AAJ TAKのニュースをつけてみると、火事のニュースが映し出されていた。テレビで放映されたクリップの多くはウェブサイトでも公開されているので、下記リンクをご参照願いたい。
हरिद्वार के जंगलों में लगी आग
(AAJ TAK)
※ハリドワールのジャングルで森林火災
ウッタラーカンド州のハリドワールでは、1月14日に始まり、4月28日まで続くクンブ・メーラーが開かれているが、数日前から近隣地域で発生した森林火災が続いており、昨日4月9日には、山の中にあるマーター・チャンディー・デーヴィー寺付近まで接近したとのこと。まだ延焼は続いており、今後の進展が心配されているということだ。
だが、このニュースには付随するオマケもついていた。ハリドワールの近くにあるラージャージー国立公園で、西洋人たちがギターを弾いて歌っている様子だ。数日前から100人以上の外国人旅行者たちが園内に居ついて自炊しながら、飲めや歌えやの騒ぎを繰り広げているという。
のどかな情景とは裏腹に『ヒッピー風の外国人たちが違法な『ジャングルに侵入した西洋人たち』『チラムを回しながら大騒ぎ』といった字幕とともに、国立公園での彼らの振る舞いについてのナレーションも流れてくる。
ウェブ上にアップされている映像にもいくつかモザイク処理がなされている部分があるが、テレビで見たニュースでは、おそらく全裸らしき人物の局部にボカシがかけられたと思われる映像もあった。
हरिद्वार: राजाजी नेशनल पार्क में घुसे विदेशी (AAJ TAK)
※ハリドワール:ラージャージー国立公園に侵入した外国人たち
当人たちは、屈託のない表情で和やかに過ごしていたり、にこやかにインタビューに応じたりなどしているので、まさかこうした否定的な報道がなされるものとは思わなかったようだ。
国立公園でこのような形で滞在したり、煮炊きをしたりすることは違法である。警察は彼らを退去させようと試みたものの、うまくいかなかったようだ。この『ヒッピーたち』については、たまたま近くの地域で森林火災が起きたことがきっかけで取り上げられることになったようだ。もちろん彼らが失火でも起こさないかということも懸念もあってのことである。
昔からゴアをはじめとするインドのいくつかの地域では、こうしたヒッピーまがいの人たちが我がもの顔で振舞うスポットは知られていたが、内陸の国立公園でそんな場所があるとは知らなかった。1月から進行中のクンブ・メーラーがきっかけとなったのであろうことは想像に難くない。
今の時代、メールアドレスを持たない人はいないし、旅行者の間でも現地のSIMカードを入れた携帯電話は普及している。最初は数人程度の集まりが、『何かオモシロそうなことやってるゾ!』と口コミからネットを通じて情報が広まったり、あるいはどこかのビーチなどで知り合った人と携帯電話で連絡したりといった具合に、ゾロゾロ集まってきたものと思われる。
集まっている当人たちの脳天気さとは裏腹のメディアの取り上げかたの辛辣さに、ヒマラヤの奥に隠された西洋人ヒッピーたちの解放区という舞台設定の映画Charasを思い出してしまった。彼らは『(地元の人々が)ナイスな人たち』だの『美しい土地だ』などとしゃべっているが、自分たちの感覚がユニバースなものでないことを自覚しなくてはならないだろう。
ニュース映像では、森林の中にいくばくか景色の開けた部分があるように見受けられたが、具体的にどんな土地なのかはよくわからなかった。100人もの外国人旅行者が集まるということは、それなりに交通のアクセスや食料品・日用品なども手に入るなどといった、そこそこ便が良く、かつ過ごしやすいところなのではないかと想像される。公園当局や地元警察等は、彼らの排除もさることながら、その場所が今後も同様の人たちが集まることを懸念しているのではないのだろうかとも思う。
だがヒッピーであれ、その対極にある金満ツーリストであれ、外国から訪れる観光客を受け入れるということは、それなりの摩擦が生じるものであることも事実だ。感覚や常識にズレがある人々が次から次へと新たにやってくるのだから、いかに各方面から啓蒙に努めてみたところで、観光業から上がる収益を見込む以上は、俗に『観光公害』と呼ばれる現象が起きることは、ある程度仕方ないともいえるし、今後も似たような事例は続くはずだ。
程度にもよるが、より深刻な害悪については厳罰で臨むべきであろうし、外国人の側も訪問先の法律についての理解と尊重を求められる。
たとえば4月に入ってから、中国で覚醒剤の密輸にかかわった日本人に対する極刑の執行について、考えさせられることは多い。
中国、さらに日本人3人の死刑執行 いずれも麻薬密輸罪 (asahi.com)
死刑制度の是非、現地での取調べの方法や裁判の進行等に関する不備についての指摘もなされてはいるものの、国ごとに社会の事情は異なり、言うまでもなく独立したひとつの国家である。旅行であれ商用その等であれ、その国を訪れる人は現地の法制度を尊重しなくてはならず、『知らなかった』では済まされない。
この関係の報道で、外から眺めると麻薬に対して厳格なイメージが定着した中国だが、人々の間でかなり広くいろいろなドラッグが普及しているという背景があり、常用者たちに対する罰則は比較的ゆるく、本人たちの更正を目指す方向に力点が置かれているようだ。
蛇足ながら、覚醒剤ではないが大麻については、中国にもインドのマナーリー周辺のような地域がある。もちろん中国でも大麻を吸うことは違法であるが、雲南省の大理やその周辺では大麻が沢山自生している。
昔、大理を訪れたとき、ドミトリーに宿泊している長期滞在の外国人客たちが、摘み取ってきた大麻を部屋の壁に乾燥させては吸引しているのをしばしば見かけた。彼らは『質はともかく、タダなんですよ』などと言う男は、中国で大麻が合法なのか違法なのかも知らなかった。
今でもそんなおおっぴらなのかどうかは知らないが、聞くところによると大理には大麻が沢山あるという事情はあまり変わらないようだが、近年はそれなりに取り締まりがなされたり、逮捕される外国人なども出てきたりもしているらしい。
良くも悪くも、ひとたび旅行者たちの間で、彼らを惹きつける魅力(?)が喧伝されてしまうと、それを目的にやってくる人たちが長きに渡って続く。口コミはもちろんのことながら、ガイドブックであれ週刊誌等であれ、ひとたびメディアに取り上げられて話題になると、それを孫引きしたような記事がいろんなものに掲載されて衆人の知るところとなる。
景気、治安状況に左右されやすいことに加えて、ここが観光業の難しい点のひとつかもしれない。ラージャージー国立公園界隈はヒッピーの解放区ではないし、大理を訪れる人々の多くは大麻が目的というわけではないのだが、そうした風評がさらにこうした人々を引き寄せる誘因となり、こうした人々がそれなりの規模になってくると、彼らを目当てにした商売人たちも集まるようになってくる。
もっともラージャージー国立公園のほうは、国の管理下にあるエリアであり、先の報道がなされたことから、適切な処置がなされて、こうした滞在の仕方が定着することはないだろう。だが土地の人々にとって思わぬ方向にいってしまっている『観光地』の例は、色々な国で決して少なくない。
カテゴリー: travel
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ラージャージー国立公園
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大都会の中の静寂 聖地バーンガンガー
植民地時代の訪れ、つまり1534年にポルトガルがグジャラート地方の統治者であったクトゥブッディン・バハードゥル・シャーから譲り受けた土地に、城砦、港湾、都市を築き始めたことが、その歴史の始まりであると認識されているムンバイーに、ラーマーヤナの神話に連なる聖地がある。
マーラーバール・ヒルの高層建築に囲まれた只中にある、物静かな佇まいのバーンガンガー池のほとりにはいくつもの寺院やダラムシャラーなどが並ぶ。どこか田舎町を訪れているような気がする。ガートでは坊さんが信者のためにプージャーを執り行っている。ここが日々忙しい大都会ムンバイーの高級住宅地であることを忘れてしまいそうだ。

