
さきほど日印協会の会報第一号の復刻版を手にする機会があった。奥付には今からさかのぼること一世紀近く前の明治42年(1909年)発行とある。同協会は明治35年に組織された日印倶楽部を前身(翌35年に日印協会として改組)とし、当初は熊本藩主の分家にあたる長岡護美子爵が会長を務めていたが、没後は大隈重信伯爵が会頭、一橋大学教授であった神田乃武男爵が副会頭として率いていくこととなった。当時の会員名簿も掲載されているが、こういう時代だけあって伯爵、子爵、男爵といった爵位を持った人たちの名前がところどころに目に付く。当のインドは英国統治下にあったため顧問はイギリス大使のサー・クロード・マクドナルド。名簿には服部時計店(現セイコー)創始者の服部金太郎、この号にて『インド綿花輸入及びボンベー航路起源』と題した文章を執筆し、実業家として広く知られた渋沢栄一男爵の名前もある。個人情報保護という観念がまだなかった時代であり、主に会員たちの内輪で出回る小冊子であるためもあろうが番地まで入った詳細な住所が記載されている。日本在住のインド人としては『バナジイ』『エダルジイ』といったベンガル人らしきも名前が見受けられる。インド在住の日本人の名前には、駐ムンバイーの外交官や『印度ラホール市』在住の貿易商の名前など記されている。日印両国以外のところでは『清国天津』駐在の三井物産幹部の名前も。
また『印度ボンベイ市』の会員として『ターター』の名前もあるが、これはもちろんあの財閥のターターのことだ。前述の渋沢栄一の文章の中に、日印貿易のはじまりとなる綿花取引にあたり、ジャムセートジー・ターターや彼の甥のR.D.ターターの好意と協力があったことが記されている。
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百年前の日印交流
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名は体を表す?
私たち日本人と違い多くの場合インド人の名は信仰、カースト、地域などといった個々の出自を色濃くあらわす。そのため『名前』の持つ重みは相当なものである。
『Indian Names』や『BOOK OF HINDU NAMES』といったインド人の名前の綴りや意味などについて書かれた本はいろいろ出回っているが、ここのところウェブ上でそうしたサイトをよく見かけるようになってきているし、インターネット上の百科事典Wikipediaでもインド人の名前に関する記事を閲覧することができる。
『Indian names』というエントリーでは、インドの人々の名前のありかたや地域ごとの特徴などについての概説がなされてお
り、『Indian given names』 においては各個人につけられた名前の意味のリストが掲載されている。そして『Indian family names』 では姓についての解説だ。最後のファミリー・ネームの記事中で、たとえば『Agarwal』をクリックしてみよう。すると同姓についての詳しい記述が出てくる。Agarwal姓の起源や歴史といった背景、この苗字を名乗る著名人、同じコミュニティに属するさまざまなゴトラの苗字のリストなどが出てくる。
後者のふたつ(Indian given namesとIndian family names)については、ともに一応の骨格はできあがっているようだが完成までの道のりは遠いようだ。名前のエントリー数が少ないことや土地の言葉での綴りが書かれていないことはもちろんのこと、それ以上に目下未記載で空白になっている部分、ほとんど記述がなされていない項目などがあまりに多く実用にならないのが残念。
それでも広く世間の人々の好意と貢献に支えられて日々絶えず進化を続けているオンライン百科事典だけに、インド人の名前に関する記事群が突如目覚しい発展を遂げて『とっても充実していてびっくり!』することが近い将来あるかもしれない。
インドと重なる部分が多く密接な関係にある『Pakistani family names』 の記事では地域ごとの固有のもの、アラビア起源、ペルシャ起源、トルコ起源といったさまざまな氏族名の解説がなされており興味深い。こちらもあわせて今後さらなる発展を期待したいところだ -
