ムンバイーのタクシーといえば、黒と黄色に塗り分けられたプリミアー自動車生産したプリミアー・パドミニーである。イタリアのフィアット社のFiat 1100をインドで現地生産したモデルだ。本国では1962年から1966年まで生産されていた。
昔々に設計されたクルマらしく、クロームメッキの大きなフロントグリルが雄々しくてマッチョな面構えだ。前後ともにツンと鋭角的に切り立ったフォルム、後部サイドフェンダーの張り出には、今の時代のクルマにはない強烈な個性が感じられる。イタリアのデザインらしいアクセントの効いた、都会の景色がよく似合うクルマだ。
黄色い天井以外は深みのあるブラックでまとめられた精悍な車影は、ゴシック、ヴィクトリアン、アールデコ、果てまたインド・サラセンといった様々な様式の重厚な建築物が林立するムンバイーの街角によく似合う。

インドにおいてこのクルマの生産は1964年に開始されている。今から半世紀近く前に設計されたクルマではあるが、愛好家が丹念に磨き上げて週末に郊外に遠出してツーリングを楽しむといった具合に丁重に扱われるのではなく、現役のヘヴィー・デューティーな営業車としてバリバリ活躍しているのがカッコいい。
もっともムンバイーのタクシー界を支配してきたパドミニーは、やがて道路から姿を消す運命にある。というのは、すでにこのクルマの生産は、2000年を持って終了しているためだ。フィアット1100D=プリミアー・パドミニーという単一車種で、イタリアでの発売時から数えて38年間もの長き渡り生産されてきた世にも稀な長寿モデルであった。
ムンバイーに限ったことではないが、電子化される前のいかつい金属製のアナログ式料金メーターもまた見事にクラシックである。こうしたメーターが導入されたのがいつの時代であったのかはよく知らないのだが、おそらくその当時の金額をゆったりと刻んでいく。
メーターに示される数字をもとに、現在適用されている料金を導き出す換算表を運転手たちは持っている。そこに示されているとおり、このタイプのメーターが使われ始めたころ、ルピーの価値は今の14倍前後あったということなのだろう。

今のところはムンバイーの道路を走るタクシーの大勢を占めているのは黄・黒に塗られたパドミニーで、まだまだ意気盛んな印象を受けるものの、スズキのヴァンのタクシー、青色のAC付きのものなど、複数のタイプが走るようになっている。
年月の経過とともに、このパドミニーの占める割合は漸減していき、10年、15年もすれば、『こんなクルマ、あったよねぇ!』と古い写真で、昔の街角の中にあったタクシーの姿として未来の人々が思い出すようになるのだろうか。
2001年以降、生産されていないクルマであるがゆえ、目下ムンバイー市内でごく当たり前にどこにでも見られる『パドミニーのある風景』だが、現在走行している車両たちの寿命が尽きるまでの眺めなのである。
カテゴリー: travel
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Premier Padminiのある風景
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NIAの海外旅行保険
日本発の海外旅行保険を扱う保険会社は、AIU、三井住友海上、ジェイアイ傷害火災、損保ジャパン等々いろいろある。
同様に日本で営業するインド系の保険会社でも扱っていることはかねてより耳にしており、だいぶ前に『ニッポンで稼ぐインド国営会社』で取り上げたことがあるが、先日初めて同社の海外旅行保険のパンフレットを手にして眺める機会があった。ちなみに、これはウェブサイトからも閲覧することができる。
海外旅行総合保険 (ニューインディア保険会社)
インド最大の保険会社であり、ムンバイーに本社を置く国営のNIA (The New India Assurance Company Limited)の日本支社、ニューインディア保険会社の商品だ。
私自身、ニューインディア保険会社はまったく利用したことがない。身の回りでこの会社の保険商品を利用したという人もいないため、その評判を耳にしたことはないが、どんな具合なのだろうか? -
IRCTC
以前、線路は続くよ、どこまでも?で取り上げてみたとおり、インド国鉄の子会社IRCTC (Indian Railway Catering and Tourism Corporation)のウェブサイトにログインして、eチケットを購入できるようになって久しい。
ネット予約が始まったころは、インド国外発行のカードでは支払いができなかったり、ウェブ上で予約しても、チケットは指定の場所に配達してもらう、といった具合だったりして使い勝手はよくなかったが、今ではずいぶん便利になったものである。
そのままプリントアウトして列車に乗り込めばいい、という点からは、ネット予約後に『みどりの窓口』で支払いをして、正規の乗車券等を受け取らなくてはならない日本のJRよりも簡単であるといえる。もちろん改札が自動化していないがゆえに、普通紙に印刷したものがチケットとして通用するわけではあるが。
ただ、簡単になったとはいえ、ちょっとコツが必要なこともあるのはインドらしいところか。サーバー容量の関係か、果てまた通信に何か障害があるのかわからないが、予約作業中にエラーが頻発することがある。時間帯を変えるとまったく問題がなかったりするのだが。

乗車日時、列車名、座席・寝台のタイプを確定し、乗客の氏名や年齢等を入力し、『Payment』ボタンを押して、支払いに進んだ際に、この画面を目にしてちょっと面食らう人もあるかと思う。

