ダーラーヴィーへのツアーに参加するかどうか思案する際、これをオーガナイズしている会社のウェブサイトを閲覧してみたところ、実は普通の旅行会社とはかなり違う部分があることに気がついた。
この会社と母体を同じくするNGOが、当のダーラーヴィーで幼稚園、学校、成人教育などを手がけているとのことである。ツアーの利益の8割はそのNGOの活動資金となるということであり、旅行会社自体が彼らの社会活動の中の収益部門という性格があるらしい。
そのツアー自体が、ダーラーヴィーという地域、そこで働いたり生活したりしている人々に対する先入観や偏見に意義を唱えるという趣旨のものであることも理解できた。またダーラーヴィー訪問最中は、場所を問わず写真撮影は禁止であるとのこと。ちなみにこの会社は、農村を訪問するなど、スタディーツアー的なものも多く取り扱っているようで、スラム見学はその部類に入るようである。
そんなわけで、姑息ながらも、自分自身の心の中で、あまり肯定的に捉えることができなかったツアーに参加する口実のようなものができたことになる。
ツアー開始は午前8時半。コラバ地区のレオポルドカフェ脇の路地を少し入ったところが集合場所であった。そこに着いてみると、まだ誰もいなかったので時間を間違えたかと思ったが、イギリス人男性が声をかけてきた。彼もこれに参加するのだそうだ。間もなくツアー会社のスタッフが来た。本日の参加者はあと3名、すぐにガイドを載せたクルマがやってくるとのこと。
大型のRV車に、運転手とガイド、そしてツアー参加者が、イギリス人男性が2名、南アフリカからきた白人カップル、そして日本人である私の計5名である。これらの参加者たちは、インドの農村で活動するNGOで働いてきた人、自国で学校の教員をしている人などがあった。
マリンドライヴを北上しながら、ガイドは途切れる間もなくスラムについて、ストリート・チルドレンについて、また通過するエリアについていろいろ説明をしている。まだ若いが、いかにもプロフェッショナルで頭脳明晰な感じのする男性だ。
北へと向かう郊外電車の線路脇に、いくつも路上生活者たちの小屋があるのを横目に見ながら、そうした環境で育つ子供たちの問題、とりわけ彼らが陥りがちなドラッグの問題等々についていろいろ説明があった。
やがてクルマは右手に曲がり、赤線地帯として有名なカーマーティプラーへ向かう。『このあたりからが有名な赤線地帯です』との説明がある。派手な看板が出ていたりするわけではなく、食堂があったり、パーンやタバコの店、雑貨屋等があったりといった具合で、一見、他の地域と変わらない商業地区のようにも見えたりもする。
だが娼婦たちはどこの国でも似たような表情、雰囲気を醸し出しているため、歩道に出ていたり、脇に腰掛けていたりする彼女たちの存在でそれとわかる。よくよく見ると、明らかに置屋の入口と思われる狭い戸口がいくつも見える。
この地域が忙しいのは午後5時から午前5時くらいまでだという。かといって他の時間は閉まっているというわけでもなく、基本的に24時間稼業しているそうだ。彼女たちは、インド全国からやってくるといい、多くは仕事を斡旋するなどといった言葉を信じた結果、ここに行き着く者が多いという。
ガイドによれば、ビハールやネパールから来ている女性も多いが、特に人数が多いのはアーンドラ・プラデーシュ州出身者だという。もちろんインドの法律では売春は禁止されているものの、そうした施設の経営者たちは警察との繋がりを持っているため、半ば公認されているかのような状態にあるというのは、他国でもよくある話ではある。しかしながらそのカーマーティプラーの東側の出口にあたる部分に、立派な建物の警察署があるのは何とも皮肉なことである。
クルマは、カーマーティプラーから東にあるチョール・バーザールへと抜けてから、再び北上したあたりには、かつて主に繊維関係の工場が沢山あったのだそうだ。しかし都心であるということから、大企業のオフィスや高級コンドミニアムといった形での不動産需要が高く、多くは他のエリアに移転していっており、このあたりに家を構えていた人たちもまた、それを手放してもっと住環境の良い郊外に移転したり、さらには手元に残るお金で起業したりといったことがトレンドなのだという。都市の表情は、時代ととももに遷ろうものである。
次にマハーラクシュミー駅脇のドービーガートに行く。ムンバイー最大かつインド最大の露天の洗濯場であり、無数に仕切られたコンクリート台が続き、衣類を叩きつけての洗濯作業が日々続く。相当なハードワークであろう。
この場所を所有しているのは政府で、ここを仕事場とする洗濯人たちは、毎月賃料を払っているとのこと。雨季には屋外で乾かすことは難しいので、屋根の下で乾燥作業をするとのこと。目下、乾季ではあるものの、線路を横切る陸橋の上から見える屋根の下には大きな乾燥機があり、そこから出る風を利用して乾燥作業が進行中であった。
1枚いくらという形で収入があり、衣類を紛失するとペナルティーがそこから差し引かれてしまうものの、そこは伝来の出来上がったシステムがあり、おいそれと洗濯物がなくなってしまうことはないとのこと。一見原始的な作業に見えるものの、中ではかなり高度なネットワークがあるらしい。線路の反対側には競馬場があり、おそらく馬の訓練をしているのだろう。騎手が乗って走らされている馬の姿があった。
そして再び北の方角に向かい、マヒムにもあるやや小規模なスラムを横目に見ながら、着いたのがダーラーヴィーのスラムである。道路の左側には巨大な送水管が見える。ここでスラムドッグの撮影の一部が行なわれたということで、スクリーンの中で目にしたような記憶がある。ただし実際にスラムで撮影したのはごく一部で、他の大部分はフィルムシティで撮ったということだが。
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ダーラーヴィー 2
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Namaste Bollywood #22

日本で唯一のボリウッド専門情報誌Namaste Bollywoodは、今年創刊4年目を迎えるとのことだが、このほど第22号が発刊された。
今回の巻頭を飾るのは、『ボリウッド名優特集』だ。イルファーン・カーン、ケー・ケー・メーナン他の俳優たちが取り上げられている。通常、メガヒットを記録するような作品で主演を張る役者たちではないとはいえ、ストーリー中で重要なカギを握る役柄で、演技派・実力派の彼らの存在あってこそ作品に磨きがかかる。