ラーマーヤナの神話の中で、ランカー島に連れ去られたスィーターの救出に向かう途中のラーマが立ち寄ったところであるとされている。渇きに苦しむ中、ラーマ自身ないしはラクシュマナ(両方の説があるようだ)が放った矢(baan बाण)が地に落ちた地点から、清水がこんこんと湧き出てきた。この水源が、遠く離れたガンガー(ganga गंगा)の支流とされたことが、バーンガンガー(baanganga बाणगंगा) の名の由来だという。この池のほとりにいくつもの寺が並んでいるが、ワールケーシュワル寺院である。

この池が出来たのは12世紀初めとされるが、ポルトガル時代においては、カトリック信仰の布教と並行して、ゴアで多くの寺院が破壊されてしまったのと同じく、ワールケーシュワル寺院もそれを逃れることはできなかった。
1661年に、ポルトガルのカタリーナ王女が、イギリス王室のチャールズ2世に輿入れするに当たってのダウリーとして、当時のムンバイーはイギリスに委譲される。地元の人々の信仰についてあまり干渉しない彼らの支配下になってから、1715年前後(1724年前後という説もある)にワールケーシュワル寺院は再建された。
しかし18世紀に入ったころのマーラーバール・ヒルは、無数の巨石と密林に覆われた丘陵地に過ぎず、地理的に当時の都市部に近い森林地帯ということもあり、盗賊や他の犯罪者たちが跋扈するエリアでもあったそうだ。
そのため、この寺院を中心とする集落に住んでいたガウル・サラスワト・ブラーフマンのコミュニティの人々は、自分たちの身を守るという目的から、他のセクトのヒンドゥー教徒たちがここに寺院やダラムサラを建設することを認めたことから、次第に門前町の体を成していくきっかけとなったようだ。
また交易と信仰の自由を標榜して、新興都市であったムンバイーへの移住者の増加を画策していたイギリス当局としても、商業と政治の中心地であったフォート地区から少し距離のあるマーラーバール・ヒルに宗教施設を誘致することを奨励していたという事情も追い風となったようである。
インド随一の大都会で、都市化以前の村の面影を残す、静かなバーンガンガー池とこれを取り囲む寺院群。チョウパーティー・ビーチ、マニ・バワン、コーターチー・ワーディー地区にも近く、ムンバイーを見物する際についでに訪れてみるといいだろう。早朝や夕暮れ時などが特に良さそうだ。
毎年1月にバーンガンガー・フェスティバルが開催され、古典音楽の演奏などが行なわれるので、訪問時期さえ合えばこちらもチェックしておくといいだろう。

