ただいまメンテナンス中です…

カテゴリー: column

  • ネパールは『中国の時代』を迎えるのか?

    1年ほど前に『ネパールにも鉄道の時代がやってくるのか?』と題して、中国がネパールでの鉄道建設計画に深く関与していることについて書いた。南進を画策する中国は、インドの周辺国に対して鉄道建設計画を含めた援助を行なうことにより、自国との乗り入れを含めた国家間のリンクを強め、これらの国々を影響下に置こうとしている。 

    そうした中で顕著なものは、パーキスターンにおけるグワーダル港、スリランカにおけるハンバントタ港の開発、ネパールにおける水力発電所の建設計画であったりする。 

    今やGDP世界第2位に躍り出た中国。豊富な資金、技術力と労働力で積極的に国外への影響力を高めようとしており、南アジアで突出した存在感を示してきたインドに対し、長期的な視野から着々と包囲網を築き上げつつある。すでに中国は、ネパールにおいてインドに次ぐ第2位の投資国にもなっている。 

    その中国にとって、自国占領下にあるチベットとの境を接し、伝統的にインドと深くかかわってきたネパールは、地理的に南アジアの入り口に位置しており、対インド的にもとりわけ重要な戦略拠点となる。中国から見ると、まさにネパールは現代の『グレート・ゲーム』の舞台であるようだ。ちょうど19世紀の中央アジアがイギリスとロシアの間で国益と覇権を賭けた駆け引きの舞台であったように。 

    2011年に予定されているチベット亡命政府の総選挙における首相と国会議員の候補者を選定するための予備選挙が10月3日に行われた。現在、亡命チベット人の人口はおよそ15万人であるとされ、そのうち8.9万人が18歳以上の選挙権を持つ有権者であるとされる。 

    インド国内を含めた世界50カ所で投票が実施された。インド在住の有権者のうち実際に投票を行なったのは20%程度であったとされるが、オリッサ州のチベット人居住地プンツォクリンでは、驚くべきことに投票率が94.39%という非常に高いものであったということだ。

    インドの隣国ネパールでも亡命チベット人人口は2万人を数える規模の大きなものであるが、投票終了1時間ほど前にネパール当局による妨害により、事実上無効となってしまった。事件当日、投票所から投票箱を持ち去る警察官たちの姿を収めた動画がYoutubeで公開されている。 

    Nepal police confiscated Tibetan ballot box (Youtube) 

    この出来事には伏線がある。かねてより中国からネパール国内で中国の『内政』に干渉する活動を禁じるようにと圧力がかかっていたが、今年9月中旬に中国のハイレベルの代表団がネパールを訪問した際、ネパールから『ひとつの中国』ポリシーを取り付けていたようだ。 

    ここで言う『ひとつの中国』とはもちろん、台湾の存在に関わる『両岸問題』よりも、主としてチベットの扱いに対するものであることは明らかだ。 

    ネパールがこのように『中国に従順』な姿勢を見せるということは、インドにしてみても決して看過できるものではない。ときに関係がギクシャクすることもあっても、兄弟のような関係にあったネパールが、たぶらかされて仲の悪い隣人の家に婿養子に出てしまい、実家に顔も出さないような具合になってしまっては・・・というよりも、場合によっては『もうひとつのパーキスターン』として、インド自身のセキュリティに関わる問題に発展する可能性もある。 

    地理的にインドと中国の狭間でうまくバランスを取ってきたネパールにとっても、対中国の依存度を深めることは、長期的な視野から果たして得策なのであろうか。 

    我が身を振り返れば、日本もバブル以降、それ以前からの中国の開放政策と相まって、積極的に企業等が中国大陸に進出していき、私たちの生活の中で『中国』は片時も欠かすことのできない存在となった。 

    同時に中国に対する日本からの投資額の大きさは、そのものが中国に質に取られているようなものでもある。尖閣諸島問題においても顕著であったように、レアメタル類の調達先が中国に依存しきっている日本に対して、北京がこれらを輸出することを禁じる動きを見せると、経済界が瞬時に悲鳴を上げるようになってしまっている。 

    現在の中国のネパールに対する寛大で気前の良い姿勢は、決して善意から出ているものではなく、将来の南アジアで権勢を振るうことに対する先行投資であり、友好の名のもとに進める計算ずくめの国家戦略である。 

    対中国依存度が高まり、インドの側に戻ることができないところまで行き着いてしまった暁には、新たな華夷秩序に組み込まれた内陸国ネパールは他に頼る相手もなく、経済カードをちらつかせて恫喝する暴君の素顔を露わにした中国を相手に呻吟することになるのではないかと危惧するのは私だけではないだろう。 

    Nepal police disrupt Tibetan elections in Kathmandu (Phayul.com) 

    The China factor in Nepal (INDIAN DEFENCE REVIEW) 

    China takes over Nepal  (INDIAN DEFENCE REVIEW)

