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  • 大都会の中の静寂 聖地バーンガンガー

    植民地時代の訪れ、つまり1534年にポルトガルがグジャラート地方の統治者であったクトゥブッディン・バハードゥル・シャーから譲り受けた土地に、城砦、港湾、都市を築き始めたことが、その歴史の始まりであると認識されているムンバイーに、ラーマーヤナの神話に連なる聖地がある。
    マーラーバール・ヒルの高層建築に囲まれた只中にある、物静かな佇まいのバーンガンガー池のほとりにはいくつもの寺院やダラムシャラーなどが並ぶ。どこか田舎町を訪れているような気がする。ガートでは坊さんが信者のためにプージャーを執り行っている。ここが日々忙しい大都会ムンバイーの高級住宅地であることを忘れてしまいそうだ。
    バーンガンガー池のガート
    ラーマーヤナの神話の中で、ランカー島に連れ去られたスィーターの救出に向かう途中のラーマが立ち寄ったところであるとされている。渇きに苦しむ中、ラーマ自身ないしはラクシュマナ(両方の説があるようだ)が放った矢(baan बाण)が地に落ちた地点から、清水がこんこんと湧き出てきた。この水源が、遠く離れたガンガー(ganga गंगा)の支流とされたことが、バーンガンガー(baanganga बाणगंगा) の名の由来だという。この池のほとりにいくつもの寺が並んでいるが、ワールケーシュワル寺院である。
    聖河ガンジスの水・・・なのか?
    この池が出来たのは12世紀初めとされるが、ポルトガル時代においては、カトリック信仰の布教と並行して、ゴアで多くの寺院が破壊されてしまったのと同じく、ワールケーシュワル寺院もそれを逃れることはできなかった。
    1661年に、ポルトガルのカタリーナ王女が、イギリス王室のチャールズ2世に輿入れするに当たってのダウリーとして、当時のムンバイーはイギリスに委譲される。地元の人々の信仰についてあまり干渉しない彼らの支配下になってから、1715年前後(1724年前後という説もある)にワールケーシュワル寺院は再建された。
    しかし18世紀に入ったころのマーラーバール・ヒルは、無数の巨石と密林に覆われた丘陵地に過ぎず、地理的に当時の都市部に近い森林地帯ということもあり、盗賊や他の犯罪者たちが跋扈するエリアでもあったそうだ。
    そのため、この寺院を中心とする集落に住んでいたガウル・サラスワト・ブラーフマンのコミュニティの人々は、自分たちの身を守るという目的から、他のセクトのヒンドゥー教徒たちがここに寺院やダラムサラを建設することを認めたことから、次第に門前町の体を成していくきっかけとなったようだ。
    また交易と信仰の自由を標榜して、新興都市であったムンバイーへの移住者の増加を画策していたイギリス当局としても、商業と政治の中心地であったフォート地区から少し距離のあるマーラーバール・ヒルに宗教施設を誘致することを奨励していたという事情も追い風となったようである。
    インド随一の大都会で、都市化以前の村の面影を残す、静かなバーンガンガー池とこれを取り囲む寺院群。チョウパーティー・ビーチ、マニ・バワン、コーターチー・ワーディー地区にも近く、ムンバイーを見物する際についでに訪れてみるといいだろう。早朝や夕暮れ時などが特に良さそうだ。
    毎年1月にバーンガンガー・フェスティバルが開催され、古典音楽の演奏などが行なわれるので、訪問時期さえ合えばこちらもチェックしておくといいだろう。
    バーンガンガー池

  • 時代の目撃者 ベアトー

    インドで最初に写真で記録された戦争といえば1857年に発生した大反乱である。イギリス国王を少なくとも現存する写真の大部分は、世界初の戦争写真家と言われるたった一人の人物によって撮影されたといって過言ではない。
    ベアトー
    その彼、ヴェネチア生まれのフェリーチェ・ベアトー(フェリックス・ベアトーとも呼ばれていた)は、1855年のクリミア戦争の取材に続き、1857年に発生したインドの大反乱を撮るために翌1858年にカルカッタに上陸。1859年まで続いた戦いの様々なシーンをカメラに収めている。
    戦争写真といっても、20世紀のベトナム戦争以降のように、従軍して最前線でレンズを構えるようなものではなかった。当時は湿板写真の時代で、コロジオンと硝酸銀溶液を塗ったガラス板が乾かないうちに撮影・現像しなくてはならないという手のかかるものであった。そのため彼が残した作品群は、主に戦闘後の破壊された状況や休息ないしは待機する将兵等の写真ということになる。
    19世紀初めに写真技術が発明されて以来、撮影の主な需要といえば高貴な、あるいは富裕な人々のための肖像写真としての用途、あるいは風景といったものが大半であった。ベアトーが画像で伝えた破壊や殺戮というテーマは、当時の常識を打ち破るセンセーショナルなものであった。また、言葉を尽くしても伝えられないものが写真にあることが認識され、報道の重要なツールとして認識されることになったのも彼の功績であるといえよう。
    そのひとつ、彼が残した大反乱の写真の中でも、あまりにも有名なラクナウのスィカンダラー・バーグの写真。反乱軍の2,000名の兵士たちが、英軍の反撃によって殺害された現場である。遺体はそのまま放置され腐敗するに任せた。写真手前に無数に転がっているのは白骨化した遺体である。
    Sikandara Bagh
    カーンプルの破壊された風景
    Cawnpore
    当時のイギリス側のインド人兵士たちの姿
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    イギリスへの反逆者たちの処刑
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    イギリス側に捕らえられたムガル最後の皇帝、バハードゥル・シャー・ザファル。詩人としても非常に評価の高い人物だが、大反乱の首領として担ぎ上げられた彼は多くの身内が処刑された。王妃ズィーナト・メヘルと嫡子のミルザー・ジャワーン・バクトおよび側室の子であるミルザー・シャー・アッバースとともにデリーからラングーンに島流しになる直前に撮影されたものとも、ラングーンに到着後に撮影されたものとも言われる。
    ムガル朝の皇帝の中で唯一写真に収められた姿が拘禁下のものというのは何とも皮肉なことだ。残念なことに撮影者が誰かはっきりしていないが、デリーでの写真であるとすれば、ベアトーの手によるものである可能性がある。
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    ベアトーは当時のデリーの街の様子も多数撮影しており、それらと対比させて140年後の同じ場所の写真と合わせて解説した秀逸な書籍があるので、本屋で見かけたらぜひご覧いただきたい。
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    書名 Beato’s Delhi 1857, 1997
    著者 Jim Masselos & Narayani Gupta
    出版社 Ravi Dayal Publisher
    ISBN 81 7530 028 0
    ベアトーとほぼ同時代にインドで活動した写真家としては、山岳、建築物、人物等の撮影で数々の傑作を生んだサミュエル・バーン、風景写真のドナルド・ホーン・マクファーレンといった人物があるが、1880年代以降ではインド人のラーラー・ディーン・ダヤルも後世に残る多くの作品群を生んでいる。
    ベアトーは、後に中国で第二次アヘン戦争の撮影を行なった。
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    そして活動の場を日本に移す。鎖国から開国へ、下関戦争、幕藩体制終焉と大政奉還、明治の維新政府による中央集権的な近代国家建設へと一気に邁進していく有様は、転換する時代の目撃者、行動する写真家ベアトーの心を惹きつけるものであったのだろう。江戸時代末から明治初期にかけて彼が撮影した写真の数々を誰もが目にしたことがあるだろう。当時の人々の風俗に関する貴重な資料となっている。
    下関戦争のひとコマ
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    慶応2年(1865年)あるいはその翌年に撮影されたとされる江戸の街並み
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    若い薩摩藩士たち
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    駕籠に乗る女性
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    着物姿の女性たち
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    画師
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    晩年は、英領インドに併合されたビルマのコンバウン朝の旧王都マンダレイで写真館を営んだ。
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    人並外れた行動力で激動の時代を目撃してきた偉大なる写真家ベアトーは、1909年にイタリアで亡くなる。彼の作品中に登場する人々はすでにこの世にないが、彼が残したモノクロームの画像を通じて、実に多くのことを私たちに雄弁に語りかけてくる。今の時代に生きる私たちにベアトーが残した遺産の価値は計り知れない。

