英領インドに旅する 2 泊まる・食べる

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 宿泊について、マドラスにはイギリス人を中心にしたヨーロッパ人経営のホテルが相当数あったらしい。19世紀半ばまで、欧州勢がインドで築いた街の中で最大規模を誇ったと記されているポンディチェリーに、GRAND HOTEL DE L’EUROPEと HOTEL DE PARISといった高級ホテルがあったそうだが、これらは今どうなっているのだろうか?
 当時各地自治体や藩王国などが運営していた宿泊施設「トラベラーズ・バンガロー」についての記述がよく出てくる。旅行そのものが盛んではなかった時代、キャパシティは数名程度とごくわずかだ。
 現在の各地の州政府の観光公社によるホテルの多くに、昔は「ツーリスト・バンガロー」というよく似た名前がつけられていることが多かったが、この古くからのシステムの系譜を引き継いだものなのだろうか。いつか調べてみたい。
 だがどうも解せないことがある。場所にもよるが「3日まで宿泊無料、それ以降は所定の料金がかかる」と記されていることが多いのだ。つまり3泊以内でどんどん移動していけば宿代はまったくかからないことになる。営利を目的としたものではなかったのかもしれないが、実際のところどうなっていたのだろうか?
 仏領のカライカルには欧州人旅行者用宿泊施設はなく、唯一のトラベラーズ・バンガローはフランス人役人の出張者専用であったというから、当時から各地にあった公務で訪れる人たちのためのP.W.Dレストハウス、ダーク・バンガローのような性格を持つところもあったのだろう。

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英領インドに旅する 1 案内書を手にして

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 旅行ガイドブックも時代を経るとそれなりに歴史的価値が出てくる。1979年に起きたイスラム革命前のイランについた書かれたもののページをめくってみると、「物価の高いイラン」節約旅行するためのアイデアあり、「高給のイランで仕事にありつく」ためのヒントあり。遺跡や歴史的名所などの見どころは今も同じでも、時代が移れば旅行事情はずいぶん変わるものだ。
 さて、時代はるか遡った1920年代の南インド鉄道旅行ガイドブックである。当時2ルピー8アンナの「Illustrated Guide to the South Indian Railway」というタイトルのこの本は、南インド鉄道会社の沿線ガイドということになっているが、今でいうロンリープラネット社の「SOUTH INDIA」に相当する包括的な地域ガイドとみなしてよいだろう。
 なにしろ民間航空機による定期便運行が始まる前で、自動車による大量輸送システムも充分に発達していなかった時代、当時盛んであった船舶による移動は沿岸部に限られる。当時「モーター・バス(今でいうバス)」の運行区間は長くても60数キロ程度であったため、旅行の移動手段の王道はやはり鉄道であったからだ。
 もちろん沿線ガイドであるがゆえに、現在のガイドブックにはまず紹介されていない非常にマイナーな土地についての記述もあるので、意外な穴場を見つける手助けにもなるかもしれない。

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クラーンティ(革命)!

 かつては地域によりブロードゲージ、メーターゲージ、ナローゲージと軌道の幅が異なる路線が混在していたインド国鉄だが、着々と進められてきたゲージ幅の統一(ブロードゲージ化)が進んだことにより、ずいぶん使い勝手がよくなったと思う。昔はいちいち乗り換える必要があったルートでも、今では直通列車が走るようになってきている。たとえばデリー発ジャイサルメール行きの急行などもその一例だ。
 近年着々と進化を遂げているインド国鉄。2002年から新しい特別急行路線を導入している。それは長距離を走るサンパルク・クラーンティと短い距離をカバーするジャン・シャターブディーだ。サンパルク(接続、連絡)のクラーンティ(革命、前進)とは、なんとも大げさなネーミングだが、日本の新幹線やフランスのTGVのような超特急が導入されたわけではもちろんない。
 従来から少ない停車駅とスムースな走行で国内各地を結んできた長距離特別急行ラージダーニーや短距離のシャターブディーのルートと一部重なる部分があるのだが、これらとは少々性格が異なるようである。新しい特別急行にはエアコン無しの二等車も連結しており、鉄道による高速移動の大衆化がはかられている。
 またこの新しい特別急行の路線の一部には、以前メーターゲージ区間であった部分も含まれているようで、前述のブロードゲージ化を進めてきた恩恵のひとつともいえるだろう。

