イラン・イラク戦争が終わって間もなかったころ、『イランへの道』と題するノートのコピーが出回っていた。インドからパキスタンを経てイランを目指す旅行者たち、あるいはそれとは反対側のトルコからイランへと向かう日本人バックパッカーたちにとって必携アイテムであった。
そのころ日本で出ていたイランのガイドブックといえば、ブルーガイドのようなパックツアー向けの主要観光地をざっと簡単に説明したようなもので、実際に自分で歩いて旅するのに役立つような情報はほとんど掲載されていなかった。
ロンリープラネットのガイドブックもまだ出ていなかった。そもそも当時、若者でさえも気軽に海外旅行に出かけるような国で、イスラーム革命後のイランに簡単に出入りできる旅行者の国籍はごく限られていた。そのひとつが日本であった。
バブル最盛期、あまりに多くの人々がイランから不法就労することを目的にやってくるのに音を上げた日本の当局が、日本とのイランの間に結ばれていた90日以内の短期滞在における査証の相互免除を取り消すまで、日本人ならば誰でもヴィザ無しで簡単に入国することができたのだ。当時、西欧の人たちは自国あるいは第三国にあるイラン大使館に観光ヴィザを申請すると、長いこと待たされたうえで結局却下されてしまうということが珍しくなかったようだ。
そんなわけで、イスファハーンやシラーズといった超メジャー観光地を訪れても西洋人たちの姿はなかった。ロンリープラネットその他から誰も訪れるはずもない土地を紹介するガイドブックが発行されるはずもなかった。
そんな具合で、イランといえば情報ノートだけが頼りだった。イランを目指すバックパッカーたちにとって、最初になすべきことは『イランへの道』を手に入れることだったのだ。
有名な土地や名所旧跡の名は耳にしたことがあっても、それらが広大なイランのいったいどこにあるのは定かでなかったし、交通網や訪れる街の規模はもちろん、どのあたりに宿があるのかも皆目見当つかなかった。
当時、イラン旅行に関するさまざまに風説が流布されていた。市中の両替レート、つまり闇両替のレートは銀行レートの14倍。イスラーム革命以来、インフレが進むいっぽう交通機関の運賃上昇が抑制されていたため、長距離バスで500キロの道のりを走っても料金は30円から40円程度、国内線飛行機でパキスタン国境近くのザヘダーンからテヘラーンまで飛んでも600円程度、首都にある旧ヒルトンホテル(革命後に接収されて地元資本化されている)やイスファハーンのアッバースィー・ホテルといった高級ホテルのツインを二、三人でシェアすれば、ひとりあたり500円から600円程度で宿泊できる等々。
こうした不思議なウワサのほとんどが往々にして事実であったが、あまりに情報が乏しく、旅行事情がどうなっているのかわからず、イランを一人旅すること自体、ほとんどのバックパッカーたちにとり、あたかも闇の中を手探りで進むことのように思われたのである。
この『イランへの道』には、出入国や厳しい外貨管理に関する注意点、両替やその方法、イラン各地の町々の簡単な紹介とアクセス、それらの土地にある名所やそこへの行きかたなどが簡潔にまとめてあった。しかもペルシャ語の数字解説や簡単なフレーズ集みたいなものも付いていた。ここまでくると、通常の情報ノートの域をはるかに超えた『ガイドブック』であったといって良いかもしれない。
コピーにコピーを重ねて文字が薄くなってくれば、それを手にした人が上からなぞって文字を読みやすくしてくれていたり、新たな情報を追加してくれていたりなどしていた。元々は同じはずの『イランへの道』だが、手に入れる場所や時期によってアップデートや追加情報の度合いの違うさまざまなバージョンが混在していた。
トルコのイスタンブル、パキスタンのクウェッタ、ペシャーワル、インドのデリーといった日本人バックパッカーの利用が多い宿に置かれていた『マスターコピー』を借りて近所のゼロックスで複写したり、あるいはイラン旅行を終えて出てきた人から譲り受けたりといった具合に旅行者たちの間に流通していた。
この『イランへの道』の原版を編纂したうちのひとりによる次なるヒット作、『イラクへの道』も、旅行者たちにとても好評であった。ただしこちらはいわゆる『アジア横断旅行』ルートから外れていること、バックパッカーたちの『拠点』に状態の良いコピーが定着する前に、イスタンブルの日本人の出入りが多いカーペット屋に置かれていたオリジナルコピーが失われてしまったこと、イラクのクウェート侵攻からなる湾岸危機、それに続く湾岸戦争などによって通常の旅行先ではなくなってしまったことなどから、前者ほど多くの旅行者たちに愛用されたわけではない。
私はその『イラクへの道』が出る前に、それを書いたTさんに同行する機会に恵まれた・・・といってもお互いフツーの旅行者同士がたまたま行く先が同じであったため、しばらく行動をともにしていただけのことだが。当時のイラクは非常に治安が良く、市民の暮らしぶりには非産油国のアラブ圏とは一線を画す豊かさがあった。社会主義を標榜するバース党の治世下、少なくともヨソ者の目にも女性の社会的プレゼンスの大きさは印象的であった。
世俗政権下ということもあり、繁華街に林立する酒場の数々、国産・輸入を問わず安価で豊富なアルコール類の恩恵にあずかることができた。アラビアとはいえ、バグダードでは夕方以降は街角で酔っ払いがクダを巻いていたりケンカしたり、はてまた酩酊してアスファルトの上に前後不覚で寝転がっていたりという様が日常的に展開される(当時)ということを知ったのは新鮮なオドロキであった。
