受難の地

5年ほど前に、『デリーの古城で』と題して、第二次大戦中に当時は英領であった各地に在住していた日本の民間人たちがインドまで連行されたうえで抑留生活を送ったことについて書かれた以下の書籍について取り上げてみた。 

書名:インドの酷熱砂漠に日本人収容所があった

著者:峰 敏朗

出版社:朝日ソノラマ

ISBN-13: 978-4257034384   

収容施設は当初デリーのプラーナー・キラーにあり、後にラージャスターンのデーウリーに移されている。

今年8月中旬、産経新聞のウェブサイトにて、当事の日本人抑留にかかわる次の記事を見かけた。ここで取り上げられている『収容所』とは、ラージャスターンのデーウリーのことである。

「憎めない人たちだった」インド西部の日本人収容所を訪ねて (産経ニュース)

インドにおける日本の民間人抑留の事実については以下のウェブサイトをご覧いただきたい。

インドに抑留された日本人民間抑留者 (日本の現代史と戦争責任についてのホームページ)

また以下のサイトならびにPDFファイルにも関連する記述がある。

インド抑留中の川内先生の記憶 (川内光治先生の記憶)

シンガポールにおける日本人社会と学校教育の歴史(福岡大学研究推進部)

『日本人被収容者』の中には、日本人たちが居住していたマレー半島などで結婚した現地の人々で日本国籍を取得していたケースも含まれる。また当時日本の支配下にあった台湾や韓半島の人々も少なからず含まれていることについて、当事の世の中を考えるうえで留意が必要だ。

またデーウリーの収容所は、日本人被抑留者たちが去った後、インドがイギリスから独立を得た後も『活用』されている。1962年の中印紛争により、中国とインドの敵対関係が鮮明になった時代である。

最盛期には華人人口2万人を擁したコールカーターを中心にインド全国で5万人もの華人が暮らしていたとされるが、これにともない『敵国人』として逮捕状もなしに拘束されて収容所送りになった人は少なくない。

祖国とインドの関係の険悪化による不安、インド政府や国民による華人への敵対姿勢等により、経済活動や市民生活への支障をきたすことから、その後多くの華人たちが海外に新天地を求めることとなった。

冒頭で取り上げた産経ニュースの中にあるとおり、現在この施設は国や公共の重要施設等の警備を担当するCISF (Central Industrial Security Force)の訓練施設となっているため、ここを一般人が見学することはできないが、日印交流史の中でそういう厳しい時代もあったということは、今の時代を生きる私たちも記憶しておくべきだろう。

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