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  • 彼方のインド 3

    どこかの教会からカランカランカランカランと長く連続する鐘の音が聞こえてくる。植民地時代からずっと続いてきたものなのだろう。はるか彼方から渡ってきたイギリス人たちが去ってからも、彼らがこの地に残したクリスチャンたちの間でその信仰はしっかりと根付いているのだろう。
    Purcell Tower
    宿で自転車を借りて市内散策。まずはPURCEL TOWERという時計台のあたりへ。ここは賑わうマーケットとなっている。屋根の付いた大きな市場もあるし、その脇の道路では様々な食べ物の屋台が店を開いている。
    屋台
    このあたりにはインド系の人々も多く、いくつものヒンドゥー寺院やモスクがある。通りを数台のバイクにまたがったスィク教徒の若者たちの姿もある。インド系の人が経営する安宿もあるようだ。そんなわけでこのエリアではインド系の人、とりわけ一軒の店を構えている人物相手ならば、かなり普通にヒンディーが通じる。
    シュリー・クリシュナ寺院
    シュリー・ガネーシュ寺院
    そうした人々が切り盛りする店のひとつに入って腹ごしらえする。ローティーとともにサブズィーやダール等のおかずのターリー。客席で注文を取る男も厨房で大汗かいて働いている人も北インド平原部で見かけるような風貌の人たちであるだけに、インドのダーバーと同じようなものが出てきたが、口にしてみるとかなり砂糖の甘みを感じることに、ここが東南アジアであることを感じる。
    ターリー
    食事を終えてから自転車にまたがると、サドルから突き出ていた金具にズボンが引っかかって裂けてしまった。メインストリートを渡ったところにある屋根付きの市場に行く。インドにしてもミャンマーにしても、身に付けるものが壊れても、修理屋がすぐそこにあるのはありがたい。
    いくつかの仕立屋があった。働いているのは若い女性が多かった。大汗かいて湿った、ところどころ塩を噴いたようになっているズボンを託すのは気恥ずかしいため、どこかオジサンのやっているところはないか?と思えば、ほどなく見つかった。ロンジー(インドでいうところのルンギー)を借りて、ズボンを預ける。
    店の人、Sさんはかなり流暢なヒンディーを話し、英語もなかなか上手な感じである。話すこともなかなか知的で、町角の仕立屋さんというよりも学校教師のような雰囲気がある。ズボンが直ってからもしばらく彼の話を聞いていると、もうひとりインド系の人がやってきた。このKさんは長らくヒンディーを教えることを生業してきたのだという。ミャンマーの学校教育でヒンディーが教えられることはないのだが、個人的に家庭教師や講師として雇われて教えてきたそうだ。
    同胞が集中しているコミュニティで生活していれば自然と身に付いていくものとはいえ、そうではない生活条件の人もある。またミャンマーでのヒンディーは生活や仕事の中での口語が中心である。ヒンディーによる報道等のメディアは原則として禁止されているし、文芸活動も無い等しいだろう。そんなわけで、ビルマ語の読み書きは問題なく(この国の識字率は89.7パーセント。ベトナムとともに後発発展途上国の中では突出している)ても、ヒンディーによる読み書きはできないということが珍しくないようだ。それがゆえにヒンディー教師の需要があるらしい。
    Sさん(左)とKさん(右)
    SさんもKさんもビハールからやってきた移民の四代目にあたる。前者はムスリムで後者はヒンドゥー。どちらも先祖が農業移民としてやってきた。今も昔もビハールは無尽蔵の労働力の供給基地のようだ。多くの場合、数世代経ると先祖の故郷の土地の名前は知っていても、すでに遠縁となった現地の親戚との繋がりは途絶えてしまうが、驚いたことKさんは2000年に訪印して曽祖父が生まれ育ったガヤー近郊の村を訪問したのだという。
    たとえその言葉をヒンディーと呼んでもウルドゥーと呼んでも、そのコトバで話すことがやけに歓迎され、店先で「これ試してみてよ」とミターイーを渡されたりもする。そのコトバがインドではずいぶん隅に置かれているのとはかなり違うようだ。
    もちろん本場同様、社会的に高いステイタスを持たない普段着のコトバであるにしても、『本場』ではごく当たり前で誰もが話す普遍的な言葉であるのに対して、ここでは、ビルマ語の大海の中で、自分たちのコミュニティ内でしか通用しない利便性の低い言語ではあるものの、裏を返せばコミュニティの結束や文化・伝統を維持する民族語としての誇りがあるがゆえのことだろう。
    インド系とはいっても、圧倒的大多数はインドを訪れたことがない。それでも強い関心はあるようだ。デリーやムンバイーの街の様子、現在のラクナウーやパトナーがどんな具合かといったことを少し話すだけで、矢継ぎ早に様々な質問を受けることになる。
    独立後の政策により、とりわけ1960年代以降は、行政・教育等のビルマ語化が強力に推し進められてきたこの国では、意外なほど英語が通じない。また私はビルマ語はまったく知らないので、旅行中は往々にして無言の行みたいになってしまう。それだけにビルマ語の大海の中に点在するインド空間では人々の話がいろいろ聞けて和む。
    メイミョーへのインド系移民の出身地の最たるものは、やはりU.P.こと英領時代のUnited Provinces(ウッタラーカンドが分離する前のウッタル・プラデーシュととほぼ同じ範囲)とビハールが多いそうだ。カマルさんの曽祖父はビハールのパトナーからやってきた人のことで、鉄道建設関係でも、兵士でも役人でもなく、農業移民だったとのこと。今も昔もビハールは労働力の供給基地みたいな感じである。
    他にも祖父が鉄道員だったとか、軍人であったという人たちの話も聞いた。1857年の大反乱以降、それ以前は兵士のリクルート先として比重の高かったベンガルを中心とする東部から、パンジャーブを中心とする西部ならびにネパールのグルカ兵へと比重が移っていったため、後者の場合はそれらの地域を起源とする人たちが多かったのである。
    第三次英緬戦争時にマンダレーに上陸する英軍
    根掘り葉掘り尋ねたりしなくても、なぜあなたがたがここに?と問うだけで、人々は自らの家族史を語り始めるので聞いていてなかなか面白い。
    英領期のインドからの移民の送り出し要因、出向いた先の引き寄せ要因などはいろいろ研究されている。しかしながらここに渡ってきた人々の日々の生活と収入の手段の変遷、何割くらいの人々が契約・赴任期間満了等で出身地に戻ったのか、故郷に帰ることなくここに定着した人々がそれを決めた理由、現地定住以降のコミュニティ形成、故郷との連絡状況、婚姻や通過儀礼等、社会・経済的立場等々を調べると、いろいろ興味深いものが出てくるのではないかと思う。
    20世紀初頭には、ラングーン(現ヤンゴン)の人口のおよそ半分はインド人たちが占め、当時のビルマ最大の都市は文字通り『インドの街』であったこともある。その他ピンウールィン、シットウェー、パテインその他インド系の人々が多数定住しているところは多いが、1937年の英領インドとの分離、1948年のイギリスからの独立、1962年の軍事クーデターいう三つの大きな節目はそれぞれインド系の人々に不利に働いたため、多くの資本や人々がこの国を離れてインドないしは第三国へ移動している。
    インドの一部を成していた時代には、様々な分野の労働者以外に、行政の中堅・下級官吏の多くをインド人たちが占め、軍の将兵の多くもインド人たちであったが、その後彼らはそうした地位から追われることとなり、行政・政治の分野で支配的な立場から姿を消すこととなった。そんなわけでインドの年配者の中で『昔、ビルマで生まれ育ちました』という人に今でもごくたまに出会うことがある。
    せっかくミャンマーまでやってきて、こんなことに関心を持つのもなんだが、やはり「一時期インドの一部を成していたビルマ」である。
    インドとの分離直前のビルマ
    先日取り上げてみた Candacraigをはじめとするヘリテージ・ホテルに転用されたもの以外にも、往時に建設されたバンガローはいくつも現存している。また政府の建物にも英領期のくたびれたものが多く見られる。
    発展から取り残された国であるがゆえに、インドのヒルステーション全般と比較して、植民地期のものがよく残っているといえる。そうしたものが取り壊されることなく、また最近出来た新しい建物に規模の点でも圧倒されることなく、豪壮な威厳を保っていることも特徴であるといえる。しかしそうした状態は、いかにこの国の停滞ぶりを示すものであり、決して文化財や歴史的建造物の保全が充実しているといったものではない。
    目下、ビンルーウィンことメイミョーは、ITシティーとしての発展が期待されているのだという。今のところ町を流してみてITを感じさせるものは何ひとつ見当たらないが、国としてはそういう方針らしい。高原の町ということもあり、インドのバンガロールを小さく小さくスケールダウンしたようなものを目指しているのだろうか。
    〈続く〉

