朝6時半に部屋の外に出る。まだ夜が続いているかのように暗い。昨夕、食事で一緒だったKさんとジープに乗り込む。彼はベンガル人だがマハーラーシュトラのプネー育ち。留学先のアメリカで大学を卒業してから10年間ほどカリフォルニアに住んでおり、2008年までフィリップスでIT関係の仕事をしていたそうだが、不況のため仕事を失い、現在は同じIT系企業に勤めているという。毎年家族とともにインドに帰っているそうだ。ザイナーバードには奥さんと息子さんおよび奥さんの両親と訪れている。
朝方はかなり冷え込み、フリースのシャツの上にジャケットを着て出かけた。運転手は寒さで縮こまって運転している。途中で東の空からゆっくりと大きな太陽が昇ってくるのを目にしながら、私たちは池へと向かう。


ごく小さな池を想像していたものの、到着してみるとちょっとした湖とでもいうべき規模であった。ペリカンや二種類の異なるタイプのフラミンゴが無数にうごめいている。数百羽いるだろう。水場から少し離れたところには、ツルの種類の鳥の姿もある。



塩分を多く含んだ不毛の大地ではあるのだが、私たち人間にとってはあまり利用価値のない土地であり、ところどころに茂る潅木や塩気に強い類の雑草がまばらに生えているのを除き、地味豊かな大地ではあり得ないのだが、少なくともこうした鳥たちが捕食する生き物は充分に生息しているらしい。もちろんこの地域に居住する人間が極端に少ないということも、彼らの生存を保障するひとつの要因ではあるのだろう。

その他、陸地にはいろいろな珍しい鳥たちがいた。キツツキに似たもの、スズメのようなもの、ヒバリのようなもの等々が沢山見られる。せっかくいろいろな珍しい鳥たちを見ることができる機会なので、特に関心のある方には鳥類のガイドブックとして、インドの大都市で手に入れることのできる以下の書籍を携行されることをお勧めしたい。

Pocket Guide to the Birds of the INDIAN Subcontinent
著者:Richard Grimmett, Carol Inskipp, Tim Inskipp
発行:Oxford University Press
こうした野生の鳥たちを眺めながら、変なところでカラスという生き物には感心した。もちろんカッチ湿原にもカラスたちの姿はある。本来ならば自然の中で暮らす生き物のはずではあるが、鳥類の仲間の中で最も環境の変化に対する適応力に富むのは、言うまでもなく彼らである。

通常、野生の鳥たちは都市化等により、生活環境が変わってしまうと、そこに暮らしていくことができなくなる。餌となるものが見つからなくなり、住まうべき森や水場などがなくなり、巣作りをするための材料が手に入らなくなると、もはや生きていくことができないのである。
しかしカラスたちの場合は、およそどんな環境にあっても、人間たちが暮らしていける程度の場所であれば確実に適応する。どんな類の食物であっても貪欲に摂取するし、巣作りだってビニール紐であれ、スチール製のハンガーであれ、器用に利用してしまい、ビルの谷間の物陰でひっそりと、しかし立派に子育てをしてしまう。
仮に猫の平均的な知能を1.2という数値で表すとすれば、犬はおよそ1.5くらいに相当するという。しかし一般的には哺乳類よりも下等であるとされる鳥類でありながらも、カラスの場合はこれが2.0相当で、人類の友とされる『賢いペットたち』を軽く凌駕してしまうほどの高度な知能の持ち主である、ということを何かで読んだ記憶がある。
その頭の良さがゆえにカラスたちは、生活の場が大きく変化しても、機転を利かせて生き抜いていくことができるし、集団で暮らす彼ら自身の『文化』のようなものさえ持っているのだという。
例えば『道具を使う』という行為である。殻の中に入っていて、クチバシで割ることのできない木の実、あるいはプラスチックのケースの中にあって開けることのできない食べ物があったとする。それをクルマの往来のある道路に置き、通行する車両がそれを破壊してから安全なところに持ち運んでから食すという行為は普通に見られるのだという。
何かを利用して結果を得るという知恵があり、他のカラスがそうしているのを目にして、『これはいいアイデアだ』と知覚して模倣する能力があるのだそうだ。そういう賢い鳥だけに、ハタ迷惑な存在として疎ましがるだけではなく、何か有効に活用する手立てはないのだろうか。
池では、魚を取っている人たちがいた。この人たちにとって、フラミンゴのいる景色はごく日常のことである。ときおり、水牛やヤギなどの群れに草を食べさせるためにやってくる人たち、燃料となる牛糞、水牛糞を拾い集めにくる女性たちの姿がある。

どこまでも平らに広がる荒涼とした風景。あちこちに白く粉を吹いたようになっているのは塩分だ。ガチガチに大きくひび割れたところもあれば、芝生状にわずかな草が繁っている部分もある。乾季は、今目にしているようなカチカチの平原となるが、雨季には真水と海水が交じり合う汽水で満たされた湿地帯となり、盛り土の上を走る道路以外では行き来が出来なくなるのだ。目の前にしている光景からはちょっと想像もつかない。

