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投稿者: ogata

  • プリー 3 悲しい浜辺

    プリー 3 悲しい浜辺

     浜辺を散策する。海の広々とした眺めが気持ちいい。だが水平線ばかり眺めて歩くわけにもいかない。すぐ裏手が漁村になっており、このあたりの住民たちのトイレも兼ねているからである。 

    そんな海岸だが、ある思いもかけない生き物の姿を見つけたときには嬉しくて飛び上がりそうになった。 

    「おぉ、海亀じゃないか!」

    ドキドキしながら近寄って眺めていると、通りがかりの観光客とおぼしきインド人グループも立ち止まってそれを見ている。

    3、4人が立ち止まっていると、さらに4、5人、さらに数人・・・と人が増えてくる。

     

    「動かないね・・・」

    その中のひとりが恐る恐る近づいて、つま先で軽く突いてみるが反応なし。

    「死んでるのかな?」と他の者が近づいて覗き込む。寿命の尽きたカメが波に打ち上げられたのであろうか。特に大きな外傷なども見当たらない。

    だが浜辺を北に向かって進んでいくと、さらに幾つかの海亀たちの遺骸を見つけた。ひとつ、ふたつ、みっつ・・・全部で10匹は見かけただろうか。それらを仔細に調べてみるまでもなく、なぜ彼らが死んでいるかがわかった。多くは漁師の網が絡みついていたからだ。ちょうど産卵期に当たることもあり、海亀たちは沿岸を回遊している。そのためこうして仕掛けにかかってしまうのだ。

    私にとっては水族館以外で初めて目にする野生の海亀であったのだが、こういう形で対面することになったのは残念だ。もちろんこのあたりでも保護動物に指定されている生き物であるとはいえ、海で生計を立てる人々が生業のために活動するエリアと重なるがゆえの悲劇である。

    死んでしまった亀たちはどうなるのかといえば、どこかの国なら食肉として売りに出されそうなものだが、ここでは砂地に埋められてしまう。浜辺を歩いていると、そうした亀の身体の一部が砂地から露出している様子もいくつか目にした。

    波打ち際にそのまま放置される個体もある。それらはどこからともなく集まってくるカラスその他についばまれることになる。

    オリッサ沿岸ではオリーヴ・リドレー(日本語ではヒメウミガメと呼ばれる)という種類の海亀が多く棲息していることで知られているが、同時にこうした漁業関係による事故、港湾建設や内陸の都市化からくる環境の変化や汚染等により、今後が懸念されているということだ。

    Endangered Olive Ridley Turtles (The Wild Foundation) 

    ちょっと歩いてみただけでずいぶん多くの海亀たちの死を目にしてかなり気になったが、その反面この地域の自然がまだまだ豊かであることの裏返しかもしれない。

    また、こうした状況は放置されているわけでもないようだ。NGO等の努力により、オリッサ州総体としては亀たちの死亡数はかなり減っているともいう。 

    Huge drop in sea turtle mortality at Orissa rookery (express india)

    もちろん行政としても、海亀をはじめとする野生動物の保護活動に取り組んでいることはよく知られている。

     Sea Turtle Conservation (Forest & Environment Department, Govt. of Orissa)

    環境保護といえば何でもそうだが、人々の活動と環境をいかにうまく両立させるか、私たち人間が環境に与えるネガティヴな影響をいかにミニマイズするかという試みである。

    プリーの海岸に限ってみても、これは漁師たちだけの問題ではなく、彼らの獲った魚を食べている私たちはもちろんのこと、地域全体で漁民たちの生活や魚という食材の供給と海亀の棲息をいかに両立させることができるかという観点も大切だ。

    漁村近くのあちこちに海亀の遺骸が散在しているほど、この海に棲む大型爬虫類の棲息数に恵まれている今のうちに、私たちが取り組まなくてはならないことであろう。

    <続く>

  • プリー 2  ジャガンナート寺院

    プリー 2  ジャガンナート寺院

     プリー市内を散策する。プリーのジャガンナート寺院はヒンドゥー以外の者が入場することができないのは残念であるものの仕方ない。   

    少し前のニュースでこういうのがあった。

    American student detained in Jagannath temple (NDTV) 

    Jagannath Temple Purified After American Woman Enters Shrine (allovoices.com) 

    アメリカ人の女子大学生がクラスメイトでインドからの留学生でもある男友達と一緒にこの寺に入ってしまったというもの。女子学生はインド系でもヒンドゥーでもないのだが、サルワール・カミーズを着ていたため、咎められることなく入場したものの、寺の内部で周囲の人たちに気付かれて捕まったというもの。   

    ヒンドゥー以外は入ることができないことを知らなかったということで、しばらく尋問された後に放免となったそうだが、お寺側としては進行中の儀式は中止しなくてはならないし、浄めも実施しなくてはならないなど、大変だったらしい。   

