いつもその場所にあの人が・・・

 どこにあってもおよそ人々の一日の活動なんてそう大きく変わらない。朝起きて食事、学校や仕事に出かけて夕方に自宅に戻るというものだ。もちろん夜学校に通ったり働いていたりする人もあれば、もっぱら自宅で仕事するという人、あるいは営業でいつも各地を飛び歩いている人と色々あるのだが、それぞれほぼ決まった時間に各々のエリアで活動しているといってほぼ差し支えないだろう。
 そんなわけでどこか特定の場所に腰を落ち着けて周囲を眺めてみると、自宅から出るときにいつもあの人も道路反対側の家から出てくるとか、ここの道を歩いているといつもこの人とすれ違うとかなどといったことに間もなく気がつくようになる。
 たまにその人の姿を見かけなくても特段気にかけることもないのだが、すれ違う場所が違うと『今日は少し早く出たから余裕だな』と感じることもあれば、『こんなところで会うなんて今日は遅刻しそうだ!』と焦ったりすることもあるのだが、おそらく向こうもそんなことを思っているのではないだろうか。
 電車では降りる駅の出口や乗換口の関係もあり、毎日同じ車両の同じ扉とはいわずとも、だいたい同じあたりで乗車する人が多いだろう。その結果、いつものオジサンが同じ新聞を片手に立っていたり、しばしば見かけるキレイな女性が前の席に座っていたりする。
 朝の通学・通勤時だけではない。昼どきに食事に出たときも、同じ店のおなじテーブルあたりにいつも人たちがいたりするし、ほぼ時間が正確に決まっている朝に較べて夕方の帰りは人それぞれ時間が毎日同じということはあまりないが、よく見かける姿はあるだろう。この類の顔見知り(?)同士の特徴として、日々顔を合わせていながらも挨拶を交わす関係にはなりにくいし、もちろん声を交わすこともない。やがてお互いの居住地、職場、仕事の時間帯などが変わって、そういう人と日々すれ違っていたことさえ忘れ去ってしまう。
 まったく関係の無い者同士の日々の習慣的な活動の中での接点がたまたま重なっているため『また今日もあの人が』ということになるのだろう。
 だがこうしたルーティーンは決して長い時間をかけて出来上がるものではないように思う。日々イレギュラーな出来事が多い旅行中であってもそうした『習慣化』現象はそこここに見ることができる。宿のグラウンドフロアーのカフェで、昨日窓際の席で朝食を取っていたドイツ人カップルは今日もそこでトーストを食べていたりするし、昨夕の同じころ屋上で椅子に腰掛けてビールを飲みながら本をめくっていたイギリス人男性は今夕も同じようにそこにいたりする。私自身も先客がいなければ食事に着くときの席はだいたい『前回と同じ』ことが多い。
 なんだか動物の『縄張り』のようだなあと思うが、ヒトもまたこの世の中に生きる数多くの生き物のなかの一部なのだから、意識せずとも日々の何気ない行為の中にもささやかなテリトリーに関する本能のようなものが自然と働いているのかもしれない。

暇中楽あり

ヒムサーガル・エクスプレス
 世界有数の鉄道大国インドでやたらと長距離を走る列車は珍しくない。デリーを夜10時半に出て終点プーリーに翌々日の早朝5時半に着くプルショッタム・エクスプレス、デリーを午後9時前に出て三晩過ごした後に早朝4時にアッサムのディブルーガルに到着するブラフマプトラ・メールのように足かけ4日かかるものなど、さすが大きな国土にワイドな鉄路のネットワークを広げている国だけある。
 ヒマな車内で、膝元に広げた活字に目を落としていれば車内の振動で目が疲れて眠くなり、車窓を眺めていても似たような風景が延々と続いているので飽きてしまうものだ。それでも移動する距離が長ければ長いほど、ふと気がつくと周囲の風景が一変していたり、途中から乗り込んでくる人々が手にする新聞の文字、彼らの話すコトバが違ってくること、駅のホームで売られるスナック類が違うものになっていたりすることなどに、この国の大きさを感じたりするものだ。陸路の長旅は退屈だけれども楽しい。
 その中でも最も長い距離を行く汽車といえばヒムサーガル・エクスプレス。ジャンムー・ターウィーからカニヤクマリまでの3751キロを73時間半かけて走る。月曜日の深夜近くに出発して木曜日の深夜過ぎつまり金曜日に日付が変わってから到着するため足かけ5日かかることになる。逆方向のカニヤクマリからジャンムー・ターウィーへは金曜日午後2時過ぎに出発して月曜日の午後2時前に着く4日間の汽車旅である。
 距離はもちろんのこと、J&K、パンジャーブ、ハリヤナー、デリー、ウッタル・プラデーシュ、マディヤ・プラデーシュ、アーンドラ・プラデーシュ、タミル・ナードゥ、ケーララと九つの州をまたいで亜大陸を縦断する。これほど沿線の景色、気候、人々や風物が大きく様変わりする列車は世界でもあまり例がないはずだ。北インドの酷寒期に空調無しのクラスで起点から終点まで利用するには、冬物から夏物までの衣類を持参する必要がある。
 
