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投稿者: ogata

  • プリペイド・タクシー

    プリペイド・タクシー

     

    (挿入画像は記事中の出来事とは関係ありません)

    ふと思い出したのだが、深夜近くのコールカーターの空港から市内へのプリペイドのタクシーで感心しないことがあった。 

    プリペイドのカウンターで、サダル・ストリートまで240 Rsの料金を支払い、チケットをもらうと、なぜか当のクルマの番号が書かれていない。「行けば係の者が手配します」との返事なので、まあいいかと外に出る。確かにそういう男性がいるが、クルマの番号を書き込むことなく「この人が運転手です」と言う。 

    険悪な雰囲気の運転手の横にはこれまた感じのよくない若いチンピラみたいな若い男。「プリペイドだと運転手を選べないから嫌だな」と思った矢先、このチンピラは空港敷地を出て大通りに入ったところで、クルマ左側の窓から大きく身を乗り出して、道路脇に駐車しているタクシー運転手たちに「ニューマーケットまで100ターカー(西ベンガル州ではルピーのことをしばしばターカーと呼ぶ)で行くか?」と声をかけまくっている。 

    もちろん状況からして、彼がニューマーケットまで行きたいわけではなく、そのエリアまで行くお客を『買わないか?』ということだろう。さてどうなるのか?空港から数百メートルのところから市内中心部まで100 Rsという破格の料金で行くクルマはあるのだろうか? 

    何台かは150 Rsだの120 Rsだのという返事をしていたが、やがて100 RsでOKというクルマが現れた。私の乗っているタクシーの運転手は、案の定「ブレーキが壊れた。ここから先のクルマの料金は出すから乗り換えろ」となどとのたまう。 

    プリペイドの240Rsのうち、おそらく30~40Rs前後がカウンターの取り分であると仮定して、運転手には200~210Rs前後が渡るのだと思う。ほとんど走行することなく、空港敷地を出たところで他の運転手に100 Rs渡して引き継がせ、自分たちは空港タクシー乗り場にトンボ帰りして他の客を乗せるのだろう。 

    これが可能なのは、客の行先が繁華街かその付近であることに加えて、空港近くで客待ちしている他の運転手が「ガソリン代くらいでも出ればお客のいそうなところに移動したい」と思う時間帯であることだろう。もしかするとシフトの時間も関係しているのかもしれない。 

    空港からニューマーケット(私が向かおうとしていたのはそのすぐ近くのサダル・ストリート)まで100 Rsというのは、通常あり得ない金額であるが、この男自身がタクシー運転手であるがゆえに「繁華街での客待ちのために移動させるお駄賃」として受け入れられるギリギリの金額であろうと心得ているのだろう。 

    加えてプリペイドのブースでチケットを売る男、タクシー溜りで運転手にお客を手配する男もこれにつるんでいるのかもしれない。 

    運転手に「お前が連れて行け」と言い張ってみたところで仕方ない。最初からそういうつもりで走らせているので、そのまま走らせてもロクなことがないだろう。また彼には「ブレーキが故障した」という大義名分もある。 

    なぜならば最初の運転手はそういう人間なので、「このクルマで行く」と固執して行ったとしても、ロクなことがないことは明らかだからである。やれやれ、これではプリペイドの意味がないではないか。 

    だが乗り換えたところで、当初の運転手から渡された100 Rsという極端に低い金額で空港からサダル・ストリートまで行くということになった他の運転手が、道中であるいは着いてからガタガタと煩いことを言い出す可能性もある。 

    最初の運転手は私が手にしているお客用のスリップ(プリペイドのタクシー料金の領収書)を渡せという。クレームを付けられないようにということだろう。前述のとおり、これにクルマのナンバーは書かれていないのだが。しばらく不愉快なやりとりが続いたが、もう夜も遅いので、こんなことで貴重な時間を取られたくないため、最後はこれを相手に渡して出発。やれやれ・・・。 

    幸いであったのは、乗り継いだタクシーの運転手が至極まともな人物であったことだ。彼によると、私が想像したとおりの条件下でこうした姑息なことをする空港発のタクシー運転手はかなりあるのだそうだ。 

    「ほんの1キロ走っただけで100 Rs以上を手にして、他の運転手には残りの行程をわずか100 Rsで走らせるのだからひどいもんです。ああいう輩がいるからコールカーターのタクシーのイメージが悪くなってしまって困ります」

    朴訥とした話し方の真面目そうな中年運転手であった。

    ともあれ彼自身もそうしたタクシーが通りかかる沿道で客待ちしていたのは、都合のよい場所に多少なりとものお金を手にして移動できることを期待していたようではある。 

    以前、無線タクシーと題して、近年インドの大きな街でのサービスが広がっている無線タクシーのことを取り上げてみたが、従前からのタクシーの在り様からして、新手の「まともなタクシー」はインドのサービス業の中で最も高い伸びが期待できるもののひとつであるといっては大げさすぎるだろうか。

  • サダル・ストリート変遷

    サダル・ストリート変遷

     

