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カテゴリー: column

  • BHUJ 4

    この日、オートリクシャーで手工芸の村めぐりをする。一番遠い村は50キロ離れているため、往復で100キロほどになる。
    織物の村であるブジョーリー(भुजोडी)に行き、次に染物とチャパーイー(ブロック・プリンティング)のアジラク(अजरख्,)、そして 刺繍が盛んなダナンティ( धनंति)、アジラクと同じく染物とチャパーイーのダマンカー(धमंका)を訪れることにした。
    最初に訪れたブジョーリーでは、冬には夏のために綿布、夏には冬のために毛の織物を作っているという。作業場で織物の仕事をしばらく見物してから、これを経営するヒンドゥーの家族の住む敷地に移る。ちょっとしたショールームがしつらえてあり、ショールその他の完成品が山と積まれていた。ちょっと買ってみたいものもあるとしても、あまりゴリ押しされると興醒めであるが、後で訪れた村も含めて、どこも特にそういうことはないのは良かった。
    機織り
    作業場のオーナー
    オーナーの孫娘 愛嬌のある女の子だった
    次にアジラクへ。ここは染物とブロックプリンティングの村である。これらの作業は別々に行なわれるのではなく、一連の工程で両方を行なうことにより、製品が出来上がっていく。
    ブロックプリンティングの作業中
    訪れたところはムスリムの経営者の息子スフィヤーンという男性が留守番をしていた。あごひげを蓄えているが、まだ20代前半だろう。カトリーのコミュニティの人らしいが、彼の家はもともと現在パーキスターンになっているスィンドから移住しており、彼ですでに五代目になっているのだとか。
    ここではすべて植物性の染料と錆びた鉄などが使われるのだそうだ。インディゴの草とはどんなものか知らなかったが、これまで私はただの雑草だと思っていたものがそれであった。
    その次に訪れたのはダナンティ。ここは刺繍の村であり、女性たちがチクチクと細かい仕事を続けている。毎日8時間作業をしているのだという。技が非常細かいだけではなく、まったく同じ形を正確にいくつも作る器用さに感心した。この仕事をする女性たちは、たいてい10歳くらいから始めるとのことだ。
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    慣れてしまうと退屈な仕事ではないかと思うが、村のアヒールというコミュニティの女性たちが集団で行なっており、気の合う同士で肩を並べておしゃべりに興じながら進めていくので、まあ気は紛れるのだろう。デザインは、クジャクや象などの動物の柄に加えて、幾何学模様にもいろんなパターンがあるようだ。
    気の合う同士でおしゃべりしながら作業が進行
    この村から最後に訪れるダマンカーまでの道のりで事故現場に遭遇した。トラックと白い小型乗用車が正面衝突している。乗用車は大破していた。乗用車は反対車線にあったので、おそらく追い越しをしようとして前方から来たトラックに衝突することになったのだろう。何人乗っていたのかわからないが、少なくともそのクルマの中にいた人が無事であるとは思えない。
    私たちが今こうして進んでいるところまでは、そのクルマは普通に走っていて、ほんの少し先で悲惨な運命が待ち受けているとは思いもよらなかったに違いない。まさに一寸先は闇である。それでも、人々が皆もう少し丁寧に操縦すれば、こういう事故は大きく減るのにと残念に思う。
    最後に訪れたダマンティでは、昨日大雨が降ったため、この日は作業中止だという。ここもブロックプリンティング、つまりチャパーイーの村だが、訪れた先はムスリムで、行なわれている作業と製品もアジラクと同じだ。2001年の大地震で壊滅の後に、相当数の人たちがアジラクからダマンティに移ったためだという。
    ここではちょっと面白い布を見た。生地の表側が絹で裏側が綿になっている。どうしてそんな作りになっているかというと、かつてカッチのある地域を領地としていたムスリムの支配者が所望したのが始まりだという。作業場の主によると、イスラームでは、ある解釈によれば男性が絹をまとうことをよしとしないのだという。それで裏側を綿にして、身体には直接触れないようにするという画期的な発明(?)であったとのこと。肌に触れないからといって、それで本当に『絹の衣類を着ていない』ことになるのかどうか知らないが、まるで一休さんの頓知話みたいである。
    作業場のショールーム兼倉庫
    今回は訪れなかったが、カッチ地方には、乾燥地もあれば、湿地もある。砂漠の村の生活もあれば、古来よりガルフ方面への海路の出口として栄えたマンドヴィーのような港町もあるなど、大きな変化と豊かな広がりがある。もっと時間を取ってじっくり訪問してみたいところだ。Rann of Kutch(カッチ湿原)に面し、国境近くに位置するカッチ地方は、今となってはインドの西の果てであるが、かつては『同じ国内の一続きの世界』であったパーキスターンのスィンド州でも、今のインドよりも30分遅れで同じ時が流れている。
    カッチ地方を経由しての隣国との行き来はないため、今やこの地方は袋小路の行き止まりのようになっているが、交通の不便なカッチ湿原を手前にして交易等の盛んなオアシスのようなところであったがゆえ、人々が東西に往来する交差点となり、富が集積されるとともに、独自の個性豊かな文化を育むことになったのだろう。