日がすっかり昇ると、かなり暖かくなってくる。上着を脱いでちょうどよい気温になってきた。そろそろ腹も減ったので、宿に戻ることにする。
カテゴリー: travel
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Rann of Kutch 2
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Rann of Kutch 1
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グジャラート州東部からパーキスターンのスィンド州のインダス河口にかけてカッチ湿原 (Rann of Kutch)と呼ばれる低地が広がっている。雨季には、雨による氾濫とともに海水が混ざり合う泥地となる。しかし乾季には乾燥した固い大地となり、ジープ等の四輪駆動車での走行が可能となるものの、塩分を多く含む大地であるがゆえに、もちろん耕作には適さず、人口密度の極端に低い地域である。
カッチ地方の行政中心地であるブジに向かう際には、鉄道であれ道路であれ、盛土した土手の上を走ることになるため、その一部を車窓越しに垣間見ることはできるものの、いつかそこを訪れてみたいと常々思っていた。地質的に稀な地域であるということもあるが、ここは野鳥の宝庫としても知られている。
Rann of Kutchは、地理的にふたつに分けられる。Google Earthで眺めると、インド・パーキスターン両国にまたがる、湾とも大地ともつかないカッチ大湿原 (Great Rann of Kutch)と、カッチ湾の入り江につながるカッチ小湿原 (Little Rann of Kutch)である。グジャラート州のカッチ地方は、このふたつの広大な湿原の存在により、長く外界と隔たれていたため、独自の文化とアイデンティティを育むこととなった。
さて、そのふたつの湿原であるが、当然のことながら足の問題がある。カッチ大湿原の地域には、雨季でも安定した陸地となっている場所には町があり、パーキスターン国境に近いそれらのエリアでは、事前に警察でパーミットを取得すれば訪問することができる地点は少なくないものの、センシティブな関係にある隣国からの侵入者が警戒される地域でもあり、どこかでクルマをチャーターして湿原を走るという具合にはなっていないようだ。
いっぽう、より内陸に位置するカッチ小湿原では、そういう制限はない。国立公園になっていることから、森林局で許可を取得すれば自前の四輪駆動車かオフロードバイクで存分に走ることができるとはいえ、私はそのどちらかを所有しているわけではない。
湿原周辺のいくつかの町では、国立公園でもあるその地域の見物を売りにする施設がいくつかあるが、その中のひとつザイナーバードという村にある宿泊施設を利用することにした。そこでは日中一杯、湿原を訪れるサファリをアレンジしているということだ。もちろんその村には特に見るべきものはなく、宿泊客の目的は100%湿原(・・・といっても乾季に一部残る池を除いては砂漠のようなものだが)見物であることは言うまでもない。
列車をヴィーランガーム駅で下車して、タクシーで1時間ほどのところにある村。駅前からごく狭い市街地を抜けると踏切でしばらく通過列車を待つ。インドの貨物列車はずいぶん長いなあ、とよく感じていたので数えてみると52両。機関車と最後尾の乗務員が搭乗する車掌車を含めると54両編成である。
道の両側には畑が続くが、栽培されている作物の大半はクミンか綿花であることから、いかにも『痩せた大地』という印象だ。
宿に着いたときにはすっかり陽は落ちて真っ暗になっていた。敷地内には、この地域の民家を模したコテージが散在している。ここで働く人が数人ヒマそうにしている他には人影がないのは、みんな夕方のサファリに出払っているからであった。薄暗い電球の灯った東屋でチャーイをすすりながら日記でも書くことにした。
やがて戻ってきた何台かの四輪駆動車から降りた人々が集まってくる。東屋の端に料理が並べられて賑やかな夕餉が始まる。西洋人のグループがひとつとファミリーで来ているインド人たちが数家族。コールカーターから来た写真家集団の姿もあった。食事で同席したアメリカのシリコンバレー在住NRIのK氏によれば、彼らはアマチュアながらもインドの写真愛好家たちの中ではよく知られた存在なのだとか。
実際には酒はいろいろ出回っているようだが、今も公にはグジャラートは禁酒州であり、こういうところでおおっぴらに飲む人はいないため、みんな食事が終わるとそそくさとコテージに戻っていく。翌日早朝からバードウォッチングに出るので、早く寝ることにする。 -
ダーラーヴィー 5
ダーラーヴィーのツアーで訪れた場所では、想像していたとおりの風景があった。例えばgoogleの画像検索でキーワードを『Dharavi』と入れると出てくる画像に見られるような景観などはその典型だろう。
だが同時に、やはりここは地理的な条件からやむなく都会の真ん中にみすぼらしい姿で出現せざるを得なかった『郊外』という部分もあるのかもしれないという思いも強くした。
ムンバイーといえば、インド有数の大都会であり、様々な就業機会を、より高い賃金とともに人々に提供する街だ。その魅力に惹かれてやってくる人たちは、同時に世界でも指折りの不動産価格の高い都市であるという現実にも直面しなくてはならない。そうした就業機会と住宅難が衝突した結果、落ち着いた先はこのスラム、ということもあるのではなかろうか。
同時に、亜大陸随一の商都では、そこから生じる廃棄物の処理を行なったり、リサイクルできるものは再生したりといった事柄を含めた社会的ニーズを満たす機能を必要としている。それらの活動はもとより、その他様々な産業、社会的サービスに従事する相応の労働人口も欠かすことはできない。
そこにきて、ダーラーヴィー?で述べたとおり、『ムンバイーが半島に立地しているがゆえに、インドの他の大都市と異なり、海に囲まれて周囲に広がる余地がない限られた都市空間しか持たない』というボトルネックがある。それがゆえに、今のムンバイーで一等地となり得るロケーションでありながらも、かつては漁村が点在するだけで、低湿地帯であったことに由来する排水の悪さ等から正式に開発されることなく、スラムとして『発展』するままに放置されてきた。そのダーラーヴィーが、結果的に『郊外としての機能』を担うことになっているとしても決して不思議ではないだろう。
ここから先は、あくまでも私の想像に過ぎないが、ダーラーヴィーの再開発がこれまで幾度も頓挫してきたことの理由のひとつに、ダーラーヴィーに代わってこの都市の『郊外機能』を担うことができるエリアが見つからないという点もあるのではないかとも思うのだ。
このスラムを訪れるツアーには参加したが、それでこの地域のことが判るなどとはもちろん思わない。そこに居住しているわけではないし、日常的に出入りしているわけでもない。案内人とともに、ただ数時間歩いてみただけで理解できることなどタカが知れている。
そもそも4時間半のツアーで、行き帰りにかかる時間、加えてカーマーティプラー、ドービーガートなど他の見学先での時間を差し引くと、ダーラーヴィーを見学したのは正味3時間くらいでしかなかった。
NGOをも運営する組織の収益部門としての旅行会社が、『参加者に見せたい部分』をピックアップしていることも了解しなくてはならない。当然のことながら、彼らが安全面での確信が持て、かつ人々が懸命に働いている現場で外国人を見物させるだけの顔が効くエリアということになる。
しかしながら、そういう部分を差し引いてみても、いろいろ思うところはある。確かに人口密度がやたらと高く、職住環境は劣悪であることは間違いないにしても、訪れた範囲では意外にごく普通の人々が働いており、これまたごく普通の暮らしがあり、スラムの外の世界と同じくごく普遍的な空間があることはわかった。最初は、何か仕込みでも用意されているのかと思ったくらいだ。忙しい雑踏の中で、物乞いの姿を見かけないのもちょっと意外であった。
このツアーは、参加希望者があれば毎日催しているとのことだが、ガイドによれば休日には作業場の大半が閉まっているため、日曜日や祝日は避けたほうが良いとのことである。
行きの車内やツアーの行程中は、ガイドの説明に対して、私を含めて様々な質問を投げかけていた参加者たちだったが、帰りはそれとは打って変わって、静まり返っている。各自ダーラーヴィーで見たものを各々反芻しているかのようである。
このツアーで何か判ったわけではないが、これまで以上にこの地域に関心を抱くきっかけにはなりそうだ。今後、ダーラーヴィーに関わる報道や書籍などを見かけたら、マメにチェックしていくことにしたいと思う。<完>
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ダーラーヴィー 4
このツアーをオーガナイズしている旅行会社と対で運営されているNGOが設立した小学校を訪れる。授業が進行中であった。近ごろでは、スラムでも教育の大切さを理解する人たちが増えていて、かなり無理をしても子供を学校になんとか通わせよう、より高い学歴を与えようと頑張る傾向があるとのこと。
他のより恵まれた家庭の子供たちに較べてハードルは高いものの、ダーラーヴィー出身で苦学しながら高等教育を受けて、弁護士になった人、医者になった人は少なからずあるといい、公務員やその他のホワイトカラーの職を得ることは決して珍しいことではないとガイドは話す。
学校を後にしてしばらく歩いて通りに出ると、そこはタミル人地区になっていた。南インド式のヒンドゥー寺院があり、看板や貼紙等も大半がタミル語だ。往々にしてデーヴァナガリでも併記されているのは本場(?)と異なるものの、人々の装いも景観も、タミルナードゥの田舎町のバーザールに来たかのような感じがしなくもない。
この地区内のメインストリートのひとつであるようで、食堂も甘いもの屋もきちんとした構えの店が多く、大手銀行の支店も複数あるともに、マイクロクレジットの類の金融機関らしきものも見かけた。このあたりは居住地域にもなっているようで、裏手の路地を進むと、いくつもの開け放たれた扉から中の様子をチラリと目にするとができた。
テレビ番組の音、子供たちが遊ぶ声、母親が息子を叱り付けている様子、近所に暮らす主婦たちが戸口で井戸端会議を開いていたり。さきほど見学した作業場とは裏腹に、どこの世帯も家の中はずいぶんきれいにしているようだ。狭いスペースに多人数暮らしているためであろう、家財道具や衣類などが山と積まれている様子も見かけたが。 ガイドの話だと、スラムからコールセンター、会社、役所などに通勤している人、あるいは家庭の使用人として働きに出ている人たちも少なくないという。
そういう『住宅地』では、いったいどういう立場にある人なのかよくわからないが、パリッとした都会的な格好(そもそもダーラーヴィーは大都会の真っ只中に位置しているが・・・)で、ミドルクラス風のいでたちと雰囲気を漂わせる人の姿も見かけた。タミル人地区の端には、別の私立学校があった。立派な構えで、建物も新しい。イングリッシュ・ミディアムの学校だという。子供たちの制服姿を目にしていると、どこか裕福な家庭の子弟が通う学校であるかのような気がしてしまい、思わず目を疑う。
この学校が面する公道を渡ったところは、グジャラーティーの陶工コミュニティの地区。目に付く看板や貼紙の大部分はグジャラーティーで書かれている。女性たちは、いかにもグジャラート人らしく、カラフルな装いをしている。陶工という社会通念上は、地位的の低いコミュティであるが、彼らグジャラーティーたちの住環境は、それまでに見た他のエリアよりも少し良好であるように見えた。
グジャラート人陶工地区を後にしてしばらく歩くと、ツアー会社と運営母体を同じくするNGOによる幼稚園があった。インドの縮図であるかのように、様々なコミュニティの人々が混住ないしは集住するダーラーヴィーで、様々な異なる出自を持つ園児たちに対し、まずは英語とヒンディー語を自由に使いこなせるようにすることが狙いだそうだ。英語はもとより、ヒンディーについては、本人が住むコミュニティが非ヒンディー語圏のものであると、成長してからもうまくそれを使えないことが少なくないらしい。訪れたときには幼児たちの姿は目にしなかったが、スタッフたちが何やらミーティングを開いていた。
再び公道に出て、最後の目的地コミュニティー・センターは、たった今訪れた幼稚園や陶工コミュニティがある一角から見て道路反対側。そのすぐ手前には、6階建ての真新しい総ガラス張りの見事な商業ビルがそびえている。まだ出来たばかりで、テナントは入居していないようだった。ガイドによれば、規模のごく小さなモールのようなものになるようだ。
ここに買い物に来る人は、ダーラーヴィーの外からわざわざやってくることはないと思うので、スラムの住む『富裕層』が顧客となるのか?ボロボロの建物やバラックが延々と続いているものの、さきほどから時折こうした立派な建物を目にすると、本当にここがスラムなのか?と疑ってしまうくらいだ。
その新築物件の背後にあるコミュニティー・センターは、このツアー会社と同一の運営母体によるNGOが運営している。成人のための英語学習コースとパソコン教室を実施している様子をしばし見学してから、この日のツアー代金の支払いを済ませる。あとはコラバまでクルマで送ってもらい、今朝集合した地点で解散である。 -
ダーラーヴィー 3
スラムといっても、ダーラーヴィーで私たちが訪れた部分は、1995年以降、政府との合意のもとで住民たちがここで暮らすことが合法化されているとのことで、ちゃんと水道も引かれている。土地は政府のものだが、各地区の建物自体は個々のオーナーの資産であり、ここで賃貸生活をする人々は家主たちに家賃を払うことになる。
ところで、スラムとはいうものの、ダーラーヴィー地区の政治力というのも決して無視できるようなものではないようだ。州議会選挙におけるダーラーヴィー選挙区の有権者は20万人を数える。これまで幾度も再開発計画が持ち上がったものの、いずれも実現することなく頓挫しているというのは、最大で見積もって100万人にも及ぶという説もある巨大な人口のリロケーションをどうするのかという難問に加えて、そうした背景とも無縁ではなかろう。
いよいよ道路反対側のダーラーヴィーに足を踏み入れる。トタンの壁のバラックがどこまでも続いている。前に踏み出すたびにホコリが舞い立つ。他地区からダーラーヴィーを横切る公道は舗装されているものの、それ以外はほとんど未舗装である。
スラムの住人といっても、これまたいろいろあるそうで、この場所で生まれ育ち、そこで再び自分の世帯を構えている人もあれば、季節労働者として農閑期に仕事を求めてやってくる人もあるという。後者の場合は通常男性が単身でやってくるという。そのため、ダーラーヴィーの人口の流動性はかなり高いのだそうだ。
最初に訪れた地区では、プラスチック製品のリサイクルをしていた。集めたプラスチック製品を選別し、溶解して、その後細かいチップとして再生する。これが工業原料として業界に還流していくことになる。後に見学する他の業種もそうだが、同業や関連する業種は同じ地区に固まっており、工 程ごとに隣接している他の作業場が担っている。
裏手に小路にある屋内のスペースでは、溶かしたプラスチックを、まるでパスタを作る機械のようなもので、麺状に長く出していく。これは蓋のない水槽の中を通過、この過程で冷却されてから、裁断機にかけられて細かいチップが出来上がる。チップが沢山出てくるところではまだ湿っているため、作業員たちがそれを手で広げる。強い扇風機の風により、これはすぐに乾燥されていく。
今にも崩れそうな建物、材木とトタンで出来た非常に安普請なものだ。出入り口以外に窓はなく、薄暗い屋内で裸電球が灯っている。ここの2階、日本式に言えば3階にあたるところからハシゴを上ってトタン屋根の屋上へ。
周囲の他の建物もだいたい同じくらいの高さなので、遠くまで見渡すことができる。 すぐそばには携帯電話の電波のタワーがあった。そういえばさっきの作業場で働いている人も携帯電話で話をしていた。少し離れたところには、スラムにあるとは思えない立派なコンクリートの高層階の建物がいくつか見られる。それらは政府による公営の病院や公立学校であったり、あるいはコンドミニアムのようなタイプのモダンな民間住宅であったりする。
西のほうに目をやると、これまた周囲の風景にそぐわない立派な造りの大きなモスクもある。建設資金や運営費などは、一体どこから捻出されるのだろうか。病院や学校が政府によって設置されるのと同じように、おそらくスラムの外のどこからか資金が流入していることと思う。
公道の電柱から大量の電線がぐちゃぐちゃと引き込まれている。もちろん盗電であるが、都会の只中にあることから、送電にインフラは整備されているため、結果としてスラム内はほぼ完全に電気が普及しているとのこと。またテレビも9割以上の世帯に普及しているとのこと。
