インドの東6 コロニアルな新聞

ラングーン・タイムス
ミャンマーは、旧英領とはいえ、現在は英語による出版活動が盛んではないうえに、表現の自由に大きな制限があることもあり、最大の都市のヤンゴンであっても、本漁りはあまり期待できない。
ダウンタウン周辺で、いくつかの書店を覗いてみたが、およそ英語で書かれているものといえば、語学学習書と辞書、あるいはコンピュータ関係書籍くらいのものだろうか。
ビルマ語の書籍にしてみたところで、表紙を眺めてみて想像できる限りでは、当たり障りのない小説、学習参考書、実用書くらいしかないように思われる。
そんなわけで、特にここで本を購入するつもりはなかったのだが、各国の大使館が点在するアーロン・ロード地区の一角に、ミャンマー・ブック・センターという店があり、そこの一角にはミャンマーの歴史や社会について書かれた英文の書籍が置かれているということを聞いた。あまり期待していなかったが、ダウンタウンから遠くないこともあり、ちょっと出かけてみることにした。
タクシーで乗り付けてみたコロニアルな建物は、『書店』というよりも、ヤンゴンにおいては異例なほど大きく、かつ洒落たみやげもの屋といった風情である。そのたたずまいを目にしてガックリきたが、とりあえず建物の上階に書籍があるというので、階段を上ってみる。
3階にある書籍コーナーは、インドの鉄道の一等コンパートメントの3倍くらいのスペースしかなかったが、植民地期の出版物の復刻版が多く、なかなか興味深かった。
また独自の社会主義路線を歩み始めたころに、当時政権を担っていた社会主義計画党関係機関が机上で描いた(?)明るい将来を伝えるプロパガンダ書籍なども書棚で見かけた。
そうした中からいくつかの書籍を購入してみた。それらの中で『The Rangoon Times Christmas Number』なる題で、1912年から1925年までの英字紙ラングーン・タイムスのクリスマス版をまとめたものは、まさにそれを読んでいた人々の息吹を感じさせてくれるようであった。
この時代のラングーン、つまり現在のヤンゴンは、国そのものが英領インドに属していたことのみならず、人口の面からも『インドの街』であった。1912年においては、ビルマ族とカレン族ならびに地元の他の民族を合計した人口が10万3千であったのに対し、インド人18万8千人と、2倍近い数を占めており、マジョリテイがインド人であったのだ。ちなみに他の民族については、中国人2万3千人、イギリス人を含めた欧州人が3500人余り、アングロ・インディアンおよびアングロ・バーミーズが8300人少々、その他アルメニア人とユダヤ人が少々といった具合だ。
さて、この新聞のクリスマス版は、在住のイギリス人社会における出来事や彼らを中心とするビルマの発展と進化について、その年に起きたことを回顧するものとなっている。デルタ地帯の河下り旅行記、行政や教育に関する話題、狩猟やポロにサッカーといったスポーツ、大きな鉄道事故に洪水といった惨事、政府や軍などの式典、イギリス人富裕層の見事な屋敷の写真その他いろんな記事が掲載されている。
この時代の広告を眺めるのもなかなか面白い。この時代は銃の規制などなかったのだろうか、洋服や靴のものと並んで広告が出ている。今も世界各地で親しまれているホーリックスのアドバタイズメントは掲載されているが、当時も同じ味だったのだろうか。イギリス本国はもちろんのこと、インドを本拠地とする商社や銀行なども紙面各所に広告を出している。アサヒビールの宣伝もあり、現地の取扱代理店は、三井物産ラングーン支店と書かれている。
銀行の広告
20090531-asahi.jpg
船会社の広告もある。人々が飛行機で移動するようになる前の客船全盛の時代だけに、なかなか興味深い航路がある。ロンドンから地中海、そしてイエメンのアデンを経てコロンボ、さらにはペナン、シンガポール、香港、上海ときて日本にいたる定期便の記述もあるが、どのくらいの時間がかかったのだろうか。
当時のカルカッタ、ボンベイ、カラーチー、マドラス、コロンボ、ラングーンといった地域の主要港から域内を結ぶ便についても書かれている。特に当時のインド西部から今のガルフ諸国の港への便がけっこうあることに加えて、今はほぼ荷物の出入りに限られる港、例えばグジャラートのマンドヴィー、ポールバンダル、あるいは漁港として知られるタミルナードゥのナーガパトナムなどといった港をはじめとする地域の代表的な海港が、当時は外の人々に対する玄関口としての役割を担っていたことを改めて思い起こさせてくれる。