  • FIH World Cup 2010

    先週日曜日から、デリーではホッケーのワールドカップが始まっている。インドにおける開催は、1982年のムンバイーに続く2度目である。
    スティックでボールを扱うが、フィールドの形状、プレーヤーは11人ずつであること、相手のゴールにボールを入れることにより得点されることなど、試合展開にはサッカーと共通するものがある。
    オフサイドは廃止されていること、ゴール前の半円状のエリアからのシュートでないと得点できないこと、交代した選手が再びフィールドに戻ることができることなどといったルールを押さえておけば、ボールコントロールの技術的にはまったく違うものであるとはいえ、サッカー好きな人ならば思い切り感情移入して観戦できる競技である。
    日本ではマイナーなスポーツだが、サッカーの世界で言えばブラジルやドイツに相当する地位にある。パーキスターンは優勝4回、準優勝2回、インドは優勝・準優勝ともに1回ずつ、他にはオランダが優勝3回、準優勝2回、ドイツは優勝2回、準優勝1回といった具合だ。オーストラリア、スペイン、韓国なども強豪の一角を占めている。
    出場国は12カ国。これまでの試合結果、今後の予定等はこちらを参照願いたい。
    Schedule & Result (FIH World Cup 2010)
    『Pool』のA,Bが総当りのグループ分けで、それぞれの上位2チームずつが決勝トーナメントに進出する。
    大会初日にインドはパーキスターンに対して1-4で幸先の良い勝利を収めたが、因縁のカードにふさわしく(?)トラブルがらみのスタートであった。
    Reduced ban not justice, I was punished for no fault: Shivendra (Hindustan Times)
    3月2日のちょうどこれを書いている今、もうじきインドとオーストラリアの対戦が始まろうかというタイミングだ。
    4日にはスペイン、6日にはイングランド、8日には南アフリカとの対戦が予定されている。もちろん個人的にはもっとも関心があるのは、開催国でもあるインドが決勝トーナメントに進むことができるか、そこでどこまで勝ち進むことができるかということだが、同時に格上のパーキスターン、そして東アジアの雄、韓国の動向も大いに気になっている。
    ※BHUJ 3の続きは後日掲載します。

  • BHUJ 3

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    この日は最初に訪れたシャーラド・バグ・パレスは、アーイーナー・メヘルから見て、ハミサール・レイクの反対側にある。ここには1991年に手放すまで、ラージャーの家族が暮らしていたとのことだ。ゆえに最近のガラスのテーブルやソファなど、今の時代のリビングに普通に見られるような家具もある。
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    モダンな室内
    それでも、昔の家具、シャンデリア、振子式時計、クローゼットの類などは、欧州から取り寄せたもので風格がある。野生動物たちの剥製もある。もっとも大きなトラの剥製は、カッチでの狩猟後にわざわざマイソールに送って作らせたものだというだけに、非常に出来が良い。経年により色褪せる前には、本当に生きているかのような感じであったのではないかと思う。 獲物を仕留めた後、横たわるトラとともに撮影した写真もある。他の多くの領主たちと同様、インド独立前の時代のラージャーたちは狩猟が趣味であったようだ。
    ここの裏手に住んでいるという学芸員氏によると、2001年の大地震の際には、特に旧市街の建て込んでいる場所では建物の倒壊や崩落が多く、被害が甚大であったという。人口13万でしかない街で、2万人余りの死者が出たということは大変なことである。
    当時、このパレス自体にも大きな被害が出たため、復興するのは大変だったということだ。現在、博物館となっている建物のすぐ横にはねもっと大きく堂々とした洋館がある。展示されている昔の写真と見比べてみるとよくわかるのだが、建物の上部が崩落してしまっている。また背後に回るとかなり広範囲に渡って崩落してしまっている。
    建物上部が崩壊している
    震災前の姿
    その後、街の南にある池の反対側にあるチャトリ群に向かう。オートの運転手は『すべて壊れているから行っても仕方ないよ』と言うが、確かに着いてみると、いくつかは修復の手が入っているものの、あまりに無残な光景であった。震災から10年近く経った今も、その破壊のエネルギーの凄まじさを見せつけているかのようだ。
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    ただし一部では相当力のこもった修復作業が行なわれたようで、完璧に新築(?)されているところもあった。見た目がやたらとピカピカなので、周囲に馴染むまでかなり時間がかかりそうだ。
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    その後、バーラティーヤ・サンスクリティ・ダルシャンへ。『バーラティーヤ・サンスクリティ(インド文化)』とあるが、実際にはグジャラート州、とりわけカッチ地方の郷土博物館である。著名人、生活文化、手工業その他に関する様々な展示が屋内外でなされている。コンセプトの自体は悪くないのだが、ちょっと展示品が少ないこと、各種解説がグジャラーティのみで書かれており、ヒンディーまたは英語による表示がないのは、州外から訪れる人も多いはずなのだが、いかがなものか?

