国境の儀式

アムリトサルから国道一号線を国境へと進んでいく。デリーから続いているこの国道は、GTロード (Grand Trunk Road)の一部でもあり歴史的なルートだ。 

途中、右手に見事なコロニアル建築の薬科大学が見えてしばらくすると料金所があり、このあたりからはどこもかしこも広大な田園地帯だ。そこを通過してさらに西へと進むと、アッターリ―村を通過する。 

国境手前で最後の村はアッターリーであるが、本当の『最後の村』はワガーである。印パ分離により、国境の東西にまたがることになったのがここであったが、現在ではイミグレーション、税関、国境警備施設等の政府機関が固まっており、『村』ではなくなっている。 

いよいよ国境に着いた。いくつかレストランがある裏手は広い駐車場になっている。訪れたのは月曜日であったが、それでもかなりの人出であった。週末に訪れたらちょっと大変だろう。 

セレモニーの会場には、カバン類を持ち込むことができない(カメラ、ビデオ、携帯電話、ウエストポーチは可)ため、クルマに残しておくことになる。 

見学のスタンドに行くまでの間に、パスポートチェックが3回、ボディチェックが2回ある。途中、一般通路とVIP通路に分かれるが、外国人は後者へ進むように言われる。VIP席にも通常のVIP席とVVIP席があるが、ここでは前者に座るように指示される。これらのチェックと誘導をしているのはBSF兵士で、セレモニーで勇壮な儀式を展開する兵士たちと同じいでたちである。皆、体格がとても立派なので、交代で任務に着いているのかもしれない。 

午後6時前に到着すると、すでに人で一杯になっていた。すぐ向こうはパーキスターン側である。こちらではボリウッドのポップスをかけて人々が踊っているが、反対側も同様に音楽を大音響で鳴らしている。ただしこちらほどの盛り上がりは見せていないようだ。印・パ両側ともに大勢の人々がスタンドで観覧している。 

6時半くらいになると、ようやく式典が始まった。インド側では司会役のような男性(平服だがBSF兵士のようだ)による「Bharat Mata ki」という呼びかけに対して『Jai』と観衆が応じ、「Hindustan」の呼びかけに『Zindabad』、「Vande」に対して『Mataram』という具合に盛り上がりを見せている。 

向こう側ではクルアーンの朗誦に始まり、「Jinnah、Jinnah」『Pakistan』と声を張り上げている。いかにも両国の現代国家としての成り立ちの違い、分離独立したことの理由を表しているかのようである。   

兵士たちの儀式が始まる。最初に数人の女性兵士たちが大げさに足を踏み鳴らして国境ゲートに向かう。続いて複数の長身で着飾った兵士たちが続き、足を高く上げて踏み鳴らす動作もある。一連の流れの中で、両国とも調和の取れた動作をしている。パーキスターン側での動きはここからよくわからないのだが、同じタイミングで始まり、同時にセレモニーを完了する。 

幾度か儀式に出ている兵士による大きく長い掛け声が流れる。印パ両側でほぼ同時に発声が開始されるのだが、自国の兵士がより長くそれを続けることができると大きな拍手と歓声が上がる。 

以前、Youtubeでこのセレモニーの様子を動画で見たことがあるのだが、まさに両国側によるしっかりとしたパートナーシップがあるからこそ、毎日のこの式典が成り立っていることがわかる。何か敵意に満ちたものであるのではないかと思っていたが、決してそんなものではなかった。   

儀式が終わり、家路に着く人たちに国境のセレモニーやBSFにまつわる映像を集めたVCDやDVDを売りつけようとする商売人たちが群がる。どこからかスピーカーで「皆さん、くれぐれも海賊版VCD、DVDに手を出さず、正規版を買ってください」などという、当局からの呼びかけが聞こえてくるが、正規版なるものがどこで売られているのか見当もつかない。道路脇にあるレストランもまさにこの時間帯が書き入れ時のようで、どこも満員だ。 

アッターリー村、ワガー村の人々にとって、それ以前は、このあたりから大きな街に出るという場合、アムリトサルに行くのもラーホールに行くのも同じようなものあったことだろう。 

アムリトサルやラーホールの住民たちにとっても、長い歴史の中でずっと「隣街」であったものが、分離により遠い街になってしまった。今の時代の人々にとってはごく当たり前のことであっても、それまでの人々にとっては、学校出てから仕事に就くにあたり、インドもパーキスターンもない同じ国内であった。 

おそらく今の80代以上の人々(分離時にそれなりの年齢に達しており、当時の記憶を自己の体験としてはっきり認識している最後の世代。その頃の幼児や子供は含まず)にとっては、いろいろと思うところがあるに違いない。 

当時はもちろんブログもなければ、村民で日記をしたためていた人もあったかどうか・・・?「オラが村がふたつの国に分かれた」体験をした人たちは、その過程で様々な事柄を目にしてきたことだろう。また村という小さなコミュニティの中で、そこに国境が引かれるということで、どんな出来事があったのだろうか。 

村民の間でも人口の移動、分離後の人間関係や個々人の力関係においても、友愛と裏切り、信義と謀略、その他いろいろ大変なことがあったことと思う。そこが国境になったがゆえに国防施設や行政機関等が建設され、地権上でも様々な出来事があったはずだ。印パ分離の縮図とでもいうべき大きなドラマが小さな村の中で展開していったのではないかと想像される。

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