奇妙な捻じれ

最高裁の命令により調査チームを受け入れさせたバナーラスのギャーンヴァーピー・マスジッド。ヒンドゥー寺院であった確固たる証拠があったとして、ここでプージャーを行なうことを求めるヒンドゥーの原告側が「バーバーがおられた」とし、ムスリム側は「何も見つからなかった」。シヴァのリンガムらしきものの痕跡が見つかったとのことのようで、さらに確固たる証拠として、リンガムに向かい合わせるナンディの姿がないか調べるという方向らしい。

ここにあったヒンドゥー寺院をモスクに転用したということは、もともと古くから伝えられてきた史実のようで、そのような例はここに限らず、とりわけインド北部や西部には多い。

ここはムガル朝のアウラングゼーブ帝の時代に転用されたとのこと。1991年にアーヨーディヤーのバーブリー・マスジッド(ラーマの生誕地とされる場所にあった寺院で、やはりムガル帝国時代にモスクに転用された。1992年に右翼に率いられら暴徒たちが破壊。インド各地にコミュナルな暴動が連鎖)問題のとき、こちらもやり玉に上がっていた。

現在はムスリム以外は立ち入り禁止の施設として現在に至っている。近年、右翼勢力はこうしたムガル時代に起きた賛ムスリム的な事象を反ヒンドゥー=反民族=反国家的な過去で、それを取り戻すことが愛国的な行いであるかのように煽る。同時に植民地時代の反政府テロリストたちを反英愛国者と持ち上げ、さらには1857年の大反乱を「インド最初の独立闘争」と位置づける。

するとこの時代の歴史解釈の根本的な部分に、奇妙で大きな捻じれが出てくるのだが、これについてはどう辻褄をつけるつもりなのだろうか。

多数はヒンドゥーのインド人傭兵たちの勢力がインド各地で当時の東インド会社軍に対して反乱を起こし、その勢力が合流しながら当時の統治の拠点を次々に陥落させていった。火の手がデリーに及んだときに彼らが集結して反乱のシンボルとして担ぎ出したのはムガル最後の皇帝、バハードゥル・シャー・ザファル。

それまで英国人指揮官の元で働いてきた無名のインド人兵士たちが求めた権威は、当時すでに権勢は衰えて威光の及ぶ範囲は「デリー周辺」でしかなかったムスリム王朝の当主であった。劣勢に継ぐ劣勢で追い込まれたイギリス側は、それでも内部の立て直しと反乱の及んでいなかった南部等からの援軍などで反攻に出たわけだが、その際に大きな力となったのはパンジャーブ及びその近隣地域のスィク教徒勢力。

英国当局が比較的短期間に力を回復して、反乱勢力を退治して粛清、軍の再編、英国人社会の綱紀粛正、英国本国では東インド会社の解体とインド省による直接統治へと急転換していくことになる。現在も軍や警察などでスィク教徒のプレゼンスが高いのには、反乱平定後に親英・尚武の民として重用されたことが背景にある。つまりムガルこそが独立運動の先駆けの象徴であり、スィク教徒は親英の売国勢力であったことになってしまうため、極右勢力によるムガルを「侵略者」と位置付けと、極右勢力を含めたインドの広範囲での「1857年の大反乱はインド最初の独利運動」という定義は相反するものになるのだ。

Decoded: What is the controversy over Varanasi’s Gyanvapi Masjid? (India Today)

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