  • BHUJ 2

    プラモード・ジェーティー氏は、ずいぶん前からアーイーナー・メヘルの中に観光案内所のデスクを構えている。氏はこのメヘルの中の博物館の学芸員という立場も兼ねているのだが、今も健在であった。
    彼はプライベートなツアー・オペレーターであり、彼自身がベテランのガイドでもある。メヘルの近所に暮らすこの人物は、モダンなゲストハウスも経営するやり手の商売人ではあるが、この地域の歴史や民俗に詳しく、文化人といった雰囲気も漂わせている。
    彼が作製したカッチ地方の地図も無料で配布している。なかなか良く出来ており、カッチ地方の位置関係や距離が一目でわかるようになっている。また宿泊可能な町、村、警察の許可が必要な町も記されている。カッチ地方やその周辺では、パーキスターン国境に近いため、訪問するためには警察の許可(・・・といっても無料だし、すぐに取得できる)が必要なところが多い。背面はブジの地図になっている。
    カッチ地方のガイドブック
    彼が執筆したカッチ地方のガイドブックもここで販売している。カッチ地方の歴史、小さな町や村なども含めた各地の見どころ、各部族の紹介、地域文化手工芸品などが簡潔にまとめられた100ページほどの冊子だが、手っ取り早くこの地域について俯瞰するのに役立つ資料である。
    ページをめくっていると、ブジから40キロほど離れたアンジャールの町についての記述にちょっと気になることが書かれている。先の震災で特に被害がひどかった地域のひとつであるが、これまで幾度も大地震に見舞われていることが書かれている。19世紀以降でも、1844年, 1845年, 1874年, 1941年, 1956年、そしてしばらく間が空いて2001年の大地震が襲ってきたのだ。カッチ地方は昔から地震の多発地帯であるらしい。
    歴史的にはそれほど頻繁に震災を繰り返している割には、直近の震災以前のことについてはあまり伝えられていないようだ。それ以前の震災からずいぶん時間の経過があり、これらの記憶が風化していること、あまり記録が残っていないことが最大の理由だろう。特に19世紀のものともなると、ほとんど風聞や伝説のようなものであり、今となっては当時の被害状況について正確な数字を知ることは不可能だ。
    もちろん、地域の人口が増えており、それに比例して被害者も多くなる。また建物が高層化しているため、昔よりも被害が大きくなりやすいということもあるため、やはり最近の震災のほうが被災状況はより大きなものとなったに違いない。
    夕方、宿泊先のホテル内のレストランでHakka Noodleを注文。およそ中華料理メニューのあるところならば、どこにでもある定番アイテムだ。Hakkaという名前が付いているのは、インド中華の本場であるカルカッタに客家人が多いということ、中華コミュニティの中で彼らがマジョリティを占めているためだろう。だがインドでは、Hakka Noodlesをどう定義しているのだろうか。ときどき食べているが、Chowmeinとどう違うのかよくわからない。

