ミャンマーでは独立後に教育や行政で用いられる言語におけるビルマ語化を積極的に進めたため、旧英領の割には英語の通用度は著しく低い。英文による出版活動にも非常にさみしいものがあるようで、市中の書店を覗いてみても、新聞や雑誌等に英文のタイトルが付いていても、中身はすべてビルマ語である。
例外的にThe New Light of Myanmarという英字紙が出ているが、ページは少ないし、中身も政府の公式発表ばかりなのでちっとも面白くない。
そんな中で、ヤンゴンのダウンタウンにおいて、特に北インド系の住民が多い地域では、ヒンディー/ウルドゥーを話すことができる人たちが多いだけでなく、そうした人々同士が、これら『父祖のコトバ』で話しているのを耳にする機会は多い。
それでも彼らがこうした言葉で出版活動を行なっているわけではなく、あくまでも日常生活の中での会話でのみ使われているという具合のようだ。独立まもない時代には、インドの各言語、中国語等による新聞なども出ていたそうだが、現在のミャンマーにおいて、これらの言語による出版の自由はない。
幾度かヤンゴンを訪れて散策してみた印象でしかないので確かなものではないが、特にインド系のモスクが存在する地域で、彼ら自身の民族の言葉を使うことができる人の割合が高く、彼ら同士がこれで会話しているのを耳にする頻度が高いように感じられる。もちろんインド系ムスリムとしてのアイデンティティということもあるかと思うが、宗教を通じた言語教育もなされているのではないかと想像される。
そのインド系ムスリム地区の真っ只中にあるのがこのシナゴーグだ。以前も書いたとおり、18世紀初頭から、現在のイラクやその周辺から渡来したユダヤ教徒たちがラングーンに定住するようになっていたものの、彼らが本格的にコミュニティを形成するのはイギリスが下ビルマに支配を確立した1852年の第二次英緬戦争以降とのことである。
イギリスによる支配とは、つまり当時の英領インドによる軍の遠征と領土の併合であったことから示唆されるとおり、それ以降この地に定住したユダヤ教徒とは、インドのボンベイ、コーチン、カルカッタなどから渡ってきたユダヤ教徒がマジョリティを占めるようになり、1885年の第三次英緬戦争で当時のビルマの王朝が滅亡し、翌1886年にインドに併合されると、さらに彼らが勢いを得ることになる。
米、チーク材、綿花などの輸出業をはじめ、この時代に盛んであったアヘン取引はもちろんのこと、軍需にかかわる物資の交易に従事して富を築いた者も多く、行政当局との繋がりが深く利潤の高い取引を通じて、経済的に高い地位を得ることになる。
1937年にインドと分離して英連邦内の自治領となった後、アウンサン率いるビルマ義勇軍とこれに協力した日本軍によるイギリス勢力の駆逐、日本軍がインパール作戦に敗れた後に1945年に連合軍による当時のビルマの奪回、1948年に英連邦を脱して独立国家としてのビルマ連邦の成立といった一連の大きな動きの中で、彼らの多くはインドに戻ることになった。
かつて帝国主義勢力の片棒を担いで繁栄を謳歌していたユダヤ教徒たちにとって、ビルマ人たちが主権を回復しての新生国家は決して居心地の良いものではなかったようだが、彼らのほとんどがこの地を捨てて国外に活路を求めることになった決定的な事件が1962年に起きた軍によるクーデターだ。
ネ・ウィン率いるビルマ社会主義計画党による急進的な国粋主義化、とりもなおさずビルマ民族主義化という流れの中で、多民族から成るモザイク国家における総人口の7割近くを占めるビルマ族の民族文化を前面に押し出した政策により、シャン族、カレン族その他の少数民族の不満が高まることになる。
だが主に都市部に集中する外来のユダヤ教徒たちは、もはやイギリスという大きな後ろ盾もなく、存亡の危機を迎えることになった。その結果、今日ヤンゴンに残っているユダヤ人は、わずか8家族に過ぎないとされる。
以前、ヤンゴンのインドなエリア(4)で取り上げたが、2007年にネピドーに遷都されるまでミャンマーの首都であり、今でもこの国最大の都市でもあるヤンゴンには、シナゴーグがある。

以前ここに夕方来たときは、中に誰もいないようで見学することができなかった。今回は昼前にやってくると、通りに面した門は鍵を閉ざしているものの、声をかけてみると世話人らしき者が『何か御用で?』と、やや不審そうな面持ちで出てきた。インド系男性で、この人はヒンディー語を話す。
ヤンゴンのユダヤ人コミュニティのことに関心があり、中を見学したい旨伝えると、『さあどうぞ』と、門を開けてくれた。中の建物は普段は施錠してあり、中に入ることはできないとのことだが、朝10時から正午までの責任者が来ている時間帯のみカギが開けてあるので入ることができるとのことだ。

1854年の建設当初は木造であったが、その後1893年から1896年にかけて、現在のレンガ造りのものに建て替えられたものであり、そのことが建物の礎石にも記されている。
あいにく責任者の男性は席を外しているとのことで会うことはできなかったが、名刺だけもらっておいたが、これがその後訪れたユダヤ人墓地で役に立つことになった。
シナゴーグはインド系ムスリム地区の真っ只中にある。敷地内で雇われている使用人たちはすべてムスリムであり、責任者だけがユダヤ教徒なのだそうだ。パレスチナ問題と合わせて、イスラーム教徒とユダヤ教徒が対立する存在であるように描かれることが多い。
だが、それ以前にはアラビア各地で同じ啓典の民としてそれなりの庇護を与えられ、ムスリムたちと共に繁栄してきたことは広く知られているとおり、ここヤンゴンにおいては同じインド系住民として互助的なつながりのもとに共存してきたことをうかがわせる。
今ではほとんど消滅してしまったのも同様のユダヤ教徒コミュニティと記念碑的に存在しており、定期的な礼拝も行なわれていないというシナゴーグだが、毎年イスラエルやアメリカからユダヤ同胞団体がここを訪れ、施設保守等の目的で相当額の寄付を置いていくのだそうだ。
門を開けてくれた男性に、ユダヤ人墓地の場所を尋ねると、ここからそう遠くないところにあることがわかった。Bo Min Yaung RD.とMyanma Gone Yi St.の間にある91st St.という細い道にあるとのことだ。ここも普段は施錠されているが、昼間ならば墓守がいるから、ここで中に入る許可を得たことを伝えてくれと言う。

