『情報ノート』に想う 2

 イラン・イラク戦争が終わって間もなかったころ、『イランへの道』と題するノートのコピーが出回っていた。インドからパキスタンを経てイランを目指す旅行者たち、あるいはそれとは反対側のトルコからイランへと向かう日本人バックパッカーたちにとって必携アイテムであった。
 そのころ日本で出ていたイランのガイドブックといえば、ブルーガイドのようなパックツアー向けの主要観光地をざっと簡単に説明したようなもので、実際に自分で歩いて旅するのに役立つような情報はほとんど掲載されていなかった。
 ロンリープラネットのガイドブックもまだ出ていなかった。そもそも当時、若者でさえも気軽に海外旅行に出かけるような国で、イスラーム革命後のイランに簡単に出入りできる旅行者の国籍はごく限られていた。そのひとつが日本であった。
 バブル最盛期、あまりに多くの人々がイランから不法就労することを目的にやってくるのに音を上げた日本の当局が、日本とのイランの間に結ばれていた90日以内の短期滞在における査証の相互免除を取り消すまで、日本人ならば誰でもヴィザ無しで簡単に入国することができたのだ。当時、西欧の人たちは自国あるいは第三国にあるイラン大使館に観光ヴィザを申請すると、長いこと待たされたうえで結局却下されてしまうということが珍しくなかったようだ。
 そんなわけで、イスファハーンやシラーズといった超メジャー観光地を訪れても西洋人たちの姿はなかった。ロンリープラネットその他から誰も訪れるはずもない土地を紹介するガイドブックが発行されるはずもなかった。
 そんな具合で、イランといえば情報ノートだけが頼りだった。イランを目指すバックパッカーたちにとって、最初になすべきことは『イランへの道』を手に入れることだったのだ。
 有名な土地や名所旧跡の名は耳にしたことがあっても、それらが広大なイランのいったいどこにあるのは定かでなかったし、交通網や訪れる街の規模はもちろん、どのあたりに宿があるのかも皆目見当つかなかった。
当時、イラン旅行に関するさまざまに風説が流布されていた。市中の両替レート、つまり闇両替のレートは銀行レートの14倍。イスラーム革命以来、インフレが進むいっぽう交通機関の運賃上昇が抑制されていたため、長距離バスで500キロの道のりを走っても料金は30円から40円程度、国内線飛行機でパキスタン国境近くのザヘダーンからテヘラーンまで飛んでも600円程度、首都にある旧ヒルトンホテル(革命後に接収されて地元資本化されている)やイスファハーンのアッバースィー・ホテルといった高級ホテルのツインを二、三人でシェアすれば、ひとりあたり500円から600円程度で宿泊できる等々。
 こうした不思議なウワサのほとんどが往々にして事実であったが、あまりに情報が乏しく、旅行事情がどうなっているのかわからず、イランを一人旅すること自体、ほとんどのバックパッカーたちにとり、あたかも闇の中を手探りで進むことのように思われたのである。
 この『イランへの道』には、出入国や厳しい外貨管理に関する注意点、両替やその方法、イラン各地の町々の簡単な紹介とアクセス、それらの土地にある名所やそこへの行きかたなどが簡潔にまとめてあった。しかもペルシャ語の数字解説や簡単なフレーズ集みたいなものも付いていた。ここまでくると、通常の情報ノートの域をはるかに超えた『ガイドブック』であったといって良いかもしれない。
 コピーにコピーを重ねて文字が薄くなってくれば、それを手にした人が上からなぞって文字を読みやすくしてくれていたり、新たな情報を追加してくれていたりなどしていた。元々は同じはずの『イランへの道』だが、手に入れる場所や時期によってアップデートや追加情報の度合いの違うさまざまなバージョンが混在していた。
トルコのイスタンブル、パキスタンのクウェッタ、ペシャーワル、インドのデリーといった日本人バックパッカーの利用が多い宿に置かれていた『マスターコピー』を借りて近所のゼロックスで複写したり、あるいはイラン旅行を終えて出てきた人から譲り受けたりといった具合に旅行者たちの間に流通していた。