Tさんとともにバクダード、サマーッラー、バビロンなどを訪れたのだが、案内書の類は何も無く、手元にあった旅行情報はバグダード市内の古本屋で見つけたローマ字表記の市内地図を除けば、イラク入りする前にヨルダンのアンマンで宿泊したホテルのロビーに置かれていた情報ノートに各国から来たバックパッカーたちが英語で書き残したイラク旅行の情報や印象を書き残したメモを自分で書き写したものだけだった。いろいろと自分で発見する喜びは否定しないが、いかんせん効率が悪すぎる。他国ならばガイドブックをひとめくりするだけで頭に入るようなことがここでは何もわからないので、時間と労力の無駄がとても多く、知らなかったばかりにせっかく近くまで行きながら見過ごしてしまった名所旧跡も多い。
そうした中、行く先々で精力的に歩き回り、自ら発見したものや気づいた事柄などについて、細かいメモを取っていたりするTさんの姿には驚いた。年単位の長旅を繰り返しているのにマンネリ化することなく、旺盛な探究心はいったいどこから沸いてくるのだろうか。
彼によれば、『大地のシワが多いところほど、人々のありかたも変化に富んでいて興味深い』のだという。確かに言われてみればそのとおりだと思った。人の力で越えがたい自然の障害が多いところ、山岳、大河、海峡、高地等々でさえぎられたところでは、少し先に進むだけで風物が大きく変わるものである。この人は今も長旅を繰り返しており、こうしている今も地球のどこかで熱心にメモを取り、詳細な地図を描いていることだろう。
『イランへの道』も『イラクへの道』もそれを書いた個々の人たちや加筆した旅行者たちも何の報酬を得ているわけでもないしそれを期待しているわけでもない。ただ旅への情熱と情報を他のバックパッカーたちと分かち合いたいという気持ちが情報ノートというカタチを取って現れ、それを必要とする人々から共感とともに強く支持されていったのだろう。
もちろん『旅行情報』とはいう、旅行人という会社によるガイドブックはれっきとした商品だ。旅行者たちが勝手に書き足したりコピーしたりする情報ノートとはまったく違う性格のものであることはいうまでもない。それでもやっぱり旅を愛する人たちの熱い気持ちが誌面からヒシヒシと伝わってくる。
こういうガイドブックが出回るようになった今、旅行好きにとって本当にいい時代だと思う。
投稿者: ogata
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『情報ノート』に想う 2
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『情報ノート』に想う 1
インドを紹介するガイドブックは数多いが、東北部に特化したものはこれまで少なくとも日本語で書かれたものはなかった。
このほど旅行人ウルトラガイドのシリーズの『アッサムとインド東部』が発行されたが、これが初めてのものとなるのではないだろうか。インド北東部七州のうちの四つ、アッサム、アルナーチャル・プラデーシュ、メーガーラヤ、トリプラーの各州の旅行情報が記載されている。おかげでこの夏以降、この地域を訪れる日本人が急増(?)するのだろうか。
この旅行人ウルトラガイド/旅行人ノートと題するガイドブックのシリーズには『客家円楼』『海洋アジア』『西チベット』といった、旅行先としてはマイナーな地域をカバーしたもの、そして『シルクロード』『アジア横断』『アフリカ』のようにまとまった期間で長距離を旅するバックパッカー向けの本もあり、日本国内の他社から出たガイドブックとは一線を画している
この中にはインドものもけっこう出ており、先述の『アッサムとインド東部』以外にも『ラダック』『インド黄金街道』『バングラデシュ』が発行されている。
読者層が幅広く、利用者たちからの豊富やフィードバックも多いロンリープラネット社のような古参の大手会社と違い、新たなガイドブックを編纂するのはとても骨の折れる作業に違いない。それだけに手にとってめくってみれば、作り手の情熱や書き手の思い入れが伝わってくるようだ。旅行を産業として眺めた場合、かなりニッチな市場に特化しており、対象となる地域も記事内容もまた商売っ気がないのだが、旅に必要な情報を淡々と語る生真面目な旅行案内書だ。
そんな飾り気のなさからだろうか、インターネット出現前に旅行者たちの溜り場に置いてあったり、コピーが旅先で出会う人たちの手を介して伝えられていったりした『情報ノート』を彷彿させるものがある。
今ではちょっとネットにアクセスするだけで、いろいろな旅行関係のサイトや掲示板などで情報が入手できたり、何か大きな出来事が起きれば、まさに『今この瞬間』の情勢を伝えあったり意見を交換できたりする。だから書いた先から内容が風化してくる雑記帳の存在意義はなくなった。
けれども『情報ノート』が重宝がられていたのはそんな大昔のことではない。世の中の誰も彼もがパソコンでインターネットに接続するようになり、どこに行ってもネットカフェの看板が見られるようになったのは、Windows95が発表とともに爆発的に売れ始めたころ、そう90年代半ば以降からのことだと記憶している。
ともあれ、取材者(たち)が額に汗して現地をリサーチしてまとめてくれた旅行ガイドブックの価値は今も昔も変わらない。情報ノートの書き込み同様、これとて時とともに事情は変わってしまうのだが、大量の断片的な情報が手のひらのうえでひとつの本の中に系統立ててキチッと納まっていること、目次や索引などから必要な情報を必要とするときにすぐに取り出せることに存在意義がある。『案内書』とは本来そういうものだ。 -
αの復活

かつて一眼レフのオートフォーカスの先駆者であったミノルタ。合併してコニカミノルタとなってから一眼レフ機のデジタル化に出遅れたものの、完成度の高いα7 DIGITALそして 廉価版のαSweet DIGITALと、内容の濃い骨太モデルを投入して巻き返しを図ったもの時すでに遅く、デジタル化に先行したキヤノンとニコンの前になすすべもなかった。今年春先にはファンから惜しまれつつもカメラ事業の舞台から退場することとなる。
