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  • エアアジアでインドへ

    エアアジアの羽田・クアラルンプル便(12月9日就航・週3便)が話題になっている。 

    すでに日本に乗り入れているオーストラリアのジェットスター、韓国のチェジュ航空と合わせて、日本にもようやくLCC (ローコストキャリア)の時代が到来しつつあることを感じさせられる。 

    ジェットスターは台北経由シンガポール行きの便があり、チェジュ航空はソウルで乗り換えて同社のバンコク行きを利用できるが、それらの地点から更に他社便のチケットを買い足さなくてはならないため、インド行きに利用するのはあまり現実的ではないかもしれない。 

    だがエアアジアについては、ハブ空港のクアラルンプルから現在インドの9都市(コールカーター、コーチン、チェンナイ、ティルチラッパリ、デリー、トリバンドラム、ハイデラーバード、バンガロール、ムンバイー)への便があるため利用しやすいだろう。 

    料金は羽田・クアラルンプル間が通常の底値が往復で3万円程度(片道1万5千円くらい)になるらしい。この区間について、本日9月23日正午から10月31日までの予約受付期間内に、今年12月9日から2011年7月31日までの搭乗分座席の一定部分を、キャンペーン価格の片道5,000円で売り出すとのことだ。空港使用料等を加えても、往復で日本円にして1万4千円弱という破格の料金である。 

    クアラルンプルから先については、エアアジアのホームページで仮に『往路10月1日、復路10月20日』として調べてみると、デリー往復905 MYR(約25,000円)、ムンバイー往復 761 MYR (約21,000円)、チェンナイ往復 628 MYR (約17,000円)、ハイデラーバード往復 682 MYR (約19,000円)といった数字が出てくる。 いずれも行き帰りの空港使用料を含めた金額だ。

    他のLCCキャリアがそうであるようにフライトの時期、空席状況、予約するタイミング等によって価格は変動する。概ねデリーやムンバイー便については、羽田からトータルの出費は概ね5万円強から5万5千円程度ということになるだろう。エアインディア等の他キャリアの底値の時期と比較すると驚くほど安いというほどではないが、費用をかなり圧縮できることは間違いない。またキャンペーン価格での売出し時期と合致すれば、非常にお得な料金で往復できることになる。

    ただし年末年始やゴールデンウィークといったピーク時には既存航空会社との料金差はごくわずかなものとなってしまうようだ。また一定の条件のもとにフライトの変更は可能であっても払い戻し不可であることについては留意しておく必要がある。 

    LCCキャリアで乗り継いだ経験がないのでよくわからないが、羽田・インド間が同日乗り換えできるスケジュールの場合、チェックイン荷物をそのままスルーで処理してもらえるのか、またフライトの遅れにより中途での乗り継ぎがうまくいかなかった場合の処置などあまり期待できないように思う。だが利用予定がピーク時以外で、乗り換えスケジュールにある程度の余裕があれば、充分検討の余地ありだ。 出発地が成田ではなく、より都心に近い羽田空港である点も好ましく感じられる。

    とりわけエアアジアに期待しているわけではないが、日印間の移動に新たな選択肢が加わること、LCCキャリアの伸長が今後の既存航空会社の料金自体にも与える影響は少なくないであろう。こうした航空会社の路線が増えてくることについて、利用者としては大いに歓迎したい。

    格安航空会社が羽田にやって来る! エアアジアXのカラクリ (YAHOO ! JAPAN ニュース)

  • ナマステ・インディア 2010

    今年もナマステ・インディアが代々木公園にて、9月25日(土)から26日(日)にかけて開かれるが、なんと18回目の開催となるのだそうだ。 

    昨年はカラン・スィン、その2年前にはスワーミー・ラームデーヴと、ちょっとサプライズな人物の登場があった。今年も誰かびっくりするような有名人がやってくるのだろうか? 

    インド出身の演歌歌手チャダは、すっかりこのイベントの常連となった感があり、今年も彼のステージが行われるようだ。 

    9月も下旬とはいえ、今年はまだまだ気温が高く、秋が訪れたという実感のわかない日々が続いている。それでも確かに朝夕は涼しくなってきているし、日中の最高気温もそれほど上がらなくなってきた。 

    そろそろ秋雨の時期に入るはずだが、今度の週末は天気に恵まれることを期待したい。

  • THE GLASS PALACE

    THE GLASS PALACE

    一度読み終えた小説を再び手に取ることはほとんどないのだが、今年ミャンマーの暑季にマンダレーを訪れてから『時間が取れたらもう一度読もう』と思い出した作品があった。  

    コールカーターで生まれ、ドゥーン・スクールを経てデリー大学、そしてオックスフォードで学び、数々の話題作を世に送り出してきた小説家アミターヴ・ゴーシュが10年前に発表した傑作『The Glass Palace』である。 

     

