新時代の辞書

 今年3月に新たなヒンディー語・日本語辞典が刊行された。株式会社大修館書店から出た『ヒンディー語=日本語辞典』(古賀勝郎/高橋明 編)である。もとより日本語で解説された南アジアのコトバの辞典は少ない。地域の大言語であり、話者人口も世界有数のヒンディー語でさえも一般の書店で手に入るものといえば、これまで1975年に初版が出た大学書林の『ヒンディー語小辞典』(土井 久弥 編)しか思い当たらなかった。
 日本でバブル期あたりからの海外旅行ブーム、そして90年代半ばあたりから経済の面でもインドが注目されるようになってから、ヒンディー語のフレーズブックや入門書の類はポツポツと出ていたものの、さすがに本格的な辞書が出てくることはなかった。
 日印間の距離が近くなってきたとはいえ、中国やタイなどにおいてのそれぞれ中国語、タイ語といった地元のコトバの占める立場と、インドにおけるヒンディー語のありかたには大きな違いがあるので、こうした具合になるのは無理もない。およそ人々の動きの中で『経済活動』、つまり日々の糧を得るための仕事が占める部分がとても大きい。そのためちょっとかじってみる・・・程度ではなく、わざわざ貴重な時間とお金を費やして本腰入れて学ぶとすれば、やはりそのあたりが強く意識される場合が多いこともあるだろう。
 もちろん英語で書かれたものならば、従来からインド国内はもちろんOXFORDやHIPPOCRENEといった英米の版元によるものを含めていろいろあるので、「辞書がなくて困る」なんてこともない。今の時代、インド国外のどこの国にいたってネットの通販でいろいろ手に入る。
 ただ自国語により解説された××語の辞書があるかどうか、あってもバリエーションが豊富かどうかといったことは、その××語を話す人々と自分の国との距離を暗に示しているようだ。
 たとえば英・日辞典の数はいったい何種類出ているのか見当もつかないくらいだ。また中・日辞典は大陸系のものと台湾系のもの双方流通しているし、韓・日辞典もいろいろ売られている。日本国内で出版されたものだけではなく台湾や韓国で発行されているものもあり、これらの国々の人々にとっていかに日本語が身近なものであるかということもうかがえる。タイ語辞典にしてみても、タイ語から日本語を引くあるいは日本語からタイ語を調べるもの以外にも、タイ語ことわざ用法辞典なんていう便利そうなものも書店に並んでいる。
 今の日本で人気の外国語といえば何だろうか?おそらくNHKの語学講座で扱っているコトバがそれらに相当することだろう。先述の英・中・韓に加えて、スペイン、ドイツ、フランスなどといったヨーロッパ諸語がある。そして数年前から突如としてアラビア語が登場したのにはやや驚いたが、ちゃんと継続しているところを見ると視聴者の関心はそれなりに高いのだろう。
 テレビとラジオ双方にアラビア語語学講座があるが、後者には東京港区元麻布にあるアラブ イスラーム学院の文化・広報担当者が出演している。サウジアラビアの政府予算で運営される同学院は、在京の同国大使館付属機関であるとともに、『イマーム・ムハンマド・イブン・サウード・イスラ-ム大学東京分校』という位置づけを持ち、実績次第でイマーム大学リヤード校又は他のイスラーム諸国の大学への留学の道も開かれているなど、かの石油大国は日本でのアラビア語普及にかなり力を注いでいるようだ。
 そんな中で、今年3月に出てきたヒンディー語=日本語辞典。アラビア語、ペルシャ語、英語等からの借用語を含めた8万語収録、前者ふたつの言葉を起源とする単語についてはウルドゥー語表記も付加してあるし、イディオムや用例もなかなか豊富である。日本語解説による本格的な辞書の登場だ。
 編者は大阪外国語大学の先生方。辞書の編纂には深い学識とともに非常に緻密で膨大な作業がともなうものなのだろう。充実した収録内容と情報量、それとは裏腹に出版部数がそれほど多くないであろうことを考え合わせれば、これが日本で18,900円(税込)で手に入るとはちょっと安くないだろうか?
 この新しい辞書の登場は、日本におけるインドのコトバに対する関心の高まりや両国間の距離が以前よりもさらに近くなってきたことを象徴している・・・とは言いすぎかもしれないが、そうあって欲しいと願っている。
『ヒンディー語=日本語辞典』
古賀勝郎/高橋明 編
ISBN: 4469012750

