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カテゴリー: column

  • U Bein Bridge

    THE GLASS PALACE by Amitav Ghosh
    ミャンマーのマンダレー近郊の町アマラプラにあり、よく写真で紹介される高い橋桁の木造橋である。インドの作家、アミターヴ・ゴーシュの小説『The Glass Palace』の表紙のイラストにもあしらわれており、一度機会があれば訪れてみたいと思っていた。
    U Bein's Bridge
    グーグルでの遠景

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    グーグルでの拡大図

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    下は河かと思ったが湖であった。Thaungthaman湖というもので、乾季には橋の下の大部分が畑になっているが、雨季には水で一杯になるのだという。橋が建設されたのは1849年ということで、1885年にマンダレーが英領化されるよりもさらに前のことである。そしてチーク材で出来た橋として世界最長(1.2 km)ということになるそうだ。
    U Bein's Bridge
    河辺に広がる牧草地や田園風景といったのどかな景観はもちろんのこと、そんな橋が今もこうして人々やモノの行き来に役に立っており歴史的な価値もまた大きい。橋の途中にはいくつかの東屋があり、物売りたちがお客を待ち構えていたり、涼んでいたり昼寝していたりする人たちの姿がある。
    背後に東屋
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    だが『橋』としての役割のみについて言うならば、ちょっと考えさせられるものがある。ここを通るのは大人だけではない。子どもたちも通るし、老人だって通る。また夕方以降暗くなってから通らなくてはならない場合だってあるだろう。橋から落ちて命を落とすかどうかはやや微妙なところだが、確実に大怪我をする。場合によっては死んでしまうだろう。雨季で水で一杯のときには溺死する可能性も高い。
    ミャンマーに限ったことではないが、日本のように国民がほぼ誰でも泳ぐことができる(程度の差はあっても)という国はあまり多くないのだ。ただし両端の入り口のところにゲートのようなものがあったため、ある一定の時刻に締め切り、朝決まった時間に開けるようになっているのかもしれないが。
    茹でたカニ
    サーモーサーと小エビのかきあげ
    橋を渡りきったところには二軒ほどの食堂がある。軒先では調理したカニを売っていた。淡水のカニにしてはけっこう大ぶりで上海蟹くらいのサイズはある。茹でて真っ赤になっているカニの甲羅は外してあり、カニミソがたっぷり詰まっていて旨そうだ。小エビのかき揚げも売られており食欲をそそられる。
    近くには寺や学校もある。かなり規模の大きな集落になっているようだ。
    子供たち

  • ワガー国境

    夕方、ワガー国境が閉まる時刻、インド側では国境警備隊、パーキスターン側からはパーキスターン警備隊の見事なヒゲをたくわえた立派な体躯の巨漢たちが威風堂々たる行進と儀礼を行なう。
    互いへの敵意とも感じられる動きや表情とは裏腹に、国境を挟んだ双方の息の合った動きから両者の協調ぶりも感じられるのは興味深い。もちろんこのセレモニーで行進する双方の隊員たちの動作、時間、内容等は、インド・パーキスターン両当局の間で打ち合わせした上で実施される、いわば政治ショーである。
    印・パ分離前、アムリトサルとラーホールの間に位置するごく普通の農村であったワガーは東西に分かれて現在に至る。日々、インド側だけでも8,000人のもの人々が見物に訪れるという人気の観光スポットになっているこの国境。
    デリーを起点に、国道一号線はパーニーパト、クルクシェートラ、ルディヤーナー、ジャランダル、アムリトサル等を経てこの国境に至る。本来国道一号線の終点であったラーホールまではワガーから西へ20kmほど。
    東西に分かれたパンジャーブ地方が再びひとつになることもなければ、同じくふたつに分かれたワガー村がひとつになることも決してなく、今後もずっと両国の境目であることは変わらないだろう。
    しかしこの国境が対立する二国間関係を象徴し、互いに虚勢を張って大上段に構えた雰囲気から、いつの日か誰もが必要に応じて行き来する、単なる行政の区分にしか過ぎないものとなることを願わずにはいられない。仰々しいセレモニーもなく、ここを通過する人々あるいはここを職場とする人以外は訪れることもない、ごくごく普通の国境となる日を。

