インドなクアラルンプル

 近々マレーシアを訪れることになっている。首都のクアラルンプルのみ数日間の滞在だが、ちょっと楽しみにしていることがいくつかある。
 まずはインド料理だ。当地居住のインド系人口のほとんどがタミル人なので、当然のごとく南インド料理と香り高いコーヒーの世界なのだ。つまみ食いがてらインド人街をのんびり流してみたい。
 次に映画を観たい。市内あちこちでインド映画が上映されているが、時間があまりないのでどれが良い作品か事前のリサーチが重要となる。
 店先でどういった作品のDVDやVCDが売られているかチェックして歩くのも面白い。ここのバザールは、インド本国よりもかえって品揃えがいいのではないかと思えるほど。ヒンディー語のボリウッド映画にしてもタミル映画にしても、クラシックな名作から封切直後の最新作までズラリと揃っているのにはいつも驚かされる。
 もっとも海賊版の氾濫も相当なもので、ここからまた第三国へと流出しているとも聞く。インド政府から再三「キビシク取締りを!」と要請されているのも「なるほど」とうなずけるわけだ。
 シネマホールで上映される作品同様、どれもたいていマレー語字幕が入っており、人種を問わずこの国の人々が楽しめるようになっている。この国でもインドの銀幕スターは若者たちの憧れだ。2400万あまりの人口の8パーセント近くを占めるという大きな規模のインド系人口あってのことではあるが、娯楽の分野にインド映画が確固たる地位を築いているのは羨ましい。
 市内をひたすら歩いてみるのもまた楽しい。数え切れないほどのインドなスポットが待ち構えているからだ。その名もうれしい「マスジッド・インディア」というモスク、ターバンを巻いたスィク教徒たちが出入りするグルドワーラー、そして大小さまざまのヒンドゥー寺院もある。クアラルンプル郊外にちょっと足を伸ばせば、マレーシアに住むヒンドゥー教徒の聖地、バトゥー・ケイヴスを訪れることもできる。洞窟の中に寺院があり、大祭タイプーサムの際にはすごい人出になるそうだ。
 今は「これは楽しみだ、ムフフ・・・」とあれこれ夢想しているものの、実はどこへも行けそうにない。不本意ではあるが今回仕事で訪れるため大忙しなのである。トホホ・・・。
 

ラージャスターンからスィンドへ

 インド・パキスタン両政府が、ラージャスターン州のムナーバーウ駅からスィンド州のコークラーパール間の列車運行を再開することで合意した。
 もともとはインドのジョードプルからバールメールを経て越境、パキスタンに入ってからはミールプル・カースを経てハイデラーバードへと続いていたこの砂漠越えルートは、英領時代の地図を開けば明らかなとおり、かつては首都デリーと貿易港カラチを結ぶ幹線ルートの一部であった。
 ちなみに現在ラージャスターン州とスィンド州を分けるインド・パキスタン国境は、植民地時代にはいくつもの藩王国による自治領ラージプータナと植民地政府が直接支配するボンベイ管区北西部との境界でもあった。イギリスからの分離独立後も1965年までこの路線が存続していたものの、両国間の関係悪化により廃線となっている。
 突如注目を浴びることになったムナーバーウ駅だが、現在ここへはバールメール駅から鈍行列車が毎日一往復するのみだ。
 カシミールからグジャラートまで、ずいぶん長い国境線を共有していながら、今のところ陸路ではパンジャーブ州のアタリー・ワガー国境しか開いていないことを思えば、新たにこのルートが開かれることの意味は大きい。
 ただこの鉄道再開が話題になったのはこれが初めてではない。80年代後半もまさにこの路線についての検討が進められていたようだが、やはり浮き沈みの多い両国関係の中で立ち消えになったという経緯があるのだから今回もどうなるかわからない。

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国境地帯の地雷原

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 アフガニスタン、アンゴラ、カンボジアなど内戦が続いた地域では、各地に残された地雷によって多数の市民が負傷しており、そのありさまは日本でもしばしば報道されているが、インドでも同様の問題が起きていることがインディア・トゥデイ誌(12月6日号)に報じられていた。
 最近の印パ関係は比較的良好なものとなっているが、2001年末以降しばらくの間は一触即発の緊張状態が続いていた。
 きっかけとなったのは同年12月にデリーで起きた国会議事堂襲撃テロだ。国家中枢が狙われるという未曾有の大事件を受け、急遽展開した軍事警戒行動「オペレーション・パラークラム」の一環として、ジャンムー&カシミール州、パンジャーブ州、ラージャスターン州にかけての国境地帯におよそ100万個もの地雷が敷設された。
 その結果、2002年1月から2004年3月の間にこの地域に住む一般市民は、死者58名、負傷者310名という犠牲を払うことになった。現在もまだ地雷は除去されたわけではない。今後も悲劇はさらに続くことであろう。
 地雷は、軍人・一般市民の区別なく殺傷するとともに、敷設後長きにわたり人々の生活や往来を著しく阻害する危険な装置だ。一般的に地雷の製造コストは一個あたり3ドルからと言われるほど非常に安価だ。しかも敷設後に人員を配置することなく敵の行動を制限できる。そのため紛争地帯では実に手軽な兵器として使用されているのが現状だ。
 たとえ地雷が戦略上必要なものであったとしても、国際政治や両国の対立となんら関係もない庶民が、たまたま国境地帯に住んでいるがうえに負わされるリスクはあまりに大きすぎる。
 死亡者については25万ルピー、障害が残った者に対しては10万から15万ルピーの補償金が中央政府から支出されている他には、被害者へのリハビリテーションあるいは年金の支出といった対策は講じられていないというから、インドという国に対する地域住民の人心は離れていくのではないだろうか。
 今後急いでそれらを取り除く作業を進めていかなくてはならないはずだが、地雷の除去には製造コストのおよそ50倍の費用がかかるだけではなく、探知機と作業に熟練したスタッフをしても、5000個除去するごとにその中から1人の死者と2人の負傷者が出ると言われるほどのリスクがともなう大事業だ。

