会期余すところ一日となった第13回東京国際ブックフェア。今年も『FEDERATION OF INDIAN PUBLISHERS』のブースにデリーのアサフ・アリー・ロードにあるSTAR PUBLICATIONSが出展している。
もうひとつインドから参加予定であった児童書(およびCDやVCD)を取り扱うBREPO SYSTEMS INDIA PVT LTDはフェア開催直前になってキャンセルとなったとのことで、彼らが陳列するはずであったブースは空のまま。
イベント名に『国際』という二文字が付いている割には海外からの出展は質量ともに乏しいのは、読書大国ながらも出版物のほとんどが日本語であるというコトバの壁もあろうし、どの分野でもマテリアルのうち、かなりの部分が『国産』で完結しているという事情もあるだろう。 また非常に商業的すぎて(出版業というビジネスの見本市なので当然ではあるが)このフェア自体にあまり関心を持てないのだが、ときに掘り出し物がないでもない。
もちろんこの催しは単に書籍をその場で販売するだけでなく、翻訳、版権、書籍流通その他の取引先を探したりといった様々な目的を持った人たちが集まってくる。 日本で誰もがその名を耳にしたことのある高名なフォト・ジャーナリストが著書を手に海外の業者相手に売り込みを図っているのを目にした。
ともあれインド書籍の本はその場で販売しているので早い者勝ち。ブックフェアに出かける方はちょっと覗いてみてはいかが?
※東京国際ブックフェア最終日は7月9日(日)
カテゴリー: column
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インドの書籍が来日中
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遺跡の民営化
やや古い話になるが、インディアトゥデイ6月14日号にちょっと気になる記事が掲載されていた。ラージャスターン州が史跡運営の民営化に踏み出したという記事である。新たな収益の見込みだけではなく、これまで顧みられることのなかった史跡へのケアをも視野に入れているのだという。
現在同州政府管轄下にある250の史跡があるが、これらの入場料収入は年間5千万ルピーにしかすぎないのだという。収入不振の原因として体制、スタッフ、セキュリティ等の不備が指摘されており、改善には巨額な投資と多くの熟練した職員たちが必要とされる。
だがこれらの財源がないため、ラージャスターン州政権は大胆な策に打って出た。保護指定を受けた史跡の管理と整備、運営させる権利を与えることと引き換えにロイヤルティー収入を上げる道を開くため、史跡運営委託に関する法律の整備を行なったのだ。現在、30の史跡が『民営化』の俎上に上がっており、ジャイプルのハワー・マハル、ナーハルガル、ジャイサルメールのパトワー・キー・ハヴェリー、ブーンデイーのラーニー・キー・バーウリーなども含まれている。
史跡等の管理当局のエライさんの談話も取り上げられている。『マルチメディア・センター、カフェテリア、みやげもの屋やここで繰り広げられるプログラムなどによる収入が見込める』とある。やっぱり史跡民営化の本当の目的は商業化らしい。行政による直接の関与から切り離すことによるコスト削減、民間資本による観光開発による歳入の増加による一挙両得を狙っているようだ。
州首相のワスンダラー・ラージェー自身のコメントにも『史跡のより良い保存はもちろん、年間10億ルピー(現行の20倍)の収入を上げること』とある。もちろん財政的には史跡管理にかかる費用等を史跡自身の収入から拠出することができればそれに越したことはないだろう。史跡だけではなく州内の18の博物館の民営化も検討されている。 -
パイロットが足りない!
