バンガロールからマイソールまで30分で駆け抜ける!

チェンナイからバンガロール経由でマイソールまで繋ぐ高速鉄道建設計画があるのだとか。バンガロールからマイソール間には、なんと30分で到着してしまうものだというから驚きだ。

最高時速は350kmというから、速度もまさにワールドクラス。だが気になるのは、それが実現した際の安全性か。どうも中国の新幹線のことが脳裏をよぎる。

Bullet train may connect Mysore-Bangalore in 30 mins (YAHOO ! INDIA FINANCE)

上記リンク先に出ている画像は、世界各国の高速鉄道の車両。インドの新幹線構想のプロトタイプではないので念のため。

ジャイプル・メトロ

昔々のデリーは、とてもクルマが少なかった。スズキのマルティが独り勝ちしていた頃のことだ。他の自家用車といえば通常はアンバサダー、パドミニーくらいと、非常に車種も少ない時代で、今やもう大昔ということになる。二輪の類も古いヴェスパのモデルをバジャージがインド現地生産したスクーター、あとはバイクといえば排気量125cc程度の小さなものくらいしか見かけなかった。

乗用車にしても、バイクやスクーターにしても、購入できる層が限られていたため、道路は閑散としており、「渋滞」という言葉さえも知られていなかった。同じ頃、まだ首都圏の高速道路網が無く、BTSや地下鉄もなかったバンコク市内は各所でひどい渋滞で、どこに行くのも一苦労。それに比べてインドの大都市の道路は何て空いているのだ!と思ったものだ。市バスでもオートでもビュンビュン飛ばしてすぐに目的地に着くことができた。

やはり転機は90年代前半以降であった。経済成長が軌道に乗り、デリー首都圏の人口が急増、人々の可処分所得も急上昇していく中、政府の外資の積極的な導入姿勢と外資による新興市場インドへの期待感から、様々な四輪・二輪メーカーがインドに続々進出していき、それとともに道路を急速に様々なクルマたちが埋め尽くしていった。

そんな中、デリー・メトロ建設の槌音が聞こえてくるようになったときには大きな期待感を抱いた。このネットワークが完成した暁には、昔みたいにスムースにあちこちに出かけることができる、いやバスのルートを知らなくても、簡単にどこにでも行くことができるようになるのだろうと。

そして現在、デリー・メトロのネットワークが広がり、市内の長距離移動が格段に楽になった。とりあえず目的地の最寄駅まで乗車して、後はオートでも利用すれば非常に短い時間で到着することができる。便利なものである。

昨年10月からはラージャスターン州都のジャイプルでも建設が始まっている。市内各地で工事が進行中だ。

Jaipur Metro

完成時のネットワークはこのような具合になる。

他にもムンバイー、バンガロール、チェンナイ、ハイデラーバード等でメトロ建設が進められており、同様にアーメダーバード、ラクナウー、コーチン、ルディヤナー、チャンディーガル等でもメトロ建設着工の計画がある。多少の紆余曲折があっても、これからも引き続いて右肩上がりの経済成長が見込まれるインドはまさに日の出の勢いといった具合だ。

一昔、二昔前を振り返れば、現在との大きな違いを実感でき、今後も更にベターな明日を思い描くことができるインドが、とても眩しく見える。

Trains at a Glance 2011年7月改定版

日々が過ぎ去っていくのは早いもので、2011年もすでに半分以上が終わってしまった。インドにおいて7月は鉄道時刻表改定の時期だ。例年のごとく国鉄のウェブサイトにこれがPDF形式でアップロードされている。

Trains at a Glance (July 2011 – June 2012)

なお今年5月から7月までの夏季特別列車の時刻表も閲覧できる。

All India Summer Specials Time Table (April-July2011)

インターネットでの鉄道予約といい、ウェブで閲覧できる時刻表といい、かつて列車の予約が大仕事だった時代がまるでウソのようだ。

 