要は、クレジットカード、銀行のカードその他といった、使用するカードの種類により、支払いのチャンネルを選びなさい、ということである。クレジットカード用にいくつかの銀行系のPG (Payment Gateway) が用意されているが、いずれも利用できる・・・というわけではない。少なくともインド国外発行のクレジットカードの場合は。
以前は『CITI PG』が問題なく使えていたのだが、今はこれを選択すると何回繰り返しても、カードの残高が不足だの番号が間違っているだのといった身に憶えのないメッセージが出てきて立ち往生してしまう。そんなわけで、目下、利用できるのは『AXIS PG』である。
もっと支払いがうまくできなくて困っていても、そのまま放置されるわけではないのはありがたい。この手のエラーが生じると、自動的にIRCTCからのメッセージが配信され、トラブル解決のためのコールセンターの電話番号と問い合わせのメールアドレスが記されている。電話はなかなか通じないものの、メールで質問すると、比較的早く返事を寄越してくれる。
予約のキャンセルも同様にスムース。IRCTCのウェブサイトにログオンして手続きをすると、即座にリファンドについての連絡が届き、キャンセル料と手数料を差し引いた金額が返金される。
何かと便利になっているが、ひとつ制約があるとすれば、ネット予約に割り当てられている座席・寝台数だろう。全体の何割ほどがウェブ予約用に充てられているのかよくわからないが、窓口ではまだ購入できたりしても、IRCTCのサイトでは、路線によってはかなり早い時期からキャンセル待ちあるいは予約不可の表示が出るようだ。
そんなわけで、旅程が決まったら、予約はなるべくお早目に。 -
NyayaBhoomiのオートリクシャー
以前、オートリクシャー・スター・クラブ? デリーの路上の星たちならびにオートリクシャー・スター・クラブ? 頑張る路上の星たちで『オートリクシャー・スター・クラブ』を取り上げてみた。
Autorickshaw Star Clubとは、NyayaBhoomiというNGOによるオートリクシャーのサービスの改善を目指す試みで、乗客の利益、運転手の待遇改善と生活向上、業界の社会的なステイタス向上などを目指しての社会的運動といえる。
具体的には、適正運賃、つまり乗客に吹っかけるのでもなく、オートリクシャー営業のコストに見合わない安すぎる料金でもなく、走行距離に従って双方にとって合理的な金額を適用、運転手の身元や走行地点が逐一明らかになるとともに、乗客側についても車載カメラでモニターすることにより、両者ともに安心して走行できること、適正な営業とサービスの向上により、業界そのものの認知度を高めて、社会的な立場や発言力を高めることなどを企図している。
通常は経済力の向上とともに交通機関も近代化し、オート三輪タクシーは消え行く運命にあるのが世の常ではある。だがインドにおいてはまだその兆候もないが、変わりゆく世の中で、来年開催を控えているコモンウェルス大会に合わせてということではないが、首都のタクシーやオートリクシャー、とりわけ主要駅や繁華街近辺などで客待ちしている運転手たちの態度や仕事ぶりについては、なんとかして向上すべきだと思う。
以下、NyayaBhoomiのウェブサイトにも掲載されている彼らの取り組みを紹介するビデオである。以下、ビデオの内容の要約である。
鉄道でチェンナイから上京してきた男性ムットウーが、駅舎を出てからオートリクシャーをつかまえようとする。コテコテのタミル訛りのヒンディーで運転手に話しかけると、ずいぶん高いことを言われて往生する場面から始まる。運転手とトラブルになった後、声をかけてきたオートリクシャー・スター・クラブの運転手からデリーのオートリクシャー業界の抱える基本的な問題点を彼に説明する。
時はかわって2010年。デリー市内在住の姉のところに滞在中の男性は、用事先までのバスについて尋ねると『オートリクシャーで行けばいいのに・・・』と言われる。デリーのオートは嫌なのだと答えると『今はずいぶん事情が変わった』と告げられる。ムットゥーは再びオートリクシャーに乗ってみることにする。
電話連絡してから、ほどなくやってきたオートリクシャーを運転するのは、かつてデリーの駅前で吹っかけてきた相手。しかし今ではすっかりマジメなドライバーになっている。オートリクシャーにはGPSシステムによる自動運賃計算、走行位置や車載カメラによる乗客の様子などは逐一警察にモニターされており、料金は適正、女性一人での利用も安心。料金は、現金以外にクレジットカード、デリー・トラベル・スマートカード等でも支払うことができる。
かつては休日なしでコキ使われていた運転手も、今では定期的に休日が与えられ、家族との時間を大切にできるようになった。運転手自身の生命保険、その家族の健康保険等の福利厚生も導入された。運賃は、かつての2割増になっているが、それでも乗客たちはとても満足。車両に貼りだされた広告収入もあり、運転手は収入増で生活も安定・・・といった近未来のオートリクシャーの描写。
なかなか面白い内容だったので、せひ皆さんにもご覧いただきたいのだが、ビデオで使用されているヒンディー語がわからない人には理解できないと思うので、NyayaBhoomiに英語版のビデオは作成していないのか夜半に質問をメールで送信してみると、なんと早朝には回答が届いていた。