経済が好調なインドで、空の交通網の発展も順調。このところいくつもの新たな航空会社が立ち上がり価格競争時代に入っている。
そうした中でパイロット不足が伝えられており、既存会社と新興のエアラインの間で操縦士の引き抜き合戦、それに伴う給与の高騰ぶりなどについても伝えられている。
クルマの免許などと違い、所持者の数が限られており、トレーニングには膨大な費用・時間がかかり、養成機関のキャパシティも限られていることから、有資格者を大量に供給する術もない。だからパイロットは現在のインドで最も旬な職業なのかもしれない。
航空機を操縦する資格を持つ人たちの職場といえば、旅客機や貨物機で各地を結ぶ航空会社がまず頭に浮かぶが、私たち一般市民と直に接点をあまり持たない分野に、その有資格者にして経験豊富な人材が大勢揃っている。それは軍隊だ。
インディアトゥデイ6月28日号によれば、民間航空会社のパイロットの初任給が15万ルピー前後になるのに対して、空軍パイロットは2万5千ルピーと大きく差がついている。従前はそれほど大きな格差はなかったはずの空軍と一般旅客機のパイロットの賃金格差広がっている。その大きな要因のひとつがここのところの航空業界の好況だ。
インドの航空界には、今後5年間で新たに300機が投入される予定であり、新たに3500人ものパイロットが必要になるという。ちなみに現在インドの民間航空会社で就労しているパイロットは2500人とか。そうした中で空軍パイロットの中からより良い報酬を求めて航空会社に転職することを目的に軍を退役したいと申し出るケースが続出しているのだそうだ。
だがインド空軍もまた340名ほどのパイロットが不足しているらしい。しかし肝心の空軍機の不足から、極めて貴重な資格を持つ操縦士の三割ほどの人員が事務仕事をしているというもったいない話もある。
空軍と民間航空会社の間での人事交流、つまり軍パイロットが必要に応じて一般の航空会社のフライトの操縦桿を握ることができるようにできないものかという意見も以前からあるようだが、国防という重大な国家機密に係わることでもあることから、実現は難しいようだ。 -
緊急ニュース インド産マンゴー日本上陸!

そろそろらしい・・・とささやかれていたインド産マンゴーの日本への輸入解禁だが、ついにそのときがやってきた。今年6月23日付でその禁が解けたのだ。
インドではマンゴーなどの果樹につくミカンコミバエやウリミバエといった害虫による被害が起きていることを理由に、同国からこうした昆虫の寄主植物の輸入を禁止していた。
しかし以前よりインドはアルフォンソ種をはじめとするマンゴー類の日本への輸入解禁を求めてきており、蒸熱処理による殺虫試験データを日本側当局に提出してきたと農林水産省の資料にある。その後専門家の調査や検討を重ねた結果、このたびの輸入解禁の措置が取られることになったのだという。
同省発表によれば、今後日本に入ってくることになるのは『アルフォンソ種、ケサー種、チョウサ種、バンガンパリ種、マリカ種およびラングラ種』(品種名つづりは同省PDF文中ママ)とされる。
まさにこれは黒船襲来。『エライことになった・・・』と青くなっているのは、従来フィリピンやメキシコといった国々からマンゴーを輸入していた業者たちかもしれない。あるいはこれを機にインド産に乗り換えるのだろうか。また宮崎や沖縄などで、小売価格にして一個2千円前後もする高〜いマンゴーを生産している農家も『えぇっ、そんなぁ〜!』と困惑する顔が目に浮かぶ。
これまで低調ながらも穏やかに棲み分けがなされていた日本のマンゴー市場をいきなり激震が襲った・・・という状態であろう。
インド生まれのマンゴー第一陣が大量に上陸するまで秒読みに入った。やがて街角に山と積まれた肉厚のマンゴーの山から漂う芳香をかぐと『ああ、またこの季節がやってきた』と思うほど、日本の食生活に定着するのではないだろうと予想する人たちは多いはず。また熱烈なマンゴーファンにしてみれば、まさに『このとき歴史が動いた』という記念すべき出来事となる。
この夏はインド産マンゴーが大ブレークするはず。さあ、買い物カゴを持って八百屋へ走ろう!