日本でインド系放送の輪広がる


 昨年から日本で東京のMOLA TVと大阪のHUMTUM TVがインド、パーキスターン、バングラーデーシュのテレビ番組をウェブ上で配信するサービス(番組配信事業において両社は提携関係にあり、契約パッケージ内容・料金ともに同一)を行なっており、この一年ほどで取り扱いチャンネル数が次第に増えてきた。
 当初はヒンディー番組のみであったが、今ではパンジャービー、グジャラーティー、マラーティー、ベンガーリー、ウルドゥーと放送言語のバリエーションも広がっている。BTV(バングラーデーシュ)、PTV(パーキスターン)に加えて、南アジアのさらに他の国の放送をラインナップに加える予定もあるのだ。各現地語による放送番組をそのままウェブ上で流す、いわばケーブルテレビのインターネット版といえるだろう。
 この盛況を受けて、新たな会社がこの業界に新たに参入する動きが出てきている。IP電話を利用した安いプリペイドカード国際電話の取り扱い、国際線航空券の販売、自動車の輸出などを手がける株式会社ユアチョイスコーポレーションである。
 この手のサービスの広がりはADSLや光ケーブルによる大容量回線の普及を背景にしたものであることはいうまでもない。ZEE TV等の各放送局により国ごとに指定の番組配信取扱業者があり、これらの業者が番組を流すのは日本国内のみであること、番組で使用されるのはどれも現地の言葉であるため顧客の大部分が日本在住の南アジア系の人々であるため、日本における彼らの人口規模の相当な拡大が感じられる。
 契約者の大部分を占める南アジア系世帯の中で、番組視聴時間が最も長いのは主婦であるといわれる。在日の南アジア系の人々の中に占める勤労者は男性が圧倒的に多い。彼らは日中ずっと仕事で出払っており夕方の帰宅時間も決して早くはない。そのためあまりテレビを見る時間はない。だが夫の赴任についてきた奥さんたちの多くは専業主婦で小さな子供がいるケースも多いので家にいる時間が長くなる。そのためこうしたサービスが必要とされるのだ。結局のところネット経由のインド系テレビ番組の普及のカギを握るのは主婦らと小さな子供たちなのかもしれない。
 80年代末のバブルの頃から日本の街角では南アジア系の人々の姿が急増したのだが、当時は短期滞在において日本との間に査証の相互免除の取り決めがあったパーキスターン、バングラーデーシュ(そしてイラン)の人たちが工場や建築現場などで働いていたが、ほとんど例外なく単身で日本に来ていた。
 やがて日本の景気の悪化とヴィザ取得の義務付けと審査の厳格化により、彼らの数は次第に減少していくのとちょうど入れ替わるように増えてきたのがIT関連の業界で働くインド人エンジニアたち。やはり彼らもまた比較的若い年齢層の人たちが多いが、前者と大きく違うのは合法的な在留資格を持ち、いわゆる3Kの職場とはまったく違う環境での業務に従事するエリート的な立場であることはもちろんのこと。しかし日本での生活面でも大きく違う面がある。若い層が多いことから単身者も決して少なくないものの、奥さんや子供を伴って来ている人が非常に多いことである。日中多くの時間を家の中で過ごすことが多い彼らにとってこそ母国の放送がリアルタイムで受信できることのメリットは大きい。
 