タクシーで向かうと、そのエリアはタミル系住民が多く住む地域らしく、それらしい人々の姿や南インド式のヒンドゥー寺院などが目に入る。
『ここがそうだと思う』とタクシー運転手が指差した先には、塀の向こうに茂みが広がるのみ。墓地らしき風情は見当たらず、近くの雑貨屋に入って尋ねると、ちょうどそこで買い物をしていた男性が日本語のできる人だった。
『東京、千葉や茨城に住んで仕事をしていたことがあります。もうずいぶん前に帰国したんですが』
チャーリーと名乗る彼はアングロ・バーミーズで、風貌からしてインド系にも見えるとのことで、東京都内のある有名なインド料理店で働いていたこともあるそうだ。
『すぐ近くですから』と彼は墓地まで案内してくれた。彼は墓地のすぐ隣の古めかしいアパートの5階にて、家族5人で暮らしており、いつも家から墓地を眺めていると言う。
彼の父親が子供のころには、墓地は近所の同年代の子たちの遊び場になっていたそうだが、今では高い塀に囲まれ、入口には門番が常駐するようになり、普段入ることができなくなっているそうだ。
ゲートに着くと、案の定施錠されており、管理人らしき初老のヒンドゥー女性とその関係者(?)らしき複数の人物に声をかけると、入場を断られたものの、さきほどシナゴーグでもらっておいた責任者の名刺を見せると、すんなりと中に入れてくれた。ゲートの外からならば構わないが、中に入ってから写真は撮らないでくれとのことだ。

比較的広い敷地の中には、沢山の墓石がある。中にはいくつか英語も併記されているものもあるが、ほとんどヘブライ語で記されているので、何が書いてあるかわからず、どういう人物がここに埋葬されているのか見当もつかないのは残念である。
墓地の中を散策しながら、チャーリーさんの話を聞いているうちに、どうやら在日ミャンマー人の中に共通の知人がいるらしいことに気がついた。世の中とは案外狭いものであることを実感しながら、しばし世間話をしながら午後の暑い時間帯をのんびり過ごした。
カテゴリー: travel
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インドの東5 シナゴーグとユダヤ人墓地
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インドの東4 バガンの宮殿

昨年1月に落成したという宮殿に行く。もともとバガンにあったものを再建したものだという。木造である。しかしながらあまりに新しいということもあり、映画のセットみたいな感じだった。ここも入場料5ドル。地元の人は500チャットだ。博物館入場料も同様だが、展示物等の内容に比してずいぶん高いな・・・と感じずにはいられない。
旅行に関して、この国のシステムは特殊であるといえる。まず外国人に対して、米ドル現金払いが求められるケースが多いこと。代表的なもの一例としては、以下の事柄が挙げられる。
・ホテルの宿泊費
・メジャーな観光地の入場料
・出国の際の空港税
また両替について、基本的に市中で行なうことになる。銀行などの金融機関や両替商として店を構えたものではなく、一般の商店とりわけ貴金属商、みやげもの屋、ホテルなどで、市中の実勢レートで交換するものである。
ヤンゴン市内のごくごく一部を除き、現地通貨チャットに交換できるのは、米ドル現金のみとなる。国際キャッシュカードで現金を引き出せるATMなど存在しないし、買い物その他の支払いについて、ごく一部の外資系ホテルを除き、クレジットカードやトラベラーズチェックは利用できないため非現実的だ。また5%程度の手数料がかかる。
米ドル現金しか使えないことについては、まずはチャット換算の際のレートについて、公定レートと実勢レートの間にあまりに大きな乖離があることもあるが、アメリカによる経済制裁もその理由として挙げられる。
国際的な金融システムから切り離された形になっているため、普段私たちが旅行の際に利用する金融商品を用いることができないのである。この点については北朝鮮やキューバと事情は共通している。
限られた期間のみ、旅行で訪れる私たちは特にこれでも構わないのだが、例えばこの国から外国に留学しようという場合、とても厄介なことになる。
ミャンマー政府が市民に対して国外への外貨送金を認めていないこと、チャットという通貨が国外で通用しないため、これによる国内での預金が外国でそれ相応の資産と認められない。もちろんミャンマーにも経済的に豊かな層は一部存在するのだが、受け入れ側の国に対して、学生が経済的な支弁能力を立証する術がない。
例えば日本に留学したいという場合、ミャンマー国内在住者による私費での支弁という形はまずあり得ない。支弁する人がミャンマー国外で収入を上げて貯蓄しているのでないと門前払いとなる。
もちろんミャンマーから国外に送金するルートがないわけではない。インドやパーキスターンの闇送金と同じシステムがあるが、『闇で貯め込んだ米ドルをハワーラー送金により学費・生活費を支弁します』などという理屈が通るはずはない。
ミャンマー人が日本で暮らす際、東京のミャンマー大使館に月の収入の10%を『税金として納める』という奇妙な決まりもある。国外で発生した収入に対して、同国政府が課税する権利はないはずなのだが、同国政府の貴重な外貨獲得手段のひとつとなっている。
政府が発行するパスポートの有効期限が2年間と短いこともあり、うっかりしているとすぐに失効してしまう。在留中、もし税金とやらを支払わないと、どういうことになるのかは火を見るより明らかだろう。
ただし留学生についてはこれを免除するということになっていることから、ミャンマー人留学生が来日して学校に通うようになってから、まず最初にしなくてはならないことが、在学証明書を取得して、大使館に提出することである。
かなり脱線してしまったが、話はバガンに戻る。遺跡巡りをしている際、物売りの子供たちがあちこちから出てきて、あれやこれやと売ろうとするのだが、彼らが手にしていた品物の中で、唯一私の興味を引くものがあった。

