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カテゴリー: travel

  • BHUJ 3

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    この日は最初に訪れたシャーラド・バグ・パレスは、アーイーナー・メヘルから見て、ハミサール・レイクの反対側にある。ここには1991年に手放すまで、ラージャーの家族が暮らしていたとのことだ。ゆえに最近のガラスのテーブルやソファなど、今の時代のリビングに普通に見られるような家具もある。
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    モダンな室内
    それでも、昔の家具、シャンデリア、振子式時計、クローゼットの類などは、欧州から取り寄せたもので風格がある。野生動物たちの剥製もある。もっとも大きなトラの剥製は、カッチでの狩猟後にわざわざマイソールに送って作らせたものだというだけに、非常に出来が良い。経年により色褪せる前には、本当に生きているかのような感じであったのではないかと思う。 獲物を仕留めた後、横たわるトラとともに撮影した写真もある。他の多くの領主たちと同様、インド独立前の時代のラージャーたちは狩猟が趣味であったようだ。
    ここの裏手に住んでいるという学芸員氏によると、2001年の大地震の際には、特に旧市街の建て込んでいる場所では建物の倒壊や崩落が多く、被害が甚大であったという。人口13万でしかない街で、2万人余りの死者が出たということは大変なことである。
    当時、このパレス自体にも大きな被害が出たため、復興するのは大変だったということだ。現在、博物館となっている建物のすぐ横にはねもっと大きく堂々とした洋館がある。展示されている昔の写真と見比べてみるとよくわかるのだが、建物の上部が崩落してしまっている。また背後に回るとかなり広範囲に渡って崩落してしまっている。
    建物上部が崩壊している
    震災前の姿
    その後、街の南にある池の反対側にあるチャトリ群に向かう。オートの運転手は『すべて壊れているから行っても仕方ないよ』と言うが、確かに着いてみると、いくつかは修復の手が入っているものの、あまりに無残な光景であった。震災から10年近く経った今も、その破壊のエネルギーの凄まじさを見せつけているかのようだ。
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    ただし一部では相当力のこもった修復作業が行なわれたようで、完璧に新築(?)されているところもあった。見た目がやたらとピカピカなので、周囲に馴染むまでかなり時間がかかりそうだ。
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    その後、バーラティーヤ・サンスクリティ・ダルシャンへ。『バーラティーヤ・サンスクリティ(インド文化)』とあるが、実際にはグジャラート州、とりわけカッチ地方の郷土博物館である。著名人、生活文化、手工業その他に関する様々な展示が屋内外でなされている。コンセプトの自体は悪くないのだが、ちょっと展示品が少ないこと、各種解説がグジャラーティのみで書かれており、ヒンディーまたは英語による表示がないのは、州外から訪れる人も多いはずなのだが、いかがなものか?

  • BHUJ 2

    プラモード・ジェーティー氏は、ずいぶん前からアーイーナー・メヘルの中に観光案内所のデスクを構えている。氏はこのメヘルの中の博物館の学芸員という立場も兼ねているのだが、今も健在であった。
    彼はプライベートなツアー・オペレーターであり、彼自身がベテランのガイドでもある。メヘルの近所に暮らすこの人物は、モダンなゲストハウスも経営するやり手の商売人ではあるが、この地域の歴史や民俗に詳しく、文化人といった雰囲気も漂わせている。
    彼が作製したカッチ地方の地図も無料で配布している。なかなか良く出来ており、カッチ地方の位置関係や距離が一目でわかるようになっている。また宿泊可能な町、村、警察の許可が必要な町も記されている。カッチ地方やその周辺では、パーキスターン国境に近いため、訪問するためには警察の許可(・・・といっても無料だし、すぐに取得できる)が必要なところが多い。背面はブジの地図になっている。
    カッチ地方のガイドブック
    彼が執筆したカッチ地方のガイドブックもここで販売している。カッチ地方の歴史、小さな町や村なども含めた各地の見どころ、各部族の紹介、地域文化手工芸品などが簡潔にまとめられた100ページほどの冊子だが、手っ取り早くこの地域について俯瞰するのに役立つ資料である。
    ページをめくっていると、ブジから40キロほど離れたアンジャールの町についての記述にちょっと気になることが書かれている。先の震災で特に被害がひどかった地域のひとつであるが、これまで幾度も大地震に見舞われていることが書かれている。19世紀以降でも、1844年, 1845年, 1874年, 1941年, 1956年、そしてしばらく間が空いて2001年の大地震が襲ってきたのだ。カッチ地方は昔から地震の多発地帯であるらしい。
    歴史的にはそれほど頻繁に震災を繰り返している割には、直近の震災以前のことについてはあまり伝えられていないようだ。それ以前の震災からずいぶん時間の経過があり、これらの記憶が風化していること、あまり記録が残っていないことが最大の理由だろう。特に19世紀のものともなると、ほとんど風聞や伝説のようなものであり、今となっては当時の被害状況について正確な数字を知ることは不可能だ。
    もちろん、地域の人口が増えており、それに比例して被害者も多くなる。また建物が高層化しているため、昔よりも被害が大きくなりやすいということもあるため、やはり最近の震災のほうが被災状況はより大きなものとなったに違いない。
    夕方、宿泊先のホテル内のレストランでHakka Noodleを注文。およそ中華料理メニューのあるところならば、どこにでもある定番アイテムだ。Hakkaという名前が付いているのは、インド中華の本場であるカルカッタに客家人が多いということ、中華コミュニティの中で彼らがマジョリティを占めているためだろう。だがインドでは、Hakka Noodlesをどう定義しているのだろうか。ときどき食べているが、Chowmeinとどう違うのかよくわからない。

