家族連れがそぞろ歩いていたり、カップルがいちゃいちゃしていたりする、軽井沢みたいな土地のどこがいいのだ?と言われれば、確かにそうだと頷くしかない。確かにそういう雰囲気に特に何の関心もない。小洒落たカフェやナイトスポットならば、もっといいところが平地の大都会にはいくらでもある。
結局のところ避暑地であるが、欧州列強の植民地、往々にして熱帯の土地であるが、暑季の耐え難い気候から一時的に逃れるため、あるいは療養などを目的に訪れるためなどに建設された町である。もちろん暑さに参ったのは文民だけではない。ヒルステーションには往々にして相当規模の軍の駐屯地も存在してきた。
今の時代は、どこでもエアコンの効いているスペースならば暑さを忘れることができるとはいえ、暑季のインドで標高の高いところに来たときのアウトドアでの清涼感は何ものにも替えがたい。だが涼しいだけならば、標高の高いところならばどこでも清涼な気候を楽しむことができるわけだが。
だがヒルステーションにしかないものもある。それは英領期に築かれた歴史的な遺産とそうした土地であるがゆえの空気である。例えとしては適切ではないかもしれないが、敢えて言ってみれば、広大な中国で漢民族たちはどこにも同じような街を作っている。北京、上海だろうが、非漢民族の自治区(主要都市のマジョリティは漢民族だったりするが)の大都市、たとえウルムチであれ、ラサであれ中心部の街角は酷似している。
同様にイギリス人たちが築いたヒルステーションは、どこも立地といい、町の佇まいといい、非常に共通するものが多い。『リッジ』があり、『モール』があり、数々の公共の建物や教会、今も残るバンガローその他の個人所有の建物等々が並ぶ。
たとえ彼らがその地を去って60年以上の歳月が経過しているとはいえ、往時の面影を色濃く残しているものである・・・と言いたいところだが、90年代以降のインド国内での観光ブームによる開発のため、あながちそうとはいえない。とりわけハイ・シーズンに訪れると、そこはまさに日本の軽井沢状態であったりする。
植民地的な景観の『町並み保存』を訴える向きがあるのかどうかは知らないが、英国的な景観には事欠かないインドにあって、特にそうしたものに興味関心もないであろうことは容易に想像がつく。
スリランカのヌワラ・エリヤ、マレーシアのゲンティン・ハイランド、旧仏領のベトナムのダラート、旧蘭領であったインドネシアのバンドゥンなどがよく知られており、アフリカにもそうした保養地はいくつかあるが、ヒルステーションが最も発達を遂げたのはインドだ。かつての英国の海外領土の中でも別格で、イギリス本国の植民地省とは別のインド省を通じて支配された地域であり、英領時代のボンベイ管区はアラビア半島で貿易港アデン他の拠点を管轄するなど、言うならば「海外植民地を持つ植民地」のような存在であっただけのことはある。
また単なる避暑地のみならず、ダージリンやシムラーのように、暑季に行政の中枢が平地から移動する夏の臨時首都といった様相を呈するほどの重要性を持ったヒルステーションは、旧植民地であった南の国々にあっても稀だ。
なにしろエアコンのない時代であり、医療も発達していなかった時代だ。インドに駐在するイギリス人をはじめとする欧州人たちの死亡率は今と比較にならないくらい高かった。とりわけ暑季は彼らの生命をも左右する、としては言い過ぎであるにしても、政治・行政機能を期間限定で移転するという非効率さと膨大なコストと引き換えにまでして得たかったのが、そうした時期のヒルステーションの気候と環境だ。
日本の軽井沢や清里がそうであるように、インドの人々にとってもそこは単に避暑地であり商業活動の場である。資本主義の世の中で、需要があれば供給がなされる。それによって訪れる人々は必要なサービスを受け、そこで働く人々は収入を得る。
そうした中で景観が変わっていくのは当然のことだが、数十年の時間を経てもなお往時の面影を感じられることこそが、ヒルステーションの味わいではないかと思う。
チャンディーガルからシムラーに向かうルートから枝道に入ると到着するカサウリーは、シムラーが大変込み合う時期でも比較的空いており、あまり商業的に活発な場所ではないためもあって、旧い町並みがよく残っている。ただし歴史的に軍とのつながりが非常に強く、カサウリーのかなりの部分の土地を今でも軍用地が占めているのがやや難ではあるのだが。
数年前に『カサウリー ビールとIMFL(Indian Made Foreign Liquor)の故郷』として取り上げてみたように、インドにおけるビールを含めた洋酒の原点とも言える土地である。ここで創業したダイヤー・ブルワリーは、現在パーキスターンとなっている西パンジャーブ地方のヒルステーションとして知られるマリーでも同様に酒造業を展開していた。
他にも現在パーキスターンとなっている土地ではラーワルピンディー、クエッタ、インドではシムラーやウーティー、現在ミャンマーとなっているマンダレーといった広範囲にも酒造業の拠点を築くに至った。洋酒文化の伝播という点からもヒルステーションが果たした役割は大きかったといえる。
カテゴリー: column
-
ヒルステーション
-
パフラット
スワンナプーム空港近くのホテルからバンコク市内のチャイナタウン地区の南側にあるパフラットに足を伸ばしてみた。このあたりにはインド系の人々の姿が特に目立つ。
インド人地区といってもそれらしきエリアはごく限られているものの、グルドワラーを中心に広がる彼らの商業地域でインド系の人々の姿が集中している度合いはかなり高く、パーキスターンやネパールから来た人々も多く出入りしていたり働いていたりする。
本国や周辺国との行き来もなかなか盛んなようで、『結婚のためパンジャーブから移住した』という雑貨商のおばさんがいたり、ネパール人だという出稼ぎ男性は実のところネパールから英領時代のミャンマーに移住した人の子孫だったりする。
そんなパフラットのインド人地区では、様々なインド製品が売られていたり、インドにあるようなダーバーや甘いものの店が散在する。
ターバンを巻いた立派な体格のスィク男性がタイでよくある木造の長屋の中に入っていく。おそらくそこが彼の住まいなのだろう。タイでは屋台を切り盛りする女性が多いのと同様に、ここではインド系の女性たちもよく道端でパコーラーを揚げて売ったり、店先でお客に相手をするなど、日がな客商売で忙しく働く姿が多い。
前回来たときには、グルドワラーの横で大がかりな工事が進行中で『何が出来るのかな?』と思っていたが、今回訪れてみると『INDIA EMPORIUM』というちょっと洒落たショッピングモールが完成していた。

空調が良く効いた建物内に入っているテナントは見たところ半数ほどがインド系の業者たちのようだ。布地、既成品の衣類、装飾品、CD等オーディオ関係の品々などを扱う店が多い。だがそれ以外にインドかぶれ(?)のタイ人たちの神具類のショップなども少なくなかった。どういう人たちが顧客なのだろうか。
このエリアではインド系の人々を対象にした安宿が多かったが、ちょっとした中級クラスのホテルなども出てきているようだ。
長らく『ごちゃごちゃとした狭苦しくて暑苦しいところ』であったパフラットのインド人地区も次第にグレードアップしつつあるように見える。 -
バンコク東端のラート・クラバンは未来のツーリストゾーン?
