
ヴァーピー駅からオートで走っている最中、こちらグジャラート州側と連邦直轄地ダマンの境目はどのあたりかと思っていると、街並みがまばらになってきたあたりでゲートが見えた。
こちらからダマンに入る際には特に車両を停めてチェックしたりということはないが、あちらからグジャラートに入る際には、形式的ではあるが停車させられて警官が中を覗き込んだり、何か質問したりしているようであった。おそらく気が向いたら荷物を調べたりもするのだろう。
ヴァーピーのオートリクシャーは、ダマンまで直行することができるが、反対にダマンから来る際、ダマンを地元とするオートの場合は走行できるのは、このゲートの手前までで後はヴァーピーの車両に乗り換えなくてはならないようだ。ヴァーピーのオートはCNGエンジンが義務付けられているが、ダマンでは今もガソリンエンジンであることから、州境を越えて乗り入れることは許可されていないとのこと。
マハーラーシュトラ州境近くのダマン、そしてグジャラート州のサウラーシュトラ南端に位置するディーウと、地理的には離れていながらも、連邦直轄地のダマン&ディーウというひとつの行政区を構成しているため、今なお禁酒となっているグジャラート州から来ると、それまでグジャラーティー語の洪水であった街中の看板に、連邦の公用語であるヒンディー語で書かれたものが多く混じってくる。特に役所や公の機関などでは当然のごとく後者で書かれていることに加えて、境の向こうではご法度であった酒類を扱う店、つまり酒屋やバーが多いことなど、視覚的にずいぶん違うものがある。
グジャラートに住んでいても、境目あたりに家があったりすると、夕方ちょっと『向こう側』で一杯ひっかけてから帰宅する、なんて人もけっこうあるのではないかと思う。州境に住んでいると、自宅に持ち帰るのはリスクがあるかと思うが、実質のところ禁酒州外に暮らしているのとあまり変わらないかもしれない。中には持っている地所が両側にまたがっているなんていう幸運なケースもあるかもしれない。
これまで来た道を左に折れてまっすぐ進むと海原が見えてくる。ダマンの街はもうすぐそこだ。DD(ダマン&ディーウ)ナンバーではなく、GJ(グジャラート州)やMH(マハーラーシュトラ州)のナンバープレートを付けているクルマがとても多いが、酒屋の前に乗り付けて、店頭でウイスキー、ラムその他を品定めしていたりする姿が目に付く。彼らはダマンで宿泊しているのかもしれないが、週末などに、自家消費の目的でこっそり買い付けに来る人も少なくないのだろう。たぶん州境の検問で捕まった場合の出費はそれなりに覚悟のうえで。
そもそもゴアがそうであるように、ダマン&ディーウでも、インドの他の地域よりも酒類の種類は豊富で、値段もかなり安いので飲兵衛にはありがたい。とりわけ隣接する禁酒州グジャラートからやってくると、その魅力がどれほどのものであるかは想像に難くない。
そんなわけで、ディーウでもそうだが、ダマンでもバーや酒屋は朝から開いており、特に週末などは午前中からそれなりに繁盛していたりするようだ。だからといってダマン&ディーウの住民が、とりわけ酒飲みであるなどというわけではなく、消費の大半は地域外からやってきた人たちのものであることは間違いないだろう。
ダマンの街は、ダマン・ガンガーという河を境に、モーティー・ダマンとナーニー・ダマンに分かれている。これらはそれぞれバリー・ダマン、チョーティー・ダマンとも呼ばれている。
商業地区は密度の高いナーニー・ダマンであり、モーティー・ダマンは城壁に囲まれたエリアが主に行政地区で、ゆったりとした街区に政府関係の建物や大きな教会が点在しており、その外には住宅地が広がっている。

ナーニー・ダマンの飲み屋の多い地域にヘリテージなホテルがある。Hotel Marinaという何の変哲もない名前だが、建物自体にその価値がある。ここはダマンのガバナーの公邸であったものだ。1861年、つまりポルトガル支配終焉のちょうど100年前に完成した建物である。マンに現存する植民地期建築には、もっと規模の大きなものが沢山ある。そうと言われなければ『あ、ちょっと立派な感じの屋敷があるな』とそのまま通り過ぎてしまうかもしれない。
由緒ある建物で、きれいにメンテナンスされている割には、同ホテルのウェブサイトに示されている宿泊料金を見てわかるとおり、ヘリテージ・ホテルとしては格安だ。私が訪れた際には満室で泊まることができなかったが、エントランス、レストラン、ホテル内の廊下などにはやはり歴史の重みを感じさせるものがあり、他のもっと高いホテルよりも魅力的に感じる。
レセプションの背後に、いくつかのテーブルが並べてあり、ビールや食事を頼むことができる。開け放たれたドアのすぐ正面にはダマン警察本部があり、ヒマそうで緊張感はないが、それなりに関係者その他の出入りはある。
ボーイに『ビールもう一本!』と頼む私のすぐ目の前に立ち番の警官。目と鼻の先の禁酒州グジャラートでは非合法となっている酒の密輸にまつわる記事が、毎日新聞紙上に出ていることを思うと、ちょっとヘンな気がするものの、なんだかホッとする。

〈続く〉
カテゴリー: column
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ダマンへ 2
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ダマンへ 1

グジャラート州最大の都市アーメダーバードから列車で6時間ほどのヴァーピー駅で降りた。ここが連邦直轄地ダマン&ディーウを構成するダマンへの最寄り駅である。1987年にゴアがひとつの州として分離する前までは、『ゴア、ダマン&ディーウ』というひとつの行政区分になっていた。
ゴアからダマンまで直線距離で600キロ、ダマンからディーウまでは同じく200キロと、かなり距離が離れた飛び地状態であるが、これらはご存知のとおり1961年12月19日にインドが敢行した『オペレーション・ヴィジャイ』という国土奪還の総攻撃を仕掛けるまで四世紀半に渡りポルトガル領であったがゆえのことである。この軍事作戦は、すでに弱体化していたとはいえ、わずか36時間で451年に及ぶ植民地支配を続けたポルトガル当局を、圧倒的な武力で屈服させた。独立後のインド軍事史に燦然と輝く金字塔といえるだろう。イギリスから自由を勝ち取ったインドは、植民地勢力からの完全な独立のために、依然各地に残っていた外国領の自国へ回復へと動き出す。具体的には、先述のポルトガル領地域とポンディチェリー、カライカル、ヤナム、マヘーといったフランス領地域の返還である。
フランスとの間では交渉により、1954年から8年間の移行期間を経て、1962年に領土の回復を達成するのだが、旧来の領土に固執したポルトガルとの間には膠着状態が続いた。ポルトガル駆逐のための政治キャンペーンに加えて、インド本土と当時のポルトガル領との間の人やモノの往来に厳しい圧力をかけるようになる。元来交易地ではあっても食料等の基本的な生活必需品の生産地ではなかったため、様々な物資に悩まされることとなった。分離独立以来、インドと対立してきたパーキスターンが、これに関してポルトガル領ゴアに救いの手を差し伸べていたことはよく知られている。インドにとって長らく続いてきた帝国主義勢力に対する勝利であり、ゴアはこの『解放』により、祖国に復帰することになったのは間違いないが、ポルトガルが450年を越える長い歳月の間に築いてきたシステムの中で、独自のアイデンティティを形成し、社会的にも経済的にも相応の繁栄を享受してきた層にとって、これは必ずしも歓迎すべき出来事ではなく、侵略として受け止められていたとしても決して驚くに値しないだろう。