    サダル・ストリートといえば、昔からバックパッカーたちがよく利用する安宿街として知られている。今では猥雑な小路に成り果てているが、18世紀後半には裕福な英国人の広大な屋敷と庭園を所有していたエリアだという。 

    後に政府に売却されて19世紀初頭にSudder Diwani Adalatという裁判所が出来た。しばらくしてから裁判所は他の場所に移転したものの「Sudder」という名前がストリートの名として残ることとなった。 

    その後、20世紀に入るあたりまで、当時カルカッタに多数在住していたユダヤ人たちが多く住み着いていたとのことで、ベンガルを拠点に当時英領であった香港や中国本土などとも手広い取引を繰り広げる豪商たちも少なからずここに居を構えていたという。 

    そんなわけで、たとえ古ぼけていても、今なお少なからず残る当時からの建物にはなかなか風格を感じさせるものがある・・・と感じる方もあるのではないかと思う。 

    ユダヤ人だけではない。近代インドを代表する詩聖ラビンドラナート・タゴールもここに起居していた時期があった。10, Sudder Streetである。その場所にタゴール家の屋敷が残っているわけではないので特に面影を感じさせるものはない。

     サダル・ストリートの凋落が始まったのは第二次大戦あたりかららしい。繁華街への交通の便が良いこと、軍の駐屯地から近いということもあってか、このあたりでそうした白人兵士相手のバーや娼館などが開業したのがその始まりだという。 

    インドからイギリスが立ち去ってからも、一時滞在の外国人相手の商売のインフラがあったためか、1960年代から1970年代前半にかけてのヒッピー・ムーヴメント時代の西洋の若者たちがカルカッタを訪れるとここに出入りするようになった。その後、バックパッカーたちには安宿街として広く知られるようになる。 

    そんなサダル・ストリートだが、ごく一部の例外を除いて安かろう悪かろうの宿、宿泊客は西洋人をはじめとする、いわゆる先進国の若者ばかりであったこの界隈だが、かねてより変化の兆しが見えてきていた。 

    まずはバーングラーデーシュ行きの直通バスが付近から発着するため、バーングラーデーシュからやってきた人たちによる宿泊がとても増えたことがある。界隈にはほぼこうした人たちばかり泊めている宿もあるようだし、もっぱら彼らが持ち込むバーングラー・ターカーとルピーの交換を専門に行なっているような両替商も多い。バーングラーデーシュに行く用事でもあれば、そこでより安くターカーを仕入れることができる。 

    加えて従来の外国人旅行者の客層の変化もあるようだ。昔のように「若者ばかり」というわけではなく、中高年の訪問も多くなっている。そのため宿泊施設の需要についても、その価格帯についてかなり幅が出てきているようだ。若者たちにしても、かつてのように「安ければ何でもいい」というタイプばかりというわけではないようだ。 

    加えてインド人旅行者たちの存在がある。彼らにしてみれば「ヒッピーのような外国人たち」が宿泊するエリアを利用する「人品いやしからぬインド人旅行者」というのはまずなかったが、90年代以降の「旅行ブーム」もずいぶん長くに渡って続いており、旅行そのものが生活のサイクルの一部となった人も少なくないようだ。そんなわけで、かなりこなれたスタイルで旅行する人も増えてきた。すると施設や地の利が便利であれば、他のことにあまり頓着しない人も出てくることにもなる。 

    ちょうどそうしたところに目を付けて、近年のサダル・ストリートでは4,000~5,000Rsの料金帯のホテルがいくつか出来ている。 

    以前、安宿があった建物に大きな改修工事の手が入っていることに気が付いたのは前回コールカーターを訪れたときであった。今回それがすっかり完成していたので覗いてみると、ムンバイーでいくつかのビジネスホテルを展開しているBAWAグループによるBAWA WALSONというホテルであった。 

    2010年9月に開業したのだという。フロントのスタッフもこのエリアでは珍しくちゃんとした態度というか、プロフェッショナルな応対。部屋を見せてもらったが、とてもスタイリッシュでいい感じだ。フロアーがぴかぴかの板張りというのもいい。 

    部屋代を尋ねると示された料金表には5500 Rsと書かれている。「あぁ、そうですか」と踵を返して通りに出ようとすると、「今キャンペーン中ですが、いくらならばご利用されますか?」と尋ねてくる。テキトーに「2000」と答えてそのまま行こうとすると、背後から「いいですよ」と声がかかる。 

    冷やかしのつもりであったが、もっと低い料金を提示しておけば良かったかな?とやや反省しつつも、それでも部屋の内容を思えば充分以上にリーズナブルなので利用してみることにした。 

    ふんだんに出るお湯で身体を洗い、ふかふかで清潔な寝具に飛び込んでぐっすりと眠る。朝食はバフェ形式で、席に着いているのはサダル・ストリートの宿泊者らしからぬアップ・マーケットな宿泊客たちばかりであった。 