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  • ああドリアン

    ミャンマー産ドリアン
    フルーツというよりも熟練した生菓子の職人が丹精込めて鶏卵に生クリームを加えて、しっとりとした薄い外皮で包んで仕上げたかのよう。ドリアンという果物はなぜこれほどまでに人工的かつ動物性の味わいなのか?
    口の中に含むと広がるキャラメルソースのような香り。濃厚でしっとりとした陶酔感のある甘み。これほど上質で高級感のある食感の果物を他に知らない。
    だが当たりとハズレで旨さの差異も大きい。充分熟しているかどうかというだけでなく、たとえ完熟であってもちょっと水っぽかったり、逆にコテコテなのに香りも甘みもいまひとつで、レシチンを舐めているような期待外れの個体もある。
    それだけにいいモノに当たったときの幸福感といったらない。
    マレーシア産ドリアン
    ヤンゴンの街角で見かけたドリアン売り。種類の異なる地元ミャンマー産、マレーシア産、タイ産を並べていた。価格はミャンマー産から順に高くなっていくが、その分重量も同様に大きくなっていく。
    ちょっと立ち止まって店先で品定めする人たち。持ち帰って家族と楽しむ様子が目に浮かぶようだ。ゴツゴツとした姿のドリアンの数だけ、幸せな団欒のひとときがあるようでちょっと微笑ましい。
    南インドにも野生のドリアンが自生しているところはあるようだが、普通食用にはされないようで、人知れず朽ちていくのは残念。何かちょっとしたきっかけがあればブレークするのではないかと想像している。
    果肉のちょっとした『ガス臭さ』では、インドの街角で普遍的に見かけるジャックフルーツにも通じるところがあるだけに、彼らもドリアンを愛でる素養は充分持ち合わせていると思うのだが。
    タイ産ドリアン

  • 彼方のインド 5

    ヒルステーションとはいえ、また暑季とはいえ、観光客でごった返すインドのそれとは違い、ピンウールィンは英領期の古いものがほどよく残っている。
    また高原とはいってもほぼ平坦な土地であることから、自転車で巡るのも苦にならず、休暇を過ごすにはもってこいの土地であった。
    ピンウールィンはさておき、ミャンマー全般に言えることだが、またミャンマーの人々に対して失礼かもしれないが、ただインドの隣の国であるということのみならず、インドの北東部にいるかのような気がすることがある。
    モンゴロイドの多い(州によってその度合いは様々だが)北東州のすぐ東に位置しており、インド平地からの移民も多いこともある。加えてインドの様式を取り入れた植民地建造物であったり、旧英領各地でも今でも見られるゼブラに塗り分けられた道路縁石であったりするのは、かつてはインドと合邦していたという経緯のためである。
    ミャンマーの最高学府ヤンゴン大学は、1878年にカルカッタ大学を構成するカレッジの中のひとつとして創設されている。やがて独立したひとつの大学としてラングーン大学として再構成されるのだが、イギリスから独立してからもしばらくの間は、東南アジア随一の名門大学として内外から高い評価を受けていたようだ。
    すぐ東のタイに較べて地理的に近いこともあり、文化的にインドから与えられた影響もかなり強いことは言うまでもない。町中には、同様に本来インドではなかったとはいえ、多かれ少なかれインド文化の影響を受けてきたモンゴロイドの人たちが暮らすインド北東州と共通するたたずまいがあるような気がするのだ。
    仮にイギリスのビルマに対する進出がもっと早い時期から始まっていたら、あるいはビルマ族が人口規模や文化的なまとまりを欠いていたならばどうなっていただろうか。彼らを除けばかなり人口規模の小さい幾多の民族から成るビルマは、現在のインド北東州のうちのいくつかで今でも武装闘争が続いているのと同じように、不満を抱く人々が少なくないながらも、インドという大きな国家の中に従属していたかもしれないとも思う。
    ミャンマー北西部サガイン管区のインド寄り地域には、インドのナガランド州同様にナガ族が生活している。よく民族のモザイクと表現されるインドだが、そのインド世界の外延部にあたる北東州と合わせて、印緬国境を越えて広がる多民族・多文化の回廊地域として捉えることもできるのではないかと思う。
    各民族による自治要求をめぐる運動が活発であることも共通しており、今でこそミャンマーも各武装勢力との和解も進んできているものの、かつては『ラングーン政府』と揶揄された時代もあった。ミャンマー国内で概ねビルマ族がマジョリティを占める地域は管区(Division)、その他の民族の勢力が強い地域は州(State)と色分けされているようだ。
    インド北東部、ミャンマーともに中央の政府によりひとつの国家として治めていくのはなかなか難しい地域でもあるようだ。

  • Skype for iPhone

    5月30日にSkype for iPhoneがアップデートされて3G対応となったことを『3Gで使えるようになったぞ!』と、韓国の友人から私の携帯電話にかかっきたSkype経由でかかってきたコールで知った。
    従来はWi-Fi環境下にないと使用できなかったが、今回のアップデートによって3Gネットワーク下にあればSkype同士の通話もSkypeから携帯ないしは固定電話への発信も可能となった。
    3Gでの利用について、Skype同士の通話ならば年末まで無料とのことだが、その後は月額の利用料金(料金未定)が課金されるとのことだ。しかしWi-Fi経由の場合はこれまでと同じく無料である。また一般電話への通話についての課金は従来どおりとなる。
    これでますます世の中は狭くなっていくようだ。やはりiPhoneは3Gネットワークのサービスのあるどこの国でも使えるSIMフリーのものが欲しい。
    ※『彼方のインド 5』は後日掲載します。