前回『スワンナプーム空港付近のホテル』と題してバンコクの国際空港近くの宿泊事情を取り上げてみた。
私自身、その中のひとつであるSilver Gold Garden Suvarnabhumi Airportというホテルを利用してみたので、その感想を記しておくことにする。
以下のマップで『A』の印が付いているところがそのホテルである。大きな地図で見る
フライトナンバーと到着時間を伝えておくと、出迎えゲートのところで名前を書いたプレートを手にした人が待っていてくれて、ホテル差し回しのワゴンが停車しているところまで案内してくれる。エリアの知名度が低いため、このエリアの大半のホテルにとってお客の無料送迎はほぼノルマのようである。
ウェブサイトでは『空港まで5分』とあったが、実際には十数分くらいかかるようだ。それでも近いことには変わりはない。
ごく最近開業しただけあって新築の建物で部屋の中も外もキレイだ。このエリアにいくつかあるこの手のホテルは、たいてい同時期に開業している。一泊900から1000バーツというところが多いようだが、このあたりの値段がうまいところを突いているといえるだろう。
周囲に見どころはないため、ここを拠点にしてバンコクを観光する人が滞在するとは思えない。空港へ至近という地理的条件から、乗り換え客が大半を占めるいわゆる『トランジット・ホテル』である。
『明朝の早い時間帯のフライトのため市内に出るのは面倒だ。中級ホテルの料金は支払いたくないが、まあそこそこの宿があれば・・・』という人たちに利用しやすい設定となっている。
あるいは普段安宿を泊まり歩いている人であっても『明日の朝は早いから、まあ今日だけは・・・』ということで我慢して払うことができる金額かもしれない。
ホテルから空港まで無料での移動は1時間に1本。零時30分、1時30分、2時30分、3時30分・・・といった具合だ。それ以外の時間帯の場合は自分で料金を払ってタクシーを利用することになる。
空港が位置するのはバンコク市の東端のラート・クラバン区。最近開発された空港エリアとのことで、周囲は農地以外は何もないのではないかと想像していたが、そんなことはなかった。空港が完成する以前から存在している商業地であるようだ。コンビニ、食堂や屋台、ちょっとした市場などがある。近隣では小ぶりながらもナイト・マーケットも開かれているなど、見どころ以外のインフラは揃っている。今後様々なクラスの宿泊施設が増えるように思われる。

近ごろのバンコクでのタイ反独裁民主戦線(UDD)の大規模な抗議活動により、観光業はもとより様々な分野で大きな損失を蒙っているタイである。しかしながらこの騒動により、バンコクでの乗り換え客を中心に、都心から遠く離れたこのエリアの宿泊施設に注目が集まり、その名が広がるという効果をもたらしたようである。
今年8月には空港と市内を結ぶ鉄道スワンナプーム・エアポート・リンクが開通する予定だ。終着駅のスワンナプーム空港からひとつ目の駅ラート・クラバンが最寄駅である。
空港からは朝6時から午前1時まで運行されるSAエクスプレスによりプラトゥーナーム・マーケットの東にあるマッカサン駅までノンストップにてわずか15分で結ばれる。これはラート・クラバン駅には停車しないが、24時間運行で各駅停車のSAシティ・ラインはここから利用可能でパヤータイまで30分かからず、市内観光にも充分観光にも使える。
そのため今後は乗換客のみならず、あまり繁華街には泊まりたくないなぁ、という人たちの需要も見込めるだろう。旅行代理店やグレードの高いグルメな店なども進出してくるかもしれないし、タイ各地に向かう長距離バスがお客を拾う場所となっているかもしれない。ともあれ今はこじんまりした商業地の外はのどかな田園地帯。ちょっとしたツーリストゾーンとして拡張していく潜在力を秘めた場所である。
夕方、市場で買ってきたドリアンをホテルの庭先に置かれたベンチで楽しむ至福のひとときである。今からあと10年も経てば、こんなに静かな郊外であったことがまるで嘘のように騒々しい盛り場になっている様子が目に浮かぶようだ。 -
スワンナプーム空港付近のホテル
大きな地図で見る
早いもので、2006年にバンコクのスワンナプーム空港がオープンしてから5年になる。
インドをはじめとする南アジア各地と日本の間をタイ航空で移動する場合、ここで乗り換えたり、乗り継ぎの関係で一泊したりというケースは多いだろう。
スワンナプーム空港がオープンしてからしばらくの間は、空港にごく近いところにあるホテルといえば、Hotel Novotel Bangkok Suvarnabhumi Airportくらいであった。
Novotelといえば、フランスを本拠地とする国際的なホテルチェーンで、バンコク市内では空港近くのものを含めて4軒展開している。宿泊料金については、こちらを見てわかるとおり、ずいぶん大きな開きがある。もちろん空港エリアのものが最も高い。
サヤーム・スクエアにあるNovotelの約1.5倍、そして他の2軒の倍あるいはそれ以上となっている。。本来の格を大幅に超える強気な料金設定は、スワンナプーム空港隣接のNovotelは、ターミナルビルに隣接するロケーションであるがゆえのことだろう。私も利用してみたことがあるが、どの時間帯においても、次々に宿泊客たちがロビーに到着しては、出発していく姿が多数見られ、かなり忙しそうな印象を受けた。
夜遅いフライトで降り立ち、朝早くの飛行機で出発であったり、あるいはタイにしばらく滞在していたとしても、出発便のチェックインが早朝の変な時間帯であったりすると、なるべく空港近くに滞在したいと思う人は多いであろう。とりわけ子供連れであったりすればなおさらのことだ。
空港と市内の間は、見事な高速道路で結ばれているため、深夜や早朝ならばスクムヴィットの繁華街あたりからタクシーにて30分程度で到着できたりもするのだが、朝寝坊な人間にとっては、この時間を捻り出すのはなかなか大変だったりする。