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アライヴァル・ヴィザと2ヵ月ルール
年末年始あたりから話題になっており、『これでインディア』のアルカカットさんの記事『インドも遂にアライバル・ヴィザ導入か』でも詳しく取り上げられていたとおり、1月から観光客に対するアライヴァル・ビザの運用が始まっている。公式には1年という期限付きの試行運用で、対象となるのは日本、シンガポール、ニュージーランド、フィンランド、ルクセンブルグの5ヵ国の国籍を持つ人々。
一部のメディアによると、現在5つの国籍保持者のみが対象となっているこの試みを18か国にまで広げようという動きもあるようだ。実現すれば、欧州諸国を中心とするインドを観光で訪れる人々のマジョリティを占める国々はこの範疇に含まれることだろう。
主要国のインド在外公館でのヴィザ申請・受渡等を民間会社が請け負う形になったことに続く大きな変化といえる。おそらく大使館・領事館での事務負担の軽減と行政サーヴィスの民間委託という昨今の流れに沿ったものであろう。今のところ『試行』とはいえ、格段の問題が生じなければ、アライヴァル・ヴィザの制度は、対象国を拡大して定着するものと思われる。
アライヴァル・ヴィザで許可される滞在期間は1ヵ月。従来の観光ヴィザの滞在有効期間が6ヵ月であったものに比べて短いとはいえ、事前にヴィザ取得する必要がないことから、短い滞在の人たちにとっては、わざわざ大使館/領事館に出向く手間が省けるメリットはある。
相互免除の協定を結んでいない国家間であっても、たとえばASEANを例に取れば、タイやマレーシアのように、観光業振興の目的で、特定の国籍の人々に対しては、一定期間内の観光目的の訪問については、査証の取得を免除している。あるいはラオスやカンボジアのように、査証免除がなされていなくても、到着時に取得が可能という国は多い。アライバル・ヴィザの導入自体については、インドもようやくそうした時流に乗りつつあるという点で評価できるだろう。
だが、手放しで歓迎できない部分もある。まずは入国地点が限られることだ。料金は60米ドルと、通常の観光ヴィザよりかなり割高になっていることはさておき、デリー、ムンバイー、コールカーター、チェンナイの国際空港からの入国の場合のみ適用され、他の国際空港は今のところ含まれていない。また陸路の出入国については対象外のようだ。
また、この手段を利用する機会が制限されている点も問題だ。年に最大2回まで、前回の出国から2ヵ月以上の期間を空けるという条件がある。参考までに、下記ウェブサイトをご参照願いたい。
Tourist Visa -on –Arrival(在日インド大使館)
Instructions For Foreigners Coming To India (インド内務省出入国管理局)
アライヴァル・ヴィザはともかく、従来の観光ヴィザについても従前にはなかった措置が取られるようになった。マルチプル・エントリーを取得していても、一旦出国すると基本的に2ヵ月経過しないと、次の入国が認められなくなってしまっている。つまり6ヵ月のマルチプルで取得しても、実質最大3回までの入国しかできないことになる。
それでは取得したヴィザをVOIDして再取得すれば、直近の出国から2ヵ月経たないうちに入国できるかといえば、基本的にヴィザ再申請は出国後2ヶ月経てから、ということになっている。
ただし査証取得前に周辺国等も合わせて訪れることがはっきり予定されていれば、インドの取得時に旅程表や航空券の予約記録等も提出することにより、インドから隣国へ出て半月後にインドに戻る、といったことも可能なようではある。
またすでにインドに滞在中であれば、必要書類等を提出したうえで、外国人登録局の判断により、再入国の許可を得ることができるようことにはなっているようだ。またインドの在外公館にもそうした権限が与えられている。
例えばインドを出てバーングラーデーシュのダーカーに行き、1週間滞在してからインドの西ベンガル州に戻りたいといった場合、在ダッカのインドの高等弁務官事務所(大使館に相当)にて、相応の手続きにより申請者の再入国を認める措置を取ることができるようにはなっている。
しかし、あくまでも該当事務所なり公館なりが判断を任されているとのことで、タイミング、担当者の判断、上役の考え方、申請者自身の運などによって左右されることが往々にしてあることと思われる。
アライヴィル・ヴィザの導入、つまり問題が生じていない国々の人たちに対する査証審査手続きの簡略化の背後には、行政のスリム化への志向と観光業振興というふたつの目的によるものであろう。
しかし時を同じくして導入された2ヵ月ルールについては、しばらくメディアを騒がせてきたヘッドレーとラーナーという、ともにパーキスターン系でそれぞれアメリカ、カナダ国籍の男たちが、インドで起きた数々のテロ事件を裏で操っていたとされることが明るみに出た事例等により、外国人たちの出入国・在留管理をより厳しくしようという狙いがある。
もともとパースターン、バーングラーデーシュ国籍の人々について、とりわけ前者に対しては、たとえ親族訪問や観光目的であったとしても、他国籍の人々に較べてずいぶん厳しい審査がなされていたし、入国してからも滞在先を移るたびに警察署への出頭と報告が義務付けられていた。もちろん当人たちがそれを几帳面に行なうかどうかは別の話で、一旦インドに入国後に行方がわからなくなっているケースは相当数に上る。
従前より、インドヴィザ申請書類には、『以前、他の国籍を持っていたか?それはどこの国籍か?』を問う項目があったが、現在では別紙により申請者の両親の出自(国籍)等を記入させるところもあるようだ。たとえば日本生まれの日本人であっても、たとえば父親がパーキスターンの出身である場合、何がしかの不利益を蒙る可能性があるかもしれない。
ともあれ『緩和』と『厳格化』という、ふたつの相反する要求を踏まえて、取り急ぎ見つけた着地点が、『アライヴァル・ヴィザ』と『2ヵ月ルール』をセットで打ち出すことであったようだ。
だがこれらは現行の規則に付け焼刃で無理のある細則が付加されたかのようで、実際の人々の行き来や社会的な要請に対していくつもの矛盾をはらんでいる。今後、インドの査証システムについては、包括的な見直しがなされる前の過渡期的な状態にあるのではないかと私は考えている。
そもそも外国人の出入国・在留管理を根本から見直す必要が出てきているため、多くの人々にとって納得できるものが早期に打ち出されることはないだろう。
やや古いもの(12月下旬と1月下旬)ではあるが、2ヵ月ルールによる混乱・困惑を伝えるBBCの記事を挙げておく。
India visa move brings complaints
India visa changes strangle business
アライヴァル・ヴィザ、2ヵ月ルールともに、今後どうなっていくのか注目していきたいが、そもそも後者の導入の原因となっている隣国ないしはそれと深い縁を持つテロリストあるいは黒幕たちの動向についても気がかりなものがある。
すでに様々なメディアで伝えられている『テロの国産化』の動きだ。パーキスターンを拠点とするテロ組織がメンバーをインドに浸透させての活動について、外交上の支障に加えて、インド以外の第三国からの圧力や干渉を招きかねないこともあり、SIMI (Students Islamic Movement of India)やこれと深い関わりを持つIM (Indian Mujahideen)といったインドの『地場組織』を活用する試み、彼らを自国に招いての工作・テロ活動の訓練の事例についても、よく伝えられているところだ。
もちろんメディアの報じる過激な内容には、かなりマユツバなものも含まれているため、そのまま全てを盲信するのはどうかとも思う。しかしパーキスターンの三軍統合情報局ISIによるテロ組織とのその活動への関与はともかく、同国政府自体が不安定な状態が続いており、同国内でも地域的に当事者能力を欠いていることも、また違った次元での懸念材料だ。 -
BHUJ 4
この日、オートリクシャーで手工芸の村めぐりをする。一番遠い村は50キロ離れているため、往復で100キロほどになる。
織物の村であるブジョーリー(भुजोडी)に行き、次に染物とチャパーイー(ブロック・プリンティング)のアジラク(अजरख्,)、そして 刺繍が盛んなダナンティ( धनंति)、アジラクと同じく染物とチャパーイーのダマンカー(धमंका)を訪れることにした。
最初に訪れたブジョーリーでは、冬には夏のために綿布、夏には冬のために毛の織物を作っているという。作業場で織物の仕事をしばらく見物してから、これを経営するヒンドゥーの家族の住む敷地に移る。ちょっとしたショールームがしつらえてあり、ショールその他の完成品が山と積まれていた。ちょっと買ってみたいものもあるとしても、あまりゴリ押しされると興醒めであるが、後で訪れた村も含めて、どこも特にそういうことはないのは良かった。



