもする。

    グジャラーティー・ターリー

    次々にいろんなアイテムが気前よく提供される中で、「ライスを頼んだらシメの合図」というグジャラーティー・ターリーのお約束事は、米食文化の日本には合わないはずではあるけれども。いや、それよりも大変高価なターリーとなってしまいそうで、なかなか手が出ないものになるのではないかと心配したくなったりもする。

  • MAJNU KA TILLA

    MAJNU KA TILLA

    デリーのカシミーリー・ゲートから北の方角、ヤムナ河とアウター・リングロードに挟まれた部分に、チベット難民たちの定住地として有名なマジヌー・カー・ティッラーと呼ばれる地域がある。デリー・メトロのヴィダーン・サバー駅を降りたところから、この場所を往復している乗合オートリクシャーを利用することができる。

    オートを降りて、歩道橋で道路を越えた先がこの場所。沢山のタルチョがかかっていたり、チベット旗が建物にかかっていたりすることから、いかにもチベット人居住区という感じがする。

    チベット人地区の入口
    チベット仏教寺院
    非常に狭い路地。こうした建物は違法建築ということになるのだろう。

    最後にここを訪れたのは、もう十数年も前のこととなっているので、着いてしばらく歩いてみても、ここが同じ場所であるとはとても信じられなかった。建物の背が高くなり、空が非常に狭くなっているためもあるだろうし、洒落た店が増えているためでもあるかもしれない。もちろん、ずいぶん前のことであるがゆえに、私の記憶自体が変質してしまっているということも考えられるが、それら全てが合わさった結果、「とてもどこだか判らない」という具合に感じられるのかもしれない。

    狭い路地の多いオールドデリー地区にあっても、あまりに狭く、くねくねと曲がり、道幅が少し広くなったり、極端に狭まったりしている頭上に高い建物がそびえている様子から察するに、このあたりのビルの多くは典型的な違法建築なのだろう。近年はさらに上階を建て増ししたりして、この有様にさらに拍車がかかっているのではないだろうか。

    路地にはインド人の姿も少なくないが、チベット人たちがやはり多い。さきほどこちらに渡る歩道橋には路地には仏具の店があったりして、チベット文化圏のラダックのレーに戻ってきたような気さえする。中国からの麺その他の食品の輸入品が食料品店の店頭に並べられているのも目にする。

    実に久しぶりに来てみたということもあるし、すでに昼前になっているが、まだ朝食を済ませていないため、レストランに入ってみることにした。月並みではあるが、ギャトクとモモを注文して、かなり待たされたものの大変おいしかった。

    ハウズカース・ヴィレッジにあってもおかしくないようないい感じのレストランやチベット関係のグッズの気の利いた店もあって、なかなか楽しい。また、このあたりにはゲストハウスがいくつもあり、外国人の姿もままあることから、滞在している人たちもあるのではないかと思う。両替所もあるので特に不便はないことだろう。今度デリーに来たときには、ここで滞在してみるのもいいのではないかと思う。

  • ナマステ・インディア2014

    今年で22回目の開催となるナマステ・インディアは、東京都渋谷区の代々木公園のイベント広場にて、9月20日(土)と21日(日)に開催される予定。

    だが代々木公園に端を発するデング熱の関係により、今週9月6日(土)と7日(日)の日本インドネシア市民友好フェスティバルもその次の週9月13日(土)と14日(日)のベトナムフェスティバル2014も中止となっていることから、ナマステ・インディアについても雲行きはかなり怪しい。

    「いつもこのイベントに来るとバッタリ出会う人」や「いつもこれに来ると見かける人」がよくあるのではないかと思う。屋外のイベントに出かけてみるにはとても気持ちのいい季節。当日は好天に恵まれることを期待したいものだ。

    ただし近年の会場の混雑ぶりはいかんともしがたく、「開催日の午前中に激しい雨でも降れば、人出が少なくなっていいかも?」などと、ちょっと意地悪なことを思ってしまったりもする。

    現時点では開催か中止かについての発表はなされておらず、まだ開催期日が少し先ではあるのだが、一体どうなることやら・・・。

  • スィットウェへ2

    スィットウェへ2

    ミャンマー・ブームでヤンゴンの宿泊費が高騰しているのはよく知られているところだが、地方の観光地もまた同様の傾向がある。国際的にも有名なバガンやマンダレーはそれでも元々の客室数のキャパがあるので急騰するというほどのことはないのかもしれないが、よりマイナーで訪れるお客が少なかったところでは、存在する宿の数が限られているため、ヤンゴンのようなビジネスや投資関係での需要はほとんどなくても、観光客がこれまでよりも少し多く訪れるようになるだけで、ずいぶん影響が出るようだ。