テロリズムの種

このところいくつかベンガル関係ネタが続いた。そのついでにベンガルを舞台にした映画について取り上げてみることにする。

アーシュトーシュ・ゴーワーリカル監督の映画『Khelein Hum Jee Jaan Sey』(生死の狭間で)は半年以上前に公開された作品であるが、遅ればせながらこの映画について思ったことを綴ってみたい。

この映画は1930年にチッタゴン(現バーングラーデーシュ東部の港町)で実際に起きた武装蜂起事件を題材にしたものである。

反英革命を夢見る活動家集団に、サッカーに興じるグラウンドが英軍のキャンプ地として収用されてしまったことに不満を抱く少年たち等が加わり訓練を施された。少年たちは資金調達にも協力している。

彼らはわずかな武器類を手に、夜陰に紛れて軍施設、英国人クラブ、鉄道、電報局等を襲撃する計画を実行に移す。軍施設でも武器庫に押し入ったものの、弾薬類がどこに保管されているのかわからず、その晩は聖金曜日であったため、クラブから英国人たちは早々に帰宅してしまっており肩すかしを食うこととなった。

そのため現地駐在の英国の植民地官僚や家族などを人質にして、軍施設から奪った武器弾薬類で革命を拡大させていくという目論見は大きく外れる。事件勃発直後にすぐさま反撃に出た英軍(もちろん幹部を除いて大半の指揮官や兵士は同じインド人たちである)を前に貧弱な装備のままで蜂起グループは敗走することになる。近代的で豊富な軍備を持つ軍により、メンバーは次々に殺害・拘束されていき、蜂起の首領たちは潜伏先で軍に生け捕りにされる。

蜂起に加わった一味は、裁判にて流刑、首謀者たちは死刑を宣告される。チッタゴン中央刑務所に収容された蜂起のスルジャー・セーンと革命の同志は、ある未明に刑務所内の処刑場に連行されて絞首刑に・・・といった筋書である。

ヒンディー語による作品であるが、舞台がベンガル地方であるため、ところどころベンガル語による会話が挿入されたり、登場人物や地名等の発音がベンガル風になっていたりして、それらしきムードを醸し出すようになっている。

アビシェーク・バッチャン演じる主役の元高校教師の革命家スルジャー・セーンは、映画では触れられていなかったが国民会議派の活動家としての経験もある。1918年にインド国民会議派のチッタゴン地域のトップに選出されたこともあり、なかなかのやり手だったのだろう。ベンガル地方東部の田舎町を拠点にしていたとはいえ、後世から見たインドの民族運動の本流にいたことになる。

だがその後、思想的に先鋭化していった彼は武闘路線を歩んでいくこととなる。1923年にベンガル地方の主にヒンドゥー教徒たちから成る革命武闘集団、ユガンタール党のオーガナイザーのひとりでもあり、地元チッタゴン支部で活動しており、この映画で描かれた1930年4月に発生したチッタゴン蜂起の首謀者となった。

インドの記念切手

ちなみにインドでスルジャー・セーンは、1978年に記念切手に描かれたことがあり、バーングラーデーシュでも彼の生誕105周年にあたる1999年に記念切手が発行されている。

時代物の映画はけっこう好きなのだが、こうした愛国的な内容のものとなると、そこにはやはり制作者と『国家意識』のようなものが色濃く反映されることになるため、第三者の私のような者が鑑賞すると咀嚼しきれないものがある。

舞台設定のすべてが史実に基づいているのかどうかはよくわからないのだが、年端の行かない10代の少年たちを巻き込んで、軍駐屯地を襲撃して奪った武器弾薬をもとに革命を拡大させるという、あまりに稚拙な計画といい、聖金曜日を知らないという無知さ加減といい、天下を取ることを企図していたにしては、あまりにお粗末である。