    1783年建造のコロニアル建築のFairlawn Hotel (同ホテルのウェブサイトの「about us」にサダル・ストリートを象徴するようなエピソードも書かれていて興味深い)やLytton Hotelといったアップマーケットな老舗は存在していたものの、古い建物を部分的に改造して開いた安宿が中心であったサダル・ストリートやこれと交わるフリー・スクール・ストリート界隈でちょっとベターなホテルがいくつも出来上がってきている。 

    そうした中でBAWA WALSONのように、小ぶりながらもモダンで洒落たホテルが出てきたことは、このエリアの客層や土地柄の変化を予見しているかのようである。

  • コールカーター チョウリンギーの放牧

    コールカーター チョウリンギーの放牧

     

    朝方、チョウリンギー通りを散歩していると、ちょうどヤギの大群を連れた人たちがチョウリンギー通りを南下してくるところであった。ヤギとヤギ飼いたちは悠々と大通りを進み、パークストリートの交差点手前あたりで道路を横断して広々としたマイダーンに行く。毎日決まった時間にこうして「放牧」に出かけているようだ。 

    マイダーンは植民地期に造られたものだが、その目的は単に市民の憩いの場ということのみならず、カルカッタを帝都としていた頃のイギリス当局にとっては、有事の際の最終的な防衛の拠点としてのフォート・ウィリアムを市街地から隔てたところに保つ目的があった。 

    デリーに遷都されてからも、また独立以降もマイダーンはそのまま残されたため、とりわけアジア諸国の中では稀有な桁外れに大きな公園が大都会の真ん中に存在し続けている。「市民のための広々とした公園」でありながらも、実はこの広大な土地を所有しているのは軍であるという意外な一面もある。人々にとっては夕方や休日の憩いの場、ヤギたちにとっては豊かな牧草地となる。 

    昔、初めてインドに来たときもびっくりした。てっきり遠く郊外から連れてきているのだろうと思ったヤギたちの棲家は都心であったからだ。路地裏の古ぼけた建物の今にも壊れそうな扉がガタンと開くと、その中にはヤギたちがワンサカ。棒を手にした男たちが「さあ出かけるぞ!」と追い立てていたのだから。今も彼らは都市の中心部に住んでいるのかどうかは知らないが。 

    着々と近代化が進みつつあるインドの他の大都市と比較して、コールカーターはその歩みがかなり遅く感じられる。その反面、長らく英領インドの首都であったことがあるゆえに、植民地期に建設されたインフラがあまりに偉大で、今の時代にまで残された街区、建築物等はことさら時代がかって見える。まさに「古色蒼然」という言葉がぴったりだ。 

    そんな環境のためか、世界有数の高い人口密度を有する大都会でありながらも、意外に顧みられることなく放置されている空きスペースが都心にけっこうあったりする。有効活用すれば高い需要と相当な収入を見込めるロケーションであっても。もちろん地権その他の問題等あってのことに違いないだろうが。 

    先日コールカーターの「魯迅路」と「中山路」1で取り上げてみた中華朝市が開かれるところのすぐ東には、コールカーターの伝説的な中華レストラン、1924年創業のNanking Restaurantの建物が、同店閉業後も40年ほど放置されていた。元々は駐車場であったと思われる敷地を含めて、ゴミ捨て場兼廃品回収分別場並びに不法占拠者たちの住居といった具合になっていた。それも最近になってようやく取り壊されて、今は新しい建物が出来ている。そんな具合なので、今でもひょっとすると「羊の群れと羊飼いたち」が都心で生き延びる余地はあるのかもしれない。 

    近年はずいぶんクルマも増えたし、運転する人たちもせっかちになった。羊たちも彼らを追う羊飼いの男たちも、どうか事故に遭ったりすることなく日々過ごしてもらいたい。 

    もちろんこれほど沢山のヤギたちを飼育する目的は食肉(および皮革?)としての用途であるはずなのだが、こんな大都会の真ん中で飼育することでコストは見合うか?という疑問が頭の中をよぎる。だが、これが生業として成り立っている以上、我々のものとは尺度の違う経済学が背景にあるのだろう。まことに懐の深い街・・・と私は思う。

  • コールカーターの「魯迅路」と「中山路」4

    コールカーターの「魯迅路」と「中山路」4

     コールカーターの朝市に行くたびにお邪魔させていただいててる年配の華人Cさんに今回もまたお会いした。私がコールカーターの華人社会に少なからず関心を抱いていることを知っている彼女が今回こんな本を勧めてくれた。 

    書名:Chinatown Kolkata

    著者:Rafeeq Ellias

    出版社:Gallerie Publishers

    ISBN: 81-9019999-5-1 

    ムンバイー在住のフォトグラファー・ビデオ制作者による写真集である。書籍に同梱のDVDには彼自身が制作してBBCで放送されたコールカーターのチャイナタウンに関する番組が収録されており興味深かった。 

    番組の動画は、テーングラーの華人コミュニティが運営するDhapaのサイト経由にて、Youtubeにアップロードされている内容を参照することができる。 

    旧正月には、獅子舞いその他の催しが実施されるとのことなので、その時期にコールカーターに滞在される方はちょっと覗いてみるといいかもしれない。 

    <完>

  • コールカーターの「魯迅路」と「中山路」3

    コールカーターの「魯迅路」と「中山路」3

     