 この『イランへの道』の原版を編纂したうちのひとりによる次なるヒット作、『イラクへの道』も、旅行者たちにとても好評であった。ただしこちらはいわゆる『アジア横断旅行』ルートから外れていること、バックパッカーたちの『拠点』に状態の良いコピーが定着する前に、イスタンブルの日本人の出入りが多いカーペット屋に置かれていたオリジナルコピーが失われてしまったこと、イラクのクウェート侵攻からなる湾岸危機、それに続く湾岸戦争などによって通常の旅行先ではなくなってしまったことなどから、前者ほど多くの旅行者たちに愛用されたわけではない。
 私はその『イラクへの道』が出る前に、それを書いたTさんに同行する機会に恵まれた・・・といってもお互いフツーの旅行者同士がたまたま行く先が同じであったため、しばらく行動をともにしていただけのことだが。当時のイラクは非常に治安が良く、市民の暮らしぶりには非産油国のアラブ圏とは一線を画す豊かさがあった。社会主義を標榜するバース党の治世下、少なくともヨソ者の目にも女性の社会的プレゼンスの大きさは印象的であった。  
 世俗政権下ということもあり、繁華街に林立する酒場の数々、国産・輸入を問わず安価で豊富なアルコール類の恩恵にあずかることができた。アラビアとはいえ、バグダードでは夕方以降は街角で酔っ払いがクダを巻いていたりケンカしたり、はてまた酩酊してアスファルトの上に前後不覚で寝転がっていたりという様が日常的に展開される(当時)ということを知ったのは新鮮なオドロキであった。
 Tさんとともにバクダード、サマーッラー、バビロンなどを訪れたのだが、案内書の類は何も無く、手元にあった旅行情報はバグダード市内の古本屋で見つけたローマ字表記の市内地図を除けば、イラク入りする前にヨルダンのアンマンで宿泊したホテルのロビーに置かれていた情報ノートに各国から来たバックパッカーたちが英語で書き残したイラク旅行の情報や印象を書き残したメモを自分で書き写したものだけだった。いろいろと自分で発見する喜びは否定しないが、いかんせん効率が悪すぎる。他国ならばガイドブックをひとめくりするだけで頭に入るようなことがここでは何もわからないので、時間と労力の無駄がとても多く、知らなかったばかりにせっかく近くまで行きながら見過ごしてしまった名所旧跡も多い。
 そうした中、行く先々で精力的に歩き回り、自ら発見したものや気づいた事柄などについて、細かいメモを取っていたりするTさんの姿には驚いた。年単位の長旅を繰り返しているのにマンネリ化することなく、旺盛な探究心はいったいどこから沸いてくるのだろうか。
 彼によれば、『大地のシワが多いところほど、人々のありかたも変化に富んでいて興味深い』のだという。確かに言われてみればそのとおりだと思った。人の力で越えがたい自然の障害が多いところ、山岳、大河、海峡、高地等々でさえぎられたところでは、少し先に進むだけで風物が大きく変わるものである。この人は今も長旅を繰り返しており、こうしている今も地球のどこかで熱心にメモを取り、詳細な地図を描いていることだろう。
『イランへの道』も『イラクへの道』もそれを書いた個々の人たちや加筆した旅行者たちも何の報酬を得ているわけでもないしそれを期待しているわけでもない。ただ旅への情熱と情報を他のバックパッカーたちと分かち合いたいという気持ちが情報ノートというカタチを取って現れ、それを必要とする人々から共感とともに強く支持されていったのだろう。
 もちろん『旅行情報』とはいう、旅行人という会社によるガイドブックはれっきとした商品だ。旅行者たちが勝手に書き足したりコピーしたりする情報ノートとはまったく違う性格のものであることはいうまでもない。それでもやっぱり旅を愛する人たちの熱い気持ちが誌面からヒシヒシと伝わってくる。
 こういうガイドブックが出回るようになった今、旅行好きにとって本当にいい時代だと思う。

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