英領インドの眺め

 東京大学の大学院情報学環で保存されている貴重なポスター661点が、4月4日からネット上で公開されている。これらは第一次大戦期のプロパガンダ・ポスターで、当時の日本の外務省情報部が収集していたものだ。第二次世界大戦後に当時の東京大学新聞研究所(社会情報研究所を経て、現在は大学院情報学環となっている)に移管され、以来書庫内で保存されていた。 このたび5年の歳月をかけてデジタル・アーカイブ化され、誰でもインターネットを通じて閲覧できるようになったのである。
 どんなものかと実際にアクセスしてみた。同サイト内の検索エンジンの動作にはまだまだ改良の余地がありそうだが、これらのポスターを眺めていると当時の各国の事情や世相をうかがうことができて非常に興味深い。
 こうしたポスターは国家の意思をあまねく人々に伝えて感化することを目的としていたため、『絵』そのものの質には当然のことながら相当こだわっていたようだ。ポスターの制作にかかわった人たちには、当時広く名の知られた画家や広告や雑誌などで活躍する第一線級の著名イラストレーターなどが多かったのだという。
 ポスターの内容は戦時公債、戦時貯蓄、募金、募兵、軍需物資の運搬ドライバー募集といった戦争遂行に直接かかわる内容のものが多く、パソコンの画面を通じてきな臭さが漂ってくるようだ。
 さて、当時のインドのポスターを覗いてみよう。戦時公債への投資を呼びかけるものがいくつも並んでいる。英語のみならずグジャラーティー、マラーティーといった土地の言葉で書かれたものもある。そしてインド兵のイラストが時代を感じさせてくれる。
 第一次世界大戦が勃発したのは1914年。その3年前の1911年にインド政庁は首都をカルカッタからデリーに遷都した。ロシア革命は1917年で、ガーンディーの第一次不服従運動は1919年に始まる。こんな時代にこれらのポスターが人々の前に貼り出されていたのだ。
 いまやこの世に生きる多くの人々の胸の中ではなく、『歴史』として書物の中に記憶される旧き時代の断片を前に想像力たくましくすれば、これらを覗き込む当時のインドの人々の姿やその社会がぼんやり浮かび上がってくるかもしれない。
東京大学大学院情報学環アーカイブ 第一次大戦期プロパガンダ・ポスター コレクション

日本の印象 インドのイメージ

ワンセグ画面
 BBC Hindiで、日本で今年4月から正式に開始された携帯電話等向けの地上デジタルテレビ放送『ワンセグ』について取り上げられている。今のところワンセグ受信に対応した携帯電話の機種はごく限られているし、テレビを視聴した場合のバッテリー持続時間の問題もある。NHK受信料については各世帯での支払いに含まれることになってはいるものの、単身者などで自宅にテレビを持たずにワンセグだけ観るという人も出てくるのではないかということから、一部ではこれまでの受信料とは切り離して論議しようという動きもあるようだ。
 しかし今後はワンセグチューナー対応のモバイルパソコンや車載テレビなども各社からいろいろ出てくる模様だ。すでにソニーからはVAIOシリーズのモバイルパソコンにワンセグ放送を受信できるモデルが用意されている。
名 前だけ先行して、まだまだ一般に身近なものとはなっていない『ワンセグ』だが、こうして海外のニュースで取り上げられているのを見ると、なかなかスゴイことのように思えてきた。(私自身はテレビをあまり見ないので、特に魅力は感じないのだが)
 BBC Hindiとは言うまでもなくイギリスの放送局がインド向けに発信しているものであり、コンテンツの作成には多数のインド人たちがかかわっているものの『地元メディア』とは言いがたい。しかしインドの新聞でもこうした日本の『ハイテク』なイメージを裏づける報道が新聞紙上で小さな囲み記事になることは多く、日本人と直に接触したこともなければ、日本を訪れたこともないインドの一般大衆の間で『ニッポンのイメージ』を形成するにあたり、こういったニュースが大きな役割を担っていることは間違いない。同時に一般の人々が日本におけるどういった事柄に関心を持っているかということの裏返しでもある。
 かつて日本でインドにかかわるニュース報道といえば、大きな鉄道事故、印・パ間の緊張、貧困、経済の停滞、カーストにかかわる問題といったネガティヴなものが多かった。 
 今でもそうした部分を伝える報道は少なくないが、IT産業の隆盛、順調な経済発展といった明るい材料がずいぶん多くなっている。そういえば日本でインド映画ブームが訪れたこともあった(・・・と過去形で語ることになるのは残念だが)し、かつて中華・洋食・和食以外の異国の味覚が広く『エスニック料理』という奇妙なくくられかたをしていたころもあったが、インド料理は日本の家庭料理として定着したかどうかは別にして、今や外食のポピュラーなチョイスとしてすっかり根付いている。それだけインドに対する興味や関心がやや広がってきたということになるだろうか。
 良くも悪くもある特定の国についての報道の多寡、ニュースのジャンルのバリエーションの広がりは、その国に対する関心の高さを如実に示す。ネパールにおけるインドにかかわるニュース、イランにおけるアメリカ関係ニュースの量を見てもそれは顕著であるし、私たちの東アジアにあっても、お隣の韓国におけるテレビ等での日本に関する出来事を伝えるニュースの量には目を見張るものがある。
 だが報道量が多いほどその国への理解や親近感が高まるというわけでは必ずしもないようだ。相互にほどほどに良好な関係を続けていくにあたっては、着かず離れずといった適当な距離感があったほうがいいこともあるのかもしれない。相互依存の関係が深まるほど、利害が大きく対立する局面もしばしば出てくるからに違いない。お互いに心地よい夢ばかり見ているわけにもいかず、厳しい現実や好ましからざる面も目に付くようになってくる。
 さて今後の日本とインドはどういう関係を築いていくのだろうか。
日本で携帯電話向けのテレビ放送開始 (BBC Hindi)
ワンセグとは(NHK)