かといって、市内ならばもっと格上のホテルに宿泊できる料金を、そのために払うのは無駄であるし、室内を含めてホテル内はスタイリッシュだし、スイミングプールなどのアメニティもそれなりに上質ではあるのだが、ベッドとバスタブ以外の何も利用することなく眠りから覚めたらそそくさと立ち去るのももったいないと思うのは私だけではないだろう。
要は空港近くに、もっと安いホテルがあればいいのであるが、さすがは商売上手なタイの人々がそうした商機を見逃すはずはない。新しい国際空港開業後から着々と準備が進められていたようで、すでに空港から至近距離にいくつかのエコノミーなホテルがオープンしている。Queen’s Garden ResortやConvenient Resort等が、シングルルームで一泊900バーツ程度からで、このエリアに同じようなホテルは他にもいくつかあるようだ。空港からの無料送迎を付けているところもある。
先述のとおり、乗り換えや早朝便の利用等でニーズのあるエリアなので、今後さらにホテルやゲストハウスなどが増えてくることと思う。 -
バーングラーデーシュが旬?
今年2月に大手旅行代理店H.I.S. がダッカ支店をオープンさせたのだそうだ。同支店のブログも用意されている。
国土は北海道の2倍程度と狭いものの、世界遺産のパハールプル、マイナモティといった仏蹟、シャイト・ゴンバズ・モスジッドやカーン・ジャハーン廟などのイスラーム関係遺蹟、茶園で知らせるスィルハトといった名所、首都ダーカーや近郊の古都ショナルガオン、はてまたモンゴロイド系少数民族が暮らすチッタゴン丘陵地帯など、魅力あふれる土地が数多い。また海が好きな人は、同国最南端に位置するセント・マーティン島なども気に入るのではないかと思う。
H.I.S.のツアーでは、そうした観光地以外にもNGO『BRAC』やグラミーン銀行のマイクロクレジット事業の視察ツアーも用意されているのは、日本では被援助国というイメージの強いバーングラーデーシュらしいところかもしれない。
聞くところによると、そう遠からず『地球の歩き方 バングラデシュ』も発刊されるようである。今年はちょっとしたブームになるのだろうか?
そもそも隣国インドと較べてずいぶん観光客が少ない国である。突然大勢のツーリストが訪れる(・・・ことになるのかどうかは知らないが)ようになると、これまでの素朴な雰囲気やたまたま出会った地元の方がひたすら歓待してくれるようなムードも変わってしまうのかもしれない。
だが、これがきっかけとなってバーングラーデーシュに関心を持つ人が増えて、観光業が国の産業のひとつの柱として成長することがあれば、人口問題に苦しむこの国で各地にもたらす雇用機会や収入といった面で好ましいだろう。
何やら突然『バーングラーデーシュがブーム!』なんていうことはないにしても、インドの西ベンガル州や東北州などに興味を持って訪れる人が、目と鼻の先の隣国にも足を延ばしてみたり、それとは反対にバーングラーデーシュを訪れた人が、国境向こうインド側の地域にも同様の関心を抱いてくれれば、と思うのである。 -
キプリングの時代
ボンベイ生まれのイギリス人作家ラドヤード・キプリング(1865〜1936)の献辞が書かれた彼自身の著作『THE JUNGLE BOOK』が見つかったのだそうだ。
Rare Kipling edition discovered (BBC NEWS South Asia)
代表作『トム・ブラウンの学校生活』で知られるトマス・ヒューズ(1822〜1896)と並び、生前には当時のイギリスを代表する大作家であり、1907年のノーベル文学賞受賞作家でもあった。文豪ヘミングウェイに多大な影響を与えた人物としても知られている。
代表作『ジャングルブック』や『少年キム』などとともに、『領分を越えて』『ブラッシュウッド・ボーイ』『損なわれた青春』などの短編も邦訳されており、これらは岩波文庫の『キプリング短篇集』に収録されている。
なお、今ご覧になっているPCの画面から、そのままキプリングの作品にアクセスすることもできる。邦訳されたものは、青空文庫にて、『幻の人力車』ならびに『モウグリの兄弟たち』というふたつの短編しか読むことができないが、英文のテキストならばProject Gutenburgにて、キプリングの作品群が多数公開されている。
1865年にボンベイで生まれた後、1871年には両親により教育のため、まだ見たことのなかった祖国イギリスに送られているが、1882年には再度インドに渡航して、ラーホールの新聞社に職を得た。Civil & Military Gazetteという新聞の発行元である。
その後、1887年にはアラーハーバードのPioneer紙に移り、このころから紙面に定期的に短編小説を発表するようになった。やがて文壇の怪物として台頭し、ついにはイギリスの国民的作家としての名声を不動のものとするキプリングの文芸活動のはじまりである。
彼は、インドはもちろんのこと、アメリカ、シンガポール、ビルマ、日本、南アフリカ等各地を訪れている。彼の作品に出てくる舞台も当時のインドのみに限定されるものではないとはいえ、やはり彼の書き残した主要作品の中で最も大きなウェイトを占めるのがインドであり、キプリングの作品から当時のインドの世相や欧州人社会を探ることを試みた書籍なども多数出ている。
帝国主義的、人種差別的であると評されることもあるキプリングだが、私たちが生きている現代とは社会の風潮や常識といった物の考え方の尺度が異なっていたことを踏まえる必要があるだろう。
彼の作品で描かれる主人公その他の欧州人たちは、提督や政府高官といった権力者ではなく、大きな富を抱えた大商人でもない。多くは、役人、技師、兵士その他の被雇用者といった『末端の白人』として生きた人々の低い目線から描き出したものである。
当時の『インドの大衆』とは大きく一線を画す存在であったとはいえ、インドを舞台とする作品中で彼が描いた主人公の多くは、インドのイギリス支配の末端を担う、現地の白人社会における『一般人』たちであり、異郷で彼らなりの運命を切り拓くべく努めていた『普通の人』たちである。