このため一時は消滅するのかと思われていた『α』ブランドが息を吹き返した。このたびソニーから期待のデジタルカメラが発表された。7月21日に発売される同社最初のデジタル一眼レフ機は、その名も『α100』である。
ミノルタ伝統のカメラ事業をそっくり引き継いだソニー。いったいどんなカメラが登場するのか興味津々だったが、やはり旧ミノルタの偉大な資産、αシリーズを継承したことで長年のミノルタファンはホッと胸をなでおろしたことだろう。これまでのコニカミノルタの路線を継承するものであり、旧来のシステムをそのまま使用できるからだ。
すでに購買予約受付は始まっている。ボディのみの価格は10万円前後となる見込みらしい。コニカミノルタ時代のモデルよりも強化された手ブレ補正機能 (2〜3.5段分)がレンズではなくボディ自体に組み込まれているのはありがたいし、レンズ交換の際などにCCD表面に付着しがちなゴミへの対策も織り込まれているのもいい。もっとも後者については、本来すべての一眼レフデジタルに装備されているべきだと思うのだが。
第一作目は旧メーカーのブランドネームや既存システムといった資産を活用し、従来のαシリーズの路線を踏襲したものとなった。新規参入ながらも、旧来からのコンポーネンツやユーザー等をそのまま引き継いでいるのは強みだ。新モデルのデザイン、操作スイッチ類の配置、設定等に関する液晶画面の表示方法なども、旧メーカーのものを踏襲しているようだ。従来からのαシリーズのユーザーたちからは好感を持って迎えられるのではないだろうか。また購入検討中の潜在的顧客層からみても、ソニーはこの分野では未知数のメーカーだが、あの『ミノルタの後継者』ということから安心して購入できるのではないだろうか。
コニカミノルタの写真事業撤退以来、カメラ屋で同社製品は投売り状態だったり、ショーケースの隅っこに置かれたりするようになっていた。ところがこのところちょっとした異変が起きているのだ。東京中野にあり名前がよく知られた大きなカメラ屋さんでは、店舗入口真横に『α』コーナーが設けて、ソニーによる新生α広告チラシとともに、ミノルタ時代、コニカミノルタ時代のαシリーズの在庫を並べて、『お一人様一点限り』で売り出しているのだ。ソニー効果で急に需要が出てきたらしい。またお店にとってはこの機会を利用して売り切ってしまいたいところなのだろう。
既存の路線をそっくり受け継いだように見えるα100は、とりあえずは試運転といったところなのだろう。発売後の反応などを見てから、ソニー独自のカラーを強く押し出したモデルが登場してくるに違いない。
カール ツァイスとの共同開発レンズを含めた21本の交換レンズ群も順次発売予定とあるし、その他様々なアクセサリー類も続々投入される予定だ。今後の進展から目が離せない。光学機器メーカーが長年育んできた優れた技術とハイテクメーカーによる卓越した画像処理テクノロジーの融合。この夏、新生αの逆襲が始まる。
被写体の宝庫インドでどんなカメラを使うか。目的や好み人それぞれだが、こうして次第に選択肢が広がっていくのはうれしいことである。もちろんレンズを含めた周辺機器類も合わせると高額な買い物となるため、目移りしてもすぐ他社のものに乗り換えるわけにはいかない。これまでコンパクト機のみ使ってきた人たちが一眼レフに乗り換える例がとても増えていることもあり、デジタル一眼レフ市場はこのところやたらとホットで、わずかここ数年の間に急速に成熟しつつある。
ともあれどんなタイプのモデルであろうと、お気に入りのカメラを片手に試行錯誤しながらインドの美しい風景を切り取るのは楽しいものである。 -
舌がキレイすっきり

日本人の間で舌こき、つまり舌を掃除する習慣は一般的ではない(・・・と思う)が、ここ数年の間にドラッグストアその他で『タング・スクレーパー』なる商品名でプラスチック製のものが目に付くようになってきた。欧米メーカーの製品が多く数百円程度で購入できるのだが、どれも使い勝手はあまり良くない。このタング・スクレーパー、由来をネットで検索するとインドのアーユルヴェーダに結びつけた記事がよく目に付くのだが、実際のところどうなのだろうか?
中世ヨーロッパで使われていたベッコウ製の舌こき、中国の清朝時代の銀製のものなどが現在もどこかに保管されているようなので、インドの専売特許というわけではないのかもしれない。
近ごろは口臭予防や虫歯を防ぐといったことだけではなく、舌の上に蓄積される『舌苔』は有害な細菌類やウィルスが繁殖する温床となりやすいため、まめに除去することが勧められている。これを実践するだけでインフルエンザにかかりにくくなる、なんていう話さえあるくらいだ。
私も4、5年前から毎日朝夕に実行するようになっている。気をつけていても虫歯ができやすく、どうにかならないものかと思い試してみたのだ。・・・といっても歯磨きをしてデンタルフロスで歯の間をきれいにしてからササッと舌を擦って掃除するだけなのだが。
ところが不思議なことにその後新たな虫歯は発生していない。おまけにカゼもほとんどひかなくなった。この間、身体を鍛えたわけではないし、病気に対する抵抗力が付く理由もないのだが。だからといってこれを舌掃除の効果と結び付けてしまうのは早計ではあるものの、一度習慣になってしまうと外泊の際に舌掃除の道具をうっかり持参していないとなんだか落ち着かなくなるものだ。
目下愛用しているのはインド製のステンレスのタング・スクレーパー。舌掃除の本場(?)インドで、多くの人々が日々これを実践しているのかどうかは知らない。でもバザールで簡単に入手できて、価格も数ルピー程度と安価であるにもかかわらず使用感はすこぶる良い。先述の中世ヨーロッパや中国で使われていたものと形状はほとんど同じだ。人々の生活の中ですっかり完成されたカタチなのかもしれない。インドの生活用品の中で、これはスグレモノのひとつである。 -
食卓にIndia !