  • バングラデシュ祭 2010

    10月9日(土)と10日(日)に東京都北区の飛鳥山公園でバングラデシュ祭2010が開かれる。 

    上記リンク先の同祭のウェブサイトにあるとおり、飛鳥山という土地自体がベンガル地方出身の詩聖タゴールと縁のあるところであるそうだ。 

    在日の他の南アジアの人たちと比較しても、特に日本での定住率が特に高いように思われる。バブルの時期に大挙してやってきてそのまま居ついた人もあれば、留学生としてやってきて、学位取得後に日本国内で就職した人も多い。 

    後者については、とりわけ理系の割合が高く高学歴志向だ。日本の大学で修士号以上を取った人たちも沢山おり、日本のIT系の会社で彼らの姿は珍しくない。また日本での生活が軌道に乗ると、故郷で家族が決めた相手と結婚して日本に呼び寄せるというパターンが典型のようで、日本人との結婚が多い前者と対照的だ。 

    どちらも日本での定住・永住志向が強く、すでに日本国籍を取得した人も珍しくない。そんなわけで、今後みなさんも『ベンガル系日本人』と出会う機会もあるかと思うし、やがてはそういう両親の間に生まれた日本が故郷のベンガル人と知り合うこともあるかもしれない。 

    日本・ベンガル間の人々の縁は今後ますます深まっていきそうな気がする。

  • インパール作戦の証言

    今や先の大戦について一人称で語ることのできる人はごく一握りの高齢者たちとなった。 

    近年、当時の日本の戦争について肯定的に見直す動きが出てきている。これは当時の生きた記憶を持つ人たち、つまり当時すでに一定の年齢に達し、軍隊を含めて社会の中である程度責任のある立場にあり、戦争が行われていた時代について自身の体験を踏まえたうえで客観的に語ることのできる人がごく少なくなっていることと無縁ではないだろう。加えてそうした世代が実務から引退して長い年月が経ち、社会的な影響力を失っていることによるものも大きい。 

    NHK 戦争証言アーカイブス

    ここでは、こうした世代の方々からの戦争に関する証言を集めた動画記録を未放送分も含めてウェブ上で公開している。今の時代を生きる私たちにとって平和の大切さを考えるうえで貴重な遺産である。 

    その動画集の中には、太平洋戦争末期に起死回生を狙って無理を承知で、当時英領であったインドへ北東部からの侵攻を企図して決行されたインパール作戦に関する証言もある。 

    インパール作戦 補給なきコヒマの苦闘 (NHK 戦争証言アーカイブス) 

    すでに社会の中で一握りのマイノリティとなってしまった戦中派の彼らの声。私たちは謙虚に耳を傾けて、『歴史は繰り返す』ことのないよう努めるべきだろう。

  • ツアー列車いろいろ

    以下の行程で、7泊8日の特別ツアー列車が走っているのだそうだ。その名もBuddhist Circuit Special Train。 

    初日 : デリー、ガヤー

    2日目 : ガヤー、ボードガヤー

    3日目 : ボードガヤー、ナーランダー、ラージギル、ガヤー、ワーラーナスィー

    4日目 : ワーラーナスィー、サールナート、ゴーラクプル

    5日目及び6日目 : ゴーラクプル、クシーナガル、ルンビニー

    7日目 : ゴーンダー、スラワスティ、アーグラー

    8日目 : アーグラー、デリー 

    ビハールとU.P.の仏蹟を中心とした観光地に加えてアーグラーを観光してデリーに戻るというもので、出発日は次のとおり。 

    出発日

    2010年9月25日

    10月16日及び30日

    11月13日及び27日

    12月11日及び25日

    2011年1月8日及び22日

    2月12日及び26日

    3月12日及び26日

    いずれも起点はデリーだが、出発駅はサフダルジャン駅である。料金は以下のとおり。

    First AC Coupe 

    US$ 1176

    INR 55272

    AC – First Class 

    US$ 1050

    INR 49350

    AC – Two Tier

    US$ 875

    INR 41125

    AC – Two Tier

    (Side Berth)

    US$ 770

    INR 36190

    AC – Three Tier 

    US$ 735

    INR 34545 

    宿泊費(ホテル2泊で他は車中泊)・食費等込みとはいえ、料金は決して安いわけではない。

     それでも鉄道大国インドならではの豪華観光列車として知られるPalace on Wheels、Rajasthan Royals on Wheels、Deccan Odyssey、Golden Chariotなどは、時期やクラスによるが7泊8日の行程で2500ドルから5000ドル近くの出費を覚悟しなくてはならないことを思えば格安である。 

    最近のこの類の企画ものでは、Maharaja’s Indiaというものがあるが、こちらは5600ドルから20000ドルという、さらにビックリの金額で売り出されている。 

    Buddhist Circuit Special Trainは、これらのゴージャスな車両と特別なサービスを売りにするものではなく、基本的に在来の車両を使用する企画ツアーである。他にもエコノミーな列車ツアーとしては、Bharat Darshanシリーズの中に様々なタイプがある。日程は1週間から15日間で、訪問先もいろいろ異なるものがあるが、費用は3600ルピーから7700ルピーと手頃なものとなっている。通常の列車もクラスにより運賃の格差が甚だしいこの国だが、ツアー列車にかかる費用も上から下まで大きな差があるのは、いかにもインドらしい。 