インド産マンゴウ輸入解禁 −農水省 (農業共同組合新聞)
インド産マンゴウの生果実の輸入解禁について(農林水産省) -
転落する一家
BJP(リンク入れる)幹部にして能弁家、今年1月からヴァジペイー、アードヴァニーといった御老公たちが退き、指導部が一気に20歳近く若返りラージナート・スィンを中心とする新体制に移行してからの同党のまさに中枢を担う立場にまでのし上がった故プラモード・マハージャン。
4月下旬に家庭内での問題により自宅を訪れた実弟に射殺されるというショッキングな事件がインド全国を駆け巡った。病院関係者たちによる懸命の救命治療の甲斐なく、5月初めに死去。
エネルギッシュで頭脳明晰なプラモード・マハージャンこそ、新世代BJPの看板役者でもありカリスマ性の高い指導者のひとりだった。彼にとって、そう遠くない将来にインド首相の座に就くことも視野に入っていただろう。党自体は現在の国政の場で下野しているとはいえ、マハージャン氏自身は『まさに飛ぶ鳥を落とす勢い』というイメージがあった。
そんな人物が兄弟間のイザコザで命を落としてしまうのだから、運命というものはわからないものである。しかもマハージャン家の悲劇はこれにとどまらず、遺族たちはさらに弾みをつけて転げ落ちていっているように見える。
プラモード・マハージャンの死により、遺族たちが長く深い悲しみに打ちひしがれていたはずの6月2日の朝、息子のラーフルは飛行機に乗ってコルカタ経由でグワーハティーに向かい、ブラフマプトラ河で父の遺骨を散骨するはずであった。しかし彼はそのころ生死の境をさまよっていた。父の腹心だったヴィベーク・モイトラーとともに薬物乱用による意識不明の重態となり病院に急送されたのだ。ヴィベークは病院収容時に死亡が確認され、ラーフルは回復したものの警察から取り調べを受ける。麻薬使用を明らかにする病院の検査結果を受けて逮捕されることとなった。後日ラーフルは保釈されたものの、薬物について個人使用のみならず取引そのものにもかかわっていたのではないかとの疑いもかかっている。
父親の死を受けて政界入りすることが予定されていたラーフルだが、おそらくこの一件により政治家としてのキャリアはスタート前から潰えたようだ。コトが明らかになってから、同家と一定の距離を置こうとする党関係者は少なくない反面、ヴァジペイー元首相の発言『若いうちには過ちもある』などに見られるように、党幹部の中にはラーフルに同情的な者も多い。父親は亡くなったとはいえ、社会的に非常に影響力を持つ家庭背景があるだけに今後司法の場でどういう進展があるのか先行きは不透明である。
ラーフル本人は父親の死、3年ほど前から患っていたうつ病の具合が思わしくなく、投薬量を増やすなど精神的に不安定ではあったようたが、かといって麻薬に溺れる理由にはならない。『若者』とはいえ、青春真っ盛りの高校生の暴走ではない。ラーフルはすでに31歳。分別をわきまえた立派な大人であるはずなのだ。
家族、特に彼の母親や妹にとってはたまらないだろう。夫の死につづいて今後頼みとすべき息子も瀕死の状況に陥り、回復してからは麻薬使用と取引の疑いで警察の厄介になっているなんて。
兄弟間の軋轢、腹心と息子の薬物禍が明らかになることにより、故マハージャンの名声も大きく傷ついた。私個人としては、家庭という小さな社会、人としての根幹となるべき場さえもまとめられないようで国政をまとめられるものだろうか?と思うところもあるのだが、世間を見渡してみれば高名な政治家であっても家庭にはいろいろと問題を抱えているという例は少なくないようだ。
人それぞれいろんな考えはあることと思うが、どんな仕事にかかわる人間であっても、家庭を顧みないようでは人間として失格だ。もちろん個々にかかる社会的な責任から家庭へのしわ寄せが及ぶことは多々あるにしても、家庭こそが人間としての根幹部分であることは忘れてはならないと思う。
今回の一連の騒動は、私とって縁もゆかりもない一家族の悲劇だが、その凋落ぶりを報道で見聞きするたびにとても悲しくなってくる。
Nerve Timeline for Rahul Mahajan (Nerve News of India) -
やっぱり良かったこのレンズ