  • アジア文庫

    東京都千代田区の神田神保町にあるアジア文庫の店主で、同店ウェブサイトの『アジア文庫のレジ裏から』でレジ裏話を発信してこられた大野信一氏が今年1月23日に亡くなられていたことをつい先日知った。
    私はここしばらく同書店を訪れていなかったが、ホームページにあるとおり経営権を内山書店に譲渡し、内山ビル5Fにあった店舗を3Fに移転して営業しているとのことだ。
    本の街、神保町の中でもとりわけ個性的な書店のひとつとして知られてきたアジア文庫は、限られたフロア面積ながらも、アジア関係(中国以外)の専門書店として、一般図書から他ではなかなか手に入らない書籍まで、様々な本を読者たちに提供してきた。
    昔、たまたまこの店を見つけたがゆえに××国に興味を持ったとか、その後××国に住むことになったという、どこかの国や地域と関わるそもそものきっかけとなったという人もあるのではないかと思う。
    慎んで大野信一氏のご冥福をお祈りいたしたい。
    ※彼方のインド 5』は後日掲載します。

  • 彼方のインド 4

    ピンウールィンの駅舎の前にある線路を超えた先には鉄道車庫や貨物用の引き込み線などがあった。そのあたりは鉄道関係者の住宅地域でもある。
    町から見て線路向こうのほうにイギリス人墓地があるとのことだが、それらしきものは見当たらない。通りがかりのインド系とおぼしき男性にイギリス人墓地について尋ねてみる。北東へ走る線路の向こう側に見える大きな教会の脇にあるとのこと。
    そこは今でも現地のクリスチャンが亡くなれば埋葬されている場所とのことで、今では特にイギリス人墓地ということではないらしい。もちろん現在もピンウールィンに数多く暮らすアングロ・インディアン、アングロ・バーミーズの人々が亡くなるとそこに葬られるようだ。
    墓地入口
    自転車で出かけてみると10分くらいで着いた。カルカッタのパークストリート墓地のような立派なものではなく、無数の十字架が並んでいた。ただしよく見てみると墓標のあるものもあり、1877年に豪州で生まれた人のものもある。この人は海外領出身のイギリス人とであるとみて間違いないだろう。独立後もここに残ったらしく、1963年に亡くなったことが記されている。
    古い墓標で今でもちゃんと読めるものは数少ない
    その後、昨日同様にクリスチャン墓地に行く。場所はかなり広いが、あまり大きな墓標はない。ひどく崩れてしまっていたり、文字が読めなくなってしまっているのも多い。
    しかしここは英領としての歴史さほど長くなかったこと、植民地としての格もインド本土の主要な都市と較べて高くないため、英国人墓地といっても、植民地史上あまり著名な人物は埋葬されていないものと想像できる。
    墓地のあまりに荒涼とした様子が不憫であった。
    寂寞とした墓地敷地内