    非ヒンドゥーが入ることができない寺というのはしばしばあるが、そういうのはあくまでも慣習だと思っていたのだが、警察沙汰になるところを見ると、条例その他の法的な裏付けもあるのかもしれないがよくわからない。   

    それにしても『知らなかった』というのは本当だろうか?確か入口にヒンドゥー以外は入場できないといった旨が記されていたと思うし、彼女自身も『Lonely Planet』のガイドブックくらい持っているだろう。 

    おそらくインド人の学生の男友達に「ドゥパッターで顔を覆えばバレないから入っちゃえ」などとそそのかされたのではないかと思うのだが。 

    ジャガンナート寺院の入口の界隈では、カージャーという菓子を売る店が沢山軒を連ねており、いい匂いが漂っている。幾層にも織り上げた生地をカラリと揚げて糖蜜に漬けたものだが、なかなか香ばしくて美味しい。他でも似たようなものは見かけるが、これだけ多くの店が同じものを膨大に作っているからには、競争も激しいはずだ。どこの店も見た目は同じものを作っているのだが、店頭の人だかりの具合が違う。 

    流行っているところの店先では、文字通り『飛ぶように』売れていく。眺めていると、小腹が空いてきたので少し買ってみる。歯ごたえ、風味、舌触り等も最高であった。ちょっと『かりんとう』を思い出させる食感である。

    <続く>

  • プリー 1 今や昔

    プリー 1 今や昔

     久しぶりにプリーを訪れてみた。 

    『広々とした浜にはいくつか海の家みたいな簡単な食堂があって、背後にはまた簡素な宿がいくつか。その裏手の道路向こうにはいくつか池があったっけ?』 

    『そんな宿の少し向こうから漁村になっていて、道沿いには小さく質素な店がいくつかあったなぁ。夕方、陽が暮れるとすっかり真っ暗になって、夜空に輝く満天の星がきれいだった・・・』 

    以前滞在したときの浜辺の閑散とした、しかしのんびりした様子を思い出していた。ブバネーシュワルの空港からプリーに向かうタクシーの車内でのことである。

    「プリーではどこに泊まるんですか?」と運転手。

    「海沿いの道で宿がいくつもあるところ。何て言ったっけ?」と私。

    「CTロードでしょう?どのホテルですか?」

    どこに泊まるか決めていないが、とりあえず浜辺の通りの真ん中あたりにある宿の名前を挙げておいた。すでに日が沈んですっかり暗くなっているので、どこを走っているのかわからないが、とりあえずプリーの街中に入っているようだ。  

    どこかでクルマは左折してしばらく直進。レストラン、両替屋、多くのホテル等が並ぶ賑やかな繁華街に出た。

     「CTロードに着きましたが、何というホテルでしたか?」と運転手がこちらを振り向く。

    「えっ?ここなの?」と驚く私。

    何かの間違いじゃないかと言いたいところだが、確かにそうなのだろう。

     「ずいぶん変わったんだね」と言葉が出かかるがやめておく。そもそも私が前回プリーに来たのはもう20年近く前のことだ。20歳そこそこと思われる運転手は、その頃生まれたばかりで母親の足元をヨチヨチ歩いていたはず。

     宿の部屋に荷物を置いてから外に出る。もうすっかり夜になっているが、人通りは多いし街灯や店などからの灯で明るい。かつて外国人バックパッカー以外が宿泊することがあまりなかったこの界隈だが、大小沢山のホテルが出来ていて行き交う観光客の大半はインドの人たち。家族連れや仲間連れといった人々が多い。 

    外国人客に人気だというベーカリーに行ってみる。店で焼いたパンや洋菓子類が売りで、その他洋食を中心とした食事なども出来るようだ。 通りから大きなガラス窓越しに見える店内の席は一杯のようだったが、裏手の元々庭だったらしいスペースにも席がしつらえてある。コンクリートの土間に座るようになっている。 

    テーブルひとつ向こうの席に座っているちょっと崩れた感じの西洋人カップルが紙巻きタバコをモゾモゾといじっている。ライターをカチッと鳴らす音からしばらく遅れて漂ってきたのは、やっぱりカナビスのにおい。 

    そういえば通りにはバーング・ショップと書かれた店も見かけた。ずいぶん賑やかになったが、こういうところは昔と変わらない。

    <続く>

  • オリンパスXZ-1

    オリンパスXZ-1

     

    2月18日にオリンパスから発売されるXZ-1が気になっている。このところ『いい感じ』のコンパクトデジタルカメラの上級機種をいくつも見かけるようになっているが、その中で『唯一無二』のモデルかもしれないからである。 