  • BHUJ 1

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    久しぶりにカッチ地方のブジの町を訪れてみた。街のたたずまいはもちろん、周囲には伝統的な暮らしが残っており、様々な部族の人たちが独自のライフスタイルや生業を維持しているカラフルな地域だ。
    2001年のリパブリック・デイ(1月26日)の日の午前8時46分に大地震が襲ったことにより、当時人口13万超のこの街で2万人もの死者。9割の家屋が破壊されたという。 この地震の前に幾度か訪れたことがあるが、その後どうなっているのかちょっと気になってきた。 昨年11月に『過去のイメージ』 で取り上げてみたとおり、衛星写真においても大地震の爪跡の凄まじさと復興の進展が感じられる。
    しかしながら私自身はそこを観光で幾度か訪れた程度であり、ブジに居住したこともなければ、現地の方で親密な付き合いをしている人物があるわけでもないため、この街が復興したとか、9年後の今もその痕跡が、などということを言うつもりもない。それでも当時伝えられた被害があまりに大きかっただけに、ついついその部分に関心を持たずにはいられない。
    ただ、カッチ地方の中心地としてそれなりに栄えていた町が、どうなっているのか関心があり、近くに行く機会があればぜひ立ち寄っておきたかった。
    そんなわけで、この町にやってきて、とりあえず宿に荷物を置いて歩いてみる。10年ひと昔というが、すでにそれに近い年月が経過しているため、現在もガレキや廃墟と化した建物が、そこここに残っているわけではないことにはホッとした。
    たとえ大きな震災で甚大な被害を受けたとはいえ、カッチ地方の経済の要衝であるという重要度には変わりがないため、それなりに元通りになっていくのは当然のことだろう。
    一見、何も変わらないように感じられるのは、災害があってからそれなりの時間が経過しているため復興していること、建て替えられた建築物がある程度の時間の経過により相応に風化していることなどが理由だろう。住宅、店舗、道路等々、どれも地権者が決まっているため、基本的には元とまったく違った町並みが出現するはずはないのである。
    もちろん例外もある。旧市街からバススタンドに向かう道すがら、以前はかなり密度の高い地域であったところが、すべて高層住宅、日本でいうところの『マンション』のような建物に変わっていた。震災と関係があるのかどうかわからないが、多分に廃墟と化した際に、これをビジネスのチャンスと見た開発業者が乗り込んできて用地をまとめて取得したと考えるのが妥当だろう。
    アーイーナー・メヘル こちら側は修復してあるが背後はひどく崩壊したままであった。
    プラーグ・メヘル
    当時から存在しており、幾度か食事のために立ち寄ったことがあるホテルに今回滞在したが、これはすっかり建て替えられていること、震災一年前に利用したホテルがあったところは空き地となっていることに気がついた。
    アーイーナー・メヘル裏手はひどく崩壊したままで、その手前にあるプラーグ・メヘルの一部も破損のため一部にしか入ることができなくなっている。またその両方を含む敷地の外壁がかなり大きく壊れたまま放置されている。
    町の南側には、90年代に次々に建てられた高層のコンドミニアムが何棟もあったのだが、それらの姿は無くなり、より背の低いビルが建ち並んでいる。 旧市街にある屋根の付いた立派なマーケットもかなり損壊の痕が認められる。
    その近くに、以前幾度か訪れたときによく立ち寄ったり買い物をしてみたりした衣類の店がある。女性店主は都会的なセンスのある人で、なかなか気の利いたモノを売っているのは今も変わらず。アーイーナー・メヘル付近というロケーションもあり、出入りするお客はヨソから訪れたインド人や外国人が大半といった具合。今も同じように営業しているのがうれしい。みやげにしようと、子供用の衣類を購入してから『ずいぶん前にも幾度かお邪魔しましたよ。そのときもお会いしているはずです』と声をかけた。
    店主が微笑みながらの『いつ来ました?』と問う。『だいぶ前のことで、2000年でした』と答える。一瞬の間を置いて彼女は『私じゃ・・・ないわね』と顔を曇らせた。そのころは身内の方が店に出ていたそうだが、震災で亡くなったためその人よりも年嵩の彼女が引き継ぐことになったようだ。うっかり余計なことを言ってしまって申し訳ない。
    歴史的な建物以外はそうそう記憶しているものではないものの、場所にもよるかと思うが、大半の建物が倒壊ないしは大きく破損していたであろうことを思えば、さすがに10年近くの歳月があれば復興していて当然とはいえ、その背後には人々の沢山の苦労があるのだろう。災害以前と見た目は同じように見えるのは上っ面だけで、その中身はずいぶん違っているのではないだろうか。地震大国日本の人間としても震災は他人事ではない。
    屋根付きのマーケットもかなりダメージが見られる
    2001年の大地震において、地元のライフラインに与えたダメージに関連して、以下の資料が公開されている。
    GUJARAT (KUTCH) INDIA EARTHQUAKE OF JANUARY 26,2001 (Edited by John M. Eidinger)
    本日の夕食は、グジャラーティー・ターリー。州内各地で専門店は数多い。どこもおかずのバラエティに富み、店ごとに様々な個性がある。極めて満足感(満腹感?)の高い食事ではあるが、様々な甘い菓子も次々に出てくるのはまだいいとして、チャパーティーやプーリー等の小麦から成る主食ではなく、ご飯を頼んでしまうと『これでシメです』の合図になってしまうようであるのは、米食民族にはちょっと悲しい。
    グジャラーティー・ターリー