  • BHUJ 1

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    久しぶりにカッチ地方のブジの町を訪れてみた。街のたたずまいはもちろん、周囲には伝統的な暮らしが残っており、様々な部族の人たちが独自のライフスタイルや生業を維持しているカラフルな地域だ。
    2001年のリパブリック・デイ(1月26日)の日の午前8時46分に大地震が襲ったことにより、当時人口13万超のこの街で2万人もの死者。9割の家屋が破壊されたという。 この地震の前に幾度か訪れたことがあるが、その後どうなっているのかちょっと気になってきた。 昨年11月に『過去のイメージ』 で取り上げてみたとおり、衛星写真においても大地震の爪跡の凄まじさと復興の進展が感じられる。
    しかしながら私自身はそこを観光で幾度か訪れた程度であり、ブジに居住したこともなければ、現地の方で親密な付き合いをしている人物があるわけでもないため、この街が復興したとか、9年後の今もその痕跡が、などということを言うつもりもない。それでも当時伝えられた被害があまりに大きかっただけに、ついついその部分に関心を持たずにはいられない。
    ただ、カッチ地方の中心地としてそれなりに栄えていた町が、どうなっているのか関心があり、近くに行く機会があればぜひ立ち寄っておきたかった。
    そんなわけで、この町にやってきて、とりあえず宿に荷物を置いて歩いてみる。10年ひと昔というが、すでにそれに近い年月が経過しているため、現在もガレキや廃墟と化した建物が、そこここに残っているわけではないことにはホッとした。
    たとえ大きな震災で甚大な被害を受けたとはいえ、カッチ地方の経済の要衝であるという重要度には変わりがないため、それなりに元通りになっていくのは当然のことだろう。
    一見、何も変わらないように感じられるのは、災害があってからそれなりの時間が経過しているため復興していること、建て替えられた建築物がある程度の時間の経過により相応に風化していることなどが理由だろう。住宅、店舗、道路等々、どれも地権者が決まっているため、基本的には元とまったく違った町並みが出現するはずはないのである。
    もちろん例外もある。旧市街からバススタンドに向かう道すがら、以前はかなり密度の高い地域であったところが、すべて高層住宅、日本でいうところの『マンション』のような建物に変わっていた。震災と関係があるのかどうかわからないが、多分に廃墟と化した際に、これをビジネスのチャンスと見た開発業者が乗り込んできて用地をまとめて取得したと考えるのが妥当だろう。
    アーイーナー・メヘル こちら側は修復してあるが背後はひどく崩壊したままであった。
    プラーグ・メヘル
    当時から存在しており、幾度か食事のために立ち寄ったことがあるホテルに今回滞在したが、これはすっかり建て替えられていること、震災一年前に利用したホテルがあったところは空き地となっていることに気がついた。
    アーイーナー・メヘル裏手はひどく崩壊したままで、その手前にあるプラーグ・メヘルの一部も破損のため一部にしか入ることができなくなっている。またその両方を含む敷地の外壁がかなり大きく壊れたまま放置されている。
    町の南側には、90年代に次々に建てられた高層のコンドミニアムが何棟もあったのだが、それらの姿は無くなり、より背の低いビルが建ち並んでいる。 旧市街にある屋根の付いた立派なマーケットもかなり損壊の痕が認められる。
    その近くに、以前幾度か訪れたときによく立ち寄ったり買い物をしてみたりした衣類の店がある。女性店主は都会的なセンスのある人で、なかなか気の利いたモノを売っているのは今も変わらず。アーイーナー・メヘル付近というロケーションもあり、出入りするお客はヨソから訪れたインド人や外国人が大半といった具合。今も同じように営業しているのがうれしい。みやげにしようと、子供用の衣類を購入してから『ずいぶん前にも幾度かお邪魔しましたよ。そのときもお会いしているはずです』と声をかけた。
    店主が微笑みながらの『いつ来ました?』と問う。『だいぶ前のことで、2000年でした』と答える。一瞬の間を置いて彼女は『私じゃ・・・ないわね』と顔を曇らせた。そのころは身内の方が店に出ていたそうだが、震災で亡くなったためその人よりも年嵩の彼女が引き継ぐことになったようだ。うっかり余計なことを言ってしまって申し訳ない。
    歴史的な建物以外はそうそう記憶しているものではないものの、場所にもよるかと思うが、大半の建物が倒壊ないしは大きく破損していたであろうことを思えば、さすがに10年近くの歳月があれば復興していて当然とはいえ、その背後には人々の沢山の苦労があるのだろう。災害以前と見た目は同じように見えるのは上っ面だけで、その中身はずいぶん違っているのではないだろうか。地震大国日本の人間としても震災は他人事ではない。
    屋根付きのマーケットもかなりダメージが見られる
    2001年の大地震において、地元のライフラインに与えたダメージに関連して、以下の資料が公開されている。
    GUJARAT (KUTCH) INDIA EARTHQUAKE OF JANUARY 26,2001 (Edited by John M. Eidinger)
    本日の夕食は、グジャラーティー・ターリー。州内各地で専門店は数多い。どこもおかずのバラエティに富み、店ごとに様々な個性がある。極めて満足感(満腹感?)の高い食事ではあるが、様々な甘い菓子も次々に出てくるのはまだいいとして、チャパーティーやプーリー等の小麦から成る主食ではなく、ご飯を頼んでしまうと『これでシメです』の合図になってしまうようであるのは、米食民族にはちょっと悲しい。
    グジャラーティー・ターリー