残念なことにビデオはヒンディー語によるもののみで、英語版は特に製作していないとのこと。ただし非ヒンディー語話者に対するアピールの必要性は認識しているとのことで、英文字幕入りのものを作ることを予定しているとのことである。
NyayaBhoomiの担当者から届いたメールには、2ヵ月以内に『Radio Auto』のサービスを開始するとも書かれていた。おそらく上記のビデオにあるような近未来的なシステムを装備したオートが登場するのではないだろうか。
こうした試みがスムースに浸透していくのかといえば、そうではないだろう。例え利用者たちは歓迎しても、大多数を占める従来のオートリクシャー運転手や組合等にとって、自分たちの商慣習を否定する彼らの存在は疎ましいだろう。
デリーのオートリクシャー業界の新参者であるオートリクシャー・スタークラブの運転者たちは、路上で様々な嫌がらせを受けるかもしれないし、これを運営する団体NyayaBhoomi自体も、すでに同業者や関係者たちから妨害を受けているのかもしれない。
変な言い方かもしれないが、現状のレベルが低いがゆえに、ちょっと努力すればその『伸びシロ』はとても大きなものであるはず。前途に待ち構えているであろう、いくつもの困難を乗り越えて、着実に歩みを前へ前へと進めて欲しいものである。
同様に、彼らの取り組みが首都デリーのみならず、将来的には広く全国に波及していくことを願いたい。 -
線路は続くよ、どこまでも 3
ソフト面では、利便性が飛躍的な向上を見せたものの、ハード面で特筆すべきは、各地のメーターゲージ路線をブロードゲージ化する作業が着々と進んだことだろう。
これにより、鉄道ネットワークの効率化が図られた。旅客として利用する際、目的地沿線の軌道幅が異なることによる乗り換えが不要となり、主要駅を起点として直通列車が走る範囲がとても広くなっている。おそらく貨物輸送の面でも相当な有利になったに違いない。
各地の鉄道の事業主体が単一ではなかったこと、鉄道ネットワークに対する考え方が現在と異なる部分があったことや予算の関係などもあり、植民地時代に軌道幅が異なる路線が混在し、それが長く引き継がれてきたことについては、その対応に苦慮しつつも、全路線ブロードゲージ化という方向で完成しつつあるのがインドだ。
それに較べて、隣国バーングラーデーシュ国鉄は異なる手法で解決への道を探っているかのようである。今年1月に『お隣の国へ?』で書いたとおり、デュアルゲージという手法により、ブロードゲージの軌道の間にもう一本のレールを敷設し、ゲージ幅の狭い列車も走行できるようにしてあるのだ。異なるゲージ幅に対応する、なかなか面白いアプローチである。

バーングラーデーシュ国鉄本社が置かれているのは狭軌ネットワークのターミナスであるチッタゴンであることと合わせて、今後はインドとは反対に狭軌のほうに集約していくと考えるのが自然だ。
近年になってから、首都ダーカーにブロードゲージ路線が導入されているが、これは現在コールカーターからの国際旅客列車マイティリー・エクスプレスに加えて物資輸送の貨物列車が運行していることから、隣国インドの鉄道とのリンクを考慮してのことであり、同国内既存の狭軌路線を広軌化する意思はないのだろう。
インドの場合と異なり、ネットワークがあくまでインドと一体であった時代に築かれたものであるがゆえ、今の同国国土を効率よくカバーしているとはとてもいえないため、インドの国鉄と違い、国民の期待値は相対的に低いものとなる。ゆえにどちらかに統一するのではなく、あるものを可能な限り使い回すという発想こそが賢明であるのかもしれない。
いっぽう、列車の運行体制やアメニティといった部分では、それほどの進化を遂げているとは思えない。車中泊を伴い長時間走行するもの、比較的短い距離を日中走行するものなど、列車のタイプにより、1A (First class AC)、2A (AC-Two tier), FC (First Class), 3A (AC three tier), CC (AC chair car), EC (Executive class chair car), SL (Sleeper class), 2S (Seater class), G (General)と、いろいろな客車タイプがある。
クラスが上がるにつれて、料金も格段に違ってくることから、同乗する他の客を選別する機能があるといえるのは、インドという国における社会的な要請といえるだろう。
人々の可処分所得が上昇したこともあり、エアコンクラスの需要増に応える形で、空調付きの車両が増えることとなったが、クラスは上がっても1人あたりのスペースが広くなること、電気系統を含めた車内内装の質が向上することを除けば、基本構造自体は旧態依然のものであることから、やはり時代がかった印象は否めない。
他の列車よりも走行の優先度を高めて停車駅を少なくすることにより、目的地までかかる時間を短くしたラージダーニー、シャターブディー、サンパルク・クランティ、加えて最近導入されたドゥロントといった特別急行があるものの、これらの列車が連結する車両構造自体が取り立てて先進的というわけではない。
またダイヤの過密化と駅の増加により、こうした特別急行以外の急行列車は、たとえば1980年代と比べて、より時間がかかるものとなっている路線も少なくないらしい。
相変わらず大規模な事故がしばしば起きることも問題だ。今から10年も前のことになるコンピュータの『2000年問題』が取り沙汰されていた時期、確かに鉄道のチケッティングの面では一部懸念されるものがあったようだ。