  • 意外に楽しいiPhoneのカメラ

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    日常で、そして旅行先で良さそうなカメラについて、幾度か取り上げてみたが、ここしばらくこの類のものについて触れていなかった。昨年10月に『ペンタックスK-xでティランガー(三色旗)風カメラを』を書いて以来である。
    いろいろと良さそうなものが出てきており、それなりに関心を抱き続けてはいる。既存のモデルのモデルチェンジにより、いろいろと魅力的なカメラが世の出てきているものの、これまでまったくなかった『オンリー・ワン』な性格を持つものはあまり見当たらない。
    例外としては、リコーのGXRがある。ユニット交換式という面白い機構に興味をそそられる。しかしコンパクトカメラとしてはそう小型軽量というわけではないし、交換式というならば一眼タイプのほうがレンズのバリエーションをはじめとして拡張性では比較にならない。
    特にマイクロフォーサーズ規格のものは、オリンパスやパナソニックの最新モデルはパンケーキレンズ装着時には、昔のコンパクトカメラ並みに小さくまとまっており、カバンの中に入れて常時携帯するのは一向に苦にならないだろう。一眼が『高級コンパクトデジカメ化』したものといえるため、今敢えてハイエンドな高級コンパクトデジカメを求める理由はあまりなくなってしまったように感じている。
    カメラといえば、文字通り常時携帯するケイタイのカメラ機能で、もうちょっと実用的なものはないものかと思っていたが、iPhone 3GSに内蔵されている『カメラ』がなかなかスグレものであることに、遅ればせながら気がついた。
    もちろんiPhone は、基本的に電話とインターネット接続等を兼ねた総合的なコミュニケーシヨン等のツールであり、カメラ機能は二の次、三の次以下のオマケ機能に過ぎない。そのため『インドでどうだろうか、このカメラ?』として取り上げるのにはちょっと抵抗があるのだが、実のところ、ちょっとあなどれないものがあるため、敢えてここに記してみることにした。
    ただし撮影機能自体に過大な期待はできない。『撮影機材』と呼ぶには、何も付いていない。露出補正はできないし、ホワイトバランスもオートのみであるなど、単体のデジカメではあり得ないシンプルさだ。絞りは開放のみで、シャッタースピードのみがオートが変化してそれでいてなかなか堅実な『カメラ』である。
    ・・・というのは、昼間の順光下ならば素直な写りが得られること、画角は35mmフィルム換算で36mm程度であること、AFの動作がなかなか良好で、フォーカスを合わせる位置をタップして指定できることなどがある。シャッターのアイコンから指を離した瞬間にシャッターが切れるため、撮影条件が悪くても、結果的に手ブレしにくいのも良い。
    有効画素数が300万画素で解像度は高くないこと、レンズもそれなりのものであることから、あまり精緻なものを思い描くわけにはいかないが、写り自体は他の携帯電話よりもかなりいい線をいっている。いつでもどこでも『常時ポケットに収まっているカメラ』という手軽さと考え合わせれば、充分以上に実用的だ。
    加えて、iPhoneにインストールした各種アプリケーションで色々加工できるということも、対象物を写し取る機能と同じくらい魅力的だ。同様にビデオ機能もなかなかのもので、縦長でも撮影可能な『ビデオカメラ』というのは聞いたことがない。シンプルな割には意外にまともに写る。足りない分を補うアプリケーション類が豊富なため、やたらとフットワークが軽く、予想以上に使えるカメラとなっているのだ。
    そんなわけで、iPhoneの『カメラ』で撮影した画像、他のカメラで撮った画像をiPhoneのアプリケーションで加工したものなどをいくつか掲載してみる。
    iPhoneで撮影。まあまあ使えそうだ。
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    iPhoneのアプリケーションTiltShift Generatorを起動して、アオリを加えて撮影してみた。
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    以下、他のカメラで撮った画像をiPhone上でTiltShift Generatorにて加工してみる。
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    他にもフォトショップのiPhone版アプリケーションのPS Mobile, モノクローム風に仕上げるMoreMono, セルフタイマーやズーム機能などを付加したGorillacamなどといった撮影用アプリケーションがいろいろあるので、今後順次試してみたい。 このあたりに付加価値が、他のケータイのカメラ機能にはない大きな魅力、場合によっては並みのコンパクトデジカメよりも役に立つ?かもしれない部分だ。
    前述のとおり、撮影時に露出とホワイトバランスの調整ができればもっと使いやすくなるのにと思う。今後の改良と進化に期待しよう。
    だがひとつ大切なことがある。間違っても日本のソフトバンクで購入したiPhoneをインドを初めとする外国で使おうなどと考えないことだ。通話やデータ通信等、非常に高額な海外ローミング費用がかかってしまうことになり危険だ。
    そのため訪れた先のキャリアのSIMを購入して使用しなければならないのだが、日本を含めた携帯電話器の販売と利用するキャリアが固定されている国では他のキャリアで使用できないようにSIMロックがかけられている。ゆえにSIMロックを解除するか、SIMフリーのiPhoneを販売している国で購入しなくてはならない。
    iPhone を手にしてみると、これ1台で出来てしまうことがあまりに多く、携帯電話というよりも通話機能のついた携帯PCという印象を受ける。今のところ、こうした新しいタイプのものをスマートフォンと称しているが、今にこういう多機能でアプリケーションを次々に追加してカスタマイズできるケータイが主流に、というよりも標準になるのではないかと思う。
    そうした中で、オマケ的なものに過ぎない画像撮影機能であるが、分進秒歩といわれる速い進化の中で、ケータイで充分間に合うからコンパクトデジカメは要らない、という時代がやってくるのではないかという予感がする。
    携帯電話に付随するオマケ機能が、それまで親しんだ専用の道具を脇に押しやってしまった例といえば腕時計が挙げられる。リストウォッチをしている人がずいぶん減っていることに気がついている人は多いだろう。私自身もいつの間にか、まったく使わなくなっている。
    腕時計代わりに携帯電話を買う人はいないのと同じように、カメラ機能が目的でiPhoneを購入する人はいないだろう。だがひとたびこれを手にしてみると『案外使える!』と撮影すること自体がけっこう楽しめるのである。
    そんなわけで『インドでどうだろう、このカメラ?』の一台として、今回はiPhoneに内蔵されているカメラ機能を推してみたいと思う。

