ひとたび国境開けば

 このところスィッキムからチベットのシガツェ地区を結ぶナトゥラ(乃堆拉)峠経由の国境ルートが、印中間の公式な交易路として44年ぶりにオープンしたことが伝えられており、両国の国境警備担当者たちが握手を交わす姿、地域の商売人たちの談話なども報じられている。
 近年の印中関係の好転の結果であることはもちろん、長いこと旧スィッキム王国のインドへの併合を認めない立場を取ってきた中国のスタンスの転換の意味は大きい。
 結局地続きの両国である。これまでこの地域で影に日向に人や物資の移動は多少続いてきたにせよ、公には両国にとって『地の果て』でしかなかったヒマラヤの国境地帯が、いきなり『外界への窓口』になることから、これといった主要産業を持たない同地域の経済発展への期待がかかっている。
 だが単に『交易にかかわる収益+商機と雇用の増大=富裕化』という図式以外にこの交易路が地元社会に与えるインパクトがどのようなものであるか興味を引かれるところだ。
 交易・物流の拠点では商取引そのものだけではなく、運送業者や貿易手続き等にかかわるエージェント等、道路や公共施設そのインフラ整備に加えて民間による開発事業等も含めた建築関係の需要も出てくるし、宿泊、食事、娯楽等といった周辺産業もやってくるだろう。 ここが新たな『ビジネスチャンス』であるのは、アンダーグラウンドな人々にとっても同じことで、怪しげな人々の姿もチラつくようになるのも不思議ではない。
 とりもなおさず、これらすべてを包括した様々な業種に雇用を求める人々もやってくるはずだ。
 そんなわけで、このあたりでおカネが急速に回り始めるとともに、新たに定住する人とともに出張者や臨時雇いなども含めた流動的な人口をも加えた『総人口』の伸びも前例のない規模になるだろう。すると今度は住宅や子弟の教育その他生活関連のニーズも高まってくる。
 もうすでに相当規模の人口移動は始まっているのではないだろうか。従来からこの地域周辺に住んでいた人たちとはコトバも民族も異なる人々も流入してくることだろうから、今後いろいろ地元っ子たちと新住民との間での摩擦などもありえよう。
 そしてこの地域は国境の向こうからやってくる人やモノを通じて中国各地とも結ばれることになる。ボーダーの向こうとこちら側がひとつの経済圏となることから、中国側からの影響も様々な面で見られるようになるのかもしれない。このあたりの商売に従事していると、インド首都や国内他エリアの出来事よりも、国境向こうの取引先地域の動向のほうがよっぽど気になっていてもおかしくない。
 この地域がこれまでとはずいぶん違ったものになるのは想像に難くないようだ。今後の動向に注目したい。

遺跡の民営化

 やや古い話になるが、インディアトゥデイ6月14日号にちょっと気になる記事が掲載されていた。ラージャスターン州が史跡運営の民営化に踏み出したという記事である。新たな収益の見込みだけではなく、これまで顧みられることのなかった史跡へのケアをも視野に入れているのだという。
 現在同州政府管轄下にある250の史跡があるが、これらの入場料収入は年間5千万ルピーにしかすぎないのだという。収入不振の原因として体制、スタッフ、セキュリティ等の不備が指摘されており、改善には巨額な投資と多くの熟練した職員たちが必要とされる。
 だがこれらの財源がないため、ラージャスターン州政権は大胆な策に打って出た。保護指定を受けた史跡の管理と整備、運営させる権利を与えることと引き換えにロイヤルティー収入を上げる道を開くため、史跡運営委託に関する法律の整備を行なったのだ。現在、30の史跡が『民営化』の俎上に上がっており、ジャイプルのハワー・マハル、ナーハルガル、ジャイサルメールのパトワー・キー・ハヴェリー、ブーンデイーのラーニー・キー・バーウリーなども含まれている。
 史跡等の管理当局のエライさんの談話も取り上げられている。『マルチメディア・センター、カフェテリア、みやげもの屋やここで繰り広げられるプログラムなどによる収入が見込める』とある。やっぱり史跡民営化の本当の目的は商業化らしい。行政による直接の関与から切り離すことによるコスト削減、民間資本による観光開発による歳入の増加による一挙両得を狙っているようだ。
 州首相のワスンダラー・ラージェー自身のコメントにも『史跡のより良い保存はもちろん、年間10億ルピー(現行の20倍)の収入を上げること』とある。もちろん財政的には史跡管理にかかる費用等を史跡自身の収入から拠出することができればそれに越したことはないだろう。史跡だけではなく州内の18の博物館の民営化も検討されている。