次にアジラクへ。ここは染物とブロックプリンティングの村である。これらの作業は別々に行なわれるのではなく、一連の工程で両方を行なうことにより、製品が出来上がっていく。

訪れたところはムスリムの経営者の息子スフィヤーンという男性が留守番をしていた。あごひげを蓄えているが、まだ20代前半だろう。カトリーのコミュニティの人らしいが、彼の家はもともと現在パーキスターンになっているスィンドから移住しており、彼ですでに五代目になっているのだとか。
ここではすべて植物性の染料と錆びた鉄などが使われるのだそうだ。インディゴの草とはどんなものか知らなかったが、これまで私はただの雑草だと思っていたものがそれであった。
その次に訪れたのはダナンティ。ここは刺繍の村であり、女性たちがチクチクと細かい仕事を続けている。毎日8時間作業をしているのだという。技が非常細かいだけではなく、まったく同じ形を正確にいくつも作る器用さに感心した。この仕事をする女性たちは、たいてい10歳くらいから始めるとのことだ。

慣れてしまうと退屈な仕事ではないかと思うが、村のアヒールというコミュニティの女性たちが集団で行なっており、気の合う同士で肩を並べておしゃべりに興じながら進めていくので、まあ気は紛れるのだろう。デザインは、クジャクや象などの動物の柄に加えて、幾何学模様にもいろんなパターンがあるようだ。

この村から最後に訪れるダマンカーまでの道のりで事故現場に遭遇した。トラックと白い小型乗用車が正面衝突している。乗用車は大破していた。乗用車は反対車線にあったので、おそらく追い越しをしようとして前方から来たトラックに衝突することになったのだろう。何人乗っていたのかわからないが、少なくともそのクルマの中にいた人が無事であるとは思えない。
私たちが今こうして進んでいるところまでは、そのクルマは普通に走っていて、ほんの少し先で悲惨な運命が待ち受けているとは思いもよらなかったに違いない。まさに一寸先は闇である。それでも、人々が皆もう少し丁寧に操縦すれば、こういう事故は大きく減るのにと残念に思う。
最後に訪れたダマンティでは、昨日大雨が降ったため、この日は作業中止だという。ここもブロックプリンティング、つまりチャパーイーの村だが、訪れた先はムスリムで、行なわれている作業と製品もアジラクと同じだ。2001年の大地震で壊滅の後に、相当数の人たちがアジラクからダマンティに移ったためだという。
ここではちょっと面白い布を見た。生地の表側が絹で裏側が綿になっている。どうしてそんな作りになっているかというと、かつてカッチのある地域を領地としていたムスリムの支配者が所望したのが始まりだという。作業場の主によると、イスラームでは、ある解釈によれば男性が絹をまとうことをよしとしないのだという。それで裏側を綿にして、身体には直接触れないようにするという画期的な発明(?)であったとのこと。肌に触れないからといって、それで本当に『絹の衣類を着ていない』ことになるのかどうか知らないが、まるで一休さんの頓知話みたいである。

今回は訪れなかったが、カッチ地方には、乾燥地もあれば、湿地もある。砂漠の村の生活もあれば、古来よりガルフ方面への海路の出口として栄えたマンドヴィーのような港町もあるなど、大きな変化と豊かな広がりがある。もっと時間を取ってじっくり訪問してみたいところだ。Rann of Kutch(カッチ湿原)に面し、国境近くに位置するカッチ地方は、今となってはインドの西の果てであるが、かつては『同じ国内の一続きの世界』であったパーキスターンのスィンド州でも、今のインドよりも30分遅れで同じ時が流れている。
カッチ地方を経由しての隣国との行き来はないため、今やこの地方は袋小路の行き止まりのようになっているが、交通の不便なカッチ湿原を手前にして交易等の盛んなオアシスのようなところであったがゆえ、人々が東西に往来する交差点となり、富が集積されるとともに、独自の個性豊かな文化を育むことになったのだろう。 -
BHUJ 3

この日は最初に訪れたシャーラド・バグ・パレスは、アーイーナー・メヘルから見て、ハミサール・レイクの反対側にある。ここには1991年に手放すまで、ラージャーの家族が暮らしていたとのことだ。ゆえに最近のガラスのテーブルやソファなど、今の時代のリビングに普通に見られるような家具もある。


それでも、昔の家具、シャンデリア、振子式時計、クローゼットの類などは、欧州から取り寄せたもので風格がある。野生動物たちの剥製もある。もっとも大きなトラの剥製は、カッチでの狩猟後にわざわざマイソールに送って作らせたものだというだけに、非常に出来が良い。経年により色褪せる前には、本当に生きているかのような感じであったのではないかと思う。 獲物を仕留めた後、横たわるトラとともに撮影した写真もある。他の多くの領主たちと同様、インド独立前の時代のラージャーたちは狩猟が趣味であったようだ。
ここの裏手に住んでいるという学芸員氏によると、2001年の大地震の際には、特に旧市街の建て込んでいる場所では建物の倒壊や崩落が多く、被害が甚大であったという。人口13万でしかない街で、2万人余りの死者が出たということは大変なことである。
当時、このパレス自体にも大きな被害が出たため、復興するのは大変だったということだ。現在、博物館となっている建物のすぐ横にはねもっと大きく堂々とした洋館がある。展示されている昔の写真と見比べてみるとよくわかるのだが、建物の上部が崩落してしまっている。また背後に回るとかなり広範囲に渡って崩落してしまっている。


その後、街の南にある池の反対側にあるチャトリ群に向かう。オートの運転手は『すべて壊れているから行っても仕方ないよ』と言うが、確かに着いてみると、いくつかは修復の手が入っているものの、あまりに無残な光景であった。震災から10年近く経った今も、その破壊のエネルギーの凄まじさを見せつけているかのようだ。