  • ブンガワン・ソロは永遠に

    インド関係ではなく、突如『インドネシア』ネタで恐縮である。
    16世紀に交易のため渡ってきたポルトガル人たちとの交流にオリジンを持つといわれるインドネシアの大衆音楽クロンチョン。西洋起源の弦楽器(ギター、チェロ、ヴァイオリン等)と管楽器(フルート、クラリネット等)を使うが、言葉がインドネシア語であるのはもちろん、インドネシア的な旋律で演奏するクレオールな音楽だ。
    そのクロンチョンの古典的な名曲で、同国の国民歌とも言うべき『ブンガワン・ソロ』の作者グサン・マルトハルトノが今月20日に亡くなった。享年92歳。
    1940年に作られたこの曲は、当時ラジオが普及し始めたインドネシアで大ヒットした。旧日本軍の慰問関係で同国内各地で演奏していたため、第二次大戦で同国へ出征した日本軍兵士に間でも広く知られ、人気のある曲であったようだが、この国を植民地としたオランダ人在住者たちもそのメロディーに惚れ込んだという。
    やがてその人気は国境を越えて日本にも及ぶ。1948年には松田トシが和訳歌詞でレコードを出している。もっとも当時はインターネットのような情報共有手段もなく作者が誰なのかは知られておらず、グサン・マルトハルトノが作った曲であることが『発見』されたのはかなり後になってのことである。

    現在のインドネシアでも、クロンチョン音楽界を代表する女性歌手スンダリー・スコチョはもちろんのこと、今でも様々な歌手がカヴァーしている名曲だ。今後も長く歌い継がれていくことだろう。

    ブンガワン・ソロの作者が死去 グサン・マルトハルトノ氏 (47 NEWS)
    ※『彼方のインド3』は後日掲載します。

  • KKHの湖

    中国の援助により1966年に着工し、20年後の1986年に全線開通したパーキスターン北部から中国新疆ウイグル自治区へと抜ける国道35号線、通称カラコルム・ハイウェイ(KKH)は、厳しい地理条件のところを通っているため、しばしば崖崩れや落石で不通となるが、今回はこれまでになく深刻である。中パの間の陸路交通手段の途絶以上に現地の多くの方々の人命や財産にかかわる大きなトラブルが発生しているからだ。
    フンザ地区で今年1月に発生した大規模な崖崩れが発生。その際にふたつの村とそこに暮らしていた人々が犠牲となっているが、岩石や土砂がダムを形成し、川が堰き止められたことにより湖が出来上がってしまい、周辺地域の他の村落等が水没するなどの影響を及ぼしている。カラコルム・ハイウェイもこの部分で交通が途絶している。
    Update: Pakistan’s Karakoram Highway Blocked by Major Landslide (Matador Trips)
    現在、湖はコンスタントに成長しているおり、近々決壊することが予想されるなど、非常に危険な状態にあるそうだ。そういう事態となれば、大量の水が土砂とともに鉄砲水のように下流地域の村々を襲うことになるからだ。
    パーキスターンで観光ガイドをされている方のブログ『フェイサル・シャーのパキスタン便り』でもその模様を取り上げており、「5月から雪解け水が増えるから6月から8月までフンザ河の流れがとても激しくなり・・・」とあるように、ますます拡大する湖を前に緊迫した状況がうかがえる。
    今後の進展が気になるところである。
    The water bomb (DAWN.COM)