  • 4/18(日) 池袋がミニ・バーングラーデーシュとなる日曜日

    まだひと月ほど先のことだが、今年で第11回目となる『カレーフェスティバル&バングラデシュ ボイシャキ メラ』だが、今年は4月18日(日)に東京の池袋西口公園で開催される
    『おぉ、バーングラーデーシュの人たちは、こんなに沢山住んでいたのか!?』とびっくりするくらい大勢集まるにぎやかな催しだ。
    まだ肌寒い東京だが、屋外イベントのシーズンももうすぐそこまで来ている。当日好天に恵まれることを祈りたい。

  • 女性留保枠 = 政治エリート一門とセレブの指定席?

    青森県八戸市議会の藤川ゆり議員は『美人過ぎる議員』として評判だが、インドで目を引く美人議員は誰?と問われれば、連邦下院議会のBJPのスムリティ・イラーニーや社会党のジャヤー・プラダーといった芸能界から進出した人たちを除けば、2009年にバティンダー選挙区から出馬して同じく連邦下院議員として当選したハルスィムラト・カウル・バーダル氏だろう。
    Harsimrat Kaur Badal
    以下、2009年の選挙に立候補した際、ハルスィムラト氏がスター・ニュースのインタビューに応じたときの様子だ。雑談程度で中身のあるものではないのだが。
    Prakash Singh Badal’s daughter in law, Akali Dal’s candidate from Bhatinda, talks to Star News (Youtube)
    彼女はシロマニー・アカリ・ダルの党首で、パンジャーブ州副首相のスクビール・スィン・バーダルの妻。義父は同党の前党首で現在パンジャーブ州首相を務めるプラカーシュ・スィン・バーダルだ。現在43歳の彼女自身は、名門の名でとりあえず議席を確保するために担ぎ出されたまったくの素人である。
    ところでインドでの議会といえば、連邦議会ならびに州議会において議員数の三分の一を女性に対して留保しようという憲法改定案が話題になっている。かなり紛糾しつつも、3月9日に連邦議会上院を通過し、今後同下院、続いて各州議会へと送られて審議されていくことになる。
    この法案について喧々諤々の議論がなされていることについては、女性の社会参画拡大と地位向上という美しい建前とは裏腹に、現在までのところ議員数の9割前後を男性が占めている現状(ちなみに連邦下院では、目下女性議員数は11%)自体が障害である。
    また、定数の決まった枠組みの中で有能な人物であっても男性であるがゆえに女性への留保がネックとなり政界での機会を失いかねないこと、果たして留保という形で女性の割合を大幅に増やすことがもたらす効用というものがあるのか、という疑問もある。
    特に後者については、女性議員数が従前の3倍ほどに膨れ上がることから、果たしてどういう人物がその部分を占めることになるのだろうか。少なくとも、この制度が導入された直後の選挙では、経験と実績のある女性人材が乏しい中で、各政党は有力政治家の身内や芸能関係のセレブといった社会的に知名度の高い女性候補を乱立させての議席の奪い合いが展開されるはずだ。
    その結果、ハルスィムラト・カウル・バーダル氏と似たような立場の人たちが、まさに『時代の申し子』として、続々と政界入りすることとなり、当面は既存の政治エリートたちの一門の足元を固めることにしかならなかったり、あるいは盛りを過ぎたセレブ女性たちの政界進出への垣根を低くすることにしかならないような気がする。
    見方を変えれば、特に地位向上を必要としない、従前から『財と力のある』女性たちがこぞって政界に出てくることでもあろう。それはそれで政界に変化を生むはずだが。ひとくちに女性といっても、本来ならば社会のどの部分を構成する層に焦点を当てるかという具体性が必要になってくるはずだ。
    この法案について、Nadwat-ul-Ulemaの指導者が、反イスラーム的であると批判するいっぽう、All India Association of Imamsのように、これを女性の地位向上の好機と捉えるイスラーム団体もある。
    また、Jamaat-e-Islami Hindが、女性留保枠そのものには好意的ながらも、相対的に不利な状況に置かれているムスリムに対する措置がないことについて批判しているのも無理からぬところだ。
    指定カースト(SCs)、指定部族(STs)に対する留保と同様に、同じく社会底辺の広範な部分を構成する自分たちのコミュニティへ同様の措置を長らく求めてきたムスリムの視点からすると、その要求を飛び越えて女性枠が導入される雲行きであることについては、不満が残ることは心情的に理解できる。
    ところで、この『女性枠』というアイデアについては、唐突に出てきたものでは決してなく、かなり前からそういう議論はあった。もっとローカルな自治制度パンチャーヤトでは1993年以降、三分の一の女性留保枠が導入されており、こちらはその留保枠を50%に引き上げようという方向にある。
    今回の女性枠に関する一連の動きには非常に興味深いものがあり、今後ともその成り行きを見守っていきたい。

