やっぱり良かったこのレンズ

 被写体という『ソフト』の宝庫がインドならば、カメラやその周辺機器といった『ハード』大国はニッポンだ。特に写真がデジタル時代を迎えてからはその傾向が一層顕著になっている。
 先日『旅行に最適な一本!』として取り上げてみたシグマ17-70mm 2.8-4.5 DC MACRO を手に入れてみた。レンズの長さ、鏡胴の太さや重量はおなじくシグマのデジタル専用レンズ18-125mmあるいは18-200mmといったものと同等でかなりコンパクトだ。
 正直な話、17-70mmといえば焦点距離の重なるレンズを複数持っているため、このテのズームレンズをマクロ機能目当てに購入するのはもったいない気もしていた。それならばちゃんとしたマクロレンズを購入したほうがいいだろうと。
 しかし店先で試用品に触れてみて「あぁ、これはいい!」と迷いは吹っ切れて、その場で購入。なんがそんなに良いかといえば、やっぱりマクロ機能なのである。最短撮影距離がズーム全域で20センチ(カメラボディの撮像素子表面からの距離)なので、70mmのテレ端を使う場合はレンズ表面に衝突してしまうくらい接近できる。この焦点域では開放値が4.5と暗くなってしまうものの、一本のレンズでマクロ撮影を含めてほぼ何でもこなせてしまうのはとっても便利だ。それに広角端では開放値は2.8と同程度の焦点域のズームレンズよりも明るいこともなかなか気に入った。
 さっそく試しにユリの花を撮ってみる。
ユリ
 シグマとタムロンの両社は常に一方が目新しいモデルを出せばもう一方も同種の競合モデルを出し、交換レンズの分野でしのぎを削りあう二大巨頭といった感じだが、今回もやはりシグマのこのレンズにぶつける魅力的な製品を市場に送り出している。それは 
SP AF17-50mmだ。テレ端が50mmと短いものの、ズーム全域でF2.8という使い勝手の良さそうなもの。焦点域によって最大開放値が変動するシグマ17-70mm 2.8-4.5 DC MACRO(標準的なズームレンズはたいていそうだが)に対し、この部分は大きなアドバンテージだ。
 最短撮影距離27センチと大きいためマクロ的に使う場合は前者のシグマ製品に軍配が上がるのだが、こちらもまた優れたレンズだと思う。
 近ごろはデジタルカメラもいろいろと多種多様になってきている。次から次へと興味をそそるものが出てきて目の毒だ。

インドの書籍来日予定

 今年で13回目となる本の見本市、東京国際ブックフェア2006は7月6日(木)から9日(日)までの4日間開催される。会場は東京都江東区の東京ビッグサイト。
 今年もまたインドからデリーのAsaf Ali Rd.でHindi Book Centreを運営するStar Publicationsにより、Federation of Indian Pusblishersの名前で出展がなされる予定。 (本日現在、ブックフェアのサイトにはまだ記載されていないが、問い合わせてみたところ『参加』とのことだ)
 例年このブース内で展示図書の販売もなされる。タイトルも部数も限られているので『早い者勝ち』になる。さて、どんな本が並ぶのか、ちょっと覗いてみてはいかが?

ダーラーヴィーの眺め

 以前『宝の山(1)(2)』として取り上げてみたムンバイーのダーラーヴィー地区はアジア最大とも言われるスラムだが、このほどBBC South Asiaで『Life in a Slum』と題してここに生きる人々の暮らしぶりを伝えている。
 もちろんここで取り上げられているのはギャングや犯罪者など、『スラム』からすぐさま連想されてきそうなネガティヴな面ではなく、一生活者として日々を送るフツウの人々。周囲の相場と比較した家賃の安さと交通の便から住み着いているものの、やはり機会があれば外に出たいと思っている勤め人や主婦、学生にメイドといった面々である。
 インド経済・金融の中心地でありながらも、周囲を海に囲まれた半島という地理的な制約があるムンバイーで土地というものがいかに貴重なものであるかということを端的に表している。人々が各地から職を求めて集まってきた結果形成されていったのがスラムだが、見方を変えれば街が様々な分野で働く人々を必要しているものの、それらの人々を吸収するキャパシティに欠けているため、さらなる発展の可能性の芽をつぶしてしまっているということにもなる。
 漁村から都会へと発達したムンバイーの成長は、東西南北どちらを向いても海原に大きく開かれた港湾都市という性格に負うものが大きいが、まさにその海によりどちらの方向を向いても塞がれている。旧来の市街地から隣接した郊外に新興住宅地や工業団地などをシーレスに拡大していくことのできる内陸の都市と比較して、スペースの上での制約が大きい。成長の波に乗るインドで、バンガロールやハイデラーバードなど商業や金融の核として伸びてきた街はいくつもあるが、かといって経済の中心地としてのムンバイーの地位がゆらぐわけではない。行政当局によるダーラーヴィー再開発計画とともにかつて東京でもてはやされていた臨海副都心計画のようなものが浮上する日も遠くないかもしれない。