メトロが変えるか? 街の風景

先日、ムンバイー・メトロのことについてアップした後、インディア・トゥデイ(10月4日号)に各地で広がるメトロ建設計画について書かれた記事が掲載されていることに気がついた。
それによると、アーメダーバードとコーチン以外にも、バンガロール、ハイデラーバードでもこうしたプランがあり、コルカタでも市街東部にネットワークを広げることが構想されているとある。都市部の過密化が進む中で、交通渋滞の減少およびスピード化というふたつの相反する効果が期待できるうえに、公害と交通と減らすことにも貢献するため、まさに時代の要請にマッチするといったところらしい。
個人的には既存のバス等の交通機関に較べて安全性と質も格段に高く、公共交通機関というもののありかたについて大きな指標となりえることからその存在意義は極めて大きいと考えている。ちょっと想像してみるといい。インドでクルマもバイクといった自前の足を持たず、でも運良く自宅も職場もそれぞれメトロの駅近くにあったとすれば、毎日それで通勤できたならどんなに楽なことだろう。たとえすし詰めの満員だって他の交通機関よりもずっと安心だ。
メトロのネットワークが広がるにつれて、また他の交通機関と競合する部分が多くなるに従い、既存の交通機関のクオリティの向上もある程度期待できるだろう。またコルカタで検討されているように利用者たちの利便を図るため、市民の足として相互補完するためバスとメトロの走行ルートや停留所などの調和や共通チケットやパスといった構想もやがて当たり前のものとなるのかもしれない。
渋滞、長い信号待ち、事故などによる遅れなどもあり、時間的にあまりアテにならない都会の路上交通よりもずっと正確に動くメトロは、ときに細い道を通ったり複雑なルートを取ったりするバスにくらべて、同じ時間かけて進む距離も長い。そのため人々の通勤圏も広がり都市圏をかつては思いもよらなかった遠い郊外へと拡大できる。
人々はそこにマイホーム取得の可能性を感じ、需要をアテこんだデベロッパーが開発を進める。それまで二束三文にしかならなかったような土地の資産価値がグンと上がり・・・といったお決まりのパターンとともに、周辺の小さなタウンシップを呑み込む形で市街地が拡大していくことになる。こうした動向の副産物として、いつしか都心部(デリーに限らず)の旧市街などからより条件の良い地域に流出する人々や店などが出てくるといった、いわゆるドーナツ化現象が起きることもあるのだろうか。
それはともかくこうした動きの中で、インドの街にありがちな極端な過密さも多少緩和される・・・といいのだが。
ただしメトロ建設の問題は、インドのような途上国にとって実に高い買い物であることだ。先述のインディア・トウデイの記事中には、世界中のメトロで経営的に成功しているのは香港と東京くらいと書かれているのだが、果たして本当だろうか。
でも極端な話、車両と人員と運行ルートさえ確定すればすぐにでも開始できるバスのサービス(しかも前者ふたつは往々にして民間業者による請負が多い)に比較して、メトロというものは都市交通機関としては初期投資も維持費もケタ違いに高いことを思えば、あながちウソではないのかもしれない。
こうした夢が描けるのは、もともとのスタート地点が低いため発展の成果が視覚的に認知しやすいこと、地域的にはいろんな問題を抱えつつもマクロな視点から眺めた経済が好調続きであることに尽きるだろう。しかし総人口の6割以上を20代以下の若年層が占めるこの国で、多くの人々が『今日よりも良い明日』を期待できるのは実に喜ばしいことではないだろうか。 -
ムンバイー・メトロ 来月着工
インドで『メトロ』といえばコルカタとデリー。ここにきてもうひとつのメガ・シティで新たに導入が予定されている。10月からムンバイー・メトロの工事がいよいよ開始されるのだ。コラバからチャールコープまでの38kmを越える長いルートである。