    情勢としては大量流出が続くコールカーターの華人社会。最盛期には1万5千人とも2万人とも言われた人口は今や5千人を割り込んでいるということだが、ごくわずかながら現在もごく少数の大陸からの「流入者」があるのだという。 

    もちろんその中には今の中国の強大な資本力を引っ提げてインドにやってくる大陸のビジネスマンは含まず、この土地に根を下ろして長らく暮らしてきた「加城華人」コミュニティに加わる人々のことだ。 

    それらの人々は具体的には客家系、広東系を中心とする、コールカーター華人たちの父祖の故郷との縁が関係しているのだという。もちろんあまり一般的ではなく、ごく少数の例に限られるが、そんな遠い繋がりを頼りに中国の田舎からインドのコールカーターまで嫁入りしにくる女性たちがいるだという。すでに長きに渡って華人社会が確立されてきた街ではあるものの、出身地の環境とのあまりの違いに馴染めず実家に逃げ帰ってそれっきり、という例も少なくないと聞くのだが。 

    いっぽう、北米、オセアニア、欧州、東南アジア等へと流出した人々の中で、圧倒的に多い移民先がカナダである。なぜカナダか?という点についてはまだよく知らないのだが、資産や生産手段を持つ人の移住に対して寛容で、すでに出来上がった華人社会があり、かつ生活水準や期待できる収入レベルなど、好条件が揃っているのだろう。加えて、先行して移民していった人々の中に、移民ネットワークを取りまとめる成功者や有力者などが複数あることなどが推測できるが、後に機会があればこれについても調べてみたい。 

    そんなわけで、多くのコールカーター華僑にとってカナダといえば「身内や知人」がいるという身近な国ということになるらしいが、いっぽうコールカーター等からカナダに移民した人々にとってコールカーターひいてはインドへの「故郷」としての意識も強いようで、「インド華人」のコミュニティ内での様々な活動がなされているようだ。 

    ネット上にもこうしたコールカーター華人の移民たちによる印華文化發展協會 (The Indian Chinese Association)というものがある。過去の記事に遡って読んでいくと、ところどころにインドやコールカーターにまつわる記事が散見される。「インド出身客家人」「コールカーター生まれの広東人」などといった、グローバルな華人社会の中ではちょっと異色なアイデンティティを維持していることがうかがわれるようだ。 

    <続く>

  • コールカーターの「魯迅路」と「中山路」2

    コールカーターの「魯迅路」と「中山路」2

     

    話は「魯迅路」と「中山路」に戻る。このふたつの通りを結ぶ、いくつかある路地の中のひとつで毎日朝市が開かれている。「魯迅路」ことNew CIT Rd.とLower Chitpur Rd.の交差点のから東側ひとつ目の路地である。コールカーター警察の本部もちょうどそのあたりにある。 

    かつて、ここは文字通りの「チャイナタウン」であったエリアだ。1959年に発生した中印紛争が1962年の大規模な武力衝突に至るにあたり、それまで近隣の人々と共存してきた華人たちだが、突如として「敵国人」としての扱いを受けるようになる。

     深夜、自宅に警官たちが突然押しかけてきて、有無を言わせずに連行してしまう。彼らは往々にしてラージャスターンのデーウリーにあった強制収容所に送り込まれてしまった。第二次大戦時に英領であった各地、主にマレーシアやシンガポールといった地域に暮らしていた日本人たちが収容されていたあの場所である。 

    カルカッタ以外にも現在のインド北東州の都市(アッサム、アルナーチャル・プラデーシュ、メガーラヤ)にも相当数の華人たちが暮らしていたようだが、このあたりは中国との国境近い地域ということもあり、同様に厳しい取り締まりがなされたようだ。 

    もちろん現金等を巻き上げる目的で華人たちを相手に荒らしまわった警官たちもあっただろうし、華人の商売敵を陥れる目的で警察に接触した個人もあったことだろう。戦争を機に官民挙げての「反中国」感情の嵐が吹き荒れた時代だ。たとえインド国籍をすでに取得していようが中国系という血筋自体によって、北京の回し者と疑われるのが当然であったという。 

    幸いにして具体的なトラブルに巻き込まれずに済んだ人たちも、いつ自分たちの身にも降りかかってくるかもしれない「深夜のノック」を恐れつつ生きていかなくてはならなかった。 

    屈辱と収容所の劣悪な環境の中で耐えて、ようやく釈放されて元々の居住地に戻ると、家、店舗、工場といった資産は知らぬ間に政府に取り上げられて競売にかけられていた、といったケースも多かったという。こうした華人に対する猜疑と弾圧の時代以降、華人たちが一気に国外へ出て行ったのは自然な流れである。 

    中国大陸での国共内戦以降、他国の中国人居住地で往々にしてそうであったように、コールカーターの中国人コミュニティの中で「どちらの祖国」を支持するかで、いろいろあったようではある。だが政府をアテにすることなく、自らの才覚、勇気と勤勉さをもって外国で道を切り拓いてきた多くの華人たちにとって、祖国の戦争にしろ政治にしろ、彼らが直接関わりを持つ類のものではない。 

