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  • ミャンマーはどうなるのか?②

     さて投票日が11月7日に予定されているミャンマーの総選挙だが、同国最大の野党NLD (National League for Democracy 国民民主連盟)を率いていたアウンサンスーチー氏をはじめとする民主化運動指導者たちを排除(そしてNLDは今年6月に解党)することにに成功した軍事政権は、自らの翼賛団体であるUSDA (Union Solidarity and Development Association 連邦団結発展協会)から衣替えしたUSDP (Union Solidarity and Development Party連邦団結発展党)にて選挙戦に臨む。 

    今回行われる選挙により、国政レベルの連邦議会と管区・州レベルの地方議会の議員が選出される。連邦議会は二院制で合わせて664議席、地方議会は合計888議席となる。 

    無政党が選挙に参加するには1,000人以上の登録された党員数が必要とされる。無所属で立候補することはできない。また各候補者ひとりあたり約500ドルという同国としては高額な登録料が課せられている。また日頃から政治活動に対する当局による監視の目も厳しいこともあり、志ある市民が政治の道を目指すことは難しいようだ。 

    それでもこのたびの総選挙に参加するのは37政党と、なかなか賑やかなものとなる。だがトータルで3,000人ほどとされる候補者の内訳で見ると、1,000人超の候補者を擁する最大政党USDPと同じく1,000人規模の候補者を持つNUP (National Unity Party)が突出している。 

    NUPとは、1988年8月8日に始まった大規模な民主化要求運動を抑えきれず、同年9月に軍のクーデターにより政権を追われるまで、1962年から22年間の長期に渡り、ビルマ式社会主義を標榜する政治を運営してきたBSPP (Burma Socialist Programme Partyビルマ社会主義計画党)がその前身である。 

    1988年7月まで同党のトップである議長の座にあったネ・ウィン将軍は、国防大臣であった1962年にクーデターに成功して政権を握った直後、自ら創立させた軍人主体のビルマ社会主義計画党に政権を横滑りさせている。ゆえにBSPP時代からして国軍の間接統治による独裁政治であり、それに対する国民の不満がついに噴出したのが1988年に大きな民主化要求運動であったといえる。この出来事により、ネ・ウィン氏は事実上失脚した。 

    1990年に軍事政権の意志決定最高機関であるSLORC (State Law and Order Restoration Council)の元で総選挙にて、同機関と旧BSPPによって設立し、当然政権を継承するものと体制側が目論んでいたNUPだが、獲得したのはわずか10議席という惨澹たるもので、対するアウンサンスーチー氏がトップを務めるNLDは392議席と誰の目にも明らかな結果となり、ついにこの国が民主的な体制に移行するものと内外からの期待を集めた。 

    しかし、与党となるべきNLDへの政権の委譲が行われず、軍事政権側に批判的な活動家たちに対する弾圧が行なわれ、国民議会も招集されていない状態が続き、現在に至っている。SLORCは、1997年にSPDC (State Peace and Development Council)へとその名称を改めている。 

    そうした経緯もあり、現在の軍政の翼賛団体から衣替えしたUSDPとNUPは、どちらも国軍と非常に縁が深い。ただし現在の軍事政権と一心同体の存在であるUSDPに対して、1988年に政権を追われた後、1990年の総選挙では軍事政権を代表する政党として再登場したもの、まったく話にならない大敗北を喫してからは、隅に置かれてしまい存在感を失っている旧BSPPことNUPは、現在では前者並びに国軍とは少々スタンスを置いた立場であるらしい。 

    今回ようやく実施される総選挙について、USDPとNUPというふたつの大政党があまりに突出していること、さらには総議席の四分の一が軍人に留保されることなど問題は多く、極めて軍の影響力を留保させた政権が誕生することは間違いないようだ。 1990年総選挙におけるNUPの大敗北の苦い記憶のある軍政側は、実に長い時間をかけて民主化運動を冷却させるとともに、こうした勢力の影響力を排除していった。そしてついにNLDを解党に追い込み、満を持しての選挙戦となる。

    NLD解体以降のリベラル勢力は小規模なものが割拠している状態であるのに対して、軍政側には、選挙によらず軍が指名する四分の一の軍人議席という、いわばセーフティ・ネットがあるため、USDPとNUP合わせて最悪でも総議席数の四分の一をわずかに超える程度確保すれば政権に就くことができるという極めて有利な状況にある。 

    つまり『体制側(現在の軍政) vs民主化勢力』 という構図ではなく、大方は現体制側の立場の候補者の中から『人物を選出する』ものとなる。今回の選挙に向けて、慎重かつ周到に準備を重ねてきた軍事政権側は、USDPの候補者に軍や政府関係者以外にも、ビジネス界その他で名前の知られた有名人たちも多く擁立しているようだ。規模の上でも資金力の上からも同党が圧倒的に有利である。

     アウンサンスーチー氏は、支持政党がなければ選挙をボイコットすべきであると旧NLD支持者たちに呼びかけているが、同党を支持していた人たちがこぞって投票を控えた場合、小所帯のリベラル政党へ流れるべき票が失われてしまうため、かえってUSDPを利することになってしまうのが悩ましいところだ。 