それはともかく、絞首台に上ったスルジャー・セーンの目には、刑務所の建物に翻るインドの三色旗の幻が描かれているが、1947年に東パーキスターンとしてインドから分離独立、そして1971年にパーキスターンから独立して現在のバーングラーデーシュが成立している。つまりスルジャー・セーンと彼の仲間たちが闘ったその地に、結局インドの三色旗が翻ることはなかった。

もちろん後の東パーキスターンとしての独立にも彼らの活動が寄与したとはいえず、反英闘争の中で儚くも志半ばにして消え去った革命の無残な失敗例である。ただし現在は外国となっている東の隣国で、かつてインド独立を夢見て闘争を展開した『同朋』たちを描き、印パ分離の不条理を訴えたものという見方はできるかもしれない。

だがスルジャー・セーンという人物自体、英雄視されるにはちょっと疑問符の付く人物ではある。そのため武闘路線に走る性急な過激派のボスとそれに引きずり込まれていく無垢な若者たちという具合に見えてしまう。時代と思想背景は違っても、カシミール、パーキスターンその他でテロに走る若者たちが、そうした道を歩んでしまう背景にも、こうした『テロの種を蒔く』似たようなメカニズムがあることと思う。

作品中でスルジャー・セーンは善人として描写されているため、これは制作者の意図しているものではないであろうが、この革命家の抱く大義を普遍的な英雄的行為として捉えることは難しい。

この映画を観た結果、どうも消化不良なので、この映画の原作となった本『Do and Die: The Chittagong Uprising: 1930-34』(Manini Chatterjee著)を読んでみたいと思っている。

蛇足ながら、作品中に少し出てくる鉄道から眺めたこの時代のチッタゴンについて少々興味深い点がある。下の鉄道路線図(1931年当時)が示すとおり、現在のインドのアッサムから海港チッタゴンをダイレクトに結ぶ旧アッサム・ベンガル鉄道会社によるメーターゲージの路線が走っており、経済・流通の関係では今のインド北東部との繋がりの深い地域であった。そのため印パ分離による経済面での不都合はアッサム・東ベンガル(現バーングラーデーシュ)双方にとって大きなものであることがうかがえる。

 

1931年当時のベンガル地方の鉄道路線

 

 

バーングラーデーシュ国鉄本社は首都ではなくチッタゴンに置かれており、現在の同国鉄路線図の示すとおり、国土の東側はメーターゲージで、西側は分離前にコールカーターを中心としてネットワークを広げていたブロードゲージがカバーする形になっている。

バーングラーデーシュ国鉄路線図

歴史的に異なる幅の軌道が混在していたインドでは、近年インド国鉄の努力により総体的にブロードゲージ化が進んできている。それとは逆にバーングラーデーシュではブロードゲージの路線にメーターゲージの車両が走行できるように『デュアルゲージ化』を進めてきた。ブロードゲージの軌道の中にもう一本レールを敷いて、メーターゲージの列車が走行できるようにしてあるのだ。

バーングラーデーシュ側では、メーターゲージ路線の距離数のほうが多く、また資金面でも費用のかかるブロードゲージ化で統一することは困難であること、ブロードゲージのインド側から貨物列車で石材等の資材輸入等といった事情があるようだが、ゲージ幅の違いを克服するために両国でそれぞれ異なるアプローチがなされているのは面白い。

日帰りトレック2

最初はお互いよそよそしくても、行程が進むにつれていろいろ話したりしながら打ち解けてきた。時間の経過とともに、だんだん『ひとつのチーム』になってくる。昼食を取ったあたりから、誰もがよく話すようになってきて、ちょっとした小休止のときも車座になって話が弾む。

鉄路

鉄路に出た。まさにこの鉄道建設のために、19世紀末から20世紀はじめにかけて多くのインド人たちがこの地にやってきたのだ。そこからしばらくは線路上を歩き、次の村に到着する。ここでは鍛冶屋もある。農耕具を作っているのだそうだ。

ちょうどガーリックを収穫して干しているところであった。もち米で作った煎餅状のものを干してある。これを焼いて食べるのだそうだ。日本の煎餅と同じようものができることだろう。