ただし一部では相当力のこもった修復作業が行なわれたようで、完璧に新築(?)されているところもあった。見た目がやたらとピカピカなので、周囲に馴染むまでかなり時間がかかりそうだ。

その後、バーラティーヤ・サンスクリティ・ダルシャンへ。『バーラティーヤ・サンスクリティ(インド文化)』とあるが、実際にはグジャラート州、とりわけカッチ地方の郷土博物館である。著名人、生活文化、手工業その他に関する様々な展示が屋内外でなされている。コンセプトの自体は悪くないのだが、ちょっと展示品が少ないこと、各種解説がグジャラーティのみで書かれており、ヒンディーまたは英語による表示がないのは、州外から訪れる人も多いはずなのだが、いかがなものか? -
BHUJ 2
プラモード・ジェーティー氏は、ずいぶん前からアーイーナー・メヘルの中に観光案内所のデスクを構えている。氏はこのメヘルの中の博物館の学芸員という立場も兼ねているのだが、今も健在であった。
彼はプライベートなツアー・オペレーターであり、彼自身がベテランのガイドでもある。メヘルの近所に暮らすこの人物は、モダンなゲストハウスも経営するやり手の商売人ではあるが、この地域の歴史や民俗に詳しく、文化人といった雰囲気も漂わせている。
彼が作製したカッチ地方の地図も無料で配布している。なかなか良く出来ており、カッチ地方の位置関係や距離が一目でわかるようになっている。また宿泊可能な町、村、警察の許可が必要な町も記されている。カッチ地方やその周辺では、パーキスターン国境に近いため、訪問するためには警察の許可(・・・といっても無料だし、すぐに取得できる)が必要なところが多い。背面はブジの地図になっている。

彼が執筆したカッチ地方のガイドブックもここで販売している。カッチ地方の歴史、小さな町や村なども含めた各地の見どころ、各部族の紹介、地域文化手工芸品などが簡潔にまとめられた100ページほどの冊子だが、手っ取り早くこの地域について俯瞰するのに役立つ資料である。
ページをめくっていると、ブジから40キロほど離れたアンジャールの町についての記述にちょっと気になることが書かれている。先の震災で特に被害がひどかった地域のひとつであるが、これまで幾度も大地震に見舞われていることが書かれている。19世紀以降でも、1844年, 1845年, 1874年, 1941年, 1956年、そしてしばらく間が空いて2001年の大地震が襲ってきたのだ。カッチ地方は昔から地震の多発地帯であるらしい。
歴史的にはそれほど頻繁に震災を繰り返している割には、直近の震災以前のことについてはあまり伝えられていないようだ。それ以前の震災からずいぶん時間の経過があり、これらの記憶が風化していること、あまり記録が残っていないことが最大の理由だろう。特に19世紀のものともなると、ほとんど風聞や伝説のようなものであり、今となっては当時の被害状況について正確な数字を知ることは不可能だ。
もちろん、地域の人口が増えており、それに比例して被害者も多くなる。また建物が高層化しているため、昔よりも被害が大きくなりやすいということもあるため、やはり最近の震災のほうが被災状況はより大きなものとなったに違いない。
夕方、宿泊先のホテル内のレストランでHakka Noodleを注文。およそ中華料理メニューのあるところならば、どこにでもある定番アイテムだ。Hakkaという名前が付いているのは、インド中華の本場であるカルカッタに客家人が多いということ、中華コミュニティの中で彼らがマジョリティを占めているためだろう。だがインドでは、Hakka Noodlesをどう定義しているのだろうか。ときどき食べているが、Chowmeinとどう違うのかよくわからない。 -
BHUJ 1

久しぶりにカッチ地方のブジの町を訪れてみた。街のたたずまいはもちろん、周囲には伝統的な暮らしが残っており、様々な部族の人たちが独自のライフスタイルや生業を維持しているカラフルな地域だ。
2001年のリパブリック・デイ(1月26日)の日の午前8時46分に大地震が襲ったことにより、当時人口13万超のこの街で2万人もの死者。9割の家屋が破壊されたという。 この地震の前に幾度か訪れたことがあるが、その後どうなっているのかちょっと気になってきた。 昨年11月に『過去のイメージ』 で取り上げてみたとおり、衛星写真においても大地震の爪跡の凄まじさと復興の進展が感じられる。
しかしながら私自身はそこを観光で幾度か訪れた程度であり、ブジに居住したこともなければ、現地の方で親密な付き合いをしている人物があるわけでもないため、この街が復興したとか、9年後の今もその痕跡が、などということを言うつもりもない。それでも当時伝えられた被害があまりに大きかっただけに、ついついその部分に関心を持たずにはいられない。
ただ、カッチ地方の中心地としてそれなりに栄えていた町が、どうなっているのか関心があり、近くに行く機会があればぜひ立ち寄っておきたかった。
そんなわけで、この町にやってきて、とりあえず宿に荷物を置いて歩いてみる。10年ひと昔というが、すでにそれに近い年月が経過しているため、現在もガレキや廃墟と化した建物が、そこここに残っているわけではないことにはホッとした。
たとえ大きな震災で甚大な被害を受けたとはいえ、カッチ地方の経済の要衝であるという重要度には変わりがないため、それなりに元通りになっていくのは当然のことだろう。
一見、何も変わらないように感じられるのは、災害があってからそれなりの時間が経過しているため復興していること、建て替えられた建築物がある程度の時間の経過により相応に風化していることなどが理由だろう。住宅、店舗、道路等々、どれも地権者が決まっているため、基本的には元とまったく違った町並みが出現するはずはないのである。
もちろん例外もある。旧市街からバススタンドに向かう道すがら、以前はかなり密度の高い地域であったところが、すべて高層住宅、日本でいうところの『マンション』のような建物に変わっていた。震災と関係があるのかどうかわからないが、多分に廃墟と化した際に、これをビジネスのチャンスと見た開発業者が乗り込んできて用地をまとめて取得したと考えるのが妥当だろう。