アルミ缶をリサイクルする作業場もあった。炉でアルミ缶を溶解されて、ちょうど金塊を大きくしたようなタブレット状のアルミ塊を作っている。作業場の傍らに何やら高く積んであるものがあり、布がかぶさっていたが、その下にあるのはアルミ塊の山である。染物の工場もあった。田舎でやっているのと同じように、ただその作業をこのスラムで行なっているというだけのことである。
唐突に香ばしい匂いが漂ってきた。ビスケットの工場である。小路から中が丸見えなので、どうやって作っているのか、その工程が全て見える。材料の小麦粉は、路地端に袋ごとドカドカと置いてあった。まるでセメント袋であるかのように。出来上がったビスケットは、ビニールでパックされて市内各所の店で販売されるという。そういえば、ああいうタイプのものを、私はけっこう好きでよく食べている。雑貨屋の店頭や鉄道駅の売店などでも目にする類のものである。
どこからか、食用油のような匂いがするな、と思ったら今度は食用油の金属缶のリサイクル場である。長年油が浸み込んで、ツルツルするがアスファルトのように固くなった広い土間の上に、おびただしい量の四角い缶が詰まれている。左手にあるものは、穴が開いたり潰れたりしているもので、修理が必要なもの、右手に積んであるのは、ラベルを剥がして洗浄してから再び食用油工場へと出荷するものだという。これは割合慣れが必要な仕事であるそうで、作業は歩合制で、熟練した作業員とそうでない者との間で、手取りがかなり違ってくるそうだ。
脂臭い匂いが漂う。食用油の残りが原料になるのかどうかは知らないが、近くには石鹸工場があった。ブランドなどない簡素な粗い感じの大きな石鹸塊、よく街中の雑貨屋店頭で見かけるのと同じようなものをせっせと作っていた。
食べ物を作ることを生業にしているところはけっこうあるようだ。ダッバーワーラーといえば、ムンバイー名物。金属製の段付きの容器に入った各家庭で奥さんが調理した昼ご飯を、市内各地で働く夫に届ける役目をしているものとして知られているが、弁当の中身そのものを外注できる『レディー・メイド』があるとは知らなかった。
訪れたとき、調理空間は閑散としていた。本日分の昼ご飯はすでに容器に詰められて出荷済み。現在各仕事場に配送されているところだそうだ。付近には、パパッド造りの作業場がある。ごく薄い煎餅状に伸ばされ、ひっくり返した大きな籠の上で天日干しされている。乾季が稼ぎ時で、雨季になると屋根のある限られたスペースでしか乾燥作業ができなくなるとのこと。ここの担い手はほぼ全員が女性たちである。
ムスリムの人々が集住する地区に出た。ヒンドゥーの祠をひたすら作っている作業場があった。ガイドが言うには、ヒンドゥーとムスリムが互いに支えあって生きていることのひとつの例なのだという。皮なめし工場もあった。この作業で使用する薬剤等は、環境に悪影響を及ぼすため、本来この作業をここで行なうことは禁じられているとのことだが。作業場手前のちょっとしたスペースでは、水牛や羊などから出来上がった革材が積み上げられている。ダーラーヴィーの皮なめし業は、インド第二の規模であるとのことで、国内各地はもとより、外国にも輸出されているそうだ。
作業場の多くでは、仕事をするのと同じ場所の片隅で食事を作ったり寝起きしているそうだ。同じ場所で食事、睡眠、仕事のサイクルが日々進んでいく。いろいろな業種にたずさわる人々がいるが、こうした労働者たちの賃金は、日給にして概ね200ルピーくらいだという。農村部で同じような仕事をするとその四分の一ということも往々にしてあるので、そうしたところからの出稼ぎ志望者たちにとっては魅力的な金額であるそうだ。
作業場で火を使うところは多い。木材とトタンで出来ている建物から出火したらどうなるのか、想像してみるだけで恐ろしい。周囲の建物もみんなそうした造りであることから、火は一気に燃え広がる大惨事になってしまうだろう。
これらの作業場に限らず、後で見た他業種の作業場についても、事業主はスラムの外に住むかなり裕福な人であるケースが多いそうだ。土地自体は政府の所有なので、主といっても建物と作業器具類という、金銭的にはさほど価値のないものを所有しているだけに過ぎないが。
ガイドを先頭にして、細い細い路地を歩く。排水設備などなさそうなので、雨が降ったら即泥沼にでもなりそうな地面。人の幅くらいしかない道、人の頭くらいの高さに幾重もの電線が垂れ下がっている。怖いので参加者たちは思い切り身体を縮めて前へと進む。
ところどころコンクリート板を敷いたり、レンガで石畳状にしてあるところもあるが、大部分は裸の土のままだ。家屋や作業場の床が地面よりも高くなっているわけでもない。作業場の床の大半もまた裸の土のままだ。外の道路と建物の中との間に仕切りがあったとしても、モンスーンの際には水浸しになって大変だろう。
スラムであることから、環境は劣悪であるが、特に衛生環境がまったくなっていない。スラムの家の多くにはトイレは設置されておらず、そのあたりの物陰で済ませる以外は、公共のトイレということになる。各世帯にほとんどトイレが普及していないがゆえか、公衆トイレは比較的多く設置されているようであった。
ふと見上げると、そこには高層でなかなか住み心地の良さそうなフラットが見える。周囲の劣悪な環境の中で、郊外のちょっといい住宅地にでもありそうな高級感ある建物。何とも不思議な感じがする。いったいどういう人が、敢えてこんなところに高級フラットを求めるのだろうか?
ここはちょうどダーラーヴィーのスラムの端であるという。背の高い壁があり、そこから先は同じ形をしたコンクリートの建物が並ぶ団地になっていた。公道に出る手前のところにパーキングがあり、スラムでの生産品を外の世界に運ぶため、また外からスラムに生活物資等を運んでくるトラックから人々が積み下ろし作業をしており、ここはまぎれもなくムンバイーの市街地の一部であることを実感させてくれる。 -
ダーラーヴィー 2
ダーラーヴィーへのツアーに参加するかどうか思案する際、これをオーガナイズしている会社のウェブサイトを閲覧してみたところ、実は普通の旅行会社とはかなり違う部分があることに気がついた。
この会社と母体を同じくするNGOが、当のダーラーヴィーで幼稚園、学校、成人教育などを手がけているとのことである。ツアーの利益の8割はそのNGOの活動資金となるということであり、旅行会社自体が彼らの社会活動の中の収益部門という性格があるらしい。
そのツアー自体が、ダーラーヴィーという地域、そこで働いたり生活したりしている人々に対する先入観や偏見に意義を唱えるという趣旨のものであることも理解できた。またダーラーヴィー訪問最中は、場所を問わず写真撮影は禁止であるとのこと。ちなみにこの会社は、農村を訪問するなど、スタディーツアー的なものも多く取り扱っているようで、スラム見学はその部類に入るようである。
そんなわけで、姑息ながらも、自分自身の心の中で、あまり肯定的に捉えることができなかったツアーに参加する口実のようなものができたことになる。
ツアー開始は午前8時半。コラバ地区のレオポルドカフェ脇の路地を少し入ったところが集合場所であった。そこに着いてみると、まだ誰もいなかったので時間を間違えたかと思ったが、イギリス人男性が声をかけてきた。彼もこれに参加するのだそうだ。間もなくツアー会社のスタッフが来た。本日の参加者はあと3名、すぐにガイドを載せたクルマがやってくるとのこと。
大型のRV車に、運転手とガイド、そしてツアー参加者が、イギリス人男性が2名、南アフリカからきた白人カップル、そして日本人である私の計5名である。これらの参加者たちは、インドの農村で活動するNGOで働いてきた人、自国で学校の教員をしている人などがあった。
マリンドライヴを北上しながら、ガイドは途切れる間もなくスラムについて、ストリート・チルドレンについて、また通過するエリアについていろいろ説明をしている。まだ若いが、いかにもプロフェッショナルで頭脳明晰な感じのする男性だ。
北へと向かう郊外電車の線路脇に、いくつも路上生活者たちの小屋があるのを横目に見ながら、そうした環境で育つ子供たちの問題、とりわけ彼らが陥りがちなドラッグの問題等々についていろいろ説明があった。
やがてクルマは右手に曲がり、赤線地帯として有名なカーマーティプラーへ向かう。『このあたりからが有名な赤線地帯です』との説明がある。派手な看板が出ていたりするわけではなく、食堂があったり、パーンやタバコの店、雑貨屋等があったりといった具合で、一見、他の地域と変わらない商業地区のようにも見えたりもする。
だが娼婦たちはどこの国でも似たような表情、雰囲気を醸し出しているため、歩道に出ていたり、脇に腰掛けていたりする彼女たちの存在でそれとわかる。よくよく見ると、明らかに置屋の入口と思われる狭い戸口がいくつも見える。
この地域が忙しいのは午後5時から午前5時くらいまでだという。かといって他の時間は閉まっているというわけでもなく、基本的に24時間稼業しているそうだ。彼女たちは、インド全国からやってくるといい、多くは仕事を斡旋するなどといった言葉を信じた結果、ここに行き着く者が多いという。
ガイドによれば、ビハールやネパールから来ている女性も多いが、特に人数が多いのはアーンドラ・プラデーシュ州出身者だという。もちろんインドの法律では売春は禁止されているものの、そうした施設の経営者たちは警察との繋がりを持っているため、半ば公認されているかのような状態にあるというのは、他国でもよくある話ではある。しかしながらそのカーマーティプラーの東側の出口にあたる部分に、立派な建物の警察署があるのは何とも皮肉なことである。
クルマは、カーマーティプラーから東にあるチョール・バーザールへと抜けてから、再び北上したあたりには、かつて主に繊維関係の工場が沢山あったのだそうだ。しかし都心であるということから、大企業のオフィスや高級コンドミニアムといった形での不動産需要が高く、多くは他のエリアに移転していっており、このあたりに家を構えていた人たちもまた、それを手放してもっと住環境の良い郊外に移転したり、さらには手元に残るお金で起業したりといったことがトレンドなのだという。都市の表情は、時代ととももに遷ろうものである。
次にマハーラクシュミー駅脇のドービーガートに行く。ムンバイー最大かつインド最大の露天の洗濯場であり、無数に仕切られたコンクリート台が続き、衣類を叩きつけての洗濯作業が日々続く。相当なハードワークであろう。
この場所を所有しているのは政府で、ここを仕事場とする洗濯人たちは、毎月賃料を払っているとのこと。雨季には屋外で乾かすことは難しいので、屋根の下で乾燥作業をするとのこと。目下、乾季ではあるものの、線路を横切る陸橋の上から見える屋根の下には大きな乾燥機があり、そこから出る風を利用して乾燥作業が進行中であった。
1枚いくらという形で収入があり、衣類を紛失するとペナルティーがそこから差し引かれてしまうものの、そこは伝来の出来上がったシステムがあり、おいそれと洗濯物がなくなってしまうことはないとのこと。一見原始的な作業に見えるものの、中ではかなり高度なネットワークがあるらしい。線路の反対側には競馬場があり、おそらく馬の訓練をしているのだろう。騎手が乗って走らされている馬の姿があった。
そして再び北の方角に向かい、マヒムにもあるやや小規模なスラムを横目に見ながら、着いたのがダーラーヴィーのスラムである。道路の左側には巨大な送水管が見える。ここでスラムドッグの撮影の一部が行なわれたということで、スクリーンの中で目にしたような記憶がある。ただし実際にスラムで撮影したのはごく一部で、他の大部分はフィルムシティで撮ったということだが。 -
ダーラーヴィー 1
映画『スラムドッグ・ミリオネア』の舞台となったムンバイーのスラム。ダーラーヴィー地区、アジア最大のスラムと称されるダーラーヴィー地区だが、近ごろ人口において隣国パーキスターンのカラーチーにあるオーランギー地区に抜かれたという話もある。
Dharavi not Asia’slargest slum: Report (The Financial Express)
もちろん、アジア最大であろうが、2位であろうが、決して誇ることのできるものではない。ダーラーヴィーにしてみたところで、人口は600万強から100万人前後くらいと推定されており、すっきりとした数字を提示できないのはオーランギー地区も同様であろう。
またオーランギー地区には、印パ分離時にビハールから移住したムスリム住民たちが多く居住しているとされることは、亜大陸の近代史の暗部を示しているかのようでもある。スラムドッグ・ミリオネアに触発されたというわけではないようだが、ムンバイーのある旅行代理店が主催するダーラーヴィーを訪れるツアーがある。
こうした類の企画ものについて、『貧困を売りにするのか』『スラムで物見遊山をするのか』という批判が多いことは承知している。また私自身としても、モラルとしてこういうのはいかがなものか、と思っていた。
しかし同時に、このダーラーヴィーという地区について、そこがスラムであるということが理由ではなく、ムンバイーが半島に立地しているがゆえに、インドの他の大都市と異なり、海に囲まれて周囲に広がる余地がない限られた都市空間しか持たないのにもかかわらず、ロケーションのみ見れば交通至便な都心の一等地となり得る地域であることに関心を抱いていた。
またこの地域が、通常考えるところの開発から取り残されていること、しかしながらここに住まう膨大な人口はこの商都の活力たる労働力の供給に貢献しており、この地域で展開される各種工業もまた6億6千万ドル規模と大きなものであることからも、私たちの想像するスラムのありかたとはちょっと異なる性格があるのではないかとも考えていた。
年を追うごとに市街地が拡張していくデリーなどの内陸部の都市と違い、『海に囲まれているため周囲に広がる郊外を持ち難い』という点がカギになるのではないかとも思う。現在のムンバイーの市街地となっているエリアの大半は埋立地である。これについては後日別の機会を設けて記してみようと思う。
内陸部の都市であれば、地形や用途上の障害(開発制限地域や国立公園など)がない限りは、概ね放射状に広がっていき、周辺の町や村を郊外地域に併合し、ときには州境を越えての大都市圏を形成することもある。 こちらの地図を参照していただきたいが、ムンバイーの場合は三方を海が囲んでいるため、拡張できる余地がほとんど残されていないといってよいだろう。
マハーラーシュトラ本土との境をクリークや河が隔てているが、まさにその部分に蓋をするような形で、サンジャイ・ガーンディー国立公園が横たわっている。大都会のすぐそばに豊かな自然が残されるということは素晴らしいことである半面、半島北部へ郊外地域が広がることに対する大きな阻害要因でもある。
そのいっぽう、都心部の首都機能が集中する部分は、半島南部の先細る部分に位置しており、周囲に広がるのは大地ではなく海原であるため、この部分へのアクセスが良好な『郊外』というのは、地理的に非常に限られてしまう。
もちろんムンバイーには、世界最大級の人工都市であるナヴィー・ムンバイーという衛星都市がある。相互補完的な関係にはあっても、水域で隔たれており、橋というごく限られた接点を持つふたつの異なる都市であるため、ムンバイー都心からシームレスに繋がる郊外とは言えないだろう。
こういう表現をすると、多分に誤解を受けてしまうのではないかとは思うが、ダーラーヴィーとは、社会の隅に置かれた人たちが呻吟するスラムというだけではなく、実はある意味『郊外』という性格も持ち合わせているのではないだろうか。
都市が必要としており、また人々も必要としている郊外が、本来ならば都市の外縁部に形成されるはずのところ、ムンバイー独自の地理的な制約から、都心部にある政府所有の土地を占拠する形で、しかも高度に凝縮して出現してしまったと見方もできるのではなかろうか、とも思うのである。 -
ムンバイーのシナゴーグ
『Padmini Premierのある風景』で少し言及したように、商都として発展してきたムンバイーにはいろんな様式の植民地期の建築物がある。とりわけ19世紀にネオ・ゴシック建築については、フォート地区を中心に数多く残されており、これらを見て歩くだけでも楽しいものだ。
これらを目的としての街歩きのためにちょうど良い本がムンバイーの出版社から出ている。
書名:BOMBAY GOTHIC
著者:CHRISTOPHER W. LONDON
出版社:INDIA BOOK HOUSE PVT. LTD.
ISBN : 81-7508-329-8
ただ漠然と通りから眺めて『あぁ、でっかいなあ』『ずいぶん立派だなあ』と感じるしかない建物群が、これを手にすることにより、その背景にある歴史やゆかりの人物等と結びつき、頭の中でそれなりに意味のあるものへと変容していく。
こうした数々の建物の中に、デイヴィッド・サッスーン・ライブラリーがある。1873年に完成したこの図書館は、当時ムンバイーの豪商であった在印ユダヤ人、アルバート・サッスーンによるものである。この人物は、同じくムンバイーのサッスーン・ドックを築いたことでも知られている。

