目の前はブータン 7 やがて個人旅行解禁か?

 ブータンもようやく総選挙による民政移管が予定されている。2008年までに現在のジグメ・ワンチュク国王が退位して子息のジグメ・ケサール・ナムギャルに王位を譲り、総選挙による多数政党による民主主義体制へと移行するというものだ。
 昨年末にはその王子がデリーを訪問してインドのマンモーハン・スィン首相その他要人たちとの顔合わせを済ませている。その際に新聞に掲載されていた写真を見て私は「キャプションが間違っている。写っているのは王子ではなくて現国王ではないか」と思ってしまったほど父親の国王によく似ている。しかも年齢もほぼ同じに見えるという老け顔(失礼!)の持ち主である。なにしろ額の後退具合も父親そっくりなのだから。それでも父親譲りの知的でハンサムな風貌であることは言うまでもない。
 ブータンでの体制が大きく変わるということ、それによって民主化が実現されるということの意味はとても大きい。社会の様々な分野から民意を問うことになるので、「鎖国」という極端な政策を続けることはできなくなるのではないだろうか。
 本来民主化と商業化は決して同義ではないのだが、民主主義というシステムの中で『オカネ』のパワーがいかにすさまじいものであるかということは、私たちがすでに日々の体験から学んでいることである。結果として実業界の発言力がとても強くなるはずだ。
 それは観光の面でも相当大きな変化をもたらすような気がする。グループツアー以外の外国人の観光が一気に解禁となるかどうかはさておき、少なくとも段階的には自由化されていく、あるいは相当緩和されるのではないだろうか。
 ブータンの人々は、ネパールやインドなどの周辺国を見て、観光収入による恩恵の大きさについては重々承知しているはずだ。その恩恵にあずかることを期待する人々は多いだろう。ブータンの強みとしては、インドやネパールの経験から学べることがとても多いことである。
 今はまだ産業としての『観光』は政府によってガッチリ管理されているが、それでも『Xデイ』に向けて、様々な調査や研究が着々と進められていることと思う。諸外国から観光開発に関する専門家なども少なからず招聘されているのではないだろうか。そして近い将来の自由化を期待してひそかに事業展開の構想を温めている実業家たちも少なくないのではないはず・・・と想像している。
 観光化にあたってブータンの強みは豊かな観光資源と桃源郷のイメージだけではない。英語が広く通じるということも加えられる。またインドから入国する観光客からしてみれば、インドルピーがそのまま等価で通用することもメリットとして挙げられるかもしれない。
 こうした動きについてインド側とて期待せずにはいられないのではないだろうか。「ブータンへの道」にあたる北ベンガル、そして周辺地域としてのアッサムその他東北諸州の観光発展への一助となる。ひょっとするとインド東部を含めたこの地域が、南アジア観光のひとつの大きな目玉になってくることもありえない話ではないだろう。
 それだけにはとどまらないかもしれない。2007年までにインドとミャンマー間の鉄道をリンクさせる計画もある。まずは東北諸州国境地帯の政治と治安の安定が先決だが、『観光圏』として将来的にはさらなる広がりが期待できそうだ。このあたりが「後背地」から脱皮して経済的にも自立したひとつの「核」となる可能性も秘めているのかもしれない。
 経済発展という観点からは、あまりパッとしない東部インドだが、現状が振るわない分、今後大きく伸びる余地も大きい。良くも悪くもインドとブータンは友好国以上の関係であり、ひとたび外国人の旅行がブータンで自由化されれば、その効果はインドの東部にも及ぶことが期待できるのは間違いないだろう。
 まだ自由に訪れることができなかった80年代後半までのラオスをふと思い出した。当時、旅行者たちはタイの国境の町ノンカイで、メコン河対岸の密林地帯を眺めて、「ああ対岸はラオス」と想ったものである。しかし89年に個人旅行解禁となり、渡し舟でメコン河を渡り「ああ、やっとラオスに来た」と喜んだものだ。  
 その後、タイとの間は渡し舟ではなく大きな橋で結ばれるようになり、行き来がより簡単になった。ラオスでは旅行ブームが続き、タイなどの近隣国からも、欧米その他の先進国からも人々が大挙してやってくるようになり今に至っている。
 かくして旅行事情なんてあっという間に大きく変わってしまうものだ。向こう五、六年のうちには「あのときはジャイガオンまで来たのに隣町のプンツォリンに入れなくてね」なんていうのが昔話になっていることと思う。