近年、映画で取り上げられるテーマの幅が広がりを見せていることもあり、彼らが主役での渋い作品も多く出てきている。記事内容について、あまりいろいろ書いてしまうとネタバレになってしまうので、あとは実際に誌面をご覧いただきたい。
3 idiots, Rocket Singh, Paa, Pyaar Impossible, Chance Pe Danceといった昨年終わりから今年初めにかけての新作情報、今号のBollywood Filmy Pedigreeは、アパルナー・セーンとコンコナー・セーン・シャルマー母子とその周辺についての紹介、デーヴ・ベネガル監督へのインタヴュー等々、盛り沢山だ。
書籍の紹介で、ちょっと気になるタイトルが挙げられている。日本では、書肆なゆた屋が取り扱っているHindi Cinemaという本である。オックスフォード大学出版から出ているだけあり、ただの映画関係読み物ではないようだ。インド国内の他のジャンルの映画への影響、映画とアングラマネーとの繋がりといった周辺事情、はてまたヒンディー語映画の海外市場についてついても論じられているとのことだ。個々の作品のみならず、映画界そのものの事情について関心を抱く人にとっては必読の書かもしれない。
さて、今年もまたボリウッド映画ファンの私たちにとって、多くの素敵な作品に恵まれた1年でありますように!
※ダーラーヴィー?以降は、後日掲載します。 -
ダーラーヴィー 1
映画『スラムドッグ・ミリオネア』の舞台となったムンバイーのスラム。ダーラーヴィー地区、アジア最大のスラムと称されるダーラーヴィー地区だが、近ごろ人口において隣国パーキスターンのカラーチーにあるオーランギー地区に抜かれたという話もある。
Dharavi not Asia’slargest slum: Report (The Financial Express)
もちろん、アジア最大であろうが、2位であろうが、決して誇ることのできるものではない。ダーラーヴィーにしてみたところで、人口は600万強から100万人前後くらいと推定されており、すっきりとした数字を提示できないのはオーランギー地区も同様であろう。
またオーランギー地区には、印パ分離時にビハールから移住したムスリム住民たちが多く居住しているとされることは、亜大陸の近代史の暗部を示しているかのようでもある。スラムドッグ・ミリオネアに触発されたというわけではないようだが、ムンバイーのある旅行代理店が主催するダーラーヴィーを訪れるツアーがある。
こうした類の企画ものについて、『貧困を売りにするのか』『スラムで物見遊山をするのか』という批判が多いことは承知している。また私自身としても、モラルとしてこういうのはいかがなものか、と思っていた。
しかし同時に、このダーラーヴィーという地区について、そこがスラムであるということが理由ではなく、ムンバイーが半島に立地しているがゆえに、インドの他の大都市と異なり、海に囲まれて周囲に広がる余地がない限られた都市空間しか持たないのにもかかわらず、ロケーションのみ見れば交通至便な都心の一等地となり得る地域であることに関心を抱いていた。
またこの地域が、通常考えるところの開発から取り残されていること、しかしながらここに住まう膨大な人口はこの商都の活力たる労働力の供給に貢献しており、この地域で展開される各種工業もまた6億6千万ドル規模と大きなものであることからも、私たちの想像するスラムのありかたとはちょっと異なる性格があるのではないかとも考えていた。
年を追うごとに市街地が拡張していくデリーなどの内陸部の都市と違い、『海に囲まれているため周囲に広がる郊外を持ち難い』という点がカギになるのではないかとも思う。現在のムンバイーの市街地となっているエリアの大半は埋立地である。これについては後日別の機会を設けて記してみようと思う。
内陸部の都市であれば、地形や用途上の障害(開発制限地域や国立公園など)がない限りは、概ね放射状に広がっていき、周辺の町や村を郊外地域に併合し、ときには州境を越えての大都市圏を形成することもある。 こちらの地図を参照していただきたいが、ムンバイーの場合は三方を海が囲んでいるため、拡張できる余地がほとんど残されていないといってよいだろう。
マハーラーシュトラ本土との境をクリークや河が隔てているが、まさにその部分に蓋をするような形で、サンジャイ・ガーンディー国立公園が横たわっている。大都会のすぐそばに豊かな自然が残されるということは素晴らしいことである半面、半島北部へ郊外地域が広がることに対する大きな阻害要因でもある。
そのいっぽう、都心部の首都機能が集中する部分は、半島南部の先細る部分に位置しており、周囲に広がるのは大地ではなく海原であるため、この部分へのアクセスが良好な『郊外』というのは、地理的に非常に限られてしまう。
もちろんムンバイーには、世界最大級の人工都市であるナヴィー・ムンバイーという衛星都市がある。相互補完的な関係にはあっても、水域で隔たれており、橋というごく限られた接点を持つふたつの異なる都市であるため、ムンバイー都心からシームレスに繋がる郊外とは言えないだろう。
こういう表現をすると、多分に誤解を受けてしまうのではないかとは思うが、ダーラーヴィーとは、社会の隅に置かれた人たちが呻吟するスラムというだけではなく、実はある意味『郊外』という性格も持ち合わせているのではないだろうか。
都市が必要としており、また人々も必要としている郊外が、本来ならば都市の外縁部に形成されるはずのところ、ムンバイー独自の地理的な制約から、都心部にある政府所有の土地を占拠する形で、しかも高度に凝縮して出現してしまったと見方もできるのではなかろうか、とも思うのである。 -
ムンバイーのシナゴーグ
『Padmini Premierのある風景』で少し言及したように、商都として発展してきたムンバイーにはいろんな様式の植民地期の建築物がある。とりわけ19世紀にネオ・ゴシック建築については、フォート地区を中心に数多く残されており、これらを見て歩くだけでも楽しいものだ。
これらを目的としての街歩きのためにちょうど良い本がムンバイーの出版社から出ている。
書名:BOMBAY GOTHIC
著者:CHRISTOPHER W. LONDON
出版社:INDIA BOOK HOUSE PVT. LTD.
