合従連衡の背後にあるもの

半月以上前のニュースになるが、これを目にしたときに思ったこと。

こういう報道があると、すぐに「同じシーア派のイランとの☓☓☓」というような話が出るのにうんざりする。

イランは日本で喧伝されているような感じの宗教的な国ではないし、ましてや原理主義の国でもない。人々とモスクの関係性は、言ってみれば日本の私たちとお寺や神社みたいなもの・・・と書くと、イランのことを知らなければ「ええっ!?」と言われるかもしれないが。広範囲にリベラルなイランの人たちと宗教施設との関係は、タイやミャンマーの人たちとお寺のような距離ですらない。SF的な仮定で、日本の仏教系新興宗教団体傘下にある政党が独裁政権を樹立して人々を縛ったら、私たちの国が「仏教版イラン」になる、そんなイメージでよいかと私は思う。その意味ではイランは特殊な国だ。

また中東地域での長年のシーア派とスンナ派の対立というのもかなり虚構で、そもそもイランだってシーア派が多数となったのは16世紀のサファヴィー朝以降の話。もともとはシーア派の地域であったことはたぶん日本の社会科の教科書だって出ていると思う。教義で対立するわけではなく、人々を都合で色分けする為政者により対立が起きるのだ。

フーシ派とイランの関係性、またヒズボラとイランの関係性だって、シーア派という信仰が絆となっているわけではなくて、地政学上の、また地域の様々な勢力関係による繋がりから、結果としてそういう形になっているはずなのに、「信仰が同じだから仲間グループ」としてしまっては、まったくの思考停止というか、本質を見誤ってしまうことは間違いないだろう。

これはインドでも同じ。宗教的右翼のBJPと、「地域的に人口分布的にもたまたまヒンドゥーである」マラーター民族主義のシヴ・セーナーがガッチリ協力していたのは、ヒンドゥーという信仰の共通点からではない。

だから先のマハーラーシュトラ州議会選挙で選挙協力して勝つも、組閣で揉めて協力関係瓦解。そして選挙戦では敵同士で、思想や主義では相容れないはずの世俗派で中道左派の国民会議派、ナショナリスト会議派とまさかの連立を組んで、今は仲良く政局運営している。つまり「ヒンドゥー」そして「右翼」という共通項は、協力関係の絆ではなかった。本質は実務的に協働できる関係性にあるか、という冷徹な判断なのだ。そこには観念的な信仰や情緒的な要素など、ほとんど入り込む余地はない。日本における自民党と公明党の関係だってそうだろう。戦略的連携だ。

「同じシーア派同士だから手を結ぶ」という単純な結論付けや「かたやスンナ派、かたやシーア派だから対立する」という誘導のような予定調和的な言い草は、大昔の「社会主義国同士は連帯する同志なので戦争はしない」とか「メンドリが時を告げると天下は乱れる」という幻想とまったく同じだ。メディアはときにびっくりするほどズボラでテキトーなものである。

フーシ派がサウジアラムコ石油施設を攻撃、火災発生 死傷者なし (REUTERS)

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です


上の計算式の答えを入力してください