またワルソーワーからガートコーパル、バーンドラーからマーンクルドまでの路線も計画されている。後者は巨大スラムとして内外に知られるダーラーヴィーの目と鼻の先をかすめて走ることになることから、同地区の再開発計画にも弾みをつけることになることだろう。この路線が開通するのはいつになるのかわからないが、『かつてここは世界最大級のスラムであった』と言われてもピンとこないような洒落たコマーシャル・エリアに変貌する日がやがて来るのかもしれない。
ともあれ既存の郊外電車のルートと合わせると、ムンバイーの鉄道交通ネットワークはずいぶん密なものになり、まさにインドきっての商都らしいものとなる。MUMBAI METRO SYSTEMをご参照いただきたい。
メトロといえば、他にも近年成長著しいアーメダーバード、そしてなんとコーチンでも導入の計画がある。
都市部では本格的なマイカー時代が到来しているインドだが、都会の公共交通の分野ではメトロの時代がすぐそこまで迫っているのだろうか。将来にわたり都市交通の質の向上が見込まれることは実に喜ばしい。 -
リコーGR-Digitalを越えるか? シグマDP1


昨秋発売されたリコーのGR-Digital。ほぼ一年間使ってみた感想としてはレンズ性能、搭載機能、充実したアクセサリー類を含めた拡張性等非常に満足度が高いモデルだと思う。胸ポケットにすっぽり収まってしまうコンパクトさもまた大きな魅力だ。そのおかげで常日ごろどこへ行くにもまさに肌身離さず持ち歩いている状態なのだ。
しかし不満もある。1/1.8型という小さなセンサーを使用しているためだろうか、ISO感度を高くすると画像がひどく荒れてしまって使えないし、ラティテュードが狭く被写体のコントラストが高ければいとも簡単に白飛びしてしまう。それでもコンパクトな大きさで28mmの単焦点のモデルは今のところGR-Digitalしか存在しないので特に目移りすることはなかった。
ところが・・・である。ドイツのケルン・メッセにて開催のフォトキナ2006で参考出品されているシグマのコンパクトデジタルカメラ「DP-1」はどうだろう。35mm判換算で28mmの単焦点レンズを持つこのカメラは、発売されればおそらく日本で始めてとなるFOVEON X3センサー(1406万画素)を搭載していることだ。このタイプのセンサーの特色は、光の三原色を1画素で捕らえることができることである。そのため銀塩写真に最も近い画質を実現できるのだとか。これに対して現在一般的な撮像素子は1画素で1色を取り込んだ後に補間処理による画像生成が行なわれる。FOVEON X3センサーは偽色の発生を抑え、より鮮明で正確な色を再現するといわれる。
このセンサーは今年11月に発売予定の同社の一眼レフSD14に搭載されるものと同じである。コンパクトタイプのデジタルカメラに一眼レフ並みのAPS-Cサイズのセンサーが搭載されるのは世界初だ。これでようやく先述のGR-Digitalに感じていた不満の解消が期待できるだろう。ただレンズの開放F値が4.0と暗いのが気になるところだが、『撮像素子にスタビライザー機能を搭載している』とのことで、どうやら手ブレ補正機能が付いてくるらしい。いまのところ細かいスペックは明らかになっていないが、画像を見る限りではGR-Digitalとよく似たフォルムであり、ボディサイズもほぼ同等らしい。発売から一年にしてようやくGR-Digitalの対抗馬の姿が浮かび上がってきた。
発売時期は未定だが、来年1月あたりには・・・という話がある。発売に先行して店頭での予約受付が始まった途端フラフラと注文してしまう自分の姿が目に浮かぶ。。コンパクトデジカメとしてはかなり高価なものとなるはずだが、日常や旅先でもマルチに重宝する高品位なカメラとしても注目されることだろう。そしてもちろんインドでも大いに役立ちそうな予感。
コンパクトデジタルカメラ SIGMA DP1開発のお知らせ(シグマ) -
たかが名前されど名前 ポンディチェリー改名
1954年にインドに返還(1963年から連邦直轄地)された旧仏領ポンディシェリー(Pondichéry)は英語ではポンディチェリー(Pondicherry)と言い、タミル語ではパーンディッチェーリ(பாண்டிச்சேரி)と呼ばれる。『新しい町(村)』という意味だそうだ。