つまり主要な読者層であった欧州系の人々、イギリスその他欧州に暮らす人々であれ、インドを含む当時の英領地域に住む白人の同胞たちであれ、同じ一市民として感情移入できる作品群を書き残したからこそ、各地で広く読まれることになったのだろう。そして今なお彼の作品が人々に親しまれているのは、その目線の低さと、読者にとって『私たちと同じ』市井の人々を活写していたからに他ならない。
私たちにとって、すでに遠い過去のものとなった植民地時代の白人社会の日常に関わるつぶさな描写は、非常に示唆に富むものである。また主人公たちによる『ネイティヴ』の人々への視線やかかわりかた等々、まだ映画やテレビドラマのなかった時代の日々を、私たちの目の前に鮮やかに描き出してくれる。
インドを舞台にした彼の作品は、小説というフィクションでありながら、当時インドに暮らしていたイギリス人をはじめとする白人たちの人々の社会史・生活史の資料でもある。キプリングが後世の人々に残した功績は、文学のみに限定されるものではない。
彼が描き出した当時の世の中のありさま自体が、非常に良い状態で保存された『史跡』のようでもある。この世の中に文字というものがある限り、そこは決して失われたり荒れ果てたりすることなく、それらが書かれた当時のままの光景が、ページをめくる私たちの目の前に展開するのだ。
キプリングという大作家があってこそ19世紀後半から20世紀初頭にかけての『当時の世間』が、誰にも読みやすく、興味深い小説として闊達に綴られた。時代を超えて、また活字という手段により国境を越えて、我々が共有する貴重な遺産である。 -
うつむき加減で携帯電話
近ごろどこの国でも、人々が手元に目をやってチクチクと何やらいじっている姿を常に目にする。彼らが手にしているのは携帯電話で、自分もそうした風景に出てくる中のひとりである。
単にスケジュールを確認していたり、メールの送受信やネットの情報を閲覧しているだけなので、手帳を広げていたり、読書をしているのとあまり変わらないはずなのに、なぜか視覚的には内向きの印象を与える。
そんな携帯電話だが、インド北東部のミゾラム州でも広く普及しており、人口の半数以上が所有しているとの記事を目にした。
Remote state in vanguard of Indian mobile phone craze (BBC NEWS South Asia)
同記事によれば、中国と並びインドは世界でただふたつ『5億人を越える』携帯電話契約数を記録(5億人超の人口を持つ国自体がこの2か国のみ)している国であるとのことだ。
なぜミゾラム州の携帯電話契約数が取り上げられているのかといえば、つまるところ『見るべき産業はほとんどなく、政府やその関連機関が最大の雇用を創出している北東州の一角が携帯電話普及のホットな市場である』といったところのようだ。
多くの途上国に共通することだが、携帯電話所有者急増の背景には、それ以前の時代に固定電話の普及が遅れていたということがあるが、加えて従前は世界の多くの国々で電話通信の分野は往々にして政府や政府系機関が掌握しており、あまり大きな変化のない『静かな市場』であったものが、この分野の民営化により他の多くの企業の参入により『競争の激しいダイナミックな市場』へと変わったことによる影響も大きい。
同記事では、ミゾラム州はインドで最も高い95%以上の識字率を誇り、人口の大部分を占めるクリスチャンの人々のほとんどは英語を理解するとも書かれている。識字率については、何のデータを根拠にしているのかよくわからない。
もっとも最近に実施された国勢調査(2001年)の結果によると、ミゾラム州の識字率は89.0%でケララ州の91.0%に次ぐものであると理解されているはずだが、その後9年間でこれを超えるレベルに達したということなのだろうか。これが事実ならば2000年代において、すでに高い識字率を更に6%も引き上げたことになり、同州の教育分野における快挙といえる。
ミゾラムをはじめとするナガランド、メガーラヤ、アッサム、アルナーチャル・プラデーシュ、トリプラー、マニプルといった北東7州ならびにそれらの西方向にあるスィッキム州は、アッサムで採掘される石油、スィッキムの観光業といった分野を除けば特に目立った産業はなく、インド国内でも『主流』から大きく外れた地域であるがゆえに、国内の他の地域からの投資や資本の移転も少ない。
また州により程度や事情は違うものの、スィッキムやアルナーチャル・プラデーシュのようにインドによる主権を認めない中国が領有権を主張していたり、アッサムやナガランドのように反政府勢力による騒擾が続いていたりする地域もある。
そうした背景から、例えとしては適切ではないかもしれないが、それ以外の州を『親藩』とすれば、これらの地域は『外様』的なエリアであることから、インド政府は民心を繋ぎ留めるために努力しているようである。そのため産業面では大きく遅れをとっていても、初等・中等教育や地域医療の分野などでは、全国レベルで比較してひどく低水準に甘んじているわけではない。
ちょうど冷戦時代の西ヨーロッパで、とりわけ東側ブロックに隣接していた地域で国民の福利厚生の分野が高いレベルで実現されたのと似た現象であるといえるだろうか。
話は識字率に戻るが、そうした北東地域の中でミゾラム州の89%(2001年国勢調査)という水準は、この地域で2番目にあるトリプラー州が73パーセントであるのを除けば、どこも60パーセント台であることを踏まえれば、ずいぶん突出した数字であることがわかる。参考までに識字率の州別ランキングはこちらである。
ミゾラム州といえば、ミャンマーとバーングラーデーシュという隣国、どちらも低開発途上国とされる国々と隣接するところに位置している。同時に地理的には今後結びつきをいっそう密にすることであろう南アジアと東南アジアというふたつの世界を繋ぐべき位置にある。