    今後、カメラ専門誌やウェブサイト等で多くのレビュー記事が出てくるであろうから、実機に触れてもいない私があれこれとコメントするつもりはない。 

    それでもXZ-1が『あっ、これ欲しいなあ!』と思わせるのは、コンパクトデジカメとしてはダントツに明るい(F値の明るさを売りにするモデルはすでにいくつかあるが)レンズである。広角側(28mm相当)でF1.8であり、望遠側(112mm相当)でもF2.5である。こんなレンズを搭載するコンパクトデジカメはこれまで存在しなかった。 

    従来の汎用機の場合はF3.5というのが多かった。近ごろは2コンマいくつといった比較的明るいレンズを搭載している機種も出てきている中で、パナソニックのLUMIX DMC-LX5のように28mm相当の広角側でF2.0で、望遠側(90mm相当)でF3.3という機種の存在が格別目立っていたが、XZ-1が登場すると一気に影が薄くなってしまう。 

    モデルの多様化と廉価モデルの普及等による、それこそ『猫も杓子も・・・』といった様相だった一眼デジカメブームの最中には、コンパクトデジカメのハイエンド機種が一部を除いて市場からすっかり駆逐されてしまうほどであった。 

    その一眼ブームも収まり、その『一眼』タイプのカメラからもコンパクト機に近いタイプ(オリンパスとパナソニックのマイクロフォーサーズ、ソニーのNEXシリーズ等)がいろいろ出てきたりしており、小さくても使えるカメラのバリエーションが幅広くなってきたのは喜ばしい。 

    撮影する機能に限っていえば、即写性、拡張性、画質その他どれを取っても『一眼』が勝るのは当然だが、コンパクトデジカメの存在理由にはそれらとは異なるものがあることは言うまでもない。 

    もちろんそれは携帯性という点に尽きるのだが、その中で表現を工夫する余地がどれだけ用意されているかという点と、撮影状況に対応できる幅の広さである。 

    それは倍率の高いズームが付いているということではない。普段、28mm単焦点のGR DIGITAL Ⅲを愛用しているが、そういう意味で不便を感じることはない。ジャングルに猛獣を見に行くとか、山岳の写真を撮るなどという場合はともかく、普段の生活の中での利用ならば、必要があれば自分が被写体に近づけばよいだけのことである。逆に広角側が35mmから始まる機種となると、後ろに引けない場所で扱いに困るのだ。 

    GR DIGITALの場合、状況に応じて感度、ホワイトバランス、測光方式、画像設定等々をワンアクションで切り替えることができるようになっている。その他撮影設定の領域が広く、その中でユーザー自身がよく使う設定もいくつか登録できるなど、実にうまく出来ているのである。画角は28mm単焦点だが、撮影の自由度がデジタル一眼レフ並みに高い。 

    そんな便利なカメラではあるのだが、初代のGR DIGITALを使っていたときに『もう少しレンズが明るいと便利なのだが・・・』と思うことがしばしばあった。 

    それはレンズのF値が2.4であることだ。暗めの室内、夕暮れ以降の街中等、手持ちで撮影するにはちょっと足りない。かといって感度を大幅に上げてしまうと画像がひどく荒れてしまう。 

    そんなわけでGR DIGITAL Ⅲになったあたりで、日頃使っていた初代のモデルがヘタッてきていたこともあったが、迷わず購入する気になったのはレンズがちょい明るいF1.9であるがゆえのことであった。 

    初代機と比べて高感度にも少し強くなっている(ISO400まで問題なく使える)こともあり、室内や夕暮れ以降もじゃんじゃん使うことができるようになった。 

    ただしGR DIGITAL Ⅲにも『もうちょっと×××だったらなあ』という思いがないでもない。ついさきほど『被写体に近づけばいいのだ』などと書いたことと矛盾するのだが、レンズの明るさが犠牲にならないならば、また使い勝手が同様に優れているのであれば、常日頃携帯するカメラにズームが付いていたほうが便利である。 

    カメラを常時2台持ち歩く気はないので、XZ-1の実機に触れてみて『これでGR-DIGITALは要らないや』と思えるようであれば、購入してしまいそうな予感。 

    もっともこのカメラで気になっているのはレンズの明るさだけなので、発売されてからしばらくは様子見ということにしておこう。 

    ともあれその『明るさ』がゆえに『インドでどうだろう?この一台!』と、本日ここに取り上げてみることにした次第である。

  • ダイヤモンド・ハーバー

    ダイヤモンド・ハーバー

     その名に惹かれて訪れてみたくなった。 

    エスプラネードのバスターミナルに行きダイヤモンド・ハーバー行きを探す。幾度か訪れたことがあるというコールカーター在住の知人の話では『1時間半前後だよ』という話であったが、バスに乗り込んでみると乗客たちは『3時間はかかる』と言う。