ベネ・イスラエルと呼ばれるコミュニティとともに、インドのユダヤ人社会の中核を成すバグダーディー・ジューのコミュニティを代表する名門サッスーン一族だが、20世紀の前半の上海や香港の経済を牛耳ったことで有名なサッスーン家も同じ一門である。
また、今ではほぼ消滅に近い状態にあるものの、かつては隆盛を極めたヤンゴンのユダヤ人コミュニティにおいても、ほとんどがこのムンバイーから移住した人々であったことから、その中に占めるバグダーディー・ジューの人々の割合も相当高かったそうで、当時のムンバイー、コールカーター、上海、香港などとの間にもネットワークを形成していたとされる。
そんな彼らの存在の痕跡は、今でも残るヤンゴン市内のシナゴーグや墓地などに見ることができるのは、昨年5月に『インドの東? シナゴーグとユダヤ人墓地』で触れてみたとおりだ。
話はムンバイーに戻る。ちょうど休日であったので、フォート地区で植民地期の壮大な建物が並ぶの風景を眺めながら街歩きをするのはとても楽だ。なぜならば、平日と違ってクルマの交通量が格段に少ないからである。
インドにおける証券取引の中心地であるBSE (Bombay Stock Exchange)の建物があるダラール・ストリートの入口には警察の検問があり、一般車両は進入できなくなっている。日々、この国の経済の中心地といえる。1875年に始まった、アジア最古の証券取引所であるとともに、今や世界第12位に数えられる有力な株式市場である。
それが立地するダラール・ストリートを歩いたことはなかったので、どんなところか?と歩を進めてみた。だがBSEの建物の中では日々どんな巨額な取引が展開されていても、そこに面した通りにお金がバラ撒かれるわけではないため、意外なほど簡素な横丁であった。
休日のためストリートの主役であるBSEは閉まっていても、通り沿いの商店の大半は営業していた。コピー屋や文具屋をはじめとする事務用品関係、エコノミーな食堂、簡単なスナックの店、ジュース・スタンド、雑貨屋といった店が立ち並ぶ。
ダラール・ストリート入口から来た道に戻り、少し南に向かうと右手の脇道に青い建物がある。ケネーセト・エリャフー・シナゴーグである。これもまたサッスーン一族ゆかりのものであり、建設者は前述のアルバート・サッスーンの甥、ヤークブ・サッスーンである。この街に八つあるとされるシナゴーグの中で最も良く保存されているものであるらしい。ここでも複数の警官たちが周囲に目を光らせていた。