    この選挙について『看板の架け替えに過ぎない』『軍政が軍服脱いで文民面するだけ』『軍政にお墨付きを与える手続きに過ぎない』といった批判は多く、本来1990年選挙の結果を受けて当時与党の座に就くべきであったNLDが参加できなくなったことにより、西側諸国の多くも今年11月の『総選挙』を正当なものとみなすかどうかは別の話である。おそらく選挙後に新たな政府が発足してからも先進諸国による経済制裁は続くことだろう。 

    しかし制裁が続いたところでミャンマーの新政権に与える打撃とは限定的なものとなることだろう。もとよりASEAN諸国はこの国の軍事独裁政権については黙認状態で経済交流は続いていたし、近年では中国の進出が著しい。欧米諸国企業が事実上ほぼ不在の中で、中国企業にとって、ミャンマーはまさに『草刈り場』といった具合である。ミャンマーは欧米諸国が考えているほど孤立してなどいない。ゆえに彼らによる経済制裁が政権を崩壊に追い込むなどと考えているとしたら、誤った思い上がりにすぎない。 

    今回の選挙により、次期政権にて軍人勢力が温存されることになるため、政府が喧伝しているような民主化にはつながらないだろう。しかしそれだからといって、何も変わらないと考えるのも間違いだろう。

    曲りなりにも複数の政党が参加して各選挙区で競合する候補者の中から有権者たちが選び出すというプロセスが実施されることの意味は大きいだろう。総議席中の軍人枠を除いた四分の三は、国軍系の政党候補者であろうと、その他政党から出馬した人物であろうと、選挙というプロセスを経て国民から直接信任されるという点が重要だ。

    またリベラル勢力や少数民族政党(こちらには軍政寄りのスタンスの党も含まれるが)からも当選する者が出てくることから、これまでの軍事独裁政権に賛同しない人々、常にビルマ族に圧倒されてきたその他の民族出身の人々が中央ないしは地方政治の舞台に参加できることの意義も無視できない。 

    軍政とイコールの関係にあるUSDPとこれに近い関係にあるNUPが政権を担うことになるであろうことは誰もが予見するところだが、前述のとおり前者と後者とでは、その立場に異なる部分があり一枚岩ではない。そのため現在、軍政の最高意思決定機関であるSPDCによる政権運営と比較して、かなり活発で多元的な政策論争が展開していくはずだ。 

    軍と政治のかかわりについても変わっていくだろう。軍籍から抜けて政治家に横滑りする国軍幹部が多数あるいっぽう、それらが軍で占めていたポストには下の世代の人たちが持ち上がってくる。同一人物がUSDPと軍双方の要職を占めることにはならないため、世代交代した軍幹部の意志がUSDPましてやNUPのそれとイコールという具合になるとは限らず、時に対立することもあるはずだ。 

    そもそも国軍に対する批判は多いが、北を中国、西をインド、東をインドシナに囲まれた文明の交差点とでも言うべき複雑な民族・文化背景を持つこの国で、まがりなりにも国土を今の形で維持できたのは彼らあってのことだ。イギリスが去り、主権を取り戻したこの国では長らく地方の反乱が続いてきた。それは国軍への反感というよりも、中央つまり支配民族であるビルマ族が彼らに対する抑圧者として映っていたからに他ならない。

    何かと問題は多いが、総選挙が実施されるということ自体は歓迎したい。一足飛びに大きな変革が起きることにはならないが、政治に多少なりとも国民の意志が反映されるようになることは間違いないだろう。リベラル勢力に対しては、与えられた枠組みの中で、今後粘り強く努力を続けていくことを期待したい。 ミャンマーはきっと変わる・・・と思う。時間はかかるはずだが。

    もちろん選挙管理の問題もある。果たして現在示されている枠組みの中での公正な選挙が実施されるのかどうか。選挙報道について、外国メディアを排除していることも気にかかる。とりあえずは行方を見守りたい。 

    1886年から1937年まで、英領インドの一部を成していたミャンマーは、西隣のインド同様に多民族・多文化から成る国ではあるが、多様性を有すると同時に国としての一体感があり、独立以来民主的な政治運営がなされているのとは実に対照的だ。 

    ミャンマーの将来が明るいものであることを願うとともに、インドという国の偉大さをも今さらながら感じずにはいられない。 

    <完>

  • ミャンマーはどうなるのか?①

    ミャンマーはどうなるのか?①

     つくづく不可思議な国である。軍政から民政移管を標榜する『総選挙』を11月7日に控えた今、また2008年に新憲法が公布されたがまだ発効されてもいないのに、なぜ10月21日に突然国名がミャンマー連邦がミャンマー連邦共和国へと改められるとともに、国旗、国歌が変更されることになったのか。 

    Myanmar gets new flag, official name, anthem (REUTERS CANADA)

     ミャンマー 国旗の変更を発表 (NHK)

    Cries of foul play as ‘new Burma’ is hoisted (Democratic Voice of Burma)

     従前の国旗の赤色は勇気、青色は平和を象徴しているとされる。社会主義時代の1974年に制定されたもので、社会主義的なシンボルを取り囲んでいる14の星は、この国を構成する7つの管区と7つの州、合計14の地域の統合の意味を有するとされる。

    新国旗については、緑色は平和、黄色は団結、赤色は勇気、中央の星は国家の永続性を示しているとのことだ。 

    国旗変更の背景について、各メディアによる様々な憶測が飛び交っているが、つまるところ国内外に向けて『国体が改まる』ことについて内外へのアピール、そして『国民の総意に基づく民主的国家』を創るための総選挙へのムード作りといったところなのだろうか。 

