鉄道駅は情感に満ちた劇場空間

鉄道駅で車両の入れ替えなどで大活躍するディーゼル機関車。1980年代後半ごろは、そうした役目を蒸気機関車が担うことも多かった。

スタンバイしてから動けるようになるまでのウォーミングアップ時間はとても長く、機関士だけでは動かせず機関助手と常にコンビでないと使えない。また機関車自体がやたらと重厚長大で、いろいろ面倒なことが多かったのだろう。だがその頃は駅のホームでそれが動くのを目にすること自体がたいへんなエンターテイメントでもあった。少なくともすでにSLを見かける機会がまず無い国からやってきた者にとっては。

鉄道駅というものは、大きな駅だと全国各地から数々の列車の往来が旅情溢れる眺めだが、日に数回しか停車のない小さなローカル駅だと、これまた鄙びた感じとか郷愁とか、異なる味わいがあって良い。

バススタンドだと、大きくても小さくても、ワサワサしているだけで、何の味わいもない。空港だとそういうせせこましい感じはない(そうでない空港もあるけど)ものの、乗り物自体が待合室から離れているためもあってか、鉄道のようなヒューマンなムードはあまりない。

そう、鉄道駅の良さは、そういう人間らしい情感に満ちた空間であること。

汽笛が鳴り、ガタンという音とともに少しずつ動き始める車両。窓越しにホームと車内で指を絡ませあっている男女の瞳に諦めの色が灯り、それでもホームにいる女性はゆっくりと歩きながら窓の中からじっと見つめている男性に何事か言葉を継いでいる。

列車が速度を徐々に上げていと、互いの手を離しながらも、まだ何か伝えたいことがあるかのように歩みを早めながら、ふたりの会話はしばらく続いていく、鉄道駅でそういう光景が展開していると、それを間近に目にするこちらもジ〜ンとくる。鉄道駅には劇場空間的な趣があるのだ。

鉄道車両の眺め

鉄道事故の際の救援列車
鉄道事故の際の救援列車
脱線車両等を路線から取り除くためのクレーン車両

過日、エルナクラムJN駅で見かけた救援車両といい、この日トリスール駅に停車していた脱線処理車両といい、近くで大きな事故でもあったのだろうか?と思ってしまう。

コロナのデルタ株で多くの死者が出ていた時期には、マレーシア、シンガポール方面並びにガルフ方面からそれぞれの政府の協力により医療酸素ボンベを大量に調達したインドは、ムンバイ及びチェンナイから大量の貨物列車を動員して全土に輸送している様子がニュースになっていた。

私が直に目にしたものでも2005年12月にインドネシアを震源とする津波被害がインド東海岸に及んだ際、緊急に仕立てたと思われる援助物資を届ける貨物車がしじゅう走っていた。

また80年代後半にインドがスリランカ内戦に介入した際、南インドで鉄道に乗っていると無蓋車両の延々と続く車列に、戦車等の軍用車両を運搬する貨物車が多く、ギョっとしたことを覚えている。このときの介入が原因で当時のLTTEから恨みを買い、同じくLTTEにシンパシーを抱く一部のタミル人からの協力を得た手路グループにより、1991年5月に総選挙のためタミルナードゥで遊説中だったラジーヴ・ガーンディーが暗殺されてしまったのであるが。

鉄道車両の眺めには、そのときどきの大きな出来事や世相が大きく反映されることがある。

昔のケーララ州の眺め

昔々訪れたときのケーララ州の街の商業地では、下階はお店で上階は住居のこんな感じの低層家屋が延々と続く光景が続いていた。

これが連なっていた地域で、こうした建物がほとんどなくなっているので、おそらく90年代から2010年代くらいの間に次々と建て変わってしまったのだろう。こちらの写真はトリスールで撮影したもの。

こうした変化はケーララ州に限ったことではなく、どこの地域でも伝統的な街並みというものはかなり減った。1990年代に入るまで、こうした昔ながらの眺めが健在であったのは長年続いていた低成長がゆえ。経済が調子良く回るようになってからは、街なかの様子が大きく変わっていくのは当然のことである。