ここにきて再びその名前が変わることになる。8月半ば成立した法案が発効を迎えたことから新しい名称はプドゥッチェーリ(புதுச்சோரி)となり、仏領以前の地名に戻ることになる。
外国統治下はともかくとして、インド返還後半世紀近くも経ってからその名を変えることにどれほどの意味があるのかとも思う。近年改名された地名は少なくないのでこれに限ったことではないのだが、名称変更後ただちに・・・とはいかなくても、段階的に役所その他の公共施設での表示や公文書における表記を改めていくことになる。そうした手間が行政コストに跳ね返ってくるムダ、また地図、住所表示その他民間にも余計な出費や面倒をかけることになるが、区画整理や自治体の合併などで地名の変更を余儀なくされる場合はともかく、長いこと呼び習わされてきた土地の名前について、こうした代償を支払っても充分ペイする効果があるのかどうかははなはだ疑問だ。
改称については政治屋さんの思惑や気まぐれに振り回されて『ああ迷惑な・・・』と感じる人も少なくないことと思う。そもそもPondichéry、Pondicherryあるいはபுதுச்சோரிで一体誰が不便や不都合を感じていたというのだろう。あえて大昔の『プドゥッチェーリ』という名称を復古させることにどれほどの合理性があるのだろうか。
Destination Puducherry (The Hindu) -
ショーレーが帰ってくる
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1975年公開のショーレー(SHOLAY)といえばプロデューサーのG.P.スィッピーとその息子ラメーシュ・スィッピー監督が製作、アミターブ・バッチャン、ダルメーンドラ、アムジャド・カーン、ジャヤー・バドゥリー(現ジャヤー・バッチャン)、ヘーマー・マーリニー、ヘレン等々、当時の豪華キャストをそろえた超大作。
主人公のジャイ(アミターブ・バッチャン)とヴィールー(ダルメーンドラ)演じる若者のふたりが勇気と知恵をしぼってガッバル・スィン(アムジャド・カーン)率いる盗賊団を退治する冒険活劇はまさにマカロニ・ウエスタンならぬ『マサラ・ウェスタン』である。公開当時はまさに西部劇のコピーだとして批判も少なくなかったそうだが、現在のお金に換算して5千万ドルもの興行収入、ムンバイの映画館ミネルヴァ・シアターにおけるなんと286週!という超ロングラン上映期間ともに、ボリウッド映画史上燦然と輝く金字塔を打ち立てた。
私はその当時の熱気を知る世代ではないためビデオで鑑賞しただけだが、YEH DOSTIの歌とともにアミターブとダルメーンドラがサイドカー付きのバイクで駆けてくるシーン、ガッバル・スィンの野営地でバックに流れる音楽MEHBOOBA MEHBOOBA とともに挑発的なヘレンのダンス等々、とにかくワイルドなカッコ良さに大いにシビれた。
この映画に出演した豪華キャストの中からアミターブ・バッチャンとジャヤー・バッチャン、ダルメーンドラとヘーマー・マーリニーという当時の映画界を代表する二大カップルが実生活でゴールインしている。
1975年リリースのオリジナルのショーレーでは、ジャイ役にモヒト・アフラーワト、ヴィールー役にはアジャイ・デーヴガン、盗賊団の親分を倒すジャイ役を演じたアミターブ・バッチャンが今回の新作ではかつてとはまったく逆に大悪党ガッバル・スィンに扮する。ちなみにガッバル・スィンは1950年代にマディヤ・プラデーシュ州のグワリヤル周辺を荒らしまわり悪名を馳せた同名の実在したダークーがモデルとなっている。旧作にてこの役で出演したアムジャド・カーンは、1991年公開のラームガルのショーレー(RAMGARH KE SHOLAY)でも同じ役を担ったが、映画公開の翌年1992年にはそれまで長く患ってきた心臓病が原因で亡くなった。
来年、そのショーレーが私たちの前に帰ってくる。監督はラーム・ゴーパール・ヴァルマー。彼が32年前の超大作を現代の私たちの前でどのようにリメイクするのかお手並み拝見といったところだ。