    この国は、1948年に独立した後、1974年に一度国旗を変更している。1973年以前は以下のものであった。青字の部分のデザインがそれ以前と異なる。

    ところで他人の空似、ということになるのだろうが、今回新しく制定される前までのミャンマー国旗は、中華民国(台湾)のそれとよく似ていた。

     新国旗も実はよく似たデザインのものがかつて存在していた。それは1943年から1945年までの日本による傀儡政権時代の国旗である。中央に配置されているのは星ではなくクジャクだが。1942年に日本軍とともに、その協力関係にあったアウンサン (アウンサンスーチー氏の父)率いるBIA (Burma Independence Army)が同国からイギリスを追い出すことに成功した。そして1943年8月に発足した日本の傀儡政権だが、前述のBIAから再編された国軍であるBNA (Burma National Army)が起こした1945年3月にのクーデターにより転覆し、再び英国支配下に戻ることになった。その後1948年にイギリスからの独立を達成した。

     

    クジャクといえば、1937年に英領インドから分離する際に制定された英領ビルマの旗にもこれが描かれている。このデザインは、ビルマ最後の王朝であったコンバウン朝の旗に描かれていたものであり、歴史的な図柄だ。 

    わずか1年半ほどしか持続できなかった傀儡政権が定めたものとよく似たカラーリングの新国旗は、この国の行方を暗示しているようである・・・などと言うつもりはないが、国旗変更のタイミングといい、新たに定められた図柄といい、決して幸先の良いものと感じられないのは私だけではないだろう。

     <続く>

  • 在日ムスリムの人々の墓地問題に思うこと

     日本で暮らすムスリムの人々の間の墓地不足が深刻であることから、栃木県足利市にて新たに用地を取得しようとの試みが難航している。その原因は埋葬方法が土葬であることにある。下記リンク先記事にあるとおり、日本に暮らす彼らの人口は、外国籍の人々が約10万人、日本人が約1万人と推定されるとのこと。 

    日本のイスラム教徒永眠の地は土葬の墓、住民ら反発 (asahi.com)

    『日本人が1万人』の部分ついては、外国人ムスリムの方と結婚した日本人でその多くは女性、その結婚相手で日本国籍を取得した南アジア諸国をはじめとする外国出身の人々で多くは男性、そして夫婦の間に生まれた子供たちといったところがかなりの部分を占めるものと思われる。 

    今日取り上げてみたasahi.comの記事によると、日本国内でイスラーム教徒向けの霊園は山梨県甲州市と北海道余市町の2か所だけであるとのことだ。アメリカによるアフガニスタン攻撃の際に同国の難民支援のための募金その他の運動を活発に行なった『大塚モスク』で知られる日本イスラム文化センターが墓地問題の解決に乗り出したところ、地元住民たちからの反発により、行政からの許可が下りずに足踏み状態が続いているということのようだ。 

    土葬に対する反発は、習慣上の相違と公衆衛生上での懸念によるもののようだが、日本で火葬が普及したのは近世以降のことであったようだ。それでも神道的な価値観からの反発もあったようで、火葬に対する禁止令が出された時期がある。 

    以降、火葬の技術が進歩したこと、人口の拡大と都市化の進展に伴い、衛生にかかわる問題はもとより埋葬地の取得も困難となることから、近代化とともに急速に火葬が一般化していくこととなった。 

    現在でも墓地埋葬法によって土葬が禁じられているわけではなく、各自治体の判断と墓地管理者の裁量に任されているのだが、ほぼ日本全国で火葬が一般的であるのはご存知のとおり。 

    イスラーム教徒やユダヤ教徒と同様に、キリスト教徒の間でも教義上の見地から土葬が行われてきたものの、国や地域にもよるが、日本同様に衛生面、用地取得、加えてコストの面から火葬を合理的な手段であると選択する人は決して少なくないようだ。保守的な価値観にはそぐわないものがあることは否めない。 

    在日ムスリム人口がどのように推移について詳細なデータは持ち合わせていないが、かつて存在がゼロに等しかった彼らが近年急増していることは街中の様子を眺めるだけで実感できる。この世に生きている人々すべてが、やがて人生の終末を迎えることから、墓地の問題は是が非でも解決していかなくてはならない問題であることは誰も否定できないだろう。 

    だが現地の反発にも理解できる部分がある。地元に縁もゆかりもない人たち、イスラームという、土地の人々にとってよくわからない信仰を持つ人たちの埋葬地を自分たちのところで引き受けるということを不条理だと感じる気持ちはごく自然なものであるともいえる。 

    『他者への寛容』を唱えるのは易しいが、何処からともなくやってきたよく知らない相手に『どうかご理解・ご協力を』と求められたところで『ああそうですか』と受け入れるのは残念ながらそう簡単なことではないのだ。 

    人の死に関する問題は墓地だけではない。過日、私の身近なところで、やがては自国に戻るはずであった西アジアのある国出身の若い男性が突然亡くなってしまった。人の死は老いてから訪れるものとは限らない。当然、彼の祖国の家族は遺体を故郷まで空輸することを希望した。それが可能な経済力のある人たちであったがゆえに遺体の運搬について特段問題はなかったのだが、もしそうした財力のない人であったとしたら、関係者たちにはどのような対応ができただろうか? 