    居住国であるインドに対して仕掛けた戦争に対する祖国の責任を負わされ、華人であるがゆえに商売がうまくいかなくなるどころか、警察に連行されて強制収容所送りで生命の危険もあれば、財産まで取り上げられてしまう・・・ともなれば、より安全で公正な土地を目指していくしかない。 

    これらの極端に行き過ぎた「華人排斥」時代はそう長くは継続しなかったものの、戦争をきっかけとする「中国の衝撃」のインパクトが強かったこと、中国がパーキスターンと親密な関係になっていったことなどから、華人たちに対する猜疑心、不信感や行政等による嫌がらせは続いた。

    中印紛争をきっかけとする弾圧以降は華人人口が大きく減っており、とりわけ財力や能力があり、社会・経済的な影響力の大きい層によるインドからの脱出が多かったこともあり、中華街の活力やコミュニティの経済力を大幅に削ぐことになったようだ。当時から現在に至るまで、特に若い世代ほど海外移住志向が強いとされる。 

    コールカーターのもうひとつの中華街、市の東南部のテーングラー地区には培梅中学という中文系の学校があるが、この「魯迅路」「中山路」を中心とする旧中華街にも、かつては華語で教える学校があったという。華人人口の大幅な減少とともに、英語を身に付けないと仕事ができないということから入学を希望する生徒が少なくなったことから消滅したという。 

    <続く>

  • コールカーターの「魯迅路」と「中山路」1

    コールカーターの「魯迅路」と「中山路」1

     

    ふと目が覚めると外はまだ暗い。早朝のコールカーターは、昼間の喧騒とクルマの多さがまるでウソのようにガラガラだ。人々は一体どこからやってきて、どこに帰っていくのだろうか?とさえ思う。 

    ともあれ早起きは三文の得なのかどうか知らないが、ともあれコールカーターの朝といえば、まずは中華朝市に向かうのが私の習慣になっている。 

    本当は日曜日が最も露店が多いし、休日のため華人たちの人出もやや多くて良いのだが、平日であってもなかなか楽しい。肉まん、シュウマイ、蒸し餃子、中華風スープなど本格的な中華軽食が待っていてくれるのはこの地域を置いて他にない。この朝市を簡単に紹介する以下のようなビデオがある。

    Kolkata Chinatown Breakfast (Youtube) 

    とりあえずタクシーをつかまえて朝市に向かう。地下鉄ならばセントラル駅北口に出て、目の前のNew C.I.T. Rd.(少し西に進むと通りの名がIndia Exchange Plaxe Extn.に変わる) を少し西に向かったところにある。この通りは別名Lu Shun Saraniと言う。 

    Lu Shunとは、中国のピンイン式の表記ならばLu Xun即ち20世紀初頭の中国の作家、鲁迅のことである。この「鲁迅路」のすぐ南にはSun Yat Sen St.がある。これまた中国に因んだ名前だ。Sun Yat Senとは孫逸仙こと孫中山、言うまでもなく孫文のことである。そのためSun Yat Sen St.とは、中国や台湾の街で言うところの「中山路」となる。いかにも「中華街」らしい。ここからしばらく西に進むと、Old China Bazar Rd.という通りも見受けられる。かつてこのあたりに華人たちが多数居住した名残だろう。 

    今でも華人たちによる食堂、靴屋、美容室、ドライクリーニング屋などといった、いかも華人的な商売の店が少なくない。加えて建築資材や塗料その他の店や小規模な会社のオフィス、中国寺院、同郷会館といったものが点在している。このエリアはムスリム地区に隣接しており、元々中国人たちの下で働くムスリムの人たちが多かったこともあり、旧来から出入りは多かったはずだが、「ここが旧中華街である」と言われなければ、ワーキングクラスのイスラーム教徒たちが多い地域だとしか思わないはず。 

    路地を歩きながらよくよく眺めてみると、苔むした中華風の雰囲気を漂わせるボロ屋を出入りする彼らは多いが、華人の姿はごくごく少ない。ゆえに「旧中華街」と表現するのが適当だ。それでも最近はコールカーターの外から来たインド人観光客がグループや家族連れなどが、わざわざ早起きしてこの朝市を訪れ、シュウマイその他のスナックをつまむというケースが増えてきているのだとか。 

    <続く>

  • プリペイドのモバイルインターネット接続

    プリペイドのモバイルインターネット接続

    撮影した画像データのバックアップ、WiFi環境のあるところでのインターネット接続等々の目的で小型のラップトップパソコンを旅行先に持参する人は多い。  

    私も同様で、いつも自宅からパソコンを持ち出している。自前の機器がありながらも、メール等のチェックはネットカフェで、というのも変な話なので、vodafone直営店でプリペイドのネット接続プランを購入してみた。   

    現在までのところ、2Gによるサービスのみであるとのことで、通信速度は最大で256kbpsであるとのこと。まもなく3Gのサービスが導入されると、3mbpsの速度となるとのことだ。   