     距離にして45キロほどしかないので、何かの間違いではないかと思ったが、事実きっかり3時間かかった。ずいぶん飛ばしていたのだが、1時間に15キロしか進んでいないことになる。かなり大きく迂回ルートで走るバスであったのかもしれない。市街地の渋滞を抜けて郊外に出てからは、のどかな田園風景を眺めながら走るので心地よかった。 

    ダイヤモンド・ハーバーに着いた。田舎町ではあるが、コールカーターから日帰りで訪れる人が多く、乗ってきたバスもそうであったが、降りてみるとそういう感じの人々の姿がよく目につく。 

    カルカッタでもそうだが、このあたりでも舗装道路の表面の大部分はコールタールといった感じで、砂利のザラザラ感に欠ける。滑り止めということだろうか、規則的に小さなレンガ片が埋め込まれている。道路脇にはレンガを砕いた砂利状のものが沢山あるので、道路の基礎はそれらで作っているのだろう。 

    ダイヤモンド・ハーバーの見所は、海かと思うほど幅の広い河の眺めと英国が残した商館跡。地元の人はキラー(城・城砦)と呼ぶが、コールカーター建設前の東インド会社が拠点としていた場所である。漢字で『商館』と書いてイメージするものとはかなり異なる、物々しい施設であったに違いない。 

    河の船着き場に出た。空気が霞んでいて対岸が見えない。波がほとんどないことで、ここは海ではなく河であることが実感できる。今、ディガー方面に向かう船が出るとのこと。見た目にはどこに行くとも知れないところに出航していくかのような船の様子は印象的である。私も乗り込んでみたくなったが、まだ商館跡を訪れていないし、今日中にコールカーターに戻らなくてはいけないのでやめておく。 

    この河の深さは相当あるようで、大洋から航行して来たと思われる巨大な貨物船が悠々と遡上していく。かなりの速度が出ているようだ。少なくとも道路を走るバスのスピードに近いものはあると思われる。 

    コールカーターから楽に日帰りできる距離ではあるが町中に宿泊施設は多く、簡単な食堂を併設しているところもある。適当に腹ごしらえしてから商館跡に向かうことにする。 

    幹線道路に貼り付く形で町が続いているが、通りから逸れて河岸の商館跡に至る小道に入るすぐ手前で5ルピーの入場料金が徴収される。岸辺では地元観光客相手にゴザやシートの上で料理を作る人たちがいる。頭上を見上げると、砂糖ヤシに素焼きのツボが取り付けられている。その樹液を集めてから、これを煮詰めて粗糖を作る人たちも何組かある。 

    商館の建物がきちんとした形で残っているわけではないことは知っていたが、現地を訪れてみてびっくりする。ごく一部の基礎部分は残っているものの、『ここが東インド会社の商館跡である』と感じさせるものはほとんどないからである。 

    こうなってしまった理由には、もちろん史跡として顧みられることがなかったということもさることながら、元々建物があった部分が大きく河に浸食されたこともあるようだ足元には大量の赤レンガ片があり、どれもすっかり角が丸くなっている。これらはかつてここに存在した建物の名残であろう。想像力を最大限に発揮して、往時の様子を想像してみる。 

    商館跡の見物後、サイクル・リクシャーで鉄道駅に向かう。コールカーターからのバスを降りたところのすぐ近くである。幸いすぐに次の電車が来るとのことであったし、想像していたほど込んでいるわけではなかった。シアルダー駅まで2時間ほどとのこと。 ダイヤモンド・ハーバー駅はこの支線の終着駅だ。

    電車は田園風景の只中を走る。大半は刈り入れが終わった殺風景なものだが、ごく一部では苗代があり、田植えの風景も見られる。時期外れの田植えの際の稲の種類は違うのだろうか、それとも夏に育成するものと同じだろうか?途中駅ではホームに籾を広げて乾燥させていたりする。のんびりしたものである。 

    カルカッタではいろいろな地域から来ている人たちが多いため、人々の顔立ちには様々なものがある。だがこの車内はほとんどベンガル人ばかりのようで、乗客たちの顔を眺めているとあたかもバーングラーデーシュに来たような気にもなる。 

    美しい田園風景はホータープルという駅でほぼ終わる。そこから先は田畑と市街地が入り混じり、そしてやがてカルカッタ郊外に出た。ほどなくバリーガンジ駅に着く。界隈で所用があるため、ここで下車する。

  • Namaste Bollywood  #27

    Namaste Bollywood #27

     