ISBN : 81-7508-329-8
ただ漠然と通りから眺めて『あぁ、でっかいなあ』『ずいぶん立派だなあ』と感じるしかない建物群が、これを手にすることにより、その背景にある歴史やゆかりの人物等と結びつき、頭の中でそれなりに意味のあるものへと変容していく。
こうした数々の建物の中に、デイヴィッド・サッスーン・ライブラリーがある。1873年に完成したこの図書館は、当時ムンバイーの豪商であった在印ユダヤ人、アルバート・サッスーンによるものである。この人物は、同じくムンバイーのサッスーン・ドックを築いたことでも知られている。

ベネ・イスラエルと呼ばれるコミュニティとともに、インドのユダヤ人社会の中核を成すバグダーディー・ジューのコミュニティを代表する名門サッスーン一族だが、20世紀の前半の上海や香港の経済を牛耳ったことで有名なサッスーン家も同じ一門である。
また、今ではほぼ消滅に近い状態にあるものの、かつては隆盛を極めたヤンゴンのユダヤ人コミュニティにおいても、ほとんどがこのムンバイーから移住した人々であったことから、その中に占めるバグダーディー・ジューの人々の割合も相当高かったそうで、当時のムンバイー、コールカーター、上海、香港などとの間にもネットワークを形成していたとされる。
そんな彼らの存在の痕跡は、今でも残るヤンゴン市内のシナゴーグや墓地などに見ることができるのは、昨年5月に『インドの東? シナゴーグとユダヤ人墓地』で触れてみたとおりだ。
話はムンバイーに戻る。ちょうど休日であったので、フォート地区で植民地期の壮大な建物が並ぶの風景を眺めながら街歩きをするのはとても楽だ。なぜならば、平日と違ってクルマの交通量が格段に少ないからである。
インドにおける証券取引の中心地であるBSE (Bombay Stock Exchange)の建物があるダラール・ストリートの入口には警察の検問があり、一般車両は進入できなくなっている。日々、この国の経済の中心地といえる。1875年に始まった、アジア最古の証券取引所であるとともに、今や世界第12位に数えられる有力な株式市場である。
それが立地するダラール・ストリートを歩いたことはなかったので、どんなところか?と歩を進めてみた。だがBSEの建物の中では日々どんな巨額な取引が展開されていても、そこに面した通りにお金がバラ撒かれるわけではないため、意外なほど簡素な横丁であった。
休日のためストリートの主役であるBSEは閉まっていても、通り沿いの商店の大半は営業していた。コピー屋や文具屋をはじめとする事務用品関係、エコノミーな食堂、簡単なスナックの店、ジュース・スタンド、雑貨屋といった店が立ち並ぶ。
ダラール・ストリート入口から来た道に戻り、少し南に向かうと右手の脇道に青い建物がある。ケネーセト・エリャフー・シナゴーグである。これもまたサッスーン一族ゆかりのものであり、建設者は前述のアルバート・サッスーンの甥、ヤークブ・サッスーンである。この街に八つあるとされるシナゴーグの中で最も良く保存されているものであるらしい。ここでも複数の警官たちが周囲に目を光らせていた。

2008年11月26日にムンバイーで発生したテロ事件からすでに1年以上が経過しているが、ムンバイーCST駅、タージマハル・ホテル、トライデント・ホテル等とともに、テロリストたちの標的となったユダヤ教施設『ナリーマン・ハウス』のことを記憶している方も多いだろう。
別名チャダード・ハウスとも呼ばれるが、シナゴーグ、宗教教育施設とホステルを内包するユダヤ教徒のコミュニティ施設である。イスラエル生まれでニューヨーク育ちの司祭が奥さんとともに運営していたが、テロ実行犯たちが立て籠もっている間、夫妻は居合わせた他の4人(ホステルの宿泊者たちであったらしい)ととも殺害され、当時2歳の息子だけが助かるという凄惨な事件であった。
ケネーセト・エリャフー・シナゴーグ周囲で警戒が続いているのは、ここも同様にユダヤ教施設であるというだけではなく、あのナリーマン・ハウスとかなり深い縁のある場所でもある。2008年11月のテロが起きるまで、このシナゴーグで礼拝を取り仕切っていたのは、ナリーマン・ハウスで殺害されたガヴリエル・ホルツバーグ司祭である。
内部は世界各地のシナゴーグと同様のスタイルだ。天井が高く、中央に祭壇がある。上階は吹き抜けになっており、階下を見下ろすテラスとなっている。このシナゴーグが出来てから125年になるそうだ。


なかなか人気の観光スポットでもあるようで、入場料はないものの、内部を撮影する許可として100ルピーが徴収される。売店コーナーも併設されており、本が数点置かれていた。、特に以下の書籍は写真やイラスト入りで彼らの歴史、伝統、コミュニティなどが綴られており、インドのユダヤ人社会を概観するのになかなか良さそうだった。
書名:INDIA’S JEWISH HERITAGE
編者:SHALVA WELL
出版社:MARG PUBLICATIONS
ISBN : 81-85026-58-0
英領時代にはムンバイー、コーチン、コールカーターなどで隆盛を極めたユダヤ人たちであるが、インド国内では民族主義の台頭と独立、独立後のインドにおける金融や基幹産業の国有化等々といった流れは、インド在住のユダヤ人資本家たちにとって望ましいものではなかった。加えて、国外ではイスラエルの建国という歴史的な快挙もあったことなどから、国外に新天地を求めた人々が多いとはいうが、それでもムンバイーには今なお4千人以上のユダヤ系市民が暮らしている。
総体で眺めれば、人口比では大海の中の一滴にしかすぎない彼らではある。しかしながら、かつてはムンバイー他のインドの港湾都市を中心に活躍し、国外にも広く影響力を及ぼしたユダヤ人たちの存在は、インドを代表するコスモポリタンな大都会ムンバイーの歴史の中の奥行きの深さの一端を象徴しているかのようである。

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MERU TAXI