  • ハチの御館

    グジャラート州のバローダーからクルマで1時間ほどのところにあるチャンパーネール。付近の遺跡と合わせてChampaner-Pavagadh Archaeological Parkとして、2004年に世界遺産登録されている。
    平地から丘(というよりも山)の上までに及ぶ偉大な遺跡群で、バローダーから充分日帰りは可能だが、できればここで一泊してじっくりと見学したい。遺跡については、各種ガイドブックやウェブサイト等で紹介がなされているとおり。敢えてここでその来歴等について記す必要はないだろう。
    Jama Masjid
    しかしチャンパーネールのジャマー・マスジッドで、蜂たちが実に立派な巣を複数築いており、思わず我を忘れて見入ってしまった。まるで『クマのプーさん』に出てくる蜂の巣みたいだ。
    立派な蜂の巣
    これまたお見事!
    なかなか風格があります(?)
    庇の下が巣作りに最適のようで・・・
    巣が黒く見えるのは、無数のハチたちが表面を覆っているため。それぞれが細かく羽を震わせて、何か作業をしているようであった。幼虫たちにエサを与えているのだろうか。
    無数のハチたちが蠢いている。
    大きな巣の下部を拡大してみると、六角形をしたひとつひとつのセルが確認できる。更に巣を拡大しようという動きがあるらしいことも見てとれる。こんなものを仔細に観察していて、沢山のハチたちに攻撃を受けるようなことがあってはたまらないのだが。
    さらに拡大しようという意欲に脱帽
    ・・・とはいえ、いやしくも世界遺産指定されているエリアの主要な建築物のひとつ。こんなに巨大なモノが出来上がる前になんとかならないのだろうか?

  • ダマンへ 5

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    ナーニー・ダマンの海岸では、年季の入り、地金が露出しているマニュアル式のニコンやキャノンをぶら下げた写真屋たちが徘徊し、近隣州からやってきた観光客たちに声をかけている。遠浅で、干潮時には少し先にある小島まで陸続きになる。これが夕暮れ時に重なるとなかなか印象的な風景となる。そのタイミングこそが彼らの稼ぎどきのようだ。
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    浜から望むアラビア海のこの眺めは、Damanが『Damão』であった時代から変わることがないはずだ。海原を真っ赤に染め上げる雄大な日没を、往時の人々も日々眺めていたに違いない。
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    昔々、ポルトガルの人々はこの海を越えてやって来て、この地を彼らのものとした。長い時を経て、彼らはまたはるか彼方へと去っていった。
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    〈完〉

  • ダマンへ 4

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    ユニオンテリトリーであるがゆえに、公の施設等ではヒンディーと英語による併記が大半。民間の商店等ではグジャラーティーといった具合である。街の中心部でポルトガル風の建物にヒンドゥー寺院が入っているものは、ポルトガルが去った後に転用されたものではないかと思う。地元の信仰については寛容であったイギリスによる統治と違い、ポルトガル領ではカトリック以外の宗教活動はかなり制限されていたはずである。
    ダマン・ガンガー対岸のモーティー・ダマンに向かう。こちら側ナーニー・ダマンからは、『パブリック』と称される乗り合いオートがある。「グラウンドのところで降ろして」と言っておけば、モーティー・ダマンの城壁南側に着く。ここから徒歩でゲートをくぐれば、ちょうどラテンアメリカの都市で『セントロ』と呼ばれるような街のヘソに出る。きれいに整備された公園の周りに大きな教会やダマンの中央郵便局がある。厳しい建物の刑務所もあった。
    Church of Bom Jesus
    ポルトガル語による賛美歌
    かつてここは、ダマンを支配した権力の中心地であったことから、見事な植民地建築が数多く残されている。もともとよく整備された街区であったことも、たたずまいからよくわかる。往時には支配層の人々もこのあたりに居を構えていたようだ。本土復帰後、城壁内の地域の多くは、統治を継承したインド政府の所有ないしは政府カトリックの教団の敷地である。そのため土地が切り売りされたり、建物が細分化されて間借人たちに貸し出されたりすることも稀であったらしい。昼間でも広々とした通りもとても静かで、人通りもごくまばらだ。やや誇張して言えば、街並みだけを残してゴーストタウン化してしまったかのようでもある。
    巨大なバニヤンの気根のトンネル
    400年もの長きに渡ってポルトガルの街として栄えた『Damão』の濃い面影というよりも、1961年12月、ポルトガルによる支配が終焉を迎えて以来、時計の針の歩みが止まってしまったかのようである。
    このゲートから出るとダマン・ガンガー対岸はナーニー・ダマン
    〈続く〉