 今では時間がもったいないので長距離の移動には飛行機を利用する。そのためこんな長い距離の汽車に乗る機会はなくなった。でも入れかわり立ちかわり乗り込んでくる他の乗客たちとおしゃべりしたり、大きな駅に停車するたびに繰り返される喧騒や物売りの様子を傍観していたりしながら、有り余る暇を無為に過ごす余裕(?)が欲しいものだと時に思う。
 

ICパスポート(2)

 ところでインドでは、外圧よりもむしろ国内的な理由からパスポートの電子化急いでいるようだ。テロリストや犯罪者たちによる変造・偽造パスポートによる入国を防ぐことが、インドで『E-PASSPORT』と呼ばれる新型パスポートの導入の準備が急ピッチで進める主要な理由のひとつだ。 電子チップに記録されたデータにより、出入国地点でそれをチェックする設備が備え付けられている限りは、インドはもちろん他国でも不正な旅券を行使しようとした者を摘発することが容易になることが期待されている。もちろん入国審査の迅速化にも有効であることから、近年とみに増加しているインド発着の空の旅客の出入国管理の効率化にも役立つ。
 インドでは2007年から電子パスポート導入の試行期間として、政治家や外交官といった公用で外国を訪問する人たちのパスポートを電子化する予定。この中で技術的な改良や検討を加えるとともに、新しいタイプ旅券発行に対応できる体制を整えたうえで、ある時期を境にその後更新や新規発行がなされるものはすべて『E-PASSPORT』化されるのだろう。今年6月中旬の報道では『2013年までに』電子化を完了させる予定らしい。もちろんそれまでにE-PASSPORTを市民に発行する・・・といった悠長なものではなく、現存のものも新規発行のものからも旧タイプの旅券を排除し、すべて新しいタイプのものと入れ替えるということである。
 ただし技術的な問題もさることながら、ことインドのような国にとっては費用の問題も頭痛の種である。現行の旅券の場合は作成におよそ1500ルピーかかるというが、電子化するにあたり埋め込まれるチップひとつの価格が500ルピー近い。これらは旅券取得者に転嫁できるにしても、電子パスポートを作るための設備、出入国チェックその他必要な場所で電子情報の読み取り確認ができる装置等々の導入にあたっての初期費用だけでも相当なものだろう。もちろん一連の動きを新たなビジネスチャンスとして、これらに関する利権をめぐって水面下ではかなり前からいろいろな動きがあるはずだ。
 進んでいる部分は確かに目を見張るものがある反面、遅れているところについては目を覆いたくなるような状態であることが珍しくないインド。せっかく電子化されてもパスポート申請を取り扱う部署の腐敗や怠慢から不正な旅券の取得が発生したりすることもあるかもしれない。それにクレジットカード同様、新型パスポートの偽造だって不可能ではないそうだ。技術の進歩の権力側の専売特許ではなく、それに対抗する側もさらに腕を上げている。こうしている今もどこかで悪意を抱く人々が偽造・変造IC旅券の作製技術の確立に日夜取り組んでいることだろう。
 こうしている今も世界中で数え切れないほど多くの人々が国境を越えて移動を続けている。その中で旅券や査証などの偽造や変造およびその行使を行なう人はごくごくひとにぎりの例外的存在である。こうしたごくわずかな数の人たちによる不正を防止という非効率にしてあまり生産的とは思えない目的のために、世界規模で多額の資金や労力が費やされることになる。
 またICパスポートの導入について法的、政治的、人権上の問題が懸念されている部分もあるし、自国政府の権限の及ばない外国政府の手に自国民の個人データを蓄積させるのはいかがなものかという疑問も提示されている。これらすべてを含めて、善意の市民たちが払わなくてはならない代償はいかに大きなものであろうか・・・と思うのは私だけではないだろう。

Indians to have e-passports by 2013 (Times of India)
便利だけですまないIC旅券:入管法改正案の問題点 (JANJAN)

ICパスポート(1)