ムンバイーで、MERU TAXIを利用してみた。
これまでのインドのタクシーとはずいぶん違ったモダンなサービスを提供する会社との評判で、3年ほど前に創業。現在、本社のあるムンバイー以外では、ハイデラーバード、デリー、バンガロールで操業している。
たまに市内で走行しているものの、今なお黒と黄のツートーンのタクシーが大勢を占める大海中の一滴にしか過ぎないマイノリティなので、必要なときに巡り会う機会はそうそうない。ちょうど空港に向かう用事があったので予約してみることにした。
電話が繋がると『よう、何だ?』とぶっきらぼうなオジサンの声が聞こえてくるのではなく、女性の声による丁寧な自動音声ガイダンスが流れ、これまた礼儀正しい担当オペレーターに繋がるのにびっくりする。
コールセンターの案内嬢に、私の氏名、予約したい時間、出発場所、電話番号等を伝えれば完了だ。出発30分前に携帯電話にSMSでクルマのナンバー、運転手氏名と本人の携帯電話番号が届くということだ。
予約時間の30分前きっかりに、私の携帯電話にメッセージが届くとともに、ほぼ同時に運転手からも確認の電話が入った。
到着したタクシーは、マヒンドラー社のローガンという車種。タイのバンコクで走っているタクシー想像していただきたい。日本でいえばカローラくらいのサイズだ。エアコンも効いており、クルマの内外ともに、けっこうキレイにしている。運転席横には、液晶モニターがあり、さきほど私が伝えた名前、出発地と時刻等が表示されていた。
運転手は他の多くのムンバイーのタクシー運転手同様、北インドから来ている男性であった。パリッとした白い制服のシャツを着用している。ヒンディー語しか解さないが、言葉遣いや態度もとても丁寧。もちろん運転も同様にジェントルであった。
料金システムは、ムンバイーの場合は、最初の1キロが20ルピーで、以降1キロごとに14ルピーである。インドでは、タクシーもオートも地域によって料金システムが異なる。このMERU TAXIが現在操業している他の三都市(ハイデラーバード、デリー、バンガロール)での料金形態については、同社ウェブサイトに示されているのでご参照願いたい。
MERU TAXIの車両の動向は、GPSでモニターされていることから、遠回りされたりすることはないということになっているそうだ。特に女性が夜間利用する場合などにも良いのではないかと思う。
タクシーが目的地である空港に着いた。料金を支払うと、運転席にある装置からプリントアウトされた領収書が手渡される。
降りてしばらくすると、携帯電話に新しいSMSが着信。何かと思って開いてみると、MERU TAXI発のもので、利用してみた感想を記号で返信してくれというものであった。最大の評価で送信しておいた。
タクシーを利用するのは、ある程度余裕のある人たちであるとしても、その中でもこれまでのタクシーのありかたにはいろいろ不満のあった人も多いはずだ。鉄道がそうであるように、長距離バスもそうであるように、タクシーにもちょっとラグジュアリーなクラスのものが欲しいと。こうした従来のものと差別化した手法によるサービスは、特に可処分所得の高い人たちの数が多い都市では相当な需要が見込めるであろう。
この会社では、コールセンターの受付嬢のみならず、肝心のドライバーたち自身にも、ちゃんとした社内教育を施しているようだ。ハンドルを握る彼ら自身にとっても、乗客を目的地まで快適かつ安全に運ぶプロの運転手としてのスキルを得てキャリアを積む良い機会でもあることだろう。
もちろん彼らは会社のシステムと車両に搭載されている独自の機器により、常に所属する会社から監視されているという意識もあるだろうが、これは利用者にとって都合の良いことでもある。運転手側にしてみても、こうしたシステムにより、従来よりも高い信頼を得ることができ、顧客が増えることにより彼ら自身の増収にも繋がることだろう。
これまでのスタンダードとは異なる、いわば『規格外』のサービスが他の大都市にもどんどん広まっていくことを期待したい。
この会社は、そのサービスの点以外で、タクシー業者のありかたとしても、これまでのものと大きく異なる部分がある。通常、タクシーといえば、オートリクシャーと同じく、ドライバーたちは、ユニオンに加盟するオーナーたちが所有する車両を運転しているわけである。
個々のオーナーたちを事業主とする零細会社と言うべきか、あるいはオーナーたちからクルマを借りて運転しているドライバー自身を、ちょうど日本の宅配便運転手たちのような個人事業主と表現すべきなのかはともかく、一般的に大資本を投じて運営する日本の『日の丸タクシー』のような業態のものではなかった。
組織立った形態であるがゆえに、お客に対してはサービスの向上と均質化、社内ではノウハウの共有と労務管理の徹底が図りやすいという利点がある。また『どこの誰のクルマであるか』がはっきりしていることから、利用者側の安心感も大きいはず。
そんなわけで、都市部では今後、タクシー業界の再編とでもいうべき、新たなうねりの予感がする。MERU TAXIの走行地域の広がりを見て、同様のサービスを提供しようと参入する新会社が今後続くのではないかと思うのである。
一昨日、Premier Padminiのある風景にて、現在ムンバイーを走るタクシーの圧倒的主流を占めるパドミニーが、今後次第に姿を消していくことについて触れたが、それと反比例する形でこうした新手のサービスが台頭してくるであろうことは言うまでもない。
今後何年もかかって新旧のタクシーの移り変わっていくわけだが、それは単に車種が新しいものに入れ替わることに留まるものではなく、タクシー業界のありかた自体が大きく変わるのではないかと予想している。 -
Premier Padminiのある風景
ムンバイーのタクシーといえば、黒と黄色に塗り分けられたプリミアー自動車生産したプリミアー・パドミニーである。イタリアのフィアット社のFiat 1100をインドで現地生産したモデルだ。本国では1962年から1966年まで生産されていた。