被写体という『ソフト』の宝庫がインドならば、カメラやその周辺機器といった『ハード』大国はニッポンだ。特に写真がデジタル時代を迎えてからはその傾向が一層顕著になっている。
先日『旅行に最適な一本!』として取り上げてみたシグマ17-70mm 2.8-4.5 DC MACRO を手に入れてみた。レンズの長さ、鏡胴の太さや重量はおなじくシグマのデジタル専用レンズ18-125mmあるいは18-200mmといったものと同等でかなりコンパクトだ。
正直な話、17-70mmといえば焦点距離の重なるレンズを複数持っているため、このテのズームレンズをマクロ機能目当てに購入するのはもったいない気もしていた。それならばちゃんとしたマクロレンズを購入したほうがいいだろうと。
しかし店先で試用品に触れてみて「あぁ、これはいい!」と迷いは吹っ切れて、その場で購入。なんがそんなに良いかといえば、やっぱりマクロ機能なのである。最短撮影距離がズーム全域で20センチ(カメラボディの撮像素子表面からの距離)なので、70mmのテレ端を使う場合はレンズ表面に衝突してしまうくらい接近できる。この焦点域では開放値が4.5と暗くなってしまうものの、一本のレンズでマクロ撮影を含めてほぼ何でもこなせてしまうのはとっても便利だ。それに広角端では開放値は2.8と同程度の焦点域のズームレンズよりも明るいこともなかなか気に入った。
さっそく試しにユリの花を撮ってみる。
シグマとタムロンの両社は常に一方が目新しいモデルを出せばもう一方も同種の競合モデルを出し、交換レンズの分野でしのぎを削りあう二大巨頭といった感じだが、今回もやはりシグマのこのレンズにぶつける魅力的な製品を市場に送り出している。それは
SP AF17-50mmだ。テレ端が50mmと短いものの、ズーム全域でF2.8という使い勝手の良さそうなもの。焦点域によって最大開放値が変動するシグマ17-70mm 2.8-4.5 DC MACRO(標準的なズームレンズはたいていそうだが)に対し、この部分は大きなアドバンテージだ。
最短撮影距離27センチと大きいためマクロ的に使う場合は前者のシグマ製品に軍配が上がるのだが、こちらもまた優れたレンズだと思う。
近ごろはデジタルカメラもいろいろと多種多様になってきている。次から次へと興味をそそるものが出てきて目の毒だ。 -
インドの書籍来日予定
今年で13回目となる本の見本市、東京国際ブックフェア2006は7月6日(木)から9日(日)までの4日間開催される。会場は東京都江東区の東京ビッグサイト。
今年もまたインドからデリーのAsaf Ali Rd.でHindi Book Centreを運営するStar Publicationsにより、Federation of Indian Pusblishersの名前で出展がなされる予定。 (本日現在、ブックフェアのサイトにはまだ記載されていないが、問い合わせてみたところ『参加』とのことだ)
例年このブース内で展示図書の販売もなされる。タイトルも部数も限られているので『早い者勝ち』になる。さて、どんな本が並ぶのか、ちょっと覗いてみてはいかが? -
ダーラーヴィーの眺め
以前『宝の山(1)・(2)』として取り上げてみたムンバイーのダーラーヴィー地区はアジア最大とも言われるスラムだが、このほどBBC South Asiaで『Life in a Slum』と題してここに生きる人々の暮らしぶりを伝えている。
もちろんここで取り上げられているのはギャングや犯罪者など、『スラム』からすぐさま連想されてきそうなネガティヴな面ではなく、一生活者として日々を送るフツウの人々。周囲の相場と比較した家賃の安さと交通の便から住み着いているものの、やはり機会があれば外に出たいと思っている勤め人や主婦、学生にメイドといった面々である。
インド経済・金融の中心地でありながらも、周囲を海に囲まれた半島という地理的な制約があるムンバイーで土地というものがいかに貴重なものであるかということを端的に表している。人々が各地から職を求めて集まってきた結果形成されていったのがスラムだが、見方を変えれば街が様々な分野で働く人々を必要しているものの、それらの人々を吸収するキャパシティに欠けているため、さらなる発展の可能性の芽をつぶしてしまっているということにもなる。