    先述の豪華列車にかかるコストの関係はさておき、そもそもパッケージツアーで1週間費やしてみたいと思わないのだが、デリーからラージャスターンのアルワール間を1泊2日で往復するFairy Queenには、いつか機会を得て乗車してみたいと考えている。 

    1855年、なんとインド大反乱の2年前にイギリスで製造された、現存する最古の運転可能な蒸気機関車が牽引するヘリテージ列車であるため、『イン鉄ファン』のマストアイテムだ。 

    往復でも片道のみでも乗車可能で、IRCTCのウェブサイトでも予約を受け付けている。今季は2010月から2011月まで、合計10往復している。 

    料金はフルパッケージ(Fairy Queenでのデリー・アルワール往復とサリスカー宿泊ならびに国立公園見学)で10200ルピー。片道ツアー(Fairy Queenでのデリーからアルワール片道とサリスカー宿泊ならびに国立公園見学)は7100ルピー。Fairy Queenのデリーからアルワールまでの乗車のみならば3200ルピー。

    ご興味のある方はお早目にご予約を。

  • Namaste Bollywood #25

    Namaste Bollywood #25

    Namaste Bollywoodの今号の特集は『ゼロ年代のボリウッド』である。 

    2000年から2009年までの、Kabhi Kushi Kabhie Gham, Devdas, Munna Bhai MBBS, Kabhi Alvida Naa Kehna, Om Shanti Om, Rab ne bana di Jodi等々の 代表的作品が取り上げられている。 

    ご存知のとおり、ボリウッド映画界のトレンドはここ10年ほどで大きく変化するとともに、ロケ地、配給先、資金関係などにおいて、一層のグローバル化が進展した時期でもあった。 

    この時代を振り返るムック本もNamaste Bollywoodから発刊される。題して『That’s Bollywood 2000’s』だ。 

    Namaste Bollywoodのウェブサイト内に、ボリウッド映画のDVDレビューが掲載されるようになっている。 

    十年一昔とは言うが、今から遡ること11年前の今ごろ、世界規模でのコンピュータの誤作動が『2000年問題』に対する懸念が世界的話題になっていたことが、はるか遠い昔のことに感じられる。 

    私たちがこうしている『今』の出来事も次第に過去へと追いやられてしまうのだが、ゼロ年代に続く『10年代』のボリウッド映画界ではどんな作品が発表されていくのか、今のスターたちがどう進化していくのか、どんなスターが誕生してくるのか等々、非常に楽しみである。

  • エアアジアでインドへ

    エアアジアの羽田・クアラルンプル便(12月9日就航・週3便)が話題になっている。 

    すでに日本に乗り入れているオーストラリアのジェットスター、韓国のチェジュ航空と合わせて、日本にもようやくLCC (ローコストキャリア)の時代が到来しつつあることを感じさせられる。 

    ジェットスターは台北経由シンガポール行きの便があり、チェジュ航空はソウルで乗り換えて同社のバンコク行きを利用できるが、それらの地点から更に他社便のチケットを買い足さなくてはならないため、インド行きに利用するのはあまり現実的ではないかもしれない。 

    だがエアアジアについては、ハブ空港のクアラルンプルから現在インドの9都市(コールカーター、コーチン、チェンナイ、ティルチラッパリ、デリー、トリバンドラム、ハイデラーバード、バンガロール、ムンバイー)への便があるため利用しやすいだろう。 

    料金は羽田・クアラルンプル間が通常の底値が往復で3万円程度(片道1万5千円くらい)になるらしい。この区間について、本日9月23日正午から10月31日までの予約受付期間内に、今年12月9日から2011年7月31日までの搭乗分座席の一定部分を、キャンペーン価格の片道5,000円で売り出すとのことだ。空港使用料等を加えても、往復で日本円にして1万4千円弱という破格の料金である。 

    クアラルンプルから先については、エアアジアのホームページで仮に『往路10月1日、復路10月20日』として調べてみると、デリー往復905 MYR(約25,000円)、ムンバイー往復 761 MYR (約21,000円)、チェンナイ往復 628 MYR (約17,000円)、ハイデラーバード往復 682 MYR (約19,000円)といった数字が出てくる。 いずれも行き帰りの空港使用料を含めた金額だ。

    他のLCCキャリアがそうであるようにフライトの時期、空席状況、予約するタイミング等によって価格は変動する。概ねデリーやムンバイー便については、羽田からトータルの出費は概ね5万円強から5万5千円程度ということになるだろう。エアインディア等の他キャリアの底値の時期と比較すると驚くほど安いというほどではないが、費用をかなり圧縮できることは間違いない。またキャンペーン価格での売出し時期と合致すれば、非常にお得な料金で往復できることになる。