焼き上げる前の煎餅

そこから少し下るとカリフラワーと豆の畑と水田があった。水量豊かで新鮮な野菜が採れる里。一瞬、理想郷という言葉が脳裏をかすめるが、そこに暮らしている人たちはそれが理想であるとは思っていないかもしれないし、山村での暮らしは楽であるはずもない。

次の集落にたどりつく直前の坂道では、沢山のヒルがうようよしていた。今日も昨日以前のような調子でずっと雨が降っていたならば、きっと手足をひどくやられていたことだろう。

本日最後に訪れたのはシャーマンの家。様々な生薬を配合した薬を作っているという。それで私たちはそれらを少しずつ味見する。たしかに生薬の味がする。それらが何か効果があるのかどうかは知らないが。

シャーマン

このシャーマンは代々長く継承されてきたものだというが、現在82才だというこの人物で途絶えることになりそうだという。彼の息子は複数いるが、誰一人として継がないのだという。

その家のある集落を後にして再び線路の上に出る。そして他の7人とはお別れだ。さて、ここからはネパール人ガイドと二人でカローまで戻ることになる。予定では午後6時か7時には宿に帰着することになっていたが、ちょっと遅くなったようだ。

もう陽がすっかり傾いている。じきに辺りは暗くなってしまうだろう。夕方の山の景色は美しかった。だが写真を撮る気にならないのはちょっと気が急いているからだ。治安の良好なミャンマーとはいえ、真っ暗になった山道を歩くのは決して誉められたものではない。

人を襲うような獣が出てこなくても、足元に毒ヘビがいたところで、ボンヤリした懐中電灯の光では気が付かないかもしれない。本来ならまだ雨期入り前のはずだが、このところ雨が多いため田畑脇の道端などでヴァイパーの類の有毒ヘビをしばしば見かけたし、昼間の山道でもそうした毒蛇に遭遇した。そんなわけで夜道で一番気になったのがこれである。

トレッキング中ではないが、町中で見かけた。雨が降ると乾いた場所を求めてニョロニョロ移動してたりする。

ほとんどすれ違う人もなく、黙々と進む。ときおり反対側からやってくる帰宅途中の村人の姿がある。すでに真っ暗になっているのに牛を連れて帰る人たちもいた。すっかり周囲が見えなくなってから、私たちは懐中電灯を手にしているが、彼らは手ぶらだ。よく足元が見えるものだ。

空は雲行きが怪しい。こんなところで真っ暗になってから大雨にやられたらたまらない。幸いにして宿に着くまで降らなかったが。

しばらく進んで町に近くなってきたあたりに寺があり、そこにはネパール人がよく出入りするのだそうだ。サラスワティー寺院ということになっているが、ビルマ族、シャン族などは仏教の寺として参拝しているとのこと。

カローの町はまだしばらく先であった。鉄路に出て枕木の上をしばらく歩く。枕木が等間隔で敷いてあればいいのだが、そうではないのでけっこう疲れる。細い川にかかる小さな鉄橋の上の線路を歩く。暗くて左右がどうなっているのかよく見えないためちょっと緊張する。水場に近いところでがチラチラと飛び回るホタルの灯が美しかった。

ようやくカローの郊外に出た。カローホテルという政府経営のホテルの脇を通過する。20世紀初頭からの伝統を持ち、カローでもっとも古いホテルである。

やがて裁判所等がある大きな通りに出て、モスクが見えてきた。ホテル到着は夜9時近かった。連れて帰ってくれたネパール系の道案内人に「外にメシでも食いに行かないか?おごるよ」と声をかけるが、彼は「もうおそいし、家がちょっと遠いので・・・」と夜道に消えていった。この人は宿の家族ではなく、必要に応じて呼ばれる日雇いの案内人である。

デイパックを部屋に置き、近所のネパール食堂に行く。疲れた身体と空っぽになった胃に温かい食事が心地よい。ビールの酔いもまた最高だ。

<完>