シャーム・ベーネーガル監督による映画TRIKALの舞台はポルトガル時代末期のゴア。350年続く名家ソアレス家がこの地を見限ってリスボンに移住する前夜という設定。ここで栄えた人々にとって、『ゴア解放』は決して肯定的に捉えられていたものとはいえず、彼ら自身は頼んでもいないのに大軍を擁して押しかけてきたインドにより、長く親しんできたポルトガルという後ろ盾を失い、入れ替わりにやってきたインド人という支配者たちにより、財政的な後退と発言力の低下がもたらされ、次第に凋落していった地元の上・中流層の心情を綴った名作だ。
この映画の音楽を担当したのはゴア出身のレモ・フェルナンデス。この映画のために手がけた音楽は、コンカニー語ならびにポルトガル語による伝統的なゴアのフォークソングをベースにしており、彼のリリースした曲の中でもとびきり評価の高いものが多く含まれている。以下のクリップ『Panch Vorsam』というノルタルジックな曲にて、歌声はもちろんのこと、ダンスを披露しているのもレモ・フェルナンデス自身とアリーシャー・チナイである。なお、ゴア、ダマン、ディーウ以外に、同じく元ポルトガル領で、植民地期にはダマン行政区の管轄下あったダードラー&ナガル・ハヴェーリーについては、戦闘によらない政治的な交渉により1954年にインドへの復帰を果たしており、ダマン&ディーウとは別の単一の連邦直轄地を構成している。
1987年に、ダマン、ディーウと分離してゴアは単独の州に昇格した。スィッキム、ミゾラム、アルナーチャル・プラデーシュに次いで面積にして四番目に小さな州ではあるものの、中央政府による支配から脱しての自治を得たのもさることながら、それなりにヴォリュームのある『ゴア人』人口規模を持っている点については、独自のアイデンティティを保持するには幸いであったとはいえるだろう。
よほど辺鄙で不便な地ならともかく、人口密度が高く、人の出入りの激しい地域に囲まれていれば、そこに存在していた『国境』が取り払われてしまえば、ごく狭い地域に集住していた他国の庇護下にあった人々は、かつては外国であった近隣の『その他の人々』の大海に呑み込まれてしまう。そうでなくても行政、教育、日常的な慣習等々を含めて、あらゆる面において長年親しんできたシステムが効力を失い、それまで馴染みのなかった『あちら側のやりかた』に同化しなくてはならなくなる。

たとえてみれば、これまで勤めてきた職場が、他の企業体に買収されるなり、吸収されるなりして、要はこれまで『ヨソの人たち』であった集団に主導権を握られてしまうのと似ているかもしれない。これまでの常識やフォーマリティ、仕来りや慣習が通じなくなるだけではなく、それまで主流派であったはずの人たちであっても、よほどうまく立ち回らない限り、他者に吸収されての新しい枠組みの中では隅に置かれてしまうものだ。
1535年から1961年まで426年間に渡ってポルトガル領であり、現在は連邦直轄地のDaman & Diuの行政地域にあるディーウ島にしてもそうだが、1673年から1950年までの277年間仏領になっていた西ベンガル州のチャンダルナガルについても然り。植民地時代に建てられたコロニアル建築は現在まで生き延びていても、かつての大聖堂でミサは行なわれておらず、学校や病院に転用されていたりすることもある。住民たちも他所から移ってきた人たちが大半になっていることも珍しくない。
<続く>
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Rann of Kutch 4
ザイナーバード周辺には食事できるところはどこにもないため、宿では一日三食付いている。宿泊客たちが集まってくると、彼はふんぞり返った姿勢で眼光鋭く彼らを見据えて言い放つのである。
『私が宿の主だ。皆の衆、遠路はるばる来てくれたことを歓迎する。今日は充分に楽しんだか?明日の朝と昼のサファリについても個々の希望に従って取り計るぞ。よって遠慮なく申し出るがいい』
まるで土地の支配者が客人に謁見しているかのようなムードであった。
元宮殿であったり、植民地時代の建築であったりといった、ヘリテージな建物を利用したホテルでもない限り、特に宿泊施設に感想を抱くことはないのだが、ザイナーバードで滞在した宿はなかなか面白かった。

この地方の民家風に造ってあるコテージや敷地中央にある東屋もなかなか雰囲気が良いとはいえ、特筆すべきほどではない。だがとても印象的だったのは宿の主人であるDさんである。
ちょっと演技じみているくらいに横柄かつ尊大な感じがするこの人物は、40代前半くらいだろうか。ザイナーバード周辺の領主の子孫であるとのことだが、実に映画に悪役で出てくるよう悪徳タークルみたいである。あるいは、映画SHOLAYでアムジャド・カーン演じていたところ盗賊ガッバル・スィンによく似た風貌と雰囲気の持ち主で、宿泊客に対しても、初対面では慇懃無礼な印象を受ける。
田舎の人には違いないが、なかなか洒落者でもあり、センスもなかなかのもの。昨日はチベット風の前合わせのエンジ色のガウン。翌日は、ずいぶん派手な地場製のコットンのショールをまとっていた。
粗野かつ傲慢に感じられる振る舞いから、最初は好ましい印象を受けなかったのだが、実はこちらが想像していたような人物ではないことが次第にわかってきた。威張った態度に見えるが、客たちのサファリにも同行しているし、食事やお茶の席にも必ず同席していろいろ会話を交わしており、宿泊客すべてに親しく声をかけて、意見や感想を聞き出す努力を重ねている。尊大に見えるものの、彼なりにいろいろ細やかに気を使っているのであった。
彼は父祖伝来の地であるザイナーバードに単身赴任状態なのだという。子供の教育の関係から、奥さんと息子ふたりはアーメダーバードで暮らしており、半月に一度彼らがここを訪れるためにやってくるのが一番の楽しみであるという。
彼自身は、うるさい都会での暮らしは向かないと言うが、この宿泊施設の運営以外に、もうひとつ彼がここで行なっている仕事がある。彼は近くにある孤児院アーカーシュ・ガンガーの運営者でもあるのだ。
宿泊施設に関しては、仕事をほとんど一人で切り盛りするのが彼の毎日であるようだ。食事の準備と掃除以外は、すべてDさんが取り仕切っており、客のひとりひとりに対する目配りが行き届いており、豪胆そうな見た目とは裏腹に責任感が強く、非常に几帳面な彼の性格がうかがわれる。
その反面、不便なこともある。宿で彼が少しでも不在にしていると、スタッフは何も決めることができないのだ。宿泊費(三食とサファリ付き)の料金交渉、誰がどのクルマに乗って何を見に行くサファリに行くのかといった基本的なアレンジさえも、D氏のみが扱っているため、どのスタッフも『旦那がいないと私たち何もわかりません』となってしまうのだ。
またDさん以外は英語を話すスタッフがいないということについて、西洋人たちからは不満の声を聞いた。『鳥に詳しいエキスパートのガイドが付くと聞いていたのに、 英語ができない人だったから、何を見に行ったのかわからない。私たちは鳥に関して素人だから、ちゃんと説明できる人がいないと困る』というものであった。
ゆえにDさんは、西洋人たちが乗るジープには可能な限り同乗しているようなのだが。 宿泊施設の造り、ロケーションやサファリの内容は良いのだが、Dさんがあらゆる事柄すべてを取り仕切るワンマンなシステムについては大いに考え直す必要があると思うのだ。
しかし硬派で不器用ながらも、日々一生懸命に頑張っているDさんの人柄が気に入って、バードウォッチングのために幾度もこの場所を利用しているというリピーターも少なくない。名物オヤジで客が集まるという稀有な宿泊施設になっているのが面白かった。私もまたいつかここを再訪してみたいと思う。