    ただし年末年始やゴールデンウィークといったピーク時には既存航空会社との料金差はごくわずかなものとなってしまうようだ。また一定の条件のもとにフライトの変更は可能であっても払い戻し不可であることについては留意しておく必要がある。 

    LCCキャリアで乗り継いだ経験がないのでよくわからないが、羽田・インド間が同日乗り換えできるスケジュールの場合、チェックイン荷物をそのままスルーで処理してもらえるのか、またフライトの遅れにより中途での乗り継ぎがうまくいかなかった場合の処置などあまり期待できないように思う。だが利用予定がピーク時以外で、乗り換えスケジュールにある程度の余裕があれば、充分検討の余地ありだ。 出発地が成田ではなく、より都心に近い羽田空港である点も好ましく感じられる。

    とりわけエアアジアに期待しているわけではないが、日印間の移動に新たな選択肢が加わること、LCCキャリアの伸長が今後の既存航空会社の料金自体にも与える影響は少なくないであろう。こうした航空会社の路線が増えてくることについて、利用者としては大いに歓迎したい。

    格安航空会社が羽田にやって来る! エアアジアXのカラクリ (YAHOO ! JAPAN ニュース)

  • ナマステ・インディア 2010

    今年もナマステ・インディアが代々木公園にて、9月25日(土)から26日(日)にかけて開かれるが、なんと18回目の開催となるのだそうだ。 

    昨年はカラン・スィン、その2年前にはスワーミー・ラームデーヴと、ちょっとサプライズな人物の登場があった。今年も誰かびっくりするような有名人がやってくるのだろうか? 

    インド出身の演歌歌手チャダは、すっかりこのイベントの常連となった感があり、今年も彼のステージが行われるようだ。 

    9月も下旬とはいえ、今年はまだまだ気温が高く、秋が訪れたという実感のわかない日々が続いている。それでも確かに朝夕は涼しくなってきているし、日中の最高気温もそれほど上がらなくなってきた。 

    そろそろ秋雨の時期に入るはずだが、今度の週末は天気に恵まれることを期待したい。

  • THE GLASS PALACE

    THE GLASS PALACE

    一度読み終えた小説を再び手に取ることはほとんどないのだが、今年ミャンマーの暑季にマンダレーを訪れてから『時間が取れたらもう一度読もう』と思い出した作品があった。  

    コールカーターで生まれ、ドゥーン・スクールを経てデリー大学、そしてオックスフォードで学び、数々の話題作を世に送り出してきた小説家アミターヴ・ゴーシュが10年前に発表した傑作『The Glass Palace』である。 

     

    書名:The Glass Palace

    著者:Amitav Ghosh

    出版社:Harper Collins Publishers

    ISBN-10: 000651409X

    人気作家の話題作であったことに加えて、舞台設定が英領期のビルマ、インド、マラヤということもあって興味を引かれて、ペーパーバック版が出てからすぐに購入したので、確か最初に読んだのは2001年だったと思う。窓際で陽の当たる書棚に置いていてすっかり日焼けしてしまった本を久しぶりに取り出してページをめくってみた。 

    ストーリーは、ベンガルから家族とともに当時のビルマに移住後、不幸にも父母が相次いで亡くなり孤児となったラージクマール少年が、マンダレーの市街地で印緬混血の女性が切り盛りする道端の屋台で手伝いをしながら糊口をしのぐ場面から始まる。  

    当時、コンバウン朝の王都マンダレーでは、最後の王となるティーボーが王妃スパヤラートとともに王宮で暮らしていた。タイトルのTHE GLASS PALACEとは、その宮殿のことを言う。 

    時は1885年、第三次英緬戦争勃発。ビルマ軍は敗走を続け、英軍はついにコンバウン朝の首都マンダレーを陥落させる。第二次英緬戦争により1853年以降、下ビルマを占領していたイギリスだが、コンバウン朝を倒して上下ビルマを統一することに成功した。翌1886年、ビルマは英領インドに編入される。 

    マンダレーが英軍の手に落ち、側近や衛兵も散り散りになって無防備になった王宮にマンダレー市民たちが押し寄せてきて略奪が始まる。そうした群衆の中にいたラージクマールは、王家の侍女として仕えていた孤児の少女ドリーと初めて出会うことになる。 

    ビルマ最後の王ティーボーは、王妃スパヤラートと幼い王女たちとともにマドラスに移送され、2年後の1887年に王家はインド東海岸の現在マハーラーシュトラ州のラトナギリーに移され、ここが王自身にとっての終の棲家となる。ちょうど1857年にインドで起きた大反乱の旗印として担ぎ出されたムガル最後の皇帝バハードゥル・シャー・ザファルが捕らえられた後に妃と息子たちとともにラングーン(現ヤンゴン)に流されたのと同じパターンだ。 

    王家の侍女ドリーは、王家の流刑先でも彼らに甲斐甲斐しく仕えていたが、ここにコレクターとして赴任してきた若くて有能なベンガル人官僚の妻ウマーと親しくなる。ウマーは外の世界をほとんど知らずに結婚適齢期を迎えているドリーを不憫に思っていた。 

