グジャラーティー・ターリー

インドで一番豪華なヴェジタリアン・ターリー。不思議なのは、おかずやご飯と甘い菓子類をいっぺんにサービスすることだ。またバターミルクも付いてきて、これらすべてが食べ放題で飲み放題なので、とても嬉しい満足感がある。品数多いおかずの味付けは、このグジャラート州以外のインド北部地域とはずいぶん異なる。ダールもやけに甘いのだが、それはそれで美味しい。おかずも店によってずいぶん異なるものを出しているし、同じ店でも日によって出てくるものがかなり違うところもある。

おかずとチャパーティーやプーリーを食しながら、甘い菓子をかじり、ときどきバターミルクで口の中を洗い流すという作業を繰り返しているうちに、フラフラになるほど空腹だった自分がどんどん満たされていき、もうこれで充分と頭では思いつつも、ついついお菓子をもうひとつとか、いやあちらの菓子もいいなと次々にもらってしまうのである。

ただ欠点もある。ご飯党にとってはちょっと残念なのは、ライスを所望すると「さて、これで私はおしまいにします」という合図となってしまうことだ。もちろん頼めばもっと運んできてくれるのだが、ご飯を頼んだからには、この人は当然これで食事はシメである、という了解がある。

画像左上がプーラン・プーリー

先述のとおり、店によって中身がかなり異なるので、各アイテムの見た目が美しい店もあれば、ボリューム感抜群の店もある。ボリューム感とはおかずや主食のみで醸し出されるものではなく、やはり大きな役割を占めるのはお菓子類である。

こちらの写真の店では、人参のハルワーとともに糖蜜漬けになったローティーというか、プーリーというか、その名も「プーラン・プーリー (PURAN PURI)」というのだが、さらにこの中には黄色いダールで作られた餡子が入っている。この餡のような味は日本にもあったような気がするが、非常に甘くて脂分も大変多い。ダールでこのような餡を作るというのは初めて知った。

インド広しといえども、おかずや主食とともに甘い菓子をパカパカ食べるのは、グジャラートくらいだろうと思う。

私の隣のテーブルには、デリーから来たという中年カップルが座っていた。私と同じターリーを食べ始めているが、甘い菓子類はすべて断っている。
「甘いものは苦手で?」と尋ねると、小声でこんな返事が返ってきた。
「そんなことないけど、甘いものは食後に、当然別皿で食べたいもんだねぇ・・・」

まさにそのとおり。私もまったくもって同感なり。

インドのチベット人

以前、MAJNU KA TILLAと題して書いてみたデリーのマジヌー・カー・ティッラーだが、この地はasahi.comの連載:地球を食べるの記事でも取り上げられているのを見つけた。

(地球を食べる)望郷の味チベット料理 (asahi.com)

中国による「チベット解放」後にインドに難民として逃れてきたチベット人たちに、インド政府は相応の待遇を持って迎えてきたと言える。その中で経済的に成功した者も少なくないが、彼らはあくまでも異国インドに難民として仮住まいをしている立場にしか過ぎない。

しかしながら、すでに三世代目、四世代目に入ってしまっており、国籍は持っていないものの生まれも育ちもインドで、祖国チベットを訪れたことさえない、事実上の「チベット系インド人」化してしまっている現在、彼ら自身がこれからどうしていくのか、またインド政府も将来的に彼らに対してどのような対応をしていかなければならないのか、真剣に取り組まなくてはならないだろう。

現在のダライラマも未来永劫に彼らとともにこの世におられる訳ではない。インド中に散らばるチベット人たちを結ぶ大きな求心力が失われたとき、彼らのコミュニティはどうなっていくのだろうか。

インドをはじめとする在外チベット人コミュニティをまとめあげる存在の代替わりは、それがたとえ次に転生するダライラマであっても、俗人の中から選ばれた人物がその役割を担うことになっても、相当な混乱が生じることは間違いない。中国当局による工作の可能性はもちろんのこと、彼ら自身の中にも野心を抱く者たちの存在があり、激しいさや当てが繰り広げられることは避けられない。

また、現在のチベットの情勢が変わる見込みもないわけだが、万が一、将来何か思いもよらないことが起きて、彼らが帰還することが可能になったとしても、すでに数世代に渡り生活基盤を築き上げ、それなりに安定した生活を営む現在インド在住のチベット人たちの果たして何割が戻ろうと決心することだろうか。

遠くない近未来には、彼らインド在住のチベット人たちがインドに帰化することを求めなくてはならず、そしてインド政府もそれを受け容れなくてはらない日がやってくることは想像に難くない。

Cha Project コールカーター華人街復興計画

最盛期には2万人を数えたというコールカーターの華人人口。市内中心部のラール・バーザール界隈を中心とするあたりを旧中華街とすれば、東郊外のテーングラー地区が新中華街となる。

どちらも1962年の中印紛争の勃発にともない、敵性国民として検挙されたり、ラージャスターン州にある強制収容所に送られるなどといった扱いを受けるようになってから、その数は激減。同様に、そのころまでは西ベンガル州のダージリン、アッサム州(1972年に分離したメガーラヤ州を含む)の一部にも存在していた華人コミュニティもこうした動きにより大打撃を受けることとなった。

その後も華人人口は漸減しており、インド国外、とりわけカナダに移住する人たちが多く、彼らは直接大陸から来たわけではなく、父祖は中国出身でも自身の生まれ育ちはインドであるため、「印度華人」というアイデンティティを持つことになり、こうした人たちが旧正月にはコールカーターに残る親戚を訪問したりしている。

