昨年夏に取り上げたデリー初にして唯一の女性オート・リクシャーのドライバー、スニーター・チョードリーさん。現在も元気に日々運転を続けているそうだ。昨年12月に行なわれたデリーの州議会議員選挙に立候補もしたということだ。(残念ながら結果は落選)
インドの男社会の中で一人頑張っているだけあり、実にバイタリティに満ちた人なのだろう。デリーでたまたま呼び止めたオートの運転手が彼女だったら、ぜひ話をうかがいたいものである。
NEC インドでIT研修
NECの新入社員たちがインドへ。ただし、のんびり夏休み…というわけではなく、研修が目的。ソフト開発部門に配属された人が対象で期間は1カ月とのこと。IT技術者たちの供給元としてだけではなく、日本人社員教育の場としての価値も認められつつあるということだろうか。言うまでもなく、同社は日本を代表する企業のひとつでもあることから、こうした動きが他社にも広まっていくことも考えられるだろう。
遠きに想い ポルトガル 3
ラテンアメリカには、地元の個性を保ちながら旧宗主国の欧州文化を色濃く残している地域があるが、ゴアは中南米の国ぐにとは全く事情が異なる。
中南米の独立のキモは、宗主国から渡ってきた植民者たちが本国の干渉を嫌い、完全な自治を勝ち取ることにあった。移民が多い国(アルゼンチン、チリ等)、土着インディヘナや混血人が多い国(ペルー、ボリヴィア等)もあるが、支配的な地位にあるのはやはりスペイン系民族だ。これらの背景には、彼らの父祖の国からもちこまれた文化の強さがある。
ポルトガル植民地初期にえた地域「Old
Conquest」はともかく、時代が下ってから獲得した「New
Conquest」ではヒンドゥーから改宗しない者も多かった。土着信仰と混ざり合いながら、カトリックが浸透した中南米インディヘナ社会とは、民族アイデンティティと旧宗主国文化のつながりの深さが違う。
植民地時代、ゴア政府で働いていた役人たちは、本人が希望さえすればモザンビークなどのポルトガル領や、本国での職を約束されたという。(もちろん、政府職員といっても上から下まで様ざま、どのあたりの層までこの恩恵を受けることができたのかまでは知らない。)
ゴア返還時、ポルトガル本国から渡ってきた人びとがどのくらい暮らしていたのだろうか。たまたま転勤で短期間滞在することになった者、事業を起こして根を下ろした者、幾世代にもわたって暮らし続けたポルトガル人家族もいたことだろう。ポルトガル化したゴア人エリート層、ゴア化したポルトガル人たち…。いつか機会があれば調べてみたい。
遠きに想い ポルトガル 2
ゴアに起こったのは世代交代だけではない。ゴアの人びとが州外へ、州外の人びとがゴアへ。外国領からインド領に編入され、それまで両者を隔てていた国籍、市民権といった障壁が取り除かれる。相互に人びとが流出・流入する度合いは、ポルトガル時代に較べてとんでもなく多くなったことだろう。
それまでの行政の中心はリスボンだったが、復帰後はニューデリーとなった。97年に中国に返還された香港。「一国二制度」などという妙なことを言っていたが、ゴアを見ていると、どのようなプロセスで統合されていくのかわかる。もちろん中国の場合、本土から香港への移民は現在のところ厳しくコントロールされているとはいえ、同じ「中央」から支配される以上、時間の経過とともにやがては同化されてしまうものであろう。
ゴアは復帰当初、同じくポルトガル領であったダマン&ディーウとともに中央政府の直轄地として本土に組み込まれたが、1987年のゴア州成立へと至る以前にはマハーラーシュトラ州と合併させようという動きもあった。
ゴア州政府を構えるようになっても、結局は中央政府の下での行政、ゴア人ひいてはカトリック勢力がすべて自力更生でやっていくということにはなり得なかった。
遠きに想い ポルトガル 1
2003年夏、ゴアを再訪した。前回来たのは89年だったので、実に14年ぶりということになる。同じインドながら旧英領や藩王国だった他地域とは、ずいぶん違う。建物、人びとの装い、街並みが醸し出す独特の空気があった。当時、宿で一緒になったブラジル人が、「パナジはすべてがポルトガル風で、まるで故郷にいるような気になる」とはしゃいでいたのを思い出す。
だが久々のゴアは、その印象がずいぶん薄らいでいる気がした。なぜだろうか。
89年といえば、1961年12月のインド軍による「オペレーション・ヴィジャイ」と呼ばれた軍事作戦による「ゴア解放」から28年。今回はそれからさらに14年経過、ポルトガル時代が1.5倍遠くなっているのである。
以前は植民地政府による教育を受けた世代はまだ働き盛りで、社会のそれぞれの分野で活躍していた。今ではそういう人びとはすでに引退してしまっているはずである。
ゴア解放時、高校卒業した人が17〜19歳くらいと見積もって、それから42年…ポルトガル語世代で一番若い人たちはすでに60歳くらいになっているのだ。インドでは公務員の定年は55才。民間でも50代に入れば、老後は目前という時期である。
インドへの返還は、英語時代の始まりでもある。連邦直轄地(1987年に州)になったゴアは、中央政府のコントロールの元、インド式ひいては英国から受け継いだ流れの上に立った社会制度を導入した。
教育やビジネスの公言語がポルトガル語から英語へ、法体系がポルトガル式から英国式へ移行。当然のことながら、メディアや出版活動を含めたインテレクチュアルな部分もがポルトガル式から英国式に移行してしまうため、ポルトガル文化やカトリック文化がそれまで維持してきた権威が一気に吹き飛んでしまったことになる。他の地域が独立を境に英国から統治システムを「引き継いだ」のとはかなり事情が違うように思う。
もちろん、ある日突然、言語を切り替えることはできない。ポルトガル語新聞の発行は、インドへの復帰後もしばらく続いていたことだろう。ポルトガル本国から送られてくる書籍、ゴアで出版されたものなど、ポルトガル語の本が書店に並んでいたはずだ。
ただ、言葉は単に意思伝達手段ではなく、言語の背景にある固有の文化をも伴うものである。1961年以降、ポルトガル語時代から英語時代へ移ったことは、それ自体が一種の文化革命であったはずだ。
ボルトガル語世代と英語世代の間で、価値観のギャップもあったことだろう。ポルトガルに親族が移住したという上層階級の人びと、ポルトガルとゴアを行き来していたビジネスマンも相当数あり、留学する者も少なくなかった。インド復帰まで「ポルトガル」の名は高い文化と良質な品物、高尚な学問と富と権力の象徴であったはずだ。
ポルトガル語世代は独自の生活文化を持ちつづけていた。しかし今、彼らは社会に影響を与えるべき表舞台からは去っているのだ。
<つづく>