子どもたちの楽園 2

National Rail Museum
National Railway Museumは、古い車両を屋外展示するエリアとミニチュアや資料などをもとに歴史を解説する屋内展示のエリアから成る。
植民地時代の三等車両、巨大な蒸気機関車、家畜運搬車両、脱線車などを取り除くためのクレーン車両など、異なるゲージ幅のさまざまな車両が置かれている。
サルーン車両
山岳地のトイトレインで使われた小さな可愛らしい機関車に客車、旧藩王国内の路線で使用された王族用のサルーン車などもなかなか興味深い。これらの多くが当時のイングランドのグラスゴウをはじめとする英国および欧州の先進工業地域で製造されたものであることが、車両にはめ込まれたプレートの文字から見てとれる。
グラスゴウで製造されたことを示すプレート
ちょっと変わった風体の乗り物もある。20世紀初頭には、パンジャーブの一部地域で『モノレール』が走っていた時期があったらしい。もちろん高架を走る現代的なものではなく、地上に敷かれた一本のレールを頼りに走る蒸気機関車だ。車両が転倒しないように補助輪が付いているのが何ともユーモラスである。訪れたときに、ちょうどこの古い車両を走らせているのを目にすることができた。
20世紀初頭の『モノレール』
『モノレール機関車』はドイツのベルリンの会社が製造したものであった。
時代ものではないが、敷地内を一周するミニチュア・トレインも人気だ。ウチもそうだが、周囲でもまた子供たちは敷地内でいくら時間を過ごしても遊び足りず、「そろそろ帰るよ」という親に「まだ帰りたくないよう!」とせがんでいる姿を多く目にした。
ここはどうやら子供たちの楽園のようだ。
 

National Rail Museum

子どもたちの楽園 1

子ども、とりわけ男の子が大好きな乗り物の横綱格といえばスポーツカーと鉄道だろう。前者は父親が乗りまわしているのが普通のセダンだったりするとつまらないだろうし、そもそも家にクルマがなかったりすることも少なくないが、後者については誰もがよく利用することから機会は平等かもしれない。(もちろん鉄道が走っていない地域も少なくないが)
インドでいろいろな乗り物に利用しても、子供が一番喜ぶのはやはり鉄道である。親にしてみればトイレや洗面台がついているので、他の陸上交通機関に比べて長距離移動しても安心、少し上のクラスであれば座席まわりのスペースにゆとりがあり、あまり疲労を感じずに済むので楽だ。
はるかに短い時間で目的地に着くことができる飛行機も子供たちの人気者だが、なぜか彼らの興味は搭乗し離陸したところで終わってしまうのが常のようである。おそらく外の景色が変わらなくて飽きてしまう、狭いシートでじっと我慢していないといけないので退屈・・・といったところが理由か。
鉄道だって、しばらくずっと沿線風景が変わらない地域だってあるし、チェアー・カーだったら飛行機内に座っているのと環境はそう変わらない。でも駅に停車するたびにドヤドヤと人々の出入りがあったり、プラットフォームの景色を眺めたり、物売りがスナックなどを見せびらかしに来たりといったところが、ちょうど良い具合に「ブレーク」となるのだろう。
ウチの子供によると、インドの列車は「大きな生き物みたい」で面白いのだそうだ。言われてみれば、無機的でメカニカルな雰囲気より、むしろ体温や体臭といったものを感じさせるムードがあるような気がする。
長い連結車両をけん引するディーゼル機関車が、プラットフォームにゆっくりと入ってくるときの「ドッドッドッ」という地響きに似た音、派手に軋む車輪の悲鳴、車内の消毒液の匂いとともにどこからか漂ってくる食べ物の香り、大声で会話する人々、駅構内をやや遠慮気味に行きかう動物たち・・・。
加えて、機関車や車両のクラシカルなスタイルはもちろん、あの重厚長大さも魅力らしい。「だってす〜っごくデッカイもんね」と6歳になったばかりの息子が言う。小さな子供にとって「大きい」こと自体もまた憧れなのだ。
そんな息子がとても気に入っている「博物館」がデリーにある。普通の博物館ならば、幼い子供は皆そうであるように、すぐに「帰ろうよ〜」となってしまうのだが、ここだけは日中一杯過ごしてもまだ物足りないようだ。場所はチャナキャプリのブータン大使館横、National Rail Museumである。
〈続く〉