    書名:The Glass Palace

    著者:Amitav Ghosh

    出版社:Harper Collins Publishers

    ISBN-10: 000651409X

    人気作家の話題作であったことに加えて、舞台設定が英領期のビルマ、インド、マラヤということもあって興味を引かれて、ペーパーバック版が出てからすぐに購入したので、確か最初に読んだのは2001年だったと思う。窓際で陽の当たる書棚に置いていてすっかり日焼けしてしまった本を久しぶりに取り出してページをめくってみた。 

    ストーリーは、ベンガルから家族とともに当時のビルマに移住後、不幸にも父母が相次いで亡くなり孤児となったラージクマール少年が、マンダレーの市街地で印緬混血の女性が切り盛りする道端の屋台で手伝いをしながら糊口をしのぐ場面から始まる。  

    当時、コンバウン朝の王都マンダレーでは、最後の王となるティーボーが王妃スパヤラートとともに王宮で暮らしていた。タイトルのTHE GLASS PALACEとは、その宮殿のことを言う。 

    時は1885年、第三次英緬戦争勃発。ビルマ軍は敗走を続け、英軍はついにコンバウン朝の首都マンダレーを陥落させる。第二次英緬戦争により1853年以降、下ビルマを占領していたイギリスだが、コンバウン朝を倒して上下ビルマを統一することに成功した。翌1886年、ビルマは英領インドに編入される。 

    マンダレーが英軍の手に落ち、側近や衛兵も散り散りになって無防備になった王宮にマンダレー市民たちが押し寄せてきて略奪が始まる。そうした群衆の中にいたラージクマールは、王家の侍女として仕えていた孤児の少女ドリーと初めて出会うことになる。 

    ビルマ最後の王ティーボーは、王妃スパヤラートと幼い王女たちとともにマドラスに移送され、2年後の1887年に王家はインド東海岸の現在マハーラーシュトラ州のラトナギリーに移され、ここが王自身にとっての終の棲家となる。ちょうど1857年にインドで起きた大反乱の旗印として担ぎ出されたムガル最後の皇帝バハードゥル・シャー・ザファルが捕らえられた後に妃と息子たちとともにラングーン(現ヤンゴン)に流されたのと同じパターンだ。 

    王家の侍女ドリーは、王家の流刑先でも彼らに甲斐甲斐しく仕えていたが、ここにコレクターとして赴任してきた若くて有能なベンガル人官僚の妻ウマーと親しくなる。ウマーは外の世界をほとんど知らずに結婚適齢期を迎えているドリーを不憫に思っていた。 

    ラージクマールは、英領となった上ビルマで人生の転機を迎えていた。マンダレー陥落前にマレー半島からやってきた華商サヤー・ジョンの仕事の手伝いを初めていた。後にマラヤに戻ってゴム園で成功するサヤーだが、彼が当時のビルマで手掛けていたチーク材取引は順調に拡大していき、能力を認められたラージクマールはサヤーの右腕として重宝されるようになった。やがて独立して自身の力で道を切り拓いていくようになる。 

    日の昇る勢いで出世街道を邁進していたラージクマールだが、王都陥落の混乱の中で出会ったドリーのことが気にかかっていた。 

    その後、ラージクマールは訪印した際にラトナギリーに出向き、ドリーと再会する。当初は彼に関心ある素振りさえ見せず冷淡にあしらっていたドリーだが、ついにラージクマールと一緒になってビルマに戻ることに同意する。 

    ・・・といったあたりが物語の導入部だ。ラージクマールとドリーの夫婦、サヤー・ジョン、そしてウマーの身内といった三つの家族とその子、孫の代にかけて、ビルマ、インド、マラヤの三つの地域にまたがり、王都マンダレー滅亡から第二次大戦を経てこの地域の旧英領の国々の独立、そしてビルマの民主化運動後までの110年もの長きに渡る時空のもとで話が展開する。 

    描かれる時代や場所により、一人称で語られる人物が次々に入れ替わっていくが、世代による物事の考え方や価値観の違いも描き出されていく。主人公と呼ばれるべき人物が複数あり、それぞれ異なる軸からストーリーが見事に紡ぎ出されていく。 

    1956年生まれの著者のアミターヴ・ゴーシュは、ビルマに在住した経験はないが、ニューデリーに遷都される前、1911年までは英領インドの首都であり、インド東部に位置する西ベンガルの州都コールカーターは、地理的にもビルマに近い。今でもラール・バーザール東側の10A, Eden Hospital Rd.にビルマ系の人々が出入りするMyanmar Buddhist Temple (Burmese Buddhist Templeから改称)というテーラワーダ仏教の礼拝所がビルの中に入っている。そうした環境のためビルマから引き揚げてきた人たちと接する機会もあったのではないかと思う。 

    それにも増して大きな動機として、著者であるアミターヴ・ゴーシュの父親と叔父が英軍将校としてビルマに駐在しており、インド国民軍との戦闘体験もある。著者自身、父親や叔父から当時のビルマの話をよく聞かされていたようだ。そのあたりの経緯については作品の後書に記されている。『この小説のアイデアは、私が生まれるよりかなり前に父と叔父によってインドの我が家にもたらされた』とあり、作家自身が格別な思い入れと渾身の力を込めて綴った物語であることが感じられる。 