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ネットで体験する世界遺産

ネットで体験する世界遺産
 World Heritage Sites in Paranography というサイトがある。ここでは各地の世界遺産のパノラマ画像を360℃の角度から眺めることができるのだ。(閲覧にはQuick Timeのインストールが必要)
 日本やロシアのコンテンツは今のところアップされておらず、このサイト自体がまだ発展途上といった印象を受ける。しかしここで見ることのできる画像の美しさはもちろんのこと、画角の広さからその場の雰囲気もよく伝えていて興味深い。イランのイスファハーンの画像などは、卒倒しそうなほどに美しかった。最初は『ああ、こういうサイトもあるのか』と何の気なしにブラウズしていたのだが、知らぬ間に『呑み込まれて』しまい、ずいぶん時間が経ってしまった。
 もちろんインドについてもかなり手厚く25か所のパノラマ画像が掲載されている。南アジアの周辺国のものなども含めて、訪れたことのあるところ、ないところをあれこれと眺めてみるのも面白いだろう。
 どういう技術でこういう画像の作成が可能なのか、ハイテク音痴の私には皆目見当つかないのだが、こうした手法で各地の旧所名跡や風物を記録したギャラリーが増えてくるといい。遺跡の外に広がる景色をしばらくたどって行くことができたり、最寄りの町までの沿道風景をそのまま画像でフォローできたりする『仮想旅行体験』が用意されているとなお楽しそうだ。
WH Tour