東西ベンガルの都 鉄道ルート開通近し

コールカーター・ダッカ間を結ぶ列車の運行が近々再開されるようだ。バングラーデーシュ独立前、東パーキスターン時代の1965年から42年もの長きにわたり、両国間の鉄道リンクは断ち切られたままであったが、ここにきてようやくあるべき姿に戻るといったところだろうか。この背景には様々な要因がある。まず両国の間に横たわる様々な問題がありながらも、これら二国間の関係が比較的安定しているという前提があってのことだが、経済のボーダーレス化、グローバリズムの流れの一環ともいえるのだろう。国土面積は日本の4割程度とはいえ、実に1億4千万超の人口を抱える世界第8位番目の人口大国であるバングラーデーシュは、隣国インドにとっても無視することのできない大きな市場であり、産業基盤の脆弱なバングラーデーシュにとってみても、すぐ隣に広がる工業大国インドは決して欠くことのできない存在だ。
ベンガル北部大きく迂回した細い回廊部分によりかろうじて物理的に『本土』とつながるインド北東諸州にとっても、人々の移動や物流面で平坦なガンジスデルタ地域に広がるバングラーデーシュ国内を『ショートカット』して通すことができれば非常に都合が良い。『インド国内』の運輸という点からも、バングラーデーシュとの良好な関係から期待できるものは大きいだろう。コールカーター・ダッカ間のバス開通に続き、ダッカからアガルタラー行きのバスが運行されるようになったのと同じように、やがてはダッカからインド北東部へと向かう列車が走るようになるのだろうか。旅客輸送のみならず、現在両国間の貨物の往来はどうなっているのか機会があれば調べてみたい。
地勢的に東北諸州を含むインド東部とバングラーデーシュは分かち難いひとつの大きな地域であることから、本来相互依存を一層深めるべき関係にある。今後、『そこに国境があるということ』についての不便さや不条理さを意識すること、国土が分離したことに対する高い代償を意識する機会がとみに増えてくるのではないだろうか。またバングラーデーシュが低地にあるため治水面でインドの協力がどうしても必要なこと、今後懸念される海面上昇のためもともと狭い国土中の貴重な面積が消失することが懸念されていることなどを考え合わせれば、隣国とのベターな関係を築くことをより強く必要としているのはバングラーデーシュのほうだろう。経済の広域化と協力関係が進展するこの時代にあって、これら両国が今後どういうスタンスで相対することになるのか、かなり気になるところだ。
First India-Bangladesh train link (BBC South Asia)