    ビルマやマラヤにおけるインド系の人々の移民史、植民地行政史に関するある程度の予備知識が必要かもしれない。アジアにおけるイギリス支配の中心地であったこのエリアにおける、インド系とりわけベンガル人の視線から見た近代から現代にかけての歴史ドラマだ。 

     20世紀初頭にはラングーンの人口のおよそ半分がインド系であり、文字通り『インドの街』であった。今でもダウンタウンには、ベンガル、U.P. ビハール、タミルナードゥその他に起源を持つ人々が大勢暮らしている。地域に点在するヒンドゥー寺院や祠はもとより、ジャイナ教寺院、グルドワラーがあり、父祖の出身地域コミュニティごとのインド系の人々のモスクがいくつもある。 

    ムスリム地区の一角には、シナゴーグがひっそりと佇んでいる。もはやユダヤ教徒は数えるほどしか残っていないというが、かつてここで繁栄を享受した彼らはユダヤ系インド人であった。 

    この物語の中心人物のひとり、ラージクマールに話を戻す。一時は羽振りの良い材木商として、人々にとって自家用車など夢また夢であった時代に、息子に当時の最新型の自動車を買い与えるなどしていたが、日本軍のビルマ侵攻で全てを失ってインドに難民として逃れる。

    頼った先は妻ドリーとの間柄を取り持ってくれた恩人であり、親しい友人でもあるウマーの実家。彼が死ぬまでの20年間、ビルマにて一代で築き上げたすべてを失い無一文となったラージクマールは、ウマーとその家族の好意にすがって静かに余生を送る。 

    この物語に出てくる人物は、コンバウン朝最後の王ティーボーとその家族を除きすべて架空の人物だが、ビルマにおけるインド系移民の盛衰を鮮明に描き出している点もまた興味深い。 

    ビルマ征服を企てたのはイギリス人であったが、軍の大半はインド兵たちであり、ビルマを統治した役人たちの多くもインド人、鉄道や道路といったインフラを建設したのもインド人ならば、都会で商業活動の中核を成していたのもインド人たちであった。もちろん農作業や家内工業その他非熟練労働に従事するインド出身者たちも沢山いたとはいえ、当時のビルマの人々がいつも目にする『外来の抑圧装置』といえば、やはりインド人たちということになってしまう。

    旺盛な勤労意欲と企業家精神から、当時彼らの帝国の版図に新たに加わったビルマで大きな財を成したインド系の人々は多かったようだ。だがビルマでの独立を求める機運と反英運動は当然のことながら、『植民地の中の植民地』として君臨するインド人(とともにこの国で商業的に成功した華人たち)に対する反感と切り離すことは不可能であった。 

    インドでは独立運動が地域や民族を横断する包括的なムーヴメント(印パ分離という悲劇はあったものの)となり、独立後も民族のモザイクを統合する方向に努力が続けられたのとは対照的に、ビルマでは国内最大の民族集団であるビルマ族中心の民族主義が台頭した。 

    独立前後からすでにあったインド系・中国系を排除する動きのみならず、民族的にも文化的にもインド顔負けの多様性に富んだ国内をビルマ族の言語と文化で国内を統合しようとした結果、長年に及ぶ内戦が続くことになったのはご存知のとおり。 

    ビルマからのインド系の人々の流出には幾度かのピークがあった。最初は1937年の行政的にインドからの分離した際、次は第二次大戦期の日本軍侵攻から1948年のビルマ独立にかけてのナショナリズムの高揚期、そして1962年のネ・ウィン将軍によるクーデターによる軍政が始まった時期である。これらは、印パ分離の陰にかくれてあまり語られることがない、もうひとつの『インド社会の分離と離散』の時代でもある。 

    この作品は2007年に日本語に訳されて、邦題『ガラスの宮殿』として新潮クレスト・ブックスから出ている。多少なりとも興味のある方には一読をお勧めしたい。 

    書名:ガラスの宮殿

    著者:アミターヴ・ゴーシュ

    翻訳:小沢自然・小野正嗣

    出版社:新潮社

    ISBN-10: 4105900625

  • 日本式の食事処 2

    そんな『和食圏外』のインドで、しかも都市圏から遠く離れていながらも健闘している和食レストランがある。ダラムサラのマクロードガンジにあるルンタ・レストランだ。 ルンタ・ハウスという建物の中にある。 

    NGOルンタ・プロジェクトが、現地のチベット難民たちによるNGO組織であるグチュムスの会とともに、難民に対する職業訓練施設を兼ねて運営しているものだ。ルンタ・レストランは彼らの活動のための収益部門のひとつである。 

    そんな訳で通常のレストランとは性格が異なるのだが、ここはずいぶん繁盛している。日本人旅行者その他の滞在者による利用とともに、ロンリープラネットにも紹介されているため西洋人客が非常に多いことも特徴だ。またインド人観光客の姿も散見される。 