 もちろんインドだけではなく、東南アジアや南米など各国の放送がネット経由で流れるようになっている昨今。在日の外国人等を相手に小さな会社が番組のパッケージを細々と切り売りする状況にも変化が現れるのではなかろうか。大手通信系会社が一手に複数の国々からなる大量のチャンネルを扱おうと試みることがあるかもしれないし、各国での大容量通信回線の普及が進めば、外国のそうした業者が日本国内に拠点を構えることなく、直接切り込んで来ることもあるのかもしれない。
 いうまでもなく、現在インド系テレビプログラムを日本国内で配信する業者たちは、各放送局と正規の契約を交わしたエージェントであり、放送されるコンテンツについては著作権等の関係も含めて法的に守られていることから、他社が勝手な真似をすることは許されない。それでも第三者によるプログラムの二次利用や再配信、そして『海賊放送局』など、いろいろ出てきそうな予感はする。
 かつて海外のテレビ放送受信といえば、巨大なパラボラアンテナを設置して海外のテレビ局による衛星放送を受信なんていう大掛かりでマニアックなものであったが、ここのところ急速に手軽で簡単なものになってきている。時代はずいぶん変わったものだとつくづく思う。こと通信や放送について、世界は本当に小さくなったものだとつくづく思う。

池袋にショヒード・ミナール

池袋のショヒードミナール
 1999年にユネスコの第30回総会で宣言された『国際母語の日』は2月21日。この日をShaheed Dayと呼び国民の祝日とするバングラデシュの強い働きかけにより実現したものである。 民族固有の言葉と文化の大切さをアピールし、1952年に自国の言語運動で大勢の犠牲者を出したこの2月21日を採択することを提案し、数多くの国々から賛同を得たのである
 本物のショヒード・ミナールが建つバングラデシュは、多くの尊い命と引き換えに自主独立を達成した国だが、暮らすチャクマ族をはじめとするモンゴロイド系少数民族との摩擦などからくるチッタゴン丘陵問題をかかえていることは皮肉ではある。この世の中はさまざまな力関係が幾重にも折り重なってできている。だから被抑圧者は同時に抑圧者でもあり、強者と弱者の連鎖は果てしなく続いているものなのだ。
 本題に戻ろう。このたび国際母語の日の象徴でもあるダッカのショヒード・ミナールのおよそ1/10ほどの大きさのレプリカが池袋西口公園に登場した。昨年7月12日、来日中のバングラデシュのジア首相から東京都豊島区に寄贈されたもので、同日定礎式も行われている。今年4月16日にこの場所で開催された『ボイシャキ・メーラー』の開会に先立ち、このモニュメントの完成式典が執り行なわれた。
 今、このモニュメントが建つ公園とバングラデシュの縁といえば、毎年ここで開かれるボイシャキ・メーラー以外に思い当たるところはない。だがその催しが開かれるまさにこの場所に、かの国の首相が訪日の際にわざわざ手みやげとしてわざわざ私たち市民のために持ってきてくれるという親日的な姿勢は実にありがたいものだ。
 南アジアのどの国をとっても、日本に対して特に友好的な国ばかり。外交辞令として、あるいは観念的な『友好』のみならず、よりお互いの顔が見える身近な関係を築いていきたいものである。
ダッカのショヒードミナール