小説家ジョージ・オーウェルの処女作、BURMESE DAYS(邦題:ビルマの日々)である。
こんなところで売られているものなので、バガンの空港の入域料徴収担当者が販売していたのと同じ海賊版である。イギリス版のPenguin Booksのコピーだが、夕方以降出かけるところもなく、読めそうな印刷物も見当たらないバガンの夜は退屈だ。ガイドブック以外に本や雑誌類を持ってきていない私にとって大変ありがたい。
ジョージ・オーウェルは、1903年に現在のビハール州のモーティハリ生まれのイギリス人。少年時代をイギリスで過ごして教育を受けたが、もともと彼の親族が当時の英領インドに多く暮らしていたこともあってか、長じて彼が赴いた先は当時インドの一部となっていた現在のミャンマー。インド帝国警察のオフィサーとしてしばらく過ごした経験がある。おそらくそこで彼が見聞したことが下敷きになっていると思われるこの小説の舞台は、植民地経営にたずさわる役人や事業家などが暮らす、マンダレーの近くの田舎町。
イギリス人たちのクラブを中心とする狭い社会の中で、そこに出入りする人々、英緬混血児、新天地に移住してきたインド人たち、彼らに様々な形でかかわる地元民たちの人間模様が闊達に描き出されている。植民地における在住イギリス人たちの暮らし、彼らと地元の人々等とのかかわりを考えるうえで興味深い作品のひとつである。
夕方、宿に戻ってシャワーを浴びてからゆっくりとページをめくる。あたりを見回してみると、国が独立したこと、電気が通じた(といっても、自家発電機がなければ、送電は夜間に数時間しかないようだ)ことと、水道が引かれたことを除いては、この小説の舞台となっている1920年代に比べて、ミャンマーの田舎の人々の暮らしのありかたはあまり大きく変わっていないのではないかと思われる。そんなことに妙な臨場感を感じたりもするのははなはだ残念なことであるのだが。 -
インドの東3 バガン遺跡巡り

朝方まだ涼しいうちに宿の近くのレンタサイクル屋に行き、まずはマーケットで午前中開かれている朝市に行く。ここでは野菜、果物や魚などが売られている。ドリアンを手に入れたかったのだが、残念なことに見つからなかった。

上ビルマでは一般的にドリアンはあまり好まれないため、下ビルマほどふんだんに売られていないのだということは聞いていたが、このマーケットでも、早朝にはチョコッと並ぶが、すぐになくなってしまうとのことだ。ちょっと残念である。
朝市の主役は女性たちだ。男性で何か商品を持ってきてここで売っている人は皆無ではないにしても、朝市においては見渡す限り売り手はほぼ全員女性。昨日訪れた近くの屋根付きの常設の市場のほうには男性もけっこういるのだが、朝市に限っては、売り手も買い手も圧倒的に女性が多い。
これがインドであれば、売り手はほとんど男性、買い手も多くが男性ということになるのだろうが。女性が外でよく働いているという点では、他の東南アジア各地と共通とはいえ、北東インドのモンゴロイドがマジョリティのところにも通じるものがある。
さまざまな新鮮な食材を目にすると、ちょっと料理の腕(・・・というほどのものではないのだが)を奮ってみたくなった。

余計なことかもしれないが、少々気になることがある。町のあちこちに井戸があるのはいいのだが、縁の部分がごく浅く、中には深い漆黒の闇。枯れているものも少なくないようだが、ちゃんと水をたたえているものもある。小さな子供はもちろんのこと、大人でも酔っ払いは要注意かもしれない。

尼さんたちが托鉢している町中を抜けて、遺跡が散在するオールドバガン、ミィンカバー方面へと向かう。自転車があると身軽だ。沿道の遺跡を訪れたり、道路から外れた砂地の轍の上をなぞりながら、彼方に見える仏塔を目指したりする。
カラカラの大地に点在するサボテン。バガンの大地が『テキサスに似ている』というアメリカ人がいたが、確かに西部劇風の荒々しい風景である。そんな中に散在、ところによっては林立している、と表現してもよいくらい沢山の優美なパゴダの姿がある眺めは、その場に身を置いてみても、まるで夢を見ているかのようで、現実感が薄い気がする。
ところでサボテンといえば、このあたりに幾種類か繁殖しているが、その中で最も特徴的なのはこれだろう。

大きくなると、幹は普通の樹木のような有様になる。育ちに育って『巨木』になっているものもある。しかし枝から先はまぎれもないサボテンだ。しかしながら幹の部分の比重があまり大きくないため、あまりに立派に成長しすぎると、自重を支えきれなくなる傾向がある。幹がボキッと折れて倒れているものをいくつも見かけた。何とも因果で気の毒なサボテンである。
昼近くなると、次第に気温が上がってきて汗だくになる。このところ日中の最高気温は40℃を越えているのだとか。これまでミネラルウォーターを三本飲み干している。木陰でお客を待ち構えている露店で、コーラを飲みながらしばしベンチの上でグデッとノビていると、熱くて乾いた空気が肌を撫でていく。
しばらく休んでいると、シャツもズボンも乾いたが、上から下まで真っ白に塩を吹いている。水分とともにそれほど大量の塩分が体から失われたのだ。疲れるはずだ。喉の渇きと疲れが癒えると、空腹感が頭をもたげてきた。
付近で簡単に昼食を済ませた後、ふたたび自転車にまたがって遺跡巡りをする。大きな寺の内部は、非常に風通しがよくなっている。石の床に座ったり、ゴロリと寝転んでみると実に快適だ。
インドやスリランカから強い影響を受けた建築が多いが、大きな構えの割に内部空間は広くないし、ここで多数の人々が集まることができるようにもなっていない。南アジアの建築において、イスラーム教の与えた影響がいかに大きいかということを、東南アジアの最西の国ミャンマーでひしひしと感じる。
建てた時期も異なるため、様々なスタイルのパゴダが存在しており興味深いが、その内部に鎮座する仏像は、往々にして現代のパゴダで見るものと同じようなマンガチックなものが多い。