しかし列車の運行についてはまったく問題ないという発表がインド国鉄からなされていたことを記憶している。その理由といえば、大部分がアナログ式に管理されているため、電子的な誤作動による事故はまずあり得ないという、あまりパッとしない理由であった。
その後、運行の手法について、どの程度の進展があったのか残念ながらよく知らないのだが、今年10月にもマトゥラーでの急行列車同士の衝突事故があったように、同じ路線にふたつの列車が走行してクラッシュという惨事、あるいは植民地時代に建設された橋梁が壊れて車両が落下といった事故が散発し、そのたびに多数の犠牲者が出る。メディア等でその原因等について盛んな糾弾がなされるものの、少し経つと同じような事故が繰り返される。
そんなことからも、列車の運行管理の部分においては、大した進展がないのではないかと疑いたくなる。これからは、鉄道輸送の根幹となる部分で、『乗客の安全』を至上命題に、骨太の進化を期待したいと思う。
蛇足ながら、乗客の立場からするとハード面でいつかは改善して欲しい部分として、乗降の際の巨大な段差もあるだろう。19世紀の鉄道を思わせるようで『趣がある』と言えなくもないが、観光列車ではなく、人々の日常の足である。停車駅で人々のスムースな出入りを阻害する要因だ。頑健な大人ならばまったく問題なくても、お年寄りや子供たちにとってはちょっとしたハードルである。身体に障害を持つ人にとっては言わずもがな。
19世紀・・・といえば、鉄道駅の中でも由緒ある建物の場合、電化される前には待合室等の天井にパンカー(ファン)を吊るした金具が残っていたりする。今は電動の扇風機が頭上でカタカタ回っているが、電化される前の往時は、吊るしたパンカーを人がハタハタと動かしていたのである。
やたらと進んでいる面とまったくそうでない面が混在するインド国鉄ではあるが、そういう凸凹が多いがゆえに、ふとしたところに長く重厚な歴史の面影を垣間見ることができる。ここに独自の味わいがあるのだ。
ひとたび車両に乗り込めば、場所によっては非常に時間がかかるとはいえ、広い亜大陸どこにでも連れて行ってくれる(もちろん鉄路が敷かれている地域に限られるが)最も便利な交通機関だ。
インドの鉄道のことをしばしば書いているが、私自身は『鉄ちゃん』ではないし、およそ鉄道や列車というものに一切の関心を持たない。しかし、情緒あふれるインド国鉄に関しては、いつも大きな魅力を感じてやまない『イン鉄ファン』なのである。 -
線路は続くよ、どこまでも 2
・・・と、文字に書くと『ああ、そうか』という程度のことでしかないかもしれないが、鉄道の予約を取ることについてかかる手間ヒマという点からすると天地の差がある。
また南アジア域内で鉄道ネットワークを持つ他国と比べてみても、インドの『先進ぶり』は際立っている。
まず鉄道駅窓口での予約がオンライン化される前といえば、まずはBookingカウンターの行列に並んで目的地までの乗車券を買う。続いてReservationカウンターの長い長い列に並び直して予約を取る必要があった。
係員が、列車別と思われる分厚い帳簿に、厳かな表情で予約した乗客の氏名等を記入するのだ。座席や寝台の料金を払うと、さきほどのBookingカウンターで渡された乗車券とは別に、車両番号と座席(寝台)番号が殴り書きされた予約券が投げて寄越される。
これとて、特に大きな駅では利用クラスや方面別になっていたため、うっかり違う列に並んでしまうと、せっかく順番が来ても『あっちのカウンターに行きなさい』と追い払われてしまい、それまで費やした時間がまったくのムダになる。
こうしたやりかたは、インドの鉄道草創期にあたる『ヴィクトリア朝時代からの伝統』と揶揄されるもので、今では博物館モノの大時代がかった作法による発券作業を目の当たりにできる、その中でチケットを買う、予約するということが実体験できるため、最初は興味深く感じられた。
しかしこれが度重なると、手間暇と時間を取られて面倒なので、なるべく事前の面倒のないバスで移動したいと思うようになった。それでも半日以上かかる移動、とりわけ車中泊を伴う場合は、やはり身体を横たえることのできる寝台がないと辛く、結局は鉄道の厄介にならざるを得なかった。
当時、どこかで乗り換える必要がある場合の次に利用する列車、往復する場合の帰りの列車の予約をその場ですることができないのもすこぶる不便であった。ボーパールやバンガロールのような大きな駅であっても、列車が当該駅始発ではなく経由地である場合は、中途から乗り込む乗客への割り当てが少ないため、ずいぶん先まで満席ということが当たり前でもあった。
結局、列車に乗り込んでから、その時点での空き状況を見て車掌が乗客たちに振り分けることになってしまうのだが、車掌がやってくるまでずいぶん長いこと待たされた。なにぶん少ない人手による手作業ということもあり、何かとスローなのは仕方がなかった。
主要駅における鉄道予約オンラインが開始された頃、チケット売り場の壁に『ANY CLASS, ANY DESTINATION, ANY QUEUE』 との貼紙を目にしたときには、いたく感動したものだ。どの列に並んでもいい、しかも一回並ぶだけで、BookingとReservationが同時に出来てしまう!とは、今では当たり前のことではあるが、当時は大きなインパクトがあった。
その後、全国的にシステムで接続される体制が整ってくると、列車の往復予約も乗り継ぎ駅から先の列車の予約もいっぺんに確保できるようになってくる。更には自宅でヒマなときにネット予約してプリントアウトしたものが、そのままEチケットとして使用できてしまうというところにまで来ている。この部分のみに限れば、インターネットで列車予約してから、駅の窓口に並ばなくてはならない日本のJRと比較した場合、インド国鉄に軍配が上がる・・・と思う。