昔々に設計されたクルマらしく、クロームメッキの大きなフロントグリルが雄々しくてマッチョな面構えだ。前後ともにツンと鋭角的に切り立ったフォルム、後部サイドフェンダーの張り出には、今の時代のクルマにはない強烈な個性が感じられる。イタリアのデザインらしいアクセントの効いた、都会の景色がよく似合うクルマだ。
黄色い天井以外は深みのあるブラックでまとめられた精悍な車影は、ゴシック、ヴィクトリアン、アールデコ、果てまたインド・サラセンといった様々な様式の重厚な建築物が林立するムンバイーの街角によく似合う。

インドにおいてこのクルマの生産は1964年に開始されている。今から半世紀近く前に設計されたクルマではあるが、愛好家が丹念に磨き上げて週末に郊外に遠出してツーリングを楽しむといった具合に丁重に扱われるのではなく、現役のヘヴィー・デューティーな営業車としてバリバリ活躍しているのがカッコいい。
もっともムンバイーのタクシー界を支配してきたパドミニーは、やがて道路から姿を消す運命にある。というのは、すでにこのクルマの生産は、2000年を持って終了しているためだ。フィアット1100D=プリミアー・パドミニーという単一車種で、イタリアでの発売時から数えて38年間もの長き渡り生産されてきた世にも稀な長寿モデルであった。
ムンバイーに限ったことではないが、電子化される前のいかつい金属製のアナログ式料金メーターもまた見事にクラシックである。こうしたメーターが導入されたのがいつの時代であったのかはよく知らないのだが、おそらくその当時の金額をゆったりと刻んでいく。
メーターに示される数字をもとに、現在適用されている料金を導き出す換算表を運転手たちは持っている。そこに示されているとおり、このタイプのメーターが使われ始めたころ、ルピーの価値は今の14倍前後あったということなのだろう。

今のところはムンバイーの道路を走るタクシーの大勢を占めているのは黄・黒に塗られたパドミニーで、まだまだ意気盛んな印象を受けるものの、スズキのヴァンのタクシー、青色のAC付きのものなど、複数のタイプが走るようになっている。
年月の経過とともに、このパドミニーの占める割合は漸減していき、10年、15年もすれば、『こんなクルマ、あったよねぇ!』と古い写真で、昔の街角の中にあったタクシーの姿として未来の人々が思い出すようになるのだろうか。
2001年以降、生産されていないクルマであるがゆえ、目下ムンバイー市内でごく当たり前にどこにでも見られる『パドミニーのある風景』だが、現在走行している車両たちの寿命が尽きるまでの眺めなのである。 -
NIAの海外旅行保険
日本発の海外旅行保険を扱う保険会社は、AIU、三井住友海上、ジェイアイ傷害火災、損保ジャパン等々いろいろある。
同様に日本で営業するインド系の保険会社でも扱っていることはかねてより耳にしており、だいぶ前に『ニッポンで稼ぐインド国営会社』で取り上げたことがあるが、先日初めて同社の海外旅行保険のパンフレットを手にして眺める機会があった。ちなみに、これはウェブサイトからも閲覧することができる。
海外旅行総合保険 (ニューインディア保険会社)
インド最大の保険会社であり、ムンバイーに本社を置く国営のNIA (The New India Assurance Company Limited)の日本支社、ニューインディア保険会社の商品だ。
私自身、ニューインディア保険会社はまったく利用したことがない。身の回りでこの会社の保険商品を利用したという人もいないため、その評判を耳にしたことはないが、どんな具合なのだろうか? -
IRCTC
以前、線路は続くよ、どこまでも?で取り上げてみたとおり、インド国鉄の子会社IRCTC (Indian Railway Catering and Tourism Corporation)のウェブサイトにログインして、eチケットを購入できるようになって久しい。
ネット予約が始まったころは、インド国外発行のカードでは支払いができなかったり、ウェブ上で予約しても、チケットは指定の場所に配達してもらう、といった具合だったりして使い勝手はよくなかったが、今ではずいぶん便利になったものである。
そのままプリントアウトして列車に乗り込めばいい、という点からは、ネット予約後に『みどりの窓口』で支払いをして、正規の乗車券等を受け取らなくてはならない日本のJRよりも簡単であるといえる。もちろん改札が自動化していないがゆえに、普通紙に印刷したものがチケットとして通用するわけではあるが。
ただ、簡単になったとはいえ、ちょっとコツが必要なこともあるのはインドらしいところか。サーバー容量の関係か、果てまた通信に何か障害があるのかわからないが、予約作業中にエラーが頻発することがある。時間帯を変えるとまったく問題がなかったりするのだが。

乗車日時、列車名、座席・寝台のタイプを確定し、乗客の氏名や年齢等を入力し、『Payment』ボタンを押して、支払いに進んだ際に、この画面を目にしてちょっと面食らう人もあるかと思う。

要は、クレジットカード、銀行のカードその他といった、使用するカードの種類により、支払いのチャンネルを選びなさい、ということである。クレジットカード用にいくつかの銀行系のPG (Payment Gateway) が用意されているが、いずれも利用できる・・・というわけではない。少なくともインド国外発行のクレジットカードの場合は。
以前は『CITI PG』が問題なく使えていたのだが、今はこれを選択すると何回繰り返しても、カードの残高が不足だの番号が間違っているだのといった身に憶えのないメッセージが出てきて立ち往生してしまう。そんなわけで、目下、利用できるのは『AXIS PG』である。
