欧州発 北アフリカ行きの白人奴隷たち

 大航海時代以降、世界各地に植民地を拡大していき支配地で権勢を振るった西欧列強、そしてアフリカから南北アメリカ大陸に導入された黒人奴隷たち、アジアその他の地域で過酷な労働・生活環境の中で生涯を送った中国やインドなどからの契約移民たちのことはよく知られているところだ。
 だがそのいっぽう、サレー、チュニス、アルジェといった北アフリカの港湾地域を根城とするイスラーム教徒の海賊たちにより航海中の欧州人たちの商船が襲われるのみならずヨーロッパ各地の沿岸部が北アフリカからやってきた荒くれ男たちに攻撃されることは珍しくなかったことだ。もちろんその数や規模は先述の黒人奴隷や契約移民の数とは比較にならないはずだが、主にその海賊たちにより拉致されてモロッコを中心とする北アフリカ諸国で売買される欧州出身の白人奴隷たちがいたということに気を留める人はあまり多くない。
 このたび『奴隷となったイギリス人の物語』という本を手にとってみて、パラパラとめくってみるとなかなか興味深い内容であったので、じっくり読んでみることにした。著者の記すところによれば『1550年から1730年の間、アルジェには約2万5千人の捕虜(欧州人)が絶えず存在していた』『300年あまりの間に少なくとも100万人の白人たちが不当に連行された奴隷交易があった』のだという。
 タイトルには『物語』とあるが、史実をもとにしたノンフィクション作品だ。この本の中で主人公的な立場にあるトマス・ペローなる人物が見聞したとされる出来事などが下敷きとなっており、欧州やアラビアの歴史資料などによる肉付けがなされたということである。
 舞台は18世紀初頭のイギリスとモロッコ。イギリスのコーンウォールで生まれた10代前半の利発な少年トマス・ペローは、おじが船長を務める商船『フランシス号』の船員として乗り込んだものの、海賊船に拿捕されてモロッコの奴隷として売り飛ばされてしまう。彼は当時マラーケシュから遷都し、メクネスを首都としていたアラウィー朝の支配者ムーレイ・イスマイルのもとで奴隷として仕えることになる。
 当初は建築作業現場で他の欧州人奴隷たちとともに危険な作業に従事させられた。そして暴力とともに改宗を迫られて、生き延びるためにやむなくイスラーム教徒となってからは、非凡な知力と資質を買われて宮廷内の警護を経て最前線で闘う兵士として取り立てられたことになっている。その後幾多の危機を乗り越えて運良く帰国できたのは出航してから23年後であったとのこと。
 ムーレイ・イスマイル率いる強大なアラウィー朝とその庇護下で暗躍していた海賊たちの前に、なす術もなく恐れおののいていた欧州(人たち)という図式はなかなか新鮮であった。
 ただ気がかりな部分も多い。不運にも奴隷とされた白人たちの悲劇がテーマになっているため仕方ないのだが、視点は常に捕虜となり奴隷として売られた欧州人たちの側にあるがゆえに『欧州=賢き善なるもの』そして『イスラーム世界=狡猾にして悪辣なるもの』という図式に終始していることである。
 強権政治、建築への情熱、豪勢な生活、そして数百人規模のハーレムなどで知られたムーレイ・イスマイルは、モロッコの歴史の中でも特に大きな足跡を残した人物のうちのひとりである。もちろん彼は暴君として悪名高くさまざまなネガティヴなイメージも持つ人物であったにせよ、彼の治世で国は繁栄するとともに市民生活のレベルもかなりのものであったようだ。当時の王都メクネスはユネスコの世界遺産にも指定されている。
 もちろん『為政者』について現在のそれと同じ尺度で語ることはできるはずもないが、それなりに有能な統治者であったことは否定できないだろう。だが書中では、このモロッコの君主については奇行や蛮行ばかり描かれていること、そして次から次へと様々な登場人物が出てくる中で、地元モロッコのイスラーム教徒たちの中で人情味を感じさせるキャラクターはほとんど見当たらないのである。
 特にニューヨークで2001年に起きたテロ事件以降、イスラーム世界に対するネガティヴなイメージが広がっている昨今、ムスリムの人々に対する偏見や誤解を植え付ける可能性もあり、ちょっと危険な図書ではないかとも思われた。
 捕虜となっていた白人たちの出身国は、イギリス以外にもフランス、スペイン、ポルトガル、そして独立前のアメリカなど実に多岐にわたっていたそうだ。どこも自国民の救出についてはそれなりの外交努力は払っていたらしいが、興味深いことにクリスチャンから改宗してムスリムになった者については救出の対象にはならず、そうした囚われの自国民の数にも加えられなかったのだという。それほど当時のヨーロッパでは、『キリスト教徒であること』は、ある意味生まれや血筋よりも大切なものであったようだ。
 ちなみにトマス・ペローは軍の駐屯地を脱走して野山を越えて港町に出て、欧州の商船に接触することに成功、つまり自力でモロッコを後にしたとのことである。
 ともあれ、これまであまりなかった視点によるヨーロッパとイスラーム圏の交流史のひとつとして大変興味深い本であった。
奴隷になったイギリス人の物語
ISBN4-7572-1211-9
ジャイルズ・ミルトン 著
仙名紀 訳
株式会社アスペクト
原題はWHITE GOLD (GILES MILTON著ISBN: 0340794704)

上海経由でインドに行こう!