当時から存在しており、幾度か食事のために立ち寄ったことがあるホテルに今回滞在したが、これはすっかり建て替えられていること、震災一年前に利用したホテルがあったところは空き地となっていることに気がついた。
アーイーナー・メヘル裏手はひどく崩壊したままで、その手前にあるプラーグ・メヘルの一部も破損のため一部にしか入ることができなくなっている。またその両方を含む敷地の外壁がかなり大きく壊れたまま放置されている。
町の南側には、90年代に次々に建てられた高層のコンドミニアムが何棟もあったのだが、それらの姿は無くなり、より背の低いビルが建ち並んでいる。 旧市街にある屋根の付いた立派なマーケットもかなり損壊の痕が認められる。
その近くに、以前幾度か訪れたときによく立ち寄ったり買い物をしてみたりした衣類の店がある。女性店主は都会的なセンスのある人で、なかなか気の利いたモノを売っているのは今も変わらず。アーイーナー・メヘル付近というロケーションもあり、出入りするお客はヨソから訪れたインド人や外国人が大半といった具合。今も同じように営業しているのがうれしい。みやげにしようと、子供用の衣類を購入してから『ずいぶん前にも幾度かお邪魔しましたよ。そのときもお会いしているはずです』と声をかけた。
店主が微笑みながらの『いつ来ました?』と問う。『だいぶ前のことで、2000年でした』と答える。一瞬の間を置いて彼女は『私じゃ・・・ないわね』と顔を曇らせた。そのころは身内の方が店に出ていたそうだが、震災で亡くなったためその人よりも年嵩の彼女が引き継ぐことになったようだ。うっかり余計なことを言ってしまって申し訳ない。
歴史的な建物以外はそうそう記憶しているものではないものの、場所にもよるかと思うが、大半の建物が倒壊ないしは大きく破損していたであろうことを思えば、さすがに10年近くの歳月があれば復興していて当然とはいえ、その背後には人々の沢山の苦労があるのだろう。災害以前と見た目は同じように見えるのは上っ面だけで、その中身はずいぶん違っているのではないだろうか。地震大国日本の人間としても震災は他人事ではない。

2001年の大地震において、地元のライフラインに与えたダメージに関連して、以下の資料が公開されている。
GUJARAT (KUTCH) INDIA EARTHQUAKE OF JANUARY 26,2001 (Edited by John M. Eidinger)
本日の夕食は、グジャラーティー・ターリー。州内各地で専門店は数多い。どこもおかずのバラエティに富み、店ごとに様々な個性がある。極めて満足感(満腹感?)の高い食事ではあるが、様々な甘い菓子も次々に出てくるのはまだいいとして、チャパーティーやプーリー等の小麦から成る主食ではなく、ご飯を頼んでしまうと『これでシメです』の合図になってしまうようであるのは、米食民族にはちょっと悲しい。

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ハチの御館
グジャラート州のバローダーからクルマで1時間ほどのところにあるチャンパーネール。付近の遺跡と合わせてChampaner-Pavagadh Archaeological Parkとして、2004年に世界遺産登録されている。
平地から丘(というよりも山)の上までに及ぶ偉大な遺跡群で、バローダーから充分日帰りは可能だが、できればここで一泊してじっくりと見学したい。遺跡については、各種ガイドブックやウェブサイト等で紹介がなされているとおり。敢えてここでその来歴等について記す必要はないだろう。

しかしチャンパーネールのジャマー・マスジッドで、蜂たちが実に立派な巣を複数築いており、思わず我を忘れて見入ってしまった。まるで『クマのプーさん』に出てくる蜂の巣みたいだ。




巣が黒く見えるのは、無数のハチたちが表面を覆っているため。それぞれが細かく羽を震わせて、何か作業をしているようであった。幼虫たちにエサを与えているのだろうか。

大きな巣の下部を拡大してみると、六角形をしたひとつひとつのセルが確認できる。更に巣を拡大しようという動きがあるらしいことも見てとれる。こんなものを仔細に観察していて、沢山のハチたちに攻撃を受けるようなことがあってはたまらないのだが。

・・・とはいえ、いやしくも世界遺産指定されているエリアの主要な建築物のひとつ。こんなに巨大なモノが出来上がる前になんとかならないのだろうか? -
ダマンへ 5

ナーニー・ダマンの海岸では、年季の入り、地金が露出しているマニュアル式のニコンやキャノンをぶら下げた写真屋たちが徘徊し、近隣州からやってきた観光客たちに声をかけている。遠浅で、干潮時には少し先にある小島まで陸続きになる。これが夕暮れ時に重なるとなかなか印象的な風景となる。そのタイミングこそが彼らの稼ぎどきのようだ。

浜から望むアラビア海のこの眺めは、Damanが『Damão』であった時代から変わることがないはずだ。海原を真っ赤に染め上げる雄大な日没を、往時の人々も日々眺めていたに違いない。

昔々、ポルトガルの人々はこの海を越えてやって来て、この地を彼らのものとした。長い時を経て、彼らはまたはるか彼方へと去っていった。

〈完〉 -
ダマンへ 4

ユニオンテリトリーであるがゆえに、公の施設等ではヒンディーと英語による併記が大半。民間の商店等ではグジャラーティーといった具合である。街の中心部でポルトガル風の建物にヒンドゥー寺院が入っているものは、ポルトガルが去った後に転用されたものではないかと思う。地元の信仰については寛容であったイギリスによる統治と違い、ポルトガル領ではカトリック以外の宗教活動はかなり制限されていたはずである。
ダマン・ガンガー対岸のモーティー・ダマンに向かう。こちら側ナーニー・ダマンからは、『パブリック』と称される乗り合いオートがある。「グラウンドのところで降ろして」と言っておけば、モーティー・ダマンの城壁南側に着く。ここから徒歩でゲートをくぐれば、ちょうどラテンアメリカの都市で『セントロ』と呼ばれるような街のヘソに出る。きれいに整備された公園の周りに大きな教会やダマンの中央郵便局がある。厳しい建物の刑務所もあった。


かつてここは、ダマンを支配した権力の中心地であったことから、見事な植民地建築が数多く残されている。もともとよく整備された街区であったことも、たたずまいからよくわかる。往時には支配層の人々もこのあたりに居を構えていたようだ。本土復帰後、城壁内の地域の多くは、統治を継承したインド政府の所有ないしは政府カトリックの教団の敷地である。そのため土地が切り売りされたり、建物が細分化されて間借人たちに貸し出されたりすることも稀であったらしい。昼間でも広々とした通りもとても静かで、人通りもごくまばらだ。やや誇張して言えば、街並みだけを残してゴーストタウン化してしまったかのようでもある。