船会社の広告
それでも便数は週一便、二週に一便などといった記述が並び、今の主だった国際線・国内線の空港と違い、『主要港』といってもずいぶんのんびりとしたものだったことだろう。
他に購入した本も含めて、いろいろ興味深いことが書かれていたが、また何か機会を見つけて取り上げてみたいと思う。

インドの東5 シナゴーグとユダヤ人墓地

ミャンマーでは独立後に教育や行政で用いられる言語におけるビルマ語化を積極的に進めたため、旧英領の割には英語の通用度は著しく低い。英文による出版活動にも非常にさみしいものがあるようで、市中の書店を覗いてみても、新聞や雑誌等に英文のタイトルが付いていても、中身はすべてビルマ語である。
例外的にThe New Light of Myanmarという英字紙が出ているが、ページは少ないし、中身も政府の公式発表ばかりなのでちっとも面白くない。
そんな中で、ヤンゴンのダウンタウンにおいて、特に北インド系の住民が多い地域では、ヒンディー/ウルドゥーを話すことができる人たちが多いだけでなく、そうした人々同士が、これら『父祖のコトバ』で話しているのを耳にする機会は多い。
それでも彼らがこうした言葉で出版活動を行なっているわけではなく、あくまでも日常生活の中での会話でのみ使われているという具合のようだ。独立まもない時代には、インドの各言語、中国語等による新聞なども出ていたそうだが、現在のミャンマーにおいて、これらの言語による出版の自由はない。
幾度かヤンゴンを訪れて散策してみた印象でしかないので確かなものではないが、特にインド系のモスクが存在する地域で、彼ら自身の民族の言葉を使うことができる人の割合が高く、彼ら同士がこれで会話しているのを耳にする頻度が高いように感じられる。もちろんインド系ムスリムとしてのアイデンティティということもあるかと思うが、宗教を通じた言語教育もなされているのではないかと想像される。
そのインド系ムスリム地区の真っ只中にあるのがこのシナゴーグだ。以前も書いたとおり、18世紀初頭から、現在のイラクやその周辺から渡来したユダヤ教徒たちがラングーンに定住するようになっていたものの、彼らが本格的にコミュニティを形成するのはイギリスが下ビルマに支配を確立した1852年の第二次英緬戦争以降とのことである。
イギリスによる支配とは、つまり当時の英領インドによる軍の遠征と領土の併合であったことから示唆されるとおり、それ以降この地に定住したユダヤ教徒とは、インドのボンベイ、コーチン、カルカッタなどから渡ってきたユダヤ教徒がマジョリティを占めるようになり、1885年の第三次英緬戦争で当時のビルマの王朝が滅亡し、翌1886年にインドに併合されると、さらに彼らが勢いを得ることになる。
米、チーク材、綿花などの輸出業をはじめ、この時代に盛んであったアヘン取引はもちろんのこと、軍需にかかわる物資の交易に従事して富を築いた者も多く、行政当局との繋がりが深く利潤の高い取引を通じて、経済的に高い地位を得ることになる。
1937年にインドと分離して英連邦内の自治領となった後、アウンサン率いるビルマ義勇軍とこれに協力した日本軍によるイギリス勢力の駆逐、日本軍がインパール作戦に敗れた後に1945年に連合軍による当時のビルマの奪回、1948年に英連邦を脱して独立国家としてのビルマ連邦の成立といった一連の大きな動きの中で、彼らの多くはインドに戻ることになった。
かつて帝国主義勢力の片棒を担いで繁栄を謳歌していたユダヤ教徒たちにとって、ビルマ人たちが主権を回復しての新生国家は決して居心地の良いものではなかったようだが、彼らのほとんどがこの地を捨てて国外に活路を求めることになった決定的な事件が1962年に起きた軍によるクーデターだ。
ネ・ウィン率いるビルマ社会主義計画党による急進的な国粋主義化、とりもなおさずビルマ民族主義化という流れの中で、多民族から成るモザイク国家における総人口の7割近くを占めるビルマ族の民族文化を前面に押し出した政策により、シャン族、カレン族その他の少数民族の不満が高まることになる。
