ブラジル化?を目論むイースト・ベンガル

east bengal
 カルカッタを本拠地とするイースト・ベンガルは、言わずと知れた名門サッカークラブ。代表チームでエースストライカーのブーテイヤー(現在は同チームのライバルであり同じくカルカッタをホームとするモーハン・バーガーンに所属)もプレーしていた同クラブは1920年にスタートという長い歴史を持つ。まさにインドの地においてサッカーという競技の歴史とともに歩んできたのである。
 創立年のみ較べてみれば、FIFAランキング第一位でワールドカップ優勝最多(5回)を誇るブラジルの有名クラブの数々と肩を並べている。例えばコリンチャンスは1910年、パルメイラスは1914年、サンパウロFCは1935年だ。
 ブラジルのサッカーの歴史は19世紀末に遡ることができる。しかし当初は社会上層部の欧州系移民の競技であった。20世紀に入ってから1920年代あたりまでに大衆化が進んだ。そして1933年にプロチームが発足したものの、20世紀前半まではブラジルのサッカーはほぼ白人が独占するスポーツであった。
 現在同国が大勢の混血や黒人の選手たちを擁して、高い個人技とそれをベースにした即興的かつトリッキーなプレー、豊かなイマジネーション溢れるパスワークなどを通じて人々を魅了するようになったのは1950年代も後半から1970年代にかけて遂げた大変身の結果である。ペレやガリンシャなどに代表される非白人の名手たちが表舞台に次々に登場して『サッカー王国』の地位を築いた。その後のさらなる飛躍ぶりは私たちが目の当たりにしてきたとおりである。
 イースト・ベンガルに今期から就任したペレイラ監督は、母国ブラジル以外でもこれまでサウジアラビア、カタール、シンガポールなどでも指揮を取るなど国際経験も豊か。氏のスタイルは徹底した『ブラジル化』が特徴であるという。それはプレースタイルであり練習手法でもあり、あらゆる面からサッカー王国のエッセンスをインドに注入したいと考えているようだ。
 話は日本サッカーに戻る。ジーコがJリーグ草創期に鹿島アントラーズを日本のトップレベルにまで引き上げて黄金時代を築いたことを思い起こさせるものがある。1993年の開幕戦では当時40歳だった彼は名古屋グランパスエイトを相手にハットトリックを決めてチームを勝利に導いた。試合後に相手チームの選手が『憧れのジーコ』にサインを求めたという逸話もあった。当初は選手と指揮官を兼任する形でフィールドにも出ていたが、『サッカーの神様』としてのネームバリューはもちろんのこと、まだよちよち歩きだった日本のプロサッカー界に彼がブラジルから持ち込んだものは大きかった。後に代表チーム監督に就任してからの評判は芳しくなかったことは残念であったが、彼が日本サッカー界に伝えたそれは技術、戦術でもあり、スピリットやサッカーに対する思想でもあった。
 Jリーグ発足後の日本におけるサッカーの『大衆化』の勢いは相当なもので、それ以前は『観るスポーツ』としてはラグビーやアメフトの人気にさえ及ばなかった競技が、プロリーグ発足数年後にはプロ野球をしのぐほどの観客を動員するようにさえなる。これは子供たちのスポーツとしてのサッカーの競技人口の急速な拡大につながり、それまで花形だった少年野球を志す子供たちの数が突如減少したことから、『チーム存続の危機』という悲鳴が聞こえてきたのはそれから間もなくのことである。
 かつてのブラジルと違い、日本のサッカーは特定のエスニック・コミュニティや特別な階層の人々による占有物ではなかったとはいえ、決して数のうえでは多いとはいえない愛好家たちによるどちらかといえばマイナーな競技であった。サッカーの底辺の拡大つまり『大衆化』は、日本のプロサッカーのレベル向上、ひいてはこれまで3回を数えるワールドカップ出場に貢献したひとつの大きな要素である。
 サッカーというスポーツに憧れてその道を目指す少年たちが増えてくれば、世界第二位の人口を擁する大国がFIFAランキング130位台という不名誉な地位に甘んじることはないはずだ。つまるところインドのサッカーが世界の底辺から抜け出すために最も必要なものは、国内におけるこの競技の『大衆化』にほかならないだろう。かつてはブラジルで、近年では日本でもまさにこれが飛躍へのカギであった。
 ペレイラ監督がイースト・ベンガルに持ち込もうとしている『ブラジル』とは単にプレースタイルや練習手法を模倣するということではないだろう。サッカーという競技においてユニバーサルに通用するセオリーや技術などを、ブラジル式の手法で噛み砕いたものをインドに注ぎ込もうとしているはずだ。
 インドのトップチームの更なる強化というスペクタクルな効果が他チームを含めたリーグ全体のレベルを引き上げ、サッカーが子供たちにとって本当に『カッコいいもの』になり、ピッチ上の選手たちが『憧れのプレーヤー』として圧倒的な存在感を示すようになったとき、インドでサッカーの『大衆化』がジワリと始まるのだろう。インドの歴史的なクラブチーム、イースト・ベンガルの新たな試みに今後注目していきたい。