<完> -

Rann of Kutch 3
宿で遅い朝食、やや時間を置いてから昼食と、立て続けに二食済ませてから、午後のサファリに出発。朝は寒いからとコテージで休んでいたKさんの家族と、昼食時に到着したオーストラリア人女性と一緒にジープに乗り込む。

今回は水場ではなく、Rannそのものの荒涼とした風景と、そこに棲息するワイルド・アス(野生ロバ)ニールガーイその他の動物が主な観察対象だ。ワイルド・アスは、Indian Wild Assという種類のもので、元々はインド亜大陸西部に広く分布していたらしいが、今ではカッチ小湿原のみに棲息している。ワイルド・アスは数頭の群れで暮らしており、彼らの可愛い子供たちの姿もあった。

ジープである一定の距離まで近づくと、彼らはジリジリと遠ざかる。ニールガーイはそれよりも数は少ないが、非常に筋肉質のたくましい体つきのウシ科の動物である。ワイルド・アスの一団とニールガーイが仲良く肩を並べて草を食む光景もあり微笑ましい。

村の点在する地域を過ぎると、広大な荒地が広がっている。四方どこを見渡しても地平線が見える。これほど広大な土地が手付かずで残されている。もちろん雨季には泥沼になってしまうとはいえ、その面積があまりに広いことに驚かされる。

それにしても運転手はどうやって行き先や帰り道がわかるのだろうか。私にはどこを見渡しても、集落や町がどちらの方角にあるのか見当もつかない。見渡す限りの広大な大地。どこを眺めても地平線が360度続いている。このエリアではときおり狼を見ることもできるらしい。残念ながら私たちは遭遇できなかった。
陽は傾いてきたあたりで塩田に到着。カッチ湿原では塩作りが盛んである。ここは海ではないが、塩分を多く含む地下水を汲み上げて流し、天日で乾かしてから、また汲み上げた水を流すとやがて塩が出来上がる。

日没の時間が迫ってきた。大地を真っ赤に染め上げ、大きな夕陽がユラユラと地平線の彼方に沈んでいく。私が日々慌しく生活する都市部での夕暮れ時に想うことは特に何もないが、地平線の彼方に姿を消していく太陽の有様は、まるで壮大な儀式のようで、『ああ、これでまた一日が終わった』と実感する。

しばらく大地は明るさが残っているものの、夜の闇がひたひたと迫ってきた。

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Rann of Kutch 2
朝6時半に部屋の外に出る。まだ夜が続いているかのように暗い。昨夕、食事で一緒だったKさんとジープに乗り込む。彼はベンガル人だがマハーラーシュトラのプネー育ち。留学先のアメリカで大学を卒業してから10年間ほどカリフォルニアに住んでおり、2008年までフィリップスでIT関係の仕事をしていたそうだが、不況のため仕事を失い、現在は同じIT系企業に勤めているという。毎年家族とともにインドに帰っているそうだ。ザイナーバードには奥さんと息子さんおよび奥さんの両親と訪れている。
朝方はかなり冷え込み、フリースのシャツの上にジャケットを着て出かけた。運転手は寒さで縮こまって運転している。途中で東の空からゆっくりと大きな太陽が昇ってくるのを目にしながら、私たちは池へと向かう。


ごく小さな池を想像していたものの、到着してみるとちょっとした湖とでもいうべき規模であった。ペリカンや二種類の異なるタイプのフラミンゴが無数にうごめいている。数百羽いるだろう。水場から少し離れたところには、ツルの種類の鳥の姿もある。



塩分を多く含んだ不毛の大地ではあるのだが、私たち人間にとってはあまり利用価値のない土地であり、ところどころに茂る潅木や塩気に強い類の雑草がまばらに生えているのを除き、地味豊かな大地ではあり得ないのだが、少なくともこうした鳥たちが捕食する生き物は充分に生息しているらしい。もちろんこの地域に居住する人間が極端に少ないということも、彼らの生存を保障するひとつの要因ではあるのだろう。

その他、陸地にはいろいろな珍しい鳥たちがいた。キツツキに似たもの、スズメのようなもの、ヒバリのようなもの等々が沢山見られる。せっかくいろいろな珍しい鳥たちを見ることができる機会なので、特に関心のある方には鳥類のガイドブックとして、インドの大都市で手に入れることのできる以下の書籍を携行されることをお勧めしたい。

Pocket Guide to the Birds of the INDIAN Subcontinent
著者:Richard Grimmett, Carol Inskipp, Tim Inskipp
発行:Oxford University Press
こうした野生の鳥たちを眺めながら、変なところでカラスという生き物には感心した。もちろんカッチ湿原にもカラスたちの姿はある。本来ならば自然の中で暮らす生き物のはずではあるが、鳥類の仲間の中で最も環境の変化に対する適応力に富むのは、言うまでもなく彼らである。

通常、野生の鳥たちは都市化等により、生活環境が変わってしまうと、そこに暮らしていくことができなくなる。餌となるものが見つからなくなり、住まうべき森や水場などがなくなり、巣作りをするための材料が手に入らなくなると、もはや生きていくことができないのである。
しかしカラスたちの場合は、およそどんな環境にあっても、人間たちが暮らしていける程度の場所であれば確実に適応する。どんな類の食物であっても貪欲に摂取するし、巣作りだってビニール紐であれ、スチール製のハンガーであれ、器用に利用してしまい、ビルの谷間の物陰でひっそりと、しかし立派に子育てをしてしまう。
仮に猫の平均的な知能を1.2という数値で表すとすれば、犬はおよそ1.5くらいに相当するという。しかし一般的には哺乳類よりも下等であるとされる鳥類でありながらも、カラスの場合はこれが2.0相当で、人類の友とされる『賢いペットたち』を軽く凌駕してしまうほどの高度な知能の持ち主である、ということを何かで読んだ記憶がある。
その頭の良さがゆえにカラスたちは、生活の場が大きく変化しても、機転を利かせて生き抜いていくことができるし、集団で暮らす彼ら自身の『文化』のようなものさえ持っているのだという。
例えば『道具を使う』という行為である。殻の中に入っていて、クチバシで割ることのできない木の実、あるいはプラスチックのケースの中にあって開けることのできない食べ物があったとする。それをクルマの往来のある道路に置き、通行する車両がそれを破壊してから安全なところに持ち運んでから食すという行為は普通に見られるのだという。
何かを利用して結果を得るという知恵があり、他のカラスがそうしているのを目にして、『これはいいアイデアだ』と知覚して模倣する能力があるのだそうだ。そういう賢い鳥だけに、ハタ迷惑な存在として疎ましがるだけではなく、何か有効に活用する手立てはないのだろうか。
池では、魚を取っている人たちがいた。この人たちにとって、フラミンゴのいる景色はごく日常のことである。ときおり、水牛やヤギなどの群れに草を食べさせるためにやってくる人たち、燃料となる牛糞、水牛糞を拾い集めにくる女性たちの姿がある。