  • チベット 酸素 ヘモグロビン

    高い所はどうもダメなのである。高所恐怖症というわけではないが、高地で酸素の薄い状態が苦手だ。
    特に飛行機で、海抜3000 m以上のところに降り立ってしばらくすると一両日は動けない。ちょっと二日酔いに似た症状となる。頭が痛くてダルくて、ベッドから立ち上がる気もしない。
    いつだかデリーからのフライトでラダックのレーに着いたときもそうだったし、ペルーでリマからクスコに飛んでみたときもそうだった。到着してから宿に荷物を置き、少年たちのストリートサッカーに加わると、空気の薄さからやけに息が切れると感じた。
    リマで同じ日系宿に宿泊していた人たちが同じ宿に泊まっており、近くのペーニャ(フォルクローレのライブハウス兼飲み屋)に出かけたのだが、アルコールが入ると強烈に効いた。
    翌日、翌々日と部屋でノビていた私に、彼らが『コカ茶が効くらしいよ』と駅前のマーケットに出かけてくれたが、その日本人3人が羽交い絞め強盗に遭ってしまい、非常に申し訳ない思いをした。相手は10人くらいいたそうだ。
    以降、高所に弱いという自覚が出来たため、そうした場所に着いたばかりでいきなり身体を動かしたり、酒を飲んだりしないようにしている。
    もちろんその程度の高度ならば、しばらく安静にしていると順応するし、日数をかけて高度を上げていけば、こうした症状は出ない。それでも山道や斜面を上ったりすると息が切れるし、ちょっと走ったりするだけでもとんでもなく苦しい。どうやら私は登山にはまったく向いていないらしい。
    酸素が薄い状態に対して、人の身体とはうまく出来ているもので、血液中のヘモグロビンを増やすことにより、低酸素状態で効率良くこれを体内に循環させることで対応する。だがそうした高地に順応した状態は高血圧を招くなど、決して人体に好ましい状態ではないこともよく知られている。
    高度による影響は個人差が大きく、トレーニングによりその体質を変えることはできず、結局時間をかけて高度に順応させていくしかない。その他、本来は緑内障やてんかん等の治療薬であるアセタゾラミドというが高山病対策に有効であるとされる。商品名『ダイアモックス』として知られており、高地でのトレッキングに出かける人による利用も多い。だが高山病の症状が出て重症化した場合は『死なずに済む』ためには低地に移動するしかない。
    海抜3,000 mを越えたあたりから、高山病を発症する人が出てくる(本当に高地がダメな人の場合、2,000 mでも辛いそうだ)というが、その程度の高さでも重篤化した例、さらには死亡例もかなりある。
    だが海抜3,000 mから4,000 m超の高地でも、ごく普通に暮らしている人たちもあり、チベット高原やアンデス山脈などはその典型だ。
    そんな高地に暮らしているチベット人たちの体質について、最近見かけたニュースが興味深かった。

    チベット人の遺伝子は高地生活に適応
    (ナショナル・ジオグラフィック)
    The Genetics of High-Altitude Living (Science)
    低地で暮らす人々に較べて、チベット人たちは呼吸回数が多く、血管も太いのだという。つまり体内に酸素を巡らすための効率に優れているということになる。
    面白いのは、私たちが高度に順応するために血液中のヘモグロビンを増やすのに対して、高地で生活してきたチベット人たちには、これとは逆にヘモグロビンの増加を抑制する遺伝子を持っているというのだ。そのため高地に暮らしていながらも、ヘモグロビンが増えることによる負の影響を受けずに生きていくことができる。
    長い歳月、幾世代にも渡って高地で生活してきたため獲得した体質ということになるのだろうが、やはり私たち人類の身体も時とともに環境に合わせて進化を続けていることを思い出させてくれる。
    ※『彼方のインド4』は後日掲載します。

  • マオイスト 鉄道を標的に

    また鉄道の大惨事が起きてしまった。
    5月28日午前1時過ぎ、コールカーターから150kmほど離れたミドナープル地区内のマオイストの拠点ジャールグラム近くにて、ハウラーからムンバイーに向かうギャーネーシュワリー急行が脱線して並行して走る線路に乗り上げた。そこに走行してきたターター・ナガルからカラグプルに向かう貨物列車が衝突したため、被害が更に深刻なものとなった。大きな地図で見る
    事件はマオイストによる犯行と断定されている。当初は爆破事件説もあったものの、鉄路のフィッシュプレート(ジョイントバーとも呼ばれる)というレールの継ぎ目を固定する部品が取り外されていることが確認されたことから、当局はこれが有力な原因とみて調査中。
    すでに100人を超える死者が確認されているとともに、負傷者も200人以上と伝えられている。複数の倒壊ないしは大破した客車の中に閉じ込められている人たちの救出作業が続いており、今後死者ならびに負傷者の数は拡大する見込み。インド国鉄から列車乗客リストがウェブ上に公開されている。以下のビデオは事故発生から間もない時間帯に放送されたものであるため、被害の数はまだ少ないものとなっている。たとえ客車に保安要員を配置して、座席あるいは寝台の乗客安全を図ったところで、その車両が走る鉄路の状況にまで監視の目はなかなか行き届かないであろう。広大な国土のインドである。寒村や人里離れたところを拠点に暗躍するマオイストたちにとって、政府に対して大きなダメージを与えるためには、鉄道は簡単にして確実な攻撃対象となる。内務大臣のチダムバラムがマオイストへの対決姿勢を鮮明にしてから、4月上旬にはチャッティースガル州で彼らの拠点を叩こうとした警察部隊が、反対にマオイスト側から急襲されて76名が死亡する事件が起きたのは記憶に新しいところだ。内務大臣はその責を取り、一時は辞表まで用意したものの慰留されている。
    今回は、事件現場から十数キロほど南東方向に進むと空軍基地というロケーション。国防施設周辺といういわばグリーンゾーンのすぐ外側でこうした惨事を起こすということ自体が、政府の無策ぶりを嘲笑っているかのようである。
    すでに中央政府、州政府、鉄道当局の三つ巴で責任のなすり合いが始まっている様子もあり、まさにマオイストの思う壺・・・といった具合に進展しているようだ。
    現場が僻地であることもあり、国外では『インドでよくある鉄道事故』であるかのように扱われてしまうかもしれない。だがマオイストによる大胆な犯行が連続している状況は、潜在的には2008年11月にムンバイーで起きたイスラーム過激派によるテロに匹敵する脅威を秘めているといって過言ではないかもしれない。往々にして他所から来た人間が散発的に起こすテロ(近ごろでは『テロの国産化』という傾向もあるにせよ)と違い、マオイストたちの存在は地元に根ざしたものであり、それ自体が大衆運動でもあるため、彼らとの対立は文字通り『内なる闘い』ということになるのである。
    ※『彼方のインド4』は後日掲載します。