    ラージクマールは、英領となった上ビルマで人生の転機を迎えていた。マンダレー陥落前にマレー半島からやってきた華商サヤー・ジョンの仕事の手伝いを初めていた。後にマラヤに戻ってゴム園で成功するサヤーだが、彼が当時のビルマで手掛けていたチーク材取引は順調に拡大していき、能力を認められたラージクマールはサヤーの右腕として重宝されるようになった。やがて独立して自身の力で道を切り拓いていくようになる。 

    日の昇る勢いで出世街道を邁進していたラージクマールだが、王都陥落の混乱の中で出会ったドリーのことが気にかかっていた。 

    その後、ラージクマールは訪印した際にラトナギリーに出向き、ドリーと再会する。当初は彼に関心ある素振りさえ見せず冷淡にあしらっていたドリーだが、ついにラージクマールと一緒になってビルマに戻ることに同意する。 

    ・・・といったあたりが物語の導入部だ。ラージクマールとドリーの夫婦、サヤー・ジョン、そしてウマーの身内といった三つの家族とその子、孫の代にかけて、ビルマ、インド、マラヤの三つの地域にまたがり、王都マンダレー滅亡から第二次大戦を経てこの地域の旧英領の国々の独立、そしてビルマの民主化運動後までの110年もの長きに渡る時空のもとで話が展開する。 

    描かれる時代や場所により、一人称で語られる人物が次々に入れ替わっていくが、世代による物事の考え方や価値観の違いも描き出されていく。主人公と呼ばれるべき人物が複数あり、それぞれ異なる軸からストーリーが見事に紡ぎ出されていく。 

    1956年生まれの著者のアミターヴ・ゴーシュは、ビルマに在住した経験はないが、ニューデリーに遷都される前、1911年までは英領インドの首都であり、インド東部に位置する西ベンガルの州都コールカーターは、地理的にもビルマに近い。今でもラール・バーザール東側の10A, Eden Hospital Rd.にビルマ系の人々が出入りするMyanmar Buddhist Temple (Burmese Buddhist Templeから改称)というテーラワーダ仏教の礼拝所がビルの中に入っている。そうした環境のためビルマから引き揚げてきた人たちと接する機会もあったのではないかと思う。 

    それにも増して大きな動機として、著者であるアミターヴ・ゴーシュの父親と叔父が英軍将校としてビルマに駐在しており、インド国民軍との戦闘体験もある。著者自身、父親や叔父から当時のビルマの話をよく聞かされていたようだ。そのあたりの経緯については作品の後書に記されている。『この小説のアイデアは、私が生まれるよりかなり前に父と叔父によってインドの我が家にもたらされた』とあり、作家自身が格別な思い入れと渾身の力を込めて綴った物語であることが感じられる。 

    ビルマやマラヤにおけるインド系の人々の移民史、植民地行政史に関するある程度の予備知識が必要かもしれない。アジアにおけるイギリス支配の中心地であったこのエリアにおける、インド系とりわけベンガル人の視線から見た近代から現代にかけての歴史ドラマだ。 

     20世紀初頭にはラングーンの人口のおよそ半分がインド系であり、文字通り『インドの街』であった。今でもダウンタウンには、ベンガル、U.P. ビハール、タミルナードゥその他に起源を持つ人々が大勢暮らしている。地域に点在するヒンドゥー寺院や祠はもとより、ジャイナ教寺院、グルドワラーがあり、父祖の出身地域コミュニティごとのインド系の人々のモスクがいくつもある。 

    ムスリム地区の一角には、シナゴーグがひっそりと佇んでいる。もはやユダヤ教徒は数えるほどしか残っていないというが、かつてここで繁栄を享受した彼らはユダヤ系インド人であった。 

    この物語の中心人物のひとり、ラージクマールに話を戻す。一時は羽振りの良い材木商として、人々にとって自家用車など夢また夢であった時代に、息子に当時の最新型の自動車を買い与えるなどしていたが、日本軍のビルマ侵攻で全てを失ってインドに難民として逃れる。

    頼った先は妻ドリーとの間柄を取り持ってくれた恩人であり、親しい友人でもあるウマーの実家。彼が死ぬまでの20年間、ビルマにて一代で築き上げたすべてを失い無一文となったラージクマールは、ウマーとその家族の好意にすがって静かに余生を送る。 

    この物語に出てくる人物は、コンバウン朝最後の王ティーボーとその家族を除きすべて架空の人物だが、ビルマにおけるインド系移民の盛衰を鮮明に描き出している点もまた興味深い。 

    ビルマ征服を企てたのはイギリス人であったが、軍の大半はインド兵たちであり、ビルマを統治した役人たちの多くもインド人、鉄道や道路といったインフラを建設したのもインド人ならば、都会で商業活動の中核を成していたのもインド人たちであった。もちろん農作業や家内工業その他非熟練労働に従事するインド出身者たちも沢山いたとはいえ、当時のビルマの人々がいつも目にする『外来の抑圧装置』といえば、やはりインド人たちということになってしまう。