こうした進歩も『時代が進んだのだから当たり前』ということにはなるが、19世紀末か?と思うほどの状態から、わずか20年ほどで21世紀らしいところにまで追いついたことは、大いに評価できるはずだ。しかもインド国鉄といえば、従業員数にして同国最大の国営企業。国家予算とは別立ての鉄道予算を持つ国の親方三色旗企業もなかなかやるじゃないか、と大きな拍手を送りたい。
だが、業務の近代化、自動化は、往々にして職場の人減らしにもつながる。労働組合活動の盛んなインドのこと、しかも140万人というインド最大の従業員数を誇る国営企業としての国鉄において、マネジメントと労働者の側で様々な衝突や駆け引きもあったのではないかと思う。
もともと南アジアの周辺国、パーキスターン、バーングラーデーシュ、スリランカとは比較にならない鉄道大国であるインドだが、こうしたソフト面の進化は、これらの国の鉄道に対して先進的な模範を示しているといえるだろう。 -
線路は続くよ、どこまでも 1

インド国鉄の時刻表Trains at a Glanceの最新版が出た。早速、11月1日よりウェブサイトからこの版がダウンロードできるようになっている。
例年7月に新しい版が出て、そのまま次年の6月まで有効、そして再び7月に切り替わるというサイクルであったが、今年はどうしたわけか昨年7月の版の有効期限を10月まで延びていた。
ラージダーニー急行よりも短い時間で大都市を結ぶドゥロント・エクスプレス導入も含めて、かなり大規模なダイヤ改定があったのだろう。
Trains at a Glanceにはインドを走るすべての旅客用列車が記載されているわけではない。地域版の時刻表あるいは滅多に鉄道駅で売られているのを目にすることはないし、そもそも今でも印刷されているのかどうか知らないが、全国すべての列車を網羅したRailway Bradshawを手に入れると、Trains at a Glanceには出ていないローカルな各駅停車の記載などもある。
しかし、そんなひなびた頻度の少ない便を使わずとも、バスその他の交通機関があるので、普通はTrains at a Glanceがあれば旅行するのには充分だろう。
インド国鉄のネット予約サイトIRCTCで、乗車駅と降車駅を入れば簡単にその区間を走る列車やダイヤを調べることができるが、やはり冊子にまとめられたもの、またはそれがPDF化されたものでザザッと俯瞰するほうが楽だ。
つくづく思うのだが、鉄道駅のチケット予約システムのオンライン化が20年ほど前に始まってからというもの、またたく間に全国の主要駅、続いてその下の規模の駅、そのまた下へ・・・と広がり、インターネット利用が一般化してからは自宅からネット予約等も簡単にできる。 ずいぶん便利になったものである。 -
一糸まとわぬ姿のセキュリティ・チェック
『搭乗の際には短パンとTシャツだけ着用ということになるんじゃないのか?』
知人とのそんな会話をふと思い出した。
2001年9月の同時多発テロ以降、どこの空港もセキュリティ・チェックが非常に厳格になった。その後も靴の中に隠した爆発物による爆破テロ未遂その他が続いたこともあり、液体物の持ち込みは100ミリリットル以内の容器複数個が、容量1リットル以内のジッパー式のビニール袋の中に納まる範囲のみ可能となった。
フライトによっては、空港の免税店で購入した酒類も持ち込むことができなかったり、目的地に着くまで乗り換えがある場合、そこから先の便へと持参することができなかったり。
私が利用したわけではないが、手荷物一切が禁止となり、透明なビニールの中に旅券や図書類のみ放り込んで搭乗するフライトもあった。当時、メディアでも大きく取り上げられていたので記憶している方も多いだろう。
安全第一とはいえ、セキュリティ関係のこうした事柄があまりに厳しくなってくると、乗客自身困ることだってある。
さりとて身の安全のための代償なので、粛々と従うしかないが、こんな世情を憂うしかないのか、それともほかに何か良い手立てはないのか?と思ったりもする。もちろん面倒に思うのは乗客だけではなく、空港当局関係者をはじめとするセキュリティ担当者たちも同様だろう。これにかかる手間ヒマ、人件費だって相当なものであるはず。
そうした中、『確実に安全というならば、手ぶらで裸で搭乗させるしかないんじゃないのか?』などと話しているうち、『まあ、最低限の服装ってとこなのかな。下着姿でというわけにもいかないだろうし』ということで、冒頭の話になったわけである。
ところが世の中はそんな冗談みたいな方向に進みつつあるようだ。イギリスのマンチェスター空港で、X線を使った装置で乗客を裸体に透視してチェックするというシステムがテスト運用されているとのことだ。
‘Naked’ scanner in airport trial 1 (BBC NEWS South Asia)
‘Naked’ scanner in airport trial 2 (BBC NEWS South Asia)
『ついに行き着くところまで来たのか・・・』という思いはするが、安全面という点のみにおいては、なかなかいいアイデアではないかとは思う。ただし倫理的にこうしたことが許されるのかという部分で、大きな疑問符が付く。文化的、宗教的に受容できないとする人も少なくないだろう。