だが主に都市部に集中する外来のユダヤ教徒たちは、もはやイギリスという大きな後ろ盾もなく、存亡の危機を迎えることになった。その結果、今日ヤンゴンに残っているユダヤ人は、わずか8家族に過ぎないとされる。
以前、ヤンゴンのインドなエリア(4)で取り上げたが、2007年にネピドーに遷都されるまでミャンマーの首都であり、今でもこの国最大の都市でもあるヤンゴンには、シナゴーグがある。
シナゴーグ建物外観
以前ここに夕方来たときは、中に誰もいないようで見学することができなかった。今回は昼前にやってくると、通りに面した門は鍵を閉ざしているものの、声をかけてみると世話人らしき者が『何か御用で?』と、やや不審そうな面持ちで出てきた。インド系男性で、この人はヒンディー語を話す。
ヤンゴンのユダヤ人コミュニティのことに関心があり、中を見学したい旨伝えると、『さあどうぞ』と、門を開けてくれた。中の建物は普段は施錠してあり、中に入ることはできないとのことだが、朝10時から正午までの責任者が来ている時間帯のみカギが開けてあるので入ることができるとのことだ。
シナゴーグ内部
1854年の建設当初は木造であったが、その後1893年から1896年にかけて、現在のレンガ造りのものに建て替えられたものであり、そのことが建物の礎石にも記されている。
あいにく責任者の男性は席を外しているとのことで会うことはできなかったが、名刺だけもらっておいたが、これがその後訪れたユダヤ人墓地で役に立つことになった。
シナゴーグはインド系ムスリム地区の真っ只中にある。敷地内で雇われている使用人たちはすべてムスリムであり、責任者だけがユダヤ教徒なのだそうだ。パレスチナ問題と合わせて、イスラーム教徒とユダヤ教徒が対立する存在であるように描かれることが多い。
だが、それ以前にはアラビア各地で同じ啓典の民としてそれなりの庇護を与えられ、ムスリムたちと共に繁栄してきたことは広く知られているとおり、ここヤンゴンにおいては同じインド系住民として互助的なつながりのもとに共存してきたことをうかがわせる。
今ではほとんど消滅してしまったのも同様のユダヤ教徒コミュニティと記念碑的に存在しており、定期的な礼拝も行なわれていないというシナゴーグだが、毎年イスラエルやアメリカからユダヤ同胞団体がここを訪れ、施設保守等の目的で相当額の寄付を置いていくのだそうだ。
門を開けてくれた男性に、ユダヤ人墓地の場所を尋ねると、ここからそう遠くないところにあることがわかった。Bo Min Yaung RD.とMyanma Gone Yi St.の間にある91st St.という細い道にあるとのことだ。ここも普段は施錠されているが、昼間ならば墓守がいるから、ここで中に入る許可を得たことを伝えてくれと言う。
Myanma Gone Yi St. この背後にユダヤ教徒墓地がある
タクシーで向かうと、そのエリアはタミル系住民が多く住む地域らしく、それらしい人々の姿や南インド式のヒンドゥー寺院などが目に入る。
『ここがそうだと思う』とタクシー運転手が指差した先には、塀の向こうに茂みが広がるのみ。墓地らしき風情は見当たらず、近くの雑貨屋に入って尋ねると、ちょうどそこで買い物をしていた男性が日本語のできる人だった。
『東京、千葉や茨城に住んで仕事をしていたことがあります。もうずいぶん前に帰国したんですが』
チャーリーと名乗る彼はアングロ・バーミーズで、風貌からしてインド系にも見えるとのことで、東京都内のある有名なインド料理店で働いていたこともあるそうだ。
『すぐ近くですから』と彼は墓地まで案内してくれた。彼は墓地のすぐ隣の古めかしいアパートの5階にて、家族5人で暮らしており、いつも家から墓地を眺めていると言う。
彼の父親が子供のころには、墓地は近所の同年代の子たちの遊び場になっていたそうだが、今では高い塀に囲まれ、入口には門番が常駐するようになり、普段入ることができなくなっているそうだ。
ゲートに着くと、案の定施錠されており、管理人らしき初老のヒンドゥー女性とその関係者(?)らしき複数の人物に声をかけると、入場を断られたものの、さきほどシナゴーグでもらっておいた責任者の名刺を見せると、すんなりと中に入れてくれた。ゲートの外からならば構わないが、中に入ってから写真は撮らないでくれとのことだ。