  • 月の水

    月の北極付近に相当量の水が存在することが明らかになったのだそうだ。
    Ice deposits found at Moon’s pole (BBC NEWS)
    昨年8月下旬に通信が途絶したことによりミッションが終了しているインド初の月探査機チャンドラヤーン1号により得られたデータにより判明したものだという。
    人工衛星の打ち上げ数では、ライバルの中国に対してはまだ遅れをとっているものの、ドイツやイギリスと肩を並べ、宇宙開発の分野でメジャープレーヤーとして定着して久しいインドだ。今後も人類の宇宙探索の様々な方面で貢献していくことになるのだろう。
    将来利用可能な資源の探索はもちろんのこと、軍事目的での転用など、様々な実利的な目的あっての壮大な事業だが、かつて西洋人たちが東西に船舶を走らせ、欧州域外への進出を図った大航海時代が始まった時期と似たようなものかもしれない。
    いつか人類が月や火星からミネラル類を輸入したり、開発プロジェクト等のために他の星に長期滞在したりする時代がやってくるのだろうか。各国の思惑が交錯する中で、地球外の空間や土地における主権や統治の概念等は、どのようになっていくのか見当もつかない。それがゆえに有力な国々が競って宇宙への進出を画策しているのだろう。
    軍事、ロケットといえば、インドのミサイル、アグニ3は、射程距離1,500〜3500 kmの同国で文字通り第三世代の中距離弾道ミサイルで、アッサム州内から発射した場合、北京や上海も射程距離に入るようになっている。
    前世代のアグニ2は飛行距離800から2000 kmで、スィッキム北部の軍事施設からなんとか四川省の成都あたりには届くといった程度であったのに比べて飛躍的な進歩である。
    次世代アグニ5は,(なぜ『4』をスキップして『5』になる。おそらくそれまでの中距離弾道ミサイルから本格的な大陸弾道ミサイルへと進化し、別格のものとなるからであろう)では、航続距離を5000 kmまで大幅に伸ばし、インドのどこからでも中国のほぼ全土が射程圏内に収まるようになる。
    宇宙開発は、国の将来への投資であるといえるし、そうした先端技術を持つことが、国力自体を増進させるという効果もあるのだろう。またミサイルについても、現にパーキスターン、中国という核を保有する国々と長年緊張関係にあり、国防上のバランスを取っていく必要性を否定できないだろう。
    しかし宇宙開発も軍拡も、これらの事業を行なうことにより、どれほどの予算が費やされているのかということを思えば、ちょっと複雑な気持ちになる。
    昨今、経済発展が好調なインドとはいえ、そこはスタート地点があまりに低かったがゆえに、動き出せば伸びしろが大きいということに他ならず、今でも決して裕福で社会的に余裕のある国ではない。
    巨大な予算をつぎ込んで、先端技術を駆使した開発が華々しくなされているいっぽう、世界最大の貧困人口を抱えているこの国では、生活環境等改善のため、こうしている今にも適切な投資を必要としている人々が大勢いる。
    その配分をどうするのか決めるのは、言うまでもなく政治の役割だ。一足飛びに生活大国へ・・・というのは無理にしても、先端技術で華やかな成果を謳いあげるのと同じくらい、社会のボトム部分の底上げを実現できる日が来ることを願いたい。