加えて、当然のことながら、こうした映像がどこかに流出しないのかということを危惧する人も少なくないだろう。厳重に管理されているはずの重要な個人データが漏れるということは、どこの国でも決してあり得ないことではない。
もちろんこれが各地の空港で本格的に導入されたとしても、テロリストたちにとってはまだまだ攻撃を仕掛けるチャンスはいくらでも転がっているようだ。搭乗する飛行機に危険物が持ち込まれることはなくなっても、セキュリティ・チェックの場所までは誰に咎められることもなく、危険物とされるものを手荷物に隠して運ぼうと思えば容易にできてしまうような空港は少なくない。
航空機内でのテロが困難になったぶん、空港機能を停止させてやろうと、そうしたエリアが爆破テロという凶行の標的となることはないのだろうか。もちろん、こんなことを疑えばキリがないのではあるが。 -
ロンリープラネットのガイドブック電子版

実用的なガイドブックとして評判の高いロンリープラネットのガイドブックが電子版の刊行に意欲的に取り組んでいる。
iPhone City Guides
持ち歩いたり、出先でパッと参照するためのものなので、ノートパソコンやキンドルで閲覧するわけではなく、iPhone / iPod touchにインストールするアプリケーションとなっている。
サンフランシスコのガイドが無料配布されていた時期に試してみたのだが、少なくとも現時点おいて、正直なところ操作感はあまりよくない。こういうデバイス向けにヴィジュアルな構成になっており、テキストで一杯の書籍版とはかなり違った印象を受けたが、それでも画面のサイズからしてちょっと読みづらいのである。
またiPhone利用の場合に限っては、インターネット経由でGPSと連動するなど、インタラクティヴな機能を利用できる。もちろん居住国外で、海外ローミングで使用すると膨大な通信費がかかってしまうため、まずはSIMロックのかかっていないiPhoneを購入し、現地のキャリアを利用するようにしなくてはならない。
もちろんiPod touchを使用の場合は、こうした心配とは無縁であるが、iPhone同様にバッテリーの持ちは良くないため、市販の充電用リチウム電池を予備に持つなどの対策は必要かもしれない。
今のところ、発売されているのは、ロンドン、パリ、ニューヨーク、香港他の都市ガイド、アラビア語、韓国語、ドイツ語、トルコ語などのフレーズブックのみである。今のところ、インドの都市ガイド、エリアガイドは
すでに訪問国のガイドブックは購入している人も、特に関心のある都市の詳細なガイドブックが、普段持ち歩いているiPhone / iPod touchにインストールできるとなれば、荷物が増えるわけではないので、『それじゃこれも!』と気軽に購入してくれるかもしれない。なかなか良いアイデアかもしれない。観光旅行以外でも、仕事で出張に向かう人の需要もあるのではないだろうか。
こうしたiPhone / iPod touch版ガイドブックの中には、東京、京都の都市ガイドも含まれている。ガイジンの視点で日本の都市歩きをしてみるのも一興かもしれない。
シリーズ内のガイドブックごとに著者は違うものの、どれも中立的な記述で偏りや私見といったものはほとんど見られず、非常にフェアな印象を受ける。広告類を一切取らないこともそうした紙面に寄与しているものと思われるが、何よりトラベル・ジャーナリズムに徹するプロフェッショナルな姿勢には好感を覚える。残念ながら、日本において、少なくともシリーズもののガイドブックで、こうした類のものはまだ出てきていない。
iPhone / iPod touch版について、現時点では国ごとのガイドブックは出ておらず、今後もそうした予定があるのかどうかはわからない。だが、むしろこちらのほうの電子版が出てこないものか?と私は期待したい。各地の名所旧跡の紹介といった部分については、これよりも優れたガイドブックはいくつもあるのだが、収録されているプラクティカルな旅行情報の面では、質・量ともに群を抜いていることは誰も異論はないだろう。
だが、それがゆえに版を重ねるたびに重厚長大化するのが悩ましいところだ。シリーズ内で、とりわけよく出来ているタイトルは、出先で日中持ち歩くのを躊躇するほど肥大化ぶりだ。つい先月、同社の『India』の新版が出ているのだが、これは1244ページに及ぶ『大物』だ。
これをiPhone / iPod touchに放り込んで移動することができれば、どんなに助かることか。
現状では、スクリーンのサイズに由来する見づらさ、使い勝手の悪さは如何ともしがたいが、今後様々なアイデアと手法が加わり、電子版の使い勝手が格段に向上するかもしれないし、ひょっとするとiPhone / iPod touchよりもこの手の電子書籍に向いた軽薄短小デバイスが登場するかしれない。
最近、ロンリープラネットのサイト内『Shop』を検索してみて気がついたのだが、例えばインドのガイドブックをチャプターごとに
を購入できるようになっている。
India – Pick & Mix Chapters
インドのような大きな国を訪れる人々の誰もがこんな分厚いガイドブックをまるごと持ち歩く必要があるわけではないため、こうした需要は少なくないのだろう。
各地域等の旅行情報は2ドルから6ドル程度。しかしTable Contents、Getting Started、Indexといった項は無料でダウンロードできるようになっており、地域案内部分のみを購入してもちゃんとガイドブックとして機能する。なかなか良いサービスだと思う。