漁村から都会へと発達したムンバイーの成長は、東西南北どちらを向いても海原に大きく開かれた港湾都市という性格に負うものが大きいが、まさにその海によりどちらの方向を向いても塞がれている。旧来の市街地から隣接した郊外に新興住宅地や工業団地などをシーレスに拡大していくことのできる内陸の都市と比較して、スペースの上での制約が大きい。成長の波に乗るインドで、バンガロールやハイデラーバードなど商業や金融の核として伸びてきた街はいくつもあるが、かといって経済の中心地としてのムンバイーの地位がゆらぐわけではない。行政当局によるダーラーヴィー再開発計画とともにかつて東京でもてはやされていた臨海副都心計画のようなものが浮上する日も遠くないかもしれない。 -
ネットで体験する世界遺産

World Heritage Sites in Paranography というサイトがある。ここでは各地の世界遺産のパノラマ画像を360℃の角度から眺めることができるのだ。(閲覧にはQuick Timeのインストールが必要)
日本やロシアのコンテンツは今のところアップされておらず、このサイト自体がまだ発展途上といった印象を受ける。しかしここで見ることのできる画像の美しさはもちろんのこと、画角の広さからその場の雰囲気もよく伝えていて興味深い。イランのイスファハーンの画像などは、卒倒しそうなほどに美しかった。最初は『ああ、こういうサイトもあるのか』と何の気なしにブラウズしていたのだが、知らぬ間に『呑み込まれて』しまい、ずいぶん時間が経ってしまった。
もちろんインドについてもかなり手厚く25か所のパノラマ画像が掲載されている。南アジアの周辺国のものなども含めて、訪れたことのあるところ、ないところをあれこれと眺めてみるのも面白いだろう。
どういう技術でこういう画像の作成が可能なのか、ハイテク音痴の私には皆目見当つかないのだが、こうした手法で各地の旧所名跡や風物を記録したギャラリーが増えてくるといい。遺跡の外に広がる景色をしばらくたどって行くことができたり、最寄りの町までの沿道風景をそのまま画像でフォローできたりする『仮想旅行体験』が用意されているとなお楽しそうだ。
WH Tour -
『情報ノート』に想う 2
イラン・イラク戦争が終わって間もなかったころ、『イランへの道』と題するノートのコピーが出回っていた。インドからパキスタンを経てイランを目指す旅行者たち、あるいはそれとは反対側のトルコからイランへと向かう日本人バックパッカーたちにとって必携アイテムであった。
そのころ日本で出ていたイランのガイドブックといえば、ブルーガイドのようなパックツアー向けの主要観光地をざっと簡単に説明したようなもので、実際に自分で歩いて旅するのに役立つような情報はほとんど掲載されていなかった。
ロンリープラネットのガイドブックもまだ出ていなかった。そもそも当時、若者でさえも気軽に海外旅行に出かけるような国で、イスラーム革命後のイランに簡単に出入りできる旅行者の国籍はごく限られていた。そのひとつが日本であった。
バブル最盛期、あまりに多くの人々がイランから不法就労することを目的にやってくるのに音を上げた日本の当局が、日本とのイランの間に結ばれていた90日以内の短期滞在における査証の相互免除を取り消すまで、日本人ならば誰でもヴィザ無しで簡単に入国することができたのだ。当時、西欧の人たちは自国あるいは第三国にあるイラン大使館に観光ヴィザを申請すると、長いこと待たされたうえで結局却下されてしまうということが珍しくなかったようだ。
そんなわけで、イスファハーンやシラーズといった超メジャー観光地を訪れても西洋人たちの姿はなかった。ロンリープラネットその他から誰も訪れるはずもない土地を紹介するガイドブックが発行されるはずもなかった。
そんな具合で、イランといえば情報ノートだけが頼りだった。イランを目指すバックパッカーたちにとって、最初になすべきことは『イランへの道』を手に入れることだったのだ。
有名な土地や名所旧跡の名は耳にしたことがあっても、それらが広大なイランのいったいどこにあるのは定かでなかったし、交通網や訪れる街の規模はもちろん、どのあたりに宿があるのかも皆目見当つかなかった。