中国製造SUNTORYビール
 日本からインド行きのフライトといえば、昔からバンコクやシンガポールなどといった東南アジアの街を経由して行く『南回り』が当たり前だと思っていたのだが、今や『北回り』ルートもごくフツーになっているようだ。中国東方航空による上海経由デリー行きである。大手旅行会社も『中国東方航空で行くデリー』として売り出している。
 半年ほど前、人民日報日本語版に『中国東方航空、インド人客室乗務員を採用』という記事が出ていたが、ついに6月3日からその乗務員たちが中・印間の路線に3〜4名ずつ乗務することになったようだ。
 各国航空会社の国際線で様々な国の人々が乗務しているのだから、こういうことがあっても不思議ではないのだが、中国の航空会社にインド人乗務員というのは初めてとのことで、『歴史的』な出来事といえるかもしれない。
 もっともインド人スチュワーデスの登場そのものよりも、中国の航空会社がインド人乗客をそれほどまでに意識してきていること自体が大きな変化であることはいうまでもない。
東方航空 インド女性が客室乗務員に、中国で初めて(中国情報局)

マッチが結んだ日印の縁 2

matches imported from Japan
 日清戦争期(1894〜95年)には日本在住の華僑たちが帰国したことによる物流ネットワークの停滞、戦時のため労働力が不足するなどといったこともあったようだが、それでもマッチ産業は順調に成長を続けていたという。
 黄燐マッチの製造禁止は、それまで主にこれを製造していた大阪のマッチ産業に打撃を与えた。それでも第一次世界大戦(1914年〜18年)のころには、当時のマッチ大国スウェーデンからの輸入がほぼストップしたスキを突いて、インド市場では日本製マッチがシェアを拡大させた。
 この際に取引の中で重要な役割を担ったのが、当時すでに上海や香港といった中国大陸の拠点に進出していたインド系商人たちだ。彼らは日本での足がかりを神戸に定めて祖国での日本製マッチを普及に力を注ぐ。
 この時期、すでに横浜にもインド人コミュニティが出現しており、1923年に起きた関東大震災で在住のインド人28人が犠牲になっている。この際に彼らが横浜市民から受けた援助に感謝して寄贈されたのが山下公園にある『インド式水塔』で、現在は横浜市の『歴史的建造物』のひとつに指定されている。
 それ以降にはそれまで日本から輸出していた国々でも盛んにマッチ製造が行なわれるようになったこと、スウェーデンが巻き返しを図ったこと、インド政府がマッチ輸入に対して高率な関税を課するようになったことから、日本のマッチ産業は苦境に立つ。それを見計らったように進出してきたスウェーデン資本に国内生産のおよそ7割を抑えられてしまう。
 マッチ生産三大大国の一角とはいえ、当時の日本のマッチ製造といえば、ちょうど現在のインドのビーディー製造のごとく、家内手工業的な生産方法が主体であったらしい。近代的な技術で大量かつ安価にマッチを生産するスウェーデンの会社が進出してくるにあたり、地場資本の小規模な業者はこれに太刀打ちできずに姿を消していき、日本におけるマッチ産業は衰退していった。日本在住のインド商人たちは、『日本製マッチ』という有力なアイテムを失うことになった。
 やがて1930年代に入り、世界各地で排他的なブロック経済化が進み、続いて第二次大戦期に入ると、反英米的な地域に居住して商いを行っていたインド系商人たちには受難の時期であった。枢軸国のひとつであった日本在住のインド人たちも例外ではなく、彼らの立場は『連合国側の市民』ということになってしまう。彼らが得意とした当時の英領各地との貿易が困難となったことは、多くのインド系の人々が帰国ないしは第三国へと移動する契機となった。