    パッと見た感じでは、店内に日本式食堂という雰囲気はあまりないが、奥の方には座敷風になっているコーナーがあってくつろげる。 マクロードガンジに多いツーリスト向けのレストランやカフェの中のひとつだが、店内が広くてキビキビしたスタッフの応対が良いことに加えて、普通ならば日本国外ではかなり高い値段の付く日本式の料理を、バックパッカー向けの食堂の価格で提供していることが人気の理由だろう。 

    お好み焼きが50Rs, かき揚げ丼は60Rs, 日替わりの定食(巻き寿司の日もあり!)は120Rsといった具合だ。日本国外で『和食』を謳うレストランの中で格段に安い。他にもうどんや日本風のカレーライスもあり、どれも男性客にとっても充分な分量が出てくる。パンやデザートといった洋風のアイテムもある。ピュア・ヴェジのアイテムもあるので、菜食主義のお客も安心だ。 味のほうは、質実剛健というか、男の手料理というか、ちょっとごっつい感じはするものの、私たちが普通に作って食べている家庭料理といった印象だ。 

    日本人観光客や滞在者が多いとはいえ、『和食圏外』の国で、しかも都市圏から遠いこと、また値段の面でも格安であることから、NGOの収益部門であることも併せて、通常の和食レストランとは異なる型破りな存在である。 運営母体であるNGOの活動はもちろんのこと、ルンタ・レストランの今後ますますの繁盛を期待したい。

     <完>

  • 日本式の食事処 1

    海外にある日本式の食堂、和食レストランといえば、主に日本人在住者や訪問客が多いところ、あるいは現地で日本食に関心の高いエリアという、言うまでもなく大きなマーケットが成立する場所に出店している。それらは往々にして大都市である。 

    裾野の広がりがグローバルな中華料理やファストフードの類と異なり、まだまだ日本の『民族食』的な色彩が強いため。縁もゆかりもないところにいきなり出店というケースはあまりない。『日本ブランド』は、世界中どこに行っても評判の高いクルマや家電製品などとは違い、食の分野ではマイノリティだ。現地にそれなりの『和食文化』的なインフラが存在していることが不可欠だ。 

    多くは個人事業主による出店で、日本人がオーナーであることが多いが、同様にかつて日本に留学した経験があったり、働いた経験があったりするなど、日本とのゆかりの深い現地の人が開業した店も数多い。また日本人と現地の人による共同経営(日本人とその配偶者である地元の人という組み合わせを含む)もよくみかけるところだ。 

    特に日本企業が多く進出しているところでは、接待などで使われるような高級店も少なくないが、日系企業オフィス近隣でランチや仕事帰りに一杯引っかけるのに利用してもらうような店、単身赴任者を主に相手にしているような大衆食堂と居酒屋を兼ねたような店も多い。 

    大衆食堂風とはいえ、途上国においては現地の気楽なお店に比べるとずいぶん高いため安食堂とはいえない。主な顧客層といえばたいていは日本人客ということになる。 

    これらとは別に、近年は日本の外食チェーンの海外進出も盛んになってきており、和食では大戸屋がタイ、台湾、香港、インドネシア、シンガポールにいくつも出店している。居酒屋の和民はアジアの複数の国々で展開している。 

    また『和食』と表現していいのかどうかわからないが、日本発の食としてのラーメンを味千ラーメンが中国、韓国、東南アジア、北米、オセアニアに進出しているし、餃子の王将が海外展開するのは、本場中国の大連だ。 

    日本式カレーのCoCo壱番屋もアジア5か国とハワイに店を出している。海外でも日本国内と同じルーを使用しているという。なんと6年後あたりを目途にインドへの進出を画策しているようだ。日本のカレーがインド上陸となれば、日本国内での話題作りにはなるかもしれないが、これについてはレシピそのものを根本から見直さなくてはならないだろう。

    和食ないしは日本式の食事関連以外にも、イタリアンのサイゼリヤ、ステーキが中心のペッパーランチも積極的に海外に進出している。 

    こうした日系の外食チェーンの主戦場は東アジアと東南アジアの大都市だ。各国・地域の消費文化の中心地でもある。もともと味覚、食材、調理法などで共通するものが少なくなく、親しみやすいこと、サブカルチャーやファッションその他の面でも日本の影響が濃く見られることなどからも、和食ならびに日本食以外の分野についても『日本ブランド』がそれなりの浸透力を持つことができる。

    そのため地場資本の外食チェーンでも『和食』アイテムを取り上げるところが増えてきており、現地レベルの庶民的な価格で日本食らしきものを食べることができるようにもなりつつある。 

    ただし食事の分野において日本のネームヴァリューがまったく通じないところも少なくない。欧米においても都市在住者以外では日本食といっても『中華料理と違うのかい?』とまったくイメージさえ沸かない人は少なくない。また同じ『アジア』の中でもヒマラヤの西側の国々となると一気に『和食圏外』となる。とりわけ中東あたりまで来ると、刺身や寿司の類を『奇食』ととらえる人さえ少なくない。 