 タイの知人のパスポートを見せてもらった。従来どおり茶色い表紙にガルーダのイメージがプリントされたものだが、手にとってみるとなんだか別物みたいだ。
 それもそのはず、日本でいうところのICパスポートである。写真、旅券番号、有効期限その他の個人データの入ったページは紙ではなくフレキシブルなプラスチックになっており、カバーには様々な情報が記録された電子チップが埋め込まれている。電子化の際にパスポートの素材も全面的に刷新したのだろう。追記や査証欄といった他ページの紙質も大幅に向上したようだ。携帯メモ帳並みの品質の紙に氏名その他のデータが手書きで記された隣国ミャンマーの旅券とは天地の差だ。
 90年代以降、偽造や変造を防ぐために多くの国々の査証は、それ以前の大きなゴム印等でペタリと押すスタンプ式のものからカラフルなステッカー状のものに変わってきている。昔は種別、発行地、発行日、有効期限くらいしか書かれていなかったものだが、今では所持者の氏名、パスポート番号等に加えて、日本のものように顔写真まで刷り込まれるものも少なくない。やがてこうした査証にも電子記録が施されたり、旧態依然の出入国印についても不正を防止するために何らかの手立てが打たれたりするのではないだろうか。
 ご存知のとおり、日本では2006年3月下旬からICパスポートの申請を受け付けている。これ以降に旅券の取得や更新をした人は、この新しいタイプのものを持っているはずだ。パスポートの電子化は時代の流れであるにしても、もともと日本にとっては取り立ててこれを急ぐ理由もなかったので、これを早期に採用することについて政府は積極的ではなかったようだが、主にアメリカからの外圧に屈した形で導入が決まった部分が大きい。具体的にはアメリカが入国査証の相互免除継続の要件として2005年10月(その後期限を延長して2006年10月となった)までのIC旅券の導入を提示したことである。(旧来のパスポート保持者は、有効期限内はビザなしでアメリカを訪問可能)
 ちなみに現在、同国の査証免除対象国とは、アンドラ、オーストラリア、オーストリア、ベルギー、ブルネイ、デンマーク、フィンランド、フランス、ドイツ、アイスランド、アイルランド、イタリア、日本、リヒテンシュタイン、ルクセンブルグ、モナコ、オランダ、ニュージーランド、ノルウェー、ポルトガル、サンマリノ、シンガポール、スロベニア、スペイン、スウェーデン、スイス、英国の27ヶ国である。当然のことながら、これらの国々もそれぞれ複数の国々を対象に査証の相互免除の取り決めがあるわけなので、将来的にはこの27ヶ国もまた各々の相手国に同様の条件を提示することもありえよう。こうして『アメリカの意思』が世界の隅々へ浸透していくことになる。自国発の『グローバル・スタンダード』を世界に推し進めるアメリカの強い影響力を示す好例だろう。
 もちろんどの国にとっても出入国の不正行為防止には有効である。電子的に記録されている瞳の虹彩や指紋その他の旅券所持者固有の生態認証情報が、旅券の持参人当人と同一であることを容易に確認できる手段が確立すれば、他人のパスポートによる不正入国を防止する効果は期待できるかもしれない。現実に日本在住の一部の外国人たちにより、自分のパスポートを外見や年齢等が似通った人物に貸して出入国させるような大胆な事例は決して珍しくないようだ。たとえば中国のように、自国民が外国で出入国等にかかわる不正問題を多数発生させている国で、可能な限り早い時期に電子旅券を採用させるよう各国から圧力をかける必要があるだろう。
 欧米や中東産油国ではインド国籍保持者による同様の問題がありそうだが、こちらはすでに旅券の電子化のスタートラインに着いている。
IC旅券の発行を開始しました(外務省)
http://www.mofa.go.jp/mofaj/toko/passport/ic.html

達人たちのバンド 2

ラージダーニー・バンド

予約していたホテル玄関は蛇腹式のシャッターを閉めてあり休業中みたいに見えるが、門番がカギを開けてくれて中に入れてくれる。グラウンドフロアーにあるレセプションとレストランでは通常通り人々が働いていた。

この日のバンドはムンバイーでの連続爆破テロへの抗議と与党への圧力なのだとホテルの従業員は言う。うまくそれにタイミングを合わせた感じではあるが、固く閉ざされた焦点のシャッターに無造作に貼られたシヴ・セーナーのバンド呼びかけのポスターには、留保制度反対!牛殺し反対!物価上昇に対する対策を講ぜよ!などといった内容のものもあった。

テレビをつけてみると確かに国会のモンスーン・セッションのはじまりに合わせて、シヴ・セーナーの友党であるBJPの人々が鐘を鳴らすなどして政府、つまりコングレスとその連立政権に対するアピールとしてなにやら騒いでいる様子が映し出されているため、こうした動きと歩調を合わせて行なわれているものであるらしいことはわかる。