当時、イラン旅行に関するさまざまに風説が流布されていた。市中の両替レート、つまり闇両替のレートは銀行レートの14倍。イスラーム革命以来、インフレが進むいっぽう交通機関の運賃上昇が抑制されていたため、長距離バスで500キロの道のりを走っても料金は30円から40円程度、国内線飛行機でパキスタン国境近くのザヘダーンからテヘラーンまで飛んでも600円程度、首都にある旧ヒルトンホテル(革命後に接収されて地元資本化されている)やイスファハーンのアッバースィー・ホテルといった高級ホテルのツインを二、三人でシェアすれば、ひとりあたり500円から600円程度で宿泊できる等々。
こうした不思議なウワサのほとんどが往々にして事実であったが、あまりに情報が乏しく、旅行事情がどうなっているのかわからず、イランを一人旅すること自体、ほとんどのバックパッカーたちにとり、あたかも闇の中を手探りで進むことのように思われたのである。
この『イランへの道』には、出入国や厳しい外貨管理に関する注意点、両替やその方法、イラン各地の町々の簡単な紹介とアクセス、それらの土地にある名所やそこへの行きかたなどが簡潔にまとめてあった。しかもペルシャ語の数字解説や簡単なフレーズ集みたいなものも付いていた。ここまでくると、通常の情報ノートの域をはるかに超えた『ガイドブック』であったといって良いかもしれない。
コピーにコピーを重ねて文字が薄くなってくれば、それを手にした人が上からなぞって文字を読みやすくしてくれていたり、新たな情報を追加してくれていたりなどしていた。元々は同じはずの『イランへの道』だが、手に入れる場所や時期によってアップデートや追加情報の度合いの違うさまざまなバージョンが混在していた。
トルコのイスタンブル、パキスタンのクウェッタ、ペシャーワル、インドのデリーといった日本人バックパッカーの利用が多い宿に置かれていた『マスターコピー』を借りて近所のゼロックスで複写したり、あるいはイラン旅行を終えて出てきた人から譲り受けたりといった具合に旅行者たちの間に流通していた。
この『イランへの道』の原版を編纂したうちのひとりによる次なるヒット作、『イラクへの道』も、旅行者たちにとても好評であった。ただしこちらはいわゆる『アジア横断旅行』ルートから外れていること、バックパッカーたちの『拠点』に状態の良いコピーが定着する前に、イスタンブルの日本人の出入りが多いカーペット屋に置かれていたオリジナルコピーが失われてしまったこと、イラクのクウェート侵攻からなる湾岸危機、それに続く湾岸戦争などによって通常の旅行先ではなくなってしまったことなどから、前者ほど多くの旅行者たちに愛用されたわけではない。
私はその『イラクへの道』が出る前に、それを書いたTさんに同行する機会に恵まれた・・・といってもお互いフツーの旅行者同士がたまたま行く先が同じであったため、しばらく行動をともにしていただけのことだが。当時のイラクは非常に治安が良く、市民の暮らしぶりには非産油国のアラブ圏とは一線を画す豊かさがあった。社会主義を標榜するバース党の治世下、少なくともヨソ者の目にも女性の社会的プレゼンスの大きさは印象的であった。
世俗政権下ということもあり、繁華街に林立する酒場の数々、国産・輸入を問わず安価で豊富なアルコール類の恩恵にあずかることができた。アラビアとはいえ、バグダードでは夕方以降は街角で酔っ払いがクダを巻いていたりケンカしたり、はてまた酩酊してアスファルトの上に前後不覚で寝転がっていたりという様が日常的に展開される(当時)ということを知ったのは新鮮なオドロキであった。
Tさんとともにバクダード、サマーッラー、バビロンなどを訪れたのだが、案内書の類は何も無く、手元にあった旅行情報はバグダード市内の古本屋で見つけたローマ字表記の市内地図を除けば、イラク入りする前にヨルダンのアンマンで宿泊したホテルのロビーに置かれていた情報ノートに各国から来たバックパッカーたちが英語で書き残したイラク旅行の情報や印象を書き残したメモを自分で書き写したものだけだった。いろいろと自分で発見する喜びは否定しないが、いかんせん効率が悪すぎる。他国ならばガイドブックをひとめくりするだけで頭に入るようなことがここでは何もわからないので、時間と労力の無駄がとても多く、知らなかったばかりにせっかく近くまで行きながら見過ごしてしまった名所旧跡も多い。