    インドやスリランカあたりで大都市には和食レストランがいくつかあるが、いかんせん『圏外』であるため、東アジアや東南アジアでの和食に比べると、食材の供給の問題もあるがコストバリュー、ヴァリエーションともに著しく低くなってしまうのは致しかたない。 

    <続く>

  • 代々木公園で『スリランカ』『インド』

    暑くも短い日本の夏が過ぎようとしている。本格的な秋の訪れはまだ少し先だが、再び屋外のイベントを快適に楽しめる時期がやってくる。

    東京渋谷区の代々木公園で、9月11日(土)ならびに12日(日)に『スリランカフェスティバル2010』が、そして同じ9月の25日(土)と26日(日)には『ナマステ・インディア2010』が開催される。

    『ナマステ・インディア』にて、一昨年はスワーミー・ラームデーヴ、昨年はカラン・スィンが来ていたが、今年もそうした目玉となる人物の来日はあるのだろうか?

    それらの日程の間にあたる9月18日(土)と19(日)には『ベトナムフェスティバル2010』という催しもある。

    季節柄、台風がやってくることでもなければ、まずまずの気候でのんびりと休日を過ごせるのではないだろうか。

    秋は代々木公園で良い週末を!

  • GR Digital Ⅲ

    GR Digital Ⅲ

    久々にカメラについての話題を取り上げてみたい。2009年8月に発売されてから1年経過のGR Digitalシリーズの現行機である。値段もかなりこなれてきており、発売直後は7万円台であったように記憶しているが、現在は販売店によるが、安いところでは4万円強で売られている。

    初代GR Digitalは2005年10月に発売された。後継機のGR DigitalⅡは2007年11月、そして現行のGR DigitalⅢは2008年8月にリリースされた。コンパクトデジカメとしては2年間というサイクルはかなり長い。GRシリーズの次期モデルが出るまであと1年くらいはあるため、しばらくすると4万円を切る店も出てくるのかもしれない。

    私自身、銀塩のころからGRを気に入って使っていたので、『いつかGRのデジタル版が出ないものか?』と心待ちにしていたのだが、ついに2005年にGR Digital登場。これを発売日に購入して以来5年近くなる。

    一眼レフ並みに操作性が高く、機能も充実しているカメラだが、レンズは28mmの単焦点なので、『これ1台で何でもかんでも撮る』というわけにはいかない。それだけに、いろいろと頭をひねって工夫を加えて撮影するのが楽しく、そうすることが可能かつ快適で極めて自由度の高いカメラである。

    それでも、このところエラーが頻発するようになってきた。電源が入りにくくなったり、それとは逆にオフにしてもレンズ鏡胴が引っ込まなくなったりといった、ハード面での不具合である。そろそろ寿命が近いのではないだろうか。

    そんなわけで、現行のGR DigitalⅢのほうに目が行くようになるのだが、さすがにデジタルの世界で4年の時差(2005年発売の初代機と2009年に出た現行機)とでは、まるで別物のように大きな進化がみられる。

    まずは開放値が2.4から1.9へと、2/3段ほど明るくなったため、感度を上げずとも手持ちで撮影できる機会がより多くなる。スナップや風景にも、記録用としてモノを撮る際にも明るいレンズのメリットは大きい。インドでは概して夕暮れ以降は街中も室内も暗いが、だからといって感度をむやみに上げると画像が荒れる。そんな『昼間しか使いものにならないカメラ』では困るのだ。 

    加えて高感度域でのノイズもかなり軽減されている。初代機ではISO400くらいになるとかなりノイズが増えるため、ISO200以下でしか使う気がしなかったが、現行モデルではISO400まで特に問題はないし、ISO800くらいまで上げても、なんとか我慢して使えるかな、といった具合だ。明るいレンズと合わせて、夕方から夜にかけて使用できるシーンが増えることにもなる。もちろん大型のセンサーを搭載したデジタル一眼と比較するわけにはいかないのだが。 

    フォーカス性能も格段に良くなった。初代機も発売当時としてはキビキビ動作するほうだったが、少し暗いところではすぐにフォーカスに迷いが生じていた。現行機ではちょっとした暗がりでも小気味良く合焦する。 

    またホワイトバランスの精度がかなり向上していることに加えて、『マルチパターンオートホワイトバランス』というセッティングも用意されている。色温度が異なる光源が複数混在しても、それぞれ見た目に近い色合いを再現できるということになっている。

    背面の複数のキーに、様々な設定を割り当てることができて便利なのは初代機もそうであったが、さすがに2世代分進化すると、使い勝手も飛躍的に向上している。よく使う細かなセッティングを最大6パターン保存することができるのも便利だ。これらは軍艦部右側にあるモードダイヤルで呼び出すことになっている。

    ・・・と、いろいろ挙げてみたが、GRシリーズについてのレビューは、それこそネット上に沢山出ているので、操作性等について敢えてここで詳しく書き連ねる必要はないだろう。

    操作感はもとより、従前の仕様を最大限継承する姿勢には親近感を覚える。設定メニューは基本的に共通しているため新型機種を手に取って戸惑うことはない。外観もほぼ同一といってよいくらい非常に似通ったものである。