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ラージャスターンからスィンドへ

 インド・パキスタン両政府が、ラージャスターン州のムナーバーウ駅からスィンド州のコークラーパール間の列車運行を再開することで合意した。
 もともとはインドのジョードプルからバールメールを経て越境、パキスタンに入ってからはミールプル・カースを経てハイデラーバードへと続いていたこの砂漠越えルートは、英領時代の地図を開けば明らかなとおり、かつては首都デリーと貿易港カラチを結ぶ幹線ルートの一部であった。
 ちなみに現在ラージャスターン州とスィンド州を分けるインド・パキスタン国境は、植民地時代にはいくつもの藩王国による自治領ラージプータナと植民地政府が直接支配するボンベイ管区北西部との境界でもあった。イギリスからの分離独立後も1965年までこの路線が存続していたものの、両国間の関係悪化により廃線となっている。
 突如注目を浴びることになったムナーバーウ駅だが、現在ここへはバールメール駅から鈍行列車が毎日一往復するのみだ。
 カシミールからグジャラートまで、ずいぶん長い国境線を共有していながら、今のところ陸路ではパンジャーブ州のアタリー・ワガー国境しか開いていないことを思えば、新たにこのルートが開かれることの意味は大きい。
 ただこの鉄道再開が話題になったのはこれが初めてではない。80年代後半もまさにこの路線についての検討が進められていたようだが、やはり浮き沈みの多い両国関係の中で立ち消えになったという経緯があるのだから今回もどうなるかわからない。

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コロニアル鉄道

 イギリス時代の面影を残すクラシックな鉄道は、ダージリンやシムラーのトイトレインくらいかと思ったら、マハーラーシュトラにもあった。綿花を栽培する地方のルートであるムルティジャープルからヤヴァタマール間を毎日一往復するシャクンタラ・エクスプレスがそれだ。
 どんなものかと簡略版時刻表「TRAINS AT A GLANCE」をめくってみたが、「エクスプレス」なのに出ていない。小さな支線や各駅停車まで詳しく記載されている「INDIAN BRADSHAW」を開いてみると、全行程112キロ(下記リンク先の記事中には189キロとあるが)の狭軌を走る二等客車のみの鈍行列車であることがわかった。
 インドの鉄道草創期には「藩有」も含めた私鉄路線は少なくなかったが、ここは現在もなお民間の所有であるだけではなく、オーナーは植民地時代から引き続いてイギリスの会社だというのは驚きだ。実際の運行はインド国鉄が請け負っている。
 1994年にディーゼル機関車と交代するまでの1923年から70年ほどの間、マンチェスター製の蒸気機関車が列車を引っ張っていたのだという。
 特に鉄道に興味があるわけではないが、建物や街並み同様、英領時代の面影を今に伝えるものに大いに関心がある。近々廃線となる可能性もあるらしいので、今のうちにぜひ利用してみたい。
 コロニアル風といえば、インド国鉄そのものがそうした雰囲気に満ちていると言えなくもない。今でも各地の主要駅で、英領時代に建てられた立派な駅舎が利用されているが、客車もエアコンクラス導入以前からある従来型ものは、我々の目から見るとデリーの鉄道博物館に保存されている大昔のものと、車内の基本的な造りはあまり変わらないように見える。
 だがどこもかしこも着実に近代化が進む中、インドの鉄道も急速にアップデートされているため、そうした面影を感じることのできる時間はそう長く残されていないようだ。
A railway ride into history (BBC NEWS)