小売外資規制緩和 日本からも熱い視線

bazar
 インドの街並みを特徴づけるものとして、商業地域を担う主体が小規模な小売業者たちであることが挙げられるだろう。近ごろインドの都会に林立するようになった大型のショッピングモールにしてみても、喧騒の街角ではなく静かでモダンな建物の中であるという『器』が違うこと、多くがこぎれいで洒落た店であることを除けば、個々の業者たちが規模の小さな商いをしていることに変わりはない。
 日本のヨドバシカメラ、ビックカメラといった電化製品の総合アウトレット、あるいは大手ディスカウントストアと呼ばれるロヂャースやドンキホーテのような店舗、西友やダイエーといった大型スーパーのような大規模小売業者は見当たらないし、同一の看板を掲げて傘下の店舗を全国規模で展開するフランチャイズ式の商売も、ファストフードや携帯電話の販売店などを除けばあまり見ることができないのが従来のインドであった。一見これらに少々似ているものも確かにあったのだが、正確には従来型の規模の小さな小売業者がやや大型化したものという位置づけになるだろう。
 乱暴に単純化してしまえば、主要駅前や繁華街などに大型商業施設がドンと構えて地元商店街を睥睨する、いわば『大>小』『会社>個人商店』というシンプルな対立軸の中におけるある意味安定した華夷秩序的な構図が日本の街中風景とすれば、ひとクセもふたクセもあるオッサンたちや明日を夢見る血気盛んな若者たちが群雄割拠して、絶え間なく衝突しながら浮沈を繰り返す活気溢れる状態なのがインドの街中ということが言えるのではないだろうか。
 そんなインドは世界第八位の小売市場と言われる規模の巨大さから、小売業を生業とする海外企業からも今後の市場開放がどのように進むのか大いに注目されている。今年1月には単一ブランドを販売する場合おいては51%を上限とする外資本の参入を認められるようになったものの、ウォルマートのような外資の大型店舗による小売業者の進出を認めるところにはまだいたっていない。
 とはいえ、小売外資規制緩和が『あるのか?』ではなく、すでに『すぐ目の前!』という差し迫った状態になる中、近ごろ本格的なスーパーやコンビニをチェーン展開し始めた国内勢力が、やがて始まる外国企業による攻勢を迎え撃つ地盤を固められるようにと政府が時間を稼いでいるのが昨今である。
 風雲急を告げる中、『日本小売業協会』による『インド最新流通視察ツアー』なるものが来年3月に予定されている。欧米の郊外型アウトレットを展開する企業が進出を控えていることを踏まえたうえで、同種の事業を急ピッチで進める国内財閥系企業の動きを学ぶとともに日本の小売関連企業の進出の可能性を探るのがこのツアーの趣旨らしい。
 近い将来、デリーやムンバイーなどで『伊勢丹』で買い物したり、夜半に『ファミリーマート』にノコノコ出て行き弁当を買ったり・・・といった日常がフツーになってしまうようなことがあるのかどうかわからないが、インドのすぐ東に位置するアセアンの国々の都会ではそれなりに長い時間をかけて(国や地域によって時期はさまざまだ。第二次大戦後間もなくからという地域もあれば、日本や欧州が『戦後』から抜け出した60年代からというところもある。あるいは80年代以降の好調な経済成長を受けて外国資本の注目を浴びるようになった国々もある。ともあれ東南アジアでは外国企業による小売業のチェーン展開や大型総合店舗の上陸という現象がかなり前からジワジワと進行してきたことになる。その中で進出企業の『撤退』まで数多く経験している。
 これに対してこれまで数々の規制等により『未開地』として残されてきたインドでは、多くの国々が経てきた数十年におよぶ時間を飛び越えて一気に奔流にさらされることになるため、相当大きなインパクトを受けることは容易に想像がつくものの、実際それがどれほどの規模のショックとなるのかちょっとわからない。もちろん地域や業種によっては細々と単品あるいはごく限られた品数を小売しているだけでは商いが成り立たなくなるケースも出てくるのだろうが、影響は決してそれだけではなく『インドで流通革命!』と表現されるような一大事が起きるのではないだろうかとも思う。
 もちろん外資をはじめとする大型商業施設が林立してみたところで、従来の小売業者たちがいなくなってしまうわけではないのは日本のみならず東南アジアの国々を見てもわかるとおり。また外国企業や国内大手資本がターゲットとする中間所得層よりも下の部分には貧困層を含むさらに膨大な人口を抱えているが、彼らまでもが新しい顧客層として取り込まれるわけでないことは言うまでもないだろう。それでも商業地内での力関係が、それ以前の『群雄割拠型』から『華夷秩序型』へとシフトすることは間違いないように思われる。
大型商業施設の進出は、小さな店舗で客を待つ『一国一城の主』たちにどの程度の影響を与えるのかは今後人々が目にしていくことになる。そして街中の風景も今後ずいぶん変わっていくことだろう。