Made in Indiaではないのだが、インドな(?)マグカップを発見。即購入して手元にあるので撮ってみた。
逸品社のSugar Landブランドで発売されているこのシリーズの国旗マグカップのバリエーションは現在27ヶ国。側面全体に国旗があしらわれており、イギリスのユニオンジャック、米国の星条旗などはやたらと派手で、中国の五星紅旗のカップもとってもヴィヴィッドだ。真ん中に赤い丸がポコッと入った日の丸マグもなかなか愛らしく、インドものと並んでこちらもマスト・アイテムだと思う。
ところでTiranga netには旗サイズの号数と対応する用途が示されていた。このマグカップにデザインされた旗はテーブルフラッグ用の9号にほぼ相当するみたいだ。机の上にそっと飾っておくのもいいかも?

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旅行に最適な一本!

先日は『旅行仕様の楽しいカメラは?』で、旅先で手軽かつ便利なカメラについて考えてみた。今回は旅先にレンズを持っていくなら何だろうかと探ってみることにする。もちろん身軽であることを大前提である。あえて一本でだけ持参するならば何か、最も便利なものはどれだろうか。
汎用性という部分を重視すれば、画質に優る単焦点レンズよりもズームレンズということになる。このところコンパクトデジタルカメラの高級機種購買層がデジタル一眼レフ汎用機種にシフトしていることが示すとおり、主要各社ともこのタイプのカメラは高級なものからエコノミーなタイプまで、ほぼ出揃ったようだ。それだけに数年前までは『デジタル一眼専用設計』(35mmサイズよりひと回り小さいAPS-Cサイズのセンサーを持つカメラ用)なんてコトバが新鮮に響いたものだが、いまやこの手の様々なタイプのレンズが大量に市場に出回るようになっている。
銀塩カメラやデジタル一眼レフでも最高級クラスで『フルサイズ』つまり35mmサイズのセンサーを装備したものよりも画角が狭くなる。そのため焦点距離の1.5〜1.6倍くらいの描画となってしまうため、従来使われていたレンズを装着すると望遠側に有利だが広角側が弱いなんて言われていたのも今や昔。 APS-C自体の画角に合わせた規格のレンズが各社から続々出ているため、もはやそんなことを口にする人はいなくなった。
しかしこの『デジタル専用』レンズはフルサイズのセンサーを持つカメラで使用すると、元来の画角の違いから周辺がケラれてしまうため使えない。そのため昨年発売になったキヤノンの5Dの例に見るように、フルサイズのデジタル一眼レフが次第に低価格化してきたら、それまでに買い揃えたAPS-C用レンズを見捨てて飛び着くか、それとも高級機はフルサイズ、汎用から中級機クラスはAPS-Cといった棲み分けが今後も続いていくのか、気になる人は少なくないだろう。
ともあれ一眼レフレンズとしては手頃な価格帯かつ汎用性の高いタイプの中で魅力的なレンズはいろいろある。シグマの30mm F.1.4 EX DC HSM は、35mm換算でほぼ従来の標準レンズに相当する画角だ。開放値がとても明るく描写も美しい優秀なレンズである。普段、便利だからとズームレンズばかり使っている私などは、このレンズを手にするとあらためて単焦点のレンズって違うなあ・・・と感心してしまう。
ズームレンズではタムロンのベストセラーAF28-300mm Super Zoom F/3.8-5.6 Aspherical XR [IF] MACROはデジタル対応のDi仕様となり相変わらずの人気らしい。だがこれでは広角側が不足して困るではないか・・・と思っていたら、2004年に出たシグマの18-125mm F3.5-5.6 DCは大きな反響を呼んだ。
やっぱりこういうレンズを待っていた人は多かったのだ。何しろこういうカメラは重くて大きい。持たなくてはならない荷物は他にもある。『どれか一本だけ付けて出かけよう』となれば、広角から望遠までひとつでカバーできるものがあればありがたい。このタイプのレンズ、続く2005年には同じシグマから望遠側の焦点域を大幅に伸ばした18-200mm F3.5-6.3DC、そして同社のライバルであるタムロンからはAF 18-200mm F/3.5-6.3 XR Di II LD が発売となり、『これは便利だ』と飛びついた人は多いのではないかと思う。年末近くなってからはニコンからAF-S DX VR Zoom Nikkor ED 18-200mm F3.5-5.6G (IF)という同じ焦点域ながらも手振れ補正機能、しかもその効果たるや4段分というからスゴイ。このテのレンズの真打登場といったところだろうか。個人的にはニコンを所持していないので使うことができない。購入を検討するわけにもいかないのは残念である。
でもよくよく思えば、ただ旅行するだけで200?の焦点域、35mmカメラ換算でなんと320mm!なんていう超望遠を利用することなんてほとんどないと思う。
従来、一眼レフの交換レンズにおける手振れ補正機能といえば、焦点域が特に長い超望遠レンズによく付いているが、それ以外でISつまり手振れ補正が付いたものは今のところあまりなかった。私自身は2004年に発売されたキヤノンのEF-S 17-85mm F4-5.6 IS USMを使ってみてとても感心した。開放値がやや暗いのは気になるが、三段分の補正機能は、特に薄暗い朝夕の手持ちで撮る際、あるいは屋内での自然光での撮影など、旅先での大きなアドバンテージであろう。テレ端は85mmだが35mmカメラ換算で136mm。このくらいあれば充分だとは思う。