時代が下るとともに遅くなる列車の意味するところ

indian railways
 堂々とした立派な駅舎、長大なプラットフォーム、乗り降りする利用客以外に駅職員やクーリーその他、ここで働く人々の姿もやたらと多く、牛、ヤギ、犬など様々な動物たちも行き交うインドの鉄道駅。どこに目をやってもとにかく時代がかっており、他の様々な国と比べても、インドの鉄道というのはどこか違う、やたらと味わい深い(?)思いがする。それだけに旅情に満ちているのがインドの汽車旅だ。
 それでもインド国鉄は頑張っている。この国を走る列車の中で、エアコンクラスの車両の割合は増えてきており、首都デリーと遠方の主要都市を結ぶラージダーニー急行、国内の主要都市をつなぐ中距離のシャターブディー急行といった特別急行の本数やそれらが結ぶネットワークも拡大するとともに、サンパルク・クラーンティ急行と呼ばれる長距離高速特急、短距離のジャン・シャターブディー急行といった新しい特別急行の導入がなされた。
 以前はゲージの幅が違う路線が混在することから、直行することができず乗り換えなくてはならないということは珍しくなかったが、従来は狭軌が敷かれていた路線についてもブロードゲージ化が進んだ。ジャイサルメールなどはその好例で、どちらから来てもジョードプルで乗り換える必要があったのだが、今ではデリーから直行することができるようになり、ずいぶんアクセスが良くなった。
 このようにインド国鉄は着実に発展しているのは間違いない。少なくとも新たな施設の導入や運用面ではずいぶん改善されてきていると思う。だがその反面、今の時代にあって技術的な遅れが目立つようになってきているようだ。
 いささか古い記事になるがインディア・トゥデイ3月15日号によれば、1969年にデリー・ハウラー間に導入された最初のラージダーニー急行は、1451キロの距離を17時間で結んでいたという。それから36年が過ぎた今では、18時間かかるようになっている。トゥーファーン・メールという列車にいたっては、1928年に28時間でデリー・ハウラー間を走っていたのだが、現在では36時間かかるようになっているのだという。
 この原因は、停車駅の増加だと書かれていた。ラージダーニー急行の場合、開通当時は途中停車駅わずかひとつだったが今では五つ、トゥーファーン・メールはかつて42の停車駅があったが現在は86駅と大幅に増えているのである。もちろん単に停車駅が増えただけではなく、同じレールの上を走る便数も増えることによる運行ダイヤの過密化したことにも関係があるだろう。停車駅の増加は鉄道システムが充実してきた結果であるし、地方が力をつけてきた証でもある。
 もちろん個々の事例を持ち出せば『遅くなった』例があるにしても、先述の特別急行のネットワークが全国に広がることにより、従前から運行していた急行列車よりも短い時間での移動が可能になっていることは間違いない。
 しかし仕事や生活のペースがかつてよりずっと速くなってきている昨今にあって、同じ列車が数十年前に比較して、より時間がかかるようになっているというのは問題ではある。
 そもそもインドの『特別急行』というものは、車両内の空調や座席や寝台の質を除き、通常の急行列車との本質的な違いといえば停車駅が極端に少なく、優先的に運行させていることだけである。走行性能が特に高いわけではないのだが『あまり止まらず、通過待ちもない』ため、結果的に目的地に着くまでの時間が短いだけのことである。
 また客車定員数に対する大幅な需要過多が常態であることがいまだ解消されていないことから、ラールー・プラサード・ヤーダヴ鉄道大臣が発表した新年度鉄道予算の中に、急行列車の24両編成を標準化することがうたわれているのは、まさにこの輸送力不足に応えたものであるのだが、乗客の利便性という観点からも列車そのものを相当数増発しなくてはならないように思う。
 インドの鉄道チケット販売のオンライン化は進んだが、列車の運行についてはまだまだ昔ながらのマニュアル作業である。『西暦2000年問題』について議論されていたころ、世界各地で金融、運輸、通信その他の分野での混乱の可能性について取り沙汰されていた。 
 もちろんインドのメディアでも自国のさまざまな分野について検証されていたが、列車の往来については、ほぼすべてが現場の人々による手作業なので問題なしという扱いで、拍子抜けさせられたことを記憶している。
 それだけハードの部分での進化が遅れているのがインド国鉄の現状だ。鉄道史に残るような大事故が毎年のように起きていること、その原因が単純な人為的ミスであることが多いのはまさにその問題点をあぶり出しているかのようである。
 現象面だけ眺めているとかなりの速度で変わりつつある国鉄だが、本質的な部分であまり大きな進化は見られない。今後のインド国鉄の課題は本格的な長距離高速鉄道の導入と在来線の運行システムや車両の近代化と効率化および安全性の向上である。この153年の歴史を持つインド最大の『輸送会社』において、外界の急激な変化に比べて変化が遅々としているのは、政府の力を背景にした独占市場であるがゆえのことであろうか。何しろ本来の国家予算とは分離した『鉄道予算』を持つ特別な立場の国営企業である。
 旅客輸送手段として考えてみた場合、鉄道とバスのどちらかを選択できるとすれば、車両や道路の質から見ても特に長距離での移動において前者のほうがはるかに有利であるし、昨今路線拡大を続けているエアー・デカンやスパイス・ジェットといった格安フライトは、鉄道のACクラスを利用する人々をターゲットにしているものの、ネットワークがカバーする目的地の広がりはとうてい鉄道にかなうものではない。
 こうした具合に外圧が少ないことがインド国鉄の近代化を阻んでいるといえるかもしれない。現状のままで充分やっていけるからである。だからこそ『遅々として進む』という昔ながらのインド的速度(?)で進化を続けてきたのだろう。
しかし今後高速道路網の建設や各地で空港の増設が予定されていることから、旅客のみならず貨物輸送の面からも鉄道は大きなチャレンジを受けることになる。余力がある今だからこそできること、しなくてはならないことは沢山あると思う。あるいはインドのさまざまな分野で進んだ変化の波が、国鉄のありかたにもおよぶ日はそう遠くないかもしれない。

