宝の山 1

Dharavi
 そこはウエスタン・レイルウェイのバーンドラー駅、またセントラル・レイルウェイ(ハーバー・ライン)との乗換駅のマーヒム駅、セントラル・レイルウェイのサーヤン駅などに囲まれている。加えてサーヤン・バーンドラー・リンク・ロードから少し北上すれば、ウエスタン・エクスプレス・ハイウェイにつながるし、ステーション・ロードを少し東に進めば、イースタン・エクスプレス・ハイウェイだ。
 ムンバイー市中心と北郊外の間に位置する一等地。市南部、つまりこの商都のビジネスの中心地からクルマで30分、そして国際空港から20分という絶好のロケーションである。こんなところにオフィスがあったら、あるいは住むことができたらさぞ便利なことだろう。
 しかし残念なことに、ここは市内で最も人口密度が高く、インド最大ひいてはアジア最大のスラムとして知られる地域だ。ここダーラーヴィーはGoogle Earthで眺めてみても、やたらと規模の小さな構造物がひしめきあっており、周囲の環境とはずいぶん違うことが見てとれるだろう。
 この地域には8万6千もの建築物があるとされる。人口については諸説あり、その数60万人とも90万人とも言われるが、一時滞在者も含めれば100万人を超すという説もある。各地から出てきた人々を日々吸収している巨大スラムだけに、正確な数字は誰にもわからないのだろう。公安当局の目も行き届かないため、かなりデンジャラスな地帯となる。
 そんな土地であるにもかかわらず世間の注目が高まり地価が急騰している。90年代から続く好調な経済成長による建築ブームのため、スラムであるということを除けば文句のつけようのない立地、そして密度の高いムンバイーではもう他に望むべくもないまとまった土地であることからいやがうえにも人々の関心を集めるようになるのは当然のことだ。
 こんなダーラーヴィーにものどかな時代があった。現在のムンバイーがまだ七つの島からなっていたころ、ここはその中のセウリー島とバーンドラー島のあいだに広がる湿地帯であった。20世紀初頭には、このあたりにまだ漁村が点在する程度ののんびりした光景が広がっていたそうだ。
 ちょうどそのあたりから各地から貧しい人々がこの界隈へ移住を開始した。その流れはおおまかに二つの流れに大別される。まずはインド西部つまり現在のマハーラーシュトラ沿岸部、およびグジャラートから来た人たちである。ダーラーヴィー南部にクンバール・ワーダーという一角があるが、文字通り彼らの中の陶工たちが住み着いた場所である。そしてもうひとつが南東部のタミルナードゥから移り住んできた商人や職人たちである。この中で特筆すべきはムスリムの皮なめし業者たちで、彼らのおかげでこのあたりは皮革産業で知られるようになって今日にいたる。どちらの人々も多くはこの地に住み着いてモノ作りに励み、あるいは鉄道施設等で肉体労働者としての働き口を見つけたものも多かったという。そんな集落が現在のここダーラーヴィーの始まりである。 
 外部の人々の流入と並行してムンバイー市街地の拡大と水際の埋め立てが進む。こうした都市化とともに、もともとここに暮らしていた漁民たちは居所を失い、土地の主役は新しい移民たちに取って変わられていく。
 この地域で人口爆発が本格化したのは独立以降である。ここを基盤とする地元の有力者たちや政党などの伸長とスラム人口の拡大は相互補完関係にあった。インドにあって飛びぬけて地価が高いこのムンバイーで、地方から食い詰めて職を求めてこの大都会にやってきた貧しい人たちに寝床を提供したのは特に鉄道や空港などの用地脇をはじめ市内に点在するスラムやバラックだが、それらの中で突出して規模が大きいのがこのダーラーヴィーである。

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