  • マンガロールで航空機事故

    AAJ TAKニュース画像
    エアインディア・エクスプレスはマンガロール・ドゥバイ間を毎日2往復しているが、本日ドゥバイを午前1時15分に出発して折り返すIX812便が午前6時頃マンガロール空港到着時の着陸失敗により、乗員6名および乗客160名合わせて166人のうち158名が死亡、8名が負傷という痛ましい惨事となった。
    すでにエアインディア・エクスプレスから160名の搭乗者リストが公開されている。ほとんどはUAEないしは他の周辺産油国から戻るインドの人々であったと思われる。
    IX812が滑走路にタッチダウンした時点で、通常の着陸ポイントを200 m越えており、速度もかなり超過していた。このままではオーバーランするとみた機長は、再度離陸を試みたものの間に合わず、離滑走路端にある90 mのマージンを越えた先にある塀ないしは樹木に接触するとともに、機体は斜面に落下した。
    着陸時に速度超過、ブレーキ等が充分動作しなかった理由その他、事故原因の詳細は今後ブラックボックス(この記事を書いている時点ではまだ発見・回収されていない)の解析や現場検証などにより分析を待たなくてはならない。
    事故機を操縦していた機長は、これまでに1万時間の操縦経験を持つ、近年ジェットエアウェイズから移籍した英国籍のセルビア人パイロットである。ドゥバイを午後1時に出て、マンガロールに午後6時15分に到着するIX384とともに、使用する機材はボーイング737-800。以下、事故を起こしたものと同型機の画像である。
    エアインディア・エクスプレスのボーイング737-800機
    マンガロール市の北東方面に位置する空港の俯瞰図は以下のとおり。

    大きな地図で見る
    同空港は2本の滑走路を持ち、上に示した衛星写真でグレーがかって見える部分はアスファルトで出来た旧来からの第一滑走路、白っぽく見えるものは2006年から使用開始されているコンクリート舗装の第二滑走路だ。今回事故機が着陸したのは後者の滑走路である。
    航空写真ではよくわからないが、空港のロケーションが台地にあり、滑走路の両端のすぐ外がスロープになっている。第一滑走路は長さ1600 mあまりしかなく、加えて高度差が7 mの『斜面状態』てあることから危険な空港として知られていたが、第二滑走路が完成することにより改善され、従来よりも大きな航空機の着陸が可能となっている。
    それでも全長2450 m であり、ほぼ同規模と思われるカリカット空港の滑走路が2900 m 近くあることに比較してかなり見劣りし、悪天候というコンディションが加われば、かなり難易度の高い空港であるとされる。
    つい先日、新しいターミナルビルの運用が開始されるにあたっての式典で、航空大臣が滑走路を延伸させる計画を発表したのは、航空当局はそのリスクを認識していたからだろう。
    エアインディア・エクスプレス以外には、エアインディア、ジェットエアウェイズ、キングフィッシャーといった航空会社が就航している。国際線ルートを持つのはエアインディア・エクスプレスのみ。
    先の述べたとおり、事故原因等については今後当局による分析を待たなくてはならない。しかし近年のインドの主要空港、とりわけローコストなキャリアが急伸して以降、許容量を越える乗客数を捌いている。高まる需要を背景に便数が伸びるが、空港を含めた航空施設という肝心のインフラ部分の整備は常に後手に回っているのが現状だ。
    管制その他運行そのものにかかわる部分、航行の安全にかかわる部分についても、かなり厳しいものがあるであろうことは想像に難くない。
    マンガロール空港はさほどスケジュールの過密な空港ではないのだが、カリカット、コーチン、トリバンドラムといった南インドのアラビア沿岸の空港は、国内線はもとより産油国方面へのフライト(多くの日本人にはあまり縁がないが)の需要が高い。
    このたび事故で亡くなった方々のご冥福をお祈りいたしたい。
    Mangalore: Air India aircraft overshoots runway, 159 dead (The Times of India)
    ※『彼方のインド3』は後日掲載します。