    これまで日本では馴染みがあまりに薄かったムスリム人口が一時滞在、定住ないしは永住を問わず増加していくにあたり、今後様々な摩擦が生じてくることは予想に難くない。現在報じられているこの問題は、まさに今後の日本社会に求められる在日ムスリムの人々をめぐる課題のはじまりであると思われる。

  • ニュース、報道、メディア・・・

     活字中毒・・・というわけでもないが、いつも手元に何かしら読み物がないと落ち着かない。小説でもノンフィクションでもいいのだが。加えて日々の出来事に目を通さないと何だかスッキリしない。日常の暮らしの中でも旅行先でも目覚めてから一番にすることといえば、新聞を広げながら朝食を取ること。 

    朝起きてすぐに手に入らなければ、近くのマーケットに散歩がてら出かけて新聞売りを見つける。あるいは早い時間帯から鉄道、バスその他で移動する際には、駅やバススタンドで、まず最初に買うのはスナック類ではなく新聞だ。                                                                                                          

    全国規模のメディアで広大なインドの政治、社会、経済等の様々なニュースを目にするとともに、ローカルな新聞も押さえておきたい。広域紙には出ない地元の出来事がいろいろ掲載されているので、数日間読み続けると今そこで話題になっているらしいことについておおよそ検討がつくようになってくる。 

    往々にして退屈な記事が多いことも事実だが、例えばモンスーン期に激しい雨が降り続いているときにヒマーラヤ地方を旅行する際、あるいは付近で洪水その他の天変地異が起きている場合など、参考になることはとても多い。 

    また政治関係も同様だ。アッサム等の北東州を訪れた際には、ULFA (United Liberation Front of Asom)やNNC(Naga National Council)をはじめとする各地の分離活動を行う組織にかかわる記事をいろいろ目にすることができて興味深いものがあった。北東州関係については、コールカーターあたりであっても、地理的に北東州に近いこともあり、そのあたりに関するニュースはその他の地域よりも格段に豊富だ。 

    南インド、とりわけタミルナードゥやケーララあたりでは、新聞をはじめとするヒンディーによる印刷物はほとんど見当たらないものの、都市圏以外でも英字紙が豊富なのはありがたい。だいぶ前のことになるが、2005年12月のスマトラ沖地震による津波災害の際にちょうど南インドの沿岸部にいたため、いろいろ参考になった。 

    各地でメディアの活動が盛んであることは言うまでもないが、報道の自由度が高く周辺各国とは大きな開きがある。人々の『知る権利』が尊重されているからこそ『読むに値する新聞』が豊富であることはありがたい。 

    もちろん新聞といっても様々なので、報道の質についてはいろいろあり、それは報じる側、読み手側の双方のスタンス、加えてこう言っては大変失礼かと思うが、それらの質の問題もあることは否定できないのだが。もちろんそれこれは読み手自身がメディアを選択すればいい。 

    報道の自由は必ずしも手放しで称賛できるものとは限らず、報道機関とて大きな資本によるいわば『営利事業』であるがゆえに、ニュースの『売り手』の事情が紙面に現れることがあってもおかしくない。また近年の民間放送局による視聴率を意識してのセンセーショナルな報道(興味本位の犯罪特集番組、ヤラセや捏造ニュース)や視聴者からの携帯電話のSMSによる人気投票的なマーケティング手法等、ちょっと良識を疑いたくなる面も否定できない。 

    これを玉石混淆とまで言うつもりはないが、そうした様々なソースから流れるニュースを人々が個々の意志と良識で取捨選択できる状況は健全であると私は思う。 

    ともかく新聞をはじめとするメディアにより、人々は国、地域や社会の動きを知り、自身の頭でそれを理解する。私たち外国人も同様にそれにあずかることができる。これはとても大切なことだ。ミャンマーや中国のようにメディアやネット環境にも大きな制約のある国々と比べるのは極端に過ぎるかもしれないが、インドという世界最大の民主主義システムの根幹にあるのは、活発で自由度がとても高い報道の存在であるといって間違いないだろう。 

    政府により、報道に関する制約が厳格な国々以外に、現地のアンダーワールドな部分からの圧力により、メディア自身が事前に『自己検閲』をしてしまう国もある。たとえばメキシコのように政府と拮抗する勢力である麻薬カルテルによる報復への恐れから、これらの組織に関する分野は報じられないようになっているようだ。既存のメディアでは伝えられない『空白地帯』を一人の匿名の大学生(・・・ということになっている)によるBLOG DEL NARCOというブログが情報を流しているという状況は決して肯定できるものではないだろう。 

    ブログ運営者のもとに、多数の発信者たちから連日大量の情報が写真や動画とともに届けられ、これらを編集したり裏を取ったりすることなく、そのまま掲載しているとのことだ。血なまぐさい内容が大半で、凄惨な画像も含まれている。 

    すべてスペイン語で書かれているが、ブラウザにGoogleツールバーがインストールしてあれば、日本語に自動翻訳したものを読むことができる。いささかぎこちない和文となるものの、おおよその内容を掴むことはできるだろう。 

    もちろんインドを含めた各国のメディアにおいても、報道する側の身の安全という点から世の中に伝えることが難しい事柄は存在するであろうことは否定できないし、もちろん日本もその例外ではないのだが、こうした出所のよくわからないソースによる情報を日々綴ったブログが、本来それらを伝えるべき報道機関に取って代わってしまうという状況はとても危うい。 

