ダマンへ 3

カトリックの祠
朝食を済ませてから、ナーニー・ダマンを散策する。宿泊先のホテルのすぐそばにはメルカード(マーケット)がある。1879年に開設されたこの屋根付き市場は、もともと野菜や生鮮食品等を販売させるためにできたものだというが、1937年に改装・拡張されるとともに、衣類や雑貨といった食品以外のものを商う業者のみが店を開くようになり、現在に至っているという。建物のすぐ脇の横丁の道路では、食料品を扱う行商人たちがお客たちを相手にしている。
メルカードの名前と開設年
ダマンの訪問客の大半はグジャラート州あるいはマハーラーシュトラ州から来ているようだ。『BAR』と看板が出ていても、レストランや安食堂を兼ねているところも多い。ゆったりと朝食を摂っているお客もあれば、他のテーブルでは勢い良くビールを空けている者もある変な空間だ。もちろんそうした人たちは地元の人たちではなく、他州から来た観光客であることは言うまでもない。
城砦の入口
ダマン・ガンガーの大きな流れはすぐ目の前で河口となり、アラビア海に注いでいる。この眺めに面したところに城砦の門がある。砦には敷地をぐるりと囲む巨大で分厚い壁以外は特に何もないが、中にある教会には今でも人々が集っているし、墓地にも最近埋葬されたことを示す墓碑がある。
古い墓碑はポルトガル語で記されている。
いくつも並んでいる墓を眺めると、ポルトガルの治世が1961年に終わってからも、ある時期までは墓標がポルトガル語で書かれていることに気がつく。1980年代くらいから、ようやく英語で書かれるようになったようだ。
このあたりで、各家庭で主導権を握る世代、ひいては社会の中核を担う世代の交代が始まったことを示すのではないだろうか。つまりポルトガル語世代から英語世代への転換である。1961年時点で18歳前後の年齢層がポルトガル語で教育を受けた最終世代といえるだろうか。
ポルトガル語から英語への切り替えには多少の移行期間があったとしても、インド復帰時に10代前半くらいであった人たち以降には、教育の場でポルトガル語が教えられることはなく、英語に切り替わっているはずだ。1980年代初めに30代、後半には40代の年齢に達する。そのころのインドでは、引退する年齢は概ね今よりも早い。
今のところ、ゴアと同じく年配者で、ある程度以上の教育を受けた人ならば、まだポルトガル語を理解するというが、学校を出てからも社会生活の中でポルトガル語を日常的に使用する、あるいは理解できることを前提とした暮らしを送ってきた世代はともかく、ポルトガル時代の末期、つまり学校教育の中でポルトガル語を習得している最中であった世代、あるいはこれから社会に飛び立とうというところで、インドとの併合、つまり英語時代を迎えてしまった年代においては、それ以前の世代と比較してこの言語の運用力に相当の差があるはずであろう。
ゴアでもダマンでも『年配者はポルトガル語を理解する』ということをよく耳にする。都市部などで、同じ地域に暮らしているインド人同士で、ヒンディーないしは地元の言葉という共通言語があるにもかかわらず、英語で会話をする様子がごく一般的であるように、旧ポルトガル領であった地域で、特に一定以上の層では家庭内でもごく普通にポルトガル語が使用されていたということだ。インド復帰後も、一定の年齢以上のそうした人々の間で、地元の言語グジャラーティー以外にポルトガル語が使われるシーンは少なくないという。
ゴアでは、今でもポルトガル語によるミサが行われている教会があるし、ダマンにおいてもポルトガル語による讃美歌が歌われていたりするため、今も社会生活上でのポルトガル語はなんとか生き延びていると言えるのだろう。
しかしポルトガル領であった地域がインドに復帰してから50年にもなろうとする今、ポルトガル時代を、その世相や統治のありかたなどを包括的によく理解している最後の世代を『インド復帰時に18歳』と仮定するならば、現在67歳という高齢の人々、ごく例外的なケースを除き、ほぼ間違いなく社会の第一線から退いて隠居生活を送り、であることは言うまでもない。つまり旧ポルトガル領では、ポルトガル語が、いわゆる『危機言語』的な状況にあることになる。
1497年のヴァスコ・ダ・ガマがカリカットに上陸してから、とりわけ1510年のゴア征服以降、インドはポルトガルのアジアにおける最も重要な拠点となり、時代によっては必要に応じ、アジア域内の領土を包括する副王(初代はフランシスコ・デ・アルメイダ)が派遣されていたこともあり、一時はポルトガル議会をゴアで開催しようという提案さえあったほどだ。当然のことながら、宗教面でも重要な拠点となり、1534年には、ゴアにカトリックの全アジアを管轄する中心となる大司教座が設置されている。
インドにおける欧州植民地勢力としては最も歴史が深く、人々の信仰や生活慣習面では極力干渉を避けていたイギリスとは異なり、宗教的に非寛容であったポルトガル支配下において、植民地化の地元社会に対する宗主国の影響力は数段大きかったようである。
国際的な英語の語彙中には、khaki、bungalow等々、インド起源の言葉は少なくないが、インド統治時代の歴史的な語彙にnabob、boxwallah等々、様々なコトバがある。また現在インドで使用されている英語の中にも、当然のことながら現地での言葉からの借用語は少なくない。bandh、hartalといったスト行動を示すもの、lakh、coreといった数詞などはその代表的なものである。
詩人ボカージェ(Manuel Maria Barbosa du Bocage)は、軍人として派遣されてダマンに暮らしていたことで知られているが、地元でもポルトガル語による文芸やジャーナリズムといった活動があったことから、旧ポルトガル領地域においても地元の語彙を豊富に吸収した豊かな表現や言い回し、ポルトガル領インドにおける当時の宗主国の言語による文芸活動などからくる知的な遺産もさぞかしあったのではないかと思う。
旧宗主国を同じくするブラジルで、独自のポルトガル語を発展させていったのと同じく、インドのゴアを中心とする旧ポルトガル領では、彼らならではのポルトガル語を育んでいたはずだ。しかし旧英領地域が主体であるインドへの『復帰』により、教育や社会生活に必要な習得すべき言語が英語に移行してしまったことにより、それまで磐石の重要なポジションを占めていたポルトガル語が、突如として遠い彼方の国で話されている『外国語』の地位に転落してしまう。
観光案内版では、今もポルトガル語が使用されていることがうたわれている。
今でも一部年配者たちの間で、細々と命を繋いでいるポルトガル語だが、前述のとおり、仮にインド復帰時18歳であった年齢層をポルトガル語最終世代とするならば、あと3年で70歳となる人々である。一般的に、社会的な影響力を及ぼす年齢ではなくなっているし、この国では平均寿命が63.7歳ということを思えば、あと10年も経てば、旧ポルトガル領地域で今でもポルトガル語を話す人がいるなどとは言わなくなっているだろうし、そこから更に10年後には、ほとんど遠い昔話となっていることだろう。
そのころには街の通りの名前からもポルトガル語が一掃されてしまっているのかもしれない。
通りの名前にはポルトガル語が残っている。Rua Dos Bramanesとは『バラモン通り』?
〈続く〉

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