  • 彼方のインド 2

    酷暑のマンダレーからシェアタクシーで走ると肌に当たる風が熱い。それでも比較的なだらかな斜面を上っていくにつれて、熱風の中にときどき爽やかな冷気のようなものがかすかに感じられるようになってくる。
    昼下がりに海抜1,100 mにも満たない場所にあるピンウールィンに到着してみると、さほど清涼な気候とはいえなかった。それでも平地の暑さに較べればまだしのぎやすいことは確かだ。日没後はエアコンなど不要で、ときおりテラスを抜けいく風が心地良く、半袖で快適に過ごすことができた。
    ここでの宿泊先はThiri Myaing Hotel。通称Candacraigと呼ばれている。もともとはBombay Burmah Trading Corporationの保養施設として設立されたときの名称だ。
    Candacraig Hotel
    エジンバラ出身で1840年代にボンベイへと渡り、主に茶葉の取引に携わっていたイギリス人実業家がラングーン(現ヤンゴン)で1860年代にラングーンで設立した、主にビルマとタイのチーク材の取引を行なう歴史的な会社である。現在ではインドのワディア・グループの一部門となり、ムンバイーを本拠地としているが、同社ウェブサイトのトップページ
    を見てわかるとおり、業務の主軸を紅茶、コーヒー、ゴムのプランテーションとしている。
    吹き抜けはこんな具合
    Candacraigはピンウールィンを代表するヘリテージ・ホテルとはいえ、本来は植民地期の会社の施設であり、ホテルとしての伝統や格式などは持ち合わせない。しかしヒルステーションでこうした歴史的な建物に宿泊できるということ自体がちょっと嬉しい。
    ヒルステーションとはいえ、暑季はオフシーズンなので朝食付き一泊25ドルとエコノミーであった。可処分所得の低い国であるため、国内旅行産業があまり発達していないことの証でもあり、インドとはかなり事情が異なる。
    1906年に完成したこの建物は、1948年にこの国が独立した際に国有化されてから農業省管轄下でホテルに転用され、現在では政府系の観光促進機関であるMHTS (Myanmar Hotels and Tourism Services)が運営している。
    ピンウールィンには、MHTSが経営するホテルがあと2軒ある。ひとつは同じくBombay Burmah Trading Corporationの施設であったGandamar Myaing Hotelで、往時はCroxtonと呼ばれていたもので、Candacraigとよく似た様式の建物である。
    Croxton Hotel
    もうひとつはNan Myaing Hotelで、別名Craddock Courtとも呼ばれている。もともと何の建物であったのかはよくわからないが、『しばしば幽霊が出る』という噂があるようだ。
    ただし政府系のホテルであるがゆえに、『ミャンマー政府の手による旅行会社や宿を使わずに民間にお金がいくようにしよう』と唱えているロンリープラネットのガイドブックには、これらを宿泊先としては紹介されていない。ただ見どころとして建物を挙げているのみだ。同社のガイドブックは、タイトルによって著者が違う。そのためチャプターの構成はどのタイトルも共通しているものの、書き手の視点がかなり異なることもよくある。
    ミャンマーのガイドブックについては、あくまでも反政府的な視点となっており、まずは「ミャンマーに行くべきか行かざるべきか」というチャプターさえもある。旅行ガイドブックなので、行くも行かないもないだろうと思うのだが。
    インターネットでの情報源として、THE IRRAWADDYやMIZZIMAなど、いくつか優れたニュース関係サイトを紹介してあるのはいいのだが、どれもミャンマー国外をベースとする反政府なスタンスのものばかりだ。ミャンマー政府がどうであるかについては各自が考えるべきものであり、ガイドブックやその著者が押し付けるべきものではないだろう。
    政府、政府と批判しているが、批判されるべきは軍をバックグラウンドとするこの国の政権であり、政府機構そのものではない。1988年の民主化運動の際、デモに加わっていたのは学生や民間セクターの人々ばかりではなく、非常に大勢の政府職員や公共セクターの人々もそれに参加していたことを忘れてはいけない。
    公務員はそこに雇用されている労働者に過ぎない。多くの場合、自らの生産手段を持たないがゆえに、雇用を得るために就職した先がたまたま公の機関であるということである。もちろんその採用の際に何がしかの出費ないしはコネが必要であったとしても。
    そうしたことはともかく、コロニアルなホテルがあるのならばどこの所有だろうが泊まってみたほうがいい。往々にして『政治史』『行政史』に偏りがちな歴史の中で、あまり記されることのなかった在緬の民間イギリス人たちの出入りが感じられる。まさにこの場所で彼らは活動していたのだ。
    宿泊費込みの朝食以外を注文することはできず、昼食と夕食はどこか外に出かけなくてはならないという商売っ気のなさだが、Candacraigはメンテナンスも良く、往時の雰囲気をかなりきちんと残しているように思われるのでなかなかオススメの宿である。
    ここはしばしば映画やドラマのロケにも利用されるのだそうだ。私が滞在しているときにも、グラウンドフロアーで撮影が進行中であった。撮影中には映画のディレクターの父親が同行しており、この人は数年間日本で暮らした経験があるとのことで、日本語のできる人であった。ミャンマー映画についてはよく知らないが、彼によるとけっこう有名な俳優たちが出演するアクション映画なのだとか。
    ミャンマー映画の出演者たち
    演技をしている彼らを照明その他様々な小道具等の担当者が取り囲んでいるが、比較的ゆったりとしたペースで仕事が進行中であった。私はしばらく見物してから外出したが、日中一杯カンダクレイグでの撮影は続いていたようだ。ようやく日没近くなってから終了し、撮影の機材関係の人たちは、チャーターした乗合ピックアップトラックの屋根にまで、人間・機材ともに満載で帰るところだった。映画撮影とはいえ素朴なものであった。