  • ダマンへ 3

    カトリックの祠
    朝食を済ませてから、ナーニー・ダマンを散策する。宿泊先のホテルのすぐそばにはメルカード(マーケット)がある。1879年に開設されたこの屋根付き市場は、もともと野菜や生鮮食品等を販売させるためにできたものだというが、1937年に改装・拡張されるとともに、衣類や雑貨といった食品以外のものを商う業者のみが店を開くようになり、現在に至っているという。建物のすぐ脇の横丁の道路では、食料品を扱う行商人たちがお客たちを相手にしている。
    メルカードの名前と開設年
    ダマンの訪問客の大半はグジャラート州あるいはマハーラーシュトラ州から来ているようだ。『BAR』と看板が出ていても、レストランや安食堂を兼ねているところも多い。ゆったりと朝食を摂っているお客もあれば、他のテーブルでは勢い良くビールを空けている者もある変な空間だ。もちろんそうした人たちは地元の人たちではなく、他州から来た観光客であることは言うまでもない。
    城砦の入口
    ダマン・ガンガーの大きな流れはすぐ目の前で河口となり、アラビア海に注いでいる。この眺めに面したところに城砦の門がある。砦には敷地をぐるりと囲む巨大で分厚い壁以外は特に何もないが、中にある教会には今でも人々が集っているし、墓地にも最近埋葬されたことを示す墓碑がある。
    古い墓碑はポルトガル語で記されている。
    いくつも並んでいる墓を眺めると、ポルトガルの治世が1961年に終わってからも、ある時期までは墓標がポルトガル語で書かれていることに気がつく。1980年代くらいから、ようやく英語で書かれるようになったようだ。
    このあたりで、各家庭で主導権を握る世代、ひいては社会の中核を担う世代の交代が始まったことを示すのではないだろうか。つまりポルトガル語世代から英語世代への転換である。1961年時点で18歳前後の年齢層がポルトガル語で教育を受けた最終世代といえるだろうか。
    ポルトガル語から英語への切り替えには多少の移行期間があったとしても、インド復帰時に10代前半くらいであった人たち以降には、教育の場でポルトガル語が教えられることはなく、英語に切り替わっているはずだ。1980年代初めに30代、後半には40代の年齢に達する。そのころのインドでは、引退する年齢は概ね今よりも早い。
    今のところ、ゴアと同じく年配者で、ある程度以上の教育を受けた人ならば、まだポルトガル語を理解するというが、学校を出てからも社会生活の中でポルトガル語を日常的に使用する、あるいは理解できることを前提とした暮らしを送ってきた世代はともかく、ポルトガル時代の末期、つまり学校教育の中でポルトガル語を習得している最中であった世代、あるいはこれから社会に飛び立とうというところで、インドとの併合、つまり英語時代を迎えてしまった年代においては、それ以前の世代と比較してこの言語の運用力に相当の差があるはずであろう。
    ゴアでもダマンでも『年配者はポルトガル語を理解する』ということをよく耳にする。都市部などで、同じ地域に暮らしているインド人同士で、ヒンディーないしは地元の言葉という共通言語があるにもかかわらず、英語で会話をする様子がごく一般的であるように、旧ポルトガル領であった地域で、特に一定以上の層では家庭内でもごく普通にポルトガル語が使用されていたということだ。インド復帰後も、一定の年齢以上のそうした人々の間で、地元の言語グジャラーティー以外にポルトガル語が使われるシーンは少なくないという。
    ゴアでは、今でもポルトガル語によるミサが行われている教会があるし、ダマンにおいてもポルトガル語による讃美歌が歌われていたりするため、今も社会生活上でのポルトガル語はなんとか生き延びていると言えるのだろう。
    しかしポルトガル領であった地域がインドに復帰してから50年にもなろうとする今、ポルトガル時代を、その世相や統治のありかたなどを包括的によく理解している最後の世代を『インド復帰時に18歳』と仮定するならば、現在67歳という高齢の人々、ごく例外的なケースを除き、ほぼ間違いなく社会の第一線から退いて隠居生活を送り、であることは言うまでもない。つまり旧ポルトガル領では、ポルトガル語が、いわゆる『危機言語』的な状況にあることになる。
    1497年のヴァスコ・ダ・ガマがカリカットに上陸してから、とりわけ1510年のゴア征服以降、インドはポルトガルのアジアにおける最も重要な拠点となり、時代によっては必要に応じ、アジア域内の領土を包括する副王(初代はフランシスコ・デ・アルメイダ)が派遣されていたこともあり、一時はポルトガル議会をゴアで開催しようという提案さえあったほどだ。当然のことながら、宗教面でも重要な拠点となり、1534年には、ゴアにカトリックの全アジアを管轄する中心となる大司教座が設置されている。
    インドにおける欧州植民地勢力としては最も歴史が深く、人々の信仰や生活慣習面では極力干渉を避けていたイギリスとは異なり、宗教的に非寛容であったポルトガル支配下において、植民地化の地元社会に対する宗主国の影響力は数段大きかったようである。
    国際的な英語の語彙中には、khaki、bungalow等々、インド起源の言葉は少なくないが、インド統治時代の歴史的な語彙にnabob、boxwallah等々、様々なコトバがある。また現在インドで使用されている英語の中にも、当然のことながら現地での言葉からの借用語は少なくない。bandh、hartalといったスト行動を示すもの、lakh、coreといった数詞などはその代表的なものである。
    詩人ボカージェ(Manuel Maria Barbosa du Bocage)は、軍人として派遣されてダマンに暮らしていたことで知られているが、地元でもポルトガル語による文芸やジャーナリズムといった活動があったことから、旧ポルトガル領地域においても地元の語彙を豊富に吸収した豊かな表現や言い回し、ポルトガル領インドにおける当時の宗主国の言語による文芸活動などからくる知的な遺産もさぞかしあったのではないかと思う。
    旧宗主国を同じくするブラジルで、独自のポルトガル語を発展させていったのと同じく、インドのゴアを中心とする旧ポルトガル領では、彼らならではのポルトガル語を育んでいたはずだ。しかし旧英領地域が主体であるインドへの『復帰』により、教育や社会生活に必要な習得すべき言語が英語に移行してしまったことにより、それまで磐石の重要なポジションを占めていたポルトガル語が、突如として遠い彼方の国で話されている『外国語』の地位に転落してしまう。
    観光案内版では、今もポルトガル語が使用されていることがうたわれている。
    今でも一部年配者たちの間で、細々と命を繋いでいるポルトガル語だが、前述のとおり、仮にインド復帰時18歳であった年齢層をポルトガル語最終世代とするならば、あと3年で70歳となる人々である。一般的に、社会的な影響力を及ぼす年齢ではなくなっているし、この国では平均寿命が63.7歳ということを思えば、あと10年も経てば、旧ポルトガル領地域で今でもポルトガル語を話す人がいるなどとは言わなくなっているだろうし、そこから更に10年後には、ほとんど遠い昔話となっていることだろう。
    そのころには街の通りの名前からもポルトガル語が一掃されてしまっているのかもしれない。
    通りの名前にはポルトガル語が残っている。Rua Dos Bramanesとは『バラモン通り』?
    〈続く〉