  • アライヴァル・ヴィザと2ヵ月ルール

    年末年始あたりから話題になっており、『これでインディア』のアルカカットさんの記事『インドも遂にアライバル・ヴィザ導入か』でも詳しく取り上げられていたとおり、1月から観光客に対するアライヴァル・ビザの運用が始まっている。公式には1年という期限付きの試行運用で、対象となるのは日本、シンガポール、ニュージーランド、フィンランド、ルクセンブルグの5ヵ国の国籍を持つ人々。
    一部のメディアによると、現在5つの国籍保持者のみが対象となっているこの試みを18か国にまで広げようという動きもあるようだ。実現すれば、欧州諸国を中心とするインドを観光で訪れる人々のマジョリティを占める国々はこの範疇に含まれることだろう。
    主要国のインド在外公館でのヴィザ申請・受渡等を民間会社が請け負う形になったことに続く大きな変化といえる。おそらく大使館・領事館での事務負担の軽減と行政サーヴィスの民間委託という昨今の流れに沿ったものであろう。今のところ『試行』とはいえ、格段の問題が生じなければ、アライヴァル・ヴィザの制度は、対象国を拡大して定着するものと思われる。
    アライヴァル・ヴィザで許可される滞在期間は1ヵ月。従来の観光ヴィザの滞在有効期間が6ヵ月であったものに比べて短いとはいえ、事前にヴィザ取得する必要がないことから、短い滞在の人たちにとっては、わざわざ大使館/領事館に出向く手間が省けるメリットはある。
    相互免除の協定を結んでいない国家間であっても、たとえばASEANを例に取れば、タイやマレーシアのように、観光業振興の目的で、特定の国籍の人々に対しては、一定期間内の観光目的の訪問については、査証の取得を免除している。あるいはラオスやカンボジアのように、査証免除がなされていなくても、到着時に取得が可能という国は多い。アライバル・ヴィザの導入自体については、インドもようやくそうした時流に乗りつつあるという点で評価できるだろう。
    だが、手放しで歓迎できない部分もある。まずは入国地点が限られることだ。料金は60米ドルと、通常の観光ヴィザよりかなり割高になっていることはさておき、デリー、ムンバイー、コールカーター、チェンナイの国際空港からの入国の場合のみ適用され、他の国際空港は今のところ含まれていない。また陸路の出入国については対象外のようだ。
    また、この手段を利用する機会が制限されている点も問題だ。年に最大2回まで、前回の出国から2ヵ月以上の期間を空けるという条件がある。参考までに、下記ウェブサイトをご参照願いたい。
    Tourist Visa -on –Arrival(在日インド大使館)
    Instructions For Foreigners Coming To India (インド内務省出入国管理局)
    アライヴァル・ヴィザはともかく、従来の観光ヴィザについても従前にはなかった措置が取られるようになった。マルチプル・エントリーを取得していても、一旦出国すると基本的に2ヵ月経過しないと、次の入国が認められなくなってしまっている。つまり6ヵ月のマルチプルで取得しても、実質最大3回までの入国しかできないことになる。
    それでは取得したヴィザをVOIDして再取得すれば、直近の出国から2ヵ月経たないうちに入国できるかといえば、基本的にヴィザ再申請は出国後2ヶ月経てから、ということになっている。
    ただし査証取得前に周辺国等も合わせて訪れることがはっきり予定されていれば、インドの取得時に旅程表や航空券の予約記録等も提出することにより、インドから隣国へ出て半月後にインドに戻る、といったことも可能なようではある。
    またすでにインドに滞在中であれば、必要書類等を提出したうえで、外国人登録局の判断により、再入国の許可を得ることができるようことにはなっているようだ。またインドの在外公館にもそうした権限が与えられている。
    例えばインドを出てバーングラーデーシュのダーカーに行き、1週間滞在してからインドの西ベンガル州に戻りたいといった場合、在ダッカのインドの高等弁務官事務所(大使館に相当)にて、相応の手続きにより申請者の再入国を認める措置を取ることができるようにはなっている。
    しかし、あくまでも該当事務所なり公館なりが判断を任されているとのことで、タイミング、担当者の判断、上役の考え方、申請者自身の運などによって左右されることが往々にしてあることと思われる。
    アライヴィル・ヴィザの導入、つまり問題が生じていない国々の人たちに対する査証審査手続きの簡略化の背後には、行政のスリム化への志向と観光業振興というふたつの目的によるものであろう。
    しかし時を同じくして導入された2ヵ月ルールについては、しばらくメディアを騒がせてきたヘッドレーとラーナーという、ともにパーキスターン系でそれぞれアメリカ、カナダ国籍の男たちが、インドで起きた数々のテロ事件を裏で操っていたとされることが明るみに出た事例等により、外国人たちの出入国・在留管理をより厳しくしようという狙いがある。
    もともとパースターン、バーングラーデーシュ国籍の人々について、とりわけ前者に対しては、たとえ親族訪問や観光目的であったとしても、他国籍の人々に較べてずいぶん厳しい審査がなされていたし、入国してからも滞在先を移るたびに警察署への出頭と報告が義務付けられていた。もちろん当人たちがそれを几帳面に行なうかどうかは別の話で、一旦インドに入国後に行方がわからなくなっているケースは相当数に上る。
    従前より、インドヴィザ申請書類には、『以前、他の国籍を持っていたか?それはどこの国籍か?』を問う項目があったが、現在では別紙により申請者の両親の出自(国籍)等を記入させるところもあるようだ。たとえば日本生まれの日本人であっても、たとえば父親がパーキスターンの出身である場合、何がしかの不利益を蒙る可能性があるかもしれない。
    ともあれ『緩和』と『厳格化』という、ふたつの相反する要求を踏まえて、取り急ぎ見つけた着地点が、『アライヴァル・ヴィザ』と『2ヵ月ルール』をセットで打ち出すことであったようだ。
    だがこれらは現行の規則に付け焼刃で無理のある細則が付加されたかのようで、実際の人々の行き来や社会的な要請に対していくつもの矛盾をはらんでいる。今後、インドの査証システムについては、包括的な見直しがなされる前の過渡期的な状態にあるのではないかと私は考えている。
    そもそも外国人の出入国・在留管理を根本から見直す必要が出てきているため、多くの人々にとって納得できるものが早期に打ち出されることはないだろう。
    やや古いもの(12月下旬と1月下旬)ではあるが、2ヵ月ルールによる混乱・困惑を伝えるBBCの記事を挙げておく。
    India visa move brings complaints
    India visa changes strangle business
    アライヴァル・ヴィザ、2ヵ月ルールともに、今後どうなっていくのか注目していきたいが、そもそも後者の導入の原因となっている隣国ないしはそれと深い縁を持つテロリストあるいは黒幕たちの動向についても気がかりなものがある。
    すでに様々なメディアで伝えられている『テロの国産化』の動きだ。パーキスターンを拠点とするテロ組織がメンバーをインドに浸透させての活動について、外交上の支障に加えて、インド以外の第三国からの圧力や干渉を招きかねないこともあり、SIMI (Students Islamic Movement of India)やこれと深い関わりを持つIM (Indian Mujahideen)といったインドの『地場組織』を活用する試み、彼らを自国に招いての工作・テロ活動の訓練の事例についても、よく伝えられているところだ。
    もちろんメディアの報じる過激な内容には、かなりマユツバなものも含まれているため、そのまま全てを盲信するのはどうかとも思う。しかしパーキスターンの三軍統合情報局ISIによるテロ組織とのその活動への関与はともかく、同国政府自体が不安定な状態が続いており、同国内でも地域的に当事者能力を欠いていることも、また違った次元での懸念材料だ。