  • 彼方のインド 1

    ピンウールィン特産のイチゴ
    ミャンマーのマンダレーから乗り合いタクシーに乗って2時間ばかり揺られるとピンウールィンに着く。かつてはメイミョーと呼ばれていたヒルステーションである。
    1885年に開始、翌1886年にビルマ最後の王朝であったコンバウン朝を降伏させ、イギリ英領としてビルマを統一するとともに、これを英領インドに編入させることになった。
    その3年後にはメイミョーの建設が始まっている。国土のほぼ中央に位置する高原に設置された英軍の基地の町であったが、夏季には乾燥した灼熱の大地となる中部ビルマにありながらも、海抜1,000メートル前後という立地のため比較的過ごしやすい気候であるがゆえに、インドでのそれと同様のヒルステーションとして発展することとなる。
    開発当初は軍の駐屯地ならびに保養地、のちに文民たちをも含めた避暑地としてのヒルステーションへと発展というパターンは、インドの多くのヒルステーションと同様だ。
    ちなみにメイミョーとは『メイの町』の意味。1857年のインド大反乱を経験したヴェテラン軍人、メイ大佐のちなんだ命名である。今でもアングロ・バーミーズ、アングロ・インディアン、その他のクリスチャンが多い土地だ。
    同様にインド系、ネパール系の住民がとても多いことでも知られている。前者は北インド系が大半だが、中でもパンジャービーは後者の中でグルカ兵としてやってきた人の占める割合が高いネパール系とともに軍人として渡ってきた人々の子孫であることが多いようだ。
    またビハールやU.P.出身者は鉄道建設や農業労働者として来た人々の末裔が高い割合を占めているようだ。ここの人々が言うところのU.P.とは、往々にして現在のUttar Pradeshではなく、United Provinces of Agra and Oudhないしは、1921年に行政区が改名されてからのUnited Provincesである。どちらにしてもウッタラーカンドが分離する前のUttar Pradeshの範囲とほぼ重なるのだが。
    鉄道建設とヒルステーションも非常に縁の深いものがある。避暑地とはいえ政治的にも文化的にも重要性の高い土地であったからこそ鉄道が引かれたのか、あるいはもともとそれなりの規模があったことが需要を喚起したことにより鉄道が敷設されたのか、卵が先かニワトリか?みたいなことになるが、インドでも第一級のヒルステーションでは鉄道によるアクセスが可能だ。
    ダージリンは1878年、シムラーは1898年、ウータカマンドでは1908年に、俗にトイトレインと呼ばれる狭軌のゲージに小型車両が走行する鉄道オープンしている。
    ピンウールィンことメイミョーは、マンダレー管区とシャン州の境目に位置する。19世紀末に開通したマンダレーから北東方面のラーショーへと向かう路線の途中駅である。
    ピンウールィン駅
    同じくマンダレーからほぼまっすぐ北上するミッチーナーが終着駅となる路線の途中駅にはカターという町がある。現在ビハール(当時はベンガル・プレジデンシー)のモーティハーリーで生まれたイギリス人作家ジョージ・オーウェルが警察官として赴任したことのある町である。英国時代には北部辺境地域を臨む前哨地域として大きな意味を持つ場所であったようだ。
    カターの町は、オーウェルの処女作『Burmese Days(邦題:ビルマの日々)』の中ではチョークタダーという名前に変えてある。この小説の冒頭にはオーウェル自身がスケッチした町の簡単な地図が挿絵として掲載されている。
    その地図、また作品の中で描写される町のたたずまいが、今でも当時とあまり変わらずに現在に至っているとのことだ。長らく発展から取り残されてきたことから、意外に古いものがよく残っているということはミャンマーでは珍しくない。今回は訪れてみる時間がないのだが、いつか機会があれば足を伸ばしてみたい。
    イチゴジャムも美味であった

  • ヒルステーション

    家族連れがそぞろ歩いていたり、カップルがいちゃいちゃしていたりする、軽井沢みたいな土地のどこがいいのだ?と言われれば、確かにそうだと頷くしかない。確かにそういう雰囲気に特に何の関心もない。小洒落たカフェやナイトスポットならば、もっといいところが平地の大都会にはいくらでもある。
    結局のところ避暑地であるが、欧州列強の植民地、往々にして熱帯の土地であるが、暑季の耐え難い気候から一時的に逃れるため、あるいは療養などを目的に訪れるためなどに建設された町である。もちろん暑さに参ったのは文民だけではない。ヒルステーションには往々にして相当規模の軍の駐屯地も存在してきた。
    今の時代は、どこでもエアコンの効いているスペースならば暑さを忘れることができるとはいえ、暑季のインドで標高の高いところに来たときのアウトドアでの清涼感は何ものにも替えがたい。だが涼しいだけならば、標高の高いところならばどこでも清涼な気候を楽しむことができるわけだが。
    だがヒルステーションにしかないものもある。それは英領期に築かれた歴史的な遺産とそうした土地であるがゆえの空気である。例えとしては適切ではないかもしれないが、敢えて言ってみれば、広大な中国で漢民族たちはどこにも同じような街を作っている。北京、上海だろうが、非漢民族の自治区(主要都市のマジョリティは漢民族だったりするが)の大都市、たとえウルムチであれ、ラサであれ中心部の街角は酷似している。
    同様にイギリス人たちが築いたヒルステーションは、どこも立地といい、町の佇まいといい、非常に共通するものが多い。『リッジ』があり、『モール』があり、数々の公共の建物や教会、今も残るバンガローその他の個人所有の建物等々が並ぶ。
    たとえ彼らがその地を去って60年以上の歳月が経過しているとはいえ、往時の面影を色濃く残しているものである・・・と言いたいところだが、90年代以降のインド国内での観光ブームによる開発のため、あながちそうとはいえない。とりわけハイ・シーズンに訪れると、そこはまさに日本の軽井沢状態であったりする。
    植民地的な景観の『町並み保存』を訴える向きがあるのかどうかは知らないが、英国的な景観には事欠かないインドにあって、特にそうしたものに興味関心もないであろうことは容易に想像がつく。
    スリランカのヌワラ・エリヤ、マレーシアのゲンティン・ハイランド、旧仏領のベトナムのダラート、旧蘭領であったインドネシアのバンドゥンなどがよく知られており、アフリカにもそうした保養地はいくつかあるが、ヒルステーションが最も発達を遂げたのはインドだ。かつての英国の海外領土の中でも別格で、イギリス本国の植民地省とは別のインド省を通じて支配された地域であり、英領時代のボンベイ管区はアラビア半島で貿易港アデン他の拠点を管轄するなど、言うならば「海外植民地を持つ植民地」のような存在であっただけのことはある。
    また単なる避暑地のみならず、ダージリンやシムラーのように、暑季に行政の中枢が平地から移動する夏の臨時首都といった様相を呈するほどの重要性を持ったヒルステーションは、旧植民地であった南の国々にあっても稀だ。
    なにしろエアコンのない時代であり、医療も発達していなかった時代だ。インドに駐在するイギリス人をはじめとする欧州人たちの死亡率は今と比較にならないくらい高かった。とりわけ暑季は彼らの生命をも左右する、としては言い過ぎであるにしても、政治・行政機能を期間限定で移転するという非効率さと膨大なコストと引き換えにまでして得たかったのが、そうした時期のヒルステーションの気候と環境だ。
    日本の軽井沢や清里がそうであるように、インドの人々にとってもそこは単に避暑地であり商業活動の場である。資本主義の世の中で、需要があれば供給がなされる。それによって訪れる人々は必要なサービスを受け、そこで働く人々は収入を得る。
    そうした中で景観が変わっていくのは当然のことだが、数十年の時間を経てもなお往時の面影を感じられることこそが、ヒルステーションの味わいではないかと思う。
    チャンディーガルからシムラーに向かうルートから枝道に入ると到着するカサウリーは、シムラーが大変込み合う時期でも比較的空いており、あまり商業的に活発な場所ではないためもあって、旧い町並みがよく残っている。ただし歴史的に軍とのつながりが非常に強く、カサウリーのかなりの部分の土地を今でも軍用地が占めているのがやや難ではあるのだが。
    数年前に『カサウリー ビールとIMFL(Indian Made Foreign Liquor)の故郷』として取り上げてみたように、インドにおけるビールを含めた洋酒の原点とも言える土地である。ここで創業したダイヤー・ブルワリーは、現在パーキスターンとなっている西パンジャーブ地方のヒルステーションとして知られるマリーでも同様に酒造業を展開していた。
    他にも現在パーキスターンとなっている土地ではラーワルピンディー、クエッタ、インドではシムラーやウーティー、現在ミャンマーとなっているマンダレーといった広範囲にも酒造業の拠点を築くに至った。洋酒文化の伝播という点からもヒルステーションが果たした役割は大きかったといえる。