2008年11月26日にムンバイーで発生したテロ事件からすでに1年以上が経過しているが、ムンバイーCST駅、タージマハル・ホテル、トライデント・ホテル等とともに、テロリストたちの標的となったユダヤ教施設『ナリーマン・ハウス』のことを記憶している方も多いだろう。
別名チャダード・ハウスとも呼ばれるが、シナゴーグ、宗教教育施設とホステルを内包するユダヤ教徒のコミュニティ施設である。イスラエル生まれでニューヨーク育ちの司祭が奥さんとともに運営していたが、テロ実行犯たちが立て籠もっている間、夫妻は居合わせた他の4人(ホステルの宿泊者たちであったらしい)ととも殺害され、当時2歳の息子だけが助かるという凄惨な事件であった。
ケネーセト・エリャフー・シナゴーグ周囲で警戒が続いているのは、ここも同様にユダヤ教施設であるというだけではなく、あのナリーマン・ハウスとかなり深い縁のある場所でもある。2008年11月のテロが起きるまで、このシナゴーグで礼拝を取り仕切っていたのは、ナリーマン・ハウスで殺害されたガヴリエル・ホルツバーグ司祭である。
内部は世界各地のシナゴーグと同様のスタイルだ。天井が高く、中央に祭壇がある。上階は吹き抜けになっており、階下を見下ろすテラスとなっている。このシナゴーグが出来てから125年になるそうだ。