宝の山 2

Dharavi
 東西を海に挟まれたインド随一の商都ムンバイーは、水際ぎりぎりまで市街地が迫る高密度な都市空間だ。地理的には一等地となりえる地域がスラムとして放置されているということは、行政にとっては大きな損失であろう。劣悪な生活・労働環境とともに、住民たちのおおまかな人口さえもつまびらかでないようでは治安面からも心もとないし、経済面でも本来期待できるはずの大きな歳入を逸失しているといえよう。インフォーマルな経済が中心で取引はほとんど現金でなされるため、経済の実態を把握するのはかなり困難なのだ。
 だがここはムンバイーの街で建設現場、家庭の使用人や小さな工場の作業員その他の労働者や臨時雇いといった形で社会を下支えしてくれる人材を豊富に供給してくれるだけではなく、実に意外な側面がある。ダーラーヴィー自体が活発や工業地帯であるため、年間10億ドル近い収益を上げているのだ。
 主な産品は皮革製品、陶器、衣類、装身具等々で製品は国外にも輸出されているほど。先のふたつは前回取り上げたごとく、ダーラーヴィーの市街地化(=スラム化)が始まって以来の伝統産業である。同様に盛んな食品工業については、甘味類を中心とした製品がムンバイーやその周辺のローカルな市場で消費される。
 ビジネスシーンとしての大きなポテンシャルを秘めているのは、スラムとしては特筆すべきものであろう。 信じられないことにダーラーヴィーの住民たちのおよそ半数が中間所得層に属し7万5千〜50万ルピーほどの年収があるという非常に極端な説もあり、この地域では収入面よりもむしろ生活・衛生環境のほうが問題であるともいわれる。
 こうしたスラムで一生を終わる人々の姿が無数にあるいっぽう、毎年およそ1000世帯もの人々がベターな環境を求めて北郊外のミドルクラスの住宅地に居を求めて移転していくという。どん底にあっても旺盛な上昇志向と智恵や才覚があれば『ムンバイー・ドリーム』を実現する夢はそこらに転がっているのかもしれない。
 ダーラーヴィーには立地の良さと地場産業の活況を背景とする大掛かりな再開発プランがある。 政府は行けどもバラックが続く風景を改め、製品の海外輸出を念頭に置いた宝石や装身具の加工ユニットを建設して職工5万人分の雇用を創出し、そこで働く人々が8千〜20万ルピーの収入を上げることができるようにするという青写真とともに、地域を九つのセクターに区分し、広い道路の建設、適度なオープンスペースの確保し、学校巣や病院を建設し、上下水道が完備した住宅地などを建設することを構想しているのだ。 
 そして現在のバラックのオーナーたちには225 sq ftのフラットを無料で提供し、『ミドルクラスの』生活環境を用意するなどという計画もあるようだが、本当にうまくいくのだろうか。
 こういう議論が出るということは、90年代以来続く好調な経済成長のおかげで、ある種の余裕が出てきたということかもしれないし、成長の果実が社会の底辺にも及ぼうとしていることの表れなので決して悪いことではない。
 だが経済や所得水準などにおける大きな地域的な格差が引き金となり、この商都に人々が押し寄せてくるという構造をなんとかしない限り、第二、第三のダーラーヴィーがさらに北郊外のほうに出来上がることだろう。
 ところで再開発の本当の狙いとは、現在ここに暮らしている人たちのために雇用を創出したり、環境を整備したりというものではないと思う。本音は土地が限られたムンバイーで貴重なこのまとまった広がりを持つダーラーヴィーを『収用したい』のだろう。もちろんここに暮らす人々を追い出したうえでのことだ。雑なスケッチをいかに美しい見事な絵に見せるかという一種の手品こそが、どの時代どこの国にあっても為政者の腕の見せどころである。
 再開発にはこれまでにないとても強力な指導力と実行力が求められる。問題は議論されていても、いざこれに着手する勇気を持つのは一体誰なのか? その号令がかかるのをじっと待ち構える人たちがいて、官民さまざまな分野からなる再開発事業から生じる大規模な特需、不動産売買や住民たちのリロケーションや補償等々さまざまな利権をめぐり闇でうごめいていることだろう。
 ダーラーヴィーというスラムを必要としているのはここに暮らす人々だけではない。ここから外へ働きに出てくる安い労働力をアテにしてきた産業もあるだろう。ダーラーヴィーという地域の潜在的な宝の山を活用するという視点からは、この再開発構想には大きな意味がある。しかしその『宝』とはいったい誰のものなのだろうか。この世の中どこを眺めても立場が違えば、人々の利害は相反し対立するもの。行政の描くスケッチがそのまま実現するかどうかよりも、これをきっかけに住民その他関係者たちを含めて、人々がどのような落としどころを見つけていくのかというところに注目したい。
 ダーラーヴィーの絶好のロケーションからして、この巨大なスラムがこの先10年、20年もそのままであるとは思えないのだ。