  • パフラット

    スワンナプーム空港近くのホテルからバンコク市内のチャイナタウン地区の南側にあるパフラットに足を伸ばしてみた。このあたりにはインド系の人々の姿が特に目立つ。
    インド人地区といってもそれらしきエリアはごく限られているものの、グルドワラーを中心に広がる彼らの商業地域でインド系の人々の姿が集中している度合いはかなり高く、パーキスターンやネパールから来た人々も多く出入りしていたり働いていたりする。
    本国や周辺国との行き来もなかなか盛んなようで、『結婚のためパンジャーブから移住した』という雑貨商のおばさんがいたり、ネパール人だという出稼ぎ男性は実のところネパールから英領時代のミャンマーに移住した人の子孫だったりする。
    そんなパフラットのインド人地区では、様々なインド製品が売られていたり、インドにあるようなダーバーや甘いものの店が散在する。
    ターバンを巻いた立派な体格のスィク男性がタイでよくある木造の長屋の中に入っていく。おそらくそこが彼の住まいなのだろう。タイでは屋台を切り盛りする女性が多いのと同様に、ここではインド系の女性たちもよく道端でパコーラーを揚げて売ったり、店先でお客に相手をするなど、日がな客商売で忙しく働く姿が多い。
    前回来たときには、グルドワラーの横で大がかりな工事が進行中で『何が出来るのかな?』と思っていたが、今回訪れてみると『INDIA EMPORIUM』というちょっと洒落たショッピングモールが完成していた。
    India Emporium
    空調が良く効いた建物内に入っているテナントは見たところ半数ほどがインド系の業者たちのようだ。布地、既成品の衣類、装飾品、CD等オーディオ関係の品々などを扱う店が多い。だがそれ以外にインドかぶれ(?)のタイ人たちの神具類のショップなども少なくなかった。どういう人たちが顧客なのだろうか。
    このエリアではインド系の人々を対象にした安宿が多かったが、ちょっとした中級クラスのホテルなども出てきているようだ。
    長らく『ごちゃごちゃとした狭苦しくて暑苦しいところ』であったパフラットのインド人地区も次第にグレードアップしつつあるように見える。

  • バンコク東端のラート・クラバンは未来のツーリストゾーン?

    前回『スワンナプーム空港付近のホテル』と題してバンコクの国際空港近くの宿泊事情を取り上げてみた。
    私自身、その中のひとつであるSilver Gold Garden Suvarnabhumi Airportというホテルを利用してみたので、その感想を記しておくことにする。
    以下のマップで『A』の印が付いているところがそのホテルである。