ロンリープラネットのガイドブックの電子版、今後の進展に期待したいところである。 -
ストーンハウスロッジの記憶 3
あれからずいぶん長い年月が過ぎた。ストーンハウスロッジのことなど、すっかり忘れていたのだが、今年夏にカトマンズを訪れた際にニューロード界隈に来たので、ちょっと覗いてみようと思い、あの宿へと続く路地へ足を踏み入れた。
私の記憶が変質してしまっているのか、それともこの路地が変わったのか?道の両側の隙間なく建物が並ぶ様子は以前と同じだが、ずいぶん背の高いものに置き換わっているようだ。建物の高さもせいぜい三階建てくらい(?)であったように記憶しているが、今や五階、六階は当たり前、それ以上に大きな建物もニョキニョキ生えている。
元々、市街地の密度が高くて狭かった空がさらに狭くなり、また狭いながらも様式や高さなど統一感のあった街並みが、まったくてんでバラバラの無秩序な空間となっている。
この路地に限ったことではないが、他のカトマンズの路地同様、もともと人間が徒歩で通るために出来ている細い道を無理矢理走るバイクやクルマなども増えていて危なっかしい。
その反面、様々なモノが溢れ、非常に活気のあるエリアとなっていた。人々の暮らしぶりもかなり向上していることだろう。
ストーンハウスロッジがあった場所にたどりつくと、そこにあるのはふた周りほど大きな建物。以前ここにあった木造の建物は、こんな風に二棟が直角に寄り添う形で建っていたのだが。家電製品を扱う店や雑貨屋などが入った小ぶりな商業ビルとなっている。写真左下部分には、何故だかロッジの敷地入口にあった門柱の部分のみ、昔のたたずまいのまま残っている。当時宿泊したことのある方の中には、『ああ、そうそう・・・』と思い出す人もあるのではないかと思う。

ストーンハウスロッジ跡地からさらに小路を奥に進むと、かつてはほとんど居宅であったエリアであったのが、すっかり商業地化していた。ネワール式の古い建物もコンクリート柱とレンガ壁の今どきのものに建て変わっている。
辻ごとにあった祠もまたフェンスで囲まれるなど、キレイに整備されたものが目についたりする一方、他にもあったはずの祠がずいぶん減っているようであったり、神々の姿が人々からやや遠い存在になってきたような気もする。
『ずいぶん変わったなあ』という思いともに、昔のいろんな記憶がどんどん胸の中に蘇ってくる。半ば放心状態で立ち尽くしていると、『パパ!こんなところいてもつまんないよ。どこかに行こう!』と言う息子の声で我に帰る。
時は移ろうもの。時間の経過とともに、目に見えるもの、見えないものもどんどんカタチやありかたを変えていく。街並みも然り、自分自身の立場も然りである。安旅行者だった私は、今や子供を連れて家族旅行のオトウサンとなっているのだから。
〈完〉 -
ストーンハウスロッジの記憶 2

歩くと床全体がユラユラと振動して、階段を通して上下によく音が抜ける老朽家屋、ベニヤで細分化された部屋ということもあり、足音や話し声がどの方向から来ているのかよくわからなかったりした。
ずいぶん昔の話になるが、この宿に滞在していたとき、他の宿泊客から『帰って来る幽霊』の話を耳にした。何でも、私が宿泊したときから数年前に、この宿で亡くなった日本人客があったのだという噂だった。その人が生前に滞在していた部屋にときどき帰って来るという伝説みたいなものが流布しつつあった。
『夜1時過ぎくらいに帰って来るんだ、奴が。この宿って11時が門限で、玄関のカギを閉めてしまうから、その後に入ってくるはずないんだよ。昨日も奴は帰って来てた。宿の人は、チェックアウトした人の部屋の掃除に使用人を寄越すくらいで、よりによって遅い時間に上がることはないって言ってた。思い出すだけで気味悪いよ。重たい足取りで、トン、トン、トン、トン・・・と上がってきて、この階の端っこの部屋のドアを開けて入るんだ』
彼が言うには、隣室には他の旅行者が泊まっているため『霊が帰って来る』のはその脇の部屋に違いないのだという。
『昨日も、奴が帰ってきてから、ちょっと怖かったけど、確かめるためにドアの外に出てみたんだ。するとあのドアは、外から南京錠がかかっていた・・・』
こちらもちょっと背筋が寒くなる思いがした。私が滞在する部屋ちょうど真下に、幽霊が帰って来るなんて、気分のいい話ではない。
ひとつ下のドミトリーに宿泊していた男性も彼の言葉を裏付けた。
『昨日、ちょうどそのあたりの時間だろうな。寝ていたけれども階段を上る音がしていたこと、その後ドアがバタンと閉まる音も耳にしたよ』
『昔いた場所に帰って来るってのは、アンタ、そりゃ地縛霊だよ。タチの悪いのもあるって言うから気をつけてね』などと、したり顔で無責任なことを言う者もあった。
そんな怪談じみた話がしばし続いてから『そろそろ夕食に行こう』ということになり、数人で近所の食堂に出かける。部屋に戻ってからも、ドミトリーに顔を出して、そこに滞在している人たちと、ひとしきり話していると、いつの間にか夜は更けて午後11時。
『おやすみなさい』と、彼らのスペースを辞して自室に戻ってから、ステンレスのマグに電熱コイルを放り込んで湯を沸かして茶を淹れる。いつものとおり日記を書き、今朝方買った新聞を広げてみたり、ガイドブックを眺めたりしながら過ごす。そんなことをしているうちに、いつものことながら1時を回ってしまうのだ。
『さて、歯磨きをするか』と、お茶沸かすときに汲んで来た残りの水で口をゆすいで、無作法ながら、窓の外にペッと吐き出す。歯ブラシでシャカシャカ磨いてから、洗面台があるひとつ下の階にそうっと下りる。階段脇の水道の蛇口を静かに開いて口の中をゆすいで歯磨き完了。