博物館に足を向けてみると、当時のいろいろな仏像の展示がある。石造ひとつとっても砂岩、大理石その他、素材はいろいろある。また木彫やそれに漆を塗ったものもあり、どれも趣のある美しい仏像だ。
もちろん現在の各遺跡において、安置されている仏像が皆安っぽいとは言わないが、玉石混交といった具合だろうか。それでも往々にしてのっぺりとした、今のミャンマーのお寺に普遍的に存在するものをよく目にした。
事前に想像していたよりも、バガンの遺跡は非常によく修復や手入れがなされている。しかし壊れたパゴダを復元するのは結構なことであるとしても、細部に渡りその時代の様式に対する正確な考証や配慮が必要だろう。しかし今のミャンマーに、そこまで期待するのは酷だろうか。
ヒンドゥー寺院、ナッフラウン寺院内では、観光客たちに売るための絵を描いている男がいた。あたかも彼専用のアトリエがごとく、本堂内のかべのあらゆるところに、彼の作品が架けられており、本来そこに祭られている神像がすっかり萎縮しているような状態でびっくり。足を踏み入れた際、私はてっきり『画家の私邸』かと思ったくらいだ。特に大きくて有名な史跡ではまずそういうことはないようだが、やや格が下がってくると、史跡内部を仕事場や店舗としている者をチラホラ見かける。
ミャンマー随一の観光地であるがゆえに、ましてや現金収入の手段がないこの地域の人々にとって、こうした場所で何がしかのモノを売るということは、貴重な収入の手立てとなることはわかるが、遺跡の日常の管理について、もうちょっとどうにかならないものだろうか?

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インドの東2 マウント・ポッパへ
エア・バガンのフライトは定刻に出発。機体は小型ジェット機のフォッカー100。飛行時間は50分。飛び立ってからしばらくすると下降体勢に入り、午前7時半にバガンのニャウン・ウー空港に到着。
到着ターミナルを入ったところでは、バガン遺跡保護区入域料を徴収する係員が待ち構えており、外国人客はここで10ドル支払うことになるが、博物館などを除き、遺跡の入場料を個別に徴収されることはない。この領収書はバガンでホテルに宿泊する際にも提示が求められることになっているようだ。
この場所では、ジョージ・オーウェルの処女作『ビルマの日々』の海賊版がけっこうな値段で販売されていた。値段はともかくとして、またいくらWTO未加盟の国とはいえ、政府が堂々と外国人観光客に対して不正なものを販売するとはいかがなものか?
宿にチェックインしてから、すぐにクルマをチャーターしてマウント・ポッパに向かうことにした。運転手はあまり英語ができないが、それでもなかなか話好きな人のようで、運転中よくしゃべる。走り出してからしばらくしたところで、砂糖ヤシから樹液を取り、それから砂糖、醸造酒、蒸留酒を作っている簡素な作業所を訪れた。
きれいに整列して植えられた砂糖椰子の木には、よく見ると木上のほうにいくつもの素焼きの壷が取り付けてある。そこに人が登り、汁の溜まった壷を取って降りてくる。だいたい一昼夜取り付けておくと、けっこうな量になるらしい。

それを女性が漉して大きな壷に集める。これを小屋の中で火にかけて、焦げ付かないようにかき混ぜながら濃縮して、ジャガリー(粗糖)の塊が出来上がる。


同じくその汁を発酵させて酒を作るのだが、それを蒸留する作業が同じ小屋の中で進行中。ジャガリー、ヤシの汁、発酵酒、蒸留酒とそれぞれ試食、試飲してみた。最初の三つはとりたててどうということはなかったが、蒸留酒は南九州の芋焼酎に似た感じの味わいで、なかなか美味である。

このあたりの気候といい、乾燥具合や生えている植物といい、東南アジアというよりも北インドに近い雰囲気がある。下ビルマと比べて乾いていて生えている植物も少ない。黙って自然の景色だけを眺めていると、インドにいるかのような気がする。
マウント・ポッパに近くなると、周囲に緑が増えてきた。この山は、丘陵地帯にそそりたつ塔のような、奇妙な形をしている。。近くの死火山だか休火山だかが活動していたときに、噴火したマグマが落ちたところがこの山になったのだとか。

山の頂上まで長い階段が続いている。頂にはタウン・カラッというお寺がある。寺院自体はどうということはないのだが、ここに祭られているのは仏だけではなく、かつて不幸な死を迎えた人たちが精霊として祭られている。この国土着の信仰の聖地でもあるとのことだ。

周囲にもいくつか規模の小さなパゴダや僧院がある。それらの中には、中国寺院風の寺があった。これは寄進者が華人であったために、こういう形になったのだという。漢字で何やら書かれた札もかかっていた。
参道の階段には無数のサルたちがいる。インドにいるのと同じアカゲザルのようだが、気質はだいぶ違うようで、とてもおとなしいようだ。Mt. Poppaから見渡す周囲の広大な風景は見事であった。
山頂の寺自体は取り立ててどうということはなかったが、行き帰りの道すがら、バガンの荒涼とした大地とマウント・ポッパ周辺の緑が多く起伏に富んだ地形の好対照ぶりを眺めることもできて、楽しい一日であった。
夕方、宿に帰着。部屋はコテージになっており、なかなかいい雰囲気だ。中庭にはプールがある。このプールでは、日没後に大きなカエルたちが気持ち良さそうにチャポチャポと泳いでいる。中庭の芝生の上でも、ところどころ彼らの姿を見かけるので、暗いと気をつけないと踏みつけてしまいそうだ。暑い昼間はどこに隠れていたのだろうか?
レストランに出かけて、夕食が運ばれてくる前にマンダレービールを注文。まだ日中の暑さが残っており、ムッとするような空気。テーブルもイスも、手に触れるものすべてがモワ〜ンと生温かいが、ビールだけはよく冷えていた。
グラスに注いでギュッーと喉に流し込むと実に気分爽快。ちなみにこのビール、2年ほど前にカサウリー ビールとIMFL(Indian Made Foreign Liquor)の故郷の中でも触れたが、なかなかインドとゆかりの深い飲み物でもある。
シムラーからチャンディーガル方面に下ったところにあるヒルステーション、そして軍の駐屯地でもあるカサウリーにて1855年に創業開始したダイヤー・ブルワリー(後のMohan Maekin Ltd.の前身)が、英領期のビルマにおいて『Mandalay Beer』というブランドで発売したのがはじまりだ。
もちろん現在のマンダレービールは、とうの昔の現地化されているのだが、英領インドを代表する歴史的な銘柄のひとつであったことに思いを馳せれば、そこにひとつ新たな味わいも加わるかもしれない。