どこまでも平らに広がる荒涼とした風景。あちこちに白く粉を吹いたようになっているのは塩分だ。ガチガチに大きくひび割れたところもあれば、芝生状にわずかな草が繁っている部分もある。乾季は、今目にしているようなカチカチの平原となるが、雨季には真水と海水が交じり合う汽水で満たされた湿地帯となり、盛り土の上を走る道路以外では行き来が出来なくなるのだ。目の前にしている光景からはちょっと想像もつかない。

日がすっかり昇ると、かなり暖かくなってくる。上着を脱いでちょうどよい気温になってきた。そろそろ腹も減ったので、宿に戻ることにする。 -
Rann of Kutch 1
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グジャラート州東部からパーキスターンのスィンド州のインダス河口にかけてカッチ湿原 (Rann of Kutch)と呼ばれる低地が広がっている。雨季には、雨による氾濫とともに海水が混ざり合う泥地となる。しかし乾季には乾燥した固い大地となり、ジープ等の四輪駆動車での走行が可能となるものの、塩分を多く含む大地であるがゆえに、もちろん耕作には適さず、人口密度の極端に低い地域である。
カッチ地方の行政中心地であるブジに向かう際には、鉄道であれ道路であれ、盛土した土手の上を走ることになるため、その一部を車窓越しに垣間見ることはできるものの、いつかそこを訪れてみたいと常々思っていた。地質的に稀な地域であるということもあるが、ここは野鳥の宝庫としても知られている。
Rann of Kutchは、地理的にふたつに分けられる。Google Earthで眺めると、インド・パーキスターン両国にまたがる、湾とも大地ともつかないカッチ大湿原 (Great Rann of Kutch)と、カッチ湾の入り江につながるカッチ小湿原 (Little Rann of Kutch)である。グジャラート州のカッチ地方は、このふたつの広大な湿原の存在により、長く外界と隔たれていたため、独自の文化とアイデンティティを育むこととなった。
さて、そのふたつの湿原であるが、当然のことながら足の問題がある。カッチ大湿原の地域には、雨季でも安定した陸地となっている場所には町があり、パーキスターン国境に近いそれらのエリアでは、事前に警察でパーミットを取得すれば訪問することができる地点は少なくないものの、センシティブな関係にある隣国からの侵入者が警戒される地域でもあり、どこかでクルマをチャーターして湿原を走るという具合にはなっていないようだ。
いっぽう、より内陸に位置するカッチ小湿原では、そういう制限はない。国立公園になっていることから、森林局で許可を取得すれば自前の四輪駆動車かオフロードバイクで存分に走ることができるとはいえ、私はそのどちらかを所有しているわけではない。
湿原周辺のいくつかの町では、国立公園でもあるその地域の見物を売りにする施設がいくつかあるが、その中のひとつザイナーバードという村にある宿泊施設を利用することにした。そこでは日中一杯、湿原を訪れるサファリをアレンジしているということだ。もちろんその村には特に見るべきものはなく、宿泊客の目的は100%湿原(・・・といっても乾季に一部残る池を除いては砂漠のようなものだが)見物であることは言うまでもない。
列車をヴィーランガーム駅で下車して、タクシーで1時間ほどのところにある村。駅前からごく狭い市街地を抜けると踏切でしばらく通過列車を待つ。インドの貨物列車はずいぶん長いなあ、とよく感じていたので数えてみると52両。機関車と最後尾の乗務員が搭乗する車掌車を含めると54両編成である。
道の両側には畑が続くが、栽培されている作物の大半はクミンか綿花であることから、いかにも『痩せた大地』という印象だ。
宿に着いたときにはすっかり陽は落ちて真っ暗になっていた。敷地内には、この地域の民家を模したコテージが散在している。ここで働く人が数人ヒマそうにしている他には人影がないのは、みんな夕方のサファリに出払っているからであった。薄暗い電球の灯った東屋でチャーイをすすりながら日記でも書くことにした。
やがて戻ってきた何台かの四輪駆動車から降りた人々が集まってくる。東屋の端に料理が並べられて賑やかな夕餉が始まる。西洋人のグループがひとつとファミリーで来ているインド人たちが数家族。コールカーターから来た写真家集団の姿もあった。食事で同席したアメリカのシリコンバレー在住NRIのK氏によれば、彼らはアマチュアながらもインドの写真愛好家たちの中ではよく知られた存在なのだとか。
実際には酒はいろいろ出回っているようだが、今も公にはグジャラートは禁酒州であり、こういうところでおおっぴらに飲む人はいないため、みんな食事が終わるとそそくさとコテージに戻っていく。翌日早朝からバードウォッチングに出るので、早く寝ることにする。 -
グローバル化は善なのか?
だいぶ前に『グジャラート州 酒類解禁への道』と題して、グジャラート州でアルコール解禁の動きがあることについて触れてみたが、その3年後も相変わらず禁酒州であるという事情は変わらない。
そんなわけで、他州ではバーザールに普通にある酒屋は見当たらず、私たち外国人はパーミットを得て特定のホテルで購入することはできるようにはなっている。しかしグジャラートに居住しているのならばともかく、休暇で訪れているときくらいは、大切な肝臓に休暇を取ってもらうのもいいかもしれない。
だがアルコール類は適度に供給されている軍関係者からの横流しはともかくとして、この禁酒州が絶海の孤島にあるわけではなく、普通に酒類が販売されている隣接州と地続きであることからも、闇酒事情は相変わらずらしい。
新聞を広げていると、州内各地で取り締まりの憂き目に遭い、逮捕されたうえに大事な品物を没収された人たちの関係の記事が毎日出ている。こうした記事になるのは、個人が自己消費のために持ち込むといった程度ではないので、相当大掛かりな『密輸組織』が背景にあることが覗える。
実際、クリスマスや新年といったパーティー等を開く口実の多い時期には、自宅やホテルなどで半ばおおっぴらに飲む人々が少なくないこと、そうした酒類の流通が闇に潜ってしまうことから、行政から見れば事実上『免税』に等しい状態(政税収をもたらさないという意味で)で、結果的にマフィアの収益になっていること、また外資の誘致はもちろん外国からの観光客へのアピールにも障害になる(?)という意見がある。
これに対して、保守系の新聞では、飲酒という行為は様々な犯罪の引き金になる、健康にも悪い、ガーンディーの生誕地としての誇りとともに、禁酒という我々の財産を次代に引き継ぐべきだという論調があるようだが、精神論に偏りすぎており、説得力に欠けるようだ。
ところで、外資の誘致に際しての障害としては、つい先日こんな事例があった。
Chinese engineer held for smuggling liquor in Kutch (newkerala.com)
上記で引用したのは、地元グジャラート紙系のウェブサイトではなく、ケーララ州のメディアによるものである。記事中にあるように、現地で働く中国人労働者のためのものということだ。中国人による密輸という事例よりも、むしろ同州で中国人たちによって発電所建設が進められているということ自体が、私にとっては意外な事実であった。
確かに近年のインドでは、日用雑貨や玩具類など、中国製品が大量に出回っているし、中国大陸から企業や個人などがビジネス機会を求めてやってくる例は少なくないのだが、インドでこうした大掛かりな工事等を受注した中国企業が他にもあるのか、機会があれば調べてみたいと思う。
別の中国人の酒密輸事件がグジャラートの禁酒解除につながるとは思わないし、飲酒の是非について云々するつもりはないが、いわゆるグローバル化とやらが進む中、人々のライフスタイルは当然のごとく変化していくとともに、周辺地域や外国とのバランス等についても、これまで以上に考慮される必要が出てくる。そのため地域が独自のカラーを維持していくことについては、内部的にも対外的にもそう簡単ではなくなってきていることは確かなようだ。
グローバル化の進展とともに、地域や国境を越えた相互依存が深まるにつれて、内と外の境がだんだんボケていくことから、『ウチらのことはウチで決める』ということがなかなか難しくなってきていることは、世界共通の現象だ。そうした動きの中で、地域の伝統にしても文化にしても、他と競合したり吸収されたりといった流れが出てくる。