超広角ズームも各社からいろいろ出ていて面白い。場合によってややエキセントリックな画となるかもしれないが、キヤノンのEF-S10-22mm F3.5-4.5 USMは非常に重宝かつ楽しいレンズだ。つまり従来の35mm銀塩カメラに換算すれば、16mm〜35mm程度に相当するのだ。16mm!というややムチャな画角で撮っても歪みは想像していたよりもずいぶん少なく、一見マトモな絵に見えてしまうのがうれしい。胸のすくような広がりを写せるし、あるいはスペースの関係で後方に引くことができないところでも非常に便利である。試しに猫の額ほどの中庭しかない(失礼!)東京代々木上原の東京ジャミーで一枚撮ってみた。もちろん10mm(35mm銀塩換算で16mm)の広角端を使用した。ここを訪れたことのある方ならば、このレンズの効果のほどはお判りいただけると思う。

ぜひバッグの中に常時放り込んでおきたい一本ではあるが、やや特殊なこのレンズでなんでもかんでも撮るわけにはもちろんいかない。
また出かけた先でブツ撮りもやってみたい。するとちゃんとしたマクロレンズも欲しくなるのだが、こちらもやはり必要に応じてのワンポイント起用になるはずだから、『これ一本で』の候補にはなりえない。欲しいものすべてをうまく掛け合わせたものはないものだろうか・・・。
そうした中で、今年2月に出たシグマのレンズはとても気になっている。17-70mm F2.8-4.5 DC MACROは、『被写体に寄れるデジタル専用大口径標準ズームレンズ』とのこと。最短撮影距離はズーム全域で20cmだそうだ。コンパクトデジカメと違って一眼レフの場合、この距離とは銀塩カメラのフィルム面に相当するセンサー表面からの距離なので、実際のワーキングディスタンスはわずか3cmほどになってしまうのだからスゴイ。被写体にレンズがカチンとぶつかりそうなくらい接近できるのである。ウェブ上で作例や製品レビューなどを見てみると、なかなか評判が良いらしい。
35mm換算で27mmから112mmほど。望遠域はやや弱いとはいえ、もともと銀塩時代は今のデジタル一眼レンズみたいな超高倍率なものはなかったし、このくらいが最も実用的ではないかと思う。ズームレンズとしてはかなり明るいF2.8というのもうれしい。しかも本格的なマクロ機能付きとくれば、すぐにでも飛びつきたくなってしまう。これならば特に他のレンズを携行しなくても不便は感じそうにないし、埃っぽいインドでレンズ交換の際、センサーに向かってドカドカと大小のゴミが飛び込んできて付着するのに悩まされなくて済みそうだ。
あれこれ考えていると私自身が買う気に満ちてきてしまった。人それぞれ写真を撮る目的は違うし、好みや考え方だっていろいろだろう。あくまでも私個人の独断であり、しかも性急すぎるかもしれないが、このレンズこそ現在『インド旅行に最適な一本!』と言い切ってしまおう。 -
欧州発 北アフリカ行きの白人奴隷たち
大航海時代以降、世界各地に植民地を拡大していき支配地で権勢を振るった西欧列強、そしてアフリカから南北アメリカ大陸に導入された黒人奴隷たち、アジアその他の地域で過酷な労働・生活環境の中で生涯を送った中国やインドなどからの契約移民たちのことはよく知られているところだ。
だがそのいっぽう、サレー、チュニス、アルジェといった北アフリカの港湾地域を根城とするイスラーム教徒の海賊たちにより航海中の欧州人たちの商船が襲われるのみならずヨーロッパ各地の沿岸部が北アフリカからやってきた荒くれ男たちに攻撃されることは珍しくなかったことだ。もちろんその数や規模は先述の黒人奴隷や契約移民の数とは比較にならないはずだが、主にその海賊たちにより拉致されてモロッコを中心とする北アフリカ諸国で売買される欧州出身の白人奴隷たちがいたということに気を留める人はあまり多くない。
このたび『奴隷となったイギリス人の物語』という本を手にとってみて、パラパラとめくってみるとなかなか興味深い内容であったので、じっくり読んでみることにした。著者の記すところによれば『1550年から1730年の間、アルジェには約2万5千人の捕虜(欧州人)が絶えず存在していた』『300年あまりの間に少なくとも100万人の白人たちが不当に連行された奴隷交易があった』のだという。
タイトルには『物語』とあるが、史実をもとにしたノンフィクション作品だ。この本の中で主人公的な立場にあるトマス・ペローなる人物が見聞したとされる出来事などが下敷きとなっており、欧州やアラビアの歴史資料などによる肉付けがなされたということである。
舞台は18世紀初頭のイギリスとモロッコ。イギリスのコーンウォールで生まれた10代前半の利発な少年トマス・ペローは、おじが船長を務める商船『フランシス号』の船員として乗り込んだものの、海賊船に拿捕されてモロッコの奴隷として売り飛ばされてしまう。彼は当時マラーケシュから遷都し、メクネスを首都としていたアラウィー朝の支配者ムーレイ・イスマイルのもとで奴隷として仕えることになる。
当初は建築作業現場で他の欧州人奴隷たちとともに危険な作業に従事させられた。そして暴力とともに改宗を迫られて、生き延びるためにやむなくイスラーム教徒となってからは、非凡な知力と資質を買われて宮廷内の警護を経て最前線で闘う兵士として取り立てられたことになっている。その後幾多の危機を乗り越えて運良く帰国できたのは出航してから23年後であったとのこと。
ムーレイ・イスマイル率いる強大なアラウィー朝とその庇護下で暗躍していた海賊たちの前に、なす術もなく恐れおののいていた欧州(人たち)という図式はなかなか新鮮であった。
ただ気がかりな部分も多い。不運にも奴隷とされた白人たちの悲劇がテーマになっているため仕方ないのだが、視点は常に捕虜となり奴隷として売られた欧州人たちの側にあるがゆえに『欧州=賢き善なるもの』そして『イスラーム世界=狡猾にして悪辣なるもの』という図式に終始していることである。