  • VISA ON ARRIVAL@MYANMAR

    ミャンマーのヴィザに関するルールが一部改定されていることに、5月1日から変更されていたことに今更ながら気がついた。それはヤンゴン・マンダレー両空港における、ちゃんとした『オン・アライヴァル』ヴィザ導入である。
    これまで、ミャンマーのヴィザは事前にわざわざ大使館に出向いて取得しなくてはならなかった。あるいは『アライヴァル・ヴィザ』なる制度があり、事前にミャンマー現地にあり、当局から取り扱いの指定を受けている旅行代理店を通じて申請、到着時に『ヴィザを受け取る』というものであった。後者については入国の1か月前くらいには申請しなくてはならなかった。時期によっては運用が停止されていることもあったし、団体客だけという時期もあった。
    どちらにしても入国するに先立って準備をしなくてはならず、『ちょっと時間が出来たから旅行に出よう』と突然思い立ったり、滞在先(主にタイ)で、『ミャンマーに行こう!』と気が向いた翌日あたりに飛んだりするのはなかなか難しかった。そうでなくとも事前に大使館に二度も出向く(申請と受領とで)のは面倒である。
    ASEANの大半の国々では日本を含めた多くの先進国の人々に対して、一定期間の観光目的での滞在についてはヴィザ免除ないしは入国地点で到着時にヴィザ取得が可能という措置を講じていることもあり、特に関心のある人でなければ、あまりミャンマーへ足が向かなかったのではないかと思う。
    基本的には空路からの出入国(ごく一部例外的な部分もあるが)になること、まだミャンマーに乗り入れる航空会社が少ないこと、それも周辺国からのフライトしかないことなど、観光客誘致については障害となる部分は少なくないとはいえ、今後は隣国でフライト数が多く、チケット代金も低廉なタイを経由しての訪問が特に増えることだろう。
    またインド滞在中でコールカーターからヤンゴンを往復するという利用もあるかと思う。ただしインドのヴィザに2ヵ月ルールが導入されたことがネックにはなる。マルチプル・エントリーのヴィザを所持していてもそのまま出国してしまうと2ヵ月間は入国できなくなってしまう。インドのヴィザ取得時に第三国とインド間で出入りする予約の入った航空券と旅程表などを提出することにより、それよりも短い期間でインドに戻ることは可能になるようだが。
    ヤンゴンあるいはマンダレー到着時のミャンマーのヴィザ取得条件等については、Myanmar P.L.G. Travel & Tours Co. Ltd.のブログ『PING LONG 現地生情報』をご参照願いたい。
    ヤンゴンで日付をまたいでの乗り換え需要もあるかといえば、そうではないようだ。現在までのところヤンゴン空港に離着陸しているナショナル・フラッグ・キャリアのMyanmar Airways International (MAI)のフライトは、バンコク以外にはクアラルンプルとシンガポール便のみと寂しい限り。
    ずいぶん長きにわたり経済的に停滞している国への乗り入れ需要が少ないこともあるが、、欧米諸国等による経済制裁下にあるということも大きい。特にアメリカの場合、ミャンマー製品を自国に輸入することさえ禁じており、例えば旅行者が現地で購入した民芸品のような他愛のないものであっても、米国内に郵送することは不可となっているようだ。
    ミャンマー政府は、とうの昔にビルマ式社会主義という国家理念に基づく計画経済を放棄して市場主義経済化を推進、様々な分野における民営化を積極的に実施してきたのだが、この国にとって欧米という大きなマーケットが存在せず、それら先進国からの直接投資を得る機会もまず無いといった、政治的・人為的な要因で浮上の機会を失っているという側面もある。
    そうした中でミャンマーと積極的に経済交流を深めている中国は独り勝ち状態で存在感を高めているというのは皮肉である。
    さて、この新しいアライヴァル・ヴィザの制度が今後安定して運用されることを期待するが、今後この国を訪れる人々の数がどのように推移するのかについても注目していきたい。
    ※彼方のインド 4は後日掲載します。