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インドの東1 ヤンゴンへ
バンコクからヤンゴンに飛んだ。タイとミャンマーの両都市間を結ぶフライトは、今のところタイ国際航空、ミャンマー国際航空、格安航空会社でエア・アジアとバンコク・エアウェイズのみである。私が利用したのは2年前にミャンマーを訪れたときと同じく、バンコク・エアウェイズだったが、バンコクから往復で5,500バーツとリーズナブルな料金だった。
格安キャリアとはいえ、ちゃんと機内食やビールは出るし、時間帯も行き帰りともに午後の早い時間帯ということもあり、なかなかオススメである。飛行時間は、時差30分を差し引いて、実質2時間弱だ。
ヤンゴンの国際空港の規模は小さいが、この国に似つかわしくないほど立派でモダンな建物だ。この国で最も先進的な建築物といって間違いないだろう。
ホテルからボーヂョー・アウンサン・マーケットに行って両替した。ここには小さな店が沢山入っているが、貴金属やみやげものなどを扱う小さな店では両替をすることができる。インド系商売人の姿もかなりあり、多くはビルマ語に加えてヒンディー語もしゃべる。100ドル程度替えようと思って声をかけると、『エーク・ラーク(10万)』という返事が返ってきて、ちょっと戸惑うが、1ドルが1000チャット少々くらいなので、そういう大きな数字になる。最終的に、100ドル紙幣から105,000チャットを手にした。