そうした中、行く先々で精力的に歩き回り、自ら発見したものや気づいた事柄などについて、細かいメモを取っていたりするTさんの姿には驚いた。年単位の長旅を繰り返しているのにマンネリ化することなく、旺盛な探究心はいったいどこから沸いてくるのだろうか。
彼によれば、『大地のシワが多いところほど、人々のありかたも変化に富んでいて興味深い』のだという。確かに言われてみればそのとおりだと思った。人の力で越えがたい自然の障害が多いところ、山岳、大河、海峡、高地等々でさえぎられたところでは、少し先に進むだけで風物が大きく変わるものである。この人は今も長旅を繰り返しており、こうしている今も地球のどこかで熱心にメモを取り、詳細な地図を描いていることだろう。
『イランへの道』も『イラクへの道』もそれを書いた個々の人たちや加筆した旅行者たちも何の報酬を得ているわけでもないしそれを期待しているわけでもない。ただ旅への情熱と情報を他のバックパッカーたちと分かち合いたいという気持ちが情報ノートというカタチを取って現れ、それを必要とする人々から共感とともに強く支持されていったのだろう。
もちろん『旅行情報』とはいう、旅行人という会社によるガイドブックはれっきとした商品だ。旅行者たちが勝手に書き足したりコピーしたりする情報ノートとはまったく違う性格のものであることはいうまでもない。それでもやっぱり旅を愛する人たちの熱い気持ちが誌面からヒシヒシと伝わってくる。
こういうガイドブックが出回るようになった今、旅行好きにとって本当にいい時代だと思う。 -
『情報ノート』に想う 1
インドを紹介するガイドブックは数多いが、東北部に特化したものはこれまで少なくとも日本語で書かれたものはなかった。
このほど旅行人ウルトラガイドのシリーズの『アッサムとインド東部』が発行されたが、これが初めてのものとなるのではないだろうか。インド北東部七州のうちの四つ、アッサム、アルナーチャル・プラデーシュ、メーガーラヤ、トリプラーの各州の旅行情報が記載されている。おかげでこの夏以降、この地域を訪れる日本人が急増(?)するのだろうか。
この旅行人ウルトラガイド/旅行人ノートと題するガイドブックのシリーズには『客家円楼』『海洋アジア』『西チベット』といった、旅行先としてはマイナーな地域をカバーしたもの、そして『シルクロード』『アジア横断』『アフリカ』のようにまとまった期間で長距離を旅するバックパッカー向けの本もあり、日本国内の他社から出たガイドブックとは一線を画している
この中にはインドものもけっこう出ており、先述の『アッサムとインド東部』以外にも『ラダック』『インド黄金街道』『バングラデシュ』が発行されている。
読者層が幅広く、利用者たちからの豊富やフィードバックも多いロンリープラネット社のような古参の大手会社と違い、新たなガイドブックを編纂するのはとても骨の折れる作業に違いない。それだけに手にとってめくってみれば、作り手の情熱や書き手の思い入れが伝わってくるようだ。旅行を産業として眺めた場合、かなりニッチな市場に特化しており、対象となる地域も記事内容もまた商売っ気がないのだが、旅に必要な情報を淡々と語る生真面目な旅行案内書だ。
そんな飾り気のなさからだろうか、インターネット出現前に旅行者たちの溜り場に置いてあったり、コピーが旅先で出会う人たちの手を介して伝えられていったりした『情報ノート』を彷彿させるものがある。
今ではちょっとネットにアクセスするだけで、いろいろな旅行関係のサイトや掲示板などで情報が入手できたり、何か大きな出来事が起きれば、まさに『今この瞬間』の情勢を伝えあったり意見を交換できたりする。だから書いた先から内容が風化してくる雑記帳の存在意義はなくなった。
けれども『情報ノート』が重宝がられていたのはそんな大昔のことではない。世の中の誰も彼もがパソコンでインターネットに接続するようになり、どこに行ってもネットカフェの看板が見られるようになったのは、Windows95が発表とともに爆発的に売れ始めたころ、そう90年代半ば以降からのことだと記憶している。
ともあれ、取材者(たち)が額に汗して現地をリサーチしてまとめてくれた旅行ガイドブックの価値は今も昔も変わらない。情報ノートの書き込み同様、これとて時とともに事情は変わってしまうのだが、大量の断片的な情報が手のひらのうえでひとつの本の中に系統立ててキチッと納まっていること、目次や索引などから必要な情報を必要とするときにすぐに取り出せることに存在意義がある。『案内書』とは本来そういうものだ。 -