  • ダマンへ 2

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    ヴァーピー駅からオートで走っている最中、こちらグジャラート州側と連邦直轄地ダマンの境目はどのあたりかと思っていると、街並みがまばらになってきたあたりでゲートが見えた。
    こちらからダマンに入る際には特に車両を停めてチェックしたりということはないが、あちらからグジャラートに入る際には、形式的ではあるが停車させられて警官が中を覗き込んだり、何か質問したりしているようであった。おそらく気が向いたら荷物を調べたりもするのだろう。
    ヴァーピーのオートリクシャーは、ダマンまで直行することができるが、反対にダマンから来る際、ダマンを地元とするオートの場合は走行できるのは、このゲートの手前までで後はヴァーピーの車両に乗り換えなくてはならないようだ。ヴァーピーのオートはCNGエンジンが義務付けられているが、ダマンでは今もガソリンエンジンであることから、州境を越えて乗り入れることは許可されていないとのこと。
    マハーラーシュトラ州境近くのダマン、そしてグジャラート州のサウラーシュトラ南端に位置するディーウと、地理的には離れていながらも、連邦直轄地のダマン&ディーウというひとつの行政区を構成しているため、今なお禁酒となっているグジャラート州から来ると、それまでグジャラーティー語の洪水であった街中の看板に、連邦の公用語であるヒンディー語で書かれたものが多く混じってくる。特に役所や公の機関などでは当然のごとく後者で書かれていることに加えて、境の向こうではご法度であった酒類を扱う店、つまり酒屋やバーが多いことなど、視覚的にずいぶん違うものがある。
    グジャラートに住んでいても、境目あたりに家があったりすると、夕方ちょっと『向こう側』で一杯ひっかけてから帰宅する、なんて人もけっこうあるのではないかと思う。州境に住んでいると、自宅に持ち帰るのはリスクがあるかと思うが、実質のところ禁酒州外に暮らしているのとあまり変わらないかもしれない。中には持っている地所が両側にまたがっているなんていう幸運なケースもあるかもしれない。
    これまで来た道を左に折れてまっすぐ進むと海原が見えてくる。ダマンの街はもうすぐそこだ。DD(ダマン&ディーウ)ナンバーではなく、GJ(グジャラート州)やMH(マハーラーシュトラ州)のナンバープレートを付けているクルマがとても多いが、酒屋の前に乗り付けて、店頭でウイスキー、ラムその他を品定めしていたりする姿が目に付く。彼らはダマンで宿泊しているのかもしれないが、週末などに、自家消費の目的でこっそり買い付けに来る人も少なくないのだろう。たぶん州境の検問で捕まった場合の出費はそれなりに覚悟のうえで。
    そもそもゴアがそうであるように、ダマン&ディーウでも、インドの他の地域よりも酒類の種類は豊富で、値段もかなり安いので飲兵衛にはありがたい。とりわけ隣接する禁酒州グジャラートからやってくると、その魅力がどれほどのものであるかは想像に難くない。
    そんなわけで、ディーウでもそうだが、ダマンでもバーや酒屋は朝から開いており、特に週末などは午前中からそれなりに繁盛していたりするようだ。だからといってダマン&ディーウの住民が、とりわけ酒飲みであるなどというわけではなく、消費の大半は地域外からやってきた人たちのものであることは間違いないだろう。
    ダマンの街は、ダマン・ガンガーという河を境に、モーティー・ダマンとナーニー・ダマンに分かれている。これらはそれぞれバリー・ダマン、チョーティー・ダマンとも呼ばれている。
    商業地区は密度の高いナーニー・ダマンであり、モーティー・ダマンは城壁に囲まれたエリアが主に行政地区で、ゆったりとした街区に政府関係の建物や大きな教会が点在しており、その外には住宅地が広がっている。
    Hotel Marina
    ナーニー・ダマンの飲み屋の多い地域にヘリテージなホテルがある。Hotel Marinaという何の変哲もない名前だが、建物自体にその価値がある。ここはダマンのガバナーの公邸であったものだ。1861年、つまりポルトガル支配終焉のちょうど100年前に完成した建物である。マンに現存する植民地期建築には、もっと規模の大きなものが沢山ある。そうと言われなければ『あ、ちょっと立派な感じの屋敷があるな』とそのまま通り過ぎてしまうかもしれない。
    由緒ある建物で、きれいにメンテナンスされている割には、同ホテルのウェブサイトに示されている宿泊料金を見てわかるとおり、ヘリテージ・ホテルとしては格安だ。私が訪れた際には満室で泊まることができなかったが、エントランス、レストラン、ホテル内の廊下などにはやはり歴史の重みを感じさせるものがあり、他のもっと高いホテルよりも魅力的に感じる。
    レセプションの背後に、いくつかのテーブルが並べてあり、ビールや食事を頼むことができる。開け放たれたドアのすぐ正面にはダマン警察本部があり、ヒマそうで緊張感はないが、それなりに関係者その他の出入りはある。
    ボーイに『ビールもう一本!』と頼む私のすぐ目の前に立ち番の警官。目と鼻の先の禁酒州グジャラートでは非合法となっている酒の密輸にまつわる記事が、毎日新聞紙上に出ていることを思うと、ちょっとヘンな気がするものの、なんだかホッとする。
    とにかくバーが多いダマンの街角
    〈続く〉