メトロが変えるか? 街の風景

メトロ
 先日、ムンバイー・メトロのことについてアップした後、インディア・トゥデイ(10月4日号)に各地で広がるメトロ建設計画について書かれた記事が掲載されていることに気がついた。
 それによると、アーメダーバードとコーチン以外にも、バンガロール、ハイデラーバードでもこうしたプランがあり、コルカタでも市街東部にネットワークを広げることが構想されているとある。都市部の過密化が進む中で、交通渋滞の減少およびスピード化というふたつの相反する効果が期待できるうえに、公害と交通と減らすことにも貢献するため、まさに時代の要請にマッチするといったところらしい。
 
 個人的には既存のバス等の交通機関に較べて安全性と質も格段に高く、公共交通機関というもののありかたについて大きな指標となりえることからその存在意義は極めて大きいと考えている。ちょっと想像してみるといい。インドでクルマもバイクといった自前の足を持たず、でも運良く自宅も職場もそれぞれメトロの駅近くにあったとすれば、毎日それで通勤できたならどんなに楽なことだろう。たとえすし詰めの満員だって他の交通機関よりもずっと安心だ。
 メトロのネットワークが広がるにつれて、また他の交通機関と競合する部分が多くなるに従い、既存の交通機関のクオリティの向上もある程度期待できるだろう。またコルカタで検討されているように利用者たちの利便を図るため、市民の足として相互補完するためバスとメトロの走行ルートや停留所などの調和や共通チケットやパスといった構想もやがて当たり前のものとなるのかもしれない。
 渋滞、長い信号待ち、事故などによる遅れなどもあり、時間的にあまりアテにならない都会の路上交通よりもずっと正確に動くメトロは、ときに細い道を通ったり複雑なルートを取ったりするバスにくらべて、同じ時間かけて進む距離も長い。そのため人々の通勤圏も広がり都市圏をかつては思いもよらなかった遠い郊外へと拡大できる。
 人々はそこにマイホーム取得の可能性を感じ、需要をアテこんだデベロッパーが開発を進める。それまで二束三文にしかならなかったような土地の資産価値がグンと上がり・・・といったお決まりのパターンとともに、周辺の小さなタウンシップを呑み込む形で市街地が拡大していくことになる。こうした動向の副産物として、いつしか都心部(デリーに限らず)の旧市街などからより条件の良い地域に流出する人々や店などが出てくるといった、いわゆるドーナツ化現象が起きることもあるのだろうか。
 それはともかくこうした動きの中で、インドの街にありがちな極端な過密さも多少緩和される・・・といいのだが。
 ただしメトロ建設の問題は、インドのような途上国にとって実に高い買い物であることだ。先述のインディア・トウデイの記事中には、世界中のメトロで経営的に成功しているのは香港と東京くらいと書かれているのだが、果たして本当だろうか。
 でも極端な話、車両と人員と運行ルートさえ確定すればすぐにでも開始できるバスのサービス(しかも前者ふたつは往々にして民間業者による請負が多い)に比較して、メトロというものは都市交通機関としては初期投資も維持費もケタ違いに高いことを思えば、あながちウソではないのかもしれない。
 こうした夢が描けるのは、もともとのスタート地点が低いため発展の成果が視覚的に認知しやすいこと、地域的にはいろんな問題を抱えつつもマクロな視点から眺めた経済が好調続きであることに尽きるだろう。しかし総人口の6割以上を20代以下の若年層が占めるこの国で、多くの人々が『今日よりも良い明日』を期待できるのは実に喜ばしいことではないだろうか。