    スィットウェで、エアコンが付いているちょっと小奇麗なシングルルームが40ドル前後もするというのは明らかにおかしい。経営者たちの間でそういう密約があるのかどうかは知らないが、宿の数自体が数えるほどしかないため、そのようなことが可能となってしまう。これについては外国人料金が設定されているため、地元の人たちが同額を支払っているわけではないようだ。

    たいていの宿では外国人料金がいくらで、地元料金がいくらであるかは教えてくれなかったりするのだが、ごく新しく出来た比較的安めの一軒ではその料金が前者はドル建て、後者についてはチャット建てで表記されていた。チラリと見ただけだが倍以上の開きがあるようだ。

    今後、ミャンマーの経済成長が進み、観光のインフラも整備されていくにつれて、国内の旅客の潜在的な需要も大きい。今後、宿泊費に関する内外格差が解消するのかどうかはよくわからないが、宿泊施設が増えていくことにより、相対的に料金が手頃になっていくことを期待したいものだ。


    結局、この町ではストランド・ロードにあるストランド・ホテルという名前のホテルに宿泊することにした。まるでヤンゴンにある東南アジアを代表する名門のひとつであったホテルのようなロケーションと名前だが、これとはまったく無関係の新築ホテルである。シングルルームで60ドルと、この田舎町にしてはずいぶん強気な設定だが、開業してからまだひと月とのことで、ロンリープラネットのようなガイドブックにもまだ取り上げられていないのだが、すっかりくたびれた感じの宿に40ドル、50ドル支払うよりも気持ちがいいので投宿することにした。やはり宿は新しいに限る。非常に清潔で、コテージタイプというのもいい。室内もスタイリッシュだし、スタッフもフレッシュな雰囲気でキビキビと働いている。

    水際に政府関係の大きな建物や市場などが並び、水運時代の植民地期に開かれた当時のたたずまいを残しているようだ。ここを軸にして背後に繁華街、そしてさらに裏手には住宅地が広がる。マウラミャインも似たような造りの町である。


    この時期、市場で外見はビワのような小型のマンゴーが売られている。上の画像の左側の小さなものがそのタイプである。姿形に似つかわしくなく、味はそのままマンゴーなのだが、水分が多くて酸味も強いジューシーな味わい。果実の量に比して種子の部分が大きいため、あまり食べられる部分は多くはないのだが。ひとくちにマンゴーといっても、実にいろんな種類があるものだ。


    河沿いのマーケットには米のマーケットもある。実にいろいろな種類のコメがあるもので、インディカ系のコメにもいろいろ粒が小さかったり、大きかったり、赤みを帯びていたり、もち米であったりといろいろある。もち米はやはりシャンのものであるという。輸入米もインドからの長粒種、タイ産のものもある。世界的な米の大産地であるこの国でも、外国から輸入もしているとは知らなかった。個々の嗜好によりいろいろな米を食べているのだろう。

    それはさておき、日中の気温は40℃くらいまで上がるので、夕方のビールが実に旨い!

    〈続く〉

  • ヤンゴン到着

    ヤンゴン到着

    ヤンゴンに着いた日の晩は、空港目の前のホテルSEASONS OF YANGONに宿泊した。

    数年前には朝食込で一泊の料金が25ドル、30ドルといった料金で、ずいぶんなお得感があったものだが、ミャンマー・ブームで市内の宿泊料が急騰のご時勢だけに、70ドルというところまで来ている。私は、翌朝早い時間帯にフライトに搭乗する予定がある場合、ホテルから道路を渡るだけで国内線ターミナルにも国際線ターミナルにも着いてしまうという安心感から利用していた。

    今回は、翌朝のフライトは午前11時という非常に楽な時間帯ではあるものの、朝の時間をゆったり過ごしたくて、ここに泊まることにした次第であるが、たかが「寝るだけ」のスペースのために70ドルというのは無駄に感じられるとともに、また近い将来訪れる際にはさらに金額が上昇していることは間違いないので、私がこのホテルをまた利用することはないように思う。

    空港近くに宿泊していると、雑踏が恋しくなり、タクシーでダウンタウン地区まで出ることにした。ところどころで、新しくオープンしたらしい時計やカバン等の高級ブランドの直営店(?)などが目に入ってくる。これまではインドの街に似ている印象を持っていたヤンゴンの街だが、今にタイの街のような感じになっていくのだろうか。