    費用としては、インターネット接続に要するUSBスティックの購入代金(今後必要に応じて幾度でも再利用できる)として1558 Rs、SIMカード購入代金は62 Rs、プリペイドの通信費が98 Rsである。プリペイド代金は通信データ量2GBに達するか、利用開始日から30日間経過するまで有効だ。

    USBスティックの中にSIMカードを挿入し、パソコンに接続して使用する。これは、3Gによるサービスが導入されてからも変わらず使用できる。しばらくモバイル通信が必要な時期のみ利用するといった具合でも、経済的な負担が少ないため、気楽にプリペイドプランを手に入れることができる。   

    費用以外に、一時滞在の外国人の場合はパスポートの個人情報ページ、ヴィザと入国印のページのコピーの提出が求められる。

    まずはUSBスティックをパソコンに差し込むと、自動的に通信用のソフトウェアのインストールが始まる。しばらくしてこれが完了してから、通信ソフト上に表示されている「connect」ボタンをクリックすると、インターネットに接続できる。 

    ブロードバンド環境に慣れていると、やたらとスローに感じられる速度かもしれないが、従来のモバイルPCネット接続としてはこんなものだろう。 

    都市部の同じ場所でも、時間帯によってはあまりに遅すぎてメールの送受信さえもできないことがあるいっぽう、深夜や早朝はほぼ最大限の速度が出ていると思われることもある。時間帯によるトラフィックの過多が如実に影響するところを見ると、通信インフラ自体の規模自体にまだまだ問題があるのだろう。 

    最初に契約した州の外で使用するとローミング扱いになる。かといって契約したデータ通信容量上限や有効期間が変わったりするわけではないようだ。 

    通信が非常に込み合う?夕方の一部の時間帯を除き、ほぼ普通に操作できた。スカイプも試してみて日本までかけてみたのだが、やはり通信速度が足りないため、通話不能というわけではないが、音質は実用レベルとはいえなかった。でも3Gサービスが開始されればスカイプをはじめとする通話ソフトも充分使えるだろう。 

    旅行中くらいはネット環境から解放されてもいいのではないかとも思うのだが、普段当たり前にあるものが滞在先の部屋にないと非常に不便に感じてしまうのである。何か大事な連絡も来ているかもしれない。 

    必要があればネットカフェに出向けばいいのだが、そのためだけに30分なり1時間なりを費やすのはもったいない気がするのだ。自室でテレビ見ながら、あるいは部屋に運ばせた料理を食べながら、片手間でチェックできるのがいい。 

    あるいは深夜や早朝といった外の店が開いているはずもない時間帯に、ふと思い付いてチラッと調べものをしたりできるのもいい。そもそもいつも使っている自分のPCなので安心だし、人とやりとりするデータだってそこに入っている。 

    だが今回手に入れたプリペイドのプランのおかげで、携帯電話の電波圏内ならば、どこからでもネットにアクセスすることができるようになった。いい時代になったものだ。 

    私がこのプリペイド契約を購入した数日後から、vodafoneが提供するプランはもっと料金が高くて利用可能データ量も多いものに置き換わっている。これは近日導入される通信形式の3G化により、ユーザーたちがより通信量の大きな使い方をするであろうことを踏まえてのことだろう。 

    他にも通信各社いろいろなプリペイドの通信プランを出してきているので、いろいろ比較してみて、自分の用途や使い方にあったものを見つけてみるといいだろう。

  • 求人 ST限定

     Tribal Jobs Indiaというウェブサイトがある。留保対象となっているSTつまり指定部族対象の求人情報を集めたもので、金融、エンジニア、保険、IT、法曹、医療等、様々な分野での募集が掲載されている。 

    年齢制限についての部分で、しばしば『5 years relaxation for SC/ST』などと書かれているものがほとんどだ。こうした人々に対して留保枠そのものだけではなく、年齢上限についても緩和されるのだろう。 

    留保制度のありかたや意義についてはいろいろ議論のあるところだが、こうした留保による求人・就職について、今後機会をもうけて考えてみたい。

  • AFC Asian Cup Qatar 2011

    2011年1月にカタールでAFC Asian Cup が開催される。 大会スケジュールについてはこちらをご参照願いたい。 

    この大会にエントリーするのはインドを含めた16か国。A組からD組まで、それぞれ4チームずつが総当たりで戦い、それぞれの組の上位2か国が決勝トーナメントに進出する。 

    組分けについては以下のとおりとなっている。

    A組 ウズベキスタン・カタール・クウェート・中国

    B組 サウジアラビア・シリア・日本・ヨルダン

    C組 インド・オーストラリア・韓国・バハレーン

    D組 アラブ首長国連邦・イラク・イラン・北朝鮮 

    A組とD組はどこも実力伯仲した激戦区だ。A組については、アラビア半島の2か国に対して欧州スタイルのサッカーを展開するウズベキスタンと高い技術と体力に恵まれた中国が絡むという面白い展開が予想される。D組についても、手堅い守備と鋭いカウンター攻撃を見せる典型的なアラビア式のサッカーを仕掛けるアラビアの雄のひとつ、アラブ首長国連邦が楽しみだ。アラビア半島の多くが伝統的にこのスタイルのサッカーを得意とする。 