なかなか人気の観光スポットでもあるようで、入場料はないものの、内部を撮影する許可として100ルピーが徴収される。売店コーナーも併設されており、本が数点置かれていた。、特に以下の書籍は写真やイラスト入りで彼らの歴史、伝統、コミュニティなどが綴られており、インドのユダヤ人社会を概観するのになかなか良さそうだった。
書名:INDIA’S JEWISH HERITAGE
編者:SHALVA WELL
出版社:MARG PUBLICATIONS
ISBN : 81-85026-58-0
英領時代にはムンバイー、コーチン、コールカーターなどで隆盛を極めたユダヤ人たちであるが、インド国内では民族主義の台頭と独立、独立後のインドにおける金融や基幹産業の国有化等々といった流れは、インド在住のユダヤ人資本家たちにとって望ましいものではなかった。加えて、国外ではイスラエルの建国という歴史的な快挙もあったことなどから、国外に新天地を求めた人々が多いとはいうが、それでもムンバイーには今なお4千人以上のユダヤ系市民が暮らしている。
総体で眺めれば、人口比では大海の中の一滴にしかすぎない彼らではある。しかしながら、かつてはムンバイー他のインドの港湾都市を中心に活躍し、国外にも広く影響力を及ぼしたユダヤ人たちの存在は、インドを代表するコスモポリタンな大都会ムンバイーの歴史の中の奥行きの深さの一端を象徴しているかのようである。