世界最古の『会社』

 歴史と文物の宝庫インドでは、東西南北どこに行っても由緒ある建物や街並みに出会うことできる。文化の多様性と重層性をヒシヒシと感じさせてくれるこの国は、いつどこを訪れても非常に興味をそそられるものだ。
 ところで我らがニッポンの『カイシャ社会』の中には、仰天するほど長寿な企業が存在していることに気がついた。それは起源を江戸時代にまでさかのぼる反物屋や百貨店といった程度の話ではない。なんと紀元578年創業なのだというからびっくり。
 イスラーム教の預言者ムハンマドが誕生したのが570年あたりとされるし、インドではアジャンターの石窟がまだ現役の僧院群として機能していた時代だ。玄奘三蔵がインドを訪問したのはさらに50年ほど経ってからだ。
 その『歴史的企業』金剛組は総合建設会社だが、特に寺社建築の設計・施工・文化財建造物の復元、修理等を得意としている。会社の沿革をひもとくと実に興味深いものがある。
 紀元578年に聖徳太子の命を受けて百済の国から三人の工匠が招かれ、この中のひとり金剛重光なる人物が興した宮大工集団が現在の金剛組のはじまりだという。そして『三人の工匠は仏への帰依の心をこめ、そのもてる技(わざ)のすべてをもって、四天王像をまつる寺院創建のために尽くしました』と同社のウェブサイトにある。四天王寺に続き法隆寺を建設したのだそうだ。
 以来日本の寺社建築とともに千四百年という気の遠くなるような長い時間を歩んできたのだから世界遺産みたいなものである。ウィキペディアによれば金剛組は現存する世界最古の企業(ただし株式会社化は1955(昭和30)年)だ。
 ただし今年1月に現代の当主である金剛重光氏により、中堅ゼネコン高松建設の子会社としての新たな『金剛組』に営業譲渡して社員の多くを移籍させ、もともとの母体である旧来の金剛組についてはケージー建設と改称したが、7月下旬に自己破産を申請している。
 これらの一連の動きにより、今年からは金剛組とそれを千四百年以上もの長きにわたって率いてきた金剛一族との縁は解消されたといえるが、歴史という視点から眺めると日本の会社社会もなかなか捨てたものではないようだ。
ケージー建設:大阪地裁が破産手続き 日本最古の建築会社
(毎日新聞)

傷んだお札

Rs
 90年代半ば以降、インドで流通する紙幣の多くがガーンディーの肖像入り新しいタイプのものとなった。以前のものにくらべて紙質も良くなり、耐久性もずいぶん向上しているので、お札の破れについてあまり気にする必要もなくなってきた。でも紙幣たるもの、使い込むほどに痛んでくるのは当然のことだ。
 小額紙幣ならまだしも500や1000といった額面の紙幣となれば、受け取るほうも入念にチェックすることが多く、うっかり破れたお札を手にしてしまうとなかなか使うことができなかったりする。
 破れた札への許容度も地域差があるようで、1Reから5Rs程度の小額紙幣については、グジャラートの一部地域などではボロボロになったお札をビニールの小袋に密封して流通させているところもあったりする。あくまでもローカルなルールのため、他地域に持っていくと受け取ってはもらえないのだが。
 また一度『ダメになった』お札を、一目ではそうとわからないようにミクロン単位の精密さ(?)で上手に糊で貼りあわせるなどによって見事に補修した『労作』を目にすることもある。
 ところでリザーブ・バンク・オブ・インディアの『soiled, imperfect or mutilated notes』についてのRefund Rulesとやらに目を通してみると、ダメージを受けた紙幣の取り扱いについていろいろ書かれているものの、『折り目から切れ込みが入った』とか『端っこが少し裂けた』程度で紙幣の効力が停止されて使用できなくなる・・・などということは特に書かれていない。多少破れたお札を受け取らないことについて法的な根拠はあるのだろうか? 隣国のパキスタンやバングラデシュでは紙幣の破れについてさほど神経質ではないため独立以降の慣わしなのかもしれない。
 そういえばインド・ルピーならずとも、ややくたびれた米ドル札等の外国紙幣の両替を断られることもあるが、こうしたことは他の途上国でもときどきある。お札は新しくてキレイであるのに越したことはないようだ。
RBI(Note Refund) Rules