BHUJ 4

この日、オートリクシャーで手工芸の村めぐりをする。一番遠い村は50キロ離れているため、往復で100キロほどになる。
織物の村であるブジョーリー(भुजोडी)に行き、次に染物とチャパーイー(ブロック・プリンティング)のアジラク(अजरख्,)、そして 刺繍が盛んなダナンティ( धनंति)、アジラクと同じく染物とチャパーイーのダマンカー(धमंका)を訪れることにした。
最初に訪れたブジョーリーでは、冬には夏のために綿布、夏には冬のために毛の織物を作っているという。作業場で織物の仕事をしばらく見物してから、これを経営するヒンドゥーの家族の住む敷地に移る。ちょっとしたショールームがしつらえてあり、ショールその他の完成品が山と積まれていた。ちょっと買ってみたいものもあるとしても、あまりゴリ押しされると興醒めであるが、後で訪れた村も含めて、どこも特にそういうことはないのは良かった。
機織り
作業場のオーナー
オーナーの孫娘 愛嬌のある女の子だった
次にアジラクへ。ここは染物とブロックプリンティングの村である。これらの作業は別々に行なわれるのではなく、一連の工程で両方を行なうことにより、製品が出来上がっていく。
ブロックプリンティングの作業中
訪れたところはムスリムの経営者の息子スフィヤーンという男性が留守番をしていた。あごひげを蓄えているが、まだ20代前半だろう。カトリーのコミュニティの人らしいが、彼の家はもともと現在パーキスターンになっているスィンドから移住しており、彼ですでに五代目になっているのだとか。
ここではすべて植物性の染料と錆びた鉄などが使われるのだそうだ。インディゴの草とはどんなものか知らなかったが、これまで私はただの雑草だと思っていたものがそれであった。
その次に訪れたのはダナンティ。ここは刺繍の村であり、女性たちがチクチクと細かい仕事を続けている。毎日8時間作業をしているのだという。技が非常細かいだけではなく、まったく同じ形を正確にいくつも作る器用さに感心した。この仕事をする女性たちは、たいてい10歳くらいから始めるとのことだ。
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慣れてしまうと退屈な仕事ではないかと思うが、村のアヒールというコミュニティの女性たちが集団で行なっており、気の合う同士で肩を並べておしゃべりに興じながら進めていくので、まあ気は紛れるのだろう。デザインは、クジャクや象などの動物の柄に加えて、幾何学模様にもいろんなパターンがあるようだ。
気の合う同士でおしゃべりしながら作業が進行
この村から最後に訪れるダマンカーまでの道のりで事故現場に遭遇した。トラックと白い小型乗用車が正面衝突している。乗用車は大破していた。乗用車は反対車線にあったので、おそらく追い越しをしようとして前方から来たトラックに衝突することになったのだろう。何人乗っていたのかわからないが、少なくともそのクルマの中にいた人が無事であるとは思えない。
私たちが今こうして進んでいるところまでは、そのクルマは普通に走っていて、ほんの少し先で悲惨な運命が待ち受けているとは思いもよらなかったに違いない。まさに一寸先は闇である。それでも、人々が皆もう少し丁寧に操縦すれば、こういう事故は大きく減るのにと残念に思う。
最後に訪れたダマンティでは、昨日大雨が降ったため、この日は作業中止だという。ここもブロックプリンティング、つまりチャパーイーの村だが、訪れた先はムスリムで、行なわれている作業と製品もアジラクと同じだ。2001年の大地震で壊滅の後に、相当数の人たちがアジラクからダマンティに移ったためだという。
ここではちょっと面白い布を見た。生地の表側が絹で裏側が綿になっている。どうしてそんな作りになっているかというと、かつてカッチのある地域を領地としていたムスリムの支配者が所望したのが始まりだという。作業場の主によると、イスラームでは、ある解釈によれば男性が絹をまとうことをよしとしないのだという。それで裏側を綿にして、身体には直接触れないようにするという画期的な発明(?)であったとのこと。肌に触れないからといって、それで本当に『絹の衣類を着ていない』ことになるのかどうか知らないが、まるで一休さんの頓知話みたいである。
作業場のショールーム兼倉庫
今回は訪れなかったが、カッチ地方には、乾燥地もあれば、湿地もある。砂漠の村の生活もあれば、古来よりガルフ方面への海路の出口として栄えたマンドヴィーのような港町もあるなど、大きな変化と豊かな広がりがある。もっと時間を取ってじっくり訪問してみたいところだ。Rann of Kutch(カッチ湿原)に面し、国境近くに位置するカッチ地方は、今となってはインドの西の果てであるが、かつては『同じ国内の一続きの世界』であったパーキスターンのスィンド州でも、今のインドよりも30分遅れで同じ時が流れている。
カッチ地方を経由しての隣国との行き来はないため、今やこの地方は袋小路の行き止まりのようになっているが、交通の不便なカッチ湿原を手前にして交易等の盛んなオアシスのようなところであったがゆえ、人々が東西に往来する交差点となり、富が集積されるとともに、独自の個性豊かな文化を育むことになったのだろう。

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