ダマンへ 1

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グジャラート州最大の都市アーメダーバードから列車で6時間ほどのヴァーピー駅で降りた。ここが連邦直轄地ダマン&ディーウを構成するダマンへの最寄り駅である。1987年にゴアがひとつの州として分離する前までは、『ゴア、ダマン&ディーウ』というひとつの行政区分になっていた。
ゴアからダマンまで直線距離で600キロ、ダマンからディーウまでは同じく200キロと、かなり距離が離れた飛び地状態であるが、これらはご存知のとおり1961年12月19日にインドが敢行した『オペレーション・ヴィジャイ』という国土奪還の総攻撃を仕掛けるまで四世紀半に渡りポルトガル領であったがゆえのことである。この軍事作戦は、すでに弱体化していたとはいえ、わずか36時間で451年に及ぶ植民地支配を続けたポルトガル当局を、圧倒的な武力で屈服させた。独立後のインド軍事史に燦然と輝く金字塔といえるだろう。イギリスから自由を勝ち取ったインドは、植民地勢力からの完全な独立のために、依然各地に残っていた外国領の自国へ回復へと動き出す。具体的には、先述のポルトガル領地域とポンディチェリー、カライカル、ヤナム、マヘーといったフランス領地域の返還である。
フランスとの間では交渉により、1954年から8年間の移行期間を経て、1962年に領土の回復を達成するのだが、旧来の領土に固執したポルトガルとの間には膠着状態が続いた。ポルトガル駆逐のための政治キャンペーンに加えて、インド本土と当時のポルトガル領との間の人やモノの往来に厳しい圧力をかけるようになる。元来交易地ではあっても食料等の基本的な生活必需品の生産地ではなかったため、様々な物資に悩まされることとなった。分離独立以来、インドと対立してきたパーキスターンが、これに関してポルトガル領ゴアに救いの手を差し伸べていたことはよく知られている。インドにとって長らく続いてきた帝国主義勢力に対する勝利であり、ゴアはこの『解放』により、祖国に復帰することになったのは間違いないが、ポルトガルが450年を越える長い歳月の間に築いてきたシステムの中で、独自のアイデンティティを形成し、社会的にも経済的にも相応の繁栄を享受してきた層にとって、これは必ずしも歓迎すべき出来事ではなく、侵略として受け止められていたとしても決して驚くに値しないだろう。
『ダマン解放』を記念するモニュメントの碑文

シャーム・ベーネーガル監督による映画TRIKALの舞台はポルトガル時代末期のゴア。350年続く名家ソアレス家がこの地を見限ってリスボンに移住する前夜という設定。ここで栄えた人々にとって、『ゴア解放』は決して肯定的に捉えられていたものとはいえず、彼ら自身は頼んでもいないのに大軍を擁して押しかけてきたインドにより、長く親しんできたポルトガルという後ろ盾を失い、入れ替わりにやってきたインド人という支配者たちにより、財政的な後退と発言力の低下がもたらされ、次第に凋落していった地元の上・中流層の心情を綴った名作だ。
この映画の音楽を担当したのはゴア出身のレモ・フェルナンデス。この映画のために手がけた音楽は、コンカニー語ならびにポルトガル語による伝統的なゴアのフォークソングをベースにしており、彼のリリースした曲の中でもとびきり評価の高いものが多く含まれている。以下のクリップ『Panch Vorsam』というノルタルジックな曲にて、歌声はもちろんのこと、ダンスを披露しているのもレモ・フェルナンデス自身とアリーシャー・チナイである。

なお、ゴア、ダマン、ディーウ以外に、同じく元ポルトガル領で、植民地期にはダマン行政区の管轄下あったダードラー&ナガル・ハヴェーリーについては、戦闘によらない政治的な交渉により1954年にインドへの復帰を果たしており、ダマン&ディーウとは別の単一の連邦直轄地を構成している。
1987年に、ダマン、ディーウと分離してゴアは単独の州に昇格した。スィッキム、ミゾラム、アルナーチャル・プラデーシュに次いで面積にして四番目に小さな州ではあるものの、中央政府による支配から脱しての自治を得たのもさることながら、それなりにヴォリュームのある『ゴア人』人口規模を持っている点については、独自のアイデンティティを保持するには幸いであったとはいえるだろう。
よほど辺鄙で不便な地ならともかく、人口密度が高く、人の出入りの激しい地域に囲まれていれば、そこに存在していた『国境』が取り払われてしまえば、ごく狭い地域に集住していた他国の庇護下にあった人々は、かつては外国であった近隣の『その他の人々』の大海に呑み込まれてしまう。そうでなくても行政、教育、日常的な慣習等々を含めて、あらゆる面において長年親しんできたシステムが効力を失い、それまで馴染みのなかった『あちら側のやりかた』に同化しなくてはならなくなる。
『コミュニティ間の調和』 中心にあるのはやはり多数派

たとえてみれば、これまで勤めてきた職場が、他の企業体に買収されるなり、吸収されるなりして、要はこれまで『ヨソの人たち』であった集団に主導権を握られてしまうのと似ているかもしれない。これまでの常識やフォーマリティ、仕来りや慣習が通じなくなるだけではなく、それまで主流派であったはずの人たちであっても、よほどうまく立ち回らない限り、他者に吸収されての新しい枠組みの中では隅に置かれてしまうものだ。

1535年から1961年まで426年間に渡ってポルトガル領であり、現在は連邦直轄地のDaman & Diuの行政地域にあるディーウ島にしてもそうだが、1673年から1950年までの277年間仏領になっていた西ベンガル州のチャンダルナガルについても然り。植民地時代に建てられたコロニアル建築は現在まで生き延びていても、かつての大聖堂でミサは行なわれておらず、学校や病院に転用されていたりすることもある。住民たちも他所から移ってきた人たちが大半になっていることも珍しくない。

<続く>

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