付近で簡単に食事を済ませてから、ダウンタウンを散策。今のヤンゴンは、緑あふれる北郊外のほうに市街地を広げているが、東南アジアきっての大都市のひとつであった植民地時代のラングーンの経済・政治・文化の中心はまさにこのエリアであった。
道路原票が埋め込まれている東京の日本橋と同じような役割を持つスーレー・パゴダがあるのもこの地域だ。ヤンゴンから国内各都市までの距離を数える際、この大きなロータリーの中に建つパゴダがその起点となる。
旧英領であった国々の都市の中で、ここヤンゴンは当時の建物や街並みが最も良く残っているところのひとつであると言われる。それはひとえに独立以来この国が歩んできた長い停滞の歴史ゆえのことではあるが、イギリス時代の役所など公の施設はもちろんのこと、集合住宅や民間の建物等にも、風格を感じさせるものが少なくない。
Mahabandoola Rd.を東に進むと、スィク教のグルドワラーがあるが、そのすぐ近くには他を圧倒する非常に大規模で壮麗なコロニアル建築がある。東側を向いた建物正面入口のThein Phyu Rd.のほうから眺めると、メンテナンスが行き届いているかのように見えるのだが、建物に向かって左手、つまり北側を走るAnawrahta Rd.に回ると、この建物各所が崩壊して、まるで遺跡のようになっている様を目にすることになる。主がこの建物を持て余している、あるいは資金的に苦しいことが見て取れるようだ。
その主とは警察であり、この建物はミャンマーの警察組織の本部である。建物が壮大で威圧的であるがゆえに、植民地期と同じく弾圧・抑圧の象徴でもあろう。1990年5月の総選挙の結果を無視して今なお支配を続ける軍政当局が、市民の思想や行動を監視する機関でもある。
崩壊している部分を除けば、実に見事な建築だが、そういう施設なので中に立ち入ることはできないし、外から撮影することも許されていないのが残念である。
しばらく散策していると日は傾き、やがて夜になったので宿に戻り、1階に入っているレストランで食事する。隣のテーブルでインド人らしき団体。テレビの国際ニュースで、マンモーハン・スィンが再度選出へ・・・と流れると、「えっ、もう決まったのか?」「テレビでそう言ったぞ」「バカ言え、まだ開票してないぞ」などとヒンディーでの会話が続いた。その後、インドの教育システムについていろいろと議論する人がいたりしているので、インド人に間違いないだろう。
(この時点では、今回の総選挙の開票日前)
尋ねてみるとやはりそうだった。ただし観光客ではなく、ミャンマー西部のスィットウェーで油田開発のプロジェクトのために来緬していたエンジニアたちであった。ちょうどその仕事が片付き、近日帰国するところだということで、とてもリラックスした雰囲気。
『まあ、私たちの輪に加わって、一杯やりましょう』と、テーブルでは即座に私の分のビールが追加された。人数は8名、彼らの年齢は30代から50代くらいといったところだろうか。とにかくおしゃべりで、賑やかな人たちである。この中の一人は、スィットウェー勤務ではなく、しばらくヤンゴン市内で仕事をしていたとのことで、この街のことにはなかなか詳しいらしい。
『さあ、帰国する前にパア〜ッといこうではないか!繰り出そう、夜の街へ。日本の友人もどうだね?』と、これから繁華街に出かけるような話になってきて、それはそれで楽しそうだったのだが、明日早朝のフライトでバガンに行くことになっており、チェックインの時間が午前5時半と非常に早いので残念ながら遠慮しておく。まさにそのフライトのために、わざわざ市街地から離れた空港正面のホテルに宿泊しているである。 -
安宿街に歴史あり
ずいぶん前のことになるが、『タイ・バンコク・カオサンロードの歩き方』というサイトがあった。エコノミーな宿の紹介か?と思って覗いてみると、バンコクのエコノミーやホテルとゲストハウスが集中する地区の成り立ちやここに宿泊する人々、働く人々の動態などが詳細に描き出されているなど、想像していたものとはかなり様相が違った。
ただの安宿街にもそれなりのきっかけと必然性があって成立していること、そうした地域にも盛衰があり、これもまた具体的な理由があることがいろいろ記されており、とても面白かった。
ただの旅行者が書いた雑記帳のようなものではなく、大学でメディア論を専攻する研究者の手によるものであり、こうしたエリアが形成されていく歴史やその背景にある事情など、社会学的な分析がなされているがゆえに大変興味をおぼえた次第である。
しかしながら、そのサイトはすでになくなっている。それを引き継ぐ形で『カオサンからアジア』へというタイトルでウェブ上に存在(最終更新日が2000年7月だが)するとはいえ、以前のものとは比較にならないため、ここで敢えて参照しない。
あのコンテンツは一体どこに行ったのか?と探してみると、書籍になっていたことがわかった。
こうしたことは、すっかり頭の中から消え去っていたのだが、バンコクのスクムヴィット界隈で適当な宿がないか?とウェブで探していると、たまたまここに行き当たり、『ああ、そういえば・・・』と思い出した次第である。別に私が宿泊する先は安宿ではないのだが。
たぶんこれは前述のサイト『カオサンロードの歩き方』から一部削除されずにウェブ上に残ったものではないかと思う。以前、このサイトを見つける前から、カオサンロードがバックパッカーたちのバンコクでの滞在先としてポピュラーになる前には、西洋人たちにはマレーシアホテル周辺がポピュラーで、チャイナタウンは日本人宿泊者が多かったということは知っていたが、スクムヴィットのエリアにも安い宿が多かったということは知らなかった。
この残骸?にも書かれているが、カオサンロード登場以前の安宿街の形成には、ベトナム戦争が影を落としていたという説明もまた興味深く読んだことを思い出す。従軍していた米兵が、休暇で気晴らしにやってくるタイで、彼らの滞在先としての需要があったというのは、さもありなんといったところだ。
その当時から営業を続けているマレーシア・ホテルは、ある意味老舗の宿といえる。周囲に安い宿が次々に開業したことから、相対的に料金が高めになり、中級ホテルとみなされた時期もあったようだが、タイの経済成長にともない、良質なホテルが増えた結果、やはり相対的に低料金の安ホテルとなっている。なんだか胡散臭いイメージが定着してしまっているが、コストパフォーマンスは高いようで、実際に利用した人からの評判はなかなか良いらしく、リピーター宿泊客も多いらしい。
ただしバンコク市内各地に、様々なロケーションにいろいろなタイプのホテルが沢山あるのに、わざわざここを選ぶ理由は特に見当たらないように思う。
今でこそ、日本発で世界各地へのフライトのチケットが安く出回っているが、そもそも格安航空券というものが一般的でなかった時代、日本からインド方面に向かおうとするバックパッカーたちは、とりあえず香港かバンコクに出て、そこからカルカッタなどへ向かうのが一般的であった。そのためタイ訪問そのものが目的でない者も、安いチケットを購入するためにバンコクに滞在していたのだろう。
その格安航空券にしてみたところで、今や航空会社が直接ネットで販売する正規割引に押されている。米国系航空会社が格安航空券を販売する旅行代理店にコミッションを廃止し、他の航空会社もこれに追従するのが流れになっていることもあり、従来の『格安航空券』というものが、そう遠くないうちになくなるであろう、とさえ言われている。
バンコクで、特に用事はないのだが、久しぶりにカオサンロードに足を向けてみようかと思う。外国人客がワンサカ宿泊しているだけに、気の利いたみやげもの類は多いのだ。価格も手ごろだし。Tシャツ等の衣類もなかなかの品揃えだ。
そういえば、カオサンロードをはじめとして、バンコク各地にスピード仕上げを売りにするスーツの仕立屋が多い。しかし店の人たちはどうして揃いも揃ってサルダールジーばかりなのだろうか?仕立服屋の世界で『パンジャービー・カルテル』でもあるかのようだ。バンコクで、テイラーとして定住して稼ぐ彼らにも、興味深い『歴史』があるのではないかと思う。スーツの価格はもちろん要交渉だが、落ち着く値段はまずまずのようなので、一着注文してみるのもいいかもしれない。 -
タイ国鉄もeチケットの時代に
個人的には、近年におけるインド国鉄の快挙といえば、eチケットの導入である。わざわざ駅に出向いて列に並ぶ必要がなく、あるいは物グサして代理店に予約を依頼する必要もない。ただ自宅で予約サイトにアクセスして、IDとパスワードを入力して、運行日時と発着時間帯を見て、列車とクラスを確定するだけ。カードで支払い、eチケットをプリントアウトして、カバンにねじ込む。
ネット予約しても、結局は駅の窓口に出向いて(時には長い時間列に並んで・・・)予約票を提示して切符を受け取らなくてはならない某国のJRとかいう鉄道よりも、この点においては利用客にとっての利便性は非常に高いといえる。
唯一難点としては、すべての座席・寝台がネット予約販売されているわけではないので、込み合う時期やもともと運行数が少ない路線では、窓口ではまだ空きがあるはずでも、ネット予約分は早々に完売していることが往々にしてあること。
ところで、eチケット導入については、しばしインドに遅れを取っていたタイ国鉄だが、このほどようやく同様のサービスを導入している。
タイ国鉄予約サイト
インドから日本への帰りに、タイ航空を利用してバンコクにチョコッと滞在するという人は少なくないだろう。日数は限られているけど、市外にちょっと足を伸ばしたい、できれば夜行列車でチョイ遠くまで・・・というとき、バンコクからチェンマイ方面でも、あるいはハジャイ方面でも、タイ入国前に鉄道チケットが手元にあれば、行動範囲がグンと広がる。
道路網が非常に良く発達しており、高速バスが全国各地を頻繁に結んでいるタイだ。発着数やカバーする目的地の多さでは比較にならないが、旅情という点からは鉄道、あまりビュンビュン飛ばすのは嫌だから列車がいい、という人は私だけではないはず。
だがこのウェブでの予約について、全体の席の10%のみeチケット販売とか。残りはやはり従来どおりに鉄道予約窓口(タイの旅行代理店を通じての予約を含む)を通じての販売となるらしい。
とりあえず予定が確定したら、早めに席を抑えるのがよろしいようで。 -
ガルフが近い!