癖で、階段を上るときに足の裏を叩きつけるようにして上ってしまうが、途中で『あ、この時間はみんな寝てるんだ』と、なるべく音を立てずに上がることを心がけたりするのもいつものことだ。
建て付けの悪い部屋のドアをバタンと閉めて、中から金属のカンヌキをかけると、下の階でドアが開く音。誰かが数歩進んでから、『やべぇ!』など声を上げている。彼は即座に自室に駆け戻ったようで、バタンとドアが閉まる音が聞こえてきた。どうやら『帰って来る幽霊』とは、私自身のことであったらしい。
翌日、下の階の男性は『昨日も幽霊が帰ってきた』などと吹聴していた。ドミトリーの宿泊客たちは『マジかよ!』と眉を顰めて話に聞き入っている。
私は『幽霊自身が種明かし』をして、せっかく定着しつつある『怪談話』がオジャンになってしまってはつまらないので、とりあえずあまり興味のないふりをして聞き流すことにした。 -
ストーンハウスロッジの記憶 1

昔、カトマンズのニューロードにあるネパール航空事務所の反対側の路地を少し進んだところに、ストーンハウスロッジという格安の宿があった。
宿泊客はほとんど日本人ばかりで、インド亜大陸各地をめぐるとか、アジア横断してアフリカに向かうなどといった長期旅行者が多かった。インターネットもなかった頃なので、こういうところでいわゆる『情報ノート』が貴重なインフォメーションのリソースでもあった。かつて、私もこの宿に幾度か宿泊したことがある。
古いネワール式の木造の建物で、最下階の狭い入口のところに受付があり、細くて急な階段を上ってすぐの階には家主の家族が暮らしており、そこより上の複数の階に宿泊客を泊めていた。 各階ともに、もともと狭いフロアーを無理やりベニヤで仕切って、やけに幅の狭いベッドが置かれているが、これで部屋の中は一杯。確かひとつだけ四つのベッドが入った『ドミトリー』があったと記憶している。
当時からタメル地区はかなり繁栄しており、すでに旧王宮近くのジョッチェン地区に宿を取る旅行者は少なくなっていた。どちらからも離れたストーンハウスロッジになぜ日本人旅行者が集まるようになったのかは不明である。シーズンは常に満杯、雨季のオフシーズンでも部屋が空いていないということは珍しくなかったようだ。
いつ購入されたのかわからないボロボロの古いベッドの上に敷かれているシーツは、これまたいつ洗ったのか知れず、身体を横たえていると、南京虫の執拗な攻撃に悩まされるようなところなのだが、何故かとても繁盛していた。
ひどく狭くて汚いかわり、宿泊費がそれ相応以上に低料金であった。『お金はあまりないけど、とにかくあちこち訪れてみたい』という安旅行者には重宝される宿であった。ただ安いだけならば他にいくつもあっただろうと思うが、安宿が集中するゾーンからは離れているものの、ニューロード裏という便利なロケーションも良かったのかもしれない。
いつだったか、すぐ隣にレンガ積みの真新しい建物が出来上がった。ストーンハウスロッジよりも料金は高くとも、ずっと設備が良くて、新築であるがゆえにピカピカで快適な部屋が用意されていた。ストーンハウスロッジの利用客が『こっちのほうがいいや』と移動してもいいような気がしたが、そうはならなかったようだ。
こちらはまったく流行らず、数年で廃業してしまった。流行る宿というものには、理論的に説明がつかない『旅行者とうまく合う波長』のようなものがあるような気がする。人と人との相性のようなものかもしれない。別に宿の人の愛想がいいとかいうわけでもない。その場所が持つ『気』のようなもの(?)とも言えるだろうか。
古い長屋のような建物であるがゆえに、隣接する棟とぴったりくっついた建て込んだ地域であるがゆえに、家屋での人々の暮らしぶりが、特にそれを覗こうとしなくとも、ごく間近に感じられる楽しさはあった。人々の会話や赤ん坊の泣き声など、様々な生活音がジャンジャン聞こえてくるし、どこかの世帯で作っている料理の匂いも漂ってきて、下町に暮らしている気分になったりもした。
もともと人口密度の高い空間なので、人通りは多かった。何せニューロードの真裏である。それでも野菜売りが沢山出て賑やかな朝の時間帯、様々な用事で人々が行き交う昼間の時間帯を過ぎて夕方の帰宅時間を過ぎれば、ガランとしていたものである。
用事等でタメルに徒歩で出かけて、帰りが午後7時過ぎると人通りがとても少なくなり、午後8時を回るとほとんど誰もいない路地をトボトボ歩くことになった。出会うのは野犬ばかり、灯もまばらでほとんど暗闇のようなもので、懐中電灯を照らして宿まで歩いたものである。
ダサインやディワーリーの時期にも滞在したことがあるが、路地という路地では、無数の小さな素焼きの器の中に火が灯されて、幻想的な眺めが出現していた。辻ごとにある小さな寺や祠に詣でる人々が行列していて、窓から見下ろしているだけでもワクワクしたものだ。
先に書いたとおり、もともと狭いフロアーが、薄いベニヤで極小の部屋として細分化されていたものの、プライバシーはまったくないようなものであった。視覚的には遮られていても、壁の向こうから屁の音、着替える音などがそのまま聞こえるのである。相手が起きているのか寝ているのかもはっきりわかる。厚さ数ミリの非常に薄い壁を背にして寝ていると、そこを境に数センチからせいぜい30センチくらいのところに隣人が存在しているのだから。
不思議と閉塞感はあまり感じなかった。隣の人がかなり親しくなった人だったりすると、壁越しに会話が弾み、まるで同室に滞在しているかのようであった。