『情報ノート』に想う 2

 イラン・イラク戦争が終わって間もなかったころ、『イランへの道』と題するノートのコピーが出回っていた。インドからパキスタンを経てイランを目指す旅行者たち、あるいはそれとは反対側のトルコからイランへと向かう日本人バックパッカーたちにとって必携アイテムであった。
 そのころ日本で出ていたイランのガイドブックといえば、ブルーガイドのようなパックツアー向けの主要観光地をざっと簡単に説明したようなもので、実際に自分で歩いて旅するのに役立つような情報はほとんど掲載されていなかった。
 ロンリープラネットのガイドブックもまだ出ていなかった。そもそも当時、若者でさえも気軽に海外旅行に出かけるような国で、イスラーム革命後のイランに簡単に出入りできる旅行者の国籍はごく限られていた。そのひとつが日本であった。
 バブル最盛期、あまりに多くの人々がイランから不法就労することを目的にやってくるのに音を上げた日本の当局が、日本とのイランの間に結ばれていた90日以内の短期滞在における査証の相互免除を取り消すまで、日本人ならば誰でもヴィザ無しで簡単に入国することができたのだ。当時、西欧の人たちは自国あるいは第三国にあるイラン大使館に観光ヴィザを申請すると、長いこと待たされたうえで結局却下されてしまうということが珍しくなかったようだ。
 そんなわけで、イスファハーンやシラーズといった超メジャー観光地を訪れても西洋人たちの姿はなかった。ロンリープラネットその他から誰も訪れるはずもない土地を紹介するガイドブックが発行されるはずもなかった。
 そんな具合で、イランといえば情報ノートだけが頼りだった。イランを目指すバックパッカーたちにとって、最初になすべきことは『イランへの道』を手に入れることだったのだ。
 有名な土地や名所旧跡の名は耳にしたことがあっても、それらが広大なイランのいったいどこにあるのは定かでなかったし、交通網や訪れる街の規模はもちろん、どのあたりに宿があるのかも皆目見当つかなかった。
当時、イラン旅行に関するさまざまに風説が流布されていた。市中の両替レート、つまり闇両替のレートは銀行レートの14倍。イスラーム革命以来、インフレが進むいっぽう交通機関の運賃上昇が抑制されていたため、長距離バスで500キロの道のりを走っても料金は30円から40円程度、国内線飛行機でパキスタン国境近くのザヘダーンからテヘラーンまで飛んでも600円程度、首都にある旧ヒルトンホテル(革命後に接収されて地元資本化されている)やイスファハーンのアッバースィー・ホテルといった高級ホテルのツインを二、三人でシェアすれば、ひとりあたり500円から600円程度で宿泊できる等々。
 こうした不思議なウワサのほとんどが往々にして事実であったが、あまりに情報が乏しく、旅行事情がどうなっているのかわからず、イランを一人旅すること自体、ほとんどのバックパッカーたちにとり、あたかも闇の中を手探りで進むことのように思われたのである。
 この『イランへの道』には、出入国や厳しい外貨管理に関する注意点、両替やその方法、イラン各地の町々の簡単な紹介とアクセス、それらの土地にある名所やそこへの行きかたなどが簡潔にまとめてあった。しかもペルシャ語の数字解説や簡単なフレーズ集みたいなものも付いていた。ここまでくると、通常の情報ノートの域をはるかに超えた『ガイドブック』であったといって良いかもしれない。
 コピーにコピーを重ねて文字が薄くなってくれば、それを手にした人が上からなぞって文字を読みやすくしてくれていたり、新たな情報を追加してくれていたりなどしていた。元々は同じはずの『イランへの道』だが、手に入れる場所や時期によってアップデートや追加情報の度合いの違うさまざまなバージョンが混在していた。
トルコのイスタンブル、パキスタンのクウェッタ、ペシャーワル、インドのデリーといった日本人バックパッカーの利用が多い宿に置かれていた『マスターコピー』を借りて近所のゼロックスで複写したり、あるいはイラン旅行を終えて出てきた人から譲り受けたりといった具合に旅行者たちの間に流通していた。
 この『イランへの道』の原版を編纂したうちのひとりによる次なるヒット作、『イラクへの道』も、旅行者たちにとても好評であった。ただしこちらはいわゆる『アジア横断旅行』ルートから外れていること、バックパッカーたちの『拠点』に状態の良いコピーが定着する前に、イスタンブルの日本人の出入りが多いカーペット屋に置かれていたオリジナルコピーが失われてしまったこと、イラクのクウェート侵攻からなる湾岸危機、それに続く湾岸戦争などによって通常の旅行先ではなくなってしまったことなどから、前者ほど多くの旅行者たちに愛用されたわけではない。
 私はその『イラクへの道』が出る前に、それを書いたTさんに同行する機会に恵まれた・・・といってもお互いフツーの旅行者同士がたまたま行く先が同じであったため、しばらく行動をともにしていただけのことだが。当時のイラクは非常に治安が良く、市民の暮らしぶりには非産油国のアラブ圏とは一線を画す豊かさがあった。社会主義を標榜するバース党の治世下、少なくともヨソ者の目にも女性の社会的プレゼンスの大きさは印象的であった。  
 世俗政権下ということもあり、繁華街に林立する酒場の数々、国産・輸入を問わず安価で豊富なアルコール類の恩恵にあずかることができた。アラビアとはいえ、バグダードでは夕方以降は街角で酔っ払いがクダを巻いていたりケンカしたり、はてまた酩酊してアスファルトの上に前後不覚で寝転がっていたりという様が日常的に展開される(当時)ということを知ったのは新鮮なオドロキであった。
 Tさんとともにバクダード、サマーッラー、バビロンなどを訪れたのだが、案内書の類は何も無く、手元にあった旅行情報はバグダード市内の古本屋で見つけたローマ字表記の市内地図を除けば、イラク入りする前にヨルダンのアンマンで宿泊したホテルのロビーに置かれていた情報ノートに各国から来たバックパッカーたちが英語で書き残したイラク旅行の情報や印象を書き残したメモを自分で書き写したものだけだった。いろいろと自分で発見する喜びは否定しないが、いかんせん効率が悪すぎる。他国ならばガイドブックをひとめくりするだけで頭に入るようなことがここでは何もわからないので、時間と労力の無駄がとても多く、知らなかったばかりにせっかく近くまで行きながら見過ごしてしまった名所旧跡も多い。
 そうした中、行く先々で精力的に歩き回り、自ら発見したものや気づいた事柄などについて、細かいメモを取っていたりするTさんの姿には驚いた。年単位の長旅を繰り返しているのにマンネリ化することなく、旺盛な探究心はいったいどこから沸いてくるのだろうか。
 彼によれば、『大地のシワが多いところほど、人々のありかたも変化に富んでいて興味深い』のだという。確かに言われてみればそのとおりだと思った。人の力で越えがたい自然の障害が多いところ、山岳、大河、海峡、高地等々でさえぎられたところでは、少し先に進むだけで風物が大きく変わるものである。この人は今も長旅を繰り返しており、こうしている今も地球のどこかで熱心にメモを取り、詳細な地図を描いていることだろう。
『イランへの道』も『イラクへの道』もそれを書いた個々の人たちや加筆した旅行者たちも何の報酬を得ているわけでもないしそれを期待しているわけでもない。ただ旅への情熱と情報を他のバックパッカーたちと分かち合いたいという気持ちが情報ノートというカタチを取って現れ、それを必要とする人々から共感とともに強く支持されていったのだろう。
 もちろん『旅行情報』とはいう、旅行人という会社によるガイドブックはれっきとした商品だ。旅行者たちが勝手に書き足したりコピーしたりする情報ノートとはまったく違う性格のものであることはいうまでもない。それでもやっぱり旅を愛する人たちの熱い気持ちが誌面からヒシヒシと伝わってくる。
 こういうガイドブックが出回るようになった今、旅行好きにとって本当にいい時代だと思う。