    2011年最初の号である。今回の特集は「インド映画が教えてくれる人と心」だ。

    人間はひとりでは生きていけない。家族や仲間たちに囲まれて幸福に過ごすこともあれば、人々の中で生きていくがゆえに悩むこともあり、苦しむことだってある。

    けれども困ったときに助けてくれるのもまた人であり、自分自身もまた何かの巡り合わせで誰かに手を差し伸べることだってある。人の縁というのは面白いものだ。

    それがゆえにそうした人との出会いや絆が映画にも描かれる。そんな作品群の中からオススメ作品を今号では取り上げている。

    Billu、Rain Coatその他の作品は、舞台こそインドであれども、そこに描かれるテーマには私たちの日本にも通じるものであるとともに、世界中のみんなが共有できるものだろう。

    巻末のBollywood Filmy Pedigree、今回はファラー・カーン篇である。彼女を取り巻く身内の映画人たちが紹介されているが、母親がパールスィーであるとは知らなかった。

    いつものことながら、小さな囲み記事も見逃せない。昔、日本で人気を博したインド人アイドルがいたのだそうだ。詳しくはナマステ・ボリウッドの最新号を手に取ってご覧いただきたい。

    さて2011年が始まってから早いものでひと月半近くになる。今年のボリウッド映画界からは、どんな作品が出てくるのか、どんな新しいスターが出現するのか大いに期待していきたい。

    ナマステ・ボリウッド#27 (Namaste Bollywood)

  • コールカーターのダヴィデの星 4

    コールカーターのダヴィデの星 4

     

    ひとつ西側を走るポロック・ストリートにベテル・シナゴーグがあるのだが、通りを挟んだ向かいにある建物は、元ユダヤ人学校であったものだが、現在は郵便局として転用されている。

    元ユダヤ人街といっても、そのユダヤ系の人々がほとんどいなくなってしまったこの街で、シナゴーグを管理しているのは、やはりイスラーム教徒たち。訪れる人もほとんどなく、ヒマそうにしている彼らに『パーミット』を提示してカギを開けてもらい建物の中を見学する。 

    内部ではASI(インド考古学局)の手による修復工事実施中であるため、ちょっと落ち着かないのでは?と予想していたが、作業自体はのんびりと進行中であるため、堂内に組まれた足場のような障害物があるものの、端正な建物の内部を自由に見学することができた。 

    ベテル・シナゴーグを後にして、歩いて数分のところにあるマガン・ディヴィッド・シナゴーグに行く。ユダヤ建築について素人の目には、こちらのほうが華やかで印象深かった。 

    ふたつのシナゴーグで、ともに現在進行している修復作業が終了すれば、本格的に歴史遺産としての公開が始まることになるようだ。 

    マガン・ディヴィッド・シナゴーグの隣には、この街最古のユダヤ教会であるネヴェー・シャローム・シナゴーグが無残な姿を晒しているのだが、こちらは修復する予定も公開する予定もないのは残念である。

    <完>

  • コールカーターのダヴィデの星 3

    コールカーターのダヴィデの星 3

     

    先日も記したとおり、ムンバイーでユダヤ教施設も標的となった2008年11月26日のテロ以降、ムンバイーのシナゴーグ外の路上では常に複数の警官たちが見張りに付くようになっている。 

    同様にコールカーターのシナゴーグも『一見さんはお断り』といった具合になってしまっている。公には現在ふたつとも改修中であるためだが、それ以外にセキュリティ管理の体制が整うまでは一般公開を控えるようにという警察からのアドバイスがあるのだそうだ。 

    実はベテル・シナゴーグ、マガン・ディヴィッド・シナゴーグ両方とも、今やユダヤ系コミュニティによる宗教施設として機能していない。コールカーターに常駐するユダヤ教司祭はすでにないうえに、同市に常住するユダヤ系人口は10~15人程度とのことである。礼拝を実施するには男性メンバーが最低10名は必要であることから、もう長いこと行われていないそうだ。その在住者にしてみたところで、全員高齢者とのことだ。 

    そんなわけで、ふたつのシナゴーグは2007年からASI(インド考古学局)にその管理を委ね、文化財として保護されるようになっている。ただし本格的な修復の手が入るなど、きちんと動き出したのは2010年後半になってからのことだ。現在も工事継続中であるなど過渡期にある。 

    そんなわけで、建物内部はもとより敷地内に入るのでさえ『パーミット』の取得が求められる。パーミットといっても、あるユダヤ系人物あるいはその代理人に手書きのメモをもらうだけのことである。シナゴーグの管理人に対する『この人にシナゴーグを見学させてあげてください』といった内容の走り書き程度のものである。その『パーミット』のためにコンタクトする先は以下のとおり。 

    Nahoom & Sons Private Limited

    Shop No. F20, New Market 

    リンゼイ・ストリートに面した、屋根の付いたニューマーケットにあるベーカリー兼コンフェクショナリーである。英領時代から続いており、このマーケットの中でも最古参の部類ということになるようだ。ナフーム(Nahoom、Nahoumと綴られることもある)という名の示すとおり、ここはユダヤ人経営の店であり、今のコールカーターでは非常に珍しいものとなっている。ここで一世紀以上に渡り同じ商いをしているとのことだ。時代がかった店内は英領期の面影をよく残しているのではないかと思う。 