    旺盛な勤労意欲と企業家精神から、当時彼らの帝国の版図に新たに加わったビルマで大きな財を成したインド系の人々は多かったようだ。だがビルマでの独立を求める機運と反英運動は当然のことながら、『植民地の中の植民地』として君臨するインド人(とともにこの国で商業的に成功した華人たち)に対する反感と切り離すことは不可能であった。 

    インドでは独立運動が地域や民族を横断する包括的なムーヴメント(印パ分離という悲劇はあったものの)となり、独立後も民族のモザイクを統合する方向に努力が続けられたのとは対照的に、ビルマでは国内最大の民族集団であるビルマ族中心の民族主義が台頭した。 

    独立前後からすでにあったインド系・中国系を排除する動きのみならず、民族的にも文化的にもインド顔負けの多様性に富んだ国内をビルマ族の言語と文化で国内を統合しようとした結果、長年に及ぶ内戦が続くことになったのはご存知のとおり。 

    ビルマからのインド系の人々の流出には幾度かのピークがあった。最初は1937年の行政的にインドからの分離した際、次は第二次大戦期の日本軍侵攻から1948年のビルマ独立にかけてのナショナリズムの高揚期、そして1962年のネ・ウィン将軍によるクーデターによる軍政が始まった時期である。これらは、印パ分離の陰にかくれてあまり語られることがない、もうひとつの『インド社会の分離と離散』の時代でもある。 

    この作品は2007年に日本語に訳されて、邦題『ガラスの宮殿』として新潮クレスト・ブックスから出ている。多少なりとも興味のある方には一読をお勧めしたい。 

    書名:ガラスの宮殿

    著者:アミターヴ・ゴーシュ

    翻訳:小沢自然・小野正嗣

    出版社:新潮社

    ISBN-10: 4105900625

  • 日本式の食事処 2

    そんな『和食圏外』のインドで、しかも都市圏から遠く離れていながらも健闘している和食レストランがある。ダラムサラのマクロードガンジにあるルンタ・レストランだ。 ルンタ・ハウスという建物の中にある。 

    NGOルンタ・プロジェクトが、現地のチベット難民たちによるNGO組織であるグチュムスの会とともに、難民に対する職業訓練施設を兼ねて運営しているものだ。ルンタ・レストランは彼らの活動のための収益部門のひとつである。 

    そんな訳で通常のレストランとは性格が異なるのだが、ここはずいぶん繁盛している。日本人旅行者その他の滞在者による利用とともに、ロンリープラネットにも紹介されているため西洋人客が非常に多いことも特徴だ。またインド人観光客の姿も散見される。 

    パッと見た感じでは、店内に日本式食堂という雰囲気はあまりないが、奥の方には座敷風になっているコーナーがあってくつろげる。 マクロードガンジに多いツーリスト向けのレストランやカフェの中のひとつだが、店内が広くてキビキビしたスタッフの応対が良いことに加えて、普通ならば日本国外ではかなり高い値段の付く日本式の料理を、バックパッカー向けの食堂の価格で提供していることが人気の理由だろう。 

    お好み焼きが50Rs, かき揚げ丼は60Rs, 日替わりの定食(巻き寿司の日もあり!)は120Rsといった具合だ。日本国外で『和食』を謳うレストランの中で格段に安い。他にもうどんや日本風のカレーライスもあり、どれも男性客にとっても充分な分量が出てくる。パンやデザートといった洋風のアイテムもある。ピュア・ヴェジのアイテムもあるので、菜食主義のお客も安心だ。 味のほうは、質実剛健というか、男の手料理というか、ちょっとごっつい感じはするものの、私たちが普通に作って食べている家庭料理といった印象だ。 

    日本人観光客や滞在者が多いとはいえ、『和食圏外』の国で、しかも都市圏から遠いこと、また値段の面でも格安であることから、NGOの収益部門であることも併せて、通常の和食レストランとは異なる型破りな存在である。 運営母体であるNGOの活動はもちろんのこと、ルンタ・レストランの今後ますますの繁盛を期待したい。

     <完>

  • 日本式の食事処 1

    海外にある日本式の食堂、和食レストランといえば、主に日本人在住者や訪問客が多いところ、あるいは現地で日本食に関心の高いエリアという、言うまでもなく大きなマーケットが成立する場所に出店している。それらは往々にして大都市である。 

    裾野の広がりがグローバルな中華料理やファストフードの類と異なり、まだまだ日本の『民族食』的な色彩が強いため。縁もゆかりもないところにいきなり出店というケースはあまりない。『日本ブランド』は、世界中どこに行っても評判の高いクルマや家電製品などとは違い、食の分野ではマイノリティだ。現地にそれなりの『和食文化』的なインフラが存在していることが不可欠だ。 