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    フライトナンバーと到着時間を伝えておくと、出迎えゲートのところで名前を書いたプレートを手にした人が待っていてくれて、ホテル差し回しのワゴンが停車しているところまで案内してくれる。エリアの知名度が低いため、このエリアの大半のホテルにとってお客の無料送迎はほぼノルマのようである。
    ウェブサイトでは『空港まで5分』とあったが、実際には十数分くらいかかるようだ。それでも近いことには変わりはない。
    ごく最近開業しただけあって新築の建物で部屋の中も外もキレイだ。このエリアにいくつかあるこの手のホテルは、たいてい同時期に開業している。一泊900から1000バーツというところが多いようだが、このあたりの値段がうまいところを突いているといえるだろう。
    周囲に見どころはないため、ここを拠点にしてバンコクを観光する人が滞在するとは思えない。空港へ至近という地理的条件から、乗り換え客が大半を占めるいわゆる『トランジット・ホテル』である。
    『明朝の早い時間帯のフライトのため市内に出るのは面倒だ。中級ホテルの料金は支払いたくないが、まあそこそこの宿があれば・・・』という人たちに利用しやすい設定となっている。
    あるいは普段安宿を泊まり歩いている人であっても『明日の朝は早いから、まあ今日だけは・・・』ということで我慢して払うことができる金額かもしれない。
    ホテルから空港まで無料での移動は1時間に1本。零時30分、1時30分、2時30分、3時30分・・・といった具合だ。それ以外の時間帯の場合は自分で料金を払ってタクシーを利用することになる。
    空港が位置するのはバンコク市の東端のラート・クラバン区。最近開発された空港エリアとのことで、周囲は農地以外は何もないのではないかと想像していたが、そんなことはなかった。空港が完成する以前から存在している商業地であるようだ。コンビニ、食堂や屋台、ちょっとした市場などがある。近隣では小ぶりながらもナイト・マーケットも開かれているなど、見どころ以外のインフラは揃っている。今後様々なクラスの宿泊施設が増えるように思われる。
    ラート・クラバンのナイトマーケット
    近ごろのバンコクでのタイ反独裁民主戦線(UDD)の大規模な抗議活動により、観光業はもとより様々な分野で大きな損失を蒙っているタイである。しかしながらこの騒動により、バンコクでの乗り換え客を中心に、都心から遠く離れたこのエリアの宿泊施設に注目が集まり、その名が広がるという効果をもたらしたようである。
    今年8月には空港と市内を結ぶ鉄道スワンナプーム・エアポート・リンクが開通する予定だ。終着駅のスワンナプーム空港からひとつ目の駅ラート・クラバンが最寄駅である。
    空港からは朝6時から午前1時まで運行されるSAエクスプレスによりプラトゥーナーム・マーケットの東にあるマッカサン駅までノンストップにてわずか15分で結ばれる。これはラート・クラバン駅には停車しないが、24時間運行で各駅停車のSAシティ・ラインはここから利用可能でパヤータイまで30分かからず、市内観光にも充分観光にも使える。
    そのため今後は乗換客のみならず、あまり繁華街には泊まりたくないなぁ、という人たちの需要も見込めるだろう。旅行代理店やグレードの高いグルメな店なども進出してくるかもしれないし、タイ各地に向かう長距離バスがお客を拾う場所となっているかもしれない。ともあれ今はこじんまりした商業地の外はのどかな田園地帯。ちょっとしたツーリストゾーンとして拡張していく潜在力を秘めた場所である。
    夕方、市場で買ってきたドリアンをホテルの庭先に置かれたベンチで楽しむ至福のひとときである。今からあと10年も経てば、こんなに静かな郊外であったことがまるで嘘のように騒々しい盛り場になっている様子が目に浮かぶようだ。

  • スワンナプーム空港付近のホテル

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    早いもので、2006年にバンコクのスワンナプーム空港がオープンしてから5年になる。
    インドをはじめとする南アジア各地と日本の間をタイ航空で移動する場合、ここで乗り換えたり、乗り継ぎの関係で一泊したりというケースは多いだろう。
    スワンナプーム空港がオープンしてからしばらくの間は、空港にごく近いところにあるホテルといえば、Hotel Novotel Bangkok Suvarnabhumi Airportくらいであった。
    Novotelといえば、フランスを本拠地とする国際的なホテルチェーンで、バンコク市内では空港近くのものを含めて4軒展開している。宿泊料金については、こちらを見てわかるとおり、ずいぶん大きな開きがある。もちろん空港エリアのものが最も高い。
    サヤーム・スクエアにあるNovotelの約1.5倍、そして他の2軒の倍あるいはそれ以上となっている。。本来の格を大幅に超える強気な料金設定は、スワンナプーム空港隣接のNovotelは、ターミナルビルに隣接するロケーションであるがゆえのことだろう。私も利用してみたことがあるが、どの時間帯においても、次々に宿泊客たちがロビーに到着しては、出発していく姿が多数見られ、かなり忙しそうな印象を受けた。
    夜遅いフライトで降り立ち、朝早くの飛行機で出発であったり、あるいはタイにしばらく滞在していたとしても、出発便のチェックインが早朝の変な時間帯であったりすると、なるべく空港近くに滞在したいと思う人は多いであろう。とりわけ子供連れであったりすればなおさらのことだ。
    空港と市内の間は、見事な高速道路で結ばれているため、深夜や早朝ならばスクムヴィットの繁華街あたりからタクシーにて30分程度で到着できたりもするのだが、朝寝坊な人間にとっては、この時間を捻り出すのはなかなか大変だったりする。
    かといって、市内ならばもっと格上のホテルに宿泊できる料金を、そのために払うのは無駄であるし、室内を含めてホテル内はスタイリッシュだし、スイミングプールなどのアメニティもそれなりに上質ではあるのだが、ベッドとバスタブ以外の何も利用することなく眠りから覚めたらそそくさと立ち去るのももったいないと思うのは私だけではないだろう。
    要は空港近くに、もっと安いホテルがあればいいのであるが、さすがは商売上手なタイの人々がそうした商機を見逃すはずはない。新しい国際空港開業後から着々と準備が進められていたようで、すでに空港から至近距離にいくつかのエコノミーなホテルがオープンしている。Queen’s Garden ResortやConvenient Resort等が、シングルルームで一泊900バーツ程度からで、このエリアに同じようなホテルは他にもいくつかあるようだ。空港からの無料送迎を付けているところもある。
    先述のとおり、乗り換えや早朝便の利用等でニーズのあるエリアなので、今後さらにホテルやゲストハウスなどが増えてくることと思う。

  • バーングラーデーシュが旬?