目の前はブータン 6 恩田くん

 早朝、バスの中で出発を待っていると外で騒ぎがあった。一人の二十歳そこそこくらいの若い男が即東部から血を流している。タオルで押さえているが、ひどい怪我のようだ。 周囲の人たちはしきりに「誰にやられたのか」とたずねている。
 そうこうしているうちに、彼のケンカ相手らしき30代くらいの男が、すごい形相でやってきて怒鳴り散らしてさらに殴りかかっていく。若い男は体を丸くして必死に耐えている。あたりの人々は黙って険しい表情で見ているだけだ。暴力を振るっている者は、地元のヤクザかチンピラなのだろうか。
 すぐ近くの三叉路のロータリー に、いるはずの(まだ時間が早すぎたのか?)の警官たちがいない。ポリスステー ションもここからすぐ目と鼻の先だというのに。
 こんな具合でドタバタしていたブータンゲート前のバザールだが、ここからバスは定刻の午前7時に出発。私がこの日利用するバス、実はインドのものではない。ブータンのバス会社による運行である。ローカル交通機関もなかなかインターナショナルなこの地域だ。今日の目的地カリンポンまではおよそ6時間の道のりである。
 隣に座ったのはブータン人学生。カリンポンでエンジニアリングカレッジに通っているのだそうだ。ブータンには大学がふたつしかないため競争が激しく、こうしてインドに進学する学生は多いのだそうだ。
 彼の名前はONDAという。日本人によく似た顔立ちのため、漢字で「恩田」という文字が頭に浮かんでくる。同じ学校にオランダ人学生がふたりいるのだそうだ。何を学んでいるのだろうか。家族やガールフレンドの写真だと、カメラ付き携帯電話の画面を見せてくれた。こういう機器の普及は、日本もインドも同時進行である。
 平地では見渡す限りきれいに刈り込まれた茶畑の美しい景色が続く。そして山地に入ってからは、渓谷や眼下を流れる青い流れ。日本のそれとあまり変わらない山の風景となる。 
 川にはニジマスなどがいるのではないだろうか。天気は快晴、日差しがポカポカと暖かく心地よい。何かの仕事でこういうところにしばらく滞在できたらいいなと思う。
オンダ君はインドで10年近く学んでいるらしいが、この国はあまり好きになれないという。「不正直な人が多いし、なにかとゴタゴタが多いし、町中の人々のマナーも悪い。とにかく疲れるね」とのこと。
 またブータン人の間にはインドに対して複雑な感情があるのだともいう。ひとつはさまざまなものがやってくる先進地であり、ファッションなどの影響も大きい。しかし政治的にインドに首根っこを押さえられているため反発も少なくないという。圧倒的なスケールを持つ大国に従属国する小国の弱みであろう。
 だがよくよく話してみればボリウッド映画ファンにしてクリケット狂の彼にとって、インドでの学生生活はまんざらではないようでちょっと安心した。
 途中ストップしたドライブインで、彼とダール、ナーンそして魚のフライの昼食。オンダ君の父親はバスやタクシーなどのオーナーだそうだ。彼はときどき帰郷しては、外国人相手のツアーガイドのアルバイトをしているとのこと。チップがけっこういい収入になるのだという。
 その後、山地に入りときにゆるやかでときに険しい坂道をバスは進む。カリンポンが近くなると、英語の看板でナントカリゾートとかナントカロッジ、ゲストハウスホテルなどといった看板がいくつも見えてきた。