草の根パワーで建てた鉄道駅

大地に果てしなく伸びる鉄路。両側にこれまた果てしなく続く農村風景を眺めているといつしか車窓風景から見える舗装道路や家並みの密度が高くなってきて町に入ってきたことがわかる。列車は次第に速度を落として、物売りの呼び声や赤いシャツのポーターたちが行き来する長いプラットフォームに停車する。そしてしばらくすると『ガタン』と車両が揺れて列車は静々と再び前に進み始める。そしてさきほどまで目にしていたのと同じようなどこまでも広がる景色とそこに点在する民家や小さな集落を目にしながら長い長い時間を過ごすことになる。そんなときにふと思うのは、この人たちは鉄路のすぐ脇に暮らしていながらも、いざ鉄道を利用しようと思ったらずいぶん遠くにある駅まで足を伸ばさなくてはならないのだなということ。
工業化・商業化の進展とともに人口も拡大を続けてきたインド。蒸気機関車からディーゼル機関車へ、そして一部地域では電化されるなど車両その他鉄道施設は近代化を進めてきたにもかかわらず、ラージダーニーやシャターブディーといった時代が下ってから導入された特別急行を除けば、通常のexpressやmailといった急行列車が大都市間を結ぶのにかかる時間はそれほど短縮されていないようだ。しかしそれには理由がある。駅が増えているからだ。おそらく日本で『高速道路を走らせる』『新幹線を引っ張る』といった事柄が利益誘導型の政治家たちの道具となってきたように、インドでも『地域に鉄道駅を造る』という事業は、地元を票田とするリーダーたちの目に見える大きな実績にもなるのだろう。それでもまだまだ『駅が足りない』ことは、この国の物理的な広さと人口分布の広がりを象徴しているといえる。
いつだか何かのメディアで、ビハール州やU.P.州などの田舎に『Halt』と呼ばれる臨時停車スポットが非合法に乱立されていることを書いた記事を目にした記憶がある。それらの多くが『正規のもの』に似せた名前であったり、地域で広く知られた聖者の名前を被せたものであったりすることが多いとのことだ。中でも圧巻は現在の鉄道大臣であり、ビハール州首相でもあったことがあるラールー・プラサード・ヤーダヴの妻の名前(彼女自身も前ビハール州首相)を付けた『Rabri Halt』まで出現したのだそうだ。これらの不法Haltは逐次鉄道当局により撤去されているとのこと。
しかしこれらを必要としているのは、レールは敷かれていても列車が停まる肝心の駅がない地域の人々。『駅が欲しい』という願いはあれども、政治的な後ろ盾がなければそうした声はなかなか届かないのだろう。
そんな中、自分たちで駅を建ててしまった村人たちがいるという話には驚いた。デリー・ジャイプル間にあるシェカーワーティー地方のジュンジュヌ地区にある四つの村で人々が協力しあって80万ルピーの資金を捻出し、レンガを積み上げてプラットフォーム、ベンチ、水道、チケット売り場から成る小さな駅を建ててしまったのだというから驚きだ。バルワントプラー・チェーラースィー駅は開業から1年半経過し、毎日4本の列車が停車しているという。資金集めや建設作業といった労苦もさることながら、天下の国鉄にこれを正規の停車駅として当局に認めさせた行動力と手腕もたいしたものだ。インド農村版『プロジェクトX』といったところだろうか。特に用事があるわけではないのだが、機会があればぜひこの駅に降り立ってみたい。建設にかかわった村人たちに尋ねてみれば、実に興味深い話をうかがうことができそうだ。
राजस्थान में रेलवे का एक ‘जनता स्टेशन’ (BBC Hindi)

ミャンマーのインドな国鉄

ヤンゴン駅発バゴー行きの7UPという急行列車に乗りこんだ。ここを出て2時間あまりで到着する最初の駅がバゴーである。モン族の王朝の古都で英領時代にペグーと呼ばれていた。
アッパークラスの車両では通路左側に一列、右側に二列の大型な座席が並んでいる。リクライニングもついていてなかなか快適だ。この列車はバゴーを出てからさらに北上を続け、マンダレイなどにも10数時間かけて走るのだが、そんな長距離でもこれならば寝台でなくとも充分耐えられそうだ。これで空調が付いていると更に良いのだが。
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ちょっと見まわしてみて、車両の造りがずいぶんインドのそれに似ているなあと思った。まず気がついたのは前席背面に付いている折り畳みテーブルである。ここに『SUTLEJ』の文字が入っているので、ひょっとしてこの車両はインド製ではないのだろうか。そう気がつくと、天井の扇風機、壁のプレートの合わせ目の細いアルミ板のシーリング、戸の引き手や窓の造 り、つまり外側の鎧戸、内側のガラス戸、そして座席番号を示すプレート等々、どこに目をやってもインド風である。
果たしてトイレに行こうと出入口のほうに行ってみると、トイレのドアを開けるとそこにあったのはまさしくインドの車内風景であった。そして手を洗おうと差し出すとそこには見慣れた蛇口と金属の洗面台。シンクの縁にはインド国鉄のマークまで入っていて、ちょっとビックリ。上に目をやると、そこには『Railcoach Factory, Kapurthala』というプレートがあった。これは紛れもないインド製車両であった。

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