  • 国勢調査とジャーティ

    次回、2011年に実施される国勢調査をめぐり、人々のジャーティについての調査も含まれる方向にあることが議論となっている。
    憲法上、国民の間でそうした区別は否定されているものの、それは決して存在しないものであるとはいえない。また指定カースト、指定部族、その他後進階層(OBCs)に対する留保制度という優遇策がある。
    本来は憲法の定めるところに対して矛盾しているわけだが、実社会で存在している差別等を解消するために、こうした施策を通じて万民の平等を保障していると解釈することもできる。
    だがその反面、留保制度による救済の対象となっていない人々が皆恵まれた境遇にあるわけではなく、充分な実力や資格を有する人々がこの制度によって引きずり下ろされてしまうことにもなる。そのため留保枠対象でない人々に対する逆差別でもあることから、しばしば政治的問題を引き起こしてきた。
    ごく最近ではアーンドラ・プラデーシュ州ではムスリムに対する留保制度も成立しているが、州ごとに留保のありかたは異なり、例えば同じコミュニティでも州によっては指定カースト、他州では指定部族であったり、OBCに区分されていたりすることは珍しくない。あるいはさらに別の州ではそうした留保の対象となっていないこともあるなど、決して一様ではない。
    州によって特定のコミュニティが置かれている状況が異なるということもあるにしても、やはりジャーティを背景にした政治力学によるところが大きいといえるだろう。
    話は変わるが、日本においてはヴァルナ・ジャーティといえば上下関係を規定するものという具合に理解されていることが多いようだが、そういう単純なものではない。日常での上下関係を決めるものは、個々の社会的な地位、職業、収入や財産といったステイタスであり、ヴァルナやジャーティで規定されるわけではないことについて注意が必要だ。むしろ『部族・同属集団・血統集団・派閥等々で細分化された社会的概念』とでも言ったほうがしっくりくるかもしれない。
    こうした区分が結果的に他者に対する差別という結果を生むということもあるが、同時に自らを律する側面もある。例えば、北インドでは通常、同一ジャーティ内の同じゴートラ(氏族集団)内での通婚はタブーである。
    もちろん法的には可能なのだが、特に保守的な地域では身内やコミュニティにそれを認めさせるのは困難だ。それでも男女の仲なので駆け落ちしたり、入籍を強行する例はたまにある。だが周囲からの制裁も、ときに非常に激しいものとなり、極端な場合には殺人にまで至ることもある。
    最近はハリヤーナー州で、同じゴートラに属するマノージという青年と恋人のバブリーが周囲の反対を押し切って結婚した結果、ふたりはバブリーの実の兄やおじを含む身内の男たちに殺害された。国の司法とは違う次元のローカルな裁きや掟が、コミュニティの自治の役割を持つカープ・パンチャーヤト(地域から選挙で選ばれた代表が仕切る村落パンチャーヤトとは異なる)を通じて深く関わった。
    犯人たちは死刑を含む極めて重い判決を受けたものの、あくまでも控訴して徹底して闘う構えを崩さずにおり、当のカープ・パンチャーヤトも国の介入に対して強く反発しているなど、こうしたいわゆる名誉殺人が発生する土壌には非常に根深いものがある。
    Death Sentence in Honour Killing Case: A Milestone (Pragoti)
    だがこうした負の部分はあるにせよ、様々なジャーティが存在すること自体、それぞれのコミュニティが独自の文化なり伝統なりを維持していることの証でもあり、他の国々にはないインドならではの多元的で豊かな文明を体現しているものであるという部分は否定できない。
    話は国勢調査に戻る。インドの国勢調査でジャーティに関わる調査も実施されたのは1931年が最後で、2011年にこれが実施されるとすれば、実に80年ぶりということになる。
    行政的な視点から言えば、今日もインドの社会においてジャーティの意味するもの、それが果たす役割も大きいことからも、出自をベースにした留保制度が存在することからも、国勢調査で集めるデータの中にそれらもしっかりと加えるべき、ということにはなる。
    だが一方、倫理的な問題もさることながら、これを悪用される懸念も大きく、インドの政治のありかたを大きく変える『パンドラの箱』という観測もある。
    現在インドに生きる人々の大部分にとって『生まれて初めてジャーティまで対象』となる方向にある国勢調査に対して、これを当然そうあるべきものとして歓迎する向きもあれば、疑念や不信感を抱く人々もあるなど、反応は様々であるのは当然のことでもあるが、非常にデリケートな問題を含むため、取り扱いには細心の注意が必要であるがゆえ、目下喧々諤々の議論となっている。
    部外者である外国人としては、どういう結果が出るのか興味深いところであるとともに、そこから導き出されるデータについては、学術的な価値も大きなものとなるであろうことは間違いないだろう。
    国勢調査にこうした項目を加えるかどうかという議論は今に始まったことではなく、かなり前からいろいろな意見があった。以下にリンクを示した記事は、雑誌Frontlineのウェブサイトのものだが、今から10年前の2000年9月の記事である。
    Caste and the Census (Frontline)
    一昔前に書かれたものだが、その内容は今日においてもまったく色褪せていないのは興味深い。
    ※『彼方のインド 4』は後日掲載します。