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マッチが結んだ日印の縁 2

matches imported from Japan
 日清戦争期(1894〜95年)には日本在住の華僑たちが帰国したことによる物流ネットワークの停滞、戦時のため労働力が不足するなどといったこともあったようだが、それでもマッチ産業は順調に成長を続けていたという。
 黄燐マッチの製造禁止は、それまで主にこれを製造していた大阪のマッチ産業に打撃を与えた。それでも第一次世界大戦(1914年〜18年)のころには、当時のマッチ大国スウェーデンからの輸入がほぼストップしたスキを突いて、インド市場では日本製マッチがシェアを拡大させた。
 この際に取引の中で重要な役割を担ったのが、当時すでに上海や香港といった中国大陸の拠点に進出していたインド系商人たちだ。彼らは日本での足がかりを神戸に定めて祖国での日本製マッチを普及に力を注ぐ。
 この時期、すでに横浜にもインド人コミュニティが出現しており、1923年に起きた関東大震災で在住のインド人28人が犠牲になっている。この際に彼らが横浜市民から受けた援助に感謝して寄贈されたのが山下公園にある『インド式水塔』で、現在は横浜市の『歴史的建造物』のひとつに指定されている。
 それ以降にはそれまで日本から輸出していた国々でも盛んにマッチ製造が行なわれるようになったこと、スウェーデンが巻き返しを図ったこと、インド政府がマッチ輸入に対して高率な関税を課するようになったことから、日本のマッチ産業は苦境に立つ。それを見計らったように進出してきたスウェーデン資本に国内生産のおよそ7割を抑えられてしまう。
 マッチ生産三大大国の一角とはいえ、当時の日本のマッチ製造といえば、ちょうど現在のインドのビーディー製造のごとく、家内手工業的な生産方法が主体であったらしい。近代的な技術で大量かつ安価にマッチを生産するスウェーデンの会社が進出してくるにあたり、地場資本の小規模な業者はこれに太刀打ちできずに姿を消していき、日本におけるマッチ産業は衰退していった。日本在住のインド商人たちは、『日本製マッチ』という有力なアイテムを失うことになった。
 やがて1930年代に入り、世界各地で排他的なブロック経済化が進み、続いて第二次大戦期に入ると、反英米的な地域に居住して商いを行っていたインド系商人たちには受難の時期であった。枢軸国のひとつであった日本在住のインド人たちも例外ではなく、彼らの立場は『連合国側の市民』ということになってしまう。彼らが得意とした当時の英領各地との貿易が困難となったことは、多くのインド系の人々が帰国ないしは第三国へと移動する契機となった。