    話はインドに戻る。

    報道の本質にかかわる事柄ではないのだが、インドの外にある国々からしてみると、現地の各メディアによる各分野における英語によるニュース配信を大量に入手できることについても大きなメリットがある。とりわけインターネットが普及してからは、その感がさらに強まっている。 

    全国ニュースからかなりローカルなものまで、各地のメディアによる立ち位置の異なるソースから手に入れることができるという点で、とりわけ非英語圏の国々に比べて非常に『オープンソースな国』という印象を与えることだろう。 

    世にいう『グローバル化』とともにインターネットによる情報通信の普及と進化の過程の中で、これまで以上に英語が突出した存在感を示すようになっていることから『英語支配』の趨勢に対して主に非英語圏から危惧する声が上がっているが、インド自身はその英語による豊富な情報発信量から得ているメリットについては計り知れないものがあると思われる。 

    もちろん英語による情報のみでインドという国を理解できるとは思えないし、カバーされる範囲にも限界がある。それでも英語という広く普遍性を持つ言語によるソースが非常に豊富であるという点から、私たち外国人にとっても非常に利するものは大きいといえるだろう。報道の自由度の高さと合わせて、インドのメディアは自国内のみならず国外に対しても、非常に公益性が高いとも言えるのではないだろうか。

  • K-1のリングで戦うインド人

    ボクシング以外の格闘技についてはあまりよく知らない私だが、東京育ちのパンジャービーのK-1選手がいるそうだ。『シング心ジャディブ』というリングネームで試合に出ている。 

    Youtubeで以下の動画を見つけた。 

    K-1 WGP 2009 -ASIA GP- Aug.02.2009 – 1/2 

    K-1 WGP 2009 -ASIA GP- Aug.02.2009 – 2/2 

    Singh “Heart” Jaideep – Pre-Fight Interview – Sep.24.2009 

    3歳のころから東京で暮らしているため母語は日本語であるとのことだ。 

    この選手のことはごく最近知ったばかりで、そもそもK-1という格闘技について多少の関心はあるものの、あまり詳しくないので具体的なコメントは控えたい。しかし身長195cmで体重100kg超と体格に恵まれており、身体もパワフルで柔軟な印象を受ける。ハンサムな風貌で、実績を上げれば一気にスターダムを駆け上っていきそうな予感がする。

    日本を拠点に戦うインド人(国籍はインドらしい)格闘家という稀有な存在でもあり、機会があれば今後もフォローしていきたい。

  • サイクルリクシャー日本一周

    自転車で各国を旅する人は少なくないが、サイクルリクシャーでというのは珍しい。この乗り物で日本一周する日本人の写真家がいる。10月3日に、151日がかりで無事ゴールインしたことがブログに綴られている。 

    日本一周に先立って、これを手に入れたバーングラーデーシュもサイクルリクシャーでひと回りしているのだという。 

    ギアも付いていない重たい乗り物で走るのはさぞ骨の折れる旅であったのではないかと思うが、日々の様々な出会いが活き活きと描かれていて楽しい。 詳しくは写真家の三井氏のブログをご参照願いたい。 

    10月9日(土)に東京都北区の飛鳥山公園で開催された『バングラデシュ祭』(会期は10月10日まで)にて、講演が行われていたようだ。

     同氏はウェブサイト「たびそら」を運営しており、アジアを中心とする各地の写真を公開している。

  • 国境の儀式

    国境の儀式

    アムリトサルから国道一号線を国境へと進んでいく。デリーから続いているこの国道は、GTロード (Grand Trunk Road)の一部でもあり歴史的なルートだ。 

    途中、右手に見事なコロニアル建築の薬科大学が見えてしばらくすると料金所があり、このあたりからはどこもかしこも広大な田園地帯だ。そこを通過してさらに西へと進むと、アッターリ―村を通過する。 

    国境手前で最後の村はアッターリーであるが、本当の『最後の村』はワガーである。印パ分離により、国境の東西にまたがることになったのがここであったが、現在ではイミグレーション、税関、国境警備施設等の政府機関が固まっており、『村』ではなくなっている。 

    いよいよ国境に着いた。いくつかレストランがある裏手は広い駐車場になっている。訪れたのは月曜日であったが、それでもかなりの人出であった。週末に訪れたらちょっと大変だろう。 

    セレモニーの会場には、カバン類を持ち込むことができない(カメラ、ビデオ、携帯電話、ウエストポーチは可)ため、クルマに残しておくことになる。 

    見学のスタンドに行くまでの間に、パスポートチェックが3回、ボディチェックが2回ある。途中、一般通路とVIP通路に分かれるが、外国人は後者へ進むように言われる。VIP席にも通常のVIP席とVVIP席があるが、ここでは前者に座るように指示される。これらのチェックと誘導をしているのはBSF兵士で、セレモニーで勇壮な儀式を展開する兵士たちと同じいでたちである。皆、体格がとても立派なので、交代で任務に着いているのかもしれない。 

    午後6時前に到着すると、すでに人で一杯になっていた。すぐ向こうはパーキスターン側である。こちらではボリウッドのポップスをかけて人々が踊っているが、反対側も同様に音楽を大音響で鳴らしている。ただしこちらほどの盛り上がりは見せていないようだ。印・パ両側ともに大勢の人々がスタンドで観覧している。 