宝の山 1

Dharavi
 そこはウエスタン・レイルウェイのバーンドラー駅、またセントラル・レイルウェイ(ハーバー・ライン)との乗換駅のマーヒム駅、セントラル・レイルウェイのサーヤン駅などに囲まれている。加えてサーヤン・バーンドラー・リンク・ロードから少し北上すれば、ウエスタン・エクスプレス・ハイウェイにつながるし、ステーション・ロードを少し東に進めば、イースタン・エクスプレス・ハイウェイだ。
 ムンバイー市中心と北郊外の間に位置する一等地。市南部、つまりこの商都のビジネスの中心地からクルマで30分、そして国際空港から20分という絶好のロケーションである。こんなところにオフィスがあったら、あるいは住むことができたらさぞ便利なことだろう。
 しかし残念なことに、ここは市内で最も人口密度が高く、インド最大ひいてはアジア最大のスラムとして知られる地域だ。ここダーラーヴィーはGoogle Earthで眺めてみても、やたらと規模の小さな構造物がひしめきあっており、周囲の環境とはずいぶん違うことが見てとれるだろう。
 この地域には8万6千もの建築物があるとされる。人口については諸説あり、その数60万人とも90万人とも言われるが、一時滞在者も含めれば100万人を超すという説もある。各地から出てきた人々を日々吸収している巨大スラムだけに、正確な数字は誰にもわからないのだろう。公安当局の目も行き届かないため、かなりデンジャラスな地帯となる。
 そんな土地であるにもかかわらず世間の注目が高まり地価が急騰している。90年代から続く好調な経済成長による建築ブームのため、スラムであるということを除けば文句のつけようのない立地、そして密度の高いムンバイーではもう他に望むべくもないまとまった土地であることからいやがうえにも人々の関心を集めるようになるのは当然のことだ。
 こんなダーラーヴィーにものどかな時代があった。現在のムンバイーがまだ七つの島からなっていたころ、ここはその中のセウリー島とバーンドラー島のあいだに広がる湿地帯であった。20世紀初頭には、このあたりにまだ漁村が点在する程度ののんびりした光景が広がっていたそうだ。
 ちょうどそのあたりから各地から貧しい人々がこの界隈へ移住を開始した。その流れはおおまかに二つの流れに大別される。まずはインド西部つまり現在のマハーラーシュトラ沿岸部、およびグジャラートから来た人たちである。ダーラーヴィー南部にクンバール・ワーダーという一角があるが、文字通り彼らの中の陶工たちが住み着いた場所である。そしてもうひとつが南東部のタミルナードゥから移り住んできた商人や職人たちである。この中で特筆すべきはムスリムの皮なめし業者たちで、彼らのおかげでこのあたりは皮革産業で知られるようになって今日にいたる。どちらの人々も多くはこの地に住み着いてモノ作りに励み、あるいは鉄道施設等で肉体労働者としての働き口を見つけたものも多かったという。そんな集落が現在のここダーラーヴィーの始まりである。 
 外部の人々の流入と並行してムンバイー市街地の拡大と水際の埋め立てが進む。こうした都市化とともに、もともとここに暮らしていた漁民たちは居所を失い、土地の主役は新しい移民たちに取って変わられていく。
 この地域で人口爆発が本格化したのは独立以降である。ここを基盤とする地元の有力者たちや政党などの伸長とスラム人口の拡大は相互補完関係にあった。インドにあって飛びぬけて地価が高いこのムンバイーで、地方から食い詰めて職を求めてこの大都会にやってきた貧しい人たちに寝床を提供したのは特に鉄道や空港などの用地脇をはじめ市内に点在するスラムやバラックだが、それらの中で突出して規模が大きいのがこのダーラーヴィーである。