燐寸博物館

マッチが結んだ日印の縁 1


 日本ではいまやマッチを手にすることはほとんどなくなった。ある時期までは飲食店や宿泊施設などに、名前やロゴマークなどが刷り込まれたマッチがよく置かれていたものだ。 
 喫煙者は肩身の狭い世の中となり、私自身もタバコをやめてしまったので特に気をつけて見ていないが、こうした需要もかなり減っているのではないだろうか。
 そのいっぽうインドではマッチがまだまだ元気だ。ワックス軸を使用したタイプもあるが、ささくれだった木製の頭薬の量も形状も一本一本違い、手作りの小箱にカラフルな絵柄の入ったマッチはなかなか味があり、切手同様に収集する人は少なくないようだ。
 マッチの歴史は1827年にイギリスで塩素酸カリウムと硫化アンチモンを使った摩擦マッチが発明されたのが始まりだ。まもなく1830年にフランスで黄燐マッチという形に改良されたものが市場を席巻することになる。
 だが黄燐の特徴として毒性が強いことによる被害が社会問題化したこと、そして頭薬部分を何に擦り付けてもパッと発火するので便利ではあったが、思わぬところで自然発火することによる事故も多発した。たとえばブーツの底でチャッと擦って点火したマッチでタバコに火をつけていたりしていたアメリカのカウボーイたちが、乗馬中に衣服のポケットに突っ込んでおいたそのマッチが突然発火し、同じ箱に入っていたいくつものマッチの頭薬とともに炎上して本人は火だるま、なんていう事故もあったようだ。また商品としてのマッチを移送中、あるいは倉庫に保管しているときに自然発火で火事ということも散発していたという。
 こうした危険性がゆえに20世紀初頭に黄燐禁止の条約が採択されて欧米諸国はこれに批准。マッチが主要な輸出商品であった日本がこの流れに同調するには1921年までかかった。
 人々はかつて日々の暮らしの中で火を起こすのに四苦八苦していたが、マッチという便利な道具の出現によりその労苦から開放された。黄燐マッチが禁止されたといっても、この手軽なツールを手放すわけにはいかなかった。
 そこで登場したのが現在販売されている安全マッチというタイプのものだ。頭薬には赤燐を使い、マッチ箱側面のザラザラしたいわゆる『横薬』で擦らないと火が付かないため安全性が飛躍的に向上した。
 日本のマッチ産業は、旧金沢藩士であった清水誠がフランス留学の際に学んだマッチ製法を持ち帰り、新燧社という企業を設立して黄燐マッチの製造に取りかかかったのがはじまりと伝えられている。先見の明のある彼は黄燐マッチの将来性を見限るや、今度はスウェーデンに渡って赤燐を使った安全マッチの製造法を学び、1879年からは早くもこちらの製造に取りかかっている。
 後に日本の主要な輸出産業にまで成長するマッチ製造業は、明治維新以降失業した旧氏族たちへの雇用対策の意味もあったという。主要原料である硫黄や木材も豊富だった日本にはまさにうってつけの産業であった。ただし労多くして実入りの少ない製造現場の仕事はそう長く続かず、これと入れ替わるようにして女性たちがこの職場に進出してくることとなる。
 マッチ産業の先駆者、新燧社に続いていくつもの後発企業がこの分野に進出してきた。日本のマッチ産業は順調に成長を続け、20世紀初頭にはアメリカ、スウェーデンとともにマッチの世界三大生産国に数えられるまでに成長した。生産量の8割が輸出に回され、貴重な外貨獲得の花形産業となった。
 当時は開拓地であった北海道で、製軸工場が地域振興の一翼を担うとともに、外界に開かれた貿易港としての性格を持つ神戸と大阪では、時宜を得た成長産業となり、ここで生産されたマッチは中国方面に盛んに輸出されることになる。この時期すでに当地に住み着いていた華僑たちの役割も大きかった。
 1880年代、そして続く90年代は日本製の黄燐マッチが中国大陸での需要とともにインドへも盛んに輸出されるようになった。インドへの輸出の際には途中で積み替えをしなくてはならなかったが、1893年には日本郵船がボンベイ直行航路を開設したことが契機となり、同国向けの輸出が急増する。商標のデザインはやはり輸出相手国の趣味に合わせたものが多い。インドへは神々、牛や象の図柄が多かったようだ。
 主な輸出先としては、インド、中国以外に東南アジア、アメリカ、カナダ、オーストラリア、ロシアなどがあった。

日本マッチ小史

第17回インド家庭用品展

 5月23日(火)から25日(木)まで、マイドームおおさかにて第17回インド家庭用品展http://www.itpotyo.org/2005tenzi/katei17.htmlが開催される。
 インド貿易振興局(ITPO)主催のこの催しには50社が出展し、インテリアファブリック各種、リネン類、ラグやカーペットその他が展示される。
 同じ会場で7月25日(火)から27日(木)まで第27回インド衣料品展も開かれる予定だ。こちらは衣類に加えてアクセサリー類や布地等が展示されるとのことである。
 日本におけるインド貿易振興局主催で毎年開かれているこれら展示会は、東京でも行なわれたこともあるが、開催数は大阪のほうが圧倒的に多い。インド産品の大口顧客は関西地域に集中しているのだろうか。
 インド貿易振興局の海外支部は、東京、ニューヨーク、フランクフルト、モスクワ、サンパウロの5ヵ所にある。日本は同国の貿易振興のカギを握る重点国のひとつであるようだ。