    6時半くらいになると、ようやく式典が始まった。インド側では司会役のような男性(平服だがBSF兵士のようだ)による「Bharat Mata ki」という呼びかけに対して『Jai』と観衆が応じ、「Hindustan」の呼びかけに『Zindabad』、「Vande」に対して『Mataram』という具合に盛り上がりを見せている。 

    向こう側ではクルアーンの朗誦に始まり、「Jinnah、Jinnah」『Pakistan』と声を張り上げている。いかにも両国の現代国家としての成り立ちの違い、分離独立したことの理由を表しているかのようである。   

    兵士たちの儀式が始まる。最初に数人の女性兵士たちが大げさに足を踏み鳴らして国境ゲートに向かう。続いて複数の長身で着飾った兵士たちが続き、足を高く上げて踏み鳴らす動作もある。一連の流れの中で、両国とも調和の取れた動作をしている。パーキスターン側での動きはここからよくわからないのだが、同じタイミングで始まり、同時にセレモニーを完了する。 

    幾度か儀式に出ている兵士による大きく長い掛け声が流れる。印パ両側でほぼ同時に発声が開始されるのだが、自国の兵士がより長くそれを続けることができると大きな拍手と歓声が上がる。 

    以前、Youtubeでこのセレモニーの様子を動画で見たことがあるのだが、まさに両国側によるしっかりとしたパートナーシップがあるからこそ、毎日のこの式典が成り立っていることがわかる。何か敵意に満ちたものであるのではないかと思っていたが、決してそんなものではなかった。   

    儀式が終わり、家路に着く人たちに国境のセレモニーやBSFにまつわる映像を集めたVCDやDVDを売りつけようとする商売人たちが群がる。どこからかスピーカーで「皆さん、くれぐれも海賊版VCD、DVDに手を出さず、正規版を買ってください」などという、当局からの呼びかけが聞こえてくるが、正規版なるものがどこで売られているのか見当もつかない。道路脇にあるレストランもまさにこの時間帯が書き入れ時のようで、どこも満員だ。 

    アッターリー村、ワガー村の人々にとって、それ以前は、このあたりから大きな街に出るという場合、アムリトサルに行くのもラーホールに行くのも同じようなものあったことだろう。 

    アムリトサルやラーホールの住民たちにとっても、長い歴史の中でずっと「隣街」であったものが、分離により遠い街になってしまった。今の時代の人々にとってはごく当たり前のことであっても、それまでの人々にとっては、学校出てから仕事に就くにあたり、インドもパーキスターンもない同じ国内であった。 

    おそらく今の80代以上の人々(分離時にそれなりの年齢に達しており、当時の記憶を自己の体験としてはっきり認識している最後の世代。その頃の幼児や子供は含まず)にとっては、いろいろと思うところがあるに違いない。 

    当時はもちろんブログもなければ、村民で日記をしたためていた人もあったかどうか・・・?「オラが村がふたつの国に分かれた」体験をした人たちは、その過程で様々な事柄を目にしてきたことだろう。また村という小さなコミュニティの中で、そこに国境が引かれるということで、どんな出来事があったのだろうか。 

    村民の間でも人口の移動、分離後の人間関係や個々人の力関係においても、友愛と裏切り、信義と謀略、その他いろいろ大変なことがあったことと思う。そこが国境になったがゆえに国防施設や行政機関等が建設され、地権上でも様々な出来事があったはずだ。印パ分離の縮図とでもいうべき大きなドラマが小さな村の中で展開していったのではないかと想像される。

  • ネパールは『中国の時代』を迎えるのか?

    1年ほど前に『ネパールにも鉄道の時代がやってくるのか?』と題して、中国がネパールでの鉄道建設計画に深く関与していることについて書いた。南進を画策する中国は、インドの周辺国に対して鉄道建設計画を含めた援助を行なうことにより、自国との乗り入れを含めた国家間のリンクを強め、これらの国々を影響下に置こうとしている。 

    そうした中で顕著なものは、パーキスターンにおけるグワーダル港、スリランカにおけるハンバントタ港の開発、ネパールにおける水力発電所の建設計画であったりする。 

    今やGDP世界第2位に躍り出た中国。豊富な資金、技術力と労働力で積極的に国外への影響力を高めようとしており、南アジアで突出した存在感を示してきたインドに対し、長期的な視野から着々と包囲網を築き上げつつある。すでに中国は、ネパールにおいてインドに次ぐ第2位の投資国にもなっている。 

    その中国にとって、自国占領下にあるチベットとの境を接し、伝統的にインドと深くかかわってきたネパールは、地理的に南アジアの入り口に位置しており、対インド的にもとりわけ重要な戦略拠点となる。中国から見ると、まさにネパールは現代の『グレート・ゲーム』の舞台であるようだ。ちょうど19世紀の中央アジアがイギリスとロシアの間で国益と覇権を賭けた駆け引きの舞台であったように。 

    2011年に予定されているチベット亡命政府の総選挙における首相と国会議員の候補者を選定するための予備選挙が10月3日に行われた。現在、亡命チベット人の人口はおよそ15万人であるとされ、そのうち8.9万人が18歳以上の選挙権を持つ有権者であるとされる。 

    インド国内を含めた世界50カ所で投票が実施された。インド在住の有権者のうち実際に投票を行なったのは20%程度であったとされるが、オリッサ州のチベット人居住地プンツォクリンでは、驚くべきことに投票率が94.39%という非常に高いものであったということだ。