強権政治、建築への情熱、豪勢な生活、そして数百人規模のハーレムなどで知られたムーレイ・イスマイルは、モロッコの歴史の中でも特に大きな足跡を残した人物のうちのひとりである。もちろん彼は暴君として悪名高くさまざまなネガティヴなイメージも持つ人物であったにせよ、彼の治世で国は繁栄するとともに市民生活のレベルもかなりのものであったようだ。当時の王都メクネスはユネスコの世界遺産にも指定されている。
もちろん『為政者』について現在のそれと同じ尺度で語ることはできるはずもないが、それなりに有能な統治者であったことは否定できないだろう。だが書中では、このモロッコの君主については奇行や蛮行ばかり描かれていること、そして次から次へと様々な登場人物が出てくる中で、地元モロッコのイスラーム教徒たちの中で人情味を感じさせるキャラクターはほとんど見当たらないのである。
特にニューヨークで2001年に起きたテロ事件以降、イスラーム世界に対するネガティヴなイメージが広がっている昨今、ムスリムの人々に対する偏見や誤解を植え付ける可能性もあり、ちょっと危険な図書ではないかとも思われた。
捕虜となっていた白人たちの出身国は、イギリス以外にもフランス、スペイン、ポルトガル、そして独立前のアメリカなど実に多岐にわたっていたそうだ。どこも自国民の救出についてはそれなりの外交努力は払っていたらしいが、興味深いことにクリスチャンから改宗してムスリムになった者については救出の対象にはならず、そうした囚われの自国民の数にも加えられなかったのだという。それほど当時のヨーロッパでは、『キリスト教徒であること』は、ある意味生まれや血筋よりも大切なものであったようだ。
ちなみにトマス・ペローは軍の駐屯地を脱走して野山を越えて港町に出て、欧州の商船に接触することに成功、つまり自力でモロッコを後にしたとのことである。
ともあれ、これまであまりなかった視点によるヨーロッパとイスラーム圏の交流史のひとつとして大変興味深い本であった。
奴隷になったイギリス人の物語
ISBN4-7572-1211-9
ジャイルズ・ミルトン 著
仙名紀 訳
株式会社アスペクト
原題はWHITE GOLD (GILES MILTON著ISBN: 0340794704) -
上海経由でインドに行こう!

日本からインド行きのフライトといえば、昔からバンコクやシンガポールなどといった東南アジアの街を経由して行く『南回り』が当たり前だと思っていたのだが、今や『北回り』ルートもごくフツーになっているようだ。中国東方航空による上海経由デリー行きである。大手旅行会社も『中国東方航空で行くデリー』として売り出している。
半年ほど前、人民日報日本語版に『中国東方航空、インド人客室乗務員を採用』という記事が出ていたが、ついに6月3日からその乗務員たちが中・印間の路線に3〜4名ずつ乗務することになったようだ。
各国航空会社の国際線で様々な国の人々が乗務しているのだから、こういうことがあっても不思議ではないのだが、中国の航空会社にインド人乗務員というのは初めてとのことで、『歴史的』な出来事といえるかもしれない。
もっともインド人スチュワーデスの登場そのものよりも、中国の航空会社がインド人乗客をそれほどまでに意識してきていること自体が大きな変化であることはいうまでもない。
東方航空 インド女性が客室乗務員に、中国で初めて(中国情報局) -
マッチが結んだ日印の縁 2

日清戦争期(1894〜95年)には日本在住の華僑たちが帰国したことによる物流ネットワークの停滞、戦時のため労働力が不足するなどといったこともあったようだが、それでもマッチ産業は順調に成長を続けていたという。
黄燐マッチの製造禁止は、それまで主にこれを製造していた大阪のマッチ産業に打撃を与えた。それでも第一次世界大戦(1914年〜18年)のころには、当時のマッチ大国スウェーデンからの輸入がほぼストップしたスキを突いて、インド市場では日本製マッチがシェアを拡大させた。
この際に取引の中で重要な役割を担ったのが、当時すでに上海や香港といった中国大陸の拠点に進出していたインド系商人たちだ。彼らは日本での足がかりを神戸に定めて祖国での日本製マッチを普及に力を注ぐ。
この時期、すでに横浜にもインド人コミュニティが出現しており、1923年に起きた関東大震災で在住のインド人28人が犠牲になっている。この際に彼らが横浜市民から受けた援助に感謝して寄贈されたのが山下公園にある『インド式水塔』で、現在は横浜市の『歴史的建造物』のひとつに指定されている。
それ以降にはそれまで日本から輸出していた国々でも盛んにマッチ製造が行なわれるようになったこと、スウェーデンが巻き返しを図ったこと、インド政府がマッチ輸入に対して高率な関税を課するようになったことから、日本のマッチ産業は苦境に立つ。それを見計らったように進出してきたスウェーデン資本に国内生産のおよそ7割を抑えられてしまう。
マッチ生産三大大国の一角とはいえ、当時の日本のマッチ製造といえば、ちょうど現在のインドのビーディー製造のごとく、家内手工業的な生産方法が主体であったらしい。近代的な技術で大量かつ安価にマッチを生産するスウェーデンの会社が進出してくるにあたり、地場資本の小規模な業者はこれに太刀打ちできずに姿を消していき、日本におけるマッチ産業は衰退していった。日本在住のインド商人たちは、『日本製マッチ』という有力なアイテムを失うことになった。