目の前はブータン 5 早朝のアザーン

 ホテルの裏手ではかなり大きなモスクの建築工事が進行中であった。他にもいくつか作りかけのモスクがあることから、この新興地ジャイガオンにもムスリム人口が急速に相当数流入していることをうかがわせる。
 今朝は午前5時過ぎに近所のモスクから信者の人々へサラート(礼拝)を呼びかけるアザーンの大音響で目覚めた。イスラーム教徒たちは集住していることが多いものの、都市部ではかなり入り組んでいたりするし、ムスリム地区に隣接する他コミュニティの住宅地域だってある。大まかにムスリム地区とくくられるとこにあっても、すべての住民がそうであるとはいえない。 非ムスリムの人も幼いころからそうした環境の中で暮らしていれば、ごく当たり前の生活音として慣れっこになっているかもしれないし、インドには朝早い人が多い(?)ので、ちょうど目覚まし代わりになって便利なところもあるかもしれない
 しかし不幸にしてそう思わない人々もあるかと思う。近隣にモスクがない場所に生活してきた人が引っ越してくると、「何だ、こりゃ!」ということになるのではないだろうか。 
 特に出自、信仰、出身地の違う人々が混住する都会にあって、コミュニティ間の距離感というか、ある種の緊張感というものには、こうした音に由来するものも少なからずあるのではないだろうか。そうでなくても『音』というものは、どこの国にあっても住民間のトラブルの原因の最たるもののひとつなのだから。
 それはともかく、アザーンの呼びかけにスピーカーを使用するようになったのは20世紀前半あたりではないかと思うのだが、そもそも一番はじめにこれを始めた地域は一体どこだったのだろうか。古来ずっと行なわれてきたムアッジン(アザーンを行なう人)の肉声を電気的に拡大することについての是非をめぐる議論も、きっとどこかであったのではないかと想像しているのだが、実際のところどうなのだろう。どなたか詳しい方があればぜひ教えていただきたいと思う。