    多くは個人事業主による出店で、日本人がオーナーであることが多いが、同様にかつて日本に留学した経験があったり、働いた経験があったりするなど、日本とのゆかりの深い現地の人が開業した店も数多い。また日本人と現地の人による共同経営(日本人とその配偶者である地元の人という組み合わせを含む)もよくみかけるところだ。 

    特に日本企業が多く進出しているところでは、接待などで使われるような高級店も少なくないが、日系企業オフィス近隣でランチや仕事帰りに一杯引っかけるのに利用してもらうような店、単身赴任者を主に相手にしているような大衆食堂と居酒屋を兼ねたような店も多い。 

    大衆食堂風とはいえ、途上国においては現地の気楽なお店に比べるとずいぶん高いため安食堂とはいえない。主な顧客層といえばたいていは日本人客ということになる。 

    これらとは別に、近年は日本の外食チェーンの海外進出も盛んになってきており、和食では大戸屋がタイ、台湾、香港、インドネシア、シンガポールにいくつも出店している。居酒屋の和民はアジアの複数の国々で展開している。 

    また『和食』と表現していいのかどうかわからないが、日本発の食としてのラーメンを味千ラーメンが中国、韓国、東南アジア、北米、オセアニアに進出しているし、餃子の王将が海外展開するのは、本場中国の大連だ。 

    日本式カレーのCoCo壱番屋もアジア5か国とハワイに店を出している。海外でも日本国内と同じルーを使用しているという。なんと6年後あたりを目途にインドへの進出を画策しているようだ。日本のカレーがインド上陸となれば、日本国内での話題作りにはなるかもしれないが、これについてはレシピそのものを根本から見直さなくてはならないだろう。

    和食ないしは日本式の食事関連以外にも、イタリアンのサイゼリヤ、ステーキが中心のペッパーランチも積極的に海外に進出している。 

    こうした日系の外食チェーンの主戦場は東アジアと東南アジアの大都市だ。各国・地域の消費文化の中心地でもある。もともと味覚、食材、調理法などで共通するものが少なくなく、親しみやすいこと、サブカルチャーやファッションその他の面でも日本の影響が濃く見られることなどからも、和食ならびに日本食以外の分野についても『日本ブランド』がそれなりの浸透力を持つことができる。

    そのため地場資本の外食チェーンでも『和食』アイテムを取り上げるところが増えてきており、現地レベルの庶民的な価格で日本食らしきものを食べることができるようにもなりつつある。 

    ただし食事の分野において日本のネームヴァリューがまったく通じないところも少なくない。欧米においても都市在住者以外では日本食といっても『中華料理と違うのかい?』とまったくイメージさえ沸かない人は少なくない。また同じ『アジア』の中でもヒマラヤの西側の国々となると一気に『和食圏外』となる。とりわけ中東あたりまで来ると、刺身や寿司の類を『奇食』ととらえる人さえ少なくない。 

    インドやスリランカあたりで大都市には和食レストランがいくつかあるが、いかんせん『圏外』であるため、東アジアや東南アジアでの和食に比べると、食材の供給の問題もあるがコストバリュー、ヴァリエーションともに著しく低くなってしまうのは致しかたない。 

    <続く>

  • 代々木公園で『スリランカ』『インド』

    暑くも短い日本の夏が過ぎようとしている。本格的な秋の訪れはまだ少し先だが、再び屋外のイベントを快適に楽しめる時期がやってくる。

    東京渋谷区の代々木公園で、9月11日(土)ならびに12日(日)に『スリランカフェスティバル2010』が、そして同じ9月の25日(土)と26日(日)には『ナマステ・インディア2010』が開催される。

    『ナマステ・インディア』にて、一昨年はスワーミー・ラームデーヴ、昨年はカラン・スィンが来ていたが、今年もそうした目玉となる人物の来日はあるのだろうか?

    それらの日程の間にあたる9月18日(土)と19(日)には『ベトナムフェスティバル2010』という催しもある。

    季節柄、台風がやってくることでもなければ、まずまずの気候でのんびりと休日を過ごせるのではないだろうか。

    秋は代々木公園で良い週末を!

  • GR Digital Ⅲ

    GR Digital Ⅲ

    久々にカメラについての話題を取り上げてみたい。2009年8月に発売されてから1年経過のGR Digitalシリーズの現行機である。値段もかなりこなれてきており、発売直後は7万円台であったように記憶しているが、現在は販売店によるが、安いところでは4万円強で売られている。

    初代GR Digitalは2005年10月に発売された。後継機のGR DigitalⅡは2007年11月、そして現行のGR DigitalⅢは2008年8月にリリースされた。コンパクトデジカメとしては2年間というサイクルはかなり長い。GRシリーズの次期モデルが出るまであと1年くらいはあるため、しばらくすると4万円を切る店も出てくるのかもしれない。

    私自身、銀塩のころからGRを気に入って使っていたので、『いつかGRのデジタル版が出ないものか?』と心待ちにしていたのだが、ついに2005年にGR Digital登場。これを発売日に購入して以来5年近くなる。