  • 彼方のインド 3

    どこかの教会からカランカランカランカランと長く連続する鐘の音が聞こえてくる。植民地時代からずっと続いてきたものなのだろう。はるか彼方から渡ってきたイギリス人たちが去ってからも、彼らがこの地に残したクリスチャンたちの間でその信仰はしっかりと根付いているのだろう。
    Purcell Tower
    宿で自転車を借りて市内散策。まずはPURCEL TOWERという時計台のあたりへ。ここは賑わうマーケットとなっている。屋根の付いた大きな市場もあるし、その脇の道路では様々な食べ物の屋台が店を開いている。
    屋台
    このあたりにはインド系の人々も多く、いくつものヒンドゥー寺院やモスクがある。通りを数台のバイクにまたがったスィク教徒の若者たちの姿もある。インド系の人が経営する安宿もあるようだ。そんなわけでこのエリアではインド系の人、とりわけ一軒の店を構えている人物相手ならば、かなり普通にヒンディーが通じる。
    シュリー・クリシュナ寺院
    シュリー・ガネーシュ寺院
    そうした人々が切り盛りする店のひとつに入って腹ごしらえする。ローティーとともにサブズィーやダール等のおかずのターリー。客席で注文を取る男も厨房で大汗かいて働いている人も北インド平原部で見かけるような風貌の人たちであるだけに、インドのダーバーと同じようなものが出てきたが、口にしてみるとかなり砂糖の甘みを感じることに、ここが東南アジアであることを感じる。
    ターリー
    食事を終えてから自転車にまたがると、サドルから突き出ていた金具にズボンが引っかかって裂けてしまった。メインストリートを渡ったところにある屋根付きの市場に行く。インドにしてもミャンマーにしても、身に付けるものが壊れても、修理屋がすぐそこにあるのはありがたい。
    いくつかの仕立屋があった。働いているのは若い女性が多かった。大汗かいて湿った、ところどころ塩を噴いたようになっているズボンを託すのは気恥ずかしいため、どこかオジサンのやっているところはないか?と思えば、ほどなく見つかった。ロンジー(インドでいうところのルンギー)を借りて、ズボンを預ける。
    店の人、Sさんはかなり流暢なヒンディーを話し、英語もなかなか上手な感じである。話すこともなかなか知的で、町角の仕立屋さんというよりも学校教師のような雰囲気がある。ズボンが直ってからもしばらく彼の話を聞いていると、もうひとりインド系の人がやってきた。このKさんは長らくヒンディーを教えることを生業してきたのだという。ミャンマーの学校教育でヒンディーが教えられることはないのだが、個人的に家庭教師や講師として雇われて教えてきたそうだ。
    同胞が集中しているコミュニティで生活していれば自然と身に付いていくものとはいえ、そうではない生活条件の人もある。またミャンマーでのヒンディーは生活や仕事の中での口語が中心である。ヒンディーによる報道等のメディアは原則として禁止されているし、文芸活動も無い等しいだろう。そんなわけで、ビルマ語の読み書きは問題なく(この国の識字率は89.7パーセント。ベトナムとともに後発発展途上国の中では突出している)ても、ヒンディーによる読み書きはできないということが珍しくないようだ。それがゆえにヒンディー教師の需要があるらしい。
    Sさん(左)とKさん(右)
    SさんもKさんもビハールからやってきた移民の四代目にあたる。前者はムスリムで後者はヒンドゥー。どちらも先祖が農業移民としてやってきた。今も昔もビハールは無尽蔵の労働力の供給基地のようだ。多くの場合、数世代経ると先祖の故郷の土地の名前は知っていても、すでに遠縁となった現地の親戚との繋がりは途絶えてしまうが、驚いたことKさんは2000年に訪印して曽祖父が生まれ育ったガヤー近郊の村を訪問したのだという。
    たとえその言葉をヒンディーと呼んでもウルドゥーと呼んでも、そのコトバで話すことがやけに歓迎され、店先で「これ試してみてよ」とミターイーを渡されたりもする。そのコトバがインドではずいぶん隅に置かれているのとはかなり違うようだ。
    もちろん本場同様、社会的に高いステイタスを持たない普段着のコトバであるにしても、『本場』ではごく当たり前で誰もが話す普遍的な言葉であるのに対して、ここでは、ビルマ語の大海の中で、自分たちのコミュニティ内でしか通用しない利便性の低い言語ではあるものの、裏を返せばコミュニティの結束や文化・伝統を維持する民族語としての誇りがあるがゆえのことだろう。