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MERU TAXI
ムンバイーで、MERU TAXIを利用してみた。
これまでのインドのタクシーとはずいぶん違ったモダンなサービスを提供する会社との評判で、3年ほど前に創業。現在、本社のあるムンバイー以外では、ハイデラーバード、デリー、バンガロールで操業している。
たまに市内で走行しているものの、今なお黒と黄のツートーンのタクシーが大勢を占める大海中の一滴にしか過ぎないマイノリティなので、必要なときに巡り会う機会はそうそうない。ちょうど空港に向かう用事があったので予約してみることにした。
電話が繋がると『よう、何だ?』とぶっきらぼうなオジサンの声が聞こえてくるのではなく、女性の声による丁寧な自動音声ガイダンスが流れ、これまた礼儀正しい担当オペレーターに繋がるのにびっくりする。
コールセンターの案内嬢に、私の氏名、予約したい時間、出発場所、電話番号等を伝えれば完了だ。出発30分前に携帯電話にSMSでクルマのナンバー、運転手氏名と本人の携帯電話番号が届くということだ。
予約時間の30分前きっかりに、私の携帯電話にメッセージが届くとともに、ほぼ同時に運転手からも確認の電話が入った。
到着したタクシーは、マヒンドラー社のローガンという車種。タイのバンコクで走っているタクシー想像していただきたい。日本でいえばカローラくらいのサイズだ。エアコンも効いており、クルマの内外ともに、けっこうキレイにしている。運転席横には、液晶モニターがあり、さきほど私が伝えた名前、出発地と時刻等が表示されていた。
運転手は他の多くのムンバイーのタクシー運転手同様、北インドから来ている男性であった。パリッとした白い制服のシャツを着用している。ヒンディー語しか解さないが、言葉遣いや態度もとても丁寧。もちろん運転も同様にジェントルであった。
料金システムは、ムンバイーの場合は、最初の1キロが20ルピーで、以降1キロごとに14ルピーである。インドでは、タクシーもオートも地域によって料金システムが異なる。このMERU TAXIが現在操業している他の三都市(ハイデラーバード、デリー、バンガロール)での料金形態については、同社ウェブサイトに示されているのでご参照願いたい。
MERU TAXIの車両の動向は、GPSでモニターされていることから、遠回りされたりすることはないということになっているそうだ。特に女性が夜間利用する場合などにも良いのではないかと思う。
タクシーが目的地である空港に着いた。料金を支払うと、運転席にある装置からプリントアウトされた領収書が手渡される。
降りてしばらくすると、携帯電話に新しいSMSが着信。何かと思って開いてみると、MERU TAXI発のもので、利用してみた感想を記号で返信してくれというものであった。最大の評価で送信しておいた。
タクシーを利用するのは、ある程度余裕のある人たちであるとしても、その中でもこれまでのタクシーのありかたにはいろいろ不満のあった人も多いはずだ。鉄道がそうであるように、長距離バスもそうであるように、タクシーにもちょっとラグジュアリーなクラスのものが欲しいと。こうした従来のものと差別化した手法によるサービスは、特に可処分所得の高い人たちの数が多い都市では相当な需要が見込めるであろう。
この会社では、コールセンターの受付嬢のみならず、肝心のドライバーたち自身にも、ちゃんとした社内教育を施しているようだ。ハンドルを握る彼ら自身にとっても、乗客を目的地まで快適かつ安全に運ぶプロの運転手としてのスキルを得てキャリアを積む良い機会でもあることだろう。
もちろん彼らは会社のシステムと車両に搭載されている独自の機器により、常に所属する会社から監視されているという意識もあるだろうが、これは利用者にとって都合の良いことでもある。運転手側にしてみても、こうしたシステムにより、従来よりも高い信頼を得ることができ、顧客が増えることにより彼ら自身の増収にも繋がることだろう。
これまでのスタンダードとは異なる、いわば『規格外』のサービスが他の大都市にもどんどん広まっていくことを期待したい。
この会社は、そのサービスの点以外で、タクシー業者のありかたとしても、これまでのものと大きく異なる部分がある。通常、タクシーといえば、オートリクシャーと同じく、ドライバーたちは、ユニオンに加盟するオーナーたちが所有する車両を運転しているわけである。
個々のオーナーたちを事業主とする零細会社と言うべきか、あるいはオーナーたちからクルマを借りて運転しているドライバー自身を、ちょうど日本の宅配便運転手たちのような個人事業主と表現すべきなのかはともかく、一般的に大資本を投じて運営する日本の『日の丸タクシー』のような業態のものではなかった。
組織立った形態であるがゆえに、お客に対してはサービスの向上と均質化、社内ではノウハウの共有と労務管理の徹底が図りやすいという利点がある。また『どこの誰のクルマであるか』がはっきりしていることから、利用者側の安心感も大きいはず。
そんなわけで、都市部では今後、タクシー業界の再編とでもいうべき、新たなうねりの予感がする。MERU TAXIの走行地域の広がりを見て、同様のサービスを提供しようと参入する新会社が今後続くのではないかと思うのである。
一昨日、Premier Padminiのある風景にて、現在ムンバイーを走るタクシーの圧倒的主流を占めるパドミニーが、今後次第に姿を消していくことについて触れたが、それと反比例する形でこうした新手のサービスが台頭してくるであろうことは言うまでもない。
今後何年もかかって新旧のタクシーの移り変わっていくわけだが、それは単に車種が新しいものに入れ替わることに留まるものではなく、タクシー業界のありかた自体が大きく変わるのではないかと予想している。 -
Premier Padminiのある風景
ムンバイーのタクシーといえば、黒と黄色に塗り分けられたプリミアー自動車生産したプリミアー・パドミニーである。イタリアのフィアット社のFiat 1100をインドで現地生産したモデルだ。本国では1962年から1966年まで生産されていた。
昔々に設計されたクルマらしく、クロームメッキの大きなフロントグリルが雄々しくてマッチョな面構えだ。前後ともにツンと鋭角的に切り立ったフォルム、後部サイドフェンダーの張り出には、今の時代のクルマにはない強烈な個性が感じられる。イタリアのデザインらしいアクセントの効いた、都会の景色がよく似合うクルマだ。
黄色い天井以外は深みのあるブラックでまとめられた精悍な車影は、ゴシック、ヴィクトリアン、アールデコ、果てまたインド・サラセンといった様々な様式の重厚な建築物が林立するムンバイーの街角によく似合う。