ユダヤ教徒墓地
比較的広い敷地の中には、沢山の墓石がある。中にはいくつか英語も併記されているものもあるが、ほとんどヘブライ語で記されているので、何が書いてあるかわからず、どういう人物がここに埋葬されているのか見当もつかないのは残念である。
墓地の中を散策しながら、チャーリーさんの話を聞いているうちに、どうやら在日ミャンマー人の中に共通の知人がいるらしいことに気がついた。世の中とは案外狭いものであることを実感しながら、しばし世間話をしながら午後の暑い時間帯をのんびり過ごした。

インドの東4 バガンの宮殿

復元された宮殿
昨年1月に落成したという宮殿に行く。もともとバガンにあったものを再建したものだという。木造である。しかしながらあまりに新しいということもあり、映画のセットみたいな感じだった。ここも入場料5ドル。地元の人は500チャットだ。博物館入場料も同様だが、展示物等の内容に比してずいぶん高いな・・・と感じずにはいられない。
旅行に関して、この国のシステムは特殊であるといえる。まず外国人に対して、米ドル現金払いが求められるケースが多いこと。代表的なもの一例としては、以下の事柄が挙げられる。
・ホテルの宿泊費
・メジャーな観光地の入場料
・出国の際の空港税
また両替について、基本的に市中で行なうことになる。銀行などの金融機関や両替商として店を構えたものではなく、一般の商店とりわけ貴金属商、みやげもの屋、ホテルなどで、市中の実勢レートで交換するものである。
ヤンゴン市内のごくごく一部を除き、現地通貨チャットに交換できるのは、米ドル現金のみとなる。国際キャッシュカードで現金を引き出せるATMなど存在しないし、買い物その他の支払いについて、ごく一部の外資系ホテルを除き、クレジットカードやトラベラーズチェックは利用できないため非現実的だ。また5%程度の手数料がかかる。
米ドル現金しか使えないことについては、まずはチャット換算の際のレートについて、公定レートと実勢レートの間にあまりに大きな乖離があることもあるが、アメリカによる経済制裁もその理由として挙げられる。
国際的な金融システムから切り離された形になっているため、普段私たちが旅行の際に利用する金融商品を用いることができないのである。この点については北朝鮮やキューバと事情は共通している。
限られた期間のみ、旅行で訪れる私たちは特にこれでも構わないのだが、例えばこの国から外国に留学しようという場合、とても厄介なことになる。
ミャンマー政府が市民に対して国外への外貨送金を認めていないこと、チャットという通貨が国外で通用しないため、これによる国内での預金が外国でそれ相応の資産と認められない。もちろんミャンマーにも経済的に豊かな層は一部存在するのだが、受け入れ側の国に対して、学生が経済的な支弁能力を立証する術がない。
例えば日本に留学したいという場合、ミャンマー国内在住者による私費での支弁という形はまずあり得ない。支弁する人がミャンマー国外で収入を上げて貯蓄しているのでないと門前払いとなる。
もちろんミャンマーから国外に送金するルートがないわけではない。インドやパーキスターンの闇送金と同じシステムがあるが、『闇で貯め込んだ米ドルをハワーラー送金により学費・生活費を支弁します』などという理屈が通るはずはない。
ミャンマー人が日本で暮らす際、東京のミャンマー大使館に月の収入の10%を『税金として納める』という奇妙な決まりもある。国外で発生した収入に対して、同国政府が課税する権利はないはずなのだが、同国政府の貴重な外貨獲得手段のひとつとなっている。
政府が発行するパスポートの有効期限が2年間と短いこともあり、うっかりしているとすぐに失効してしまう。在留中、もし税金とやらを支払わないと、どういうことになるのかは火を見るより明らかだろう。
ただし留学生についてはこれを免除するということになっていることから、ミャンマー人留学生が来日して学校に通うようになってから、まず最初にしなくてはならないことが、在学証明書を取得して、大使館に提出することである。
かなり脱線してしまったが、話はバガンに戻る。遺跡巡りをしている際、物売りの子供たちがあちこちから出てきて、あれやこれやと売ろうとするのだが、彼らが手にしていた品物の中で、唯一私の興味を引くものがあった。