    インドの隣国ネパールでも亡命チベット人人口は2万人を数える規模の大きなものであるが、投票終了1時間ほど前にネパール当局による妨害により、事実上無効となってしまった。事件当日、投票所から投票箱を持ち去る警察官たちの姿を収めた動画がYoutubeで公開されている。 

    Nepal police confiscated Tibetan ballot box (Youtube) 

    この出来事には伏線がある。かねてより中国からネパール国内で中国の『内政』に干渉する活動を禁じるようにと圧力がかかっていたが、今年9月中旬に中国のハイレベルの代表団がネパールを訪問した際、ネパールから『ひとつの中国』ポリシーを取り付けていたようだ。 

    ここで言う『ひとつの中国』とはもちろん、台湾の存在に関わる『両岸問題』よりも、主としてチベットの扱いに対するものであることは明らかだ。 

    ネパールがこのように『中国に従順』な姿勢を見せるということは、インドにしてみても決して看過できるものではない。ときに関係がギクシャクすることもあっても、兄弟のような関係にあったネパールが、たぶらかされて仲の悪い隣人の家に婿養子に出てしまい、実家に顔も出さないような具合になってしまっては・・・というよりも、場合によっては『もうひとつのパーキスターン』として、インド自身のセキュリティに関わる問題に発展する可能性もある。 

    地理的にインドと中国の狭間でうまくバランスを取ってきたネパールにとっても、対中国の依存度を深めることは、長期的な視野から果たして得策なのであろうか。 

    我が身を振り返れば、日本もバブル以降、それ以前からの中国の開放政策と相まって、積極的に企業等が中国大陸に進出していき、私たちの生活の中で『中国』は片時も欠かすことのできない存在となった。 

    同時に中国に対する日本からの投資額の大きさは、そのものが中国に質に取られているようなものでもある。尖閣諸島問題においても顕著であったように、レアメタル類の調達先が中国に依存しきっている日本に対して、北京がこれらを輸出することを禁じる動きを見せると、経済界が瞬時に悲鳴を上げるようになってしまっている。 

    現在の中国のネパールに対する寛大で気前の良い姿勢は、決して善意から出ているものではなく、将来の南アジアで権勢を振るうことに対する先行投資であり、友好の名のもとに進める計算ずくめの国家戦略である。 

    対中国依存度が高まり、インドの側に戻ることができないところまで行き着いてしまった暁には、新たな華夷秩序に組み込まれた内陸国ネパールは他に頼る相手もなく、経済カードをちらつかせて恫喝する暴君の素顔を露わにした中国を相手に呻吟することになるのではないかと危惧するのは私だけではないだろう。 

    Nepal police disrupt Tibetan elections in Kathmandu (Phayul.com) 

    The China factor in Nepal (INDIAN DEFENCE REVIEW) 

    China takes over Nepal  (INDIAN DEFENCE REVIEW)

  • バングラデシュ祭 2010

    10月9日(土)と10日(日)に東京都北区の飛鳥山公園でバングラデシュ祭2010が開かれる。 

    上記リンク先の同祭のウェブサイトにあるとおり、飛鳥山という土地自体がベンガル地方出身の詩聖タゴールと縁のあるところであるそうだ。 

    在日の他の南アジアの人たちと比較しても、特に日本での定住率が特に高いように思われる。バブルの時期に大挙してやってきてそのまま居ついた人もあれば、留学生としてやってきて、学位取得後に日本国内で就職した人も多い。 

    後者については、とりわけ理系の割合が高く高学歴志向だ。日本の大学で修士号以上を取った人たちも沢山おり、日本のIT系の会社で彼らの姿は珍しくない。また日本での生活が軌道に乗ると、故郷で家族が決めた相手と結婚して日本に呼び寄せるというパターンが典型のようで、日本人との結婚が多い前者と対照的だ。 

    どちらも日本での定住・永住志向が強く、すでに日本国籍を取得した人も珍しくない。そんなわけで、今後みなさんも『ベンガル系日本人』と出会う機会もあるかと思うし、やがてはそういう両親の間に生まれた日本が故郷のベンガル人と知り合うこともあるかもしれない。 

    日本・ベンガル間の人々の縁は今後ますます深まっていきそうな気がする。

  • インパール作戦の証言

    今や先の大戦について一人称で語ることのできる人はごく一握りの高齢者たちとなった。 

    近年、当時の日本の戦争について肯定的に見直す動きが出てきている。これは当時の生きた記憶を持つ人たち、つまり当時すでに一定の年齢に達し、軍隊を含めて社会の中である程度責任のある立場にあり、戦争が行われていた時代について自身の体験を踏まえたうえで客観的に語ることのできる人がごく少なくなっていることと無縁ではないだろう。加えてそうした世代が実務から引退して長い年月が経ち、社会的な影響力を失っていることによるものも大きい。 

    NHK 戦争証言アーカイブス

    ここでは、こうした世代の方々からの戦争に関する証言を集めた動画記録を未放送分も含めてウェブ上で公開している。今の時代を生きる私たちにとって平和の大切さを考えるうえで貴重な遺産である。 

    その動画集の中には、太平洋戦争末期に起死回生を狙って無理を承知で、当時英領であったインドへ北東部からの侵攻を企図して決行されたインパール作戦に関する証言もある。 

    インパール作戦 補給なきコヒマの苦闘 (NHK 戦争証言アーカイブス) 