バンドの達人たるシヴ・セーナーだが、実はこの半月ほど前の7月9日に地元ムンバイーでバンドを試みて失敗している。バンドの理由が党幹部関係者の個人的な問題に起因するものであり『公共性』を欠いたものであったということもあるが、このところナラーヤン・ラーネー、ラージ・タークレーといった大物幹部が離反して党を離れていったため、求心力が大幅に低下してしまったのがその原因と言われている。

そこで『セーナーは本拠地を遠く離れたこんなところでも威力を振るうことができるのだ』と、彼らにしてみればまさに面子回復を賭けているのが今回のバンドかもしれない。

2000年11月にU.P.州から分かれて成立したウッタラーンチャル州の州都となったデヘラードゥーン。それまで学園都市として知られてきたことを除けば分割以前の旧U.P.州に数多く存在する中規模の街のひとつにしかすぎなかった。この街で前例のないトータルなバンドであったらしいが、やはり『州都』ともなれば政界への影響やパブリシティーといった面でこの類の行動を起こすメリットが出てくるのだろう。

家族をホテルの部屋に置いて出歩いてみた。暴徒に出くわしては困るのであまり遠くまで行くつもりはないのだが、そうでなくてもバスやオートは一台も走っていないので徒歩圏内しか訪れることはできない。雨が降っては晴れての蒸し暑い気候の中、喉が渇いても店がどこも開いていないので水さえ買うことができない。だから結局ホテルの近所をウロウロするほかないのである。十字路では交通警官がヒマそうに椅子に座っていた。『バンドは日中一杯。午後5時で一応終わりらしいよ』とのことだ。

静かな往来をボーッと歩いていて道路の突起でつまづいてしまった。すると靴底が三分の一ほど剥がれてしまった。こういう日なので路肩にデンと座り込んだ修理屋も見当たらない。突然壊れてしまった靴がうらめしくなる。

通りには誰もいないがガーンディー公園ではヒマつぶしにトランプに興じている中年男性たち、デート中の若い男女などの姿をチラホラ見かけた。街地中心のクロックタワーのあるあたりは大きな商業地になっている。ここでは消防車や『ダンガー・ニヤントラン』と書かれた暴徒対策の機動隊車両が駐車してある。このクルマの天井には催涙弾とその発射装置が搭載されているのが見える。治安部隊の人々がこのあたりに集結して警戒していた。

どこも歩いてみても閑散としていたが、午後4時過ぎあたりになると一部の商店が扉を開き始めていた。3年前、ムンバイー・バンドが終わるあたりで次第に街が息を吹き返していった様子を思い出す。だがインド随一の商都とは違い、デヘラードゥーンでは本日一杯休みにしたところのほうが多いらしい。のんびりした地方都市らしいところだろう。少しずつ人通りが出てくると新聞屋の姿もチラホラ見かけるようになってきた。

ウェーリー・メール(वैली मेल)というというタブロイド版ローカル紙を手にとってみると『未明から90台ほどのバイクに分乗したシヴ・セーニク(シヴ・セーナーの活動家)たちが出動。午前4時半にISBTに到着して2台のバスの窓ガラスを割るなどの破壊行為を働いた』『デヘラードゥーン市内複数の地域で公共バスを破壊』等々、今日のバンドについていろいろ書かれていた。こんな具合でシヴ・セーナーのバンドをまだ良く知らない市民たちにお得意の強烈な先制パンチで明け方前から存在感を示したわけだ。

記事には『朝から学校、郵便局その他の公私さまざま機関、会社、商店などが閉まっていた。路上の物売りたちも一部を除きことごとく姿を消していた。オートリクシャーやタクシーもいなかった。シヴ・セーナーにしてみれば彼らのバンドは大成功』ともある。

破壊行為で逮捕された活動家がポリスのクルマの中に座っている写真も掲載されていた。まだ20代に見えるが、シヴ・セーナーの創設者であり現在同党を率いる息子のウッダヴ・タークレーの後ろ盾でもあるバール・タークレーばりの細身で裾の長いクルターを着て粋がっている様子。シヴ・セーナーの連中にとってはあのBALASAHEBことタークレー親分のいでたちがたまらなく魅力的に映るのだろう。

パルタン・バーザールを抜けたところの ラーム・ラーイ・ダルバールという墓廟兼グルドワラーをしばらく見物して外に出てみると薄暗くなってきた。さきほどまでは人の行き来がまばらだった通りには、昼間まったく見かけなかったオートが何台か客待ちしている。

蒸し暑い中を歩きずくめで疲れた。ガタガタと揺られつつも腰掛けたシートに疲労が吸い込まれていくようだ。

<完>