  • ダマンへ 1

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    グジャラート州最大の都市アーメダーバードから列車で6時間ほどのヴァーピー駅で降りた。ここが連邦直轄地ダマン&ディーウを構成するダマンへの最寄り駅である。1987年にゴアがひとつの州として分離する前までは、『ゴア、ダマン&ディーウ』というひとつの行政区分になっていた。
    ゴアからダマンまで直線距離で600キロ、ダマンからディーウまでは同じく200キロと、かなり距離が離れた飛び地状態であるが、これらはご存知のとおり1961年12月19日にインドが敢行した『オペレーション・ヴィジャイ』という国土奪還の総攻撃を仕掛けるまで四世紀半に渡りポルトガル領であったがゆえのことである。この軍事作戦は、すでに弱体化していたとはいえ、わずか36時間で451年に及ぶ植民地支配を続けたポルトガル当局を、圧倒的な武力で屈服させた。独立後のインド軍事史に燦然と輝く金字塔といえるだろう。イギリスから自由を勝ち取ったインドは、植民地勢力からの完全な独立のために、依然各地に残っていた外国領の自国へ回復へと動き出す。具体的には、先述のポルトガル領地域とポンディチェリー、カライカル、ヤナム、マヘーといったフランス領地域の返還である。
    フランスとの間では交渉により、1954年から8年間の移行期間を経て、1962年に領土の回復を達成するのだが、旧来の領土に固執したポルトガルとの間には膠着状態が続いた。ポルトガル駆逐のための政治キャンペーンに加えて、インド本土と当時のポルトガル領との間の人やモノの往来に厳しい圧力をかけるようになる。元来交易地ではあっても食料等の基本的な生活必需品の生産地ではなかったため、様々な物資に悩まされることとなった。分離独立以来、インドと対立してきたパーキスターンが、これに関してポルトガル領ゴアに救いの手を差し伸べていたことはよく知られている。インドにとって長らく続いてきた帝国主義勢力に対する勝利であり、ゴアはこの『解放』により、祖国に復帰することになったのは間違いないが、ポルトガルが450年を越える長い歳月の間に築いてきたシステムの中で、独自のアイデンティティを形成し、社会的にも経済的にも相応の繁栄を享受してきた層にとって、これは必ずしも歓迎すべき出来事ではなく、侵略として受け止められていたとしても決して驚くに値しないだろう。
    『ダマン解放』を記念するモニュメントの碑文

    シャーム・ベーネーガル監督による映画TRIKALの舞台はポルトガル時代末期のゴア。350年続く名家ソアレス家がこの地を見限ってリスボンに移住する前夜という設定。ここで栄えた人々にとって、『ゴア解放』は決して肯定的に捉えられていたものとはいえず、彼ら自身は頼んでもいないのに大軍を擁して押しかけてきたインドにより、長く親しんできたポルトガルという後ろ盾を失い、入れ替わりにやってきたインド人という支配者たちにより、財政的な後退と発言力の低下がもたらされ、次第に凋落していった地元の上・中流層の心情を綴った名作だ。
    この映画の音楽を担当したのはゴア出身のレモ・フェルナンデス。この映画のために手がけた音楽は、コンカニー語ならびにポルトガル語による伝統的なゴアのフォークソングをベースにしており、彼のリリースした曲の中でもとびきり評価の高いものが多く含まれている。以下のクリップ『Panch Vorsam』というノルタルジックな曲にて、歌声はもちろんのこと、ダンスを披露しているのもレモ・フェルナンデス自身とアリーシャー・チナイである。

    なお、ゴア、ダマン、ディーウ以外に、同じく元ポルトガル領で、植民地期にはダマン行政区の管轄下あったダードラー&ナガル・ハヴェーリーについては、戦闘によらない政治的な交渉により1954年にインドへの復帰を果たしており、ダマン&ディーウとは別の単一の連邦直轄地を構成している。
    1987年に、ダマン、ディーウと分離してゴアは単独の州に昇格した。スィッキム、ミゾラム、アルナーチャル・プラデーシュに次いで面積にして四番目に小さな州ではあるものの、中央政府による支配から脱しての自治を得たのもさることながら、それなりにヴォリュームのある『ゴア人』人口規模を持っている点については、独自のアイデンティティを保持するには幸いであったとはいえるだろう。
    よほど辺鄙で不便な地ならともかく、人口密度が高く、人の出入りの激しい地域に囲まれていれば、そこに存在していた『国境』が取り払われてしまえば、ごく狭い地域に集住していた他国の庇護下にあった人々は、かつては外国であった近隣の『その他の人々』の大海に呑み込まれてしまう。そうでなくても行政、教育、日常的な慣習等々を含めて、あらゆる面において長年親しんできたシステムが効力を失い、それまで馴染みのなかった『あちら側のやりかた』に同化しなくてはならなくなる。
    『コミュニティ間の調和』 中心にあるのはやはり多数派

    たとえてみれば、これまで勤めてきた職場が、他の企業体に買収されるなり、吸収されるなりして、要はこれまで『ヨソの人たち』であった集団に主導権を握られてしまうのと似ているかもしれない。これまでの常識やフォーマリティ、仕来りや慣習が通じなくなるだけではなく、それまで主流派であったはずの人たちであっても、よほどうまく立ち回らない限り、他者に吸収されての新しい枠組みの中では隅に置かれてしまうものだ。

    1535年から1961年まで426年間に渡ってポルトガル領であり、現在は連邦直轄地のDaman & Diuの行政地域にあるディーウ島にしてもそうだが、1673年から1950年までの277年間仏領になっていた西ベンガル州のチャンダルナガルについても然り。植民地時代に建てられたコロニアル建築は現在まで生き延びていても、かつての大聖堂でミサは行なわれておらず、学校や病院に転用されていたりすることもある。住民たちも他所から移ってきた人たちが大半になっていることも珍しくない。