Burmese Days
小説家ジョージ・オーウェルの処女作、BURMESE DAYS(邦題:ビルマの日々)である。
こんなところで売られているものなので、バガンの空港の入域料徴収担当者が販売していたのと同じ海賊版である。イギリス版のPenguin Booksのコピーだが、夕方以降出かけるところもなく、読めそうな印刷物も見当たらないバガンの夜は退屈だ。ガイドブック以外に本や雑誌類を持ってきていない私にとって大変ありがたい。
ジョージ・オーウェルは、1903年に現在のビハール州のモーティハリ生まれのイギリス人。少年時代をイギリスで過ごして教育を受けたが、もともと彼の親族が当時の英領インドに多く暮らしていたこともあってか、長じて彼が赴いた先は当時インドの一部となっていた現在のミャンマー。インド帝国警察のオフィサーとしてしばらく過ごした経験がある。おそらくそこで彼が見聞したことが下敷きになっていると思われるこの小説の舞台は、植民地経営にたずさわる役人や事業家などが暮らす、マンダレーの近くの田舎町。
イギリス人たちのクラブを中心とする狭い社会の中で、そこに出入りする人々、英緬混血児、新天地に移住してきたインド人たち、彼らに様々な形でかかわる地元民たちの人間模様が闊達に描き出されている。植民地における在住イギリス人たちの暮らし、彼らと地元の人々等とのかかわりを考えるうえで興味深い作品のひとつである。
夕方、宿に戻ってシャワーを浴びてからゆっくりとページをめくる。あたりを見回してみると、国が独立したこと、電気が通じた(といっても、自家発電機がなければ、送電は夜間に数時間しかないようだ)ことと、水道が引かれたことを除いては、この小説の舞台となっている1920年代に比べて、ミャンマーの田舎の人々の暮らしのありかたはあまり大きく変わっていないのではないかと思われる。そんなことに妙な臨場感を感じたりもするのははなはだ残念なことであるのだが。

インドの東3 バガン遺跡巡り

20090519-statue1.jpg
朝方まだ涼しいうちに宿の近くのレンタサイクル屋に行き、まずはマーケットで午前中開かれている朝市に行く。ここでは野菜、果物や魚などが売られている。ドリアンを手に入れたかったのだが、残念なことに見つからなかった。
朝市
上ビルマでは一般的にドリアンはあまり好まれないため、下ビルマほどふんだんに売られていないのだということは聞いていたが、このマーケットでも、早朝にはチョコッと並ぶが、すぐになくなってしまうとのことだ。ちょっと残念である。
朝市の主役は女性たちだ。男性で何か商品を持ってきてここで売っている人は皆無ではないにしても、朝市においては見渡す限り売り手はほぼ全員女性。昨日訪れた近くの屋根付きの常設の市場のほうには男性もけっこういるのだが、朝市に限っては、売り手も買い手も圧倒的に女性が多い。
これがインドであれば、売り手はほとんど男性、買い手も多くが男性ということになるのだろうが。女性が外でよく働いているという点では、他の東南アジア各地と共通とはいえ、北東インドのモンゴロイドがマジョリティのところにも通じるものがある。
さまざまな新鮮な食材を目にすると、ちょっと料理の腕(・・・というほどのものではないのだが)を奮ってみたくなった。
井戸
余計なことかもしれないが、少々気になることがある。町のあちこちに井戸があるのはいいのだが、縁の部分がごく浅く、中には深い漆黒の闇。枯れているものも少なくないようだが、ちゃんと水をたたえているものもある。小さな子供はもちろんのこと、大人でも酔っ払いは要注意かもしれない。
尼さんたちが托鉢中
尼さんたちが托鉢している町中を抜けて、遺跡が散在するオールドバガン、ミィンカバー方面へと向かう。自転車があると身軽だ。沿道の遺跡を訪れたり、道路から外れた砂地の轍の上をなぞりながら、彼方に見える仏塔を目指したりする。
カラカラの大地に点在するサボテン。バガンの大地が『テキサスに似ている』というアメリカ人がいたが、確かに西部劇風の荒々しい風景である。そんな中に散在、ところによっては林立している、と表現してもよいくらい沢山の優美なパゴダの姿がある眺めは、その場に身を置いてみても、まるで夢を見ているかのようで、現実感が薄い気がする。
ところでサボテンといえば、このあたりに幾種類か繁殖しているが、その中で最も特徴的なのはこれだろう。