  • いつでもどこでもインドの番組

    パソコンで海外のテレビ番組を視聴できるサービスはいろいろあるが、その中でも無料かつ幅広いサービスを提供しているものとしては、TVU networksが挙げられるだろう。
    iPhoneでテレビのプログラムを視聴できるプログラムTVUPlayerを開発した企業だが、パソコンでも同社ウェブサイトから世界各国の番組を観ることができる。
    ホームページの右上あたりにある『Download TVU』をクリックしてプラグインをインストールすると、視聴できる状態になる。インドの放送も25チャンネルほどアクセスできる。ニュース番組が中心だが、ヒンディー、英語以外にもグジャラーティー、ベンガーリー、カンナダ、タミル、テルグー等のプログラムを観ることができる。またクリケットのIPL (Indian Premier League)の専門チャンネルもある。
    TVU networksはインドの番組に特化したサービスではないし、画質もそれなりではあるものの、ブロードバンド環境さえあれば、無料でいろんな国の番組にアクセスできて便利だ。ただし日本の放送局については、国内の法整備等の関係から、どこもネット配信には消極的だ。TVUのウェブサイトでも、利用できる日本のプログラムはマイナー局がひとつあるのみ。
    海外在住邦人はもちろんのこと、生きた日本語に触れる機会の少ない日本語学習者等もあり、決して需要は少なくないはず。映像という解りやすい手段にて『今の日本』をもっと積極的に発信してもらいたいものだ。

  • 頭脳スポーツ

    英語でいうところのSport, Sportsと日本語でのスポーツには少々ニュアンスのズレがあることは、はじめて英字紙を広げたときにチェスのような盤ゲームがその範疇に入っていることを見つけて誰もが感じたことだろう。
    昔、私も初めてそれに気がついたのは、自分にとって初めての外国であったインドで英字新聞を広げていたとき、クリケットやテニスといったスポーツ記事の中にチェスが堂々とスペースを占めているのを目にしたときだ。
    日本語でスポーツは『運動』とも表現され、肉体的な教練・鍛錬の意味合いを含む。そのため身体を使うゲームであっても、ビリヤードは一般的にその範疇のものであるとは認識されない。当然のことながら、座して行なわれる競技、将棋や囲碁といった類は、決してスボーツと見なされることはなく、学校のクラブ活動でも『文化部』という括りとなる。
    日本で、身体以外を使う競技が『マインド・スポーツ』として認知されることはないのかと思っていたら、知らぬ間にその日はすぐそこにまで迫っていたらしい。こんな記事を目にした。
    囲碁棋士日本代表、スポーツの大舞台へ アジア大会派遣 (asahi.com)
    インドと違って日本ではチェスの人気は高くないが、そのチェスの競技枠の中に囲碁と中国将棋が含まれることになるそうだ。日本、韓国、中国、台湾といった東アジア勢が覇を競うことになりそうだが、いずれの国もプロが参戦するらしい。日本棋院も最強のメンバーを送り出すとのことで、メダル獲得に向けて相当気合を入れているようだ。
    上記リンク先の記事中にあるように、他の『スポーツ選手』とともにドーピングの検査も受けることになるというが、ぜひ決勝戦に進出して、和服姿で金メダルを獲得してもらいたいものだ。
    東アジアで広く競技人口を抱える囲碁はともかく、近ごろでは日本の将棋も国外に伝播しつつあるという。羽生名人もやがて『スポーツ選手』として海外のメディアに取り上げられる日が来るのだろうか。

  • ハチの御館

    グジャラート州のバローダーからクルマで1時間ほどのところにあるチャンパーネール。付近の遺跡と合わせてChampaner-Pavagadh Archaeological Parkとして、2004年に世界遺産登録されている。
    平地から丘(というよりも山)の上までに及ぶ偉大な遺跡群で、バローダーから充分日帰りは可能だが、できればここで一泊してじっくりと見学したい。遺跡については、各種ガイドブックやウェブサイト等で紹介がなされているとおり。敢えてここでその来歴等について記す必要はないだろう。
    Jama Masjid
    しかしチャンパーネールのジャマー・マスジッドで、蜂たちが実に立派な巣を複数築いており、思わず我を忘れて見入ってしまった。まるで『クマのプーさん』に出てくる蜂の巣みたいだ。
    立派な蜂の巣
    これまたお見事!
    なかなか風格があります(?)
    庇の下が巣作りに最適のようで・・・
    巣が黒く見えるのは、無数のハチたちが表面を覆っているため。それぞれが細かく羽を震わせて、何か作業をしているようであった。幼虫たちにエサを与えているのだろうか。
    無数のハチたちが蠢いている。
    大きな巣の下部を拡大してみると、六角形をしたひとつひとつのセルが確認できる。更に巣を拡大しようという動きがあるらしいことも見てとれる。こんなものを仔細に観察していて、沢山のハチたちに攻撃を受けるようなことがあってはたまらないのだが。
    さらに拡大しようという意欲に脱帽
    ・・・とはいえ、いやしくも世界遺産指定されているエリアの主要な建築物のひとつ。こんなに巨大なモノが出来上がる前になんとかならないのだろうか?