    <続く>

  • Rann of Kutch 4

    ザイナーバード周辺には食事できるところはどこにもないため、宿では一日三食付いている。宿泊客たちが集まってくると、彼はふんぞり返った姿勢で眼光鋭く彼らを見据えて言い放つのである。
    『私が宿の主だ。皆の衆、遠路はるばる来てくれたことを歓迎する。今日は充分に楽しんだか?明日の朝と昼のサファリについても個々の希望に従って取り計るぞ。よって遠慮なく申し出るがいい』
    まるで土地の支配者が客人に謁見しているかのようなムードであった。
    元宮殿であったり、植民地時代の建築であったりといった、ヘリテージな建物を利用したホテルでもない限り、特に宿泊施設に感想を抱くことはないのだが、ザイナーバードで滞在した宿はなかなか面白かった。
    東屋
    この地方の民家風に造ってあるコテージや敷地中央にある東屋もなかなか雰囲気が良いとはいえ、特筆すべきほどではない。だがとても印象的だったのは宿の主人であるDさんである。
    ちょっと演技じみているくらいに横柄かつ尊大な感じがするこの人物は、40代前半くらいだろうか。ザイナーバード周辺の領主の子孫であるとのことだが、実に映画に悪役で出てくるよう悪徳タークルみたいである。あるいは、映画SHOLAYアムジャド・カーン演じていたところ盗賊ガッバル・スィンによく似た風貌と雰囲気の持ち主で、宿泊客に対しても、初対面では慇懃無礼な印象を受ける。
    田舎の人には違いないが、なかなか洒落者でもあり、センスもなかなかのもの。昨日はチベット風の前合わせのエンジ色のガウン。翌日は、ずいぶん派手な地場製のコットンのショールをまとっていた。
    粗野かつ傲慢に感じられる振る舞いから、最初は好ましい印象を受けなかったのだが、実はこちらが想像していたような人物ではないことが次第にわかってきた。威張った態度に見えるが、客たちのサファリにも同行しているし、食事やお茶の席にも必ず同席していろいろ会話を交わしており、宿泊客すべてに親しく声をかけて、意見や感想を聞き出す努力を重ねている。尊大に見えるものの、彼なりにいろいろ細やかに気を使っているのであった。
    彼は父祖伝来の地であるザイナーバードに単身赴任状態なのだという。子供の教育の関係から、奥さんと息子ふたりはアーメダーバードで暮らしており、半月に一度彼らがここを訪れるためにやってくるのが一番の楽しみであるという。
    彼自身は、うるさい都会での暮らしは向かないと言うが、この宿泊施設の運営以外に、もうひとつ彼がここで行なっている仕事がある。彼は近くにある孤児院アーカーシュ・ガンガーの運営者でもあるのだ。
    宿泊施設に関しては、仕事をほとんど一人で切り盛りするのが彼の毎日であるようだ。食事の準備と掃除以外は、すべてDさんが取り仕切っており、客のひとりひとりに対する目配りが行き届いており、豪胆そうな見た目とは裏腹に責任感が強く、非常に几帳面な彼の性格がうかがわれる。
    その反面、不便なこともある。宿で彼が少しでも不在にしていると、スタッフは何も決めることができないのだ。宿泊費(三食とサファリ付き)の料金交渉、誰がどのクルマに乗って何を見に行くサファリに行くのかといった基本的なアレンジさえも、D氏のみが扱っているため、どのスタッフも『旦那がいないと私たち何もわかりません』となってしまうのだ。
    またDさん以外は英語を話すスタッフがいないということについて、西洋人たちからは不満の声を聞いた。『鳥に詳しいエキスパートのガイドが付くと聞いていたのに、 英語ができない人だったから、何を見に行ったのかわからない。私たちは鳥に関して素人だから、ちゃんと説明できる人がいないと困る』というものであった。
    ゆえにDさんは、西洋人たちが乗るジープには可能な限り同乗しているようなのだが。 宿泊施設の造り、ロケーションやサファリの内容は良いのだが、Dさんがあらゆる事柄すべてを取り仕切るワンマンなシステムについては大いに考え直す必要があると思うのだ。
    しかし硬派で不器用ながらも、日々一生懸命に頑張っているDさんの人柄が気に入って、バードウォッチングのために幾度もこの場所を利用しているというリピーターも少なくない。名物オヤジで客が集まるという稀有な宿泊施設になっているのが面白かった。私もまたいつかここを再訪してみたいと思う。
    コテージ入口
    室内
    <完>

  • Rann of Kutch 3

    Rann of Kutch 3

    宿で遅い朝食、やや時間を置いてから昼食と、立て続けに二食済ませてから、午後のサファリに出発。朝は寒いからとコテージで休んでいたKさんの家族と、昼食時に到着したオーストラリア人女性と一緒にジープに乗り込む。
    20100124-trackinrann.jpg
    今回は水場ではなく、Rannそのものの荒涼とした風景と、そこに棲息するワイルド・アス(野生ロバ)ニールガーイその他の動物が主な観察対象だ。ワイルド・アスは、Indian Wild Assという種類のもので、元々はインド亜大陸西部に広く分布していたらしいが、今ではカッチ小湿原のみに棲息している。ワイルド・アスは数頭の群れで暮らしており、彼らの可愛い子供たちの姿もあった。
    Indian Wild Ass
    ジープである一定の距離まで近づくと、彼らはジリジリと遠ざかる。ニールガーイはそれよりも数は少ないが、非常に筋肉質のたくましい体つきのウシ科の動物である。ワイルド・アスの一団とニールガーイが仲良く肩を並べて草を食む光景もあり微笑ましい。

    村の点在する地域を過ぎると、広大な荒地が広がっている。四方どこを見渡しても地平線が見える。これほど広大な土地が手付かずで残されている。もちろん雨季には泥沼になってしまうとはいえ、その面積があまりに広いことに驚かされる。
    20100124-crackontheearth.jpg
    それにしても運転手はどうやって行き先や帰り道がわかるのだろうか。私にはどこを見渡しても、集落や町がどちらの方角にあるのか見当もつかない。見渡す限りの広大な大地。どこを眺めても地平線が360度続いている。このエリアではときおり狼を見ることもできるらしい。残念ながら私たちは遭遇できなかった。
    陽は傾いてきたあたりで塩田に到着。カッチ湿原では塩作りが盛んである。ここは海ではないが、塩分を多く含む地下水を汲み上げて流し、天日で乾かしてから、また汲み上げた水を流すとやがて塩が出来上がる。
    塩田
    日没の時間が迫ってきた。大地を真っ赤に染め上げ、大きな夕陽がユラユラと地平線の彼方に沈んでいく。私が日々慌しく生活する都市部での夕暮れ時に想うことは特に何もないが、地平線の彼方に姿を消していく太陽の有様は、まるで壮大な儀式のようで、『ああ、これでまた一日が終わった』と実感する。
    日没
    しばらく大地は明るさが残っているものの、夜の闇がひたひたと迫ってきた。
    20100124-earthatsunset.jpg