やがて1930年代に入り、世界各地で排他的なブロック経済化が進み、続いて第二次大戦期に入ると、反英米的な地域に居住して商いを行っていたインド系商人たちには受難の時期であった。枢軸国のひとつであった日本在住のインド人たちも例外ではなく、彼らの立場は『連合国側の市民』ということになってしまう。彼らが得意とした当時の英領各地との貿易が困難となったことは、多くのインド系の人々が帰国ないしは第三国へと移動する契機となった。 -
マッチが結んだ日印の縁 1

日本ではいまやマッチを手にすることはほとんどなくなった。ある時期までは飲食店や宿泊施設などに、名前やロゴマークなどが刷り込まれたマッチがよく置かれていたものだ。
喫煙者は肩身の狭い世の中となり、私自身もタバコをやめてしまったので特に気をつけて見ていないが、こうした需要もかなり減っているのではないだろうか。
そのいっぽうインドではマッチがまだまだ元気だ。ワックス軸を使用したタイプもあるが、ささくれだった木製の頭薬の量も形状も一本一本違い、手作りの小箱にカラフルな絵柄の入ったマッチはなかなか味があり、切手同様に収集する人は少なくないようだ。
マッチの歴史は1827年にイギリスで塩素酸カリウムと硫化アンチモンを使った摩擦マッチが発明されたのが始まりだ。まもなく1830年にフランスで黄燐マッチという形に改良されたものが市場を席巻することになる。
だが黄燐の特徴として毒性が強いことによる被害が社会問題化したこと、そして頭薬部分を何に擦り付けてもパッと発火するので便利ではあったが、思わぬところで自然発火することによる事故も多発した。たとえばブーツの底でチャッと擦って点火したマッチでタバコに火をつけていたりしていたアメリカのカウボーイたちが、乗馬中に衣服のポケットに突っ込んでおいたそのマッチが突然発火し、同じ箱に入っていたいくつものマッチの頭薬とともに炎上して本人は火だるま、なんていう事故もあったようだ。また商品としてのマッチを移送中、あるいは倉庫に保管しているときに自然発火で火事ということも散発していたという。
こうした危険性がゆえに20世紀初頭に黄燐禁止の条約が採択されて欧米諸国はこれに批准。マッチが主要な輸出商品であった日本がこの流れに同調するには1921年までかかった。
人々はかつて日々の暮らしの中で火を起こすのに四苦八苦していたが、マッチという便利な道具の出現によりその労苦から開放された。黄燐マッチが禁止されたといっても、この手軽なツールを手放すわけにはいかなかった。
そこで登場したのが現在販売されている安全マッチというタイプのものだ。頭薬には赤燐を使い、マッチ箱側面のザラザラしたいわゆる『横薬』で擦らないと火が付かないため安全性が飛躍的に向上した。
日本のマッチ産業は、旧金沢藩士であった清水誠がフランス留学の際に学んだマッチ製法を持ち帰り、新燧社という企業を設立して黄燐マッチの製造に取りかかかったのがはじまりと伝えられている。先見の明のある彼は黄燐マッチの将来性を見限るや、今度はスウェーデンに渡って赤燐を使った安全マッチの製造法を学び、1879年からは早くもこちらの製造に取りかかっている。
後に日本の主要な輸出産業にまで成長するマッチ製造業は、明治維新以降失業した旧氏族たちへの雇用対策の意味もあったという。主要原料である硫黄や木材も豊富だった日本にはまさにうってつけの産業であった。ただし労多くして実入りの少ない製造現場の仕事はそう長く続かず、これと入れ替わるようにして女性たちがこの職場に進出してくることとなる。
マッチ産業の先駆者、新燧社に続いていくつもの後発企業がこの分野に進出してきた。日本のマッチ産業は順調に成長を続け、20世紀初頭にはアメリカ、スウェーデンとともにマッチの世界三大生産国に数えられるまでに成長した。生産量の8割が輸出に回され、貴重な外貨獲得の花形産業となった。
当時は開拓地であった北海道で、製軸工場が地域振興の一翼を担うとともに、外界に開かれた貿易港としての性格を持つ神戸と大阪では、時宜を得た成長産業となり、ここで生産されたマッチは中国方面に盛んに輸出されることになる。この時期すでに当地に住み着いていた華僑たちの役割も大きかった。
1880年代、そして続く90年代は日本製の黄燐マッチが中国大陸での需要とともにインドへも盛んに輸出されるようになった。インドへの輸出の際には途中で積み替えをしなくてはならなかったが、1893年には日本郵船がボンベイ直行航路を開設したことが契機となり、同国向けの輸出が急増する。商標のデザインはやはり輸出相手国の趣味に合わせたものが多い。インドへは神々、牛や象の図柄が多かったようだ。
主な輸出先としては、インド、中国以外に東南アジア、アメリカ、カナダ、オーストラリア、ロシアなどがあった。 -
第17回インド家庭用品展
5月23日(火)から25日(木)まで、マイドームおおさかにて第17回インド家庭用品展http://www.itpotyo.org/2005tenzi/katei17.htmlが開催される。
インド貿易振興局(ITPO)主催のこの催しには50社が出展し、インテリアファブリック各種、リネン類、ラグやカーペットその他が展示される。
同じ会場で7月25日(火)から27日(木)まで第27回インド衣料品展も開かれる予定だ。こちらは衣類に加えてアクセサリー類や布地等が展示されるとのことである。
日本におけるインド貿易振興局主催で毎年開かれているこれら展示会は、東京でも行なわれたこともあるが、開催数は大阪のほうが圧倒的に多い。インド産品の大口顧客は関西地域に集中しているのだろうか。
インド貿易振興局の海外支部は、東京、ニューヨーク、フランクフルト、モスクワ、サンパウロの5ヵ所にある。日本は同国の貿易振興のカギを握る重点国のひとつであるようだ。 -
エヴェレストが不調?