    GR Digital (第1世代)

    GR DigitalⅡ(第2世代)

    GR DigitalⅢ(第3世代)

    現行機であるGR DigitalⅢは、先代よりレンズの径が少々大きくなった分、ボディの嵩もほんの少し増えたが、並べて見ても一目ではそうとわからない程度だ。ゆえに買い替えても、これまで使っていたモデルを引き続き愛用しているかのような気にさえなる。

    電池については、液晶画面の大型化(現行機は3.0型。初代は2.5型、その次が2.7型)に伴ない、容量も大きくなっている。カメラ屋の店員には、カタログだけチラリと見て『バッテリーの型番が違うので旧型のものと互換しません』などと言う者もいるが、これは誤りである。容量が違うだけで、従前の機種のものもちゃんと動作するのだ。

    ただし以前の機種のオプション類で使用できなくなったものもある。レンズの口径がやや大型化したため、従前のワイコンとアダプタは取り付け不可となった。ワイコンのアダプタがあると、必要に応じてフィルタを使用できて便利だったりもするのだが、薄着の季節でもシャツやズボンのポケットに無造作に放り込んでおける気軽さを生かして『生のまま』であっても、本格的なカメラとしての性能を楽しむことができるのが、このカメラの最大の利点かもしれない。

    しかも先述のとおり、従前のモデルに比べてF値がかなり明るくなったこと、高感度設定時のノイズの軽減という進歩の結果、24時間活用できるカメラとなったと言えるだろう。

    コンパクトカメラであれ、一眼であれ、およそデジカメなるものに通常愛着を感じることはないのだが、GRシリーズに限っては『壊れるまで使う』気になる。GR Digital Ⅲについても、今後長く使用することになるだろう。

    そんなわけで、これまで幾つかのデジカメについて言及してきた、日常でも旅行先でも便利な『インドでどうだろう?この1台』の筆頭にGR Digital Ⅲを挙げたい。

  • Missing ! 大量の爆発物

    ラージャスターン州のドールプルにある公営企業の工場からマディヤ・プラデーシュのサーガルに運ばれる途中だった爆発物と起爆剤を積んだトラックが、今年4月から7月までの間になんと61台も行方不明になっているというニュースがメディアで報じられたのは8月半ばであった。 

    これらは掘削目的で製造・運搬されていたものということだが、トラック61台の積荷は合わせて300トンという大量の爆発性の危険物であり、テロ組織等の手に渡っているのではないかと懸念されていたことは言うまでもない。 

    61 trucks carrying tones of explosives go missing (videos from India) 

    その報道の数日後、行方不明になったトラックのうち4台が発見されたとのニュースが流れたものの積荷は見つかっていない。またトラックを運転していた人々はどこに行ってしまったのだろうか。行方不明の61台のうちの58台は、書面上では目的地であるサーガルに到着しているように偽装されていたとのことだ。 

    4か月のうちに散発的に起きた事件とはいえ、全体でこれほど大掛かりなトラックを蒸発させることができるのは一体どういう犯人たちなのか。これほど沢山の『戦利品』をどこに秘匿できるのかという点から、第一に疑われるのは当の取引関係者たちだ。これが積荷の横流しや架空取引等を繰り返していた結果であるとすれば、金額はともかく扱っていたものが爆発物と起爆剤という国の治安への影響から、歴史に残る経済事件となる可能性がある。 

    300 tonne explosive missing (The Tribune) 

    だがここにきて、事件はとんでもない展開を見せている。行方がわからなくなっているトラックが、なんと『あと102台もある』というのだ。これらも先述のラージャスターン州のドールプルからマディャ・プラデーシュのサーガルならびにアショークナガルに運搬途中に蒸発してしまったものだという。積荷の総量は合わせて850トンに達する見込みだ。 

    163 explosives-laden trucks went missing: MP police (ZEE NEWS) 

    まだ事件の全容や背後関係が明らかになっていないため、現時点でいろいろコメントするのは早計かもしれないが、危機管理という点においてインドという国の足元そのものが脆弱であることを如実に示した事件でもある。 

    今年10月の英連邦大会開催までひと月あまりとなっているが、失踪中の163台のトラックに積まれた危険物の行方が気になるところだ。

  • 受難の地

    5年ほど前に、『デリーの古城で』と題して、第二次大戦中に当時は英領であった各地に在住していた日本の民間人たちがインドまで連行されたうえで抑留生活を送ったことについて書かれた以下の書籍について取り上げてみた。 

    書名:インドの酷熱砂漠に日本人収容所があった

    著者:峰 敏朗

    出版社:朝日ソノラマ

    ISBN-13: 978-4257034384   

    収容施設は当初デリーのプラーナー・キラーにあり、後にラージャスターンのデーウリーに移されている。

    今年8月中旬、産経新聞のウェブサイトにて、当事の日本人抑留にかかわる次の記事を見かけた。ここで取り上げられている『収容所』とは、ラージャスターンのデーウリーのことである。