  • ダマンへ 5

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    ナーニー・ダマンの海岸では、年季の入り、地金が露出しているマニュアル式のニコンやキャノンをぶら下げた写真屋たちが徘徊し、近隣州からやってきた観光客たちに声をかけている。遠浅で、干潮時には少し先にある小島まで陸続きになる。これが夕暮れ時に重なるとなかなか印象的な風景となる。そのタイミングこそが彼らの稼ぎどきのようだ。
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    浜から望むアラビア海のこの眺めは、Damanが『Damão』であった時代から変わることがないはずだ。海原を真っ赤に染め上げる雄大な日没を、往時の人々も日々眺めていたに違いない。
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    昔々、ポルトガルの人々はこの海を越えてやって来て、この地を彼らのものとした。長い時を経て、彼らはまたはるか彼方へと去っていった。
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    〈完〉

  • ダマンへ 4

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    ユニオンテリトリーであるがゆえに、公の施設等ではヒンディーと英語による併記が大半。民間の商店等ではグジャラーティーといった具合である。街の中心部でポルトガル風の建物にヒンドゥー寺院が入っているものは、ポルトガルが去った後に転用されたものではないかと思う。地元の信仰については寛容であったイギリスによる統治と違い、ポルトガル領ではカトリック以外の宗教活動はかなり制限されていたはずである。
    ダマン・ガンガー対岸のモーティー・ダマンに向かう。こちら側ナーニー・ダマンからは、『パブリック』と称される乗り合いオートがある。「グラウンドのところで降ろして」と言っておけば、モーティー・ダマンの城壁南側に着く。ここから徒歩でゲートをくぐれば、ちょうどラテンアメリカの都市で『セントロ』と呼ばれるような街のヘソに出る。きれいに整備された公園の周りに大きな教会やダマンの中央郵便局がある。厳しい建物の刑務所もあった。
    Church of Bom Jesus
    ポルトガル語による賛美歌
    かつてここは、ダマンを支配した権力の中心地であったことから、見事な植民地建築が数多く残されている。もともとよく整備された街区であったことも、たたずまいからよくわかる。往時には支配層の人々もこのあたりに居を構えていたようだ。本土復帰後、城壁内の地域の多くは、統治を継承したインド政府の所有ないしは政府カトリックの教団の敷地である。そのため土地が切り売りされたり、建物が細分化されて間借人たちに貸し出されたりすることも稀であったらしい。昼間でも広々とした通りもとても静かで、人通りもごくまばらだ。やや誇張して言えば、街並みだけを残してゴーストタウン化してしまったかのようでもある。
    巨大なバニヤンの気根のトンネル
    400年もの長きに渡ってポルトガルの街として栄えた『Damão』の濃い面影というよりも、1961年12月、ポルトガルによる支配が終焉を迎えて以来、時計の針の歩みが止まってしまったかのようである。
    このゲートから出るとダマン・ガンガー対岸はナーニー・ダマン
    〈続く〉