世代を超えて愛される冒険活劇として旋風を起こし、映画史に再び名を残すのだろうか、それとも時代錯誤の懐古趣味、あるいはくだらないパロディーと一蹴されるのか。
彼が指揮を取る作品ならば必ずやヒネリの効いたオリジナリティ溢れる面白い作品になるのではないかと期待している。でもあまりに偉大な『ショーレー』の看板を背負う以上、ある程度の興行成績を収めることができたとしても、世間は月並みな評価で放っておいてはくれず絶賛か酷評かのふたつにひとつなのではないかという気がするのだ。
ともあれ2007年版のショーレーが今からとても気になっているのは私だけではないだろう。 -
代々木公園のインドな週末

本日9月23日土曜日、東京渋谷の代々木公園で『ナマステ・インディア2006』が開催された。(会期は明日24日まで)
築地本願寺から会場を移して最初の開催であった前回に比べて、出展ブースの数がかなり増えているようだ。そして今回はITや人材派遣などの会社、マディヤ・プラデーシュとウッタラーンチャル両州の観光局も参加するなど、参加団体等の幅が広がってきていることが見て取れる。同様に来場者の数も伸びていることと思う。

他にも前回は見られなかったタイプの出展者としては、この催しのためにわざわざインドから来日した細密画師、染物販売者、木工品販売者たちなどの姿があった。
さまざまな出演者たちが次々に登場するステージにおいて、会期の両日ともトリを務めるのはアオ・ナガ族舞踊団である。
第二会場の『たばこと塩の博物館』においては、23日には松岡環氏による『最近のインド映画事情』の講演が行なわれた。明日24日は脇田道子氏による『アルナーチャルの民族文化について』および鈴木正崇氏による『ナガランドを旅して』が予定されている。
明日24日の天気はまずまずのようだ。本日以上の大盛況となるに違いない。

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バーバー・ハルバジャン・スィン

バーバーのお寺はスィッキム州の海抜4000mのチャングー湖畔にある。毎年多数の信者たちがお参りに訪れるという。バーバーはこの国境地帯とそこを警備する兵士たちの守護神として知られている。
だが驚いたことに、そのバーバーことハルバジャン・スィンはなんと勇敢な兵士でもある。陸軍に1966年に入隊した彼は、スィク教徒たちから成るドーグラー連隊に所属し、今年12月1日にいよいよ除隊を迎える。そんな彼は例年と同じく2ヶ月の年休を過ごすべく、9月14日にパンジャーブ州カプルターラー地区にある故郷の村へと出発した。現在は軍人として最後の休暇を郷里の家族たちとともにゆっくりと過ごしているところだ。
しかしこのバーバー・ハルバジャン・スィンは今晩もスィッキムの湖畔にある彼のお寺を制服姿でパトロールしているのだという。でも一体どうやって・・・?
実はこのハルバジャン・スィンの肉体はとっくの昔にこの世から消え去ってしまっている。陸軍入りして2年後の1968年に(メディアによっては彼の死亡時期は1962年の中印紛争時とするものもある)ナトゥラ峠近くで物資運搬のためラバを誘導していた際に行方不明となった。遺体は後日発見されたが、死因は付近の氷河に滑落したためとされる。
そんな不遇な彼は連隊の同僚たちの夢の中に出てきた。同じ夜に複数の兵士たちが安住の地が欲しいと懇願する彼の姿を見た結果、彼を祀る祠を建てたのが現在チャングー湖のほとりにある通称『バーバー・マンディル』の始まりである。 -
今週末はナマステ・インディア

以前取り上げたとおり、今週末(9月23日と24日)に東京渋谷の代々木公園でナマステ・インディア2006が開催される。
個人的に特に関心があるのは、ナガランドからやってくる舞踏団と第二会場(たばこと塩の博物館)で展示されているミティラー画である。プログラムスケジュールには『インド人カラオケ』なるものがあるが、これはインドの歌のカラオケのことだろうか?それともインド人たちがカラオケ(日印ジャンルを問わず)を披露するのか?