もっと支払いがうまくできなくて困っていても、そのまま放置されるわけではないのはありがたい。この手のエラーが生じると、自動的にIRCTCからのメッセージが配信され、トラブル解決のためのコールセンターの電話番号と問い合わせのメールアドレスが記されている。電話はなかなか通じないものの、メールで質問すると、比較的早く返事を寄越してくれる。
予約のキャンセルも同様にスムース。IRCTCのウェブサイトにログオンして手続きをすると、即座にリファンドについての連絡が届き、キャンセル料と手数料を差し引いた金額が返金される。
何かと便利になっているが、ひとつ制約があるとすれば、ネット予約に割り当てられている座席・寝台数だろう。全体の何割ほどがウェブ予約用に充てられているのかよくわからないが、窓口ではまだ購入できたりしても、IRCTCのサイトでは、路線によってはかなり早い時期からキャンセル待ちあるいは予約不可の表示が出るようだ。
そんなわけで、旅程が決まったら、予約はなるべくお早目に。 -
NyayaBhoomiのオートリクシャー
以前、オートリクシャー・スター・クラブ? デリーの路上の星たちならびにオートリクシャー・スター・クラブ? 頑張る路上の星たちで『オートリクシャー・スター・クラブ』を取り上げてみた。
Autorickshaw Star Clubとは、NyayaBhoomiというNGOによるオートリクシャーのサービスの改善を目指す試みで、乗客の利益、運転手の待遇改善と生活向上、業界の社会的なステイタス向上などを目指しての社会的運動といえる。
具体的には、適正運賃、つまり乗客に吹っかけるのでもなく、オートリクシャー営業のコストに見合わない安すぎる料金でもなく、走行距離に従って双方にとって合理的な金額を適用、運転手の身元や走行地点が逐一明らかになるとともに、乗客側についても車載カメラでモニターすることにより、両者ともに安心して走行できること、適正な営業とサービスの向上により、業界そのものの認知度を高めて、社会的な立場や発言力を高めることなどを企図している。
通常は経済力の向上とともに交通機関も近代化し、オート三輪タクシーは消え行く運命にあるのが世の常ではある。だがインドにおいてはまだその兆候もないが、変わりゆく世の中で、来年開催を控えているコモンウェルス大会に合わせてということではないが、首都のタクシーやオートリクシャー、とりわけ主要駅や繁華街近辺などで客待ちしている運転手たちの態度や仕事ぶりについては、なんとかして向上すべきだと思う。
以下、NyayaBhoomiのウェブサイトにも掲載されている彼らの取り組みを紹介するビデオである。以下、ビデオの内容の要約である。
鉄道でチェンナイから上京してきた男性ムットウーが、駅舎を出てからオートリクシャーをつかまえようとする。コテコテのタミル訛りのヒンディーで運転手に話しかけると、ずいぶん高いことを言われて往生する場面から始まる。運転手とトラブルになった後、声をかけてきたオートリクシャー・スター・クラブの運転手からデリーのオートリクシャー業界の抱える基本的な問題点を彼に説明する。
時はかわって2010年。デリー市内在住の姉のところに滞在中の男性は、用事先までのバスについて尋ねると『オートリクシャーで行けばいいのに・・・』と言われる。デリーのオートは嫌なのだと答えると『今はずいぶん事情が変わった』と告げられる。ムットゥーは再びオートリクシャーに乗ってみることにする。
電話連絡してから、ほどなくやってきたオートリクシャーを運転するのは、かつてデリーの駅前で吹っかけてきた相手。しかし今ではすっかりマジメなドライバーになっている。オートリクシャーにはGPSシステムによる自動運賃計算、走行位置や車載カメラによる乗客の様子などは逐一警察にモニターされており、料金は適正、女性一人での利用も安心。料金は、現金以外にクレジットカード、デリー・トラベル・スマートカード等でも支払うことができる。
かつては休日なしでコキ使われていた運転手も、今では定期的に休日が与えられ、家族との時間を大切にできるようになった。運転手自身の生命保険、その家族の健康保険等の福利厚生も導入された。運賃は、かつての2割増になっているが、それでも乗客たちはとても満足。車両に貼りだされた広告収入もあり、運転手は収入増で生活も安定・・・といった近未来のオートリクシャーの描写。
なかなか面白い内容だったので、せひ皆さんにもご覧いただきたいのだが、ビデオで使用されているヒンディー語がわからない人には理解できないと思うので、NyayaBhoomiに英語版のビデオは作成していないのか夜半に質問をメールで送信してみると、なんと早朝には回答が届いていた。
残念なことにビデオはヒンディー語によるもののみで、英語版は特に製作していないとのこと。ただし非ヒンディー語話者に対するアピールの必要性は認識しているとのことで、英文字幕入りのものを作ることを予定しているとのことである。
NyayaBhoomiの担当者から届いたメールには、2ヵ月以内に『Radio Auto』のサービスを開始するとも書かれていた。おそらく上記のビデオにあるような近未来的なシステムを装備したオートが登場するのではないだろうか。
こうした試みがスムースに浸透していくのかといえば、そうではないだろう。例え利用者たちは歓迎しても、大多数を占める従来のオートリクシャー運転手や組合等にとって、自分たちの商慣習を否定する彼らの存在は疎ましいだろう。
デリーのオートリクシャー業界の新参者であるオートリクシャー・スタークラブの運転者たちは、路上で様々な嫌がらせを受けるかもしれないし、これを運営する団体NyayaBhoomi自体も、すでに同業者や関係者たちから妨害を受けているのかもしれない。
変な言い方かもしれないが、現状のレベルが低いがゆえに、ちょっと努力すればその『伸びシロ』はとても大きなものであるはず。前途に待ち構えているであろう、いくつもの困難を乗り越えて、着実に歩みを前へ前へと進めて欲しいものである。
同様に、彼らの取り組みが首都デリーのみならず、将来的には広く全国に波及していくことを願いたい。 -
人はいくつまで生きるのか?