ミャンマーもバーングラーデーシュも現状では経済的に非常に低水準にある。だがかつてのインドもそうであったように、スタート地点が低いということは、条件が揃い成長の歯車が回りだした場合の伸びしろもまた大きいということにもなる。
まだまだ内政的に困難な部分、ふたつの隣国との外交面においても難しい事柄は多いが、『本土から回廊状に張り出した陸の孤島』のようになっている北東地域の開発や発展を目指すうえで、これらの国々との関係の強化以外考えにくい。そうした中で、とりわけミゾラム州は地理的にも識字率の高さから推測される潜在的な可能性は大きい。
また携帯電話に代表される個人の通信手段の普及が地元社会や政治シーンに与える影響も無視できないだろう。
携帯電話は仕事の上でも生活の中でも、私たちにとって必要不可欠な通信手段となっている。社会の隅々まで浸透しているがゆえに、近年はどこの国でも、騒擾やテロ事件等の発生の際、指導層から実行者たちへ、また実行者たちの間でも携帯電話というツールを通じての連絡や通達等が頻繁になされるようにもなっている。
インドから東に目を移すと、タイの首都バンコクで続いているタークシン元首相を支持する赤シャツを着た『反独裁民主統一戦線(UDD)』の行動に関するニュースを各メディアで目にする。
指導層の指揮下に統率の取れた(抗議活動そのもののありかたについての道義的な面は別として)デモ活動を展開していることの背景には、農村部を中心とするタークシン派の支持基盤が強固であることや豊富な資金力などがあるとはいえ、これだけ多くの人々を長期間に渡って動員して意のままに操るには、多くの人々が自前の携帯電話等を所持して通話やSMSの送受信などが可能であるという『通信インフラ』が不可欠であることは言うまでもない。
世界は確実に小さくなってきているとはよく言われるところだが、このところの通信手段の発達はそれに拍車をかけているようだ。これまで連絡を取るといえば肉声の届く範囲の人々と話すか、ときどき電話屋に出かけて遠くに住む友人や身内と会話する程度であったものが、ここ十数年で自前の携帯電話でひっきりなしにいろんな人たちと話したりメッセージを送りあったりするのが当たり前になった。
各世帯でのパソコンの普及率はまださほどではないにしても、ネットカフェでウェブを閲覧したり、メールのやりとりをしたりするのは日常的なことなので、一定の年齢層の人々、ようやくパソコンを扱うことができるようになった年頃の人たちから、なんとかそれに対応できる年配者まで、多くの人々がヤフーなりグーグルなりのアカウントを持っている。
そうした中で、民族や国境が入り組んだインド北東部の北東州を含めた地域、同時に南アジアと東南アジアの境目にあるエリアでもあるわけだが、伝統的な民族意識、地元意識、仲間意識、市民意識といったものに与える影響もあるはず。
異なるコミュニティや地域の住む人々の意識をまとめあげることができるような、強いリーダーシップを持つリーダーが登場するようなことがあれば、従来ならばあり得なかった形での連帯も可能になる。
ここ5年、10年でどうということはなくても、遠い将来には州境や国境等、複雑に構成された『境』で分けられた行政による非効率や不公平等などに対して、民族や国家の枠を超えて、これまでとは違った視点から、地域の再編を求めて声を上げる例も出てくる、といったことも考えられなくはない。
うつむき加減で携帯電話を操作しながらも、人々が頭の中で思っているのは日常のことばかりではないような気がする。 -
在印アメリカ大使館ウェブサイトにて
在印アメリカ大使館は、今月21日からデリーでのテロ発生の可能性を根拠とする注意喚起を出している。
US warning over India ‘attacks’ (BBC NEWS South Asia)
インド滞在中ないしはこれからインドに向かおうとしている米国市民に対し、こうしたメッセージが発せられることは時々あり、特に珍しいことではないが、おそらく何がしかの根拠があってのことだろう。
これを受けて、日本の外務省は海外安全ホームページ内で4月23日付け『最新スポット情報』にて『在インド米国大使館は、首都ニューデリーでテロリストが攻撃を計画している兆候』なる記事をアップロードしており、同国とは情報収集能力において比較にならない開きがあることが見て取れる。
ところでアメリカ大使館ウェブサイトのArchived Warden Messagesには、セキュリティ等に関して同大使館が発した過去のメッセージを一覧できるようになっているが、インドのヴィザに関して導入された2ヵ月ルールに関して、12月9日、15日、21日、23日と4回に渡って情報を提供している部分が目を引いた。
テロ事件等は、局地的かつ一過性のものである (運悪く遭遇してしまった場合の危険はともかく)のに対して、広く周知されることなく変更されたヴィザのルールについては、まだそれが広く知れ渡っていない時期に出入国を予定している人たちに、等しく影響を及ぼすものとなる。
ゆえにこうした情報を大使館が自国市民のために提供するということは歓迎すべきことであるが、私たちを含めてその他の国籍を持つ人々もすぐに参照できるウェブ上に掲載されているのはありがたい。言うまでもなく英語で書かれているがゆえに、国や地域を問わず世界中の人々が参照することができる。
ともあれ、今後特に何も起きないことを願うが、今年10月3日から14日にかけてデリーで開催されるコモンウェルス・ゲームの時期はどうなのだろうか?とも思う。
スポーツの試合が開催される施設、選手村、一定水準以上の宿泊施設等をはじめとして高度なセキュリティ対策が敷かれることとは思う。しかし人口1400万人にも及ぶ大都会であり、都市はいつでも誰でも出入り自由な空間であり、治安当局が躍起になってもなかなか目の行き届かないスポット等は少なくない。
何か起きれば、最終的に責任があるのは行政や治安を司る政府ということになるが、そこで業務に従事する人々だけで安全を守ることができるのか、といえばそうではないだろう。
