本に描かれたコルカタ華人たち 2 彼らの生業

 客家人の典型的な仕事には靴製造、皮なめし、レストラン、ヘア・サロン、酒造などがあり、広東人は大工とレストラン、湖北人は歯医者といった具合になっているという。こうした職業的な住み分けは19世紀には出来上がっていたのだそうだ。
 インドで皮なめし加工の三大中心地といえば、コルカタ、チェンナイそしてカーンプルだが、その筆頭格のコルカタで、英領時代に皮なめし加工の大規模な事業者といえば欧州人が多かった。もともと低湿地帯で居住には適していなかったテーングラー(TANGRA)地区に集中している。加工プロセスに大量の水を必要とするため、カルカッタの皮なめし産業はその当時からこの地域に集中していたようだ。
 しかし1920年代の欧州を襲った不況のあおりで、事業を放り出すオーナーが多かったという。おそらく当地で生産された皮革の主要な販売先がヨーロッパだったのだろう。
 これを機に工場ごと買い取ったのは客家人たちである。彼らはこの時期に機械を導入して生産活動の合理化を図ったことに加え、第二次大戦が始まり、皮革の「特需」が始まったことが追い風となった。
 その後も朝鮮戦争、印パ紛争といった騒乱が起きるたびに、皮革製品への需要が高まり、こうした華人たちの商売の発展を助けることとなった。ただし彼らの母国が関わった中印紛争の際には、『敵性外国人』とされた彼らに対する特需の恩恵はなかったことは言うまでもない。
 なおこの地域で皮なめし工場を営むインド人たちもおり、たいていはパンジャーブ人たちだがごく少数のベンガル人たちもいるという。しかし一般的には経営者が華人で経理担当や皮革加工のエンジニアとしてベンガル人を雇い、皮なめし作業の労働者たちはビハール州から来たチャマールあるいはネパール人、製品として出来上がった皮革を袋詰めするのは北インドや地元のムスリムたちというのが典型的なパターンらしい。

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本に描かれたコルカタ華人たち 1 いつどこから来たのか?

 コルカタの華人コミュニティについて概説した書籍がないものかと思って探してみると、ほどなく見つかった。「BLOOD, SWEAT AND MAHJONG」(Ellen Oxfelda著)というコーネル大学出版から出た本である。
 1980年代に同市の華人地区に住み込んで調査をした著者による同地の中華系コミュニティの成り立ちや構成などについて興味深い記述がなされている。
 ただ内容がやや古く当時と現在のインドの経済事情、中国との外交関係などは大きく変わっているため現状と合わない部分もかなり出てきているのではないかと思われるのだが、執筆当地の華人社会の概況を知るために役立つ好著である。
 コルカタの中国系コミュニティのあらましについて、この本から抜粋して簡単にまとめてみたい。
 1770年代からベンガルには中国人たちが来ていた記録があるのだという。当時、中国の広東地方から英国船に乗ったあるキリスト教徒の中国人船乗りが上陸した。彼はサトウキビ農場、精糖工場、砂糖を原料とする酒作りで大いに稼いだがその繁栄は長く続かなかった。そして中国人たちの活躍の場はコルカタへと移り、1780年代にはすでに中国人コミュニティが同市内に存在していたという。以来華人たちの人々の活躍の場は主に都市部となる。
 東南アジア地域に比べれば地理的に遠いインドだが、コルカタはその最東部のメトロポリスは極東地域とも航路で結ばれていた。英領時代、デリーに遷都される前までは南アジアを動かす権力の中心地であったこの街は、この地を選んだ中国出身の人々には無限の可能性を秘めた商都として魅力的に映ったのだろう。

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コールカーターで中華三昧 6 何が華人たちを引き寄せたのか?

 ところで「移民」という現象の背景には、送り出す地域の側のプッシユ・ファクターと受け入れる側のプル・ファクターとがあるが、前者についてはほぼ同時期に世界中に散っていった華人たちの流れの背景に、当時の彼らの祖国における社会情勢があったことはインドにはどんな引き寄せ要因があったのだろうか。 
 マレー半島の錫、インドネシアの××など、各地にそれぞれ主たる誘因があった。インドにおいては何だったのだろうか。もちろん英領インドの当時首都であったカルカッタだが、そこには中国大陸からの人々を引き寄せる何があったのか知りたいところだ。
 現在コルカタで華人に多い職業は、レストラン、皮なめし工場、大工、クリーニング、美髪店だが、かつて多くは身ひとつで渡ってきて『徒手空拳』で運命を切り開いてきた華人たち。昔はアジア一帯に広く利用されていた「人力車」についても、その普及にあたっては中国系の人たちによる何かしらの役割があったかもしれないし、導入期にこの街で車夫として働く貧しい華人があったとしてもおかしくないかもしれない。
 それとともかく、コルカタ華人たちの歴史等ついて書かれた適当な本はないかと探してみたらほどなく見つかった。近いうちそのコンテンツについて取り上げてみたい。

コールカーターで中華三昧 5 日曜朝市

華人の行商人
 日曜朝市は先日訪れたNEW C.I.T. RD.の中国寺院のすぐ裏側で開かれていた。華人ばかりが大集合しているのかと思ったらさほどでもなかった。インド人10人に対して華人1人といったところか。
 売手のほうはといえば、インド人たちが果物や普通のインドのスナックの露店を広げている中に華人の露店もある。蒸し器の中に入った肉まん、餃子があり、また中華式の長い揚げパンもある。よく中国で粥に浸して食べるあれである。
 そしてミートボールの入ったスープ、ちまき、揚げ餃子、揚げ春巻き、中華ソーセージもあった。持ち帰り用としては、未調理の中華麺、中国語で書かれた護符やカレンダー(台湾から入っているとか)などが売られていた。

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コールカーターで中華三昧 4 テーングラーの華人学校

培梅中学正門 
 テーングラーをしばらく歩いてみるとかなり大きな華人学校の存在に気がついた。『培梅中学』とある。インドにあって、こうした民族学校で学ぶということはちゃんと学歴として認められるのか、それとも日本の華人学校、コリアン学校のように正式な『学校』としては法的に認められていないのかはわからない。
 しかし建物は小さな華人社会からは考えられないほど大きく、一時期まではコミュニティの規模がかなり大きなものであったこと、彼らの財力と華人文化への思い入れの深さが想像できるような気がする。

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