アラブ首長国連邦を構成する七つの首長国のひとつ、シャールジャー首長国を本拠地として、2003年に設立された格安航空会社エア・アラビア。他の多くの国々でもそうだが、この2003年という年は、こうした新しいタイプのエコノミーな航空会社の設立ラッシュであったことを記憶している方も多いだろう。
こうしたタイプの航空会社の伸張で先行したのはもちろん北米であったが、アジアにおける格安航空会社の先駆けといえば、元々政府系で経営難にあった航空会社を辣腕経営者トニー・フェルナンデスが買取り、新しいコンセプトのエアラインに仕立て上げたマレーシアのエア・アジアであった。
その2年後にはインドで破格の安値で南部地域のフライトから次第に全国にネットワークを広げていったエア・デカン(2008年にキングフィッシャー・エアラインと経営統合、同年後半にはブランド名も統一され『エア・デカン』は消滅した)が最初のローコストなエアラインだったが、その後スパイス・ジェット、インディゴ・エアライン、加えてエアインディア・エクスプレス、ジェット・ライトといった既存の航空会社による格安航空会社の新設が相次いだ。
同時期にアジア各地ならびに欧州その他でもこうした新会社の設立が相次いでいたが、インドにおいては、90年代から続く高い経済成長率と合わせて、空の旅の大衆化が顕著に進み、インドの空港は空前の混雑となり、各地で施設拡張や新空港の建設が相次ぐこととなった。
昨年の原油価格高騰を受けて、旧来の航空会社が苦戦を強いられた以上に、安さのみが取り得であった格安航空各社も燃油代のあまりの上昇のために大打撃を受けた。しかし今年に入ってからは燃料の価格が一気に下落しているので、大手各社に対してまた強気の攻勢に出て行くのではないだろうか。
さて、話はエア・アラビアに戻る。現在では、同社のウェブサイトに示されているとおり、アラブ首長国連邦を軸に、中東および周辺地域の19か国の36都市にネットワーク(このうちカザフスターンのアスターナー、アフガーニスターンのカーブル、アルメニアのイェレヴァンへの便は運休中)を広げている。(2009年3月現在)
これによれば、インドにおける就航地はかなり多い。デリー、ムンバイー、ジャイプル、アーメダーバード、バンガロール、チェンナイ、ハイデラーバード、ゴア、ティルワナンタプラム、ナーグプル、コインバトール、コーチー、カリカットと、実に13都市におよぶ。
南アジア地域内の国々、スリランカのコロンボ、バーングラーデーシュのダッカとチッタゴン、パーキスターンのカラーチーとペーシャーワル、ネパールのカートマンドウーも含めると、実に19都市にもなり、この地域と南アジアとりわけインドとの繋がりの深さ、人々の(主にインドをはじめとする南アジア側の人たちによる)盛んな往来を如実に示しているようだ。
どの就航地からも直行できるのは、この会社の本拠地のシャールジャーだけのようだ。ゆえにその他の都市に向かうには乗り換えを伴う。しかし料金が手頃なので、インドからちょっとアラビアに出かけてみようというのはもちろん、国外からインド旅行に訪れる場合、ついでに足を伸ばしてみるのも良いかもしれない。
インドの都市からシャールジャーまで往復、あるいは異なる都市間の移動をシャールジャー経由で、例えばカリカットからシャールジャーに向かい、そこでしばらく滞在してからデリーに飛ぶとしても、時期や予約するタイミングによるが、チケットにかかる費用は片道100米ドル前後だ。
アラブ首長国連邦は、日本国籍の場合は30日以内の観光ならばヴィザは不要である。また渡航費用の面でもちょっと意外なまでに『近い』ことを感じずにはいられない。 -
香港飯店の昼下がり
以前、香港飯店で取り上げてみたコールカーター華僑の鐘さん兄弟が経営する食堂の話である。昼下がりのヒマそうな時間帯に、『やぁ、どうも!』と店内に入ってみると、なにやら彼ら兄弟が一人の男性と話し込んでいる。
『古い友人がオーストリアから帰ってきたんだ』とのことである。彼もまた中華系で鐘さんたち同様、この街で生まれ育った客家人とのこと。 一見、ダージリンあたりからやってきた人か?と思ったと思わせるような印中混血の風貌と肌色ではあるが。
彼の実家はコールカーター市内中心部のチッタランジャン通り界隈にあり、父親は大工をしているそうだ。鐘さんの香港食堂の内装はその人の手によるものだという。
男性は20歳になる前からオーストリアに出て、いくつかの職場を転々としながら16年間、中華料理のコックとして働いてきたそうだ。『みんな私はもう二度とコールカーターに戻らないと思っていたようだし、自分自身もそう考えていた』と言う。
インドに戻ってきたのは一時帰国というわけではなく、思うところあり、オーストリアでの生活をたたんでインドに再定着するつもりで帰ってきたとのこと。ちょうど近くを通りかかったので、旧知のこの店に顔を出してみたというわけらしい。
年の中印紛争後、コールカーター在住の華人人口は急減し、多くは海外に出たとされるが、それ以降もより良い機会を求めての移住はなかなか盛んなようだ。沢山兄弟がいるようだが、アメリカに住んでいる者、台湾に住んでいる者、オーストラリアに住んでいる者といろいろいるらしい。今の時代、世界各地で中華系の人々の移動はますます盛んである。
もちろんその背景には、インドでの環境の問題があり、ベターな暮らしを得ることを目的に海外に出て行く動機となっているのだが、さしあたって必要となる資金を調達できることや移住先での仕事等のツテといった、移住や出稼ぎにあたって必要な手立てを自らのネットワークを通じてちゃんと持ち合わせているのはたいしたものだ。
男性の兄弟でオーストラリアや移住した人、台湾に住んでいる人がいるということだし、この店の経営者である鐘さんの姉だか妹だかもカナダに住んでいる。その子供たちが、たまにコールカーターを訪問することがあるそうだ。
『でもインドでの様子には馴染めないみたいだよ。あの子たちの故郷はこの街なのにね』と鐘さん。
普段は兄弟家族同士では客家語で会話している鐘さんだが、今日はこのオーストリア帰りの男性を交えてヒンディーで話している。彼自身は中華学校で教育を受けたわけではないし、中華コミュニティにどっぷり浸かって育ったわけではないとのことで、華語よりむしろヒンディー語のほうが話しやすいそうだ。
『まぁ、中国語も一応できるんだけど・・・』
それにしても、本来土地の言葉であるベンガル語ではなく、ヒンディー語であるというのは、コスモポリタンのカルカッタ商業地育ちらしいところかもしれない。
彼は、しばらく両親ところに世話になり、これからインドで何をして生計を立てていくか考えてみるとのこと。
『焦る気はないけど、まあ何か始めてみる。いつか結婚だってしたいし』
この香港レストランは、サダルストリートに近いことから、外国人旅行者の姿も少なくないのだが、近隣や周辺地域在住らしき華人たちの姿、インドに仕事でやってきた中国人たちの姿をよく目にする。ときにそうした彼らの話をいろいろ聞く機会を持てるのは楽しい。 -
新加坡的印度空間 4