かつて世界最高峰エヴェレスト(8850m)登頂は『不可能』であるとされていた。しかし『奇跡』を達成したのは1953年に頂上を目指したエドムンド・ヒラリー、テンズィン・ノルゲイ両氏。1969年にアポロ11号が世界初の月面着陸に成功したのと同じく、彼らは人類の歴史に燦然たる足跡を残したと言って差し支えないだろう。
その後、山岳や気象等に関する情報や知識の充実、登山技術の発達や装備の進歩などにより登頂がより容易になるにつれて、各国の登山隊が登頂を記録するようになり、世界最高峰征服は『快挙』に格下げとなる。
エヴェレスト他の八千メートル級の峰への登山経験の蓄積がクライマーたちの間で共有されるようになるとともに、登山隊を送り出す各国の経済発展を背景に、登山隊の資金力も増大したことがこの傾向に拍車をかける。
英国山岳会により1921年から始まった登山史だが、当初は測量や地理調査などを目的とし、究極的には政治的・軍事的な意図を背景とする事業であった。だが第二次大戦後は登山という行為そのものがスポーツとして世の中に定着することになった。男性たちにやや遅れてやがて登山の世界に進出してきた女性たちも果敢に挑戦し、その中から次々と登頂者が出てくるようになってくる。
このころには単に頂上を目指すのではなく、無酸素登頂やどのルートから登るかということに新たな価値が出てくることになった。つまり頂上という同じ地点を目指すにあたり、より難しい条件を付けて他者よりも高いハードルをクリアすることが目標とされるようになってきた。
そうした中で近ごろ一番ホットなのは、ここ数年次々と記録が塗り替えられている『スピード登頂』記録ではないだろうか。ベースキャンプから頂上に到達するまで20時間台であったものが、12時間台、10時間台、そしてついには8時間10分と、どんどん短くなっていく。このあたりは若手シェルパの独壇場で、他国のクライマーにはつけ入る余地はないようだ。
またエヴェレストをどう攻めるかだけではなく、2002年に63歳で頂上に立った渡邉玉枝氏(女性最高齢登頂)、2003年5月に70歳で登頂した三浦雄一郎氏(世界最高齢登頂)といった年齢に挑戦するものもあれば、世界の他の名峰を含めた『七大陸最高峰征服』という荒行や『全八千メートル峰制覇』などという神業であったりもする。ところで地球上に存在する八千メートル級の山14座、つまりエヴェレスト、K2、カンチェンジュンガ、ローツェ、マカルー、チョオユー、マナスル、ダウラギリ、ナンガーパルバット、アンナプルナ、ガッシャーブルム?&?、ブロードピーク、シシャパンマとすべてがヒマラヤ山脈にあるのだから、まさに『世界の屋根』の偉大さを感じずにはいられない。
これらの中で最も広くその名が知られているのはいうまでもなくエヴェレストだが、登頂すること自体が達成可能な現実となるとともに、この山の『大衆化』(・・・といってもズブの素人である一般大衆がそこを目指すわけではないが)が始まることになった。今ではいわゆる『ヤマ屋』の人たちがそれぞれのレベルで実行可能な『目標』となったと言って差し支えないだろう。それなりの素質とガッツのある人たちにとって、もはや『信じることができる』現実的な夢なのだ。現在、エヴェレストでは1シーズンに数百人ものクライマーたちが行動するのだという。初登頂から半世紀以上経った今、エヴェレスト登頂の意味は大きく変わっている。
エヴェレスト登山の裾野の広がりは、同時にいくつかの問題をも生んでいる。 登山家の野口健氏の『エベレスト清掃登山』http://www.noguchi-ken.com/message/cate/ev_clean/index.html活動により日本でも広く認知されるようになったように、『世界の屋根』という本来ならば辺境であるはずの地域におけるゴミ問題もそのひとつだ。シーズンにおいては登山許可の申請が込み合うことのみならず、登山ルートで物理的に渋滞が起きていることも一般に知られるようになった。
また登山の大衆化による事故の増加も懸念されている。Jon Krakauerによるノンフィク ション作品『Into Thin Air』(ISBN ISBN: 0385494785)で取り上げられたように、 1996年は不順な天候のためもありエヴェレスト登山史上最悪といわれる年であった。このシーズンはエヴェレスト以外でもヒマラヤの各地で多くの事故が相次ぎ、日本人女性も犠牲になっている。 世界的に有名なクライマーが経験の浅い登山者を率いて頂上を目指すいわゆる『ガイド登山隊』が増えてきていることについて、一般に知られるようになったのもこのころからである。
2003年のシーズンにはエヴェレスト頂上に立ったクライマーは過去最高の261名を数え、翌2004年には登頂者数が通算2200名を超えたと日本山岳会会報(2005年2月号) に記されている。
物理的に『地域振興』が難しいヒマラヤ地方にあって、現実的な『村おこし』とはやはり観光ということになる。登山人気は単に頂を目指す玄人のみならず、日帰りのハイキングから始まり一週間程度の軽いトレッキング、あるいは山岳の景色をゲストハウスのベランダから眺めて満喫、滞在先付近の山里の様子を見物するなど、様々なカタチで風光明媚な土地を楽しみたい観光客たちをもひきつけてくれる。いや数のうえではむしろそういう人たちのほうがはるかに多く、本格的な登山の季節以外でも日々地元にお金を落としてくれるのだ。
自国の高峰を舞台にした登山家たちの活躍のニュースとともにメディアに流れるヒマラヤの風物は、そうした観光振興のため非常に有効な宣伝にもなることは言うまでもない。こうしたものがなければ、この地域の自然や風物、人々の暮らしや文化が今ほどに外の人々の関心を引くこともなかったのではないだろうか。
登山家ならずとも、私たちそれぞれの興味の範囲でいろいろと楽しむことができるヒマラヤは、それをいただく国々はもちろんこの大地に暮らす私たちみんなが共有する貴重な財産でもある。
だがこのエヴェレスト周辺地方で近年の気象の変化が懸念されている。それは氷河の後退や降雪の減少であったりするが、ここ数ヶ月の間でも従来はなかった現象が見られるのだという。それはほとんど雪が降らない冬と春先の豪雪。はてまた4月に入ってから3日間続いた吹雪などである。
気候というものは毎年同じものではなく、時に暑くときに寒く、多雨であったり少雨であったりといろいろデコボコがあるもの。『平年並み』とは近年の平均値でしかなく、何をもって異常気象と呼ぶのかよくわからないこともあるが、とかく自然や気候といったものは相互に作用しているもの。ヒマラヤの変調については、私たちもちょっと気にかけていたいものだ。海原や大地でさえぎられていても、結局ひとつづきの同じ地球なのだ。
Everest weather’s ups and downs (BBC South Asia)