    『ナフーム』といえば、英領期のこの街を代表する洋菓子屋のブランドであったようだ。年齢90歳を越えている現在の当主は創業者の孫であるという老舗。それだけでもこの店を訪れて、パンなり菓子なりを買って味わってみる価値がありそうだ。 

    そのD氏は高齢であるにもかかわらず、今も毎日元気に店に出ているそうだ。残り少なくなったコールカーターのユダヤ人コミュニティの顔役として広く知られている人物であるため、この街のユダヤ関係の記述やメディアなどで彼の名前をしばしば目にする。 

    私が訪れたときは不在で、彼の代理としてレジを任させている中年のムスリム男性が対応してくれて『パーミット』とやらを書いてくれた。その足でとりあえずベテル・シナゴーグに向かう。 

    ベテル・シナゴーグのあるポロック・ストリートは、先日コールカーターの「魯迅路」と「中山路」1で取り上げた旧中華街からごく近いところにある。一本手前にはエズラ・ストリートは、19世紀のこの街で不動産王として名を馳せたディヴィッド・ジョセフ・エズラに因んで名づけられたもの。かつてこのあたりはユダヤ人街といった様相であったらしい。 以下の画像は現在のエズラ・ストリートの眺めである。

    ムンバイーのユダヤ資本がサッスーン・ドックを建設し、今日もデイヴィッド・サッスーン・ライブラリーが同市のユダヤ資本を代表した一族、サッスーン家の栄華を今に伝えているように、コールカーターでは不動産、金融、タバコその他の産業を通じて富を築いたエズラ家の名残を目にすることができる。 

    それは今も名前の残るエズラ・ストリートであり、彼が寄進した土地に建てたベテル・シナゴーグであり、チョーリンギー・マンションでもあるが、視覚的に最も印象的なのはアール・ヌーヴォー建築の傑作、エスプラネード・マンションだろう。 

    外観もさることながら、内部がどうなっているのか大変興味があるのだが、今も現役の建物であり、文化財として公開されているわけではないのは少々残念である。 

    <続く>

  • 禁煙先進国

    世界のたいていの国で喫煙者は肩身の狭い思いをするようになっている昨今。日本の首都圏ではこんな本が売れているらしい。

    最新版 東京 喫煙所マップ  東京喫煙愛好会著 (PHP研究所)

    ISBN-10: 4569793258

    ISBN-13: 978-4569793252

    著者が『東京喫煙愛好会」となっているのも面白い。もはや喫煙という行為は、かつてのように大人の嗜みではなく、一部の好事家の変わった趣味といった具合だろうか。

    それでもまだまだ喫煙者に対して甘いという声も聞こえてくるようだ。それにタバコの価格だって他の先進国に較べてまだまだ安いではないかとも。世界で最も喫煙者に対して厳しい国はと言えば、欧米ではなく南アジアのある国のこと。ブータンでは法律上では『麻薬並み』に厳しい扱いになっている。 

    もう何年も前にヒマラヤの禁煙国として、ブータンの禁煙化について書いてみたが、それから6年以上経った今、同国で人々から尊敬される存在である僧侶が、タバコに関わる罪状で5年の実刑判決を受けたことがニュースになっている。 

    国境の町プンツォリンと接するインド側のジャイガオンで購入した噛みタバコ72パケットを密輸したというのが罪状だが、タバコで『5年間の服役』とは厳しい。 その商品とは、インドのどこの街でよく見かけるBABAブランドのものようだ。 

    Charged for handling tobacco (KUENSEL ONLINE) 

    Enforcing the ban (KUENSEL ONLINE) 

    同国ではすでにタバコの販売が禁じられており、個人的な消費目的である場合のみ外国から関税を支払い持ち込むことができるようになっている。ただし関税の支払いのレシートを保管しておかないと、タバコが見つかった場合密輸と判断されるとのこと。 

    また地域によっては条例等により、屋外や公共の場での喫煙行為自体が違法となっている場所もある。アッサム国境の町ゲレチューでは、今年1月1日から自室のみOKということだ。罰金は500 Nu(ブータン通貨ニュルタム、インドルピーと等価)だ。アッサム側の町と接しているため、市内に流通するタバコが後を絶たないため、思い切った策に出たものと思われる。 

    闇で出回るタバコといえば隣国インドから入ってくるものが大半だが、値段のほうは例えばWILLSがインドで40 Rsであるとして、ブータンにおいては首都で流通の中心地でもあるティンプーでは60~80 Nu、インド国境から遠い地域に行くと100 Nuあるいは150 NUという価格にもなるというから、喫煙者の経済的な負担も大きい。とても喫煙という行為を楽しむ環境ではない。 