日本ではコモンウェルス大会なるものに馴染みがほとんどないが、英連邦という枠内に限られた国々のみ・・・といっても71もの国々が参加する大掛かりなものだ。これまでインドが開催した中で最大のスポーツの大会でもある。
各種競技に参加する選手たち自身にとっても、これを観戦する市民たちにとっても、『デリーにやってきて良かった!』『デリーで開催して良かった!』と、誰もが感動と喜びを分かち合うことのできる平和なスポーツの祭典となるよう祈りたい。 -
背中に記したメッセージ
先日、池袋で開催された『カレー フェスティバル & バングラデシュ ボイシャキ メラ』にて、揃いの黒ヴェストを着用している男性たちを見かけた。

東京都大田区蒲田にある礼拝所への寄付を募っている人々で、背中にURLがプリントされている。
東京都内にあるモスクとしては、トルコ大使館が音頭を取って建設した東京ジャーミィ、パーキスターン人が中心になって運営している大塚モスク、サウジアラビア大使館関係施設であるアラブ・イスラーム学院内の広尾モスクなどがよく知られている。
また、東武伊勢崎線沿線にデーオバンド系で、厳格な教義を持つタブリーギー・ジャマアト関係の小さなモスクや礼拝所がいくつか存在している。
ひとくちにイスラーム教の信仰といっても、現実にはいろいろあるし、居住地や勤務先と遠く離れていては用をなさない。礼拝施設は同時に同胞たちとのコミュニケーションの場でもあるため、どれでもいいというわけにはいかないだろう。
そのため、都心各地の繁華街で働く信徒たちが、雑居ビルの中の一室を礼拝用に借り上げていたり、雑貨屋の店舗内を近所で働く同胞たちの金曜礼拝のために提供していたりすることはよくある。
蒲田の礼拝所は、そうした場所のひとつで主にベンガル人ムスリムたちが出資して借りている場所らしい。母国から遠く離れた彼らの信仰の場であるとともに、同胞たちとのつながりを保つためにも必要な集会施設としての機能も持ち合わせていることだろう。
ウェブサイトにはいくつかの写真が掲載されているが、もともとは住居として作られた建物のようで、ごく限られた空間に沢山の人たちが集まっている様子がうかがえる。
在住する年月が長くなり、集まる人数も増えてくると、それなりにしっかりとした施設を持ちたいと考えるのは当然の成り行きである。
もちろん礼拝施設のみならず、結婚して所帯を持てばやがて子供たちも生まれてくるだろう。教育の問題もあれば、人生の通過儀礼の実施についての事柄もある。
イスラーム的な環境の存在しない日本で信仰と日常生活の折り合いをどうつけていくかということについても考えるところいろいろあるだろう。そして誰もがいつかは死を迎えることになるが、日本で土葬が認められている場所はごく限られてもいる。
現時点では、日本で暮らす一般的な日本人の間に彼らの声が届くことはまずないし、そうした認識を持つ人もほとんどないと思われる。日本に定住するムスリム人口が拡大していくということは、こうした問題を抱える人の数が増えていくということであり、やがて社会的に大きな発言力を持つ人も出てくることだろう。
彼らの声がすぐそこで聞こえるくらいに大きくなってきたとき、初めて日本の人口の中で無視し得ない一角を占めるようになった彼らに対する処遇を慌てて検討することになるのではないかと思う。
多くは日本人やその社会に対する好感と敬意を表してくれている友好的な隣人たちであり、こちらも同様に敬意と誠意を持って対応すべきであることは言うまでもない。だが果たして私たちにそうした度量や用意があるのかどうかについては、正直なところ今はまだ自信を持てない。
これまで、少なくとも私が知る限りでは、2001年に富山県で起きた事件を除き、在日ムスリムの人々が日本の大衆の目に付くところで、私たちに訴えの声を上げた例はまずなかった。
件の黒ヴェストの人たちが背中にウェブサイトのURLとともに記したメッセージは、今彼らが暮らしている社会に対して、理解と協力を求めるよう動きつつある兆候であるかもしれない。 -
池袋に集うベンガルの人々

4月18日(日)に東京の池袋駅すぐ近くの袋西口公園にて、今年で11回目となる『カレー フェスティバル & バングラデシュ ボイシャキ メラ』が開催された。
池袋駅にごく近いこともあり、人の出入りは大変激しかったが、会場にいる人々の姿を見渡してみると、半数近くがベンガルの人々であったようだ。
会場のあちこちで、友人や知人たちの姿を見つけては、大げさに喜んだり、挨拶を交わしたりしてている。もともと異郷で暮らす彼ら自身が新年を祝うイベントとして始めたもののようだが、駅前広場というあけっぴろげなところで、どこの人間であれ来る者拒まずというオープンな姿勢は、彼らの多くが日本に定住し、今後もこの国を構成する一員として暮らしているというスタンスを象徴しているようだ。
一般的に、日本に暮らすようになったバーングラーデーシュの人々といえば、ごく一部の例外を除き、バブル期以降に来日した人々がその大半を占める。日本とバーングラーデーシュの間では、観光目的の短期滞在について、ヴィザの相互免除の取り決めがあったため、ひとたび航空券の代金を負担することができれば、比較的簡単に来日できた時期があった。
言うまでもなく、そうした人々の大半の滞日目的は物見遊山などではなく、『好景気』『円高』で注目されるようになっていた当時の日本で、とにかく仕事を得て稼ぐことであった。当時は『人手不足』と言われる時代であった。
とりわけ特に3Kと称される職場では、仕事の担い手が足りず、バーングラーデーシュ以外にもパーキスターン、イランといった、やはり日本との間で観光査証の相互免除の措置がなされていた国々からやってきた人々が、日本人のやりたがらない仕事を肩代わりしてくれていた。
彼らを必要とする現場は多くとも、外国人が単純労働目的で来日することを認めていないこと、在留資格の内容とは異なる目的で入国・在留している人々が多いことを重く見た行政は、そうした人々の摘発に積極的に乗り出すこととなり、また外交上でもそれらの国との間の査証相互免除を停止することとなった。