もうひとつ大切なことがある。それは天気だ。会場隅っこのほうにでもゴザを広げて、サモサをつまみにビールを飲みながらまったりとすごすことを思い描いているのだが、雨にたたられたらどうだろうか。舞踊や音楽などいろいろな出し物が進行中のステージを眺めつつ、傘の下で背中を丸くして縮こまったままカレーをパクつき、露店をいくつか覗いてみてからクシャミをしながら早々に退散。膝から下がずぶぬれになった体でスターバックスにでも駆け込み、温かいコーヒーをすすってようやく人心地つく・・・といった図が頭に浮かぶ。現在発達中の台風14号が猛スピードで北上してきて週末の東京地域を直撃、なんてことはないとは思うが、天気予報では土日の空模様は微妙な感じ。
ともあれ週末は代々木公園でお会いしましょう。 -
毒蛇大国

ラッセル・クサリヘビという蛇がいる。ヒンディー語、ウルドゥー語ではコーリーワーラーと呼ばれているらしい。体長は通常70?から130cmほどだが、特に大きなものは150cmを超すという。ひと咬みで相手に注入する毒の量が多いため、世界でも有数の恐ろしい毒蛇だ。主に草むらに棲息し、パキスタン、インド、バングラデシュなどといった南アジアの国々に多く見られるとともに、東南アジアや台湾などにも分布している。
毎年インドでは蛇に咬まれることにより5万人もの人々が命を落としているといい、世界全体のこうした死亡事故のおよそ半分を占めるというから、インドは世界に冠たる毒蛇大国ということになる。国内に生息しているヘビおよそ270種中の60種が毒性を持つというインドで、先述の年間死亡者の4割にあたる2万人がラッセル・クサリヘビにより命を奪われているのだから、この蛇がいかに危険であるかということがわかる。なお被害者たちの大半が畑仕事中の農民である。
毒蛇といっても種類によって毒の性質や強度はさまざまだ。ラッセル・クサリヘビのようなクサリヘビの類は出血毒を持っている。強力な消化酵素から成るたんぱく質を分解する毒だ。 咬まれるとまず細胞組織のたんぱく質が分解され患部に激痛と腫れが発生、それらは徐々に全身に広がっていく。続いて皮下出血や腎機能障害や内臓からの出血、血便、血尿などが起こる。またコブラやアマガサヘビは神経毒を持ち、噛まれるとおもに麻痺やしびれが発生。究極的には呼吸や心臓が停止して死亡に至る。前述の出血毒よりも症状の進行が早いとされる。
毒蛇に咬まれた場合、傷口の消毒や感染症予防のために抗生物質投与や破傷風の予防注射、出血毒を持つヘビの場合は血液凝固などの措置が取られるとともに、ヘビの毒への対処として血清治療が行なわれる。だが血清による致命的なショックが生じることもあるという。
あくまでも国全体として見れば、インドにおける血清のストックの状況まずまずのレベルらしいが、特に需要の多い農村部でローカルな医院に置いてなかったり、あっても医師が使いかたについて不慣れであったりなどということが多いなど、毒蛇対策の普及の偏りが大きな問題となっている。
以前、雨季にラージャスターン州のある小さな町に滞在していたときのこと、食堂で昼食を注文して待っていると、いきなり『コブラが出た』と上に下への大騒ぎがはじまった。店の人によると小型で幼いヘビが狭い店内のどこかに潜り込んでしまったとのことで『まったくどこに隠れちまったんだか?』と困惑した表情。たとえ子供であっても猛毒を持つ恐ろしいヘビに違いはない。私自身はとても食事どころではないと早々に退散した。
何はともあれ毒蛇に咬まれた場合、治療は一刻を争う。昼間の町中ならまだしも、田舎の村で農作業中に咬まれた場合、付近の病院にたどりつく、あるいは運び込まれる前に手遅れになってしまいそうだ。近くの町の病院が閉まっている夕方以降にやられたりすると、一体どういうことになるのだろうか?想像するだけで空恐ろしい。
India’s battle against snake bites (BBC South Asia) -
近ごろ日本で増える人力車