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コロニアル鉄道

 イギリス時代の面影を残すクラシックな鉄道は、ダージリンやシムラーのトイトレインくらいかと思ったら、マハーラーシュトラにもあった。綿花を栽培する地方のルートであるムルティジャープルからヤヴァタマール間を毎日一往復するシャクンタラ・エクスプレスがそれだ。
 どんなものかと簡略版時刻表「TRAINS AT A GLANCE」をめくってみたが、「エクスプレス」なのに出ていない。小さな支線や各駅停車まで詳しく記載されている「INDIAN BRADSHAW」を開いてみると、全行程112キロ(下記リンク先の記事中には189キロとあるが)の狭軌を走る二等客車のみの鈍行列車であることがわかった。
 インドの鉄道草創期には「藩有」も含めた私鉄路線は少なくなかったが、ここは現在もなお民間の所有であるだけではなく、オーナーは植民地時代から引き続いてイギリスの会社だというのは驚きだ。実際の運行はインド国鉄が請け負っている。
 1994年にディーゼル機関車と交代するまでの1923年から70年ほどの間、マンチェスター製の蒸気機関車が列車を引っ張っていたのだという。
 特に鉄道に興味があるわけではないが、建物や街並み同様、英領時代の面影を今に伝えるものに大いに関心がある。近々廃線となる可能性もあるらしいので、今のうちにぜひ利用してみたい。
 コロニアル風といえば、インド国鉄そのものがそうした雰囲気に満ちていると言えなくもない。今でも各地の主要駅で、英領時代に建てられた立派な駅舎が利用されているが、客車もエアコンクラス導入以前からある従来型ものは、我々の目から見るとデリーの鉄道博物館に保存されている大昔のものと、車内の基本的な造りはあまり変わらないように見える。
 だがどこもかしこも着実に近代化が進む中、インドの鉄道も急速にアップデートされているため、そうした面影を感じることのできる時間はそう長く残されていないようだ。
A railway ride into history (BBC NEWS)

ドアの無い村

 今でも日本の田舎では「カギをかける習慣がない」というところは珍しくないが、インド北部U.P.州のアヨーディヤ近くにあるスィーマヒ・カリラート村では「家屋にドアを付ける習慣がない」というのだからビックリしてしまう。
 プライバシーを守るためにカーテンをかけるのみというのは、数百年前にこの土地にいた聖者が「家を建てる際、最初にいくつかのレンガを寺に寄進すること、そして住まいにドアを作らないこと」を人々に命じたのがはじまりだという。
 インドの家といえば、ありとあらゆる窓に鉄格子がはまっており、家の中でもあらゆるところにカギ、といったイメージを抱く人は多いだろう。75軒しかない小さな村とはいえ、U.P.州は隣のビハール州とともに犯罪多発地域だ。コソ泥だけではなく盗賊も出没するのだから、あまりに無防備すぎるのではないかという気がする。極貧のため守るべき財産もない状態にあり、結果として扉さえ必要としないことはありえるかもしれないが、地域の不文律として敢えて家屋を開け放しておくとは恐れ入る。
 
 だが信じられないことに百年あまり犯罪が起きていないというのだ。警察にも1906年以来事件の記録さえないという。聖者のご加護かあるいは盗むものさえ見当たらない寒村なのかよくわからないが、一切を放棄するかのような家屋のありかた、そして「ドアを作らない」というしきたりの裏にある生活哲学のようなものが、犯罪を未然に防いでいるのかもしれない。ともあれ「ドア無し村」の存在がニュースで取り上げられることにより、ヨソからやってくる犯罪者たちに狙われるようなことがなければ良いのだが。
 ドアの無い生活には興味を引かれるが、私にはどうにも真似ることはできないだろう。防犯上の理由だけではなく、U.P.の夏はクーラー無しでは耐えられないほど暑く冬の寒さもまた厳しいからだ。
 場所によっては理不尽にも思えるこんな哲学めいたしきたりが残るインド。機会があればこのスィーマヒ・カリラート村を訪れて、人々の話を聞いてみたいものだ。だがこんなところにいきなりヨソ者が訪れたら、非常に警戒されてしまうのだろう。泥棒が少ないところはたいていヨソ者の出入りも非常に少ないものであるから。 
Doorless village has no crime (BBC NEWS)