燐寸博物館

マッチが結んだ日印の縁 1


 日本ではいまやマッチを手にすることはほとんどなくなった。ある時期までは飲食店や宿泊施設などに、名前やロゴマークなどが刷り込まれたマッチがよく置かれていたものだ。 
 喫煙者は肩身の狭い世の中となり、私自身もタバコをやめてしまったので特に気をつけて見ていないが、こうした需要もかなり減っているのではないだろうか。
 そのいっぽうインドではマッチがまだまだ元気だ。ワックス軸を使用したタイプもあるが、ささくれだった木製の頭薬の量も形状も一本一本違い、手作りの小箱にカラフルな絵柄の入ったマッチはなかなか味があり、切手同様に収集する人は少なくないようだ。
 マッチの歴史は1827年にイギリスで塩素酸カリウムと硫化アンチモンを使った摩擦マッチが発明されたのが始まりだ。まもなく1830年にフランスで黄燐マッチという形に改良されたものが市場を席巻することになる。
 だが黄燐の特徴として毒性が強いことによる被害が社会問題化したこと、そして頭薬部分を何に擦り付けてもパッと発火するので便利ではあったが、思わぬところで自然発火することによる事故も多発した。たとえばブーツの底でチャッと擦って点火したマッチでタバコに火をつけていたりしていたアメリカのカウボーイたちが、乗馬中に衣服のポケットに突っ込んでおいたそのマッチが突然発火し、同じ箱に入っていたいくつものマッチの頭薬とともに炎上して本人は火だるま、なんていう事故もあったようだ。また商品としてのマッチを移送中、あるいは倉庫に保管しているときに自然発火で火事ということも散発していたという。
 こうした危険性がゆえに20世紀初頭に黄燐禁止の条約が採択されて欧米諸国はこれに批准。マッチが主要な輸出商品であった日本がこの流れに同調するには1921年までかかった。
 人々はかつて日々の暮らしの中で火を起こすのに四苦八苦していたが、マッチという便利な道具の出現によりその労苦から開放された。黄燐マッチが禁止されたといっても、この手軽なツールを手放すわけにはいかなかった。
 そこで登場したのが現在販売されている安全マッチというタイプのものだ。頭薬には赤燐を使い、マッチ箱側面のザラザラしたいわゆる『横薬』で擦らないと火が付かないため安全性が飛躍的に向上した。
 日本のマッチ産業は、旧金沢藩士であった清水誠がフランス留学の際に学んだマッチ製法を持ち帰り、新燧社という企業を設立して黄燐マッチの製造に取りかかかったのがはじまりと伝えられている。先見の明のある彼は黄燐マッチの将来性を見限るや、今度はスウェーデンに渡って赤燐を使った安全マッチの製造法を学び、1879年からは早くもこちらの製造に取りかかっている。
 後に日本の主要な輸出産業にまで成長するマッチ製造業は、明治維新以降失業した旧氏族たちへの雇用対策の意味もあったという。主要原料である硫黄や木材も豊富だった日本にはまさにうってつけの産業であった。ただし労多くして実入りの少ない製造現場の仕事はそう長く続かず、これと入れ替わるようにして女性たちがこの職場に進出してくることとなる。
 マッチ産業の先駆者、新燧社に続いていくつもの後発企業がこの分野に進出してきた。日本のマッチ産業は順調に成長を続け、20世紀初頭にはアメリカ、スウェーデンとともにマッチの世界三大生産国に数えられるまでに成長した。生産量の8割が輸出に回され、貴重な外貨獲得の花形産業となった。
 当時は開拓地であった北海道で、製軸工場が地域振興の一翼を担うとともに、外界に開かれた貿易港としての性格を持つ神戸と大阪では、時宜を得た成長産業となり、ここで生産されたマッチは中国方面に盛んに輸出されることになる。この時期すでに当地に住み着いていた華僑たちの役割も大きかった。
 1880年代、そして続く90年代は日本製の黄燐マッチが中国大陸での需要とともにインドへも盛んに輸出されるようになった。インドへの輸出の際には途中で積み替えをしなくてはならなかったが、1893年には日本郵船がボンベイ直行航路を開設したことが契機となり、同国向けの輸出が急増する。商標のデザインはやはり輸出相手国の趣味に合わせたものが多い。インドへは神々、牛や象の図柄が多かったようだ。
 主な輸出先としては、インド、中国以外に東南アジア、アメリカ、カナダ、オーストラリア、ロシアなどがあった。

日本マッチ小史

第17回インド家庭用品展

 5月23日(火)から25日(木)まで、マイドームおおさかにて第17回インド家庭用品展http://www.itpotyo.org/2005tenzi/katei17.htmlが開催される。
 インド貿易振興局(ITPO)主催のこの催しには50社が出展し、インテリアファブリック各種、リネン類、ラグやカーペットその他が展示される。
 同じ会場で7月25日(火)から27日(木)まで第27回インド衣料品展も開かれる予定だ。こちらは衣類に加えてアクセサリー類や布地等が展示されるとのことである。
 日本におけるインド貿易振興局主催で毎年開かれているこれら展示会は、東京でも行なわれたこともあるが、開催数は大阪のほうが圧倒的に多い。インド産品の大口顧客は関西地域に集中しているのだろうか。
 インド貿易振興局の海外支部は、東京、ニューヨーク、フランクフルト、モスクワ、サンパウロの5ヵ所にある。日本は同国の貿易振興のカギを握る重点国のひとつであるようだ。