入国の戸口が大幅に狭められることによって新規来日者が大幅に減り、既存の在留者たちの中からは、それなりに出稼ぎの目的を果たして帰国する者や摘発を受けて退去させられる者などあり、その数を漸減させていくこととなった。
日本のバブル期に、彼らとほぼ同時にその数を急増させていたのは、ブラジルやペルーなどからやってきた日系人たちだ。バーングラーデーシュやパーキスターンなどの人々が短期滞在ヴィザで来日して就労することは非合法であったのに対して、こちらは日系人であるがゆえに在留資格『定住』が与えられるため、日本国内で仕事に従事することについて何ら問題もない。
従前は、日系二世にまで与えられてきた『定住』の資格だが、1990年の入管法改正により、これが三世にまで認められるようになると、入国者数増に拍車がかかった。そうしたこともあり、バーングラーデーシュその他の人々が減った分、彼らがその後を占めるようになった。
その後の景気後退により、就業機会が減ったこと、条件も悪くなったことと合わせて、在留資格上問題のある人を使用すると雇用者側にも罰則が与えられるようになった。短期滞在の資格でしかもオーバーステイという立場の人々は、日本での雇用機会から締め出されるようになっていった。
バブルの頃にやってきた人々の大半は帰国するなり、第三国に向かうなりして、この国からいなくなってしまっているが、それでも今なお少なからず日本に定着した人たちもあった。『投資・経営』『技能』といった滞在資格を得て、日本で中古車取引や食品関係等の事業を行なうようになったり、日本人との結婚により『日本人の配偶者等』(『定住』と同じく活動に制限がない)の資格を得た人たちなどである。
後者については、時代は違えども19世紀初頭から20世紀はじめにかけて中国から東南アジアに移住した華僑たち、また中南米に移住したラテン系の人々と共通した背景がある。
外国へ出稼ぎに向かう人々の相当部分が20代の未婚男性であることが多い。在留国と自国を定期的に行き来できるような気楽な身分ではないこともあり、交際することになる異性、やがて人生の伴侶となる相手とは、滞在先での存在がほとんど無に近い自国の女性ではなく、現地の女性となるのはごく自然な成り行きである。
そうしたカップルの間から生まれた、バーングラーデーシュと日本というふたつの国の血を受け継いだ二世たちは、すでに高校生くらいの年齢に達している者もあり、そろそろ社会人として、日本で世の中にデビューする人たちも出てくるだろう。
またこれらとは異なる形でやってきた人たちの姿もある。国費(日本政府の奨学金)ないしは私費にて留学生として来日した人々である。とりわけ前者については、圧倒的に理系学生が多く、しかも修士あるいは博士といった学位まで取得することを目指す高学歴志向であることも特徴だ。
大手通信企業、広く名前の知られた外資系IT関連企業等に職を得て活躍する人たちは多く、もちろん中には自らそうした分野で起業している例もある。
こうした人たちの場合、自国との行き来に障害があるとすれば、経済的な要因ではなく、往々にして仕事が繁忙であることくらいであるためもあってか、少なくとも私の見知っている範囲では、自国で身内が決めた相手と結婚している例が多いようだ。
経済的に安定しているため、自身や妻の兄弟といった身内の日本留学の便宜を図ったり、あるいは学費・生活費等丸抱えで支弁するという例も目立つ。
バブル期に出稼ぎに来た人たちと留学生としてやってきた恵まれた立場の人たちの間で共通する点として、日本への定住志向があるようだ。すでに日本を終の棲家と定めて国籍を取得した『ベンガル系日本人』として生活している人も少なくない。
こちらの流れからも毎年次々に日本での留学や卒業後日本国内での就業を目指して来日する人々があるとともに、新たに生まれてくる子供たちも加わり、大半は外国人学校ではなく、普通の日本の公立小学校へ入学している。
今、日本国内でアクティヴな南アジア系の定住コミュニティといえば、こうしたバーングラーデーシュを祖国とするベンガル系の人々である。大半が日本語も堪能で、この国に対する知識も深い。日本人社会の中にどっぷり浸かって仕事や生活をしている人が多く、文字通り『日本に骨を埋める』覚悟の人々が占める割合がとても高いという点からも、将来に渡り、日本で彼らのコミュニティは発展には注目していきたい。
コミュニティの成長とともに、母国からの人の流れは今後も活発に続いていくことだろうことから、ある時期を境に新規の流入がほぼ途絶えた中南米の日系社会とは対照的に、長きに渡ってベンガルらしさは保たれるであろうし、祖国の『伝統』や『今のトレンド』も確実に吸収したうえで、日本における生活文化が築かれるのではないかとも思われ、とても興味深いものがある。 -
奪われてきた婿
しばらく前の話である。インディア・トゥデイ誌4月7日号のある記事に目が止まった。ビハール州で、身代金目的ではない誘拐が頻発しているのだという。目的は略奪婚・・・といっても、さらわれて来るのは女性ではなく男性。まだ幼い娘の結婚相手を獲得するために、少年がさらわれて来るのだという。
同誌ウェブサイトには、英語版にて同じ内容のものが掲載されている。
Bihar’s shotgun weddings (India Today)
同記事によると、ビハール州では伝統的に上層カーストの間で略奪婚は珍しくなかったそうだ。しかしその他の層でも、近年は娘を結婚させる際のダウリーの負担が大きくなってきていることが、外出中の男の子を銃器などで脅しての略奪婚が発生する背景にあるとのこと。
記事中にあるラームプルという土地では、90%の結婚はこうした手段によるものであり、地域の人々の多くはこうしたやりかたについて肯定的であり、婚礼を取り仕切る司祭も協力的であり、関係者たちも様子をビデオに収めるなどの証拠作りが行なわれるというから、地域社会ぐるみで行なわれているようだ。