  • BHUJ 4

    この日、オートリクシャーで手工芸の村めぐりをする。一番遠い村は50キロ離れているため、往復で100キロほどになる。
    織物の村であるブジョーリー(भुजोडी)に行き、次に染物とチャパーイー(ブロック・プリンティング)のアジラク(अजरख्,)、そして 刺繍が盛んなダナンティ( धनंति)、アジラクと同じく染物とチャパーイーのダマンカー(धमंका)を訪れることにした。
    最初に訪れたブジョーリーでは、冬には夏のために綿布、夏には冬のために毛の織物を作っているという。作業場で織物の仕事をしばらく見物してから、これを経営するヒンドゥーの家族の住む敷地に移る。ちょっとしたショールームがしつらえてあり、ショールその他の完成品が山と積まれていた。ちょっと買ってみたいものもあるとしても、あまりゴリ押しされると興醒めであるが、後で訪れた村も含めて、どこも特にそういうことはないのは良かった。
    機織り
    作業場のオーナー
    オーナーの孫娘 愛嬌のある女の子だった
    次にアジラクへ。ここは染物とブロックプリンティングの村である。これらの作業は別々に行なわれるのではなく、一連の工程で両方を行なうことにより、製品が出来上がっていく。
    ブロックプリンティングの作業中
    訪れたところはムスリムの経営者の息子スフィヤーンという男性が留守番をしていた。あごひげを蓄えているが、まだ20代前半だろう。カトリーのコミュニティの人らしいが、彼の家はもともと現在パーキスターンになっているスィンドから移住しており、彼ですでに五代目になっているのだとか。
    ここではすべて植物性の染料と錆びた鉄などが使われるのだそうだ。インディゴの草とはどんなものか知らなかったが、これまで私はただの雑草だと思っていたものがそれであった。
    その次に訪れたのはダナンティ。ここは刺繍の村であり、女性たちがチクチクと細かい仕事を続けている。毎日8時間作業をしているのだという。技が非常細かいだけではなく、まったく同じ形を正確にいくつも作る器用さに感心した。この仕事をする女性たちは、たいてい10歳くらいから始めるとのことだ。
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    慣れてしまうと退屈な仕事ではないかと思うが、村のアヒールというコミュニティの女性たちが集団で行なっており、気の合う同士で肩を並べておしゃべりに興じながら進めていくので、まあ気は紛れるのだろう。デザインは、クジャクや象などの動物の柄に加えて、幾何学模様にもいろんなパターンがあるようだ。
    気の合う同士でおしゃべりしながら作業が進行
    この村から最後に訪れるダマンカーまでの道のりで事故現場に遭遇した。トラックと白い小型乗用車が正面衝突している。乗用車は大破していた。乗用車は反対車線にあったので、おそらく追い越しをしようとして前方から来たトラックに衝突することになったのだろう。何人乗っていたのかわからないが、少なくともそのクルマの中にいた人が無事であるとは思えない。
    私たちが今こうして進んでいるところまでは、そのクルマは普通に走っていて、ほんの少し先で悲惨な運命が待ち受けているとは思いもよらなかったに違いない。まさに一寸先は闇である。それでも、人々が皆もう少し丁寧に操縦すれば、こういう事故は大きく減るのにと残念に思う。
    最後に訪れたダマンティでは、昨日大雨が降ったため、この日は作業中止だという。ここもブロックプリンティング、つまりチャパーイーの村だが、訪れた先はムスリムで、行なわれている作業と製品もアジラクと同じだ。2001年の大地震で壊滅の後に、相当数の人たちがアジラクからダマンティに移ったためだという。
    ここではちょっと面白い布を見た。生地の表側が絹で裏側が綿になっている。どうしてそんな作りになっているかというと、かつてカッチのある地域を領地としていたムスリムの支配者が所望したのが始まりだという。作業場の主によると、イスラームでは、ある解釈によれば男性が絹をまとうことをよしとしないのだという。それで裏側を綿にして、身体には直接触れないようにするという画期的な発明(?)であったとのこと。肌に触れないからといって、それで本当に『絹の衣類を着ていない』ことになるのかどうか知らないが、まるで一休さんの頓知話みたいである。
    作業場のショールーム兼倉庫
    今回は訪れなかったが、カッチ地方には、乾燥地もあれば、湿地もある。砂漠の村の生活もあれば、古来よりガルフ方面への海路の出口として栄えたマンドヴィーのような港町もあるなど、大きな変化と豊かな広がりがある。もっと時間を取ってじっくり訪問してみたいところだ。Rann of Kutch(カッチ湿原)に面し、国境近くに位置するカッチ地方は、今となってはインドの西の果てであるが、かつては『同じ国内の一続きの世界』であったパーキスターンのスィンド州でも、今のインドよりも30分遅れで同じ時が流れている。
    カッチ地方を経由しての隣国との行き来はないため、今やこの地方は袋小路の行き止まりのようになっているが、交通の不便なカッチ湿原を手前にして交易等の盛んなオアシスのようなところであったがゆえ、人々が東西に往来する交差点となり、富が集積されるとともに、独自の個性豊かな文化を育むことになったのだろう。

  • FIH World Cup 2010

    先週日曜日から、デリーではホッケーのワールドカップが始まっている。インドにおける開催は、1982年のムンバイーに続く2度目である。
    スティックでボールを扱うが、フィールドの形状、プレーヤーは11人ずつであること、相手のゴールにボールを入れることにより得点されることなど、試合展開にはサッカーと共通するものがある。
    オフサイドは廃止されていること、ゴール前の半円状のエリアからのシュートでないと得点できないこと、交代した選手が再びフィールドに戻ることができることなどといったルールを押さえておけば、ボールコントロールの技術的にはまったく違うものであるとはいえ、サッカー好きな人ならば思い切り感情移入して観戦できる競技である。
    日本ではマイナーなスポーツだが、サッカーの世界で言えばブラジルやドイツに相当する地位にある。パーキスターンは優勝4回、準優勝2回、インドは優勝・準優勝ともに1回ずつ、他にはオランダが優勝3回、準優勝2回、ドイツは優勝2回、準優勝1回といった具合だ。オーストラリア、スペイン、韓国なども強豪の一角を占めている。
    出場国は12カ国。これまでの試合結果、今後の予定等はこちらを参照願いたい。
    Schedule & Result (FIH World Cup 2010)
    『Pool』のA,Bが総当りのグループ分けで、それぞれの上位2チームずつが決勝トーナメントに進出する。
    大会初日にインドはパーキスターンに対して1-4で幸先の良い勝利を収めたが、因縁のカードにふさわしく(?)トラブルがらみのスタートであった。
    Reduced ban not justice, I was punished for no fault: Shivendra (Hindustan Times)
    3月2日のちょうどこれを書いている今、もうじきインドとオーストラリアの対戦が始まろうかというタイミングだ。
    4日にはスペイン、6日にはイングランド、8日には南アフリカとの対戦が予定されている。もちろん個人的にはもっとも関心があるのは、開催国でもあるインドが決勝トーナメントに進むことができるか、そこでどこまで勝ち進むことができるかということだが、同時に格上のパーキスターン、そして東アジアの雄、韓国の動向も大いに気になっている。
    ※BHUJ 3の続きは後日掲載します。