ムンバイーといえば、垢抜けた都会的なイメージと、湾岸諸国や西洋に大きく開けた玄関口という印象がある。また世界各国から先進医療を、往々にして自国よりも低コストで受けるために人々を引き寄せるメディカルツーリズムの都ということからも、レベルはピンキリでも、医療へのアクセスが容易そうであることから、人々は割合長生きなのではないかと思っていた。
ところが以下のリンク先の記事を見ると、どうやらそうではないようだ。
Maximum city, minimum life — Mumbaikars dying young (msn News)
ムンバイーの男性の平均寿命が 52.6 歳、女性が58.1歳で、インド全国平均の 63.7歳に較べてずいぶん見劣りがするとのことだ。またマハーラーシュトラ州の平均と較べてみても12年ほど短いとのこと。
スラムに暮らす人々の生活条件が厳しく早くして亡くなる人が少なくないことが、全体の数値を下げてしまうということもあるようだが、経済的にゆとりのある層にいたっても、日々のストレス、運動不足、栄養過多な食生活等、いろいろ問題があるのだそうだ。
ところで、広大なインドの人々はいくつまで生きるのか?と問うのはナンセンスだろう。個々の経済水準、生活習慣、職業等によって大きく異なってくるのはどこの国も同じだ。だが大まかな傾向をつかむことは、それなりに意味のあることではないかと思う。
データは1995から1999年のものとのことでやや古く、チャッティースガル、ジャールカンド、ウッタラーカンドといった州が成立する前のものではあるが、インド各地の平均寿命は以下のようになっている。

先ほどの記事中のムンバイー市とこれを州都とするマハーラーシュトラ州の平均寿命に大きな乖離があったように、これらの州でも地域差は大きいのではないかと思う。過密な都市部とそれ以外といった条件以外にも、ヒマーチャル・プラデーシュ州や西ベンガル州のように、州内で地理的・気候的条件に差異が大きなところも数値はかなり異なることだろう。
この表の中では、ケーララ州の男女ともに平均寿命が70歳を超えていることは特筆すべきだろう。突出して高い識字率とともに、平均して良好な生活水準であることがうかがえる。
それとは反対に、オリッサ州の低水準、加えてビハール州とU.P.州では、女性の平均寿命が男性のそれを下回っていることが注目される。
これら平均寿命の背景には、地域の行政、生活や医療等の水準、文化的・地理的背景等々が複雑に絡み合っているはずなので、とても興味深いものがある。また別の機会を設けてじっくり考えてみたいと思う。 -
インド人100万人
一説によると、UAEに在住するインド人労働者の数は100万人にも及ぶのだとか。総人口567万人(人口統計に在住外国人も含まれている)中、UAE国籍を持つ人々は20%ほどで、あとは外国籍の人々だ。
UAE以外のアラブ諸国とりわけ非産油国の人々が15%, アラブ圏外ではイラン人が8%とかなり多いものの、なんと南アジア諸国の人々が50%を占めていることから『インド人100万人』という数字は驚くに値しないかもしれない。あるいはパーキスターン、バーングラーデーシュといった両隣の国々から渡っている人々も含めた『インド系人口』とした場合、とてもその数で収まるものではないだろう。
経済的な重要度に比較して、人口規模が小さく、様々な分野における労働人口が不足している湾岸産油国と、経済成長目覚しいとはいえ、世界第2の人口大国であるうえに、まだまだ失業率が高く、需要があればそれこそ無尽蔵ともいえるマンパワーを供給できるインドとの相性は、中東湾岸地域と南アジアという隣接する地理条件とともに、極めて良好だ。
歴史的につながりも深く、人々の行き来が頻繁であったことから、仕事や住居といった紹介・斡旋というベーシックなニーズにおけるインフラも備わっている。同時にこれは労働者たちに対する搾取の構造ということも言えなくもないにしても、出稼ぎに行くにあたってのハードルもそう高くないことになる。
インド人労働者といっても、エンジニアや金融関係者といった頭脳労働者から工場や建築現場の作業員までいろいろあるが、肉体労働者たちに対する待遇、とりわけ賃金契約、住環境、作業現場の安全性確保等々にかかわる問題点が指摘されることは多い。
また相当の危険を覚悟のうえで、あるいは騙されるような形でリスクの高い仕事を担わされる者も少なくない。数年前に、イラクでインド人、ネパール人などのトラック運転手が武装グループに拉致されて殺害される事件が続いたことを記憶している方も多いだろう。
このあたりの産油国ではどこもインド在住者は多いが、特に観光客の目につきやすいサービス産業に従事する者も多いためか、UAEの東隣の国オマーンについて、JTBの『オマーン情報』に、同国で使用されている言語について『アラビア語、ウルドゥー語、ヒンディー語』という記載があるくらいだ。
オマーン情報 (JTB)
おそらくタクシー運転手、ホテルやレストランを含むレジャー施設の従業員等にインドやパーキスターンの人々が占める割合が高いこともあるのだろう。
オマーンについては、位置的に南アジアに近いがゆえに、現在の出稼ぎの人々以前にやってきた移民の子孫が多いことでも知られている。南アジア西端にあるパーキスターンのバローチスターン地方から多数のバローチーの人々による移住の歴史もあることなどから、インド地域からの移民史という観点からも、ペルシャ湾を挟んでイランの南側に位置する湾岸地域は興味深いエリアである。大きな地図で見る
1990年8月にイラクがクウェートに侵攻したことに始まった湾岸危機の際、当時のインドでは外貨準備高が枯渇(輸入決済2週間分の7億米ドル相当)することによる経済危機を迎えた。危機による原油の高騰、湾岸市場への輸出高の減少などに加えて、この地域の産油諸国で働く自国民からの送金が減少した影響も大きかった。