  • ダマンへ 3

    カトリックの祠
    朝食を済ませてから、ナーニー・ダマンを散策する。宿泊先のホテルのすぐそばにはメルカード(マーケット)がある。1879年に開設されたこの屋根付き市場は、もともと野菜や生鮮食品等を販売させるためにできたものだというが、1937年に改装・拡張されるとともに、衣類や雑貨といった食品以外のものを商う業者のみが店を開くようになり、現在に至っているという。建物のすぐ脇の横丁の道路では、食料品を扱う行商人たちがお客たちを相手にしている。
    メルカードの名前と開設年
    ダマンの訪問客の大半はグジャラート州あるいはマハーラーシュトラ州から来ているようだ。『BAR』と看板が出ていても、レストランや安食堂を兼ねているところも多い。ゆったりと朝食を摂っているお客もあれば、他のテーブルでは勢い良くビールを空けている者もある変な空間だ。もちろんそうした人たちは地元の人たちではなく、他州から来た観光客であることは言うまでもない。
    城砦の入口
    ダマン・ガンガーの大きな流れはすぐ目の前で河口となり、アラビア海に注いでいる。この眺めに面したところに城砦の門がある。砦には敷地をぐるりと囲む巨大で分厚い壁以外は特に何もないが、中にある教会には今でも人々が集っているし、墓地にも最近埋葬されたことを示す墓碑がある。
    古い墓碑はポルトガル語で記されている。
    いくつも並んでいる墓を眺めると、ポルトガルの治世が1961年に終わってからも、ある時期までは墓標がポルトガル語で書かれていることに気がつく。1980年代くらいから、ようやく英語で書かれるようになったようだ。
    このあたりで、各家庭で主導権を握る世代、ひいては社会の中核を担う世代の交代が始まったことを示すのではないだろうか。つまりポルトガル語世代から英語世代への転換である。1961年時点で18歳前後の年齢層がポルトガル語で教育を受けた最終世代といえるだろうか。
    ポルトガル語から英語への切り替えには多少の移行期間があったとしても、インド復帰時に10代前半くらいであった人たち以降には、教育の場でポルトガル語が教えられることはなく、英語に切り替わっているはずだ。1980年代初めに30代、後半には40代の年齢に達する。そのころのインドでは、引退する年齢は概ね今よりも早い。
    今のところ、ゴアと同じく年配者で、ある程度以上の教育を受けた人ならば、まだポルトガル語を理解するというが、学校を出てからも社会生活の中でポルトガル語を日常的に使用する、あるいは理解できることを前提とした暮らしを送ってきた世代はともかく、ポルトガル時代の末期、つまり学校教育の中でポルトガル語を習得している最中であった世代、あるいはこれから社会に飛び立とうというところで、インドとの併合、つまり英語時代を迎えてしまった年代においては、それ以前の世代と比較してこの言語の運用力に相当の差があるはずであろう。
    ゴアでもダマンでも『年配者はポルトガル語を理解する』ということをよく耳にする。都市部などで、同じ地域に暮らしているインド人同士で、ヒンディーないしは地元の言葉という共通言語があるにもかかわらず、英語で会話をする様子がごく一般的であるように、旧ポルトガル領であった地域で、特に一定以上の層では家庭内でもごく普通にポルトガル語が使用されていたということだ。インド復帰後も、一定の年齢以上のそうした人々の間で、地元の言語グジャラーティー以外にポルトガル語が使われるシーンは少なくないという。
    ゴアでは、今でもポルトガル語によるミサが行われている教会があるし、ダマンにおいてもポルトガル語による讃美歌が歌われていたりするため、今も社会生活上でのポルトガル語はなんとか生き延びていると言えるのだろう。
    しかしポルトガル領であった地域がインドに復帰してから50年にもなろうとする今、ポルトガル時代を、その世相や統治のありかたなどを包括的によく理解している最後の世代を『インド復帰時に18歳』と仮定するならば、現在67歳という高齢の人々、ごく例外的なケースを除き、ほぼ間違いなく社会の第一線から退いて隠居生活を送り、であることは言うまでもない。つまり旧ポルトガル領では、ポルトガル語が、いわゆる『危機言語』的な状況にあることになる。
    1497年のヴァスコ・ダ・ガマがカリカットに上陸してから、とりわけ1510年のゴア征服以降、インドはポルトガルのアジアにおける最も重要な拠点となり、時代によっては必要に応じ、アジア域内の領土を包括する副王(初代はフランシスコ・デ・アルメイダ)が派遣されていたこともあり、一時はポルトガル議会をゴアで開催しようという提案さえあったほどだ。当然のことながら、宗教面でも重要な拠点となり、1534年には、ゴアにカトリックの全アジアを管轄する中心となる大司教座が設置されている。
    インドにおける欧州植民地勢力としては最も歴史が深く、人々の信仰や生活慣習面では極力干渉を避けていたイギリスとは異なり、宗教的に非寛容であったポルトガル支配下において、植民地化の地元社会に対する宗主国の影響力は数段大きかったようである。
    国際的な英語の語彙中には、khaki、bungalow等々、インド起源の言葉は少なくないが、インド統治時代の歴史的な語彙にnabob、boxwallah等々、様々なコトバがある。また現在インドで使用されている英語の中にも、当然のことながら現地での言葉からの借用語は少なくない。bandh、hartalといったスト行動を示すもの、lakh、coreといった数詞などはその代表的なものである。
    詩人ボカージェ(Manuel Maria Barbosa du Bocage)は、軍人として派遣されてダマンに暮らしていたことで知られているが、地元でもポルトガル語による文芸やジャーナリズムといった活動があったことから、旧ポルトガル領地域においても地元の語彙を豊富に吸収した豊かな表現や言い回し、ポルトガル領インドにおける当時の宗主国の言語による文芸活動などからくる知的な遺産もさぞかしあったのではないかと思う。
    旧宗主国を同じくするブラジルで、独自のポルトガル語を発展させていったのと同じく、インドのゴアを中心とする旧ポルトガル領では、彼らならではのポルトガル語を育んでいたはずだ。しかし旧英領地域が主体であるインドへの『復帰』により、教育や社会生活に必要な習得すべき言語が英語に移行してしまったことにより、それまで磐石の重要なポジションを占めていたポルトガル語が、突如として遠い彼方の国で話されている『外国語』の地位に転落してしまう。
    観光案内版では、今もポルトガル語が使用されていることがうたわれている。
    今でも一部年配者たちの間で、細々と命を繋いでいるポルトガル語だが、前述のとおり、仮にインド復帰時18歳であった年齢層をポルトガル語最終世代とするならば、あと3年で70歳となる人々である。一般的に、社会的な影響力を及ぼす年齢ではなくなっているし、この国では平均寿命が63.7歳ということを思えば、あと10年も経てば、旧ポルトガル領地域で今でもポルトガル語を話す人がいるなどとは言わなくなっているだろうし、そこから更に10年後には、ほとんど遠い昔話となっていることだろう。
    そのころには街の通りの名前からもポルトガル語が一掃されてしまっているのかもしれない。
    通りの名前にはポルトガル語が残っている。Rua Dos Bramanesとは『バラモン通り』?
    〈続く〉