STD/ISDブース

トリスール駅構内で、いつまで稼働していたのか知らないが、STD/ISDのブースだけが残っていた。かつては、こうしたブースはどこに行っても普遍的に見られ、人々の生活インフラであったものだが、携帯電話の普及と比例して姿を消していった。今はプリペイド契約でもインド国内どこにかけても通話無料だし、WhatsAppその他の通話アプリで国際通話も無料の時代となっては信じ難いような思いがするが、通話時間とともに料金が上がっていくメーターを目にしながら相手と話をしていたものだ。

その頃はインターネットも草創期であったため、ネット屋もあちこちに出現していた。当時はそれで「便利になったものだ」と感心していたものだが、地域や店によっては通信速度があまりに遅すぎて、メールのチェックをするだけでもひと苦労だったりもした。

宿泊先のすぐ近くにあるとも限らず、電気事情の良くない地域では、せっかく出向いても停電で利用できないということもしばしばあった。

今ではそれらのことが、夕飯後に宿のベッドの上に寝ころんだままで、それ以上の事柄がいろいろ出来てしまうのだから、ありがたいものだ。飛行機、鉄道やバスの予約にしてもそうだし、次の宿泊地のホテル予約も同様。日記類もGoogle Documentなどを利用するようになったので、前夜に宿の部屋でノートPCで書き綴った内容の続きを昼間の列車内でスマホで打ち込んだりもできる。

今後10年後、15年後は更に大きく発展して、どんな環境になっているのか、今からはとても想像がつかない。

鉄道駅の有料待合室

有料待合室内

近年のインドの主要駅では、従前の待合室以外にホテル運営会社などが委託を受けて切り盛りする有料待合室も用意されていることが多い。こうしたものが導入される前も上級クラスの乗客用とそれ以外の乗客用で分かれていたのと同じように、上のクラスを利用する乗客たちが阿鼻叫喚の環境を避けようとする、いわば選別・差別化の意味合いが強い。

選別・差別化というと、何かネガティブな印象を与えるかもしれないが、90年代以降のインドのおいては、まさにこの選別/差別化が広範囲に可能となったことから旅行をはじめとするレジャー産業が急成長することとなった。

例えば宿ひとつとってもお金さえ払えば快適かつ清潔で、ミドルクラスの人たちが家族を同伴しても安心できる宿泊施設は、ちょっとマイナーなところになると、とても少なかったし、移動手段としても長距離を安全かつ快適に移動できる自家用車の普及はまだ先の話だった。道路にしてみても、狭かった国道でトラックやバスなどがチキンレースを展開している状態で、あまり家族で遠出をしようという気にはなりにくかった。

1980年代、「一億総中流」などと言われた日本で、幸か不幸か、一家の稼ぎ手がインド転勤となり何年間か過ごすことになったとしても、たまの長期休暇で一時帰国するとか、シンガポールやバンコクに保養に行くことはあっても、インド国内をせっせと旅行する気にはなれなかったのと同じだ。

90年代に入るとインド人による自国内での旅行がブームとなり、その後マーケットは急拡大を続けて現在の状態となった。1990年代に入るあたりまでは、インド各地の観光地等で目立つのは外国人であって、インド人観光客というのはわずかなものであった。それが今では各地の観光客の主体はインド人であって、外国人はその中に細々と存在するに過ぎない。外国人訪問客が減ったわけではなく、インドの人々がこぞって旅行するようになったからだ。

その背景には宿泊施設が広範囲で多様化していき、それまではあまり脚光を浴びなかった小さな観光地にも利用しやすく安心なホテルが増えるとともに、インドのマーケットに多数乗り込んできた外国の自動車メーカーによる様々なモデルが選択できるようになった。次第に道路事情も改善していき、人々が家族や仲間を連れて休暇時期に各地を訪問してみたくなる環境が揃ってきたのだ。

こうした有料待合室もそうしたインフラ的なもののひとつ。本日利用してみた待合室はあんまりパッとしないが、他ではちょっとしたホテルのロビーみたいになっているところもある。利用料金は1時間あたり30Rs。

たとえば午前3時半に到着して、そのまま夜明かししたいような場合、深いソファでしばらくグ〜ッとひと寝入りするのもいいかもしれないし、深夜あたりに出発する列車を利用するのだが、それまで身の置き場がないということでも、夕方以降、こんなところで仮眠しながら時間まで待つのもいいかもしれない。