ダルバンガーのV君

昨年のことだが、デリーの国際線ターミナルビルで、そろそろ東京行きのチェックインカウンターに並ぼうとしていたときのこと、あるインド人青年が声をかけてきた。   

『チェックインはどうすればいいんですか?』との質問。ちょうど私と同じフライトなので、一緒に並ぶことにする。日本に来て何をするのかと問えば、『レストランでコックとして働く』とのこと。東京都内のあるインド料理屋での就業が決まっているのだそうだ。   

現在26歳のV君は、ビハール州北部ダルバンガーの出身。これまで州都パトナーの大手ホテルのレストランの調理の仕事をしていたのだそうだ。   

彼はこの日の朝早くにデリー到着の鉄道にて、生まれて初めてインドの首都に降り立ったとのこと。そしてもちろん、飛行機に乗るのも初めての体験で、いかにも緊張した表情である。   

セキュリティチェックの際にスタンプを押されるため、チェックインカウンターに置かれている紙の手荷物タグを付ける必要があること、また出国カードを一枚取って記入しなくてはならないことなどを教えてあげるが、V君は英語について会話はもちろん読み書きもできない。仕方なく全て書いてあげてサインだけさせる。   

V君には兄が3人、姉が2人で皆結婚している。まだ独身の彼は末っ子で両親から特に可愛がられて育ったらしい。『インドを出る前にオヤジに電話しなくちゃ』という彼は、あたりを見渡すがSTDブースらしきものは見当たらない。   

私の携帯電話(インドのvodafone)を使わせる。『同じフライトで行く日本の友人が出来た。その人から電話借りてかけているんだ。東京の空港ではレストランの主人が迎えに来ている。東京までは今隣にいる日本の友人と一緒だから安心だ。心配しないでいいよ、オヤジ・・・』   

しばらく携帯で会話していた彼が『父が話をしたいそうです』と私に携帯電話を差し出す。家族の中から初めて海外出稼ぎを送り出すのだという父親の心配そうな様子が伝わってきた。とりあえず『ええ、息子さんと同じフライトで東京まで行きます。直行便ですから乗り換えなしで東京に到着します。私が一緒ですから、どうかご心配なく』と言っておく。 

彼自身も電話の向こうの父親も、まだ見ぬ異国日本に行くという不安な中、コトバが通じる日本人が一緒ということが心強いようだ。待合ロビーの売店で雑誌類を物色していると、彼は菓子やジュースなどを買ってきてくれた。   

そんなわけで飛行機に搭乗するなり、V君は客室乗務員に頼んで私の横に座りたいと頼んでいる。初めての飛行機で離れているのが不安らしい。 

出発の準備が整い、飛行機は滑走路へと進む。客室乗務員すべてが着席してエンジンが唸りを上げてフル回転し始める。機体はどんどんスピードを上げていき、やがてフワリと宙に浮かんで一気に高度を上げていく。窓際に座ったV君はその間とても無口で強張った表情をしており、まばたきもせず眼も据わっている。相当緊張しているようだ。 

しばらくしてから出てきた機内食を食べてビールを飲むと眠くなってきた。故郷のこと、家族のこと、パトナーでの仕事のことなどいろいろ話をしてくれるV君には申し訳ないのだが、そのまま寝入ってしまう。目が覚めると成田到着まであと2時間くらい。ちょうど簡単な朝食が出てくるところであった。   

機内で出入国カード(外国人のみ)と税関申告書が配られる。V君はまたこれがわからないのでこちらが書いて、さきほどと同じようにサインだけさせる。 

税関申告書には所持金についての部分もあった。人のお金について尋ねるのは気が進まないが仕方ないので質問すると320だという。『320ドルか、外国に行くのには少ないね』と言うと『いや320ルピーです』と言うのでビックリ。昨夜、デリーの待合ロビーで買ってきてくれたジュースや菓子類だけでも所持金の三分の一くらい使ってしまったのではないだろうか。

成田空港に到着。到着が少し遅れているし、誰も空港に迎えに来ていないと心配なので、今度は日本の携帯を取り出して彼の雇用主の番号にかけてみた。呼び出し音が鳴るとすぐにインド人が出た。すでに出口で待っているとのことなので、電話をV君に代わる。 

『それじゃ、仕事がんばって』

「デリーから一緒に来るこができて良かったです。いつかぜひ私のレストランに来てください」

荷物が出てくるターンテーブルの前でV君と別れた。 

あれからしばらく経つが、彼は元気で働いているだろうか。

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