    中盤での華やかな展開をあまり見せることなく、自陣に引いて堅く守り、相手が人数をかけて攻め入ってくると、一気にボールを奪って少ない手数で敵ゴール前に迫り、高い個人能力を持つ前線の選手が得点して守りきるというサッカーは、この地方の気候が大きく影響しているのではないかと思われる。『砂漠の暗殺者』と形容したくなる試合運びは、アラビア半島の多くの国々に共通して見られるものだ。 

    アラブ首長国連邦と組を同じくするイラクは、湾岸戦争前まではこの地域としては珍しく日本のような組織的なサッカーを見せる国であったが、やはりその後の地盤沈下が著しい・・・と思われていたが、前回2007年にASEAN4か国(インドネシア・タイ・マレーシア・ベトナム)がホスト国となって開催した大会で優勝を飾り、強豪復活を印象付けた。 

    アラビア地域とは隣接していながらも、これらとは対照的に強力な中盤を軸にスペクタクルな『ペルシャ式』の試合運びをするイランだ。『アジアのスペイン』と表現しては大げさ過ぎるだろうか。加えて先の南アフリカで開催されたワールドカップにて、アジア・オセアニアのプレーオフでなんとか最後に引っかかって出場できた北朝鮮。本大会では無残な成績しか残せなかったが、アジア地域では押しも押されもせぬ強豪国のひとつだ。 

    B組については、サウジアラビアと日本が突出しており、とりあえずはいい組に入ったと言えるだろう。私たち日本人としてはグループリーグについては落ち着いて観戦できることと予想される。 

    C組は、インドのサッカーファンにとっては悲劇的な組み合わせだ。アジア・オセアニア地域のトップレベルのオーストラリアと韓国、近年伸長著しく現在のアラビア半島の強豪国のひとつに数えられるバハレーンと戦うことになるからだ。なんとか一矢報いて欲しいものだが、実力差から考えると3試合でインドが白星を挙げる可能性は限りなくゼロに近く、開幕前から悲観的になってしまう。 

    AFC Asian Cupは、アジアの東端と西端、つまり東アジアと中東が覇を競う大会となっており、1976年大会以降はそれ以外の地域がベスト・フォーに顔を出した例はない。インドが1964年大会で準優勝に輝いたという事実は、歴史のはるか彼方の『故事』となってしまっている。

  • ダルバンガーのV君

    昨年のことだが、デリーの国際線ターミナルビルで、そろそろ東京行きのチェックインカウンターに並ぼうとしていたときのこと、あるインド人青年が声をかけてきた。   

    『チェックインはどうすればいいんですか?』との質問。ちょうど私と同じフライトなので、一緒に並ぶことにする。日本に来て何をするのかと問えば、『レストランでコックとして働く』とのこと。東京都内のあるインド料理屋での就業が決まっているのだそうだ。   

    現在26歳のV君は、ビハール州北部ダルバンガーの出身。これまで州都パトナーの大手ホテルのレストランの調理の仕事をしていたのだそうだ。   

    彼はこの日の朝早くにデリー到着の鉄道にて、生まれて初めてインドの首都に降り立ったとのこと。そしてもちろん、飛行機に乗るのも初めての体験で、いかにも緊張した表情である。   

    セキュリティチェックの際にスタンプを押されるため、チェックインカウンターに置かれている紙の手荷物タグを付ける必要があること、また出国カードを一枚取って記入しなくてはならないことなどを教えてあげるが、V君は英語について会話はもちろん読み書きもできない。仕方なく全て書いてあげてサインだけさせる。   

    V君には兄が3人、姉が2人で皆結婚している。まだ独身の彼は末っ子で両親から特に可愛がられて育ったらしい。『インドを出る前にオヤジに電話しなくちゃ』という彼は、あたりを見渡すがSTDブースらしきものは見当たらない。   

    私の携帯電話(インドのvodafone)を使わせる。『同じフライトで行く日本の友人が出来た。その人から電話借りてかけているんだ。東京の空港ではレストランの主人が迎えに来ている。東京までは今隣にいる日本の友人と一緒だから安心だ。心配しないでいいよ、オヤジ・・・』   

    しばらく携帯で会話していた彼が『父が話をしたいそうです』と私に携帯電話を差し出す。家族の中から初めて海外出稼ぎを送り出すのだという父親の心配そうな様子が伝わってきた。とりあえず『ええ、息子さんと同じフライトで東京まで行きます。直行便ですから乗り換えなしで東京に到着します。私が一緒ですから、どうかご心配なく』と言っておく。 

    彼自身も電話の向こうの父親も、まだ見ぬ異国日本に行くという不安な中、コトバが通じる日本人が一緒ということが心強いようだ。待合ロビーの売店で雑誌類を物色していると、彼は菓子やジュースなどを買ってきてくれた。   