    一眼レフ並みに操作性が高く、機能も充実しているカメラだが、レンズは28mmの単焦点なので、『これ1台で何でもかんでも撮る』というわけにはいかない。それだけに、いろいろと頭をひねって工夫を加えて撮影するのが楽しく、そうすることが可能かつ快適で極めて自由度の高いカメラである。

    それでも、このところエラーが頻発するようになってきた。電源が入りにくくなったり、それとは逆にオフにしてもレンズ鏡胴が引っ込まなくなったりといった、ハード面での不具合である。そろそろ寿命が近いのではないだろうか。

    そんなわけで、現行のGR DigitalⅢのほうに目が行くようになるのだが、さすがにデジタルの世界で4年の時差(2005年発売の初代機と2009年に出た現行機)とでは、まるで別物のように大きな進化がみられる。

    まずは開放値が2.4から1.9へと、2/3段ほど明るくなったため、感度を上げずとも手持ちで撮影できる機会がより多くなる。スナップや風景にも、記録用としてモノを撮る際にも明るいレンズのメリットは大きい。インドでは概して夕暮れ以降は街中も室内も暗いが、だからといって感度をむやみに上げると画像が荒れる。そんな『昼間しか使いものにならないカメラ』では困るのだ。 

    加えて高感度域でのノイズもかなり軽減されている。初代機ではISO400くらいになるとかなりノイズが増えるため、ISO200以下でしか使う気がしなかったが、現行モデルではISO400まで特に問題はないし、ISO800くらいまで上げても、なんとか我慢して使えるかな、といった具合だ。明るいレンズと合わせて、夕方から夜にかけて使用できるシーンが増えることにもなる。もちろん大型のセンサーを搭載したデジタル一眼と比較するわけにはいかないのだが。 

    フォーカス性能も格段に良くなった。初代機も発売当時としてはキビキビ動作するほうだったが、少し暗いところではすぐにフォーカスに迷いが生じていた。現行機ではちょっとした暗がりでも小気味良く合焦する。 

    またホワイトバランスの精度がかなり向上していることに加えて、『マルチパターンオートホワイトバランス』というセッティングも用意されている。色温度が異なる光源が複数混在しても、それぞれ見た目に近い色合いを再現できるということになっている。

    背面の複数のキーに、様々な設定を割り当てることができて便利なのは初代機もそうであったが、さすがに2世代分進化すると、使い勝手も飛躍的に向上している。よく使う細かなセッティングを最大6パターン保存することができるのも便利だ。これらは軍艦部右側にあるモードダイヤルで呼び出すことになっている。

    ・・・と、いろいろ挙げてみたが、GRシリーズについてのレビューは、それこそネット上に沢山出ているので、操作性等について敢えてここで詳しく書き連ねる必要はないだろう。

    操作感はもとより、従前の仕様を最大限継承する姿勢には親近感を覚える。設定メニューは基本的に共通しているため新型機種を手に取って戸惑うことはない。外観もほぼ同一といってよいくらい非常に似通ったものである。

    GR Digital (第1世代)

    GR DigitalⅡ(第2世代)

    GR DigitalⅢ(第3世代)

    現行機であるGR DigitalⅢは、先代よりレンズの径が少々大きくなった分、ボディの嵩もほんの少し増えたが、並べて見ても一目ではそうとわからない程度だ。ゆえに買い替えても、これまで使っていたモデルを引き続き愛用しているかのような気にさえなる。

    電池については、液晶画面の大型化(現行機は3.0型。初代は2.5型、その次が2.7型)に伴ない、容量も大きくなっている。カメラ屋の店員には、カタログだけチラリと見て『バッテリーの型番が違うので旧型のものと互換しません』などと言う者もいるが、これは誤りである。容量が違うだけで、従前の機種のものもちゃんと動作するのだ。

    ただし以前の機種のオプション類で使用できなくなったものもある。レンズの口径がやや大型化したため、従前のワイコンとアダプタは取り付け不可となった。ワイコンのアダプタがあると、必要に応じてフィルタを使用できて便利だったりもするのだが、薄着の季節でもシャツやズボンのポケットに無造作に放り込んでおける気軽さを生かして『生のまま』であっても、本格的なカメラとしての性能を楽しむことができるのが、このカメラの最大の利点かもしれない。

    しかも先述のとおり、従前のモデルに比べてF値がかなり明るくなったこと、高感度設定時のノイズの軽減という進歩の結果、24時間活用できるカメラとなったと言えるだろう。

    コンパクトカメラであれ、一眼であれ、およそデジカメなるものに通常愛着を感じることはないのだが、GRシリーズに限っては『壊れるまで使う』気になる。GR Digital Ⅲについても、今後長く使用することになるだろう。

    そんなわけで、これまで幾つかのデジカメについて言及してきた、日常でも旅行先でも便利な『インドでどうだろう?この1台』の筆頭にGR Digital Ⅲを挙げたい。