αの復活

かつて一眼レフのオートフォーカスの先駆者であったミノルタ。合併してコニカミノルタとなってから一眼レフ機のデジタル化に出遅れたものの、完成度の高いα7 DIGITALそして 廉価版のαSweet DIGITALと、内容の濃い骨太モデルを投入して巻き返しを図ったもの時すでに遅く、デジタル化に先行したキヤノンとニコンの前になすすべもなかった。今年春先にはファンから惜しまれつつもカメラ事業の舞台から退場することとなる。
このため一時は消滅するのかと思われていた『α』ブランドが息を吹き返した。このたびソニーから期待のデジタルカメラが発表された。7月21日に発売される同社最初のデジタル一眼レフ機は、その名も『α100』である。
ミノルタ伝統のカメラ事業をそっくり引き継いだソニー。いったいどんなカメラが登場するのか興味津々だったが、やはり旧ミノルタの偉大な資産、αシリーズを継承したことで長年のミノルタファンはホッと胸をなでおろしたことだろう。これまでのコニカミノルタの路線を継承するものであり、旧来のシステムをそのまま使用できるからだ。
すでに購買予約受付は始まっている。ボディのみの価格は10万円前後となる見込みらしい。コニカミノルタ時代のモデルよりも強化された手ブレ補正機能 (2〜3.5段分)がレンズではなくボディ自体に組み込まれているのはありがたいし、レンズ交換の際などにCCD表面に付着しがちなゴミへの対策も織り込まれているのもいい。もっとも後者については、本来すべての一眼レフデジタルに装備されているべきだと思うのだが。
第一作目は旧メーカーのブランドネームや既存システムといった資産を活用し、従来のαシリーズの路線を踏襲したものとなった。新規参入ながらも、旧来からのコンポーネンツやユーザー等をそのまま引き継いでいるのは強みだ。新モデルのデザイン、操作スイッチ類の配置、設定等に関する液晶画面の表示方法なども、旧メーカーのものを踏襲しているようだ。従来からのαシリーズのユーザーたちからは好感を持って迎えられるのではないだろうか。また購入検討中の潜在的顧客層からみても、ソニーはこの分野では未知数のメーカーだが、あの『ミノルタの後継者』ということから安心して購入できるのではないだろうか。
コニカミノルタの写真事業撤退以来、カメラ屋で同社製品は投売り状態だったり、ショーケースの隅っこに置かれたりするようになっていた。ところがこのところちょっとした異変が起きているのだ。東京中野にあり名前がよく知られた大きなカメラ屋さんでは、店舗入口真横に『α』コーナーが設けて、ソニーによる新生α広告チラシとともに、ミノルタ時代、コニカミノルタ時代のαシリーズの在庫を並べて、『お一人様一点限り』で売り出しているのだ。ソニー効果で急に需要が出てきたらしい。またお店にとってはこの機会を利用して売り切ってしまいたいところなのだろう。
既存の路線をそっくり受け継いだように見えるα100は、とりあえずは試運転といったところなのだろう。発売後の反応などを見てから、ソニー独自のカラーを強く押し出したモデルが登場してくるに違いない。
カール ツァイスとの共同開発レンズを含めた21本の交換レンズ群も順次発売予定とあるし、その他様々なアクセサリー類も続々投入される予定だ。今後の進展から目が離せない。光学機器メーカーが長年育んできた優れた技術とハイテクメーカーによる卓越した画像処理テクノロジーの融合。この夏、新生αの逆襲が始まる。
被写体の宝庫インドでどんなカメラを使うか。目的や好み人それぞれだが、こうして次第に選択肢が広がっていくのはうれしいことである。もちろんレンズを含めた周辺機器類も合わせると高額な買い物となるため、目移りしてもすぐ他社のものに乗り換えるわけにはいかない。これまでコンパクト機のみ使ってきた人たちが一眼レフに乗り換える例がとても増えていることもあり、デジタル一眼レフ市場はこのところやたらとホットで、わずかここ数年の間に急速に成熟しつつある。
ともあれどんなタイプのモデルであろうと、お気に入りのカメラを片手に試行錯誤しながらインドの美しい風景を切り取るのは楽しいものである。