    今年2月に大手旅行代理店H.I.S. がダッカ支店をオープンさせたのだそうだ。同支店のブログも用意されている。
    国土は北海道の2倍程度と狭いものの、世界遺産のパハールプル、マイナモティといった仏蹟、シャイト・ゴンバズ・モスジッドやカーン・ジャハーン廟などのイスラーム関係遺蹟、茶園で知らせるスィルハトといった名所、首都ダーカーや近郊の古都ショナルガオン、はてまたモンゴロイド系少数民族が暮らすチッタゴン丘陵地帯など、魅力あふれる土地が数多い。また海が好きな人は、同国最南端に位置するセント・マーティン島なども気に入るのではないかと思う。
    H.I.S.のツアーでは、そうした観光地以外にもNGO『BRAC』やグラミーン銀行のマイクロクレジット事業の視察ツアーも用意されているのは、日本では被援助国というイメージの強いバーングラーデーシュらしいところかもしれない。
    聞くところによると、そう遠からず『地球の歩き方 バングラデシュ』も発刊されるようである。今年はちょっとしたブームになるのだろうか?
    そもそも隣国インドと較べてずいぶん観光客が少ない国である。突然大勢のツーリストが訪れる(・・・ことになるのかどうかは知らないが)ようになると、これまでの素朴な雰囲気やたまたま出会った地元の方がひたすら歓待してくれるようなムードも変わってしまうのかもしれない。
    だが、これがきっかけとなってバーングラーデーシュに関心を持つ人が増えて、観光業が国の産業のひとつの柱として成長することがあれば、人口問題に苦しむこの国で各地にもたらす雇用機会や収入といった面で好ましいだろう。
    何やら突然『バーングラーデーシュがブーム!』なんていうことはないにしても、インドの西ベンガル州や東北州などに興味を持って訪れる人が、目と鼻の先の隣国にも足を延ばしてみたり、それとは反対にバーングラーデーシュを訪れた人が、国境向こうインド側の地域にも同様の関心を抱いてくれれば、と思うのである。

  • キプリングの時代

    ボンベイ生まれのイギリス人作家ラドヤード・キプリング(1865〜1936)の献辞が書かれた彼自身の著作『THE JUNGLE BOOK』が見つかったのだそうだ。
    Rare Kipling edition discovered (BBC NEWS South Asia)
    代表作『トム・ブラウンの学校生活』で知られるトマス・ヒューズ(1822〜1896)と並び、生前には当時のイギリスを代表する大作家であり、1907年のノーベル文学賞受賞作家でもあった。文豪ヘミングウェイに多大な影響を与えた人物としても知られている。
    代表作『ジャングルブック』や『少年キム』などとともに、『領分を越えて』『ブラッシュウッド・ボーイ』『損なわれた青春』などの短編も邦訳されており、これらは岩波文庫の『キプリング短篇集』に収録されている。
    なお、今ご覧になっているPCの画面から、そのままキプリングの作品にアクセスすることもできる。邦訳されたものは、青空文庫にて、『幻の人力車』ならびに『モウグリの兄弟たち』というふたつの短編しか読むことができないが、英文のテキストならばProject Gutenburgにて、キプリングの作品群が多数公開されている。
    1865年にボンベイで生まれた後、1871年には両親により教育のため、まだ見たことのなかった祖国イギリスに送られているが、1882年には再度インドに渡航して、ラーホールの新聞社に職を得た。Civil & Military Gazetteという新聞の発行元である。
    その後、1887年にはアラーハーバードのPioneer紙に移り、このころから紙面に定期的に短編小説を発表するようになった。やがて文壇の怪物として台頭し、ついにはイギリスの国民的作家としての名声を不動のものとするキプリングの文芸活動のはじまりである。
    彼は、インドはもちろんのこと、アメリカ、シンガポール、ビルマ、日本、南アフリカ等各地を訪れている。彼の作品に出てくる舞台も当時のインドのみに限定されるものではないとはいえ、やはり彼の書き残した主要作品の中で最も大きなウェイトを占めるのがインドであり、キプリングの作品から当時のインドの世相や欧州人社会を探ることを試みた書籍なども多数出ている。
    帝国主義的、人種差別的であると評されることもあるキプリングだが、私たちが生きている現代とは社会の風潮や常識といった物の考え方の尺度が異なっていたことを踏まえる必要があるだろう。
    彼の作品で描かれる主人公その他の欧州人たちは、提督や政府高官といった権力者ではなく、大きな富を抱えた大商人でもない。多くは、役人、技師、兵士その他の被雇用者といった『末端の白人』として生きた人々の低い目線から描き出したものである。
    当時の『インドの大衆』とは大きく一線を画す存在であったとはいえ、インドを舞台とする作品中で彼が描いた主人公の多くは、インドのイギリス支配の末端を担う、現地の白人社会における『一般人』たちであり、異郷で彼らなりの運命を切り拓くべく努めていた『普通の人』たちである。
    つまり主要な読者層であった欧州系の人々、イギリスその他欧州に暮らす人々であれ、インドを含む当時の英領地域に住む白人の同胞たちであれ、同じ一市民として感情移入できる作品群を書き残したからこそ、各地で広く読まれることになったのだろう。そして今なお彼の作品が人々に親しまれているのは、その目線の低さと、読者にとって『私たちと同じ』市井の人々を活写していたからに他ならない。
    私たちにとって、すでに遠い過去のものとなった植民地時代の白人社会の日常に関わるつぶさな描写は、非常に示唆に富むものである。また主人公たちによる『ネイティヴ』の人々への視線やかかわりかた等々、まだ映画やテレビドラマのなかった時代の日々を、私たちの目の前に鮮やかに描き出してくれる。
    インドを舞台にした彼の作品は、小説というフィクションでありながら、当時インドに暮らしていたイギリス人をはじめとする白人たちの人々の社会史・生活史の資料でもある。キプリングが後世の人々に残した功績は、文学のみに限定されるものではない。
    彼が描き出した当時の世の中のありさま自体が、非常に良い状態で保存された『史跡』のようでもある。この世の中に文字というものがある限り、そこは決して失われたり荒れ果てたりすることなく、それらが書かれた当時のままの光景が、ページをめくる私たちの目の前に展開するのだ。
    キプリングという大作家があってこそ19世紀後半から20世紀初頭にかけての『当時の世間』が、誰にも読みやすく、興味深い小説として闊達に綴られた。時代を超えて、また活字という手段により国境を越えて、我々が共有する貴重な遺産である。