  • BHUJ 3

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    この日は最初に訪れたシャーラド・バグ・パレスは、アーイーナー・メヘルから見て、ハミサール・レイクの反対側にある。ここには1991年に手放すまで、ラージャーの家族が暮らしていたとのことだ。ゆえに最近のガラスのテーブルやソファなど、今の時代のリビングに普通に見られるような家具もある。
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    モダンな室内
    それでも、昔の家具、シャンデリア、振子式時計、クローゼットの類などは、欧州から取り寄せたもので風格がある。野生動物たちの剥製もある。もっとも大きなトラの剥製は、カッチでの狩猟後にわざわざマイソールに送って作らせたものだというだけに、非常に出来が良い。経年により色褪せる前には、本当に生きているかのような感じであったのではないかと思う。 獲物を仕留めた後、横たわるトラとともに撮影した写真もある。他の多くの領主たちと同様、インド独立前の時代のラージャーたちは狩猟が趣味であったようだ。
    ここの裏手に住んでいるという学芸員氏によると、2001年の大地震の際には、特に旧市街の建て込んでいる場所では建物の倒壊や崩落が多く、被害が甚大であったという。人口13万でしかない街で、2万人余りの死者が出たということは大変なことである。
    当時、このパレス自体にも大きな被害が出たため、復興するのは大変だったということだ。現在、博物館となっている建物のすぐ横にはねもっと大きく堂々とした洋館がある。展示されている昔の写真と見比べてみるとよくわかるのだが、建物の上部が崩落してしまっている。また背後に回るとかなり広範囲に渡って崩落してしまっている。
    建物上部が崩壊している
    震災前の姿
    その後、街の南にある池の反対側にあるチャトリ群に向かう。オートの運転手は『すべて壊れているから行っても仕方ないよ』と言うが、確かに着いてみると、いくつかは修復の手が入っているものの、あまりに無残な光景であった。震災から10年近く経った今も、その破壊のエネルギーの凄まじさを見せつけているかのようだ。
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    ただし一部では相当力のこもった修復作業が行なわれたようで、完璧に新築(?)されているところもあった。見た目がやたらとピカピカなので、周囲に馴染むまでかなり時間がかかりそうだ。
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    その後、バーラティーヤ・サンスクリティ・ダルシャンへ。『バーラティーヤ・サンスクリティ(インド文化)』とあるが、実際にはグジャラート州、とりわけカッチ地方の郷土博物館である。著名人、生活文化、手工業その他に関する様々な展示が屋内外でなされている。コンセプトの自体は悪くないのだが、ちょっと展示品が少ないこと、各種解説がグジャラーティのみで書かれており、ヒンディーまたは英語による表示がないのは、州外から訪れる人も多いはずなのだが、いかがなものか?

  • BHUJ 2

    プラモード・ジェーティー氏は、ずいぶん前からアーイーナー・メヘルの中に観光案内所のデスクを構えている。氏はこのメヘルの中の博物館の学芸員という立場も兼ねているのだが、今も健在であった。
    彼はプライベートなツアー・オペレーターであり、彼自身がベテランのガイドでもある。メヘルの近所に暮らすこの人物は、モダンなゲストハウスも経営するやり手の商売人ではあるが、この地域の歴史や民俗に詳しく、文化人といった雰囲気も漂わせている。
    彼が作製したカッチ地方の地図も無料で配布している。なかなか良く出来ており、カッチ地方の位置関係や距離が一目でわかるようになっている。また宿泊可能な町、村、警察の許可が必要な町も記されている。カッチ地方やその周辺では、パーキスターン国境に近いため、訪問するためには警察の許可(・・・といっても無料だし、すぐに取得できる)が必要なところが多い。背面はブジの地図になっている。
    カッチ地方のガイドブック
    彼が執筆したカッチ地方のガイドブックもここで販売している。カッチ地方の歴史、小さな町や村なども含めた各地の見どころ、各部族の紹介、地域文化手工芸品などが簡潔にまとめられた100ページほどの冊子だが、手っ取り早くこの地域について俯瞰するのに役立つ資料である。
    ページをめくっていると、ブジから40キロほど離れたアンジャールの町についての記述にちょっと気になることが書かれている。先の震災で特に被害がひどかった地域のひとつであるが、これまで幾度も大地震に見舞われていることが書かれている。19世紀以降でも、1844年, 1845年, 1874年, 1941年, 1956年、そしてしばらく間が空いて2001年の大地震が襲ってきたのだ。カッチ地方は昔から地震の多発地帯であるらしい。
    歴史的にはそれほど頻繁に震災を繰り返している割には、直近の震災以前のことについてはあまり伝えられていないようだ。それ以前の震災からずいぶん時間の経過があり、これらの記憶が風化していること、あまり記録が残っていないことが最大の理由だろう。特に19世紀のものともなると、ほとんど風聞や伝説のようなものであり、今となっては当時の被害状況について正確な数字を知ることは不可能だ。
    もちろん、地域の人口が増えており、それに比例して被害者も多くなる。また建物が高層化しているため、昔よりも被害が大きくなりやすいということもあるため、やはり最近の震災のほうが被災状況はより大きなものとなったに違いない。
    夕方、宿泊先のホテル内のレストランでHakka Noodleを注文。およそ中華料理メニューのあるところならば、どこにでもある定番アイテムだ。Hakkaという名前が付いているのは、インド中華の本場であるカルカッタに客家人が多いということ、中華コミュニティの中で彼らがマジョリティを占めているためだろう。だがインドでは、Hakka Noodlesをどう定義しているのだろうか。ときどき食べているが、Chowmeinとどう違うのかよくわからない。