    ダウンタウンで下車して、中華料理屋で夕食を取った後、ドーナツ屋でコーヒーを飲みながら店内のWIFIを利用してメールのチェック。隣の席には子連れの母親が彼女自身の妹らしき女性と楽しそうに会話している。小学校に入るあたりの子供がいながらも、非常にお洒落で美しい人がいるというのは、やはりこれから豊かになりつつある都会らしいところなのかもしれない。生活にゆとりがあるゆえのことである。

    窓の外を行き交う人々を眺めていると、とりわけ若者たちの間ではロンジー姿ではない洋装になっている人たちがずいぶん多くなっていることに気が付いたりもする。通りには携帯電話のハンドセットを販売する店が増えているが、前はどんな商売をしている店舗が並んでいたのかよく思い出せない。

    ミャンマー・ブームの到来は、ビジネスだけではなく観光客も大いに誘致する結果となったことを受けて、スーレー・パゴダ近くのこのエリアには、まだ商品は垢抜けないものの、明らかに外国人観光客のみを相手にするみやげもの屋もいくつか出来ている。今後も通りの眺めはどんどん変化していくことだろう。

    日没後、次第にあたりが暗くなっていくこの時間帯、店内に入ってくる人や出ていく人、外を歩いている人たちの様子などをウォッチングしているのもなかなか楽しかったりする。

  • 5月の代々木公園は「タイ月間」

    2014年5月17日(土)と18日(日)に、東京都渋谷区の代々木公園でタイフェスティバル2014が開催される。例年大盛況のイベントであり、今年も大勢の人出が予想される。すでに代々木公園のイベント広場も手狭になっているのだが、他に替わる会場がないため、仕方ないのだろう。

    そのちょうど1週間前の5月10日(土)と11日(日)には同じ会場にて、やはりタイ関係のソンクラン・フェスティバル2014も開催される。さらには、タイフェスティバル開催後には、5月24日(土)と25日(日)のラオスフェスティバル2014、そして5月31日(土)と6月1日(日)に行われるメコンダンスストリート2014というイベントもやはりこの場所で開かれるため、タイ料理レストラン、タイやその周辺の製品を扱う食材や民芸品等の業者、NGO等々については、連続して出展してくるところもあることだろう。また、来場するお客の層も大きく重なるものがある。

    今年の5月の代々木公園は、さしずめ「タイ月間」といった様相になりそうだ。

     

  • パーキスターンに味の素進出

    かつてアジアで「グルタミン酸を旨みと認識する食文化圏はヒマラヤの手前まで」と言われていたことがあった。

    確かに中国や東南アジアではそのような食文化が展開されていて、インドから西はといえば、異なる味覚の世界という捉え方がなされていたようだ。

    もちろんそれらの国々でも肉の旨みというのは誰もが判っていたこととは思うが、グルタミン酸調味料の大きな商圏といえば、やはりアジアの東側であったことは間違いない。

    だがここ数年は、エジプトで「行商スタイル」での営業活動を展開する味の素が売上を伸ばしていること、人口増加率が高くて若年層の人口が厚く、今後順調な所得増が見込まれるイスラーム圏(といってもあまりに広大だが)での販路を求めて様々な策を練っている様子が伝えられている。

    なぜエジプトで“味の素”が売れるのか?(東洋経済)

    味の素、東アフリカに進出へ ケニアに拠点、来年度から販売 (SankeiBiz)

    また、最近は日本初のハラールファンドが設立されて、日本の食品業界が本腰を入れてイスラーム圏へ進出を図りつつある様子もうかがえる。

    日本初のハラルファンド 地銀など50億円出資 (日本経済新聞)

    このあたりの動きが可能となったのは、やはり化学調味料メーカーの営業努力はもとより、昨今のグローバル化により、食の分野でも多様化が進んだことも背景にあるのだろう。

    同様に、日本国内の消費が長く頭打ちであること、中国や東南アジア方面でも競合相手が増えて、マーケットが飽和状態にあるため、これまでは「圏外」であった地域に活路を求めなくてはならなったという事情もある。

    そこにきて、4月に入ってから新聞紙上を賑わせていたこんな記事もあった。

    味の素、パキスタン進出 「ハラル」市場の攻略拠点に(日本経済新聞)

    これらの地域へのグルタミン酸を主原料とする調味料等の販売はネスレをはじめとする欧州勢が先行しており、日本企業はこれを追う形になるのだが、化学調味料の浸透とともに、地元の食の世界もジワリと変化を迎えつつあるのだろう。

    果たしてそれが良いことなのか、そうでないのかは定かではないものの、今後の行方に注目していきたい。