1991年6月に首相に就任した故ナラスィマー・ラオは、著名なエコノミストであり、インド中央銀行総裁であったこともあるマンモーハン・スィン(現在インド首相)を財務大臣に任命した。当時のインドは、綱渡り的な経済運営を強いられながらも、これを機会に大胆な経済改革を断行した。
その結果、『災い転じて福と成す』といった具合に、今の経済的繁栄につながる基礎を築くこととなった。そのため2004年12月に他界した彼の首相在任中の最大の功績は、マンモーハン・スィンを財務大臣に据えたことであるという評価は多い。
もちろん今のインドは当時よりずっと豊かになり、経済規模も拡大したことから、湾岸諸国へ出稼ぎにいった人々による送金に頼る度合いも大幅に下がっているため、単純な比較はできない。
しかし現在でもケーララ州のように失業率が高く、湾岸諸国への出稼ぎが多く、彼らの送金が内需拡大に貢献しているという地域もある。同州からは、こうした国々に職を求めて出向く医者や看護婦といった医療関係者が多数あることでも知られている。
ドバイショックが、今後湾岸地域の経済ならびに世界経済にどれほどのインパクトを与えることになっていくのかは予断を許さない。堅調な伸びを維持するインド経済については、その波及を楽観視する声も多い。
だが出稼ぎ者の送金という、ややミクロな視点からは、UAEのみでも100万人規模とされるインド人労働者たち自身や彼らが養う故郷の家族、ひいては彼らを多く送り出している地域の経済は、まさにショックな事態を迎えることにならないともいえず、今後の推移を見守りたいところである。
Dubai crisis raises migrant worker fears (BBC NEWS Middle East) -
『水』商売
ここ20年間ほどの間で、現地通貨であるルピーをベースに見れば、インドの物価は今とまったく比較にならないほど上がっている。しかしながら店頭で販売されているミネラルウォーターの類の値段はあまり変わっていないし、これらを製造しているメーカーやブランドもずいぶん増えた。
店で飲料水を購入する層が大きく広がったことが、相対的な低価格化を推し進めることになっているのだ。もちろんその間に、価格や機能性にもいろいろあるようだが、浄水器を備え付ける家庭も増えた。飲み水の安全性に対する認識が上がったことが背景にある。
かつて日本でエンジニアとして働いた経験があり、現在コールカーター郊外に暮らしている友達の家を初めて訪れた際、こんな話を聞いたことがある。
ずいぶん昔のことだけれどもね、父の旧知の友人で、アメリカに移住した家族が我が家を訪れたことがあった。暑い夏の盛りだったけど、この部屋に彼らが入って来て、家の者が彼らに水を差し出したが、誰も口を付けなかった。
これが父にとって非常にショックだったんだな。ウチでお客に出したものが受け入れられないなんて。そんな不名誉なことを受け入れることができなかった。
当時は、父も私を含めた家族の他の者たちも、観念的な浄・不浄とは違う、今の私たちが言うところの衛生観念からくるものであることをよくわかっていなかった。
何しろ普段私たちが何の問題もなく飲んでいた水だからね。安全だと思ってた。まさか外から来た人たちがそれを口にすると、下痢したり病気になったりすることがあるなんて想像もしなかったよ。
それから浄水器を購入してね、もちろん幾度か買い換えたけれども。そのおかげでウチではいつも安全な水を飲むようになっているんだ。
昔からの友人の家族であることにくわえて、ましてや彼の家柄はバラモンである。彼の父自身も、また家族の人々も、二度とそういうことのないようにと願ったのだという。
同時に、それを機会に自分たちが日々口にしている飲料水のことを考えてみるきっかけにもなったそうだ。いくら慣れているからといっても、それまで家族や身内が水に起因する病気にかかることはしばしばあったようだ。
しかしある程度生活にゆとりのある層を除けば、まだまだ安全とはいえない水を日々飲用している人々は多いことは言うまでもない。
ところで、車両価格が10万ルピーほどという、これまでにない低価格が話題となったNANOが、これまでの自家用車の購買層の下に広がる大きな裾野をターゲットにしているのと同じく、あと一歩で安全な水に手が届かない膨大な人口に商機を見出したのが、やはりTATAグループである。

TATA CHEMICALSから、従来よりも安価でランニングコストも低いとされる浄水器Swachが発表された。浄水器本体は、749ルピーと999ルピーの2種類。今後さらに4機種が新たに市場に投入されるということだ。米殻の灰などを材料として出来たフィルターは299ルピーとのこと。
『世界で最も安価な浄水器』との触れ込みで、4、5人程度の世帯で月当たり30ルピーの支出で安全な水を得ることができるとされている。
差し当たっては、年内にマハーラーシュトラ、カルナータカ、西ベンガルの各州で発売され、半年ほどの間にはその他全国で販売を開始する予定。
Tata unveils Swach water purifier (new kerala.com)
バクテリアや細菌などを除去し、飲み水に起因する疾病の80%を防ぐことができるということから、庶民の健康増進に貢献すること、とりわけ乳幼児死亡率を引き下げる効果も期待されている。
もちろんインドに限ったことではなく、同様の生活環境にある第三世界の多くの国々での潜在的かつ巨大な需要も視野に入れているようで、同社の世界戦略商品であるともいえる。
しかし南アジア各地で、井戸水を飲用している地域で問題となっている砒素を除去する機能は付いていないということだ。それでも同社は砒素対策の研究も並行して行なっているらしい。今後の進展を期待したい。