2009年、ビハール州では届出のあっただけでも3,124件の誘拐事件が発生し、そのうち1,336件は略奪婚目的であったという。
今年に入ってからは、1月に限ってみれば、224件の誘拐事件中、87件はこうした理由によるものであり、それに較べて身代金目的のものはわずか8件であったというから、いかに結婚というテーマが誘拐を引き起こす動機として大きなものであるかということが窺われる。
ビハール州でこうしたケースが多発しているとはいえ、2007年にインド全国で発生した27,561件の誘拐事件のうち、47%は結婚目的であったとのことで、略奪婚自体は州外にも広く分布しているようだ。
ただしその中で男子の誘拐は5,174件であったということである。つまり嫁よりも婿獲得のために誘拐するケースのほうが多いということが、ビハール州における略奪婚の特徴となるとのことで、ダウリーに起因する殺人事件が発生する割合が全国平均の倍という事情を反映しているらしい。
もちろん圧倒的多数の家庭では、ごく平和裏に結婚という人生の通過儀礼が行なわれており、ショッキングなニュースとして報道されている略奪婚は総体として見れば、ごくごく例外的なものである。両家が合意のうえで取り行なわれた婚礼であっても、結婚した当人たちにとっては非常に不本意なもので、心情的には略奪婚同様に強制されたものであるというようなケースも決して珍しくはないとしても。
略奪婚というきっかけはさておき、多くはその後子供をもうけて新たな家庭を築くことになるわけだが、強制的に婿入りさせられた男子の立場は、その家庭内でどういうものになるのだろうか。
農村部であることから、都会の核家族暮らしのように、親類縁者との関係が希薄な生活ではない。嫁側の父母その他目上の『親類縁者』たちに対して日常的に従属する立場になるのは、婿入りした場合どこも共通であるとしても、同年代の『身内』との関係でも、少なくとも『婿入り』当初は一段下に置かれると考えるのが自然で、相当器用に立ち回ることが求められることだろう。
スペースの都合もあろうが、記事は略奪婚という手段のみに焦点が当てられており、その後の家庭生活や周囲の人々との関係についての記述はなかった。
決して略奪婚を肯定するわけではないが、通常の結婚できっかけが恋愛であれ、見合いや親が決めたもの(国や社会によっては非常に大掛かりで経済的な負担が非常に大きなものであったとしても)であったとしても、婚礼という通過儀礼を行なうことよりも、縁あって結ばれた相手との結婚生活を長年続けていくことのほうが、より多くの努力や忍耐を必要とするものだ。
夫婦間の仲がどうこうというものではなく、生まれながらの親兄弟姉妹と違い、もともと他人であった相手である。ゆえに、ひとつ屋根の下で暮らしていくには、相応の歩み寄りと寛容さが求められる。
極めて野次馬的な関心かもしれないが、略奪婚によって始まった新しい家庭が年月を経ての『その後』が気になる。 -
最高峰への挑戦
世界最高峰エヴェレストの標高といえば、8,848mであると思っていたが、長きに渡りネパールと中国の間で論争が続いていたようだ。『頂上』についての定義の違いによるものであり、前者は文字通り一番高くなっている部分、雪や氷に包まれた頂がそれであり、後者によれば氷雪の下にある岩石部分こそがエヴェレストの頂であるというもの。
8848mとは、前者の主張に沿うものであり、中国側の言い分ではそれよりも4mほど低くなるらしい。だがこのほど中国はネパールによる『8848m説』を受け入れたことにより、この論争に終止符を打ったのだという。
Official height for Everest set (BBC NEWS South Asia)
だが上記BBCの記事の最後にあるように、US National Geographic Societyの計測によれば、8,850mであるとのことで、まだ『標高8,848m』異論を唱える人たちはいるようだ。
ところで、エヴェレストといえば、言うまでもなく世界最高峰であるがゆえに、ベースキャンプからの最短時間登頂、最多登頂回数、最高齢登頂等々、数々の記録が話題になる山である。
偉大な記録の樹立は、人々の大きな喝采と祝福とともにメディアを飾ることになるが、まさに記録とは破られるためにあるという言葉のとおり、更に上を行く人物が出てきて世間を驚かせてくれるものだ。
こうしている今、新たな記録樹立を狙いネパール入りしているアメリカ人の少年がいる。彼、ジョーダン・ロメロが目指しているのは最年少登頂記録だ。1996年7月12日生まれの13歳である。
American boy, 13, to attempt Mount Everest climb (ABC News)
もちろん彼は素人などではなく、近年タンザニアのキリマンジャロ、アルゼンチンのアコンカグア、アラスカのマッキンレーその他の高峰を制してきたキャリアを持つ、極めて早熟なクライマーである。これまで最年少記録といえば、2001年5月に16歳17日で頂上を極めたネパールのシェルパ族のテンバ・ツェリ。それを大幅に下回る年齢での登頂が成功したとしても、後にその記録を塗り替える例はなかなか出てきそうにない。
登山家としてはあまりに低年齢すぎる子供にこうしたチャレンジをさせることについて、医学面ではもちろんのこと、倫理的に問題であると捉える意見も多い。
私自身、ジョーダンよりもいくばくか年下の息子を持つ親としては、登頂の成否云々よりも、彼が無事に帰還することを切に願いたい。
同時期に、インドからは16歳の少年アルン・ヴァジペィーが同じくエヴェレスト山頂を目指しており、こちらもメディアで話題になっているところだ。
Not eyeing records, says youngest Everest challenger (The Hindu)
ちなみに女性でエヴェレスト登頂最年少記録を保持しているのはインド人。ヒマーチャル・プラデーシュのマナーリー近郊の村に暮らすディッキー・ドルマが1993年5月に19歳35日で登頂に成功している。