20090519-cactus.jpg
大きくなると、幹は普通の樹木のような有様になる。育ちに育って『巨木』になっているものもある。しかし枝から先はまぎれもないサボテンだ。しかしながら幹の部分の比重があまり大きくないため、あまりに立派に成長しすぎると、自重を支えきれなくなる傾向がある。幹がボキッと折れて倒れているものをいくつも見かけた。何とも因果で気の毒なサボテンである。
昼近くなると、次第に気温が上がってきて汗だくになる。このところ日中の最高気温は40℃を越えているのだとか。これまでミネラルウォーターを三本飲み干している。木陰でお客を待ち構えている露店で、コーラを飲みながらしばしベンチの上でグデッとノビていると、熱くて乾いた空気が肌を撫でていく。
しばらく休んでいると、シャツもズボンも乾いたが、上から下まで真っ白に塩を吹いている。水分とともにそれほど大量の塩分が体から失われたのだ。疲れるはずだ。喉の渇きと疲れが癒えると、空腹感が頭をもたげてきた。
付近で簡単に昼食を済ませた後、ふたたび自転車にまたがって遺跡巡りをする。大きな寺の内部は、非常に風通しがよくなっている。石の床に座ったり、ゴロリと寝転んでみると実に快適だ。
インドやスリランカから強い影響を受けた建築が多いが、大きな構えの割に内部空間は広くないし、ここで多数の人々が集まることができるようにもなっていない。南アジアの建築において、イスラーム教の与えた影響がいかに大きいかということを、東南アジアの最西の国ミャンマーでひしひしと感じる。
建てた時期も異なるため、様々なスタイルのパゴダが存在しており興味深いが、その内部に鎮座する仏像は、往々にして現代のパゴダで見るものと同じようなマンガチックなものが多い。
20090519-statue2.jpg
博物館に足を向けてみると、当時のいろいろな仏像の展示がある。石造ひとつとっても砂岩、大理石その他、素材はいろいろある。また木彫やそれに漆を塗ったものもあり、どれも趣のある美しい仏像だ。
もちろん現在の各遺跡において、安置されている仏像が皆安っぽいとは言わないが、玉石混交といった具合だろうか。それでも往々にしてのっぺりとした、今のミャンマーのお寺に普遍的に存在するものをよく目にした。
事前に想像していたよりも、バガンの遺跡は非常によく修復や手入れがなされている。しかし壊れたパゴダを復元するのは結構なことであるとしても、細部に渡りその時代の様式に対する正確な考証や配慮が必要だろう。しかし今のミャンマーに、そこまで期待するのは酷だろうか。
ヒンドゥー寺院、ナッフラウン寺院内では、観光客たちに売るための絵を描いている男がいた。あたかも彼専用のアトリエがごとく、本堂内のかべのあらゆるところに、彼の作品が架けられており、本来そこに祭られている神像がすっかり萎縮しているような状態でびっくり。足を踏み入れた際、私はてっきり『画家の私邸』かと思ったくらいだ。特に大きくて有名な史跡ではまずそういうことはないようだが、やや格が下がってくると、史跡内部を仕事場や店舗としている者をチラホラ見かける。
ミャンマー随一の観光地であるがゆえに、ましてや現金収入の手段がないこの地域の人々にとって、こうした場所で何がしかのモノを売るということは、貴重な収入の手立てとなることはわかるが、遺跡の日常の管理について、もうちょっとどうにかならないものだろうか?
タビィニュ寺院

インドの東2 マウント・ポッパへ

エア・バガンのフライトは定刻に出発。機体は小型ジェット機のフォッカー100。飛行時間は50分。飛び立ってからしばらくすると下降体勢に入り、午前7時半にバガンのニャウン・ウー空港に到着。
到着ターミナルを入ったところでは、バガン遺跡保護区入域料を徴収する係員が待ち構えており、外国人客はここで10ドル支払うことになるが、博物館などを除き、遺跡の入場料を個別に徴収されることはない。この領収書はバガンでホテルに宿泊する際にも提示が求められることになっているようだ。
この場所では、ジョージ・オーウェルの処女作『ビルマの日々』の海賊版がけっこうな値段で販売されていた。値段はともかくとして、またいくらWTO未加盟の国とはいえ、政府が堂々と外国人観光客に対して不正なものを販売するとはいかがなものか?