今日は日曜日ということもあり、観光客相手以外のものでは閉めている店が少なくない反面、裏通りやそこに面したちょっとしたスペースでは、出稼ぎとおぼしき人々がわんさかたむろしている。
道路に面したテラスを持つ飲食店でコーヒーやチャーイをすする人もあるが、多くは道端に座り込んでおしゃべりしたりトランプに興じていたり、数人で酒を酌み交わしていたりする。中にはすっかり酔っ払って路上に仰向けになって寝ている男もある。路地裏では安価な酒やツマミ類を販売している者の姿もあり、こうした人々を相手にそれなりに繁盛しているようだ。
同じインド系の人々でも、ここに定住している人たち、あるいは少なからず他国から観光で訪れる人たちと大きく違うことといえば、身なりや雰囲気が違うことに加えて、女性や子供の姿がほとんど存在しないことだろうか。20代から60歳手前くらいまでの人々、とりわけ30代から40代あたりの男性が、そうした群集のマジョリティを占めている。
出稼ぎの人々は、週末に休日にこうして同郷の人々と会ったり、情報交換したりするため、あるいは単にヒマつぶしのためにリトル・インディアに出てきているのだそうだが、とりわけ夕方の日没時刻あたりになると、その混雑ぶりは頂点を極める。リトル・インディアが持つインド系の人々に対する磁力は注目に値する。

インド系の出稼ぎの人々は、市内各地に彼らが集まって暮らす地域があるようで、何もこの狭いエリアに集住しているわけではないとはいえ、やはりこういう場所だけに彼らが大人数で仮住まい生活を送るスポットはリトル・インディア界隈にいくつもあるようだ。
普段は閉まったままのガレージのシャッターがたまたま開いているのをふと見ると、コンクリートの床の上に多数のマットレスが乱雑に置いてあったり、傍らに着替えやペットボトルがいくつも放置してあったりと、生活臭が漂っている。
早朝、散歩していると肉体労働者たちを現場に送る手配師のトラックが行き交う。荷台に簡単な席がしつらえてあったり、プラスチックの椅子を置いてあったりという具合だ。モダンかつ先進的な都市国家シンガポールらしくない風景ではあるが。
シンガポール市内各地にヒンドゥー寺院は散在しているし、インド系の人々の姿も多い。だがこのリトル・インディアのようにインド系の人々の密度が高い場所はないとともに、この『インド人街』が今の時代にあっても、内外から様々な目的でやってくる南アジアの人々の流れのひとつの重要な核となっていることに興味を覚えるのである。 -
ネパール首都の宮殿博物館 本日オープン
カトマンドゥのナラヤンヒティ宮殿が、本日2月27日(金)から宮殿博物館として一般公開される。
宮殿が博物館として転用される第一段階において、地元紙カーンティプルおよびカトマンドゥ・ポストのウェブ版であるeKantipurの記事によれば、宮殿内の52ある部屋(メディアによっては90室あるのだとも・・・)のうち、19室のみが展示室として開放され、15人ずつ25分間のみ参観可能というから、ちょっと敷居の高い博物館ということになろうか。おそらく政治的に微妙な部分があることから、厳重な警備がなされるのだろう。
この博物館は『シャハ王朝の真の歴史を知る』ための場所として位置づけられているようで、昨年6月に廃止された同王室の栄華をしのぶなどといったものではないようだ。宮中で繰り広げられた陰謀、政治の腐敗、人々に対する圧政などといった負の側面を人々の前に明らかにしたり、2001年にこの宮殿内で発生した殺戮事件の真相にも光を当てることが期待されているようだ。
ただし宮殿建物の転用について、『博物館にするのは簡単かもしれないが、その後の施設の維持はどうやっていくのか?』と、おそらく財政的な部分から行く末を危ぶむ声もあるようだ。
現在、同国政府を率いるマオイスト勢力の意向に沿う形での『王室犯罪史博物館』ないしは『革命運動博物館』といった色合いのものになるのかどうかよくわからないが、近いうちここを訪れる方があれば、ぜひそのご感想をうかがいたいものだ。
Narayanhiti museum (eKantipur.com)
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※『新加坡的印度空間4』は後日掲載します。 -
新加坡的印度空間 3

シンガポールという都市自体がそうであるように、その中にあるリトル・インディアもまたグルメな街である。昔からここに住み着いている人たちはタミル系が多いとはいえ、南インド料理以外にも、ムグライ、ベンガーリー、スリランカ等々、亜大陸のさまざまな地域の味を楽しむことができる。
そうした中には高級店もあるが、ここで働いていたり暮らしていたりする人相手の庶民的なものもまた多い。後者の場合、まるでインドの安食堂をそのまま持ってきたようなものもあれば、小ぶりなホーカーズ・センターのようになっているものもある。後者の場合、往々にして中華式メニューも同時に楽しむことができたりする。
昼食を済ませて、リトル・インディア地区内をぐるぐる巡ってみると、今や地下鉄駅がふたつもできていることに気がついた。このエリアの最寄り駅は、North East LineのLittle IndiaもしくはFarrer Parkである。

ところでこのあたりの地名にもなかなか面白いものがある。このエリアにはその名もヒンドゥー・ロードというのがあるし、ダルハウジー・レーン、クライヴ・ストリートというのもある。この地域以外でも、シンガポールの通りの名前でマウントバッテン・ロードがあるなど、インド植民地行政の立役者の名前が散見されるのは興味深い。



シンガポールでは、ここに住むさまざまな民族の宗教施設が見られるが、リトル・インディアにおいても、ヒンドゥー教関連施設も南インド由来のものや北インドからのものなどいろいろある。アーリア・サマージのお寺の上階には、D.A.V. Hindi Schoolのシンガポール本部が入っている。イスラーム教のモスクにおいても、グジャラートのスンニー派のAngullia Masjidをはじめとして、さまざまなコミュニティのものがあるようだ。
数世代に渡って定住している人々、加えて出稼ぎ人たち、はてまた観光客を含む一時滞在者等々、亜大陸の東西南北各地に起源を持つさまざまなインド系の人々が、マレー風ショップハウス形式の建物が並ぶ景色の中でごっちゃになっているという図はなかなか興味深い。