インドにおいてこのクルマの生産は1964年に開始されている。今から半世紀近く前に設計されたクルマではあるが、愛好家が丹念に磨き上げて週末に郊外に遠出してツーリングを楽しむといった具合に丁重に扱われるのではなく、現役のヘヴィー・デューティーな営業車としてバリバリ活躍しているのがカッコいい。
もっともムンバイーのタクシー界を支配してきたパドミニーは、やがて道路から姿を消す運命にある。というのは、すでにこのクルマの生産は、2000年を持って終了しているためだ。フィアット1100D=プリミアー・パドミニーという単一車種で、イタリアでの発売時から数えて38年間もの長き渡り生産されてきた世にも稀な長寿モデルであった。
ムンバイーに限ったことではないが、電子化される前のいかつい金属製のアナログ式料金メーターもまた見事にクラシックである。こうしたメーターが導入されたのがいつの時代であったのかはよく知らないのだが、おそらくその当時の金額をゆったりと刻んでいく。
メーターに示される数字をもとに、現在適用されている料金を導き出す換算表を運転手たちは持っている。そこに示されているとおり、このタイプのメーターが使われ始めたころ、ルピーの価値は今の14倍前後あったということなのだろう。

今のところはムンバイーの道路を走るタクシーの大勢を占めているのは黄・黒に塗られたパドミニーで、まだまだ意気盛んな印象を受けるものの、スズキのヴァンのタクシー、青色のAC付きのものなど、複数のタイプが走るようになっている。
年月の経過とともに、このパドミニーの占める割合は漸減していき、10年、15年もすれば、『こんなクルマ、あったよねぇ!』と古い写真で、昔の街角の中にあったタクシーの姿として未来の人々が思い出すようになるのだろうか。
2001年以降、生産されていないクルマであるがゆえ、目下ムンバイー市内でごく当たり前にどこにでも見られる『パドミニーのある風景』だが、現在走行している車両たちの寿命が尽きるまでの眺めなのである。 -
NIAの海外旅行保険
日本発の海外旅行保険を扱う保険会社は、AIU、三井住友海上、ジェイアイ傷害火災、損保ジャパン等々いろいろある。
同様に日本で営業するインド系の保険会社でも扱っていることはかねてより耳にしており、だいぶ前に『ニッポンで稼ぐインド国営会社』で取り上げたことがあるが、先日初めて同社の海外旅行保険のパンフレットを手にして眺める機会があった。ちなみに、これはウェブサイトからも閲覧することができる。
海外旅行総合保険 (ニューインディア保険会社)
インド最大の保険会社であり、ムンバイーに本社を置く国営のNIA (The New India Assurance Company Limited)の日本支社、ニューインディア保険会社の商品だ。
私自身、ニューインディア保険会社はまったく利用したことがない。身の回りでこの会社の保険商品を利用したという人もいないため、その評判を耳にしたことはないが、どんな具合なのだろうか? -
IRCTC
以前、線路は続くよ、どこまでも?で取り上げてみたとおり、インド国鉄の子会社IRCTC (Indian Railway Catering and Tourism Corporation)のウェブサイトにログインして、eチケットを購入できるようになって久しい。
ネット予約が始まったころは、インド国外発行のカードでは支払いができなかったり、ウェブ上で予約しても、チケットは指定の場所に配達してもらう、といった具合だったりして使い勝手はよくなかったが、今ではずいぶん便利になったものである。
そのままプリントアウトして列車に乗り込めばいい、という点からは、ネット予約後に『みどりの窓口』で支払いをして、正規の乗車券等を受け取らなくてはならない日本のJRよりも簡単であるといえる。もちろん改札が自動化していないがゆえに、普通紙に印刷したものがチケットとして通用するわけではあるが。
ただ、簡単になったとはいえ、ちょっとコツが必要なこともあるのはインドらしいところか。サーバー容量の関係か、果てまた通信に何か障害があるのかわからないが、予約作業中にエラーが頻発することがある。時間帯を変えるとまったく問題がなかったりするのだが。

乗車日時、列車名、座席・寝台のタイプを確定し、乗客の氏名や年齢等を入力し、『Payment』ボタンを押して、支払いに進んだ際に、この画面を目にしてちょっと面食らう人もあるかと思う。

要は、クレジットカード、銀行のカードその他といった、使用するカードの種類により、支払いのチャンネルを選びなさい、ということである。クレジットカード用にいくつかの銀行系のPG (Payment Gateway) が用意されているが、いずれも利用できる・・・というわけではない。少なくともインド国外発行のクレジットカードの場合は。
以前は『CITI PG』が問題なく使えていたのだが、今はこれを選択すると何回繰り返しても、カードの残高が不足だの番号が間違っているだのといった身に憶えのないメッセージが出てきて立ち往生してしまう。そんなわけで、目下、利用できるのは『AXIS PG』である。
もっと支払いがうまくできなくて困っていても、そのまま放置されるわけではないのはありがたい。この手のエラーが生じると、自動的にIRCTCからのメッセージが配信され、トラブル解決のためのコールセンターの電話番号と問い合わせのメールアドレスが記されている。電話はなかなか通じないものの、メールで質問すると、比較的早く返事を寄越してくれる。
予約のキャンセルも同様にスムース。IRCTCのウェブサイトにログオンして手続きをすると、即座にリファンドについての連絡が届き、キャンセル料と手数料を差し引いた金額が返金される。
何かと便利になっているが、ひとつ制約があるとすれば、ネット予約に割り当てられている座席・寝台数だろう。全体の何割ほどがウェブ予約用に充てられているのかよくわからないが、窓口ではまだ購入できたりしても、IRCTCのサイトでは、路線によってはかなり早い時期からキャンセル待ちあるいは予約不可の表示が出るようだ。
そんなわけで、旅程が決まったら、予約はなるべくお早目に。