400年もの長きに渡ってポルトガルの街として栄えた『Damão』の濃い面影というよりも、1961年12月、ポルトガルによる支配が終焉を迎えて以来、時計の針の歩みが止まってしまったかのようである。

〈続く〉 -
ダマンへ 3

朝食を済ませてから、ナーニー・ダマンを散策する。宿泊先のホテルのすぐそばにはメルカード(マーケット)がある。1879年に開設されたこの屋根付き市場は、もともと野菜や生鮮食品等を販売させるためにできたものだというが、1937年に改装・拡張されるとともに、衣類や雑貨といった食品以外のものを商う業者のみが店を開くようになり、現在に至っているという。建物のすぐ脇の横丁の道路では、食料品を扱う行商人たちがお客たちを相手にしている。

ダマンの訪問客の大半はグジャラート州あるいはマハーラーシュトラ州から来ているようだ。『BAR』と看板が出ていても、レストランや安食堂を兼ねているところも多い。ゆったりと朝食を摂っているお客もあれば、他のテーブルでは勢い良くビールを空けている者もある変な空間だ。もちろんそうした人たちは地元の人たちではなく、他州から来た観光客であることは言うまでもない。

ダマン・ガンガーの大きな流れはすぐ目の前で河口となり、アラビア海に注いでいる。この眺めに面したところに城砦の門がある。砦には敷地をぐるりと囲む巨大で分厚い壁以外は特に何もないが、中にある教会には今でも人々が集っているし、墓地にも最近埋葬されたことを示す墓碑がある。

いくつも並んでいる墓を眺めると、ポルトガルの治世が1961年に終わってからも、ある時期までは墓標がポルトガル語で書かれていることに気がつく。1980年代くらいから、ようやく英語で書かれるようになったようだ。
このあたりで、各家庭で主導権を握る世代、ひいては社会の中核を担う世代の交代が始まったことを示すのではないだろうか。つまりポルトガル語世代から英語世代への転換である。1961年時点で18歳前後の年齢層がポルトガル語で教育を受けた最終世代といえるだろうか。
ポルトガル語から英語への切り替えには多少の移行期間があったとしても、インド復帰時に10代前半くらいであった人たち以降には、教育の場でポルトガル語が教えられることはなく、英語に切り替わっているはずだ。1980年代初めに30代、後半には40代の年齢に達する。そのころのインドでは、引退する年齢は概ね今よりも早い。
今のところ、ゴアと同じく年配者で、ある程度以上の教育を受けた人ならば、まだポルトガル語を理解するというが、学校を出てからも社会生活の中でポルトガル語を日常的に使用する、あるいは理解できることを前提とした暮らしを送ってきた世代はともかく、ポルトガル時代の末期、つまり学校教育の中でポルトガル語を習得している最中であった世代、あるいはこれから社会に飛び立とうというところで、インドとの併合、つまり英語時代を迎えてしまった年代においては、それ以前の世代と比較してこの言語の運用力に相当の差があるはずであろう。
ゴアでもダマンでも『年配者はポルトガル語を理解する』ということをよく耳にする。都市部などで、同じ地域に暮らしているインド人同士で、ヒンディーないしは地元の言葉という共通言語があるにもかかわらず、英語で会話をする様子がごく一般的であるように、旧ポルトガル領であった地域で、特に一定以上の層では家庭内でもごく普通にポルトガル語が使用されていたということだ。インド復帰後も、一定の年齢以上のそうした人々の間で、地元の言語グジャラーティー以外にポルトガル語が使われるシーンは少なくないという。
ゴアでは、今でもポルトガル語によるミサが行われている教会があるし、ダマンにおいてもポルトガル語による讃美歌が歌われていたりするため、今も社会生活上でのポルトガル語はなんとか生き延びていると言えるのだろう。
しかしポルトガル領であった地域がインドに復帰してから50年にもなろうとする今、ポルトガル時代を、その世相や統治のありかたなどを包括的によく理解している最後の世代を『インド復帰時に18歳』と仮定するならば、現在67歳という高齢の人々、ごく例外的なケースを除き、ほぼ間違いなく社会の第一線から退いて隠居生活を送り、であることは言うまでもない。つまり旧ポルトガル領では、ポルトガル語が、いわゆる『危機言語』的な状況にあることになる。
1497年のヴァスコ・ダ・ガマがカリカットに上陸してから、とりわけ1510年のゴア征服以降、インドはポルトガルのアジアにおける最も重要な拠点となり、時代によっては必要に応じ、アジア域内の領土を包括する副王(初代はフランシスコ・デ・アルメイダ)が派遣されていたこともあり、一時はポルトガル議会をゴアで開催しようという提案さえあったほどだ。当然のことながら、宗教面でも重要な拠点となり、1534年には、ゴアにカトリックの全アジアを管轄する中心となる大司教座が設置されている。
インドにおける欧州植民地勢力としては最も歴史が深く、人々の信仰や生活慣習面では極力干渉を避けていたイギリスとは異なり、宗教的に非寛容であったポルトガル支配下において、植民地化の地元社会に対する宗主国の影響力は数段大きかったようである。
国際的な英語の語彙中には、khaki、bungalow等々、インド起源の言葉は少なくないが、インド統治時代の歴史的な語彙にnabob、boxwallah等々、様々なコトバがある。また現在インドで使用されている英語の中にも、当然のことながら現地での言葉からの借用語は少なくない。bandh、hartalといったスト行動を示すもの、lakh、coreといった数詞などはその代表的なものである。
詩人ボカージェ(Manuel Maria Barbosa du Bocage)は、軍人として派遣されてダマンに暮らしていたことで知られているが、地元でもポルトガル語による文芸やジャーナリズムといった活動があったことから、旧ポルトガル領地域においても地元の語彙を豊富に吸収した豊かな表現や言い回し、ポルトガル領インドにおける当時の宗主国の言語による文芸活動などからくる知的な遺産もさぞかしあったのではないかと思う。
旧宗主国を同じくするブラジルで、独自のポルトガル語を発展させていったのと同じく、インドのゴアを中心とする旧ポルトガル領では、彼らならではのポルトガル語を育んでいたはずだ。しかし旧英領地域が主体であるインドへの『復帰』により、教育や社会生活に必要な習得すべき言語が英語に移行してしまったことにより、それまで磐石の重要なポジションを占めていたポルトガル語が、突如として遠い彼方の国で話されている『外国語』の地位に転落してしまう。