1860年代後半、横浜で走り始めた(日本橋のほうが早かったとの説もある)のが世界最初とされる人力車。インドでは今でもコルカタで走っているのを見ることができるが、同国で最初に『リクシャー』が出現したのはシムラーであったという。リクシャーという新たな交通機関が普及しはじめたころ、日本から各地にその車両を盛んに輸出していたということだ。
のちにアジア各地で自転車によって引く『サイクルリクシャー』『シクロー』として発展してからは仕様やスタイルなどにそれぞれの地域色が出てくる。しかしオリジナルの『人力車』についてはどこを走っていたものもほとんど差がなかった。それどころか今コルカタを走っている人力車についてもほとんど形を変えていない。日本発の人力車は輸出先各地で地元の職人たちが模倣して作るようになってもほとんど改良の余地がないくらい完成された機能性とデザインを持っていたということになるのかもしれない。
その人力車は今では日本の浅草や鎌倉といった行楽地で見かけるようになって久しいが、ふと思い立って調べてみると、こうした観光人力車のサービスは全国各地でずいぶん広がっていることがわかった。北は北海道から南は沖縄まで、その形態は個人営業から各地に支部を持つ企業組織までさまざまである。また横濱人力車くらぶのように車夫ならぬ車婦が頑張っているところもある。 ちかごろのインドでは女性のタクシーやオートの運転手も出てきているものの、日本にはリクシャー・ワーラーならぬリクシャー・ワーリーもいるなんて聞いたら腰を抜かす人もいるのではないだろうか。
ネットで検索してみると以下のような観光リクシャーのサービスの案内が見つかる。
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えびす屋(函館・小樽・浅草・鎌倉・京都・奈良・北九州・湯布院)
時代屋(浅草)
くるま屋日本橋(日本橋)
横濱人力車くらぶ(横浜)
横浜人力車 太郎(横浜)
人力車 ねこ屋(小田原)
川越陣力屋(川越)
ごくらく舎(飛騨高山)
谷口人力車(出石)※兵庫県
人力車まつもと(真庭郡勝山町)※岡山県
俥屋(長崎)
俥宿 天十平(萩)
灯八(宮古島)
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こうした人力車はどこで作っているのかと思えば、19世紀にさかのぼる『匠の技』は途中長い中断はあったとはいえ、今の日本でしっかり健在のようだ。美しいフォルムと細部に渡っての美しい仕上げを目にすると、購入しても置く場所がないどころか『一体何に使うの?』ということになってしまうのだが、ぜひ一台所有してみたくなった。
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株式会社 升屋製作所
俥宿 天十平
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人力によるタクシーとして『Velo Taxi』の名で知られるサイクルリクシャーが東京、名古屋、京都の市街地のごく一部で運行しているものの、人力車については決まった観光ルート以外の行き先を指定して走らせるようなサービスは今のところ耳にしたことがない。
もちろん人力車もサイクルリクシャーも市街地の広がりや人々の往来が広域化したことなどにより人々から必要とされなくなって次第に姿を消していったのだから、今の忙しい時代に往時のままのカタチで復活なんていうことはありえない。
だがそういう時代だからこそ、単なる懐古趣味あるいは物珍しさといった理由のみではなく、休日くらいはヒューマンな速度で運転手と世間話でもしながら見物を楽しむのは悪くないだろう。夏の間は炎天下で客待ちするのも市内を駆け回るのも骨が折れる仕事であったに違いない。秋口に入ってだいぶ楽になったのではないかと思うが、晴れる日もあれば雨もある。これから先に待ち受けているのは辛くて寒い冬である。リクシャー引きの方々には、くれぐれも身体と往来のクルマやバイクに気をつけて頑張って欲しい。