    すでに社会の中で一握りのマイノリティとなってしまった戦中派の彼らの声。私たちは謙虚に耳を傾けて、『歴史は繰り返す』ことのないよう努めるべきだろう。

  • ツアー列車いろいろ

    以下の行程で、7泊8日の特別ツアー列車が走っているのだそうだ。その名もBuddhist Circuit Special Train。 

    初日 : デリー、ガヤー

    2日目 : ガヤー、ボードガヤー

    3日目 : ボードガヤー、ナーランダー、ラージギル、ガヤー、ワーラーナスィー

    4日目 : ワーラーナスィー、サールナート、ゴーラクプル

    5日目及び6日目 : ゴーラクプル、クシーナガル、ルンビニー

    7日目 : ゴーンダー、スラワスティ、アーグラー

    8日目 : アーグラー、デリー 

    ビハールとU.P.の仏蹟を中心とした観光地に加えてアーグラーを観光してデリーに戻るというもので、出発日は次のとおり。 

    出発日

    2010年9月25日

    10月16日及び30日

    11月13日及び27日

    12月11日及び25日

    2011年1月8日及び22日

    2月12日及び26日

    3月12日及び26日

    いずれも起点はデリーだが、出発駅はサフダルジャン駅である。料金は以下のとおり。

    First AC Coupe 

    US$ 1176

    INR 55272

    AC – First Class 

    US$ 1050

    INR 49350

    AC – Two Tier

    US$ 875

    INR 41125

    AC – Two Tier

    (Side Berth)

    US$ 770

    INR 36190

    AC – Three Tier 

    US$ 735

    INR 34545 

    宿泊費(ホテル2泊で他は車中泊)・食費等込みとはいえ、料金は決して安いわけではない。

     それでも鉄道大国インドならではの豪華観光列車として知られるPalace on WheelsRajasthan Royals on WheelsDeccan OdysseyGolden Chariotなどは、時期やクラスによるが7泊8日の行程で2500ドルから5000ドル近くの出費を覚悟しなくてはならないことを思えば格安である。 

    最近のこの類の企画ものでは、Maharaja’s Indiaというものがあるが、こちらは5600ドルから20000ドルという、さらにビックリの金額で売り出されている。 

    Buddhist Circuit Special Trainは、これらのゴージャスな車両と特別なサービスを売りにするものではなく、基本的に在来の車両を使用する企画ツアーである。他にもエコノミーな列車ツアーとしては、Bharat Darshanシリーズの中に様々なタイプがある。日程は1週間から15日間で、訪問先もいろいろ異なるものがあるが、費用は3600ルピーから7700ルピーと手頃なものとなっている。通常の列車もクラスにより運賃の格差が甚だしいこの国だが、ツアー列車にかかる費用も上から下まで大きな差があるのは、いかにもインドらしい。 

    先述の豪華列車にかかるコストの関係はさておき、そもそもパッケージツアーで1週間費やしてみたいと思わないのだが、デリーからラージャスターンのアルワール間を1泊2日で往復するFairy Queenには、いつか機会を得て乗車してみたいと考えている。 

    1855年、なんとインド大反乱の2年前にイギリスで製造された、現存する最古の運転可能な蒸気機関車が牽引するヘリテージ列車であるため、『イン鉄ファン』のマストアイテムだ。 

    往復でも片道のみでも乗車可能で、IRCTCのウェブサイトでも予約を受け付けている。今季は2010月から2011月まで、合計10往復している。 

    料金はフルパッケージ(Fairy Queenでのデリー・アルワール往復とサリスカー宿泊ならびに国立公園見学)で10200ルピー。片道ツアー(Fairy Queenでのデリーからアルワール片道とサリスカー宿泊ならびに国立公園見学)は7100ルピー。Fairy Queenのデリーからアルワールまでの乗車のみならば3200ルピー。

    ご興味のある方はお早目にご予約を。

  • Namaste Bollywood #25

    Namaste Bollywood #25

    Namaste Bollywoodの今号の特集は『ゼロ年代のボリウッド』である。 

    2000年から2009年までの、Kabhi Kushi Kabhie Gham, Devdas, Munna Bhai MBBS, Kabhi Alvida Naa Kehna, Om Shanti Om, Rab ne bana di Jodi等々の 代表的作品が取り上げられている。 

    ご存知のとおり、ボリウッド映画界のトレンドはここ10年ほどで大きく変化するとともに、ロケ地、配給先、資金関係などにおいて、一層のグローバル化が進展した時期でもあった。 

    この時代を振り返るムック本もNamaste Bollywoodから発刊される。題して『That’s Bollywood 2000’s』だ。 

    Namaste Bollywoodのウェブサイト内に、ボリウッド映画のDVDレビューが掲載されるようになっている。 

    十年一昔とは言うが、今から遡ること11年前の今ごろ、世界規模でのコンピュータの誤作動が『2000年問題』に対する懸念が世界的話題になっていたことが、はるか遠い昔のことに感じられる。 

    私たちがこうしている『今』の出来事も次第に過去へと追いやられてしまうのだが、ゼロ年代に続く『10年代』のボリウッド映画界ではどんな作品が発表されていくのか、今のスターたちがどう進化していくのか、どんなスターが誕生してくるのか等々、非常に楽しみである。