    「憎めない人たちだった」インド西部の日本人収容所を訪ねて (産経ニュース)

    インドにおける日本の民間人抑留の事実については以下のウェブサイトをご覧いただきたい。

    インドに抑留された日本人民間抑留者 (日本の現代史と戦争責任についてのホームページ)

    また以下のサイトならびにPDFファイルにも関連する記述がある。

    インド抑留中の川内先生の記憶 (川内光治先生の記憶)

    シンガポールにおける日本人社会と学校教育の歴史(福岡大学研究推進部)

    『日本人被収容者』の中には、日本人たちが居住していたマレー半島などで結婚した現地の人々で日本国籍を取得していたケースも含まれる。また当時日本の支配下にあった台湾や韓半島の人々も少なからず含まれていることについて、当事の世の中を考えるうえで留意が必要だ。

    またデーウリーの収容所は、日本人被抑留者たちが去った後、インドがイギリスから独立を得た後も『活用』されている。1962年の中印紛争により、中国とインドの敵対関係が鮮明になった時代である。

    最盛期には華人人口2万人を擁したコールカーターを中心にインド全国で5万人もの華人が暮らしていたとされるが、これにともない『敵国人』として逮捕状もなしに拘束されて収容所送りになった人は少なくない。

    祖国とインドの関係の険悪化による不安、インド政府や国民による華人への敵対姿勢等により、経済活動や市民生活への支障をきたすことから、その後多くの華人たちが海外に新天地を求めることとなった。

    冒頭で取り上げた産経ニュースの中にあるとおり、現在この施設は国や公共の重要施設等の警備を担当するCISF (Central Industrial Security Force)の訓練施設となっているため、ここを一般人が見学することはできないが、日印交流史の中でそういう厳しい時代もあったということは、今の時代を生きる私たちも記憶しておくべきだろう。

  • 無線タクシー

    以前、MERU TAXIと題して、ムンバイーをはじめとするインドの大都市で操業している無線タクシーについて書いてみたが、デリーでも幾度か利用したので感想を記しておく。

    MERU以外にもEasyCabs, MEGA CABS, quick cabs等、この手のサービスは増えている。どこもシステムは似たようなもので、対応もマニュアル化されているため利用方法はほぼ同じ。どの会社にかけてみても、非常に礼儀正しくキビキビとした応対をしてくれる。

    まずは携帯電話(基本的に携帯電話を持っていることが必要)でコールセンターにかける。一度でもその会社を利用したことがあれば、こちらの氏名と携帯電話番号、利用した日時や場所等といった先方の記録が残っているため、こちらの氏名を名乗る必要はない。コールセンターのオペレーターは、電話を取るなり『Hello, Mr. ×××, may I help you ?』と答えてくれる。

    オペレーターに利用したい時間、出発地と目的地を伝えると、こちらが保留で待っている間に、相手は配車の手配を進めている。『今すぐ利用したい』といった場合、特に込み合う時間帯であったりすると『都合のつくクルマが見つかりません』と断られる場合もままあるようだが、前述のとおり同種のサービスを提供している会社は複数あるため、どの時間帯でもタクシーがまったく見つからないということはあまりないだろう。

    予約の受付が完了すると、タクシー会社からすぐに携帯電話にSMSが入る。これからやってくるクルマの番号、運転手氏名、運転手の携帯電話の番号が記されている。そして到着少し前になると、ごく近くまで来ている運転手自身からの電話が入るといった具合だ。携帯電話でなくPCにてネット予約も可能だ。

    こうした無線タクシーで使用されているのは小型のセダン。アンバサダーやパドミニーのようなクラシックなものではなく、日本でいえばカローラに相当するモダンな車種である。

    乗車すると、メーターのある液晶モニターにこちらの氏名、携帯電話番号その他の情報が表示されている。車内もきれいでエアコンも効いている。運転手のマナーや運転そのものも、従来のタクシーより丁寧だ。コールセンター同様、こちらもマニュアル化されているらしい。

    料金は完全にメーター制。目的地に着くと車内に装備した小型プリンターから領収書が印刷される。降車するとまもなくタクシー会社からSMSが届く。内容はタクシーを利用した感想についてのアンケートだ。

    従来のタクシーとの明確な差別化あってこその商売なので、運転手の仕事ぶりはしっかり管理されているようだ。先述のとおり、タクシー会社には個々のお客の利用履歴が残っている。顧客からクレームが寄せられるとその内容も保存しているのだ。

    予約のため携帯からコールセンターに電話すると、オペレーターが電話を取るなり『昨日は運転手が遅刻しまして申し訳ございませんでした』と言うのでびっくりした。前日に利用した際のこと、タクシーはすぐ近くまで来ていたようだが、こちらの指定した場所がちょっと込み入った場所にあったため見つけるのに手間取り、30分くらい遅れていた。その際、到着を待つ間にコールセンターに電話して一言文句を伝えておいたのがちゃんと記録されていたらしい。