  • Rann of Kutch 2

    朝6時半に部屋の外に出る。まだ夜が続いているかのように暗い。昨夕、食事で一緒だったKさんとジープに乗り込む。彼はベンガル人だがマハーラーシュトラのプネー育ち。留学先のアメリカで大学を卒業してから10年間ほどカリフォルニアに住んでおり、2008年までフィリップスでIT関係の仕事をしていたそうだが、不況のため仕事を失い、現在は同じIT系企業に勤めているという。毎年家族とともにインドに帰っているそうだ。ザイナーバードには奥さんと息子さんおよび奥さんの両親と訪れている。
    朝方はかなり冷え込み、フリースのシャツの上にジャケットを着て出かけた。運転手は寒さで縮こまって運転している。途中で東の空からゆっくりと大きな太陽が昇ってくるのを目にしながら、私たちは池へと向かう。
    日の出
    運転手
    ごく小さな池を想像していたものの、到着してみるとちょっとした湖とでもいうべき規模であった。ペリカンや二種類の異なるタイプのフラミンゴが無数にうごめいている。数百羽いるだろう。水場から少し離れたところには、ツルの種類の鳥の姿もある。
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    20100124-pelican.jpg
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    塩分を多く含んだ不毛の大地ではあるのだが、私たち人間にとってはあまり利用価値のない土地であり、ところどころに茂る潅木や塩気に強い類の雑草がまばらに生えているのを除き、地味豊かな大地ではあり得ないのだが、少なくともこうした鳥たちが捕食する生き物は充分に生息しているらしい。もちろんこの地域に居住する人間が極端に少ないということも、彼らの生存を保障するひとつの要因ではあるのだろう。
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    その他、陸地にはいろいろな珍しい鳥たちがいた。キツツキに似たもの、スズメのようなもの、ヒバリのようなもの等々が沢山見られる。せっかくいろいろな珍しい鳥たちを見ることができる機会なので、特に関心のある方には鳥類のガイドブックとして、インドの大都市で手に入れることのできる以下の書籍を携行されることをお勧めしたい。
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    Pocket Guide to the Birds of the INDIAN Subcontinent
    著者:Richard Grimmett, Carol Inskipp, Tim Inskipp
    発行:Oxford University Press
    こうした野生の鳥たちを眺めながら、変なところでカラスという生き物には感心した。もちろんカッチ湿原にもカラスたちの姿はある。本来ならば自然の中で暮らす生き物のはずではあるが、鳥類の仲間の中で最も環境の変化に対する適応力に富むのは、言うまでもなく彼らである。
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    通常、野生の鳥たちは都市化等により、生活環境が変わってしまうと、そこに暮らしていくことができなくなる。餌となるものが見つからなくなり、住まうべき森や水場などがなくなり、巣作りをするための材料が手に入らなくなると、もはや生きていくことができないのである。
    しかしカラスたちの場合は、およそどんな環境にあっても、人間たちが暮らしていける程度の場所であれば確実に適応する。どんな類の食物であっても貪欲に摂取するし、巣作りだってビニール紐であれ、スチール製のハンガーであれ、器用に利用してしまい、ビルの谷間の物陰でひっそりと、しかし立派に子育てをしてしまう。
    仮に猫の平均的な知能を1.2という数値で表すとすれば、犬はおよそ1.5くらいに相当するという。しかし一般的には哺乳類よりも下等であるとされる鳥類でありながらも、カラスの場合はこれが2.0相当で、人類の友とされる『賢いペットたち』を軽く凌駕してしまうほどの高度な知能の持ち主である、ということを何かで読んだ記憶がある。
    その頭の良さがゆえにカラスたちは、生活の場が大きく変化しても、機転を利かせて生き抜いていくことができるし、集団で暮らす彼ら自身の『文化』のようなものさえ持っているのだという。
    例えば『道具を使う』という行為である。殻の中に入っていて、クチバシで割ることのできない木の実、あるいはプラスチックのケースの中にあって開けることのできない食べ物があったとする。それをクルマの往来のある道路に置き、通行する車両がそれを破壊してから安全なところに持ち運んでから食すという行為は普通に見られるのだという。
    何かを利用して結果を得るという知恵があり、他のカラスがそうしているのを目にして、『これはいいアイデアだ』と知覚して模倣する能力があるのだそうだ。そういう賢い鳥だけに、ハタ迷惑な存在として疎ましがるだけではなく、何か有効に活用する手立てはないのだろうか。
    池では、魚を取っている人たちがいた。この人たちにとって、フラミンゴのいる景色はごく日常のことである。ときおり、水牛やヤギなどの群れに草を食べさせるためにやってくる人たち、燃料となる牛糞、水牛糞を拾い集めにくる女性たちの姿がある。
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    どこまでも平らに広がる荒涼とした風景。あちこちに白く粉を吹いたようになっているのは塩分だ。ガチガチに大きくひび割れたところもあれば、芝生状にわずかな草が繁っている部分もある。乾季は、今目にしているようなカチカチの平原となるが、雨季には真水と海水が交じり合う汽水で満たされた湿地帯となり、盛り土の上を走る道路以外では行き来が出来なくなるのだ。目の前にしている光景からはちょっと想像もつかない。
    ひび割れた大地
    日がすっかり昇ると、かなり暖かくなってくる。上着を脱いでちょうどよい気温になってきた。そろそろ腹も減ったので、宿に戻ることにする。