さて、この中華街復興のため、10億ルピー規模のプロジェクトが進行中であるとのこと。その名も「茶プロジェクト」というもので、観光振興を狙ったものであり、シンガポールの華人グループと西ベンガル州の観光担当部門が共同で進めていくものであるとのこと。

混雑している旧中華街の小路を「フード・ストリート」として打ち出し、郊外でスペースに余裕がある新中華街では文化紹介やエンターテインメント的な場を準備するとのことだ。両中華街が今後どのようになっていくのか、お手並み拝見といったところだ。

すでにシンガポールではそうしたプロジェクトは手慣れたものであろうことから、ソツなく上手にまとめてみせてくれることだろう。

Kolkata: Rs 100cr revival for ‘twin Chinatowns’ (THE TIMES OF INDIA)

 

東京都内のインド料理店

従来、多くの「インド料理店」とは、ムグライ料理やパンジャーブ料理といったインド北西部の料理が大半であった。その経営者や従業員も主にインド北西部かネパール、パーキスターンから来た人々というケースが多く、どこも似たり寄ったりの食事を提供していた。

そのため、インド料理といえばタンドゥーリー・チキンやケバーブ、そしてナーンが必須であるかのように捉えられていたりするようだ。

そんなわけで、南インド料理を標榜するレストランでもこれらのディッシュがメインメニューに挙げられていたりして、ちょっと何だかなぁ?と思ったりする人も少なくなかったことだろう。もちろん現在も同様で、新しくオープンした料理屋を覗いてみても、往々にしてそんな具合。

ちょっと趣向の違う感じの店となると、飲み屋主体の店などもあるが、そうしたところでは「メイン」の品目に入っているタンドゥーリー・チキンとやらが、タンドゥールで焼いたものではなく、食紅だかパプリカだかで赤く着色した鶏肉のブツ切りを油で揚げたものになってしまっていたりして、これまたたまげてしまう。知り合いのヒマーチャル出身のオジサンがやっている「オヤジの手料理」的な店では、おそらく簡単に手に入るし、冷凍の大きな半身を買うと安いからなのだろうが、魚料理にシャケ(!?)を用いていて、これまた困ってしまうのである。こんな具合だったら、東京で「標準化」されたありきたりの店のほうがよっぽどマシだったりするのだ。

だがそんな状況の中でも、インド各地の料理で勝負する店もいくつかあるようだ。

インド料理の固定観念が180度変わる珠玉の12軒in東京 (mecicolle)

個人的には、ピュア・ヴェジながらも多彩な小鉢とバリエーション豊かな味わい、食事の最中にこれまた様々な甘味類が提供されるグジャラーティー・ターリーの専門店が出来たら楽しいのになぁ!と思ったりもする。

グジャラーティー・ターリー

次々にいろんなアイテムが気前よく提供される中で、「ライスを頼んだらシメの合図」というグジャラーティー・ターリーのお約束事は、米食文化の日本には合わないはずではあるけれども。いや、それよりも大変高価なターリーとなってしまいそうで、なかなか手が出ないものになるのではないかと心配したくなったりもする。

MAJNU KA TILLA

デリーのカシミーリー・ゲートから北の方角、ヤムナ河とアウター・リングロードに挟まれた部分に、チベット難民たちの定住地として有名なマジヌー・カー・ティッラーと呼ばれる地域がある。デリー・メトロのヴィダーン・サバー駅を降りたところから、この場所を往復している乗合オートリクシャーを利用することができる。

オートを降りて、歩道橋で道路を越えた先がこの場所。沢山のタルチョがかかっていたり、チベット旗が建物にかかっていたりすることから、いかにもチベット人居住区という感じがする。

チベット人地区の入口
チベット仏教寺院
非常に狭い路地。こうした建物は違法建築ということになるのだろう。

最後にここを訪れたのは、もう十数年も前のこととなっているので、着いてしばらく歩いてみても、ここが同じ場所であるとはとても信じられなかった。建物の背が高くなり、空が非常に狭くなっているためもあるだろうし、洒落た店が増えているためでもあるかもしれない。もちろん、ずいぶん前のことであるがゆえに、私の記憶自体が変質してしまっているということも考えられるが、それら全てが合わさった結果、「とてもどこだか判らない」という具合に感じられるのかもしれない。

狭い路地の多いオールドデリー地区にあっても、あまりに狭く、くねくねと曲がり、道幅が少し広くなったり、極端に狭まったりしている頭上に高い建物がそびえている様子から察するに、このあたりのビルの多くは典型的な違法建築なのだろう。近年はさらに上階を建て増ししたりして、この有様にさらに拍車がかかっているのではないだろうか。

路地にはインド人の姿も少なくないが、チベット人たちがやはり多い。さきほどこちらに渡る歩道橋には路地には仏具の店があったりして、チベット文化圏のラダックのレーに戻ってきたような気さえする。中国からの麺その他の食品の輸入品が食料品店の店頭に並べられているのも目にする。

実に久しぶりに来てみたということもあるし、すでに昼前になっているが、まだ朝食を済ませていないため、レストランに入ってみることにした。月並みではあるが、ギャトクとモモを注文して、かなり待たされたものの大変おいしかった。

ハウズカース・ヴィレッジにあってもおかしくないようないい感じのレストランやチベット関係のグッズの気の利いた店もあって、なかなか楽しい。また、このあたりにはゲストハウスがいくつもあり、外国人の姿もままあることから、滞在している人たちもあるのではないかと思う。両替所もあるので特に不便はないことだろう。今度デリーに来たときには、ここで滞在してみるのもいいのではないかと思う。