そのひとつの例が言語だ。現在、世界では6,000あまりの言語が存在しているものの、世界人口の約半分は、わずか10ほどの大言語を使用していのだとか。いっぽう、この6,000あまりの異なる言語の中の四割前後が、どのくらいの話者人口を持っているかといえば、悲しいことに千人以下であるという。
あまりに話者人口の規模が小さなものであると、それを通じて教育を受けたり、生活を営んだりすることさえままない。すると言語を次世代が受け継ぐことも困難で、結果として周囲のより有力な言語に乗り換えてしまうことになったり、あるいは近隣にあるより話者人口が大きく、かつ有力な言語の方言という位置づけになっていったりといったプロセスが控えている。
そんなわけで、現在世界で話されている言語のうちの半数ほどは、私たちの世代あるいは次の世代あたりで、およそ半数ほどが姿を消すとさえ言われているのだが、言語に限らずグローバル化の進展を背景に、失われようとしている私たちの貴重な財産は他にもいろいろあるように思う。
世界がひとつになること、みんなが一緒になることは、諸手を挙げて『良いことだ』と言えるのか、常々疑問に思うところなのである。 -
ダーラーヴィー 5
ダーラーヴィーのツアーで訪れた場所では、想像していたとおりの風景があった。例えばgoogleの画像検索でキーワードを『Dharavi』と入れると出てくる画像に見られるような景観などはその典型だろう。
だが同時に、やはりここは地理的な条件からやむなく都会の真ん中にみすぼらしい姿で出現せざるを得なかった『郊外』という部分もあるのかもしれないという思いも強くした。
ムンバイーといえば、インド有数の大都会であり、様々な就業機会を、より高い賃金とともに人々に提供する街だ。その魅力に惹かれてやってくる人たちは、同時に世界でも指折りの不動産価格の高い都市であるという現実にも直面しなくてはならない。そうした就業機会と住宅難が衝突した結果、落ち着いた先はこのスラム、ということもあるのではなかろうか。
同時に、亜大陸随一の商都では、そこから生じる廃棄物の処理を行なったり、リサイクルできるものは再生したりといった事柄を含めた社会的ニーズを満たす機能を必要としている。それらの活動はもとより、その他様々な産業、社会的サービスに従事する相応の労働人口も欠かすことはできない。
そこにきて、ダーラーヴィー?で述べたとおり、『ムンバイーが半島に立地しているがゆえに、インドの他の大都市と異なり、海に囲まれて周囲に広がる余地がない限られた都市空間しか持たない』というボトルネックがある。それがゆえに、今のムンバイーで一等地となり得るロケーションでありながらも、かつては漁村が点在するだけで、低湿地帯であったことに由来する排水の悪さ等から正式に開発されることなく、スラムとして『発展』するままに放置されてきた。そのダーラーヴィーが、結果的に『郊外としての機能』を担うことになっているとしても決して不思議ではないだろう。
ここから先は、あくまでも私の想像に過ぎないが、ダーラーヴィーの再開発がこれまで幾度も頓挫してきたことの理由のひとつに、ダーラーヴィーに代わってこの都市の『郊外機能』を担うことができるエリアが見つからないという点もあるのではないかとも思うのだ。
このスラムを訪れるツアーには参加したが、それでこの地域のことが判るなどとはもちろん思わない。そこに居住しているわけではないし、日常的に出入りしているわけでもない。案内人とともに、ただ数時間歩いてみただけで理解できることなどタカが知れている。
そもそも4時間半のツアーで、行き帰りにかかる時間、加えてカーマーティプラー、ドービーガートなど他の見学先での時間を差し引くと、ダーラーヴィーを見学したのは正味3時間くらいでしかなかった。
NGOをも運営する組織の収益部門としての旅行会社が、『参加者に見せたい部分』をピックアップしていることも了解しなくてはならない。当然のことながら、彼らが安全面での確信が持て、かつ人々が懸命に働いている現場で外国人を見物させるだけの顔が効くエリアということになる。
しかしながら、そういう部分を差し引いてみても、いろいろ思うところはある。確かに人口密度がやたらと高く、職住環境は劣悪であることは間違いないにしても、訪れた範囲では意外にごく普通の人々が働いており、これまたごく普通の暮らしがあり、スラムの外の世界と同じくごく普遍的な空間があることはわかった。最初は、何か仕込みでも用意されているのかと思ったくらいだ。忙しい雑踏の中で、物乞いの姿を見かけないのもちょっと意外であった。
このツアーは、参加希望者があれば毎日催しているとのことだが、ガイドによれば休日には作業場の大半が閉まっているため、日曜日や祝日は避けたほうが良いとのことである。
行きの車内やツアーの行程中は、ガイドの説明に対して、私を含めて様々な質問を投げかけていた参加者たちだったが、帰りはそれとは打って変わって、静まり返っている。各自ダーラーヴィーで見たものを各々反芻しているかのようである。
このツアーで何か判ったわけではないが、これまで以上にこの地域に関心を抱くきっかけにはなりそうだ。今後、ダーラーヴィーに関わる報道や書籍などを見かけたら、マメにチェックしていくことにしたいと思う。<完>
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ダーラーヴィー 4
このツアーをオーガナイズしている旅行会社と対で運営されているNGOが設立した小学校を訪れる。授業が進行中であった。近ごろでは、スラムでも教育の大切さを理解する人たちが増えていて、かなり無理をしても子供を学校になんとか通わせよう、より高い学歴を与えようと頑張る傾向があるとのこと。
他のより恵まれた家庭の子供たちに較べてハードルは高いものの、ダーラーヴィー出身で苦学しながら高等教育を受けて、弁護士になった人、医者になった人は少なからずあるといい、公務員やその他のホワイトカラーの職を得ることは決して珍しいことではないとガイドは話す。
学校を後にしてしばらく歩いて通りに出ると、そこはタミル人地区になっていた。南インド式のヒンドゥー寺院があり、看板や貼紙等も大半がタミル語だ。往々にしてデーヴァナガリでも併記されているのは本場(?)と異なるものの、人々の装いも景観も、タミルナードゥの田舎町のバーザールに来たかのような感じがしなくもない。
この地区内のメインストリートのひとつであるようで、食堂も甘いもの屋もきちんとした構えの店が多く、大手銀行の支店も複数あるともに、マイクロクレジットの類の金融機関らしきものも見かけた。このあたりは居住地域にもなっているようで、裏手の路地を進むと、いくつもの開け放たれた扉から中の様子をチラリと目にするとができた。
テレビ番組の音、子供たちが遊ぶ声、母親が息子を叱り付けている様子、近所に暮らす主婦たちが戸口で井戸端会議を開いていたり。さきほど見学した作業場とは裏腹に、どこの世帯も家の中はずいぶんきれいにしているようだ。狭いスペースに多人数暮らしているためであろう、家財道具や衣類などが山と積まれている様子も見かけたが。 ガイドの話だと、スラムからコールセンター、会社、役所などに通勤している人、あるいは家庭の使用人として働きに出ている人たちも少なくないという。
そういう『住宅地』では、いったいどういう立場にある人なのかよくわからないが、パリッとした都会的な格好(そもそもダーラーヴィーは大都会の真っ只中に位置しているが・・・)で、ミドルクラス風のいでたちと雰囲気を漂わせる人の姿も見かけた。タミル人地区の端には、別の私立学校があった。立派な構えで、建物も新しい。イングリッシュ・ミディアムの学校だという。子供たちの制服姿を目にしていると、どこか裕福な家庭の子弟が通う学校であるかのような気がしてしまい、思わず目を疑う。
この学校が面する公道を渡ったところは、グジャラーティーの陶工コミュニティの地区。目に付く看板や貼紙の大部分はグジャラーティーで書かれている。女性たちは、いかにもグジャラート人らしく、カラフルな装いをしている。陶工という社会通念上は、地位的の低いコミュティであるが、彼らグジャラーティーたちの住環境は、それまでに見た他のエリアよりも少し良好であるように見えた。
