槍玉にあがるカリスマ

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 BJP党首のL.K. アードヴァーニー氏は、1927年(1929年とも言われる)に現在パキスタンとなっているスィンド州のカラーチーで生まれた。1947年の印・パ分離前にはカラーチーでRSS(Rashtriya Swayamsewak Sangh) のオーガナイザーとして活躍していた。
 現在のBJPの前身にあたるジャナ・サングが結成されたときからの幹部でもあり、筋金入りの右翼政治家だ。サフラン勢力の重鎮であるとともに、1992年のバーブリー・マスジッド破壊事件等々、様々な大衆政治活動をリードしてきた彼は、常にタカ派の硬骨漢として知られている。
 そんな彼のさきの外遊先での発言が大きな波紋を呼んでいる。訪問先のパキスタンで、同国で建国の父として尊敬を集めながらも、インドでは母国を分離の悲劇へと導いた張本人と認識されているモハンマド・アリー・ジンナーについて、「世俗主義者」「歴史を造った人」などと持ち上げた。極右ヒンドゥー勢力のリーダーの訪パは「成功であった」とされたのもつかのま、帰国した彼を待ち受けていたのはヒンドゥー至上主義団体RSSを中心とした、いわゆるサング・パリワール(以下パリワール)内から噴出する非難の集中砲火であった。
 近年では同じパリワール内にあっても、RSS、VHP(Vishwa Hindu Parishad)といったイデオロギーをリードする団体と、政権党となってから穏健化した(かのように見えた)B JPとの間ではアヨーディヤー問題その他をめぐるスタンスの違いから不協和音が伝えられており、野党に転落してからは党首のアードヴァーニーと元首相のヴァジペイーに対し公然と引退を求める声さえ上がっていた。
 そこにきてこの発言。パリワール内のBJP以外の団体からは「パキスタンが世俗国家だったら、なぜ彼はスィンドからこちらに移住したのだ」「パキスタン人アードヴァーニー」等々の発言が繰り返されているのに対し、あるムスリム団体は彼を擁護する姿勢を表明し、左翼陣営は「彼の発言はまあいいんじゃないか。ただジンナーがわが国を分離させたことについては触れるべきであった」と一定の理解を示す動きがあり、あたかもアードヴァーニー氏ひいてはBJPが一夜にして右翼陣営から鞍替えしたかのような錯覚をおぼえるほどだ。
 今回の一連の動きをうけて、辞任を表明しているアードヴァーニー氏だが、筋金入りの闘士にして老獪な政治家である彼の真意はいったい何であったのか。訪問先でのリップ・サービス、強硬派のイメージを払拭、新たな支持基盤の掘り起こし等々、それなりの計算があったのだろう。
 だが今回の騒ぎによる右翼陣営の混乱、氏の後継問題など何ら利するところはなく、彼の長い政治生活の中で最大の失言にして深刻な誤算であったようにしか思えない。今年11月に78歳(あるいは76歳)になる彼にそう長い時間は残されていない。
 どうも不可解な出来事ではあるが、アードヴァーニー氏もやはり人間。右翼陣営のカリスマ的な指導者も「老いた」ということなのだろうか。
 史実をめぐる歴史認識というものは、国境をまたげば百八十度違うということは珍しくないが、パキスタンとの外交関係そのものだけではなく、インド国内的にも「パキスタン」というカードはいかにデリケートで厄介なものであることがよくわかる。
 ともあれ今回の騒動がどう進展するのか、目が離せないところである。
L K Advani resigns as BJP President (OUTLOOK)
Advani refuses to reconsider resignation (Deccan Herald)

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