  • BHUJ 1

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    久しぶりにカッチ地方のブジの町を訪れてみた。街のたたずまいはもちろん、周囲には伝統的な暮らしが残っており、様々な部族の人たちが独自のライフスタイルや生業を維持しているカラフルな地域だ。
    2001年のリパブリック・デイ(1月26日)の日の午前8時46分に大地震が襲ったことにより、当時人口13万超のこの街で2万人もの死者。9割の家屋が破壊されたという。 この地震の前に幾度か訪れたことがあるが、その後どうなっているのかちょっと気になってきた。 昨年11月に『過去のイメージ』 で取り上げてみたとおり、衛星写真においても大地震の爪跡の凄まじさと復興の進展が感じられる。
    しかしながら私自身はそこを観光で幾度か訪れた程度であり、ブジに居住したこともなければ、現地の方で親密な付き合いをしている人物があるわけでもないため、この街が復興したとか、9年後の今もその痕跡が、などということを言うつもりもない。それでも当時伝えられた被害があまりに大きかっただけに、ついついその部分に関心を持たずにはいられない。
    ただ、カッチ地方の中心地としてそれなりに栄えていた町が、どうなっているのか関心があり、近くに行く機会があればぜひ立ち寄っておきたかった。
    そんなわけで、この町にやってきて、とりあえず宿に荷物を置いて歩いてみる。10年ひと昔というが、すでにそれに近い年月が経過しているため、現在もガレキや廃墟と化した建物が、そこここに残っているわけではないことにはホッとした。
    たとえ大きな震災で甚大な被害を受けたとはいえ、カッチ地方の経済の要衝であるという重要度には変わりがないため、それなりに元通りになっていくのは当然のことだろう。
    一見、何も変わらないように感じられるのは、災害があってからそれなりの時間が経過しているため復興していること、建て替えられた建築物がある程度の時間の経過により相応に風化していることなどが理由だろう。住宅、店舗、道路等々、どれも地権者が決まっているため、基本的には元とまったく違った町並みが出現するはずはないのである。
    もちろん例外もある。旧市街からバススタンドに向かう道すがら、以前はかなり密度の高い地域であったところが、すべて高層住宅、日本でいうところの『マンション』のような建物に変わっていた。震災と関係があるのかどうかわからないが、多分に廃墟と化した際に、これをビジネスのチャンスと見た開発業者が乗り込んできて用地をまとめて取得したと考えるのが妥当だろう。
    アーイーナー・メヘル こちら側は修復してあるが背後はひどく崩壊したままであった。
    プラーグ・メヘル
    当時から存在しており、幾度か食事のために立ち寄ったことがあるホテルに今回滞在したが、これはすっかり建て替えられていること、震災一年前に利用したホテルがあったところは空き地となっていることに気がついた。
    アーイーナー・メヘル裏手はひどく崩壊したままで、その手前にあるプラーグ・メヘルの一部も破損のため一部にしか入ることができなくなっている。またその両方を含む敷地の外壁がかなり大きく壊れたまま放置されている。
    町の南側には、90年代に次々に建てられた高層のコンドミニアムが何棟もあったのだが、それらの姿は無くなり、より背の低いビルが建ち並んでいる。 旧市街にある屋根の付いた立派なマーケットもかなり損壊の痕が認められる。
    その近くに、以前幾度か訪れたときによく立ち寄ったり買い物をしてみたりした衣類の店がある。女性店主は都会的なセンスのある人で、なかなか気の利いたモノを売っているのは今も変わらず。アーイーナー・メヘル付近というロケーションもあり、出入りするお客はヨソから訪れたインド人や外国人が大半といった具合。今も同じように営業しているのがうれしい。みやげにしようと、子供用の衣類を購入してから『ずいぶん前にも幾度かお邪魔しましたよ。そのときもお会いしているはずです』と声をかけた。
    店主が微笑みながらの『いつ来ました?』と問う。『だいぶ前のことで、2000年でした』と答える。一瞬の間を置いて彼女は『私じゃ・・・ないわね』と顔を曇らせた。そのころは身内の方が店に出ていたそうだが、震災で亡くなったためその人よりも年嵩の彼女が引き継ぐことになったようだ。うっかり余計なことを言ってしまって申し訳ない。
    歴史的な建物以外はそうそう記憶しているものではないものの、場所にもよるかと思うが、大半の建物が倒壊ないしは大きく破損していたであろうことを思えば、さすがに10年近くの歳月があれば復興していて当然とはいえ、その背後には人々の沢山の苦労があるのだろう。災害以前と見た目は同じように見えるのは上っ面だけで、その中身はずいぶん違っているのではないだろうか。地震大国日本の人間としても震災は他人事ではない。
    屋根付きのマーケットもかなりダメージが見られる
    2001年の大地震において、地元のライフラインに与えたダメージに関連して、以下の資料が公開されている。
    GUJARAT (KUTCH) INDIA EARTHQUAKE OF JANUARY 26,2001 (Edited by John M. Eidinger)
    本日の夕食は、グジャラーティー・ターリー。州内各地で専門店は数多い。どこもおかずのバラエティに富み、店ごとに様々な個性がある。極めて満足感(満腹感?)の高い食事ではあるが、様々な甘い菓子も次々に出てくるのはまだいいとして、チャパーティーやプーリー等の小麦から成る主食ではなく、ご飯を頼んでしまうと『これでシメです』の合図になってしまうようであるのは、米食民族にはちょっと悲しい。
    グジャラーティー・ターリー