グジャラート人陶工地区を後にしてしばらく歩くと、ツアー会社と運営母体を同じくするNGOによる幼稚園があった。インドの縮図であるかのように、様々なコミュニティの人々が混住ないしは集住するダーラーヴィーで、様々な異なる出自を持つ園児たちに対し、まずは英語とヒンディー語を自由に使いこなせるようにすることが狙いだそうだ。英語はもとより、ヒンディーについては、本人が住むコミュニティが非ヒンディー語圏のものであると、成長してからもうまくそれを使えないことが少なくないらしい。訪れたときには幼児たちの姿は目にしなかったが、スタッフたちが何やらミーティングを開いていた。
再び公道に出て、最後の目的地コミュニティー・センターは、たった今訪れた幼稚園や陶工コミュニティがある一角から見て道路反対側。そのすぐ手前には、6階建ての真新しい総ガラス張りの見事な商業ビルがそびえている。まだ出来たばかりで、テナントは入居していないようだった。ガイドによれば、規模のごく小さなモールのようなものになるようだ。
ここに買い物に来る人は、ダーラーヴィーの外からわざわざやってくることはないと思うので、スラムの住む『富裕層』が顧客となるのか?ボロボロの建物やバラックが延々と続いているものの、さきほどから時折こうした立派な建物を目にすると、本当にここがスラムなのか?と疑ってしまうくらいだ。
その新築物件の背後にあるコミュニティー・センターは、このツアー会社と同一の運営母体によるNGOが運営している。成人のための英語学習コースとパソコン教室を実施している様子をしばし見学してから、この日のツアー代金の支払いを済ませる。あとはコラバまでクルマで送ってもらい、今朝集合した地点で解散である。 -
ムンバイー タクシー業界仰天
拾ったタクシーの運転手がたまたまお喋りな人で『あなたどこの人?』と尋ねてくる。『Tokyoだ』と答えると、『トゥルキー(トルコ)の人かい。てっきり日本人かと思ったよ』などと言っているが、またどこかで会う人ではないので、こちらは特に否定しない。
『あなたの田舎はどこだい?』と振ってみると、『ラクナウーの近く』との返事。『ラクナウーからどちらの方向かい?』『ゴーラクプルのほうに120キロくらいかなぁ』『じゃあファイザーバードのあたりだな』『おぉ、まさにそこさ!よく知ってるねぇ』なんていう話になった。
かれこれムンバイーで運転手家業を始めて16年になること、数ヶ月前に数年ぶりに帰郷してみて楽しかったこと、ごくたまにしか会うことのできない子供たちが、父親不在でもしっかりと成長して、特に長男が学校で親の期待以上に頑張って良い成績を上げていることなど、いろいろ話してくれた。
こうした人に限らず、ムンバイーのタクシーを運転しているのは、たいていU.P.かビハールの出身者たちだ。郷里に家族を置いて、懸命に稼いでは送金している人が多い。家は遠く離れているし、そう実入りのいい仕事ともいえないが、家族はそれをアテにして暮らしているため、一緒に生活したくてもそうしょっちゅう帰ることもできない。
このほど地元マハーラーシュトラ政府は、そんなタクシー運転手たちが仰天する発表を行なった。
Maharashtra Govt. makes Marathi mandatory to get taxi permits (NEWSTRACK india)
その内容とは『マハーラーシュトラに15年以上居住』『マラーティーの会話と読み書き』が必須条件になるとのこと。ヒンディーと近縁の関係にあるマラーティーを覚えることはヒンディー語圏の人たちには決して難しいことではない。ヒンディーと歴史的な兄弟関係にあるウルドゥー語を話すアジマール・カサーブ、2008年11月26日にこの街で起きた大規模なテロ事件犯人で唯一生け捕りとなり、現在ムンバイーの留置所に収監されている彼でさえも、周囲の人たちとの会話を通じ、すでに相当程度のマラーティーの語学力を身に付けていることは広く知られているとおりだ。
ムンバイーのタクシー・ユニオンも『運転手たちはヒンディーに加えて、多くの者はマラーティーだって理解するし、英語の知識のある者だって少なくない。何を今さらそんなことを言い出すのか』と、即座にこれを非難する声明を出している。
もっとも『マラーティー語学力を義務付ける』という動きはこれが初めてではなく、1995年の州議会選挙で、それまで国民会議派の確固たる地盤であったマハーラーシュトラ州に、マラーター民族主義政党のシヴ・セーナーが、BJPと手を組んで過半数を獲得することによって風穴を開けたときにも同様の主張がなされていたことがあった。
そもそも義務としての『マラーティー語学力』それ以前の1989年から営業許可の条件のひとつにはなっていたようである。それが今回、これを厳格化するとともに、最低15年以上の州内での居住歴を加えて、州外からの運転手の数を制限し、地元の雇用を増やそうという動きである。タクシー運転手家業の大半が州外出身者で占められているのは、そもそも地元州民でその仕事をやりたがる人が少ないことの裏返しでもあるのだが。
先述の90年代から伸張したシヴ・セーナーは、幹部のナーラーヤン・ラーネーが脱党して国民会議派に移籍、党創設者であるバール・タークレーの甥であるラージ・タークレーがこれまた脱退して新たな政党MNS(マハーラーシュトラ・ナウニルマーン・セーナー)という、本家シヴ・セーナーとはやや路線の違う地域民族主義政党を立ち上げた。
そのため総体としての地域至上主義は、やや影が薄くなった感は否めないものの、このふたつの政党は、やはり今でも一定の存在感を示しているがゆえに、やはり今でもコングレスは安定感を欠く、というのが現状である。
そうしたシヴ・セーナー/MNSの土俵に自ら乗り込み、ライバルの支持層を切り崩し、自らのより強固な基盤を築こうというのが、今回のタクシー運転手の語学力や在住歴に関しての動きということになるようだが、当然の如く、運転手たちの多くの出身地である北部州の政治家等からもこれを非難する声が上がっている。
州首相アショーク・チャウハーンにとっては、そうした反応はすでに織り込み済みのようで、既存の営業許可に影響はなく、新規の給付についてのものであると発言するとともに、将来的にはタクシー車両へのAC、GPS、無線機器、電子メーターと領収書印刷装置等の搭載を義務付けることを示唆するなど、議論をすりかえるための隠し玉はいくつか用意しているようだ。
これまでことあるごとに地域主義政党のターゲットとなってきた北部州出身タクシー運転手たちだが、それと対極にある国民会議派は彼らの力強い味方であるはずであったため、今回の動きについては、まさに『裏切られた』と感じていることだろう。
たまたま街中で目立つ存在であるがゆえにスケープゴートになってしまうのだが、タクシー運転手に限らず、ムンバイーをはじめとするマハーラーシュトラ州内に居住する他州出身者は多い。現在同州与党の座にあるコングレスにとって、これまで地域主義政党が手にしてきた、いわゆる『マラーティー・カード』を自ら引いてしまうことは、かなり危険な賭けであることは間違いない。
この『タクシー問題』が、今後どういう展開を見せていくことになるのか、かなり興味深いものがある。
※『ダーラーヴィー?』は、後日掲載します。
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ダーラーヴィー 3
スラムといっても、ダーラーヴィーで私たちが訪れた部分は、1995年以降、政府との合意のもとで住民たちがここで暮らすことが合法化されているとのことで、ちゃんと水道も引かれている。土地は政府のものだが、各地区の建物自体は個々のオーナーの資産であり、ここで賃貸生活をする人々は家主たちに家賃を払うことになる。
ところで、スラムとはいうものの、ダーラーヴィー地区の政治力というのも決して無視できるようなものではないようだ。州議会選挙におけるダーラーヴィー選挙区の有権者は20万人を数える。これまで幾度も再開発計画が持ち上がったものの、いずれも実現することなく頓挫しているというのは、最大で見積もって100万人にも及ぶという説もある巨大な人口のリロケーションをどうするのかという難問に加えて、そうした背景とも無縁ではなかろう。
いよいよ道路反対側のダーラーヴィーに足を踏み入れる。トタンの壁のバラックがどこまでも続いている。前に踏み出すたびにホコリが舞い立つ。他地区からダーラーヴィーを横切る公道は舗装されているものの、それ以外はほとんど未舗装である。