目の前はブータン 4 ジャイガオンに来る人々

 想像していたとおり、ジャイガオンの町中の人々の多くはヨソ者であるらしい。町としての歴史は非常に浅く、交易の拠点として注目されるようになってからインド各地(主に北部と東部)から人々がドッと流入してきて形作られたタウンシップであり、小さな町でありながら多文化・多人種からなるコスモポリタンな性格を持つ。
 中心部から東西南北どちらに向かっても5、6分も歩けば町外れに出てしまうような田舎町であるにもかかわらず、モノが非常に豊かであることは特筆すべきである。有名ブランドのオーディオ機器、さまざまなカッコいいバイクや新車のショールーム、最新の家電製品、高級なシャンデリア等の室内装飾用品などが小さなバザールにぎっしりとひしめいている。
 露店ではインド映画の様々なタイトルのVCDやDVDの海賊版とともに、珍しい(少なくとも私にとっては)ブータン映画や人気歌手のミュージッククリップの類も販売されている。うっかり買いそびれてしまったが、いくつか購入しておけばよかったと後から思う。
 話は戻る。いくらモノが豊富に出回っているからといっても、ここに暮らす人々が裕福でそれらをバンバン消費しているというわけではもちろんない。ここがインド・ブータン間の物流拠点であるためだ。まさにそのため外の地域から、商売人たちはここでビジネスを立ち上げるため、またお金やノウハウを持たない人々はここで雇用にありつくために集まってくるのだろう。
 ブータン観光の拠点として、インド人観光客の訪問も多いようだ。そうしたツアーグループと昼食の席で隣になったが、食事が終わるとツアコンが全員からパスポートを集めるとともに、いくつかの注意を参加者たち与えていた。
 いっぽう国境の反対側からやってくるブータンの人々はどうだろうか。ジャイガオンを訪れて、織物や衣類、家電製品に貴金属類などそれぞれの得意分野で商談をする買出しのプロたちは決して目立つことなく黙々と仕事をこなしているのだろう。私のようなヨソ者の目によく止まるのは日用品の買出しのためにやって来たと思われる一般市民たちの姿である。もちろん自家用車を運転してくる家族連れなんていうのは、特に恵まれたごくごく一部の人たちに過ぎないに違いないはずだが、あまりにその数が多いのには驚いてしまう。
 週末にシンガポールの人たちが国境のコーズウェイを渡り、物価の安いマレーシアに買い物に出かけているイメージが頭に浮かんだ。彼らがあたかも経済的に優位にある国の人たちであるかのようにさえ見えてしまう。車種はインドで走っているものと同じだが、ゾンカ語の入った赤いナンバープレートが「ブータンから来たもんね!」と静かに自己主張している。
 こうした裕福な人たちがちょっと高めのレストランで食事を楽しむ姿もよく見られた。そうした場所では往々にして『ブータン料理』のレパートリーも提供されていた。
 ブータンには自動車産業が無いため、バス、トラック、自家用車などすべてインドのものをそのまま輸入している。国内その他の産業もパッとしないことから、マーケットの規模はたいしたことないが、さまざまな耐久消費財の供給をインドに大きく依存していることは想像に難くない。それにちょっとした日用品や加工食品などでさえも、インド企業の独壇場ではないだろうかと推測できるし、ひょっとすると肉や野菜といった生鮮食品についても似たようなことが言えるのではないかと思う。だが実際ところどうなっているのだろう?
 世界のさまざまな国々からブータンに経済援助の手が差し伸べられているが、地理的・政治的なもののみならず、日常生活で手にするモノという観点からも隣国インドのプレゼンスは圧倒的なものであろう。
 モノやおカネのやりとりが盛んでヨソから来た人々の往来も多いとなれば、おそらくここは夜の町も相当なものではないかと推測される。この町のどこかにはインドやネパール各地から『就労機会』を求めてやってくる水商売の女性たちの姿、それらを取り仕切るアンダーグラウンドな世界が広がりを見せていることだろう。世の中どこにいっても、こうした場所が発展するところにはたいてい似たような土壌があるものだ。文化や民族は違っても、こういうところはあまり変わらないように思う。
 私たち一般の外国人にとって、ジャイガオン/プンツォリン国境は、ここから先は自由に出入りできない『地の果て』となっているが、ブータン側から見れば陸路で大きく外界に開け放たれた扉である。
 通りに面した二階のカフェに席を取る。隣の席でおしゃべりに興じている若者たちに話しかけてみると、やはりブータンから来た人たちであった。注文したコーラが運ばれてきた。私はさきほど市内で見つけたブータンの英字紙KUENSELを広げ、目の前にそびえるゲートの向こう側の国に思いを馳せてみた。

目の前はブータン 3 インド通貨同様に通用するブータンのお金

ブータン通貨はインドルピーと等価
ジャイガオンに来てから食事をしたり買い物をしたりすると、しばしばお釣りがブータン通貨ニュルタムで渡される。国境の町なのでインド・ブータン両国のお金が広く流通しているのだ。おそらくブータン側でも同じことだろう。インドルピーと等価なのでなおさらのこと使いやすいといえる。この町を通じて両国の経済がいかに深く関わっているかということを端的に表しているともいえる。
珍しいお札やコインが手に入り最初はうれしかったが、あまりに人々がニュルタムを渡したがるのには閉口した。 ここは国境だからいいとしても、この町から離れればブータン通貨など受け取ってもらえないはずだからだ。 いくら等価とはいえ、外国紙幣であるブータンのお金がインド国内で法的な効力を持つわけではない。便宜上、習慣上日常の小さなやりとりについてはルピー同様に市中で扱われていても、たとえば銀行への預金や決済などといった正式な取引について、この外国通貨をそのまま使用することはできないはずだ。
つまり当地における「正式なお金」ではないため、商売人たちは手元になるべくルピーを残し、お客にはニュルタムを渡すことを選好しているように私には感じられた。