    そんなわけで飛行機に搭乗するなり、V君は客室乗務員に頼んで私の横に座りたいと頼んでいる。初めての飛行機で離れているのが不安らしい。 

    出発の準備が整い、飛行機は滑走路へと進む。客室乗務員すべてが着席してエンジンが唸りを上げてフル回転し始める。機体はどんどんスピードを上げていき、やがてフワリと宙に浮かんで一気に高度を上げていく。窓際に座ったV君はその間とても無口で強張った表情をしており、まばたきもせず眼も据わっている。相当緊張しているようだ。 

    しばらくしてから出てきた機内食を食べてビールを飲むと眠くなってきた。故郷のこと、家族のこと、パトナーでの仕事のことなどいろいろ話をしてくれるV君には申し訳ないのだが、そのまま寝入ってしまう。目が覚めると成田到着まであと2時間くらい。ちょうど簡単な朝食が出てくるところであった。   

    機内で出入国カード(外国人のみ)と税関申告書が配られる。V君はまたこれがわからないのでこちらが書いて、さきほどと同じようにサインだけさせる。 

    税関申告書には所持金についての部分もあった。人のお金について尋ねるのは気が進まないが仕方ないので質問すると320だという。『320ドルか、外国に行くのには少ないね』と言うと『いや320ルピーです』と言うのでビックリ。昨夜、デリーの待合ロビーで買ってきてくれたジュースや菓子類だけでも所持金の三分の一くらい使ってしまったのではないだろうか。

    成田空港に到着。到着が少し遅れているし、誰も空港に迎えに来ていないと心配なので、今度は日本の携帯を取り出して彼の雇用主の番号にかけてみた。呼び出し音が鳴るとすぐにインド人が出た。すでに出口で待っているとのことなので、電話をV君に代わる。 

    『それじゃ、仕事がんばって』

    「デリーから一緒に来るこができて良かったです。いつかぜひ私のレストランに来てください」

    荷物が出てくるターンテーブルの前でV君と別れた。 

    あれからしばらく経つが、彼は元気で働いているだろうか。

  • 機内預け荷物が出てこない!

    フライトの機内預け荷物が出てこないのは大変困る。どうしても必要なものもあれば、欲しくて購入したものもある。そうした意味ではモノの値段では代えられない場合だってある。以前も同じ便で同様のことがあり、そのときには結局出てこなかった。再びそうなるのでは?と嫌な予感がした。 

    フライトの到着地で荷物が出てこないということはたまにある。私自身、荷物が見つからず諦めなければならなかったときを加えて、これで4回目。他の2回は翌日か翌々日には空港に届いたのだが。 

    まさか同じ航空会社の同じフライトで数年置いて2回も紛失することはなかろうとタカをくくっていたのだが、数日過ぎても10日経っても見つからないとのこと。半月過ぎるあたりでは、もはや諦めの心境であった。成田空港の当該航空会社の担当者から『デリーの空港にあなたの荷物はありません』との正式な回答を得たという話があった。 

    それでも他国の空港に間違って運ばれてしまった場合、フライトのチェックインの際に付けられた航空会社のラベルの番号等で追跡するシステムがあるとのことなので、再度そちらのほうで捜索してくれるように頼んだ。しかしその後さらに1週間が過ぎても荷物が見つかったという連絡はなかった。 

    荷物の行方がわからないなってから、そろそろ20日経とうかというあたりで、たまたまアクセスしたインドのCISF(Central Industrial Security Force)のウェブサイトに、インド各地の空港における『Lost & Found』の検索システムがあることに気が付いた。CISFとは、内務省の管轄の組織で、政府施設や空港など国の重要施設の警備に当たる治安部隊であるが、国際線・国内線を問わずインド全国の空港にて、彼らが確保した身元不明の荷物について調べることができる。 

    フライトに搭乗した日から向こう5日間ほどのデータを閲覧してみた。荷物が『迷子』になってから、当局に遺失物として登録されるまでのタイムラグがあるかもしれないからだ。すると私が飛行機に乗った翌々日の記録に『ひょっとしたら私のものかも?』と思われる記載があった。

    私が航空会社にCISFの件でコンタクトした時間帯と、その日に成田空港入りしたそのフライトのデリー出発時間と考え合わせると、航空会社に連絡してから24時間以内に荷物が発見飛行機に積み込まれたようだ。航空会社の担当の方によると、直接CISFにコンタクトするとデリーのオフィスから問い合わせるようにと言われ、その後現地のスタッフの方々が奔走してくれたようだ。 

    それにしてもチェックイン後に行方がわからなくなり、デリーの空港当局から『こちらには散在しません』と伝えられた荷物が、CISF経由で見つかるとは不可解だが、まあそういうこともあるのだろう。そのウェブサイトで遺失物を検索できることに気が付いた幸運に感謝したい。 

    機内預けの荷物が行方不明で諦めなくてはならなかった・・・ということはそう滅多にあるものではないが、インドの空港発のフライトで運悪くそうした事態に遭遇してしまった場合、念のためCISFの検索システムに当たってみるのもいいかもしれない。