目の前はブータン 7 やがて個人旅行解禁か?

 ブータンもようやく総選挙による民政移管が予定されている。2008年までに現在のジグメ・ワンチュク国王が退位して子息のジグメ・ケサール・ナムギャルに王位を譲り、総選挙による多数政党による民主主義体制へと移行するというものだ。
 昨年末にはその王子がデリーを訪問してインドのマンモーハン・スィン首相その他要人たちとの顔合わせを済ませている。その際に新聞に掲載されていた写真を見て私は「キャプションが間違っている。写っているのは王子ではなくて現国王ではないか」と思ってしまったほど父親の国王によく似ている。しかも年齢もほぼ同じに見えるという老け顔(失礼!)の持ち主である。なにしろ額の後退具合も父親そっくりなのだから。それでも父親譲りの知的でハンサムな風貌であることは言うまでもない。
 ブータンでの体制が大きく変わるということ、それによって民主化が実現されるということの意味はとても大きい。社会の様々な分野から民意を問うことになるので、「鎖国」という極端な政策を続けることはできなくなるのではないだろうか。
 本来民主化と商業化は決して同義ではないのだが、民主主義というシステムの中で『オカネ』のパワーがいかにすさまじいものであるかということは、私たちがすでに日々の体験から学んでいることである。結果として実業界の発言力がとても強くなるはずだ。
 それは観光の面でも相当大きな変化をもたらすような気がする。グループツアー以外の外国人の観光が一気に解禁となるかどうかはさておき、少なくとも段階的には自由化されていく、あるいは相当緩和されるのではないだろうか。
 ブータンの人々は、ネパールやインドなどの周辺国を見て、観光収入による恩恵の大きさについては重々承知しているはずだ。その恩恵にあずかることを期待する人々は多いだろう。ブータンの強みとしては、インドやネパールの経験から学べることがとても多いことである。
 今はまだ産業としての『観光』は政府によってガッチリ管理されているが、それでも『Xデイ』に向けて、様々な調査や研究が着々と進められていることと思う。諸外国から観光開発に関する専門家なども少なからず招聘されているのではないだろうか。そして近い将来の自由化を期待してひそかに事業展開の構想を温めている実業家たちも少なくないのではないはず・・・と想像している。
 観光化にあたってブータンの強みは豊かな観光資源と桃源郷のイメージだけではない。英語が広く通じるということも加えられる。またインドから入国する観光客からしてみれば、インドルピーがそのまま等価で通用することもメリットとして挙げられるかもしれない。
 こうした動きについてインド側とて期待せずにはいられないのではないだろうか。「ブータンへの道」にあたる北ベンガル、そして周辺地域としてのアッサムその他東北諸州の観光発展への一助となる。ひょっとするとインド東部を含めたこの地域が、南アジア観光のひとつの大きな目玉になってくることもありえない話ではないだろう。
 それだけにはとどまらないかもしれない。2007年までにインドとミャンマー間の鉄道をリンクさせる計画もある。まずは東北諸州国境地帯の政治と治安の安定が先決だが、『観光圏』として将来的にはさらなる広がりが期待できそうだ。このあたりが「後背地」から脱皮して経済的にも自立したひとつの「核」となる可能性も秘めているのかもしれない。