スラムの住人といっても、これまたいろいろあるそうで、この場所で生まれ育ち、そこで再び自分の世帯を構えている人もあれば、季節労働者として農閑期に仕事を求めてやってくる人もあるという。後者の場合は通常男性が単身でやってくるという。そのため、ダーラーヴィーの人口の流動性はかなり高いのだそうだ。
最初に訪れた地区では、プラスチック製品のリサイクルをしていた。集めたプラスチック製品を選別し、溶解して、その後細かいチップとして再生する。これが工業原料として業界に還流していくことになる。後に見学する他の業種もそうだが、同業や関連する業種は同じ地区に固まっており、工 程ごとに隣接している他の作業場が担っている。
裏手に小路にある屋内のスペースでは、溶かしたプラスチックを、まるでパスタを作る機械のようなもので、麺状に長く出していく。これは蓋のない水槽の中を通過、この過程で冷却されてから、裁断機にかけられて細かいチップが出来上がる。チップが沢山出てくるところではまだ湿っているため、作業員たちがそれを手で広げる。強い扇風機の風により、これはすぐに乾燥されていく。
今にも崩れそうな建物、材木とトタンで出来た非常に安普請なものだ。出入り口以外に窓はなく、薄暗い屋内で裸電球が灯っている。ここの2階、日本式に言えば3階にあたるところからハシゴを上ってトタン屋根の屋上へ。
周囲の他の建物もだいたい同じくらいの高さなので、遠くまで見渡すことができる。 すぐそばには携帯電話の電波のタワーがあった。そういえばさっきの作業場で働いている人も携帯電話で話をしていた。少し離れたところには、スラムにあるとは思えない立派なコンクリートの高層階の建物がいくつか見られる。それらは政府による公営の病院や公立学校であったり、あるいはコンドミニアムのようなタイプのモダンな民間住宅であったりする。
西のほうに目をやると、これまた周囲の風景にそぐわない立派な造りの大きなモスクもある。建設資金や運営費などは、一体どこから捻出されるのだろうか。病院や学校が政府によって設置されるのと同じように、おそらくスラムの外のどこからか資金が流入していることと思う。
公道の電柱から大量の電線がぐちゃぐちゃと引き込まれている。もちろん盗電であるが、都会の只中にあることから、送電にインフラは整備されているため、結果としてスラム内はほぼ完全に電気が普及しているとのこと。またテレビも9割以上の世帯に普及しているとのこと。
アルミ缶をリサイクルする作業場もあった。炉でアルミ缶を溶解されて、ちょうど金塊を大きくしたようなタブレット状のアルミ塊を作っている。作業場の傍らに何やら高く積んであるものがあり、布がかぶさっていたが、その下にあるのはアルミ塊の山である。染物の工場もあった。田舎でやっているのと同じように、ただその作業をこのスラムで行なっているというだけのことである。
唐突に香ばしい匂いが漂ってきた。ビスケットの工場である。小路から中が丸見えなので、どうやって作っているのか、その工程が全て見える。材料の小麦粉は、路地端に袋ごとドカドカと置いてあった。まるでセメント袋であるかのように。出来上がったビスケットは、ビニールでパックされて市内各所の店で販売されるという。そういえば、ああいうタイプのものを、私はけっこう好きでよく食べている。雑貨屋の店頭や鉄道駅の売店などでも目にする類のものである。
どこからか、食用油のような匂いがするな、と思ったら今度は食用油の金属缶のリサイクル場である。長年油が浸み込んで、ツルツルするがアスファルトのように固くなった広い土間の上に、おびただしい量の四角い缶が詰まれている。左手にあるものは、穴が開いたり潰れたりしているもので、修理が必要なもの、右手に積んであるのは、ラベルを剥がして洗浄してから再び食用油工場へと出荷するものだという。これは割合慣れが必要な仕事であるそうで、作業は歩合制で、熟練した作業員とそうでない者との間で、手取りがかなり違ってくるそうだ。
脂臭い匂いが漂う。食用油の残りが原料になるのかどうかは知らないが、近くには石鹸工場があった。ブランドなどない簡素な粗い感じの大きな石鹸塊、よく街中の雑貨屋店頭で見かけるのと同じようなものをせっせと作っていた。
食べ物を作ることを生業にしているところはけっこうあるようだ。ダッバーワーラーといえば、ムンバイー名物。金属製の段付きの容器に入った各家庭で奥さんが調理した昼ご飯を、市内各地で働く夫に届ける役目をしているものとして知られているが、弁当の中身そのものを外注できる『レディー・メイド』があるとは知らなかった。
訪れたとき、調理空間は閑散としていた。本日分の昼ご飯はすでに容器に詰められて出荷済み。現在各仕事場に配送されているところだそうだ。付近には、パパッド造りの作業場がある。ごく薄い煎餅状に伸ばされ、ひっくり返した大きな籠の上で天日干しされている。乾季が稼ぎ時で、雨季になると屋根のある限られたスペースでしか乾燥作業ができなくなるとのこと。ここの担い手はほぼ全員が女性たちである。
ムスリムの人々が集住する地区に出た。ヒンドゥーの祠をひたすら作っている作業場があった。ガイドが言うには、ヒンドゥーとムスリムが互いに支えあって生きていることのひとつの例なのだという。皮なめし工場もあった。この作業で使用する薬剤等は、環境に悪影響を及ぼすため、本来この作業をここで行なうことは禁じられているとのことだが。作業場手前のちょっとしたスペースでは、水牛や羊などから出来上がった革材が積み上げられている。ダーラーヴィーの皮なめし業は、インド第二の規模であるとのことで、国内各地はもとより、外国にも輸出されているそうだ。
作業場の多くでは、仕事をするのと同じ場所の片隅で食事を作ったり寝起きしているそうだ。同じ場所で食事、睡眠、仕事のサイクルが日々進んでいく。いろいろな業種にたずさわる人々がいるが、こうした労働者たちの賃金は、日給にして概ね200ルピーくらいだという。農村部で同じような仕事をするとその四分の一ということも往々にしてあるので、そうしたところからの出稼ぎ志望者たちにとっては魅力的な金額であるそうだ。
作業場で火を使うところは多い。木材とトタンで出来ている建物から出火したらどうなるのか、想像してみるだけで恐ろしい。周囲の建物もみんなそうした造りであることから、火は一気に燃え広がる大惨事になってしまうだろう。
これらの作業場に限らず、後で見た他業種の作業場についても、事業主はスラムの外に住むかなり裕福な人であるケースが多いそうだ。土地自体は政府の所有なので、主といっても建物と作業器具類という、金銭的にはさほど価値のないものを所有しているだけに過ぎないが。
ガイドを先頭にして、細い細い路地を歩く。排水設備などなさそうなので、雨が降ったら即泥沼にでもなりそうな地面。人の幅くらいしかない道、人の頭くらいの高さに幾重もの電線が垂れ下がっている。怖いので参加者たちは思い切り身体を縮めて前へと進む。
ところどころコンクリート板を敷いたり、レンガで石畳状にしてあるところもあるが、大部分は裸の土のままだ。家屋や作業場の床が地面よりも高くなっているわけでもない。作業場の床の大半もまた裸の土のままだ。外の道路と建物の中との間に仕切りがあったとしても、モンスーンの際には水浸しになって大変だろう。
スラムであることから、環境は劣悪であるが、特に衛生環境がまったくなっていない。スラムの家の多くにはトイレは設置されておらず、そのあたりの物陰で済ませる以外は、公共のトイレということになる。各世帯にほとんどトイレが普及していないがゆえか、公衆トイレは比較的多く設置されているようであった。
ふと見上げると、そこには高層でなかなか住み心地の良さそうなフラットが見える。周囲の劣悪な環境の中で、郊外のちょっといい住宅地にでもありそうな高級感ある建物。何とも不思議な感じがする。いったいどういう人が、敢えてこんなところに高級フラットを求めるのだろうか?
ここはちょうどダーラーヴィーのスラムの端であるという。背の高い壁があり、そこから先は同じ形をしたコンクリートの建物が並ぶ団地になっていた。公道に出る手前のところにパーキングがあり、スラムでの生産品を外の世界に運ぶため、また外からスラムに生活物資等を運んでくるトラックから人々が積み下ろし作業をしており、ここはまぎれもなくムンバイーの市街地の一部であることを実感させてくれる。 -
大いなる落日