    是非はともかく、禁煙環境という意味ではブータンは世界最先端にある。

    ※コールカーターのダヴィデの星 3は後日掲載します。

  • コールカーターのダヴィデの星 2

    コールカーターのダヴィデの星 2

     

    英領のインド帝国首都であったがゆえに、バグダーディーの人々を引き寄せる商業的な誘因があったようだが、英領期以前からベネ・イズラエル、コーチン・ジューといったユダヤ系の人々が定着して活動していた亜大陸南西部と違い、コミュニティの人口規模はコンパクトなものであったようだ。 

    1798年にコールカーター入りしたシャローム・コーヘン以降、英国本国から極東の香港や上海までを繋ぐ拠点としてのこの街で、オピウムやインディゴといった当時のインドならでは物産をはじめとする商品の国際取引、ラクナウを首都としたアワド王国、ランジート・スィン率いるパンジャーブのスィク王国との商売等で順調に成長していく。 

    1826年にはこの街で最初の正式なユダヤ教礼拝施設、ネヴェー・シャローム・シナゴーグが建設された。だがその時点でもこの地のユダヤ人口は200を数える程度であったという。その建物は今も残っており、マガン・ディヴィッド・シナゴーグのすぐ隣にあるのだが、すでに廃墟といった状態で内部は公開されていないのは残念だ。 

    しかしその後、1860年あたりでは600人、19世紀末には1900人を越えるまでに成長している。その頃にはパークストリートからサダルストリートにかけての地域で仕事場や住居を構えるユダヤ人たちも多くなっている。 

    初期のバグダーディー・ジューたちの多くは、出身地の言葉であるアラビア語を話し、装いもアラビア式であった。だがこのあたりになると英語に洋装となり、疑似西洋人といった具合になってくるとともに、資本を蓄積してジュート工場、タバコ産業、保険業、不動産業等といった分野で大きな商いをする人々が増えてくる。 

    1880年代には最初のユダヤ人学校がオープンする。それから20世紀前半にかけていくつか出来たユダヤ人学校の中には閉校してしまったものがあるいっぽう、ユダヤ人子弟の入学が皆無であるにもかかわらず、経営母体の民族色を薄めた一般的なイングリッシュ・ミディアムの学校として存続しているものも少なくない。 

    タイムス・オブ・インディアによる以下の記事などはまさにその典型だろう。生徒たちのマジョリティがムスリムの『ユダヤ人学校』なのだそうだ。

    The schools are Jewish, its students Muslim (The Times of India) 

    1940年代前半、コールカーターのユダヤ人人口は最盛期を迎えるが、当時この街が彼らにとってそれほど魅力に満ちていたというわけではなく、日本軍によるビルマ侵攻から逃れてきた同国在住の同朋たちが逃れてきた結果である。彼らはもともとコールカーターやムンバイーから移住した人たちであったが、戦争という不幸な原因により『出戻り』となったわけである。 

    インド独立といういわば『プッシュ』要因に加えて、イスラエル建国という『プル』要因もあり、それ以降はユダヤ人たち、とりわけ財力と能力に恵まれた人たちほど、インドを出てイスラエル、米国等に新天地を求めて流出する動きが続いた。 

    もともとパレスチナ・イスラエル問題の進展により、もともとパレスチナに暮らしていたアラブ人と帰還運動に関わるユダヤ人たちとの衝突が始まるまでは、アラビア各地でユダヤ人たちはアラビア人たちと平和裏に共存してきた。それ以外の国々においてもムスリムとユダヤ人の関係はごく近いものであった。 

    今でもシナゴーグの管理人や雑役などを引き受けている人たちはたいていムスリムであるし、ユダヤ人地区とムスリム地区とは隣り合っていたり、重なっていたりもする。 

    それだけに2008年11月26日にムンバイーで発生したテロにおいて、ユダヤ教徒のコミュニティ施設として機能してきたナリーマン・ハウスがイスラーム過激派の犯行グループの標的のひとつとなり、司祭夫妻とそこに居合わせた訪問客が犠牲となったことは大変な衝撃であったことは想像に難くない。 

    <続く>

  • 休業補償

     今月19日からクリケットのワールドカップが開催される。

    ICC Cricket World Cup 2011 

    前回2007年はカリブ海の8ケ国による開催であったが、今回はインド・スリランカ・バーングラーデーシュの三国での共同開催となる。 

    サッカーの場合は、2002年の日韓共同開催の後にも先にも同時に複数の国がホストとなっての開催はないが、クリケットの場合は1987年の印・パ共同開催にはじまり、以降7回の大会すべてが隣接する国々による共同開催となっている。