 経済発展という観点からは、あまりパッとしない東部インドだが、現状が振るわない分、今後大きく伸びる余地も大きい。良くも悪くもインドとブータンは友好国以上の関係であり、ひとたび外国人の旅行がブータンで自由化されれば、その効果はインドの東部にも及ぶことが期待できるのは間違いないだろう。
 まだ自由に訪れることができなかった80年代後半までのラオスをふと思い出した。当時、旅行者たちはタイの国境の町ノンカイで、メコン河対岸の密林地帯を眺めて、「ああ対岸はラオス」と想ったものである。しかし89年に個人旅行解禁となり、渡し舟でメコン河を渡り「ああ、やっとラオスに来た」と喜んだものだ。  
 その後、タイとの間は渡し舟ではなく大きな橋で結ばれるようになり、行き来がより簡単になった。ラオスでは旅行ブームが続き、タイなどの近隣国からも、欧米その他の先進国からも人々が大挙してやってくるようになり今に至っている。
 かくして旅行事情なんてあっという間に大きく変わってしまうものだ。向こう五、六年のうちには「あのときはジャイガオンまで来たのに隣町のプンツォリンに入れなくてね」なんていうのが昔話になっていることと思う。

サクラ・バザーは4月1日(土)

『きまぐれピックアップ』で紹介されているとおり、在東京のインド大使館の恒例行事、『サクラ・バザー』は4月1日開催される。大使館の方の話をうかがってみたが、当初は4月2日(日)に行なわれることが予定されていたものの、天気予報にて同日は雨天が見込まれていることをうけて、おといい3月29日に急遽変更が決まったのだという。
 そんなわけで、サクラ・バザー参加を予定されている方々のうち、『開催は4月2日の日曜日』との情報を得ていた方はご注意いただきたい。
 本来、こうしたイベントの開催日を直前になって変更というのは、参加する人々の都合もあるし混乱の原因にもなるので避けるべきだが、『花見ついでにおいでください』との配慮により、悪天候での開催をわざわざ避けてくれたのだと好意的に解釈しておこう。もともとこの催しは×月の第×○曜日と決まっているわけではなく、年ごとのサクラの開花に合わせて設定されている。
 私自身、日曜日に出かけるつもりだったが、この日程変更により都合がつかなくなってしまった。
 それにしても大使館というおカタイ機関が、わざわざ日本の花見の時期に合わせて大使館敷地内を開放してこうした催しを開催してくれること自体が、なかなか粋なはからいだと思う。 千鳥が淵という都内有数の桜の名所に隣接していることもあり、今年もまた大勢の人々が訪れることだろう。
 敷地内に入るにあたって所持品検査等はないし写真撮影も自由である。大使館がこんな丸腰で不特定多数の人々を受け入れてくれるのは、やはり日本にあってこそ。
 インドの首都における『重要施設』でのものものしい警備、また寺院やショッピングセンターといった日常的な場でも所持品の検査等が当たり前になっている現状を思えば、ニッポンの『治安の良さ』もまだまだ捨てたものではない。
 毎年このイベントが大使館敷地内で続けられているということは、インド政府公館による日本の大衆に対する高い評価と信頼の証であるともいえる。今後もこうした環境とインドとの良い関係をずっと大切に守り続けていきたいものだ。