    インド系とはいっても、圧倒的大多数はインドを訪れたことがない。それでも強い関心はあるようだ。デリーやムンバイーの街の様子、現在のラクナウーやパトナーがどんな具合かといったことを少し話すだけで、矢継ぎ早に様々な質問を受けることになる。
    独立後の政策により、とりわけ1960年代以降は、行政・教育等のビルマ語化が強力に推し進められてきたこの国では、意外なほど英語が通じない。また私はビルマ語はまったく知らないので、旅行中は往々にして無言の行みたいになってしまう。それだけにビルマ語の大海の中に点在するインド空間では人々の話がいろいろ聞けて和む。
    メイミョーへのインド系移民の出身地の最たるものは、やはりU.P.こと英領時代のUnited Provinces(ウッタラーカンドが分離する前のウッタル・プラデーシュととほぼ同じ範囲)とビハールが多いそうだ。カマルさんの曽祖父はビハールのパトナーからやってきた人のことで、鉄道建設関係でも、兵士でも役人でもなく、農業移民だったとのこと。今も昔もビハールは労働力の供給基地みたいな感じである。
    他にも祖父が鉄道員だったとか、軍人であったという人たちの話も聞いた。1857年の大反乱以降、それ以前は兵士のリクルート先として比重の高かったベンガルを中心とする東部から、パンジャーブを中心とする西部ならびにネパールのグルカ兵へと比重が移っていったため、後者の場合はそれらの地域を起源とする人たちが多かったのである。
    第三次英緬戦争時にマンダレーに上陸する英軍
    根掘り葉掘り尋ねたりしなくても、なぜあなたがたがここに?と問うだけで、人々は自らの家族史を語り始めるので聞いていてなかなか面白い。
    英領期のインドからの移民の送り出し要因、出向いた先の引き寄せ要因などはいろいろ研究されている。しかしながらここに渡ってきた人々の日々の生活と収入の手段の変遷、何割くらいの人々が契約・赴任期間満了等で出身地に戻ったのか、故郷に帰ることなくここに定着した人々がそれを決めた理由、現地定住以降のコミュニティ形成、故郷との連絡状況、婚姻や通過儀礼等、社会・経済的立場等々を調べると、いろいろ興味深いものが出てくるのではないかと思う。
    20世紀初頭には、ラングーン(現ヤンゴン)の人口のおよそ半分はインド人たちが占め、当時のビルマ最大の都市は文字通り『インドの街』であったこともある。その他ピンウールィン、シットウェー、パテインその他インド系の人々が多数定住しているところは多いが、1937年の英領インドとの分離、1948年のイギリスからの独立、1962年の軍事クーデターいう三つの大きな節目はそれぞれインド系の人々に不利に働いたため、多くの資本や人々がこの国を離れてインドないしは第三国へ移動している。
    インドの一部を成していた時代には、様々な分野の労働者以外に、行政の中堅・下級官吏の多くをインド人たちが占め、軍の将兵の多くもインド人たちであったが、その後彼らはそうした地位から追われることとなり、行政・政治の分野で支配的な立場から姿を消すこととなった。そんなわけでインドの年配者の中で『昔、ビルマで生まれ育ちました』という人に今でもごくたまに出会うことがある。
    せっかくミャンマーまでやってきて、こんなことに関心を持つのもなんだが、やはり「一時期インドの一部を成していたビルマ」である。
    インドとの分離直前のビルマ
    先日取り上げてみた Candacraigをはじめとするヘリテージ・ホテルに転用されたもの以外にも、往時に建設されたバンガローはいくつも現存している。また政府の建物にも英領期のくたびれたものが多く見られる。
    発展から取り残された国であるがゆえに、インドのヒルステーション全般と比較して、植民地期のものがよく残っているといえる。そうしたものが取り壊されることなく、また最近出来た新しい建物に規模の点でも圧倒されることなく、豪壮な威厳を保っていることも特徴であるといえる。しかしそうした状態は、いかにこの国の停滞ぶりを示すものであり、決して文化財や歴史的建造物の保全が充実しているといったものではない。
    目下、ビンルーウィンことメイミョーは、ITシティーとしての発展が期待されているのだという。今のところ町を流してみてITを感じさせるものは何ひとつ見当たらないが、国としてはそういう方針らしい。高原の町ということもあり、インドのバンガロールを小さく小さくスケールダウンしたようなものを目指しているのだろうか。
    〈続く〉