    応対がきちんとしているうえに明朗会計。加えてクルマにGPSを搭載していることから、クルマがどこにいるかはタクシー会社から一目瞭然でもある。とりわけ女性客には好評だろう。

    ドライバーたちの立場については、インドの従来のタクシー運転手と大差ないようではある。日本のように『××タクシーの社員』という身分ではないため、被雇用者ではなく運転業務の請け負うという形だ。簡単に言えば、タクシー会社に一定の金額を支払ったうえで預かった車両を運転するのである。

    タクシー会社は、クルマの整備と携帯電話ないしはPCによりネット予約したお客の斡旋を行ない、運転手はお客から受け取る料金の中からタクシー会社への支払いとガソリン代を差し引いた分を手取り収入とする。もっともこれはMERUの場合であるので、他社には少し異なる形態のものもあるかもしれない。

    こうした無線タクシーのサービスは、デリー、ムンバイー、バンガロールなどといった大都会で広がってきている。またアムリトサルくらいの規模でも、この類のタクシーを目にする街が出てきている。

    インドで無線タクシーは、年間成長率100%といわれるホットな業界だ。大都市圏をはじめとする中間層の人口がそれなりのサイズを持つエリアでは、今後かなりの速度でこうした業態のタクシーが浸透していくことになるはずだ。

  • TNSA (Tibetan National Sports Association) 5  国技としてのサッカー

    チベットでのサッカーの歴史は、20世紀初頭にギャンツェに置かれていたイギリスの商館員たちが現地で競技を楽しんだことに始まる。その後、やはりイギリスが首都ラサにおいて1913年に当時のチベットの軍隊に訓練を施し、続いて1920年代に警察組織の発展に協力した際に現地の人々に伝えたとのことだ。チベットにおける近代スポーツとしてのサッカーの歴史はなかなか長い。

    TNSAは、サッカーをチベット人たちの国技として育もうという姿勢を明確にしている。在印チベット人たちのクリケットに対する関心は決して低くはないようだが、世界的なクリケット大国にあって大海の一握りの砂に過ぎない彼らの立場だ。これを『国民的スポーツ』として、それなりのモチベーションを持って強化していくことには難しいものがあるだろう。

    またサッカーという競技の、よりグローバルな広がりを考えれば、対外的に自分たちの存在をアピールしていくにあたり広告塔的な役割もあり得る。これがひとつの形として実現したのがFIFI Wild CupELF Cupへの出場、そして幾つかの欧州遠征試合ということになるだろう。

    それでも道は決して平坦ではないようだ。サッカー人気の低調なインドにあって、亡命チベット人社会でもサッカー人気がそれほど高いとはいえない。TNSAも競技人口の拡大には腐心しているようだ。

    また彼らの活動に関心を寄せるのは、概ね在印の人々を初めとする亡命チベット人社会の中に限られる。資金的な面は言うまでもないが、選手たちの指導や育成といった部分についても相当な困難がある。

    日本代表は、1998年のフランス大会以来、4回連続でFIFAワールドカップに出場し、韓国と並んでアジアからの常連国となっているが、サッカーという競技を愛する人の気持ちや自国代表を応援する心情は、チベット人亡命者たちの間でも変わることはないだろう。

    インド・ネパール各地およびその他の国々に暮らすチベット人たちの心をつなぎ、また世界の人々との結びつきを強める絆として、このスポーツが彼らの間で今後ますますの発展をしていくことを願う。

    チベット人コミュニティの『サッカーをこよなく愛する仲間たち』に大きなエールを送りたい。

    <完>

  • TNSA  (Tibetan National Sports Association)  4   チベット代表ゲームシャツ

    TNSA (Tibetan National Sports Association) 4   チベット代表ゲームシャツ

    TNSA事務局ではチベット代表のゲームシャツも販売している。売上は活動資金に充当しているとのことだ。マクロードガンジの土産物屋などでもよく見かけるが、それらはすべてTNSAから供給されているとのことで、どこで購入しても一律500 Rsであるとのこと。

    TNSAウェブサイトでも同じものを国外向けに通信販売しているが、こちらは送料込みで45米ドルという価格設定になっている。

    このゲームシャツは、実際に代表選手が試合で着用するのと同じもので、違いは背番号が付いていないだけだという。品質については、ナイキその他の国際的なメーカーが製造したものとはずいぶん違うのは価格からして仕方のないことではある。代表とはいえ、やはり資金的に苦しい台所事情もうかがえるようだ。

    2006年のドイツでのFIFI Wild Cupや北キプロスでのELF Cupでは、hummel社製でデザインも良いものを着用していたが、かなり大口のスポンサーが付いていたのだろう。

    私は、以前からそのhummel社製造のチベット代表ゲームシャツも持っている。2006年FIFIの大会の際のモデルである。こちらに付いているエンブレムはTNFA (Tibetan National Football Association)で、デザインそのものも違う。

    現在、TNFAのエンブレムは使用されておらず、代表チームのゲームシャツに付ける紋章として正式なものはTNSAであるとのことだ。

    <続く>