    そうした大きなスポーツの大会の際、行政にとって一番の問題となるのは治安維持に加えて、開催地周辺での風紀の維持ということになるだろう。 

    今回のクリケットのワールドカップのホスト国のひとつ、バーングラーデーシュにかかわる以下のようなニュースが目に付いた。 

    Bangladesh city to pay beggars during cricket World Cup (BBC NEWS SOUTH ASIA) 

    同国のチッタゴン市では、300名ほどの身体に障害のある乞食たちに対して、大会期間中1日当たり2米ドル相当の『休業補償』を与えて、しばらくお休みしてもらうことにしているのだとか。また主都ダーカーでは、ワールドカップ期間中は彼らに福祉施設に収容する予定であるとも。 

    人道上の問題については言うまでもないが、現実問題として物乞いの人たちが開催地周辺に大挙して流入ということも予想できるし、スムースな大会運営を期するうえでも、そうした措置にはやむを得ない部分もあると思う。 

    ところでインドではどうなのだろう?とふと思ったりもする。それに昨年10月に開催されたCWGのときには何かそうした措置はあったのだろうか? 

    ※『コールカーターのダヴィデの星 2』は後日掲載します。

  • コールカーターのダヴィデの星 1

    コールカーターのダヴィデの星 1

     

    先日取り上げたコールカーターの旧中華街近くに、見応えのあるシナゴーグがふたつある。ベテル・シナゴーグ(Beth El Synagogue)とマガン・ディヴィッド・シナゴーグ(Maghen David Synagogue)である。それぞれ『神の館』『ダヴィデの星』といった意味の名のユダヤ教礼拝施設だ。 

    どちらも旧ユダヤ人街にある。先日コールカーターの「魯迅路」と「中山路」1で取り上げた旧中華街同様に『旧』としたのは、もはやそこはユダヤ人たちが住む街区ではなくなっているためである。 

    マガン・ディヴィッド・シナゴーグに至っては、その外観がプロテスタントの教会にありそうな形をしていることから、これをユダヤ教会と認識している人は界隈にほとんどおらず、それとは裏腹にそこからふたつほど裏手の路地にあるアルメニア教会をシナゴーグと勘違いしている人たちがとても多いようだ。 

    もちろん今の市井の人々には何の縁もない施設であるため無理もない。またユダヤ人とアルメニア人とでは、信条や先祖のやってきた場所は違うものの、ともに民族意識が強く、ビジネスマインドに富む商業民族であること、植民地時代には政府当局との繋がりが深く、支配者にごく近い位置で儲けてきた人々であるなど、似ている部分がかなり多い。加えてインドの都市部では往々にして居住地域も重なっていることが多かったこともあるがゆえの勘違いということもあるのかもしれない。

    そもそもコールカーターのこのエリアは、植民地期には白人地区でもなく、かといって『ネイティヴ』の人々のエリアでもない、つまり当時の言い方にならえばWhiteではなく、かといってBlackでもないGreyな地区ということであったらしい。 

    この街にやってきた最初のユダヤ移民の名前や出自ははっきりわかっているようだ。その人物がシャローム・コーヘンという人物で、現在のシリアのアレッポ出身であることに象徴されるように、コールカーターのユダヤ系移民の大半はいわゆるバグダーディー・ジューと呼ばれる人々である。 

    インドのユダヤ人にはおおまかに分けて三つのグループに分かれる。2世紀にパレスチナの故地を離れ、そしてインドに渡ってきたということになっているベネ・イズラエルというインド化の度合いが非常に高い人々、そしてコーチン・ジューと称されるより高い職能集団ならびに商業コミュニティとして繁栄してきた人々。コーチンの藩王国で庇護を受けてきたグループだ。そして三つ目がバグダーディー・ジューで、主に比較的時代が下ってからアラビア地域からやってきた人々を指す。 

    『バグダーディー』と言っても、必ずしも現在のイラクのバクダードからやってきたというわけではなく、アラビアのアデン、アレッポ、ダマスカスその他さまざまな地域からやってきた人々が含まれる。さらには非アラブのイランやアフガニスタンからやってきたユダヤ人たちもこの範疇にあることには注意が必要だろう。 

    先に挙げた三つのカテゴリーの人々以外にも第二次大戦時には欧州からインドにやってきた人々もあった。ナチス勢力下での弾圧から逃れるため渡ってきたユダヤ人たちである。 

    他にもミゾラムには『ユダヤ教徒』を自称するモンゴロイド系のコミュニティが存在し、ユダヤの『ロスト・トライブ』のひとつではないか?という説もあるのだが、出自が深い謎に包まれているため、通常は在インドのユダヤ人の範疇に含まれないようだ。 

    <続く>