宿にチェックインしてから、すぐにクルマをチャーターしてマウント・ポッパに向かうことにした。運転手はあまり英語ができないが、それでもなかなか話好きな人のようで、運転中よくしゃべる。走り出してからしばらくしたところで、砂糖ヤシから樹液を取り、それから砂糖、醸造酒、蒸留酒を作っている簡素な作業所を訪れた。
きれいに整列して植えられた砂糖椰子の木には、よく見ると木上のほうにいくつもの素焼きの壷が取り付けてある。そこに人が登り、汁の溜まった壷を取って降りてくる。だいたい一昼夜取り付けておくと、けっこうな量になるらしい。
壺に溜まった樹液を採取
それを女性が漉して大きな壷に集める。これを小屋の中で火にかけて、焦げ付かないようにかき混ぜながら濃縮して、ジャガリー(粗糖)の塊が出来上がる。
砂糖椰子汁を煮詰める女性
ジャガリー
同じくその汁を発酵させて酒を作るのだが、それを蒸留する作業が同じ小屋の中で進行中。ジャガリー、ヤシの汁、発酵酒、蒸留酒とそれぞれ試食、試飲してみた。最初の三つはとりたててどうということはなかったが、蒸留酒は南九州の芋焼酎に似た感じの味わいで、なかなか美味である。
ただいま蒸留中
このあたりの気候といい、乾燥具合や生えている植物といい、東南アジアというよりも北インドに近い雰囲気がある。下ビルマと比べて乾いていて生えている植物も少ない。黙って自然の景色だけを眺めていると、インドにいるかのような気がする。
マウント・ポッパに近くなると、周囲に緑が増えてきた。この山は、丘陵地帯にそそりたつ塔のような、奇妙な形をしている。。近くの死火山だか休火山だかが活動していたときに、噴火したマグマが落ちたところがこの山になったのだとか。
ポッパ山頂
山の頂上まで長い階段が続いている。頂にはタウン・カラッというお寺がある。寺院自体はどうということはないのだが、ここに祭られているのは仏だけではなく、かつて不幸な死を迎えた人たちが精霊として祭られている。この国土着の信仰の聖地でもあるとのことだ。
精霊・・・か?
周囲にもいくつか規模の小さなパゴダや僧院がある。それらの中には、中国寺院風の寺があった。これは寄進者が華人であったために、こういう形になったのだという。漢字で何やら書かれた札もかかっていた。
参道の階段には無数のサルたちがいる。インドにいるのと同じアカゲザルのようだが、気質はだいぶ違うようで、とてもおとなしいようだ。Mt. Poppaから見渡す周囲の広大な風景は見事であった。
山頂の寺自体は取り立ててどうということはなかったが、行き帰りの道すがら、バガンの荒涼とした大地とマウント・ポッパ周辺の緑が多く起伏に富んだ地形の好対照ぶりを眺めることもできて、楽しい一日であった。
夕方、宿に帰着。部屋はコテージになっており、なかなかいい雰囲気だ。中庭にはプールがある。このプールでは、日没後に大きなカエルたちが気持ち良さそうにチャポチャポと泳いでいる。中庭の芝生の上でも、ところどころ彼らの姿を見かけるので、暗いと気をつけないと踏みつけてしまいそうだ。暑い昼間はどこに隠れていたのだろうか?
レストランに出かけて、夕食が運ばれてくる前にマンダレービールを注文。まだ日中の暑さが残っており、ムッとするような空気。テーブルもイスも、手に触れるものすべてがモワ〜ンと生温かいが、ビールだけはよく冷えていた。
グラスに注いでギュッーと喉に流し込むと実に気分爽快。ちなみにこのビール、2年ほど前にカサウリー ビールとIMFL(Indian Made Foreign Liquor)の故郷の中でも触れたが、なかなかインドとゆかりの深い飲み物でもある。
シムラーからチャンディーガル方面に下ったところにあるヒルステーション、そして軍の駐屯地でもあるカサウリーにて1855年に創業開始したダイヤー・ブルワリー(後のMohan Maekin Ltd.の前身)が、英領期のビルマにおいて『Mandalay Beer』というブランドで発売したのがはじまりだ。
もちろん現在のマンダレービールは、とうの昔の現地化されているのだが、英領インドを代表する歴史的な銘柄のひとつであったことに思いを馳せれば、そこにひとつ新たな味わいも加わるかもしれない。
マンダレービール