一昨日、アジアを代表する歴史的な共産主義者、インド共産党マルクス主義派の伝説的指導者ジョーティ・バスが95年の生涯を閉じた。
1914年7月に医者の家に生まれる。ソビエトのタシケントでインド共産党が結成される6年前のことである。ベンガルの中流家庭の子弟として育った後、イギリスに渡って法学の勉強を志した彼は、当時新しいイデオロギーであった共産主義の思想に出会う。
1940年に弁護士の資格を得るとともに帰国。以降、彼がインド共産党の活動家としてのキャリアを歩み始めた時代は、植民地期末にインドにおける共産党が非合法化されていた時代と重なる。共産党が禁を解かれてからも数々の弾圧に耐えつつ同志たちとインドにおける階級闘争ならびにイギリスの植民地支配に対する闘いを続けた。
本来、共産党の支持基盤となりえる労働者層の人口が膨大なインドにおいて、一時は国民会議派に次ぐ大きな勢力を持つにいたったこともある共産党である。しかし左派勢力並びに党内における対立や抗争を経てきたインドの共産主義活動は、1964年に大きな転機を迎えることとなる。インド共産党 (CPI)と袂を分かち、インド共産党マルクス主義派 (CPI-M)が旗揚げすることとなった。
その1964年といえば、ジョーティ・バスがインド共産党マルクス主義派の政治局員となった年でもある。一月17日に彼が亡くなった彼は、この政治局創設時の最後の存命者であった。
1967年の州議会選挙で躍進したインド共産党マルクス主義派は、連立政権の一角として浮上、ジョーティ・バスは州副首相となるが、わずか8カ月で政権は瓦解。続く1969年には、連立政権の第一党となり、1971年まで再び同じく州副首相の地位を占めることとなった。
その後、1977年の州議会選挙において、インド共産党マルクス主義派が初めて議席の過半数を得ることにより共産党政権が打ち立てられる。1957年に普通選挙による世界初の共産党政権を樹立させたケーララ州とともに、民主的な手法により選出された世界でも稀な共産党政権であるとともに、世界で最も長く選挙を通じて改選され続けている共産党政権でもある。
ジョーティ・バスは、1977年から2000年まで、23年間の長きに渡って西ベンガル州首相を務めた後に次代のリーダーたちに禅譲している。あまりに長く最高指導者の立場にあった彼の功罪や西ベンガル州で記録的な長期政権を運営してきた共産党マルクス主義派についてはいろいろ議論のあるところではあり、近年は西ベンガル州におけるインド共産党マルクス主義派の威光にも陰りが見えてきている。
それでも民主主義というシステムの中で、つまり民衆の総意の中での共産主義という思想を定着させてきたことは肯定的に評価されるべきであるし、大衆の総意を結集して世の中を変えていくことにより、政治に対する人々の参加意識を高めてきた大きな功績があったことは間違いないだろう。
ジョーティ・バスの逝去は、インドの大地に沈む真っ赤な夕陽のようでもある。

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※ダーラーヴィー?は後日掲載します。