今でも一部年配者たちの間で、細々と命を繋いでいるポルトガル語だが、前述のとおり、仮にインド復帰時18歳であった年齢層をポルトガル語最終世代とするならば、あと3年で70歳となる人々である。一般的に、社会的な影響力を及ぼす年齢ではなくなっているし、この国では平均寿命が63.7歳ということを思えば、あと10年も経てば、旧ポルトガル領地域で今でもポルトガル語を話す人がいるなどとは言わなくなっているだろうし、そこから更に10年後には、ほとんど遠い昔話となっていることだろう。
そのころには街の通りの名前からもポルトガル語が一掃されてしまっているのかもしれない。

〈続く〉 -
ダマンへ 2

ヴァーピー駅からオートで走っている最中、こちらグジャラート州側と連邦直轄地ダマンの境目はどのあたりかと思っていると、街並みがまばらになってきたあたりでゲートが見えた。
こちらからダマンに入る際には特に車両を停めてチェックしたりということはないが、あちらからグジャラートに入る際には、形式的ではあるが停車させられて警官が中を覗き込んだり、何か質問したりしているようであった。おそらく気が向いたら荷物を調べたりもするのだろう。
ヴァーピーのオートリクシャーは、ダマンまで直行することができるが、反対にダマンから来る際、ダマンを地元とするオートの場合は走行できるのは、このゲートの手前までで後はヴァーピーの車両に乗り換えなくてはならないようだ。ヴァーピーのオートはCNGエンジンが義務付けられているが、ダマンでは今もガソリンエンジンであることから、州境を越えて乗り入れることは許可されていないとのこと。
マハーラーシュトラ州境近くのダマン、そしてグジャラート州のサウラーシュトラ南端に位置するディーウと、地理的には離れていながらも、連邦直轄地のダマン&ディーウというひとつの行政区を構成しているため、今なお禁酒となっているグジャラート州から来ると、それまでグジャラーティー語の洪水であった街中の看板に、連邦の公用語であるヒンディー語で書かれたものが多く混じってくる。特に役所や公の機関などでは当然のごとく後者で書かれていることに加えて、境の向こうではご法度であった酒類を扱う店、つまり酒屋やバーが多いことなど、視覚的にずいぶん違うものがある。
グジャラートに住んでいても、境目あたりに家があったりすると、夕方ちょっと『向こう側』で一杯ひっかけてから帰宅する、なんて人もけっこうあるのではないかと思う。州境に住んでいると、自宅に持ち帰るのはリスクがあるかと思うが、実質のところ禁酒州外に暮らしているのとあまり変わらないかもしれない。中には持っている地所が両側にまたがっているなんていう幸運なケースもあるかもしれない。
これまで来た道を左に折れてまっすぐ進むと海原が見えてくる。ダマンの街はもうすぐそこだ。DD(ダマン&ディーウ)ナンバーではなく、GJ(グジャラート州)やMH(マハーラーシュトラ州)のナンバープレートを付けているクルマがとても多いが、酒屋の前に乗り付けて、店頭でウイスキー、ラムその他を品定めしていたりする姿が目に付く。彼らはダマンで宿泊しているのかもしれないが、週末などに、自家消費の目的でこっそり買い付けに来る人も少なくないのだろう。たぶん州境の検問で捕まった場合の出費はそれなりに覚悟のうえで。
そもそもゴアがそうであるように、ダマン&ディーウでも、インドの他の地域よりも酒類の種類は豊富で、値段もかなり安いので飲兵衛にはありがたい。とりわけ隣接する禁酒州グジャラートからやってくると、その魅力がどれほどのものであるかは想像に難くない。
そんなわけで、ディーウでもそうだが、ダマンでもバーや酒屋は朝から開いており、特に週末などは午前中からそれなりに繁盛していたりするようだ。だからといってダマン&ディーウの住民が、とりわけ酒飲みであるなどというわけではなく、消費の大半は地域外からやってきた人たちのものであることは間違いないだろう。
ダマンの街は、ダマン・ガンガーという河を境に、モーティー・ダマンとナーニー・ダマンに分かれている。これらはそれぞれバリー・ダマン、チョーティー・ダマンとも呼ばれている。
商業地区は密度の高いナーニー・ダマンであり、モーティー・ダマンは城壁に囲まれたエリアが主に行政地区で、ゆったりとした街区に政府関係の建物や大きな教会が点在しており、その外には住宅地が広がっている。

ナーニー・ダマンの飲み屋の多い地域にヘリテージなホテルがある。Hotel Marinaという何の変哲もない名前だが、建物自体にその価値がある。ここはダマンのガバナーの公邸であったものだ。1861年、つまりポルトガル支配終焉のちょうど100年前に完成した建物である。マンに現存する植民地期建築には、もっと規模の大きなものが沢山ある。そうと言われなければ『あ、ちょっと立派な感じの屋敷があるな』とそのまま通り過ぎてしまうかもしれない。
由緒ある建物で、きれいにメンテナンスされている割には、同ホテルのウェブサイトに示されている宿泊料金を見てわかるとおり、ヘリテージ・ホテルとしては格安だ。私が訪れた際には満室で泊まることができなかったが、エントランス、レストラン、ホテル内の廊下などにはやはり歴史の重みを感じさせるものがあり、他のもっと高いホテルよりも魅力的に感じる。
レセプションの背後に、いくつかのテーブルが並べてあり、ビールや食事を頼むことができる。開け放たれたドアのすぐ正面にはダマン警察本部があり、ヒマそうで緊張感はないが、それなりに関係者その他の出入りはある。
ボーイに『ビールもう一本!』と頼む私のすぐ目の前に立ち番の警官。目と鼻の先の禁酒州グジャラートでは非合法となっている酒の密輸にまつわる記事が、毎日新聞紙上に出ていることを思うと、ちょっとヘンな気がするものの、なんだかホッとする。

〈続く〉