  • 意外に楽しいiPhoneのカメラ

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    日常で、そして旅行先で良さそうなカメラについて、幾度か取り上げてみたが、ここしばらくこの類のものについて触れていなかった。昨年10月に『ペンタックスK-xでティランガー(三色旗)風カメラを』を書いて以来である。
    いろいろと良さそうなものが出てきており、それなりに関心を抱き続けてはいる。既存のモデルのモデルチェンジにより、いろいろと魅力的なカメラが世の出てきているものの、これまでまったくなかった『オンリー・ワン』な性格を持つものはあまり見当たらない。
    例外としては、リコーのGXRがある。ユニット交換式という面白い機構に興味をそそられる。しかしコンパクトカメラとしてはそう小型軽量というわけではないし、交換式というならば一眼タイプのほうがレンズのバリエーションをはじめとして拡張性では比較にならない。
    特にマイクロフォーサーズ規格のものは、オリンパスやパナソニックの最新モデルはパンケーキレンズ装着時には、昔のコンパクトカメラ並みに小さくまとまっており、カバンの中に入れて常時携帯するのは一向に苦にならないだろう。一眼が『高級コンパクトデジカメ化』したものといえるため、今敢えてハイエンドな高級コンパクトデジカメを求める理由はあまりなくなってしまったように感じている。
    カメラといえば、文字通り常時携帯するケイタイのカメラ機能で、もうちょっと実用的なものはないものかと思っていたが、iPhone 3GSに内蔵されている『カメラ』がなかなかスグレものであることに、遅ればせながら気がついた。
    もちろんiPhone は、基本的に電話とインターネット接続等を兼ねた総合的なコミュニケーシヨン等のツールであり、カメラ機能は二の次、三の次以下のオマケ機能に過ぎない。そのため『インドでどうだろうか、このカメラ?』として取り上げるのにはちょっと抵抗があるのだが、実のところ、ちょっとあなどれないものがあるため、敢えてここに記してみることにした。
    ただし撮影機能自体に過大な期待はできない。『撮影機材』と呼ぶには、何も付いていない。露出補正はできないし、ホワイトバランスもオートのみであるなど、単体のデジカメではあり得ないシンプルさだ。絞りは開放のみで、シャッタースピードのみがオートが変化してそれでいてなかなか堅実な『カメラ』である。
    ・・・というのは、昼間の順光下ならば素直な写りが得られること、画角は35mmフィルム換算で36mm程度であること、AFの動作がなかなか良好で、フォーカスを合わせる位置をタップして指定できることなどがある。シャッターのアイコンから指を離した瞬間にシャッターが切れるため、撮影条件が悪くても、結果的に手ブレしにくいのも良い。
    有効画素数が300万画素で解像度は高くないこと、レンズもそれなりのものであることから、あまり精緻なものを思い描くわけにはいかないが、写り自体は他の携帯電話よりもかなりいい線をいっている。いつでもどこでも『常時ポケットに収まっているカメラ』という手軽さと考え合わせれば、充分以上に実用的だ。
    加えて、iPhoneにインストールした各種アプリケーションで色々加工できるということも、対象物を写し取る機能と同じくらい魅力的だ。同様にビデオ機能もなかなかのもので、縦長でも撮影可能な『ビデオカメラ』というのは聞いたことがない。シンプルな割には意外にまともに写る。足りない分を補うアプリケーション類が豊富なため、やたらとフットワークが軽く、予想以上に使えるカメラとなっているのだ。
    そんなわけで、iPhoneの『カメラ』で撮影した画像、他のカメラで撮った画像をiPhoneのアプリケーションで加工したものなどをいくつか掲載してみる。
    iPhoneで撮影。まあまあ使えそうだ。
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    iPhoneのアプリケーションTiltShift Generatorを起動して、アオリを加えて撮影してみた。
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    以下、他のカメラで撮った画像をiPhone上でTiltShift Generatorにて加工してみる。
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    他にもフォトショップのiPhone版アプリケーションのPS Mobile, モノクローム風に仕上げるMoreMono, セルフタイマーやズーム機能などを付加したGorillacamなどといった撮影用アプリケーションがいろいろあるので、今後順次試してみたい。 このあたりに付加価値が、他のケータイのカメラ機能にはない大きな魅力、場合によっては並みのコンパクトデジカメよりも役に立つ?かもしれない部分だ。
    前述のとおり、撮影時に露出とホワイトバランスの調整ができればもっと使いやすくなるのにと思う。今後の改良と進化に期待しよう。
    だがひとつ大切なことがある。間違っても日本のソフトバンクで購入したiPhoneをインドを初めとする外国で使おうなどと考えないことだ。通話やデータ通信等、非常に高額な海外ローミング費用がかかってしまうことになり危険だ。
    そのため訪れた先のキャリアのSIMを購入して使用しなければならないのだが、日本を含めた携帯電話器の販売と利用するキャリアが固定されている国では他のキャリアで使用できないようにSIMロックがかけられている。ゆえにSIMロックを解除するか、SIMフリーのiPhoneを販売している国で購入しなくてはならない。
    iPhone を手にしてみると、これ1台で出来てしまうことがあまりに多く、携帯電話というよりも通話機能のついた携帯PCという印象を受ける。今のところ、こうした新しいタイプのものをスマートフォンと称しているが、今にこういう多機能でアプリケーションを次々に追加してカスタマイズできるケータイが主流に、というよりも標準になるのではないかと思う。
    そうした中で、オマケ的なものに過ぎない画像撮影機能であるが、分進秒歩といわれる速い進化の中で、ケータイで充分間に合うからコンパクトデジカメは要らない、という時代がやってくるのではないかという予感がする。
    携帯電話に付随するオマケ機能が、それまで親しんだ専用の道具を脇に押しやってしまった例といえば腕時計が挙げられる。リストウォッチをしている人がずいぶん減っていることに気がついている人は多いだろう。私自身もいつの間にか、まったく使わなくなっている。
    腕時計代わりに携帯電話を買う人はいないのと同じように、カメラ機能が目的でiPhoneを購入する人はいないだろう。だがひとたびこれを手にしてみると『案外使える!』と撮影すること自体がけっこう楽しめるのである。
    そんなわけで『インドでどうだろう、このカメラ?』の一台として、今回はiPhoneに内蔵されているカメラ機能を推してみたいと思う。